SGRAかわらばん

  • 2010.06.09

    エッセイ249:マックス・マキト「マニラ・レポート2010年春」

    「フィリピン人のために死ぬ価値がある」という言葉が刻まれた黄色いゴム製のリストバンドをはめて、2010年5月10日(月)の朝早く、投票所に化けた教会に向かった。この言葉は、1983年8月21日に暗殺されたニノイ・アキノ元上院議員が、米国での長年の亡命生活を終える決断をした時、母国に帰ることに反対する声に対して発した有名な言葉である。当時のマルコス大統領の独裁政権から、民主主義を円滑に取り戻すために帰国を決断したのだった。ある意味で、ニノイが目指したことは実現できた。母国に足を踏んで間もなく(踏んでいないかもしれない)暗殺者の銃弾で命を奪われたが、それがきっかけとなって独裁政権のもとで溜まっていたフィリピン国民の不満が爆発し、1986年のいわゆる無血の黄色い革命でフィリピンに民主主義が戻った。その激変の時代をリードしたのはニノイの妻、コリー・アキノ大統領だった。   今回の選挙では、このアキノ夫妻の息子であるノイノイが国の最高責任者の座に適任であるという、国民の審判が下された。選挙結果も勿論重要であるが、今回は、投票方法自体にも様々な進展があり、フィリピンの民主主義も新しい時代に突入したと感じた。 (1)機械化。今回の選挙から投票は機械で読み取り、投票所ごとに数えた票数が選挙本部に無線通信で送られた。今までの選挙では、票は投票箱に投じられ、投票箱ごと選挙本部に運ばれた。黄色い革命の時には、投票箱が安全に運ばれるのを見届けるために、一般市民が真剣な目で見守った。選挙の尊さを守るため、僕は投票箱の上に座り込んだ。ところが今回は、機械化によって、おおよその投票結果がわかったのは、フィリピンらしくないほど早かった。その結果、今回の選挙では選挙結果についての揉め事がほとんどなく、比較的平穏に選挙が終わった。出馬者が自ら敗北を認めた珍しいケースもあった。 (2)調査と発表結果の一致。今までの選挙では、NGOの独自の調査結果と政府の発表結果が大きく異なることが普通であった。今回の選挙においても、違法的に操作されたというクレームがないわけではないが、NGOの調査と政府の投票結果が大体一致していたというのが一般的な見方であろう。僕が調べた限りでは、SOCIAL WEATHER STATIONというNGOが実施した事前調査と開票結果が驚くほど合致していた。つまり、今回の選挙は開票の速度が早いだけではなく正確だったと言えるだろう。 (3)テレビ討論の審判。フィリピンはジャーナリストにとっては世界で1番か2番目に危険とされている。このことは国の治安の悪さを物語っているかもしれないが、僕は彼らの命がけの熱意に敬服している。事実を伝えようというフィリピン人ジャーナリストの使命感と覚悟は誰にも負けない。黄色い革命がまだ進行していた時、政府の統治により言論の自由が奪われたことがあったが、マスコミはただちに反駁し、立ち上がった市民にとって重要な情報源となって、無血にその革命を終わらせることに貢献した。今回の選挙では、マスコミは出馬者に討論の場を提供し、テレビ放送によって一般国民にその様相を紹介した。しかも、討論が終わった直後、会場にいる一般市民の審判を集計してテレビで流した。僕がみた限りその審判は妥当であり、選挙結果にも繋がったようである。 フィリピンの真夏に、投票者でギュウギュウ詰めの投票所は決して楽しいところではない。その夜の家族との団欒でわかったが、ほかのところはもっと深刻だった。暑さに負けて倒れた人々もいたようだ。僕がはめた黄色いリストバンドに刻まれた言葉を思い出させるかのように、投票自体が命がけという場所もあったわけだが、今回はそんなに多くなかった。意外にも、一番早く投票するはずだったノイノイが、投票所の機械の故障によって4時間も待たされた。これは大統領としての彼のこれからの仕事の困難さの前触れであるかもしれない。しかし、ノイノイらしく、慌てることもなく、辛抱強く機械が直るまで待っていたのは、彼の力かもしれない。 今、経済的及び社会の構造的要因によって出稼ぎのために海外で「亡命生活」をせざるをえないフィリピン人が年々増えている。その中には、ノイノイのお父さんのように、いつか帰国したいと考えている人もきっと沢山いる。僕もその一人である。大統領になったノイノイには、このように考えている人々の気持ちを大切にしてもらいたいと思う。つまり、海外からの仕送りに頼るのではなく、国内で雇用を生みだす政策をお願いしたい。   今回のマニラ滞在で、僅かながらも母国の進歩を肌で感じて、帰国に一歩近づいたような気がする。地方で遊んでいる土地をいかに生かせるか、妹の高校時代の友人からアドバイスを求められた。農業については素人だが、山もあり、川もある広い土地を現地視察してみたら、その美しさや可能性に魅了された。「環境的に持続可能な共有型成長に貢献できる農業はいかがですか」と提案すると、大変喜んで受けいれてくれた。いつか、フィリピンの地方で農業をするのを楽しみにしている。 実は、この「持続可能な共有型成長」という考え方は、2010年4月28日(水)にフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)で開催したSGRAの第12回日比共有型成長セミナーから思いついたアイデアである。今回のセミナーのテーマは「共有型成長と環境:フィリピン都市道路交通を事例として」であった。(詳細は http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/12.php を参照)UA&Pの理事であるバーニー・ヴィリエガス教授が、開会挨拶でセミナーの課題を次のように上手くまとめてくれた。「3E」(或いは「Eの3乗」)とは、EFFICIENCY、EQUITY、ENVIRONMENTのことである。無理やり日本語に訳せば、効率、公平(均等?)、環境であるから、「3K」(又は「Kの3乗」になるかな。EFFICIENCY+EQUITYというのは、僕の研究のメイン・テーマである共有型成長だが、そこにENVIRONMENTを加えて持続可能な共有型成長の概念が誕生した。通常この3Kの間にはトレードオフ(TRADE OFF)があり、3者を並立させるのは大変難しい。 7月3日(土)に蓼科で開催するSGRAフォーラムでは、上記のマニラセミナーの内容に関して報告させていただくので、みなさんお時間があればぜひご参加ください。 選挙に関する資料、投票所の様子、フォーラムの写真 写真をもっとご覧になりたい方はFACEBOOKサイトよりご覧いただけます。ただし閲覧するためにはFACEBOOKへの登録が必要です。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2010年6月9日配信
  • 2010.05.26

    エッセイ248:梁 蘊嫻「私の研究の原点」

    今年の3月に、研究室の神野志隆光先生が退官されました。この場を借りて、先生に小文を捧げます。   私の専門は江戸文学です。上代文学とは無縁なはずですが、不思議なご縁で私は神野志先生の教えを仰ぐ機会を得ました。そのきっかけは、実は先輩の「アドバイス」でした。東大に来たばかりのとき、研究室の事情について先輩に伺ったところ、神野志先生の授業には出ないほうがいいと念を押されました。神野志先生はとても厳しいので、一秒でも遅刻したら、受講の資格を取り消されてしまうというのです。しかし、私はそれを聞いてかえって興味がわき「よし、出てやろう」と思いました。噂の「鬼の先生」を見てみたかったのです。そこで、修士一年のときに、「日本文化論」(調べる授業)に出ることにしました。 今でも鮮明に覚えていますが、最初の授業で、私はあまりの怖さに体がずっと震えていました。先生から『国史大辞典』を渡されて、菅原道真の項目を読まされましたが、私は「みちざね」を「どうしん」と読んでしまいました。先生は「辞書をすらすら読めないと研究なんかできない」とおっしゃいました。辞書を読ませたのは、受講者のレベルを試すつもりだったのかもしれませんが、私はこのことから、文章を正確に読むことが学問の第一歩であるということを学びました。 それからの半年間は、この授業を中心に生活していたと言っても過言ではありません。毎週、宿題が出されますが、課題が発表された後、さっそく調査を始めないと作業が終わらないほど大変でした。私はとにかく毎日いろいろな図書館を歩き回って調べ、提出の前日には必ず徹夜して必死に宿題を完成させました。しかし、いくら頑張っても必ず先生に不足な点を指摘されましたから、いつも悔しかったのです。その一方で、常に新しいことを教えていただきましたので、知識欲を満足させることができ、幸せを実感していました。これは、先生がおっしゃった「教えることの楽しさ」に応える「学ぶことの楽しさ」というものではないでしょうか。   先生は研究者であるだけではなく、教育者でもあります。宿題の締め切りに近づくと、先生はいつも自分のメールボックスの前をうろうろして、学生からの提出を待ち望んでいらっしゃいました。それほど学生のレポートを楽しみにしていらっしゃるのです。学生としての私は、先生の教えに報えるほどの業績はありませんが、「頭より足で勉強しなさい」という先生の言葉をずっと肝に銘じています。私は難しい理論はよく分かりませんが、「頭を回転させる本よりも資料集が役に立つ」という先生のお言葉にしたがって、いつも原典に立ち戻って、きちんと調べるようにしていたところ、確かに問題点が見えてきました。そして、見つけた問題をじっくり考え、論点を組み立てていきました。博士論文もそうして完成することができましたので、先生の授業が私の研究の原点だったといってもよいでしょう。 博士一年のときには、神野志一門に混じって大学院の演習に参加させていただきました。ゼミに出た理由は、「文字の向こうに何があるのか」などの深い問題意識によるものではなく、ただ単純に先生の授業が楽しかったのです。この授業で私は『日本書紀通証』に出会いました。本書は実証的・考証学的な立場から『日本書紀』を注釈したもので、歴史を一つの趣向として芸能化する江戸文学とは異なった性質を持っています。このような注釈書が自分の真面目な性格にしっくりくるものがあったため、私は『日本書紀通証』に夢中になり、これについて勉強したいと思いました。しかし、前から取り組んでいる課題「江戸時代における『三国志演義』の受容」はまだ終わっていません。自分の研究テーマを成し遂げないまま諦めたくなかったのです。いろいろ悩んだ末、自分の研究テーマをまず完成させようと決めました。そして、いつか『日本書紀通証』にも本格的に取り組もうと心に誓いました。博士二年のときからは、ゼミに出ないことにしました。それはもちろん、ゼミに参加し続けると自分の本業を忘れそうになるからでした。   私は十三年も駒場にいました。学生生活はあまりにも長すぎました。それは自分の無能のせいでもありますし、知識に対する貪欲さと気まぐれな性格にも関係があると思います。なかなか次へのステップに進めないことに焦りを感じていますが、決して後悔はしていません。むしろ、夢中になるほどの研究対象に出会えて、そして真剣に悩むことができた自分は幸せだと思っています。 さて、ひとりよがりはさておいて、最後に義江彰夫先生(元東大比較文学研究室の日本史の教官、現在帝京大学教授)の言葉をお借りして先生に贈りたいと思います。「優しくなった神野志先生は、冷めたコーヒーみたいに美味しくない」ので、どうかずっと熱いコーヒーでいてください。 ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんかん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、まもなく提出。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 ------------------------------- 2010年5月26日配信
  • 2010.05.19

    エッセイ247:オリガ・ホメンコ「ウクライナ人の心を治療する女医さん」

    オリガさんの家族は皆医者なので、彼女も自然に医者になった。今や自分の病院を経営する有名な医者だ。それと同時に今まで15年以上かけて集めたイコン(聖像)を展示するために家族経営の博物館を創った。   オリガさんが子供の頃、ソ連領だったウクライナでは宗教が禁止されていたため、革命前からお爺さんがもっていたイコンは密かにタンスの後ろの壁に隠されていた。それが聖パンテレイモンのイコンである。聖パンテレイモンとは、医者が患者を治療するのを手伝う聖人である。左手に薬箱、右手にスプーンを持つ優しい顔の聖人だ。ソ連時代に子供だったオリガさんは宗教についてあまり考えたことがなかった。学校では「宗教を信じてはいけない」と言われていた。特に、春になってイースターが近づくと、先生は「学校にイースター・ケーキとイースター卵を持ってきてはいけない」と厳しく注意した。イースターがメーデーと重なったある年、オリガさんが翌日に同級生とメーデーのデモに参加するために着て行く服の準備をしている時に、お母さんは台所でイースター・ケーキを密かに作り、お婆ちゃんはイースター卵に、それとは分からないように「XB」という文字を書いていた。それは「復活したイエス・キリスト」という意味だった。それでも、その頃のオリガさんは、あまり深くは考えなかった。大人になってソ連が崩壊した時、昔のイデオロギーに代わる新しいものはでてこなかったので、初めて人々は宗教に目を向けたのだった。 大人になったオリガさんが市場を歩いていたある時、古着を売っているお店を通った。ふと見ると床の上に人間の顔の絵が置かれていることに気づいた。「これは何ですか」と聞くと、「イコンですよ。1ルーブルくれたら売りますよ」と言われた。その当時の1ルーブルは、パン1個を買えるか買えないかというくらいだった。彼女はそのイコンを買った。痛んだイコンを家に持って帰って、きれいに拭いた。宗教に詳しい知り合いに聞くと、それは子供を守って頭をよくさせる聖人の姿だった。オリガさんには3人の子供がいたが、家にそのイコンを飾ると、子供たちはなぜか落ち着くようになった。 そこでオリガさんは家にあった昔のイコンのことを思い出して、タンスの後ろの壁に隠してあったイコンをとりだして飾った。その時からイコンに興味を持ち、いろいろと調べてみたところ、このふたつのイコンは「家庭イコン」だったことがわかった。家庭イコンは教会にあるものと違って、とてもプライベートなもので、その家族のお守りにもなる。 ウクライナではキリスト教を受け入れる前にいろいろな神様を信じていた。そしてキリスト教になっても、その昔の伝統がキリスト教の中に溶け込んだ。つまり、マリア様やキリスト様には大きなお願いや悩み事がある時に祈るが、日常的なことはその家庭にある「担当」の聖人のイコンに心の中で相談していた。 その家庭の裕福さに関係なく、各家には家庭イコンがあった。ただ財布の大きさによって、有名な画家のものだったり、近所に住んでいる田舎のアマチュア画家のものだったりしたが。そしてウクライナの家ではイコンのことを「神様」と呼び、自分の「神様」を家の中の一番きれいな所に飾っていた。そして自分の「神様」が大好きだった。ウクライナの家庭イコンはロシアの暗いイメージと違って、肉体美が溢れたイメージや、優しそうなイメージのものが多かった。その点、ギリシャの伝統的なイコンとも違っていた。本来イコンには図像の規則がたくさんあるが、教会のイコンと違って、家庭イコンでは画家が比較的自由に描くことができたのだった。 昔は、日曜日になると、そのイコンを教会に持って行き、ミサの間は神父さんの後ろに、教会にあるイコンと一緒に並べていた。今はもうその習慣がない。「無神論」というソ連のイデオロギーの70年間の後、昔の家庭イコンはほとんどなくなってしまったからだ。オリガさんは今、家庭イコンがウクライナの家族の絆を強め、伝統的な高い道徳観を守るものと思い、昔の習慣をまた普及させることを望んでいる。 15年前、彼女の手元にあったイコンはたった2枚だったが、今は5000枚になっている。ほとんどのイコンはフリーマーケットで手にいれた。イコンを修復することはやめた。なぜなら、イコンについている傷は、イコンそのものだけでなく、所有していた家族、さらには国の運命を語っているからだ。ソ連の70年間、イコンの意味が分からなくて、捨てたり、傷つけたり、またお金が欲しいという理由で外国に大金で売ったりしていた人も少なくなかった。 手元にたくさんのイコンが集まってきた時、オリガさんは、やはりそれをどこかに飾って、人と触れ合わせる必要があると考えだした。だが、博物館らしくないものが良いと思った。博物館だと、ものに触ってはいけないので「触れ合いの場」にならない。オリガさんは、人々が休む椅子があり、イコンの前にろうそくを立てて祈ったり考えたりすることのできる「場所」が欲しいと思った。そして、やはり、家のものなのだから、パンの香りなどがあったら素晴らしいと思った。 イメージが固まると、そのような物件にもめぐり合った。キエフから東に90キロくらい離れたところに昔の公園に囲まれたミル(粉ひき場)の建物があった。それで家族と相談して、その建物を買った。その建物は18世紀のものだが、不思議なことにそこにはまだ「パンの香り」が残っている。今そこに、彼女のコレクションの全てを入れている。近辺の住民や観光客がよく見に来る。またクリスマスやイースターには、コレクションの一部でウクライナの町を回る巡回展を開いている。 オリガさんは医者として忙しい毎日を送りながら、相変わらず一ヶ月に一回くらいフリーマーケットに出かけて、イコンを探し続けている。ただ最近は、やはり市場にものが減っているようだ。それは外国に売り出されたのかもしれないが、もしかしたらウクライナの人々が自分の伝統に気づき家に飾りはじめたという証拠であるのかもしれない。「そうなっていると良いですね」とオリガさんは微笑みながら言う。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2010年5月19日配信
  • 2010.05.13

    エッセイ246:李 恩民「人民元切り上げ?中国都市住民の動き」

    最近、アメリカ議会やEU諸国は中国通貨・人民元の切り上げを強く要求している。中国政府の予想以上の猛反発から国際社会における人民元への関心は一気に高まった。通常、世界経済・国際貿易の視点からこの問題を考察するが、ここでは次元を変えて、人民元切り上げを予感する中国都市住民の動きを紹介したい。   1993年末、中国政府は人民元の為替レートを調整して約30%引き下げた。その結果、1米ドル(以下同じ)=5.8元の公定相場は1ドル=8.7元に統一された。その直後、人民元の対ドル相場は緩やかに上昇し、1997年から2005年までの約9年間、そのレートは基本的に1ドル=8.2元前後に維持されていた。中国が事実上の固定為替制度を取っていると言われる所以はここにある。 1993年の人民元の大規模な引き下げによって、ドルが唯一の安定した通貨であるとの認識が中国全土で広がり、都市住民、特に知識人(留学生だった筆者も含む)は出国など機会がある度に、喜んで所定の金額のドルを購入し、なるべく定期預金にしておく。ドル預金の利息は高く、政府の外貨準備もドルを主としているから、ドル預金は一番有利かつ安全だと思われたからである。 この傾向を加速したのは、1997年のアジア金融危機だ。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、韓国の通貨が相次いで暴落していく波に乗って、中国も人民元を引き下げるのではないかと国際社会は懸念した。そこで「財産の損益」を考える中国都市住民は、慌ててドル買い出しに回った。と言っても、外貨の売買が自由にできなかった当時、闇市場が横行した。各地の「中国銀行」の周辺やホテル・北京空港の周辺には、ドルを買求める人が溢れ、外国旅行客や筆者も含む留学生は買い入れを強いられるケースもあった。 しかし、中国政府は最終的に人民元の引き下げを行わず、危機のさらなる悪化に歯止めをかけた。その結果、貿易損失は大きかったが、「人民元は安定した通貨だ」とのイメージが固められ、中国人自身も人民元に自信を持つようになった。 そして国内ではドル買いの傾向は下火となり、モンゴル、ロシア、ベトナム、ミャンマー、タイ、北朝鮮など周辺諸国との国境貿易では人民元が歓迎され、言わば特定地域の非公式の国際通貨の一種になった。 2001年、輸出競争力の低下などで悩んでいた日本の政財界は、人民元が外国通貨に対して過小評価されているとし、切上げるべきだと指摘、米政府高官も同調した。2003年9月、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の財務相会合は、共同声明を発表して人民元切り上げの必要性を示唆した。その後、先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が毎回人民元を主要議題に据え、人民元の変動幅の拡大を求めた。これが国際社会による人民元切り上げ要求の第一ラウンドであった。 こうした国際的圧力を受けた中国政府は建前上、外圧に屈しなかったが、経済実力を反映したより柔軟な為替レートが望ましいとの声に耳を傾けた。2005年7月21日、中国は事前通告なく、自主的に人民元相場形成メカニズムの改革を行い、その結果、人民元対ドル相場は2%の切り上げとなった(1ドル=8.11元)。以降5年間、毎年年末の人民元は前年比2.56-6.9%の上昇率で事実上徐々に切り上がってきており、2010年4月現在は1ドル=6.81~6.83元前後で維持されている。   中国政府は外圧よる人民元の切り上げはしないと宣言している。当面、人民元の相対固定相場制は引き続き維持されていくと見られるが、民間は既に新しい動向を見せている。これまでドルを預金してきた市民が、ドルの購買力の低下を心配し、ドル立て貯金の一部を売り出して人民元に換え始めたのである。いつまでも安価な労働力と資源を消耗して作った安価な商品だけを中国のセールス・ポイントとするべきではない、との考え方も広がっているそうだ。中国が現行の為替制度を漸進的に転換し、最終的に変動相場へ移行していくのはもはや時間の問題だと、都市市民が考えていると言ってもよかろう。   ------------------------ <李恩民(リ エンミン)☆Li Enmin> 1961年中国山西省生れ。1996年南開大学で歴史学博士号取得。1999年一橋大学で博士(社会学)取得。現在は桜美林大学リベラルアーツ学群教授。専門は日中関係、現代中国社会論。著書『転換期の中国・日本と台湾』(大平正芳賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』など。 ------------------------ 2010年5月12日配信
  • 2010.05.05

    エッセイ245:エリック シッケタンツ「日本式喫茶店」

    私は日本に留学したことによって、異文化の中で暮らしはじめた。日本での生活にともなって、たくさんの新しい体験が出来た。いわゆる「異文化体験」だ。日本に来る前から、私は日本で異文化に接することをとても楽しみにしていた。来日前からすでに日本の文化について、本やテレビを通じて得た知識をたくさん持っていた。畳の上の暮らしも期待していたし、お箸で食事することもわかっていた。これらは、ドイツでよく知られている日本文化のシンボルである。だが、このような私が期待していた異文化体験に加えて、予想外の場所での異文化も私を待っていた。この予想外の場所の一つが、日本の喫茶店だ。こんな所で異文化体験ができるとは予想していなかった。つまり、日本の喫茶店はドイツの喫茶店とは異なる文化空間になっているのである。さて、ではこの「日本式喫茶店」とはどのような場所だろうか。 日本の喫茶店が提供するサービスは、ドイツと異なっている。もちろん、飲み物と軽食を売るという点では似ている。しかし、日本の喫茶店はそれ以上の機能を持っている。それに気づいたのは、上智大学に一年間留学した時だった。当時はお金があまりなく、エアコンとお風呂が付いていないアパートの部屋で暮らしていた。扇風機があったとはいえ、夏は暑い。それで、近くのドトールに行って、店のエアコンで涼みながら読書をしようと考えた。店に入ると、私と同じアパートの隣の部屋に住んでいた人も同じ発想で来ていた。なるほど、喫茶店にはこんな便利な機能があったのだ。安い部屋に住んでいた私はあの夏、大いにドトールの世話になった。確かにエアコンは喫茶店の正式なサービスではないかもしれないが、あの夏は喫茶店のエアコンのおかげで何とか生き延びることが出来た。 しかし、喫茶店をより本格的に利用することになったのは、東京大学に留学することになってからである。今のアパートの部屋はエアコンを装備してはいるけれども、部屋が狭く、一人だとなかなか集中できない。私は周りに人がいる場所で勉強することが好きだ。普段は図書館で勉強するのだが、図書館が閉まっている日もよくある。最初はたしかに、図書館が閉まっていたので仕方なく喫茶店で勉強しようと思った。ところが入ってみると、勉強目的で来ているのは僕だけではなかった。これには驚いた。ドイツではよく友達と喫茶店で待ち合わせして、コーヒーやお茶を飲みながらおしゃべりをしていたけれども、喫茶店を勉強する場所としては認識していなかった。ドイツであれば、コーヒー一杯をずるずると飲んで長時間そこにいれば、お店の人に怒られるだろう。しかし、日本では、コーヒー一杯を飲みながら、喫茶店を長時間利用してもいいということが暗黙の了解になっているようだ。多くの人々が狭い部屋に住んでいるという原因もあるのかもしれない。しかし、僕からすると、私的な空間が喫茶店に忍び込んでいるように見える。読書している人ももちろんいるし、友達と会話する人も多い。だが、それ以上に、ドイツでは考えられないのは、喫茶店が職場の延長になっていることである。私のよく行く喫茶店では、隣のテーブルでテストの採点をする学校の先生や、ノートパソコンで洋服やグラフィックのデザインの仕事をする人をよく見かける。時々、どこかの会社の会議室に間違って入ってしまったような気がすることもある。 もちろん、すべての喫茶店がそうであるというわけではない。私の近所にある喫茶店から判断すると、ある程度、喫茶店の使い分けがあるようだ。この喫茶店では主に友達同士で会ったりすることが多いのに、あの喫茶店は勉強と仕事をする場所として知られている。多くの人が仕事場として利用する近所のスターバックスのスタッフもそれを意識しているようで、「14:00時-17:00時の間は勉強と仕事をしないようにお願いします」という看板を立てて、店にとって経済的に重要な時間帯を指定している。このことから、この店が仕事場として使われている姿が伺える。 日本にある喫茶店が日本社会の一部として、その特徴を現していることは当然なのかもしれないが、こうして喫茶店によく通ってみると、日本的な社会空間に入りこんで、ドイツで馴染んでいた場所をまた新しい目で見ることができた。これも日本ですることができた重要な文化体験の一つだと思う。 ------------------------ <エリック シッケタンツ ☆ Erik Schicketanz> 1974年、ドイツ(プフォルツハイム)生まれ。2001年、ロンドン大学東洋アフリカ学院(日本学)修士。2006年、東京大学人文社会系研究科(宗教学宗教史学)修士。同年、東京大学人文社会系研究科宗教学宗教史学博士過程入学。現在、東京大学人文社会系研究科・特任研究員。趣味は、旅行と映画・音楽鑑賞。 ------------------------ 2010年5月5日配信
  • 2010.04.28

    エッセイ244:シム チュン キャット「シンガポールの新しい賭け:カジノ!カジノ!」

    国内外の富裕層の取り込みを狙ってあの清廉かつ堅物のイメージで有名なシンガポール政府がちょうど5年前にカジノをつくると宣言したときは、正直にいってシンガポール人でさえ驚かされました。それもいきなり2つも!マジで?大丈夫?などの疑問をよそに、政策を決めたら即刻実施という「効率至上」のシンガポール政府は、あれよあれよという間に入札を始め、そのすぐ後に工事を急ピッチで進めてきました。そして、計画通りに今年2010年の旧正月の元日に一軒目のカジノが始動し、もう一軒も今年の4月末にオーブンすることになりました。   もちろん、シンガポールにおいてこれまで賭け事のような産業がまったくなかったわけではありません。イギリスの「伝統」を受け継いで競馬は昔からありますし、宝くじも普通にあります。クルーズに乗れば海上カジノもありますし、橋を渡って国境を越えればマレーシアの高原リゾートにも立派な老舗カジノがあります。さらに、賭け事が好きで今は他界した僕のお祖母さんの話によると、法を犯すことを恐れなければ、ちょっと船に乗ってシンガポールの海域を出たら、違法なインドネシアのカジノ船も何隻か海上に停泊していたそうです(うちのお祖母さんはいったいどこまで賭け事をしに行ったのでしょう…)。   ただ、これまでのカジノではクルーズやリゾートに行くための時間と出費、あるいは法網をくぐってまで違法なカジノ船に乗り込む勇気が必要でしたが、国内に簡単にアクセスできるカジノをつくるとなると、話は全然違ってきます。しかも、都市国家シンガポールの国土は東京23区の面積ぐらいしかないので、二つの新しい合法カジノは本当に「ちょっとそこまで」という距離にあるわけですから、カジノ産業によって賭け事にのめり込む国民が増え、仕事放棄、家庭崩壊、犯罪助長の引き金になりやしないかという心配の声があがりました。当然、同じ心配をシンガポール政府の役人も抱えています。かといって国内外の富裕層のお金もほしいものです。さあ、あなたならどうしますか。   シンガポール政府が考え出した対策は簡単です。外国人はともかく、賭け事にのめり込む国民が増えることだけが心配の種ならば、その国民をカジノに来にくくさせればいいのです。そこで、シンガポールの国民と永住者に限り、100ドル(約7千円)のカジノ入場税が課されることになりました。カジノに入場するための税金が導入されたのは世界初だそうです。またご親切に、2000ドル(約14万円)の年間税を先払いすれば、一年間無制限に入場することもできます。ただし、二つのカジノをまたがっての相互利用はできず、カジノ別の入場税もしくは年間税が必要となります。   それだけではありません。三種類の「カジノ排除」(Casino Exclusions)措置も取られることになりました。賭博中毒を自覚しており、自らをカジノから遠ざけるための「自己排除」(Self Exclusion)、親、配偶者、兄弟、子どもなど直接の家族構成員が自分の家族をカジノに入れないための「家族排除」(Family Exclusion)と、破産申告した者や政府から生活保護を受けている者などのカジノへの立ち入りを自動的に禁止する「第三者排除」(Third-Party Exclusion)がそれにあたります。さすがはルールづくりに長けているシンガポールというところでしょうか。一軒目のカジノのオーブン早々、「大阪にカジノを」と掲げる橋本知事がさっそく視察にシンガポールへ行ったのも頷けます。   ところが、カジノがオープンした旧正月の元日にシンガポール政府の想定外の事態が起きました。なんと外国のパスポートを持ち、入場税のかからない外国人単純労働者がきれいで快適な設備と無料で提供される飲み物だけを求めに洪水のごとく世界最新のカジノに押し寄せたのです。そのうえ、カジノの清潔な床の上で昼寝する外国人労働者もいっぱいいたようで、華やかに着飾ってカジノを楽しむために来た入場者からは苦情が殺到しました。その後、またいろいろな議論が起きたのは言うまでもありません。外国人労働者にも入場税を課すべきだとか、そもそもあの立派なカジノをつくったのが工事現場で働く外国人労働者なのですから彼らも行く権利はあるとか、富裕層は歓迎するのにお金を持たない外国人なら排除するとはいったいシンガポールの社会はどこに向かっているのかとか、とにかくいろいろな意見がマスコミを賑わしたわけですが、二軒目のカジノのオープンを前に新しいルールはまだできていないようです。さあ、あなたならどうしますか。   ---------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------------   2010年4月28日配信
  • 2010.04.21

    エッセイ243:イェ チョウ トゥ「テレビから学ぶ日本」

    母国ミャンマーではニュース番組を除いてテレビをほとんど見なかった私だが、来日後は時間を見つけては見るようになった。というのは、日本のテレビ番組には素晴らしいものが多く、学びの可能性が無限に広がっているからだ。 来日当初は、主に日本語の学習のためにテレビを見ていた。NHKの教育番組だけでなく、ドラマから日常会話や若者の使う日本語などを学んだ。字幕付きの番組も多く、漢字の勉強に役立った。日本語がだんだん分かるようになると、スポーツ、旅行、文化、ドキュメンタリーなど、さまざまな番組を見るようになり、日本の文化に対する理解が少しずつ深まっていった。最近では、お笑いや政治番組も理解できるようになり、くだけた日本語や逆に硬い日本語を学ぶのに役立っている。 このように日本のテレビ番組は私にとって貴重な学びの場であるが、中でもドキュメンタリー番組からは多くのことを学んだ。たとえば、戦争体験者の話から日本の歴史的事実を初めて学んだ。ミャンマーにいた時は、戦争を体験した日本人の痛みなど全く知らなかったが、つらい時代を過ごした日本人の語る内容に強い衝撃を受け、戦争について深く考えるきっかけとなった。また、障害をもった人や病気の人が懸命に生きようと頑張っている姿を描いた番組を見て、心を揺さぶられ、命の重さについて考えさせられた。歴史上の偉人、研究者、政治家など、日本を変えるために人生をかけている人についての番組もよく見る。このような立派な人々の努力があったからこそ、日本はここまで豊かな国になったのだと実感する。そんな時、自分もできることを精一杯やらねばという思いで胸が熱くなる。 もちろんテレビが与える影響には良いものも悪いものもあり、場合によっては危険性もある。しかし、私は、日本のテレビ番組は素晴らしい教育手段のひとつであると考える。研究を行う上で手がかりとなるような幅広い知識を得ることもでき、私にとっては知識の宝庫といえる。 学会などで海外を訪れた際は、短時間でもテレビ番組を見るようにしている。そうすることにより、文化、流行、教育などに触れることができ、少しその国に近づけたような気がするのだ。このような経験から、日本に来たばかりの人へアドバイスをするとすれば、テレビから学ぶ日本をお薦めしたい。わずかな時間でも、何かを学び取ろうという意識をもってテレビを見ることで大いに勉強になるということを伝えたい。 寝転がっていながらリモコンひとつで勉強ができる日本では、いくらでも知識を増やしていくことができる。今夜もテレビをつけたまま居眠りして朝を迎えることになりそうだ…。 --------------- <イェ チョウ トゥ☆Ye Kyaw Thu> 1975年、ミャンマー(ヤンゴン)生まれ。2000年、Dagon University(ミャンマー)物理学部卒業。 2006年、早稲田大学大学院国際情報通信研究科修士課程修了。現在、同大学助手。ヒューマン・コンピュータ・インタラクション、自然言語処理、子供および障害者を対象とした教育に関する研究を行い、博士号取得を目指している。趣味は、武道(合気道、テコンドー、カンフー)、読書、旅行。 --------------- 2010年4月21日
  • 2010.04.14

    エッセイ242:ダルウィッシュ ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマーム(公衆浴場)への誘い(その2)」

      入浴は、身体的・宗教的な清めとして、イスラームの文化に根付いている。イスラームの聖典クルアーンは、顔、手から肘まで、そして足先から足首までを洗うことを推奨し、ムスリムは日々の5回のお祈りの前に、この清めの儀式を行う。これは、魂を浄化するには、身体も清められていなければならないからである。このため、ハンマームに行って身体を清潔にすることは、モスクでのお祈りを補完すると言われている。ハンマームは、ムスリムが魂を浄化する上で、特別な精神的・身体的清めの役割を担っていると考えられているのである。   ハンマームの雰囲気を言葉だけで表現するのは難しいが、ここでハンマームでの体験を紹介したい。   ハンマームは、脱衣所や休憩所がある「バッラーニー」、身体を温める「ウィスターニー」、そして熱いサウナがある「ジュッワーニー」の3つに分かれている。ハンマームの内側は、全面光り輝く大理石で出来ている。ハンマームの入り口の門をくぐると、美しく装飾された噴水が中央に鎮座する「バッラーニー」に入る。噴水の両側には、絨毯が敷き詰められた数段の階段があり、それを上ると脱衣所がある。脱衣所で着替えを済ませると、ハンマームの従業員からタオルと、歩くとカタカタと音がする木製のサンダルを受け取る。タオルを身体に巻き、木製のサンダルをはいて、次に向かうのが温かく熱されたサロン「ウィスターニー」である。熱いサウナに入る前にこのウィスターニーで少し休んで、身体を温める。 身体が温まり、熱いサウナに入る準備が出来たら向かうのが「ジュッワーニー」だ。ここは、燃え盛る炎で熱されたお湯が、パイプを通って部屋の床の下を巡っている。全体が大きなサウナのようになっているが、横には小さな部屋もあり、身体を洗ってもらうこともできる。ジュッワーニーの中には、石の水うけと銅の蛇口があちこちにあり、水蒸気で曇った中にローレルとオリーブ石鹸の香りが立ちこめ、美しく装飾されたドーム型の天井の窓から、日の光が差し込む。子供たちは、石鹸と水蒸気でツルツルになった大理石の床の上を滑り、笑い声をあげて遊ぶ(が、いったん垢擦りに捕まったら、この笑い声は悲鳴に変わる!)。 「ハラーラ」という熱いサウナで汗を流したら、次は垢擦りである。皮膚が赤くなるまで、紙ヤスリのような固いスポンジで身体中をこすられ、垢だけでなく体毛もこすり落とされてしまう(!)。垢擦りが一段落すると、次に待っているのがマッサージである。マッサージは例外無く関節が音をたてるくらい力強いもので、身体中の筋肉の最後の一つまで揉みほぐされる。マッサージには、オリーブ石鹸が使われ、肩から指先までマッサージされる間、抵抗することもできずに静かに横たわっているしかない。しばらくすると、痛みにも慣れ、身体が生まれ変わるような感覚に陥る。 ハンマームで身体を洗い、汗をかき、垢擦りとマッサージを終えると、最後に休憩所が待っている。従業員たちは、「ナイーマン(祝福の意味)」と声をかけながら、ゆったりとした布で身体を覆う伝統的なハンマームの服装に着替えた客を、テラスに案内する。ここでズフーラート(花とハーブのお茶)を飲みながらゆっくりと休憩し、他の客と語らうのは、ハンマームでは必要不可欠だ。純粋に入浴と汗をかくだけの目的でハンマームに来る者はなく、ハンマームは社会的な集まりの場として重要な役割を果たしているのである。 ハンマームは、ダマスカスの文化的な遺産である。これは歴史や建築の観点からだけでなく、その社会的な役割からも言うことができる。なぜなら、ハンマームは、個人が社会活動や伝統を他の人々と共有するための場所、時間そして機会を提供する社会・文化的な空間としての役割を果たしているからだ。また、ハンマームでの社会・文化的な体験を特別なものにするのは、ハンマームの美しい建築であり、中の装飾であり、水の音、窓から差し込む柔らかな自然光、お湯から立ち上る水蒸気、そして天然石鹸の香りなのである。 ハンマームはまた、ダマスカスの人々にとって社会的儀式を行う場所でもある。宗教的な祝日や、家族行事など大事なイベントがあると、人々はハンマームに向かう。この時には、特別な料理とお菓子を入浴後にハンマームで食す。このような機会は男性よりも女性の方が多く、例えば結婚式の前、子供が生まれた40日後、そしてラマダン(断食月)明けのお祭などの機会にハンマームに行くのである。男性の同行無しに外に自由に出られなかった女性にとっては、ハンマームは、家族や親戚、友人が自由に集まって話せる唯一の公的な場所でもあった。   ハンマームは、大昔から続くダマスカスの文化的な伝統を、現在も継承し、実行している場所であり、ダマスカスの人々が共有する記憶をとどめている空間なのである。もしダマスカスに行く機会があれば、ぜひハンマームに足を運び、この歴史的な記憶と伝統に触れてみてはいかがだろうか。 ・ハンマームの写真はここからご覧ください。 ・ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマームへの誘い(その1)」はここからご覧いただけます。 ---------------------------- <ホサム・ダルウィッシュ☆Housam Darwisheh> 1979年、シリア(ダマスカス)生まれ。2002年、ダマスカス大学英文学・言語学部学士。2006年、東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラム修士。2010年同博士。現在、東京外国語大学大学院講師・研究員。趣味は、ジョギング、ダルブッカ(中東地域の太鼓)演奏、ダンス。 ---------------------------- 2010年4月14日配信
  • 2010.04.09

    エッセイ241:ダルウィッシュ ホサム「ダマスカスの伝統:ハンマーム(公衆浴場)への誘い(その1)」

    アラビア語で「ディマシュク」と言い、ジャスミンの町として知られるダマスカスは、アブラハムの時代にまでさかのぼり、人々が現在まで住み続けている世界の都市の中で、最も古い。ダマスカスの長い歴史の中で、歴史家たちはこの都市を「ジルク」「ファイハ」「アッシャーム」など様々な名前で呼んで来た。古都ダマスカスは壁と塔、そして7つの門で囲まれていた。この7つの門をくぐれば、目の前には息をのむような建築美が広がっている。預言者ムハンマドは、メッカからの旅の途中、近くの山の頂上からダマスカスを見て、「楽園の門をくぐるのは、死を迎えた時の一度だけにしたい。」として、ダマスカスに一度も足を踏み入れなかったという言い伝えがある。マーク・トゥエインは、1869年の旅行記 “The Innocent Abroad” で、いくつもの帝国の繁栄と衰退を目撃してきたダマスカスを、以下のように書き記している。   “Damascus measures time not by days and months and years, but by the empires she has seen rise and prosper and crumble to ruin. She is a type of immortality. In her (Damascus) old age she saw Rome built; she saw it overshadow the world with its power; she saw it perish. …no record event has occurred in the world but Damascus was in existence to receive news of it. Go back as far as you will into the vague past, there was always a Damascus… She has looked upon the dry bones of a thousand empires and will see the tombs of a thousand more before she dies.” Mark Twain. 1869. The Innocent Abroad (Chapter 44). このエッセイでは、ダマスカスの人々の間で何百年も続く伝統、「ハンマーム・アッスーク/ハンマーム・アッシャービー」(公衆浴場)を紹介しよう。(本エッセイでは、以下「ハンマーム」と略す。) ダマスカスの人々とハンマームとのつながりには、長い歴史がある。アラビア語で「温かさを広げる」ことを意味するハンマームは、ダマスカスを首都として栄えたウマイヤド朝(662〜750年)から続いている。歴史家の中には、ダマスカスのハンマームはローマ帝国時代にまでさかのぼると主張する者もいる。ダマスカスのハンマームは、多くの歴史家の著作の中に登場する。例えば、著名な歴史家イブン・アサーキル(〜1176年)は、著書『ダマスカスの歴史』の中で、50以上のハンマームに言及している。イブン・シャッダードは、1250年に発表した著作の中で100以上のハンマームを取り上げ、イブン・ジュバイルは、1185年にダマスカスを訪れた時、100以上のハンマームが存在したと書き記している。ダマスカスには160以上のハンマームがあったと言われているが、時代の移り変わりや生活環境の変化と共にその数は減っていった。ダマスカスのハンマームの数は20程度に減少したものの、ダマスカスからハンマームが消えることはなく、現在に至るまで、その扉は地元の人々だけでなく旅人や観光客にも開かれている。 ハンマームはローマ時代の伝統とアラブの伝統が混ざり合って出来たものであり、ハンマームに通う習慣は何百年も前から姿を変えずに続いている。有名なハンマームを挙げれば、旧市街の中のアル・ブズーリーヤ市場の近くでウマイヤド・モスクの東にあり、スルターン(君主)ヌール・アッディーン・アッザンキによって1170年に建てられた「ヌール・アッディーン・アッシャヒード」や、旧市街の城塞とウマイヤド・モスクの間に位置し、985年に建てられた「アル・マリク(王)・アル・ザヒル」などがある。 人々はなぜハンマームに通い続けるのだろうか?ハンマームに行けば、心身ともにリラックスでき、仕事や旅の疲れを癒し、リフレッシュすることができる。それだけでなく、社会的なコミュニケーションの場としても、ハンマームは大きな役割を果たしている。また、ハンマームで温まれば、たくさんの子供に恵まれるようになり、双子の男の子を授かる確率が高くなると信じている人もいる。結婚式や誰かが退院した時、遠くへ旅をしていた友人や家族が帰って来た時など、何かの機会に人々はハンマームに行き、身体を綺麗にしてお祝いをする。これは昔から続く伝統である。 以前よく通っていたハンマームの横にあるコーヒー屋には、千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)や恋物語を語って聞かせる人(ハカワーティー)がいて、その数々の物語の中には、ハンマームが頻繁に登場した。ある物語の中のハンマームの描写を紹介しよう。   「昔々、スルターン(君主)の息子が結婚した。結婚式の前夜、新郎と新婦は、召使いたちを連れてハンマームに出かけた(もちろん、別々に!)。新郎と他の男たちは、頭と足から火花が出るまで、ハンマームの熱いベンチに座って汗を流した。また新婦は、ハンマームから出て来ると、この世で最も美しい新婦になっていた。」(つづく) ----------------------------- <ホサム・ダルウィッシュ☆ Housam Darwisheh> 1979年、シリア(ダマスカス)生まれ。2002年、ダマスカス大学英文学・言語学部学士。2006年、東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラム修士。2010年同博士。現在、東京外国語大学大学院講師・研究員。趣味は、ジョギング、ダルブッカ(中東地域の太鼓)演奏、ダンス。 ----------------------------- 2010年4月7日配信
  • 2010.03.31

    エッセイ240:葉 文昌「台湾の若者が感じた日本」

    2009年12月、台湾の大学の研究室の全員を連れて宮崎で行われた国際学会に参加し た。メンバーは自分を含めて13名、そのうち海外渡航経験者は11名、日本渡航経験者 は9名であった。国際会議できちんと聴講してもらうのと同時に、日本とは如何なる 所かを体験できるせっかくの機会でもあったので、学会後には、日本の某大学研究室 との交流飲み会や、福岡での温泉付ビジネスホテルの宿泊等を企画した。    帰国後、全員に学会とそれ以外の感想を書いてもらった。ここで学生が学会以外に感 じたことをそのまま皆さんに紹介しようと思う。 まずは修2のA君から。「福岡のホテルでB君に温泉浴場に行こうと誘われたけど、 そこは全裸と聞いて恥ずかしいと思った。」「日本は街でゴミを見かけないと聞いた けど、実際に来て見て本当にそうだった。感服した。」「博多から大宰府まで地下鉄 で行けるので、日本の地下鉄網はとても便利と思った。台湾も将来このように便利に なればいいな。」 次は海外初めての修2のB君。「大宰府では賽銭の音が大きいほどいいと聞いたの で、惜しみもなく500円玉を投入した。お守りは800円もするけど、これで御加護が得 られるのなら代償はやむをえない。」「台湾の物価水準から日本を見ると、食べ物は 高く、日用品は安いとの印象を受けた。」 修1で海外初めてのC君。「台湾から日本は2時間ちょっとの距離だけど、まるで別世 界に来たようだ。テレビで見たことがあるものもあるけど、実際に見てみるとまた違 う味がした。そしてもっとも感じたことは日本の生活水準の高さと環境の良さであ る。」「街は聞いていた通りに綺麗で、しかも台湾のような道を争う車やバイクもな い。台湾に戻ってきたら少し戸惑った。だから生活環境で台湾が見習う所が多い。で も台湾にも日本より便利な部分もある。例えばテレビチャンネルの多さとコンビニの 多さ、それから夜遅くまで開いている屋台等、これらは台湾に居ることの幸せであ る。」    続いて新卒の女性事務アシスタント。ここで説明するが、台湾政府はリーマンショッ ク以来、失業率を下げるために大学に人を雇う予算を与えた。それで僕も申請したら 3人のポストが与えられた。折角の機会なので一つの実験をしたくなった。男女共同 参画の米軍に見習って、事務・研究アシスタントとして新大卒女子を三名雇ったの だ。これで研究室にはじめて女子が入ってきた。半年間の感想を言うと、実験室の安 全には気を使ったものの、女子の存在で研究室の雰囲気は和らいだし、仕事の面でも 悪い影響を受けた印象はなかった。総じてプラスといえるだろう。ただ一つ、女性は 厳しくすると男性より涙もろいようなので、男女平等と言っても本音で平等に接する ことは注意が必要のようだ。   その三人の女性は今回自費での参加である。自費なので学会に参加する義務はない。 学会の間、彼女達は三人で宮崎観光に出かけた。日本語はできないものの、多くの地 元の方に親切にして頂いたようだ。A子曰く「バスを乗り継いで鵜戸神宮で降りたら そこに見えるものは山と海だけだった。でも日本人の人情は厚く、沿道ずっと目的地 への行き方を教えてくれる人がいた。しかもあるお土産店のおばさんは歩きやすい行 き方も教えてくれた。平和台公園で道に迷った時にはバスの運転手が無料で目的地ま で乗せてくれた。」   学会翌日の土曜は福岡に移動しての自由時間である。その日は私以外の皆は大宰府に 行った。感想文には、B子の薦めた大宰府の梅枝餅は美味しくてとても感動したと、 皆書いてある。若い人は何を食べても美味しいから羨ましい。私が居たらおそらくは 「これの何が美味しいのかね?所詮は観光客向けのお菓子だろう」などと殺風景なこ とを言っていたかも知れないので、やはり私は行かなくて正解だった。更にその夜は 事前に調べた有名なラーメン屋さんに行ったようである。福岡での自由時間の計画は すべて女性達によるもので、男子は計画もなく尻についていく感じだった。翌日の帰 国にもかかわらず女性は夜も店が開いている時間目一杯まで買い物をし、帰国日も朝 早く起きて買い物に出かけた。女性陣にとって今回の旅行は骨の髄まで楽しめたと言 えるのではないか。   最後にA子「もう日本を離れる時間になった。台北と比べてこれ以上ない新鮮な空気 が恋しい。綺麗な街道、時間に正確、秩序、それと客への礼儀正しい対応、すべては とても印象に残りました。このような機会を与えてくれた先生に感謝します。」 これが有終の美を飾る研究室の卒業旅行となった。12月末に、島根大学での准教授就 任が内定したからだ。学生には厳しくも真摯に接してきたから、このことを学生に伝 えるのは悲しかった。でも熟慮して決めたことだから前を向いて進むしかない。3月 には8年間学生と共に手作りで立ち上げた、太陽電池や薄膜トランジスタが作れる薄 膜デバイス研究室は消滅する。4月からの日本での新生活は期待と同時に不安もある が、期待だけを増幅させて臨んで行きたい。 ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾 へ帰国。2001年、国立雲林科技大学の助理教授、2002年、台湾科技大学の助理教授、 副教授。自己評価による8年間の業績は予算を獲得し装置を手作りして、薄膜トラン ジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えたこと。2010年4月より島根大学電子 制御システム工学科の准教授。異国の生活の中で気づいたことは、国籍も人種も意味 はなく、重要なのは食わせて頂いている組織、地域、そして国に、給料を超えた価値 を創出すること。 ----------------------------------------- 2010年3月31日配信