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エッセイ255:南 基正「平凡だが越えることが出来ない永遠の存在-私の父」

父について書くのは難しい、という。長与善郎が父長与専斎を思うに際して「自慢のようになるのも気がひけるし、といって徒に如才なく卑下して強いてくさすようにいうのはなお更嫌なことである」と書いているが、なるほどそうであると思う。特に、公の場所では父親の名前さえ口にしてはならないと幼いときから教育されてきた私としては、父について書くのはなおさら気がひけることである。韓国では父親の名前を聞かれると、例えば私の場合、「南字、俊字、祐字です」と答えなければならない。しかし今私は、とても恐れながら、私の父に対する想いを書こうとする。

いつからかよく覚えていないが、私に対して最も影響を与えた人物を聞かれる度に、迷うことなく父親だと答えてきた。しかし、なぜなのかと聞かれるとなかなか一言でいえず、答えに困っていたように思える。実は私は父からしつこく何かを言われた覚えもなく、一度もほめられたことがない。即ち、父との直接的かかわりがなく父を判断する原材料がないということが、まず浮かび上がる理由である。父に関して、父の私に対する思いに関してはすべて、母や父の周りの人から間接的に聞いた話である。しかし、それは答えとして語ろうとしても語り尽くせない話のように思えたからでもある。そして、なによりも、父が一見とても平凡な人であり、特別な何かがある人であるということをその場で信じさせるのは無理だと思っていたからかもしれない。

父は貧しい農家の長男として生まれた。勉強はできたが、家が貧しく大学には進めず、当時の花形職業であった銀行に就職した。自力で夜間大学に通い、最初の銀行で定年まで働き、定年後は家で読書の毎日を送っている。こうしてみると、どこにもいそうなごく平凡な父である。しかし、私はわずか二、三行で締めくくれる父の人生の中で、とうてい越えることができない永遠の存在としての父を見るのである。

父はまず、私にとって永遠の先生である。父は、私に学問することの楽しさと厳しさを教えてくれた。私の祖父と曽祖父は漢学の先生であったという。清貧が学問を営みとするものの第一の教義であった時代がその背景にあり、生業にはほとんど無関心であったのが先の貧しさの原因であり、父が銀行員とならざるをえなかった理由でもあるが、とにかく、そのような環境の中で父はハングルより漢文を先に習ったという。漢学が学問である限り、それが学校での勉強とパラレルではない。その意味で、私は学校での成績などで父にとやかく言われた覚えがない。常に、もっと広くもっと深く物事を考えることを教えられたのである。父は定年後、ふだん最もしたかったことをするのだといい、漢学の勉強を始めた。私は年に一度帰国するが、そのつど、父は私よりはるかに長い時間を漢学の書物と向き合っている。学問に終わりがないことを身をもって教えている。

父はまた、私に「文が武に勝る」という意味での平和主義を教えようとしたようである。幼いころ、私は父に刀や銃などのおもちゃを一度も買ってもらえなかった。そのおかげで、私は兵隊ごっこやインディアンごっこなどの遊びには参加することができなかった。TVでの「暴力と破壊によって問題が解決される」「マジンガーZ」といった類の番組も父がいると見られなかった。代わりに、父は帰り道にいつも本を一、二冊買ってきてくれた。母から後で聞いた話だが、お金に困り、父の必要な本を書店で立ち読みすることはあっても私たち兄弟には必ず本を買ってきてくれたそうである。私が大学に入り自分の選択で本を買うようになるまでは、私の本棚は父からのお土産で一杯であった。

大学生になり、わたしはこのような父に逆らったことがある。学生運動の盛り上がりの中で、当時いわゆる「ヴ・ナロード(人民の中へ)」運動とでもいえるような「農村運動」の組織をしていた頃であり、また、すべての知識が灰色に見え、不偏不党の理論などなく、知識人といえども党派性、階級性を持つべきだというマルクス・レーニン主義的考えに傾斜し始めた頃である。ある夜、父からもらった書物で埋まっていた本棚をひっくり返したのだ。しかし、部屋の中に散らばったその書物を見ているうちに、父の考えの深さやそれを通じた私への想いに思いが至り、結局その行為は極端な考えから脱する反対方向への契機になったのである。戦後日本社会を平和主義をキーワードにしてとらえようとする私の試みは、その意味で父から仕込まれた考え方に端を発しているかもしれない。

父はまた、ただ本の中にうずくまっているひ弱なものになるのを警戒してか、時間がある度に私を登山に誘ったり、テニスにつれていってくれたりして、身体を動かすことの大切さをも教えてくれた。受験を目前にして勉強部屋に閉じこもっている私をテニスに誘ったことで母と口喧嘩になったこともあった。クラッシックのレコード盤を買ってきては、休日になるとさりげなくかけてくれたりもした。以後、いくら忙しいときでも時間を割いてできる範囲での何らかのスポーツや芸術で心の安定を保ち、身体を鍛えていこうと努めている。

こうしてみると、父の学問やスポーツ、芸術に対する思いは私のためのものであったようにみえるが、実は父が自らそれらを本当に楽しんでいたようである。森茉莉が父森鴎外を評して「私には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えた」(「父の子」)と言っているが、それは、そのまま私にもあてはまる言葉である。そのきれいな熱情が無言のうちに私に伝わってきて今までの私を暖め、現在の私を形作ったのである。そして、その熱情が私に伝わってくる限り、父は私にとって永遠の存在なのである。

(著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載)

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<南 基正(なむ・きじょん)☆ Nam Ki Jeong>
1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授、韓国・国民大学国際学部副教授を経て、現在ソウル大学日本研究所HK教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。
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2010年8月4日配信