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2007.03.23
この時代にもなれば、ほとんどの人がカルチャーショックを受けたことがあると思う。公の場で平気でキスをする欧米人カップル、どこででも大声を出して喧嘩するアジア人(日本人を除く)、電車の中で眠くなくてもとりあえず目をつぶって下を向いている日本人。初めてこういった状況に出会った時の戸惑いや驚きも、時間が経てば空気のように感じる。そして上級者となればむしろそんな文化を自分で実践してしまう。キスをしているカップルがいたら目のやり場に困っていたのに今は自分たちでも駅の改札でしてみたり、彼女が文句を言いながらその場を立ち去るところを彼氏が後から追いかけたり、電車に乗っている時間が貴重だと思い一生懸命人間観察に励んでいた私も、周りが寝ていて観察の収穫がないからなのか、12時間睡眠した直後でも平気で眠りについてしまう。人間の順応性は素晴らしいと思う。
しかし、そんな私でも理解し難いこともある。まず、友達づきあいである。中国では仲良くなったら女の子は腕を組んだり、手をつないだりしてスキンシップを取って「友情表現」をする。そんな環境に慣れた私は日本人の友達の腕に触れただけで、「あ、ごめん」と謝られてしまう。Culture Shock!日本に来て一週間でこの日本文化を習得し、自分を抑制しながら生きてきたが、どうやら中国の血がいまだ濃く、今でも無意識に日本人の友達に接近して歩いたりしている。これに気づいたのも友達の一言のお蔭で、「すーすー、もう少し右を歩いて!私縁石に乗ってしまいそう」。どうも左側を歩いていた友達が接近してくる私をずっと少しずつ避けていたらしい。この文化の真の理由は分からないが、友達曰く、「レズに勘違いされるから」で、そのくせお泊りする時は同じベッドで寝るのをちっとも構う様子がない。理解不可能!
日本人は恥ずかしいと思うことが多い。大声を出した時、階段で躓いた時、女の子が電車で競馬新聞を読んでいる時。とにかくいっぱい。競馬新聞を読んで研究して馬券を買うのは立派な趣味だと思うのだが、「そういうのは一人で、家で、こっそりよ。親父くさいって思われるから恥ずかしい」というのが日本人の見解みたい。じゃあゴルフは一昔前まで親父さんたちのスポーツだったのに、今は宮里愛選手が大ヒットしているのはどう説明が付くのか。「それとこれは違うよー」。なにがどう違うのか中国人の私にはさっぱり分からない。
大声を出すと言えば、私は日本人の女の子がよく発する「きゃー」を尊敬している。この一言にいろんな意味や状況が込められている!ある日、後ろを歩いていた友達が急に「きゃー」と叫んだ。すごいトーンの高い声にびっくりして振り向いたら、友達が転んで地面に倒れている。慌てて助けつつ習得したのが、日本語の「きゃー」は非常事態の時に使うということ。そんなある日、横に並んで歩いていた友達が、また急に「きゃー」と叫びだしたので、転んでからじゃあ遅いと思い慌てて手を差し出したら、その子は前のほうに向かって走り出した。前のほうに知り合いがいたらしい・・・「きゃー、お久しぶりー」。その後レストランでご飯を食べていたらまた「きゃー」と言うので知り合いかと思いきや、「きゃー、おいしそう!」だそうである。まあ、「きゃー」も人によってはトーンが高かったり低かったり、声が大きかったり、小さかったり、「きゃー」が「わぁー」になったりもする。言葉を習い初めで、いろんなフレーズに敏感だった私にとっては最も悩ましいこの「きゃー」、今では聞こえても反応しなくなっている。野次馬な性格を持つ中国人は街中で「きゃー」が聞こえたら、きっと飛んでいって何事かを突き止めないと気がすまないのに、私はもう聞いて聞こえぬふりで歩き出す。そんな私を中国人の友達は無感情な人と言う・・・
高校生にもなれば日本人は両親と遊ぶのを嫌う。理由は「つまらない」とか、「親は口うるさい」とか、一番理解できないのが「親と遊んだら友達が一人もいないと思われるから」である。中国ではいくつになっても親とショッピングしたり、旅行したり、遊園地に行ったりする。家族だから一緒に過ごすのは当たり前。反抗期は生理上あるものの、日本人みたいに必要以上にひどくはない。親と全く口を聞かない、親の言うことを聞かない、しまいには、ぐれる。こんな理不尽なことまで「反抗期だから」とか「難しい年頃だから仕方ない」と親までが庇護する。これもまた本当に理解できない。そんな日本人に比べて私はむしろ反抗期がないように見え、そんな私を日本人もきっと理解できないと思う。(続く)
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江 蘇蘇(こう・すーすー ☆ Jiang Susu)
中国出身。留学する父親と一緒に来日。日本の高校から、横浜国立大学、大学院修士課程・博士課程を卒業。専門分野は電子工学。現在、(株)東芝セミコンダクター社勤務。SGRA研究員。
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(このエッセイは、筆者の承諾を得て、2005年度渥美国際交流奨学財団年報より再録しました)
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2007.03.22
私の日本の生活は7年目になりますが、ブルガリアの祝祭の中で、最も懐かしく思っているのはイースターです。イースターとは移動祭日、すなわち春分の日の後の満月の次の日曜日に行われる祭です。ご存知の通り、イエス・キリストの復活を祝う祭であり、「復活祭」とも呼ばれています。
ブルガリアのイースターと言いますと、最も特徴的なのはイースター・エッグ、いわゆるイースターの卵、とkozunakという甘いパンです。イースターではキリストの復活だけでなく、これと関連する新しい生命の誕生が祝われるため、新たな命の源泉である「卵」が最もふさわしいものだと思われてきたそうです。当初、この卵は十字架にはりつけにされたキリストの血を連想させる赤い色に染めることが一般的でした。しかし時と共にキリストの血というより、新たな生命の尊さ大切さや、春の到来の喜びの方が卵に多く刻みこまれるようになりました。現在では赤い卵だけではなく、黄色や青、ピンクなどの様々な色に染まった、華麗なものが多くあります。しかし最初に色をつける卵は必ず赤色でなければならないというしきたりが、いまなお残っています。卵の色染めは、必ずイースターが行われる同じ週の木曜日に行われます。私もイースターの時期に母と一緒に店で売られている卵専用の絵の具を使って、ゆで卵の殻に色を染めていました。他のブルガリア人もそうだと思いますが、この時には個性的で、きれいな卵を作ろうと必死になるものです。イースターの時に友達と卵を交換しますので、自分が作った卵が最もきれいで、人々の記憶に残るようなものにしたいと思う人が多いのです。
同じ週の木曜日にもう一つ作っておかなければならないものがkozunakです。Kozunakは大きなパンの形をしていて、表面には様々な模様がほどこされます。最も一般的なものは編んだもの、特に三つ編みの模様です。その味は日本のメロンパンの味によく似ていると思います。と言いますのも、kozunakにも少しお砂糖がかけられるからです。Kozunakの主な材料は卵、小麦粉、そしてお砂糖とバターです。作り方は一見簡単そうに見えますが、実はとても難しいです。作り方を少し間違えると、パンがふくらまなくなり、大きな生地のかたまりになります。よっぽど腕のいい人でないと、なかなか簡単に作ることはできません。私の祖母はkozunakの達人なのですが、残念ながら、私と母は失敗の連続でした。しかし嬉しいことにkozunakはパン屋さんでも買
えます。もちろん自家製のkozunakと比べものにはなりませんが。
イースターの時にKozunakを作る理由は、イースターの前の四旬節にあります。この時期には断食まではいきませんが、食事制限があります。具体的に言いますと、肉や、卵、チーズ、牛乳など動物の脂が入ったものは全て禁じられています。Kozunakは、この食事制限の時期が終わった後に食べるものです。昔の人々はこの食事制限を遵守していましたが、現代では多忙な日常生活のため、この四旬節を宗教的に行う人は少なくなりました。
ここでは私がKravenikという祖父の田舎で経験したイースターの祝い方を簡単に紹介したいと思います。土曜日の夕方、村の人々は教会に行く準備を始めます。イースターの頃に庭に咲くすずらんやすいせん、サクラソウなどの春の花で小さな花束を作り、家族全員でこれと一緒に卵やkozunakを教会に持っていき、教会にささげます。そのあと、ミサが始まります。神父がお祈りのことばを読み、聖歌隊は聖歌を歌います。これは深夜の12時まで続きます。12時にはキリストが復活する瞬間だとされているため、神父は喜びの祈りと聖歌を歌います。またみんながお互いに「キリストよみがえりたまえり」や「真によみがえりたまえり」というお祝いの挨拶をします。そして神父が大きなろうそくをたて、教会で集まっている人が列に並び、このろうそ
くから自分のろうそくに火を付けます。そのまま神父を先頭にして、皆が教会の周りで十字架を掲げて、行進をします。この時神父が十字架を持って、列の先頭に立ち、教会を3周回ります。私が子供の頃、教会の儀式の中で、この行進を最も楽しみにしていました。暗やみの中で、何十本ものろうそくの光がゆっくり行進するありさまは、子供の私にとって言葉ではつくしきれないほどきれいで不思議な光景でした。まるで別の世界にいるような感じでした。
これが終わりますと、みんながまた教会に戻り、ミサが朝まで続きます。そして最後に聖体礼儀が行われます。神父から一口サイズの大きさのパンとおおさじ一杯分の赤ワインをもらいますが、これらはイエスの肉と血とされているものです。そして人々は教会でもらった火の付いたろうそくを手に持って家に帰ります。このような儀式では、教会でもらった光と共に、教会に集まった人々と共有した愛や暖かさを家に持ち帰ることが祈願されているのです。
日曜日は四旬節の最後の日であるため、帰宅後40日間食べられなかった卵やkozunak、お肉料理などの豪華なごちそうをテーブルに並べます。お肉料理と言いますと、最も一般的なのは子羊の肉をお米と様々なハーブと一緒にオーブンで焼いたものです。そして家族全員が卵を手に持って、二人づつで卵をぶつけ合うという儀式が行われます。割れなかった卵の方が勝ちで、この卵を持った人がその年、家族の中で主導権を持つことになっています。最後まで割れなかった卵はイコンの前に置かれます。なぜなら次の年のイースターにこの卵を割って、その年の家族の運勢を占うからです。その卵が腐っていたら不運であり、何もなかったら好運とされます。
家族内ではこのようにイースターが祝われますが、イースターから一週間の間は、親戚や友達が遊びに来たり、彼らのところへ訪問したりします。このような時にも卵の交換や卵のぶつけ合いが行われます。
私の考えでは、イースターという祝祭は宗教的な祭のみではなく、民族的な信仰も絡み合っていると思います。農民であった昔の人々にとって、冬は死、春は復活を象徴していました。つまり、春の季節の到来によって、自然が命をとりもどすことはイエス・キリストの復活になぞらえられていたのです。更に、私にとってイースターは宗教的な祝祭である前に、生きる喜びや命の尊さを祝う祭です。従ってイースターがブルガリアの祝祭の中では最もすばらしい祭りであると思っており、私にとって最も好きな祭なのです。
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エレナ・パンチェワ(Elena Pantcheva)
2000年10月に千葉大学の研究生として来日。2003年3月に千葉大学文学研究科より修士。2006年9月に千葉大学社会文化科学研究科から「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」の研究で博士号を習得。ソフィア大学日本語学科の学部生の時からずっと日本語の擬声語・擬態語の研究を続けてきたが、4月より首都圏にある外資系のホテルに勤務することになり、新たな分野に挑戦する。
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2007.03.21
ご存知かもしれませんが、社会主義時代には宗教や、宗教と関係する祝祭は全て禁止されていました。当時、私はまだ子供だったため、はっきりとした記憶はありません。むしろ、私の母や父の世代の方がこの時代についてはもっと詳細にお話できると思います。私の母の話によりますと、イースターなどの時、教会に行くことはもちろん許されませんでした。私の母と父がまだ学生だった時には、イースターを祝ったかどうかということを学校の先生が厳しくチェックしていたそうです。例えば、イースターの卵の色染めをしたかどうかを調べるために生徒を列に並ばせ、手や指に色あとが付いているかどうかをチェックしていたそうです。この時、そのあとが見つかった者は退学させられたり、罰を受けなければならなかったそうです。更にその子の両親までも様々な形で罰を受けていたといいます。しかし、このような厳しい状況だったにも関わらず、多くのブルガリア人は家で近所の人にもきづかれないように、家族だけでひそかにイースターを祝っていたそうです。
私が子供だった頃は、状況が少し変わってきて、昔より緩やかになりました。都市では知り合いや警察が多いため、簡単に教会に行くことができませんでした。それでもイースターの卵を作ったり、友達同士でイースターの卵を交換したりすることはできました。ただし、これらのことは、たとえ許されていたとしても、まわりの人には決していいことと思われていませんでした。このような環境の中、私の家族はほぼ毎年、私の祖父の実家があるKravenikという村でイースターを過ごしていました。Kravenikには警察が少なく、両親の職場や子供の私たちの学校と関わりのある人もいなかったため、びくびくせず、もう少し伸びやかにイースターを過ごすことができる
と考えていました。前回のエッセイでご紹介したイースターの様子は、私がこの村で体験したことです。
体制転換以降、ブルガリア人はまた教会に戻り、イースターのような宗教的な祭を自由に祝うことができるようになりました。更にテレビなど、マスメディアが毎年生放送で放映することが一般的になり、にぎやかな祝祭になってきています。
ところで、Kravenikは人口約600人の小さな村です。この村は私の実家があるヴェリコ・タルノヴォという町から80キロ離れた、バルカン山脈のふもとにある自然が豊かな土地です。空気がきれいで森に囲まれているため、夏は涼しく過ごしやすく、町から遊びにくる人が大勢います。そのため結核などの療養に利用されていたところでもあります。(現在も使われているかもしれません。)村には川が流れ、地下には冷泉水があるため、様々な野菜や、梅、プラム、りんご、木苺、いちご、ぶどうなど、沢山の果物が育てられています。最近では、観光やヴァカンスのスポットにする企画もあるようです。現在、民家の形をしたホテルなども建設されています。これがいいことかどうかは私には分かりません。沢山の観光客にきていただきたいという気持ちがある一方、昔のKravenikの魅力を残しておいてくれればとも思っています。
家族でKravenikを訪れるのはイースターの時だけではありませんでした。子供の春休みや夏休みには、必ずKravenikで過ごしていました。一緒に育ったいとこと私にとってそこへ行くのは何よりの楽しみでした。Kravenikで過ごした夏休みはとても貴重な時間でした。他のヨーロッパの国と同じようにブルガリアでも夏になると仕事している人も子供もヴァカンスに出ます。皆が海に行ったり、山に行ったり、海外へ行ったりして、2週間から1ヶ月ぐらい休みを取ります。私の家族にとってこれはKravenikで皆が集まることでした。祖父、祖母、母、父、そして母の兄弟の家族を合わせて9人が同じ時期に休みを取って、暑い夏を涼しいKravenikで一緒に過ごしていました。子供だった私達にとって最高の夏休みでした。なぜならば、宿題をしていない時に外でいくらでも遊べたからです。私達と同じように町から来た子供や村に住んでいた子供が大勢集まって、一緒に川で泳いだり、森の中でいちごや黒いちごを採りに行ったり、馬に乗ったり、ヤギや羊と遊んだりして、村の周辺を自由に走り回っていました。夕方になると家に戻り、家族皆が炉端の近くに座りながら、夕食を取りました。炉辺の暖かさは家族の全員の心に広がっていたかのように笑い声がいつまでも近所に響いていました。夕食が終わると皆が家の大きなベランダに座り、ハーブティーなどを飲みながら、祖父が昔話や先祖の話を夜遅くまで語ってくれました。頭にこぼれ落ちそうなほど大きな星空の下で、月に照らされたベランダを眺めながら子供の私達は
何か不思議なことが起こりそうな気分で祖父の話を静かに聞いていました。毎年このように夏を過ごせることに対して感謝の気持ちで一杯でした。今でも「Kravenikで過ごした子供の頃の思い出は私達の一生の宝物だね」ということを、いとこといつも話しています。
今は日本と同様に、Kravenikも春に向かう頃だと思います。村中の庭にはすずらん、ヒヤシンス、すいせんやサクラソウが咲き、木の枝のつぼみがもう膨らんでいるところです。更にりんご、梅、プラム、桃、さくらんぼうなどの木は白やピンクなど目に優しい色に染まり、遠くから雲のように見えます。空気の中に漂ってくるこれらの花々の香りが春の登場を知らせようとしているように感じられます。様々な鳥の鳴き声が聞こえ、これらのコーラスは心に新しい希望をもたらしてくれます。村の人々もまた去年と同じようにイースターを通して、自然や命の復活を迎える準備に入っているのではないかと思います。このKravenikの風景やそこで過ごした思い出はブルガリアを離れている私にとって郷愁の念を呼び起こします。
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エレナ・パンチェワ(Elena Pantcheva)
2000年10月に千葉大学の研究生として来日。2003年3月に千葉大学文学研究科より修士。2006年9月に千葉大学社会文化科学研究科から「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」の研究で博士号を習得。ソフィア大学日本語学科の学部生の時からずっと日本語の擬声語・擬態語の研究を続けてきたが、4月より首都圏にある外資系のホテルに勤務することになり、新たな分野に挑戦する。
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2007.03.21
「日本人に対してどんなイメージを持っているか」と、日本に来てよく聞かれる。少年時代のわたしが持っていた日本人のイメージは『君よ憤怒の河を渉れ』『幸福の黄色いハンカチ』などの映画で知った高倉健だった。男としての剛直、堅忍不抜な姿は、親しく感じると同時に、尊敬の念が自然にわいてくる。のちに渥美清のシリーズ作『男はつらいよ』もふるさとで公開され、笑わせてもらっただけではなく、寅さんがもたらした、悲しさと同時に、ユーモアも豊かという日本人のイメージも持つようになった。大学に入って、第一外国語として、もちろん日本語を選択した。日本の歴史や文化と関連する科目も選択し、日本の小説もたくさん読んだ。現代日本社会の厳
しさも認識したが、高倉健像と寅さん像は変わらなかった。
1998年4月、わたしはやっと夢に見た日本に来ることができた。日本での生活の厳しさは覚悟していたので、これまでの留学生活はそれほど不便とは思わなかった。ただし、さまざまな日本人との出会いによって、高倉健像と寅さん像を持っていたわたしが幼稚であるということがよくわかった。日本の男は高倉健でもないし、寅さんでもない。
似たようなスーツ、似たようなネクタイをしめて、朝から夜まで働くサラリーマンたちは、職責を尽くすが、「本分」以外の仕事は他人事と見なし、助ける意識はほとんどない。そして、職場でも、職場以外の場所でも、毎日、決められた「用語」を繰り返す。街では、髪を黄色や緑、ピンク色に染めて、いろいろな髪型にしている男の姿もよく目にするが、彼らは髪の色と髪型以外、何の個性ももっていないし、他人のことに対して無関心という点では、ほかの日本人とあまり変わらない。さらに、テレビや新聞では、手術をして性転換したスターが結構注目される。一体男なのか? 女なのか? 分からないが、日本では大変人気があるそうだ。
日本の男たちはどうしたのだ? 健さんと寅さんはどこにいってしまったのか?
高倉健が演じた剛直は、人間の一種の美徳でもあるが、現実の日本社会では、自分の責任を人になすりつける人が少なくない。三年前、大学のスキー教室で経験したことはたいへん印象に残っている。留学生の日本理解、及び日本人学生と親睦を促進するという目的のスキー教室の最終日の懇親パーティーは、とてもにぎやかだった。三日間のスキー教室で、互いにあまり話しかけなかった留学生と日本人学生は、お酒を飲みながら、歌ったり、踊ったりした。各国の留学生たちは、相次いでコーチたちに感謝の言葉を言い、お酒をすすめた。同じテーブルに坐っていた日本人の男子学生Aさんは、女性のコーチと争ってカラオケを歌い、興奮のあまり、テーブルに登って、ビールやワイン、ウイスキーなどを豪飲し続けた。留学生たちは、もちろん、コーチにお酒をすすめると同時に、Aさんにもお酒をすすめた。みんな気も狂わんばかりに喜んだ。結局、コーチ二人とAさんらが酔っぱらって、戻したあげく、動かなくなり、会場で寝てしまった。
翌日の昼になって、スキー場を離れる際、Aさんはようやく酔いが覚めてきた。ホテルの前に全員集合した。「大丈夫ですか」と何人かの留学生がAさんに声をかけたら、彼は「全部あのモンゴルの女のせいだ。すごくすすめられて・・・・・・」と繰り返し言った。バスに乗ってからも何度も繰り返した。バスが大学に戻り、全員挨拶をし、それぞれ各自の家に帰るときなっても、Aさんはまだ「あのモンゴルの女……」と言い続けた。
日本人は控え目であるとよく言われているが、こうしたパーティーでは、決して控え目ではない。のみならず、自分を抑えることができず、酔っぱらいになったのに、それをほかの人のせいにするのは、男らしくない。そのモンゴルの女子留学生は、同じテーブルの人全員に対して、同じようにすすめたのであって、わざとAさんだけにお酒をすすめたわけではなかったのだ。わたしのふるさとでは、お客さんがパーティーでお酒を飲んで酔っぱらうのは普通であるが、誰もそれをほかの人にせいにしない。何か悪かったとしても、自分でやったことは自分で責任を負うのである。
同様な場面は、おととしの夏の北海道の旅にもあった。それはある財団が費用を負担し、各大学からの留学生10名と日本人学生2名を集め、北海道でおこなわれた国際フォーラムに派遣した時のことだ。会議が終わって、帰りのフェリーに乗るために港に向う途中、財団は、あるレストランで焼肉の食べ放題をご馳走してくれた。ほんとうかどうか分からないが、モンゴル人であるわたしの焼いた焼肉がおいしいと言われ、ほかのテーブルで食べていた人も、わたしのほうに集まって来た。結局、みんな腹いっぱい食べて、満足そうに車に乗って、再び港へ向かった。
しかし、車の中で、日本人の男子学生Kさんが急に「気持ちが悪い」「お腹が痛い」と言い出した。「どうしたんだ」と聞いたら、「全部フスレさんのせいだ。あんなにたくさん肉を食べさせたからだ」と、わたしのせいにした。そして、フェリーに乗っても彼はこの言葉を言い続けた。翌日、東京に帰りついた。そこで財団側が再び食事に招待してくれた。注文した際、Kさんは「肉はもういい。昨日、フスレさんがたくさん食べさせた。肉はもう思いだしたくない」と言った。やはり、わたしが悪いことになった。
これで終わったと思ったが、4ヵ月後、財団から送られてきた、北海道の旅の参加者が書いたエッセイ集を読んで、びっくりした。そこに掲載されたKさんの文章のなかには、次のように書かれている。「ある人の陰謀で、わたしはたくさんの焼肉を食べさせられ、お腹を壊した。(中略)わたしは2ヵ月間肉を食べないことにした」。また、わたしのせいだ。彼は自分の失敗の照れ隠しに、冗談めかしてそのように言ったのかもしれないが、わたしは悪者にされてとまどってしまった。
高倉健さんも、寅さんもよく北海道に行った。健さんが焼肉を食べるなら、黙々として、さっぱりしたものだろうと、ひそかに思う。寅さんの場合は? 独りで食べないだろう。おそらく誰かと一緒に食べながら、人生か、女性について語る。ちょっとうるさいかもしれない。仮に寅さんが動けないほど焼肉を食べたら、何を言うのだろう。それは楽しみだ。
このように、責任を人になすりつけることは、決して個別な現象ではない。昔はどうだったか分からないが、すくなくとも、最近の日本の政治家、実業家たちの言動を見ると、責任を人になすりつけることがよく見られる。耐震強度偽造問題や証券取引法違反など、多くの日本の政治家や実業家が関わっているが、関係者は皆自分に罪はないように詭弁を弄したり、責任を人になすりつけ、腕を振り上げて声高らかに相手を糾弾したりしてきた。昨日パートナーだったのに、今日は、敵になってしまうのは珍しくはない。内輪もめも、詭弁を弄すればするほど、醜くなる。公明正大さはまったくみられない。
高倉健さんの剛直の一方で、寅さんのユーモアにも魅了される。実際、彼らの魅力は、当時の活気に満ち満ちた社会を反映していたのであり、残念ながら、今の日本社会はそれを失ってしまったように思える。日本は、健さんの剛直さと寅さんのユーモアが共存していた、あの活気に満ち満ちた社会を取り戻してもらいたい。
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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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2007.03.06
1月28日朝、広州で宿泊していたホテルへSGRA会員の奇錦峰さんと胡炳群さんが迎えに来てくれました。内モンゴル出身の奇さんは、広州滞在がもう4年目で、広州中医薬大学で教えています。トヨタの系列会社に勤める胡さんは、名古屋と広州と大連を飛び回っていますが、今回は私の訪問にあわせて、奥さんとお嬢さんも一緒に広州に来てくれました。奥さんは仕事の関係で名古屋に居ることが多く、お嬢さんは普段貴州省のおじいちゃんとおばあちゃんと暮らしているけど、これからお正月のお休みなので名古屋に行くそうです。
まずは、奇さんの大学の研究室がある広州大学城へ。2004年9月より、広州にある大学の殆どが、こちらに主なキャンパスを移し、もともと農地だった面積17平方kmの川の中州が、あっという間に30万人の学生と教員と職員が住む大学都市になってしまったという、中国でしか実現できない大開発プロジェクトです。300億元(約4500億円)を超える巨額な資金が投入されたとのことです。そもそも広州に来るたびに、空港や高速道路や催事場などのインフラの素晴らしさには圧倒させられますが、私にとっては、ぴかぴかの建物よりももっと感心するのが植栽です。公園や街路樹はもとより高速道路の下まで草木が植えられています。大学城でも、計画が始まったらまず木を植えたのではないかと思うくらい、周囲はさまざまな木が植えられています。亜熱帯の気候ですから、数年たったら立派な森になるでしょう。しかも一歩「城」をでると、果樹園の緑が続き、道端で農民がスターフルーツやパパイヤの果実を売っていました。最近は、このような農家が経営するレストランが流行っているそうですが、奇さんの学生さんも下痢で大変だったというので、旅行者には無理そうです。
お正月休みの始まる日曜日だったので、キャンパスは閑散としていましたが、奇さんの研究室を見学しました。空き部屋はあるけど内装がまだなので、研究室は3名共同で使っているということでした。このビルは、建てられてからもう2年以上たっているのにこの調子です。日本ではもったいなくて考えられない建設工程ですが、中国に限らず、アジアに限らず、世界規模で見渡してみれば、そんなに驚くほど珍しいことではないように思います。工事が止まっている建設現場なんて結構ありますよね。ヨーロッパの都市でも数百年かけて完成した大聖堂などもよくありますし、できるところまで建てて再開できる条件が整うのを待つという感じです。尚、このように大学を郊外の一箇所、しかも川の中州に移したのは、学生が市内で反政府運動を起こすことを防ぎ、何か起こっても管理しやすくする目的があったと、香港の方に伺ったことがあります。
無理を言って、大学城のそばにある奇さんのマンションを見学させてもらいました。広州の住宅開発は「凄い」の一言に尽きます。たとえば、奇さんのマンションは、珠江のほとりにあり、塀に囲まれ警備員に守られた門からしか出入りできない広大な敷地に、数十棟の建物が立ち並び、共有部分には美しい亜熱帯の木々が植え込まれ、屋外プールも屋内プールもある高級マンションです。建物も、日本の団地とは大違いで、窓が大きく、エレベータを各階2軒だけが共有するような作りで、外壁はパステルカラーで塗られています。ここに限らず広州の高層マンションのデザインはとても綺麗ですが、このようなスタイルは香港の建築家が始めたようです。そして、このようなマンション群が、広州市内や郊外に本当にたくさんあり、しかも今もどんどん開発されています。ただし、香港人が投機買いしているので使っていない部屋も随分あるとのことです。
このような新興の住宅開発地区で気づくのは、制服をきた警備員の多さです。門では必ず人の出入りをチェックしていますし、訓練が行き届いているようで、私たちが通ると直立敬礼してくれます。しかも門番だけでなく、かなりの人数が巡回チェックしています。それだけコミュニティーの秩序を守ることを大切にしているとも言えますが、逆に、これだけ警備員を配備しないと、秩序が乱される危険があるとも言えそうです。警備員の多さは、外部からの侵入者の阻止だけでなく、住人がお互いに気持ちよく暮らすための対策のように思えます。
奇さんの部屋は、4LDKで150平米。奇さんは大学教授、奥様は歯医者さんです。右肩あがりの経済成長の中、現物を担保にローンができますから、夫婦とも専門職で共稼ぎをしたら、このようなマンションが買えるのです。たいていの人が10~15年のローンをして購入したものだそうです。ただし、厳密に言えば、中国では土地の所有権ではなく、70年とかの借地権です。でも、中国の方々は、そんな先のことはあまり気にしないみたいです。この開発区の一番高いマンションは、川沿いのデュープレックス(2階建て)ですが、3ベットルームで6千万円くらいでした。ここは広州市内からはかなり離れているのにですよ。奇さんのマンションの価値も、買った時と比べ、既にかなり上がったそうです。実は、私は、昨年、広州市内のマンションを訪ねる機会があったのですが、どこも同じような開発でした。夫婦共働きで、どちらかが外資系企業で働いているような家庭が多かったように思いますが、だいたい皆さん3LDK以上で、100平米以上のマンションでした。決して超富裕層ではない、豊かな中間層が急激に育っていると感じました。
中国は「平均」で語ってはいけないと言います。「中間層」といっても、中国の全人口の平均というわけではありません。広州は、中国で一番豊かな都市であり、政治の首都北京からも遠いので、人々がそれなりの財力をもってかなり自由に物事をとらえ行動している、と言う意味での「中間層」です。その人数は、中国の人口比の中ではわずかかもしれませんが、絶対数でいえば既に人口が数千万人の国の中間層の人数に達しているかもしれません。私は、子どものキャンプのNPO組織のプロモーションのために、2001年頃から毎年広州に通っていますが、最初はフォルクスワーゲンと三菱の自動車ばかりだったのが、あっと言う間にホンダとトヨタになりました。しかも、アコードは日本より大きいアメリカ仕様ですし、ランドクルーザーのよう高級車も少なくありません。次回は、中国の自動車の話をしたいと思います。(続く)
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今西淳子(いまにし・じゅんこ)
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より子供のキャンプのグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。
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2007.02.21
わたしが中国語教室で教え始めてもう12年になる。中国語を学ばれるのは、中国語を専攻する大学の学生さんたちではなく、また仕事関係で必要だからと勉強に来る人たちが中心でもない。定年退職後の第二の人生を歩んでいる方々、あるいは同年輩の女性の方々がほとんどである。最高齢の方は80歳代の後半である。このように高齢の方々ではあるが、みなさんそれぞれしっかりと目標を持って、懸命に中国語を勉強されている。
最初の頃、みなさんが何のために勉強されているのかさほど気にとめなかった。しかし、長い歳月のうちに、わたしはみなさんが実にいろいろ有意義な目標を持っていて、その実現に辛抱強く努力されているのに気づいた。例えば、15歳まで中国の上海に住んでいたので中国のことが懐かしく中国の人と中国語で文通したいと言う方もいれば、中国旅行はツアーではなく、各種手続きを自分で直接中国語を使って行い、一人で中国へ行きたいと言う方もいる。ツアーの旅行でも買物する時の交渉を中国語で直接にやりたいと願っている方もいる。今の日本には旅行会社が準備した周到なサービスがあると知りながらも、自らの中国語で中国人に接して交流したいというお気持ちにわたしは感激した。また、中には中国の古典や漢詩などを読むにしても、翻訳版ではなく原文で、しかも中国語の発音で朗読したいと打ち明けてくれる方もいる。世の中に翻訳版が氾濫するほど多い今日、原文を忠実に訳してくれた翻訳版が必ず見つかると思えるのに、敢えて原文で読みたいお気持ちとお志に対して尊敬する気持ちでいっぱいである。さらに、中華料理が好きで、自分の足で中国各地を回って、本場の中華料理を味わい、その作り方を勉強してきたいという努力家の方もいる。それぞれなんと立派な目標であろう。
このように、みなさん実に多彩で有意義な目標を持って中国語教室に通っている。そしてその実現のために忍耐強く努力されている。人生の充実した後半期または何十年も仕事をした後の定年退職後にあるみなさんは、本来ならばやっとゆっくり休める時期でもあるのに、敢えて自らに「勉強」を課してまだ人生のマラソンを走り続けることを選択しているのである。そして、12年間(わたしが教え始めて以降)も努力し続けてきたのである。これは決して誰もができる簡単なことではないと思う。
一方、今日の日本社会には、将来への目標を持たず、意欲がなく、終日、家にごろごろして閉じこもり、いい年をして親に養ってもらう若者が増えつつある。いわゆるニート問題である。わたしはかつて何人かの若い女性に、将来何になりたいか、何をしたいかと聞いたことがある。戻ってきた答えは金持ちの男に嫁いで食べさせてもらいたいということであった。また、ある放送局による渋谷街頭のインタビューを聞いて仰天したことがある。「毛澤東」を知っているかという質問に、「えっ、『けざわひがし』って誰?」と、派手に装っている若者が平気でげらげら笑いながら答えていた。さらに、電車の中では、優先席の前にお年寄りが立っていても席を譲らないで平気な若者もいれば、他人の迷惑も考えずに堂々と鏡と化粧品を出して、まるで自分の家でのように化粧している女の子もいる。片方では中国語教室のみなさんのように努力している高齢の方々がいることを思うと、わたしは叫びたくなる、「若者たちよ、もっと自分のおじいさんたちとおばあさんたちに学んで、何らかの目標を持ち努力することができないのか!」と。もちろん、日本のすべての若者がこうだと言っているわけではない。一生懸命に努力している若者は大勢いる。しかし、増えつつある一部のこのような種類の若者を見ると、日本のことが好きな一外国人にとっては、寂しく残念な気持ちになる。かつて映画「おしん」の主人公が与えてくれた辛抱強く努力する日本人の印象が、偏見であるかもしれないが、今の若者たちから少しずつ消えていくような気がする。
わたしは、中国語教室のみなさんの努力し続ける精神力と行動力にかつての日本人の精神がなお強く残っていることを感じる。中国語教室ではわたしが先生であるとはいうものの、本当はわたしは学生である。中国語教室のみなさんの、年齢に負けず自らの人生目標を持ち続け、尚且つ努力し続ける品位ある精神力と行動力が、わたしに多くの感動を与えてくれて、多くのことを考えさせてくれた。また、無言のうちにわたしに大きく影響を与えてくれて、わたしが日本の大学院で勉強や研究に努力し続ける心の支えとなってくれたのである。特に、辛い論文作成時を乗り越えることができたのも、みなさんのおかげである。このようなみなさんと12年間を共にすることができ、みなさんから多くのお教えをいただいたことを生涯の誇りに思っている。
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臧 俐 (ぞう・り ☆ Zang Li) 博士(教育学)。専門分野は教師教育・教育政策。中国四川外国語学院(大学)を卒業。四川外国語学院日本語学部で11年間専任講師を経て来日。千葉大学で修士(教育学)を経て、2006年に東京学芸大学より博士号を取得。
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2007.02.20
前回、私が勤めている大学の様子を述べたが、言い切れなかったことが多くあるので、今回も引き続き中国における大学教育の様子を紹介したい。
改革開放が実施されてからこの30年近くの間に、中国は市場経済を導入して高度成長を遂げてきた。その過程で、経済体制が激変し、最大の難関とされていた国有企業さえも市場原理に従って改革された。また、経済のみならず、社会のあらゆる側面が大きく変貌した。しかし、中国の教育体制には計画経済時代の面影が色濃く残されており、構造改革が立ち遅れているところが目立っている。本学のように、普段から上級管理部門の検査が多いのは大学だけではない。報道によると、昨年末に上海の中学校や高校さえも20数回の検査を受けたという。
中国の大学の運営体制や組織を見ると、計画経済体制や国有企業を思わせるところが少なくない。たとえば、大学には共産党の委員会、組織部(党の人事部)、共青団(共産主義青年団)委員会、婦人委員会などの政党関連の部門が設置されているほかに、外事処、監査処、武装部などの部門もある。一部の組織部門は有名無実化しているが、このような組織体制は改革以前とそれほど変わっていない。こうした組織が置かれている理由の一つは、政府の管理部門に対応しているからである。つまり、大学は政府に直接管理されているため、組織自体も似たようなものにしなければならないのだ。こうして、政府からの管理が行いやすくなり、検査も多くなる。
ここまで読むと、中国の教育体制が非常に遅れていると思われるのであろう。しかし、日本の大学に比べて、中国の教育システムには感心させるところも少なくない。最も異なる点の一つは、中国の大学では成果主義が徹底的に実施されていることだ。前回説明したとおり、本学では、学部教育のレベル評価を受けるため、われわれ教員に多くの事務的な仕事が求められた。私も以前行った2千人分のテスト資料を整理しなければならなかった。だが、それでも文句は言えない。なぜならば、その人数分に応じた給与をすでにもらったからである。
中国の大学では、教員の主な収入は業績によるもので、その業績は細かな得点制になっている。一つは教育に関するものであり、担当講座数、受講生の数等で評価され、もう一つは研究に関するもので、著書、論文の数によって評価される。業績の評価システムは複雑で不備なところも少なくないが、評価の結果はボーナスに反映されるから、結局各教員の総収入は年功序列とはあまり関係なく、個人の能力と努力に応じている。つまり、教えている学生の頭数が多ければ、または書いた論文の数が多ければ給料も多くなるということだ。
さらに、個人の業績はその職階にも関連している。基本給のほかに、助教授や教授の職階に応じて一定のボーナスが支給されるが、助教授や教授になるには一定の研究成果が必要となっており、年齢とは無関係である。また、助教授や教授は基本的に5年程度の契約制となっており、その5年間に業績が上がらなければクビにはならないものの、ボーナスが減給される。こうして、中国の大学では、私のような新米の先生が多く「稼げる」ことは可能であり、また私より若い先生がすでに教授へと昇進し、または多くの給料をもらっていることもよくある話である。
他方、教育の方法や学生の勉強意欲などについても、日中の格差は大きい。中国の大学生は勉強には非常に熱心で、また成績にこだわる傾向が強いので、真面目に教えないといけない。というのは、期末に学生が各教師の授業内容、方法と効果などに点数を付けるから、低い評価を受けると将来の昇進にも影響が出るからだ。私は日本で授業をしたことはなかったが、十数年の留学経験からいうと、中国の大学の先生は日本に比べてプレッシャーがより強いと思う。
そして、大学の風景についてもやはり日中両国が大きく異なる。中国の大学生は全員キャンパス内あるいは大学周辺の学生寮に住んでいるため、食堂や浴室のような生活施設が学内に多く設置されている。また、学生は殆どアルバイトをしていないので、日本に比べて学校内はいつも賑やかで活気が感じられる。本学のキャンパスは小さいので、夏になると、髪の毛が濡れている女子大生が洗面入浴道具を持って、スリッパで歩いている姿をよく見かける。
キャンパスの大半は学生に「占領」されているため、教員のほとんどは個人用の研究室がない状態である。若い先生だけではなく、偉い教授さえも個室がない。あるのは、各「係」(グループ)ごとに分けられた共用研究室のみ。研究は自宅ですればいいけれども、学生への指導はとても不便になる。この点についていえば、中国の大学には日本のようなゼミ制度がなく、学生に対する指導もそれほど多くない。ゼミがないことはとても残念である。日本での大学生活を振り返ってみると、やはりゼミの時間が一番多く学ぶ機会にあふれていたと思うのは私だけではないだろう。
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範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2007.02.14
「むかしも今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
人間は、―くり返すようだが―自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
その態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
―人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代と言っていい。」
さて、ちょっと長い引用となってしまったが、この文書はだれが書いたかお分かりだろうか。
昨年の真夏のことである。ジャパン・レール・パスを買い、日本の空気を吸いに行った。ジャパン・レール・パスを持って行ったからこそ、日帰りで新幹線を使って大阪や岩手県まで行ってもお金がかからなかった。だからこそ、大阪まで足をのばして司馬遼太郎記念館を訪問することができた。
イタリアから日本への出発の数ヶ月前に報告を頼まれて、ナポリ中央大学建築学部の図書室に通ったが、安藤忠雄による設計で2001年にオープンされたその建物に圧倒された。それで、日本に行ったら安藤が最近設計した建築物をたくさん見てみたいと思っていたのだ。
1996年、6万冊の書籍を残し、司馬遼太郎が死去した。言うまでもないことだが、近代日本についても多数の書籍を書いた司馬遼太郎は、神保町の古本屋によく足を運んだという。「司馬遼太郎を見せるのではなく、感じる、考える場を目指したい」ということが、司馬遼太郎記念館のコンセプトだったと文芸春秋の2006年2月臨時増刊号『司馬遼太郎ふたたび 日本人を考える旅へ』に書いてある。建物はあくまでもその通りであった。
若いときに世界を放浪した安藤の建築は、自然との調和を求めているということで世界中に知られている。しかし、司馬遼太郎記念館は違う。自然との調和を遥かに超えている。安藤が設計した司馬遼太郎記念館は、自然を尊敬しつつ「文化」の形作りに成功した。11メートル、三層吹き抜けにできた大書架は訪問者を脅迫しない、威圧しない。逆に、その「文化」を吸収させたくなる気持ちに目覚めさせる。
ネーティヴ・スピカーではない私は、英語で言うvisitorに相当する言葉に戸惑った。どう考えても司馬遼太郎記念館へのvisitorは「見学者」ではない。司馬遼太郎記念館の入り口から入り、記念館そのものにたどり着くまでの順路は、司馬遼太郎の自宅の前を通る。窓から司馬の書斎がよく見え、ご自宅に「受け入れてくださる」と言う強い印象を受ける。したがって、「訪問者」という言葉の方が適合していると確信した。
毎日のように司馬が使っていた書斎にある机の前に椅子がある。その椅子の背に、ブランケットがかけてあり、そのブランケットは普段はトランクを留めるために使うベルトで留めてある。まるで、今、そこに、司馬が現れそうな雰囲気であった。
司馬遼太郎記念館の入り口のところに、「放浪主義者から、放浪主義者へ。それから、世界の文化的放浪主義者の皆さんへ」と書いてもいいのではないか。
カフェ・コーナーで味わった真夏のホット柚ジュース、それもまた一生忘れられない。
ちなみに、文頭にあった引用は、司馬の『二十一世紀に生きる君たちへ』(司馬遼太郎記念館、2006、pp. 31-32)からである。
最後の最後になり大変恐縮ですが、早稲田大学の土屋淳二教授に、この場をお借りして感謝申し上げます。
司馬遼太郎記念館については、下記公式サイトをご覧ください。
http://www.shibazaidan.or.jp/index.html
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シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio)
ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。
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2007.02.07
学会発表でローマに行った。台北からは直行便がなく、香港―イギリス経由か、バンコク経由しかなかった。今回は台北から東京までのチケットを台湾で買い、東京からローマまでの直行便チケットを日本で買った。その結果総価格は東京経由の方が5%ほど安く、時間も往復合わせて14時間節約できた。このグローバル競争の時代に台湾の旅行会社は生き残ることができるか心配である。
東京から13時間、飛行機はローマフェミチオ空港に着陸した。空港からレオナルドエクスプレスに乗って30分でローマ市のテルミニ駅についた。駅からでるとそこではタクシーの運転手が客引きをしていた。馴染みのある光景だ。そう、台湾の駅もこうだった。こういうのはぼったくられる危険性があるので、ながしのタクシーを呼んでホテルまで乗せてもらった。窓から見る町並みには感動した。ローマを見てしまうと台湾の誇りである総統府などの石造建築物がくすんで見えてしまう。しかも道路はすべて石畳だ。「ローマは一日にしてならず」とはこういうことか、と納得した。
市内の移動には地下鉄を利用した。自動券売機は1)値段を押す、2)コイン投入、3)つり銭が出てくる、4)チケットが出てくる、の4段階から構成される(1と2の順番は日本とは逆で、アメリカと同じである)。この1ステップ1ステップの無駄時間がとても長い。台湾の自動券売機の遅さには辟易していたが、イタリアは意外にも台湾を上回っていたようだ。また夕方のラッシュアワーに利用したのであるが、混雑の具合は東京とさほど変らなかった。日本の新聞で、通勤電車のゆとりのなさが度々議論されていたので、ヨーロッパの電車はさぞかしや、席でエスプレッソを啜りながらのゆとり通勤かと思っていたのだが、のぞいてみたらさほど変らなかった。サラリーマン庶民は世界中どこに行っても大変なようである。ローマの地下鉄やバスはスリが多発しており、特にスーツ姿の人には水面下でスリがゾンビの如く群がってくるようなので、乗車時は常に五感を駆使して臨んだ。今回の学会でも研究者の中に餌食に遭った人が出た。スーツのポケットに財布を入れていて、「取られている!」と気づいた時には、時すでに遅し。見回しても誰が手を入れたか全くわからない状態だったと言う。
学会はローマ到着の翌々日から始まった。開始15分前には会場に着いたのであるが、登録は30分位列に並んでやっとできた。この状態なので、学会は50分遅れで開始される始末だった。学会慣れしてない中国での惨状は聞いていたが、そのようなことがこの一日にしてならずのローマで起こるとは意外であった。その日の夜には晩餐会があった。サンピエトロ大聖堂とサンタンジェロ城が見渡せる高級ホテルのレストランが会場として利用された。心はLOHASに切り替える必要がありそうだ。夜7時半開始のはずが何故か会場には入れず、50名以上の参加者がホテルの外で寒い中、訳も知らされずに待たされ、30分程経ってやっと中に入れた。しかし安堵するもつかの間、レストランは屋上にあり、訳もなく遅いエレベータの前に列をなして待たされる羽目となった。10分ほど待ったか、やっと自分の番が来て乗り込めたものの、エレベータは私たちを乗せたまま6階でフリーズしてしまったのである。中はパニックとまでは行かないものの子供連れのお母さんもいて大慌てだった。幸い数分後には再起動して1階に下がって開いたが、怖くて誰も乗らない。それで老若男女一行は続々と階段を駆け上ってヨーロッパの天井の高いビルの6階に辿りついたのである。これはあまりの滑稽さに笑ってしまった。
相当苦労して席に着いたので、これで美味さもひとしおだろうと思ったがとんでもない、料理がなかなか来ない。ひとつ出たとしても次までの時間が長いのである。後日欧州に長期滞在している日本人に「あの晩餐会は行ったか?」と聞いてみた。そうしたら「ヨーロッパの晩餐会はいつもあんな感じだから、最初から行くつもりなんてなかった」と。台湾はあまりにも時間にルーズなのでいかんと思っていたが、イタリアを見て少しは心が広くなった。それにしても、サービス自体がLOHASでいいのか?と言う気がした。
学会終了後、楽しみにしていたローマ観光をした。多くの観光地の道端には露天商がずらりと並んでいた。彼らは警察が来ると即座に畳んで隠れる。これも台湾でもよくみられる光景だ。これらの露天商の多くで偽ブランドが平然と売られている。台湾では、偽ブランドはこれほど大っぴらには売っていない。デザインが一大産業の家元がこの有様では他国に取り締まれと言えるのか疑問に思う。またこのような闇経済は税金を徴収できないし、製造も海外なので、放置すれば表産業の反淘汰に繋がって経済は沈静化してしまうし、それで生計を立てられるから闇人口も増えて治安は悪化する。
最後の二日間はバチカンを観光した。サンピエトロ大聖堂の豪華さには圧倒されるばかりだ。台湾では少し前、仏教の一宗派が台湾中部にすこぶる豪華な中台禅寺を建てたので、そのような資金があるなら貧しい人のために使うべきと物議を醸したが、バチカンのサンピエトロ大聖堂を見れば、台湾のものは「あんな程度なら」と思ってしまうほどなのである。日本にもあのような豪勢なお寺や神社はないが、これは庶民にとってみればむしろ幸いと思うべきことであろう。バチカン美術館にも入った。美術と歴史に造詣が少ないことは断っておくが、直感的に故宮と比べると、実に面白い。絵に限って言えば水墨画はモノクロで対象が単純な景色に限られるのに対し、西洋画は彩色である上、対象も景色から人物と広く、表現も自由で躍動感あふれているのである。
このような刺激に満ちた中で7日間を過ごした。断っておきたいことがある。台湾留学生が日本に行くとトイレットペーパーが台湾ほど柔らかくないことに気づく。それで、「日本のトイレ紙は質が悪く、故に日本は貧しい」となる。しかしそれは日本の場合は水の中で分解されるようにしているからであり、自身の快適さよりも衛生や環境のことを優先しているのである。台湾はそこまで思考が及んでいないので気づくわけがない。私の見たローマもあるいはこのような盲点があるかもしれないが、それはお許しいただきたい。
トレヴィの泉に後ろ向きにコインを投げるとローマを再訪できるそうだ。どうせコインはそこいらの浮浪者に集められるのだから投げなかったが、再訪は是非実現したいものだ。
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葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang)
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。研究や国際学会発表は自分に納得しているが、正論文の著作は怠っており、気にはしてはいないが昇進が遅れている。
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2007.02.05
ハーシーという名前を聞くと、日本では米国のチョコレートや製菓会社と思う人しかいないかもしれない。その会社の誕生地であるハーシーの町はアメリカ人にとって、本当に甘い町であるが、リラックスできるリゾート地でもある。大人にとっては、ゴルフや音楽を楽しむ場所であり、子供や若い人にとっては、チョコレート・ワールドやハーシー・パークで一日中過ごせる。夏になれば、学生の修学旅行の目的地にもなる。しかしながら、実際に住んでみると、静かで人に優しい町であった。ハーシー・パークの100周年を迎えて、今年はイベントが満載だ。ハーシーから車で10分ほどのところにハリスバーグ国際空港があるが、シカゴ経由で日本に行けば、ニューヨークのJFK空港から成田空港へ飛ぶ直行便より料金が安いので驚いた。
ハーシーはペンシルベニア州の中南部にある人口2万人未満の小さな町である。町名の由来は博愛家のミルトン・ハーシーの名字。ハーシー氏は19世紀の中ごろ農家の息子として生まれ、貧困生活を送り、兄弟の中でただ一人生き残った。小学四年の学歴しか持っていないハーシー氏は、四年間お菓子屋の徒弟として働いた後、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨーク市で三回創業したが、全て失敗。19世紀の後半になって、四回めの挑戦として、ランカスターでキャラメルの創業に成功した後、彼はチョコレートの製造を習った。その頃チョコレートはスイスの贅沢品であったが、アメリカの大衆にチョコレートを食べさせたいと思った彼はキャラメルの会社を売り、牛乳が豊かな地元に戻って従来のブラックチョコと組み合わせ、ミルクチョコレートを創ったのだった。
チョコレート事業の成功だけでなく、従業員の生活環境を向上させるため、ハーシー氏は工場の周辺に新しい施設を作り、木や芝生を植え、整備した街路、煉瓦作りの居心地の良い住宅を作った。今のハーシー・パークには、水泳用プールや劇場、小学校から高校までの公共学校もあるが、全てハーシー氏や会社や財団が寄贈したものである。「一人の幸せは皆の幸せの一部である」というのが彼の哲学だった。1963年のある日、ペンシルベニア州立大学に電話があった。ハーシー基金のある役員から、ハーシーで大学の医学部と病院を作りたいということだった。それがハーシー医学センターのはじまりだ。それから2千人以上の医学生が卒業したが、今現在、8千人以上の医者、看護婦、研究者らがここで働いている。私もその一人になった。ハーシーの町自体が「アメリカの精神」と呼ばれる「share(分かち合うこと)とgiving(与えること)」の一つの例といえるかもしれない。それは、「日本の精神」の一つ「和」に近いかもしれない。
私が初めて「アメリカの精神」に出会ったのは、8年前に私がアメリカに来て切手を買った時。その切手には「Share & Giving - The American spirits」と書かれていた。娘が小学校の2年生の時に起きた小さな事件を忘れられない。ある日、先生が、クラスの全員に、「明日、皆とShareする何かを持ってきてください」とおっしゃった。次の日、学校から帰ってきた娘は泣きながら次のように話してくれた。「友達は皆、自分で作ったものをShareしていたの」「友達は何を作ってきたの?」と私。「Build-A-Bear!」と娘は答えた。私にとっては、それまで聞いたことのないことだった。「じゃ、それを作ってみよう」その週末、娘は生まれて初めての「Build-A-Bear」を作り、次のShare Dayに持っていった。子どもたちは、Build-A-Bear Workshop(注)で、新しいふわふわの友達を作ることができる。実際は、さまざまな素材や色のぬいぐるみや洋服やグッズを選んで組み合わせるだけだが、7-8歳の子どもたちにとっては「手作り」ということになる。「share」という言葉は、子どもたちが友達と一緒に遊ぶものを持っていくということだけでなく、それが「手作り」のものであるということを指している。時間をかけて自分の手で作った大切なものを、友達と分かち合う。子どもの時から、成長するために必要な知識と同時に「心」も学んでいるのだ。
今日、「和」の国日本の学校でいじめが大きな社会問題になっているのが信じられない。
(注)約36種類ある動物のキャラクターの中からお気に入りを選んで、自分だけのぬいぐるみが作れる体験型ストア、それが「ビルド・ア・ベア ワークショップ」です。1997年米国セントルイスにオープン以来、子供たちはもちろん大人たちにも人気を呼び、全米230店舗、世界14カ国で40店舗以上に成長しています。2007年には創業10周年を迎えます。
http://www.buildabear.jp/
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張 紹敏(ちょう・しょうみん Zhang Shaomin)
中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。
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