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エッセイ266:範 建亭「上海万博がもたらしたもの」

この夏、上海はとても暑かった。気温35度を超える日が一ヶ月以上続き、そのうち数日は40度を記録した。だが、今年の上海において、天気よりも熱くなっているのは、大勢の見物客でにぎわう上海万博である。ちなみに、上海万博のテーマは未来志向の都市づくりである。

上海万博は5月1日に開幕したが、当初の数週間は入場者数が予想を大きく下回った。ところが、夏になると事情が一変した。6月下旬から連日のように大入りが続き、観客数はほぼ毎日40万人を超える大盛況となっている。入場者があまりも多いので、どこに行っても長い行列。世界各国のパビリオンの中で一番の人気は中国国家館であるが、予約制の上、一日最多人数5万人と制限されているから、並ぶ行列はそれほどではなかった。サウジアラビアと日本のパビリオンはその次に人気があり、いつも長蛇の列が出来て、通常5時間ぐらい待たされる。イギリスやドイツのパビリオンも2、3時間以上並ばなければ入れない。

僕はこれまで2回行ったが、平日なのに、人気のあるパビリオンはどこも長時間待ちの大行列ができていた。並ぶのは大嫌いだから、結局、日本館をはじめとする人気のあるところには一つも入れなかった。辛抱強く入館を待つ人たちには脱帽した。観客には地方からきた人が多く、長時間にわたって上海に辿り着いた彼らにとっては、万博が貴重な体験となるに違いない。

中国の13億の人口と上海に住む約2000万の人口から考えれば、万博の参観者が多くなっても不思議ではないと思われるが、別の事情もある。入場者数は開催の成功を証明する代表的な指標であり、上海万博は7000万人の来場を目指している。というのは、大阪万博の時、総入場者数は6400万人で万博史上最多を記録したので、それを超えることは上海万博の最大の目標だと言っても過言ではない。その目標を達成するために、チケットをばら撒くような対策も実施された。例えば、上海市政府が上海住民に一家庭に一枚のチケットを無料で配った。また、政府機関や学校、会社(主に国有企業)などではいろいろな形でチケットを配っていた。僕一人だけで、職場や関連機関からもらったチケットは7枚もあった。

中国の人口は世界最多であり、政府の動員力も世界一であるから、入場者数の史上最高を達成するのはそんなに難しいことではないだろう。それに、7000万人といっても、リピーターも含まれているので、心配は無用であろう。確かに最初は動員があったが、行ってみたら意外と面白かったという話がどんどん広がり、自発的に見たいと思う人、また何回も行く人が徐々に増えて入場者の人数がどんどん拡大している。

リピーターの中で一番凄い人は、毎日行っているという。しかもその人はなんと日本人女性だ。今年61歳の山田外美代さんは愛知万博が開催された際、1日も欠かさず毎日万博に足を運び、243回の入場回数を記録したが、上海万博でも184日間の「皆勤賞」を目指している。そのために、現地でマンションを借りるなどで、もうすでに1200万円ぐらいのお金を使ったようだ。彼女は地元でも「有名人」となり、「万博おばあちゃん」と呼ばれている。

さすがに毎日行くお客さんは彼女しかいないと思うが、開催中何十回も見に行く人は珍しくなく、また大半の参観者は何時間も平気で並んでいるのだから、上海万博はいったい何が面白いのかと思うが、それは、見る人によって答えがきっと違うのだろう。だが、面白さよりも重要なのは、万博が現地の社会にもたらしたものであろう。

一番直感できる大きな成果は恐らく上海市のインフラ整備である。開催決定から開幕までの8年の準備期間において、上海の街づくり、道路整備などが広域で進められていた。その過程で都市建設に対する考え方も革命的に変わり、環境にやさしいエコライフが重要であることを中国の人たちに浸透させていった。また、万博のような国際的超大型イベントの開催によって、高い運営能力が評価され、地元政府に相当な自信を与えた。そして、万博の開催は一般庶民のマナー向上にも貢献している。

実は、上海市政府は万博を開催するにあたって、市民のマナーを心配して様々なキャンペーンを展開してきた。例えば、2年前に「愛される上海人になろう」というスローガンを掲げ、具体的な指針などが書かれている『万博を迎える上海市民の読本』を無料で配布した。中には、食事のマナーや携帯電話のマナーなど一般的なこともあれば、並ぶ行列に割り込まない、タクシーの奪い合いをしない、パジャマを着たまま外出しないというような呼びかけもある。パジャマの問題は別に上海に限った現象ではないが、現地のマスコミでよく取り上げられ、話題となっている。政府が市民の服装まで決めるのはおかしいという反対の声もあるが、大半の市民は、パジャマの姿が大都会にとってみっともないと認識している。これを契機に、最近はそのような非常識な行動が目に見えて減っているようである。

マナー向上については、さらにびっくりしたことがある。我が家が職場に近いので、僕の毎日の交通手段は自転車で、普段は地下鉄にあまり乗らない。ところが、先日、市内で地下鉄に乗ったとき、エスカレーターで乗客が自覚的に右に一列に並んでいたことに驚いた。このマナーはまだ日本ほど一般的になっていないものの、万博の開催を契機にボランティアたちの呼びかけによって普及しつつある。面白いことに、大阪のエスカレーター並び方(右寄り)が東京と違うのも、大阪万博の開催の時に世界標準に合わせたからなのだそうである。

上海万博を訪ねた人は、全国各地からやってきた人が大半を占め、しかも小中学生をはじめとする若い世代が多い。そういう人たちにとって、世界各国の魅力と先端技術や上海の発展ぶりなどを知るうえで、上海万博はまたとないチャンスになったと思う。だが、その入場者数が仮に7000万以上で大阪万博を抜いたとしても、国民の中でその数が約20人に1人しかないということになる。万博を観られなかった残りの人たちには貧しい人が大勢含まれている。それらの大多数の国民に万博開催の意義などをいかに伝えていくのは、また一つの大きな課題であろう。

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<範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2010年10月22日配信