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エッセイ054:シルヴァーナ・デマイオ「心の余裕をもとめて」

前回、1941年大阪生まれの安藤忠雄が設計した司馬遼太郎記念館について書いた。安藤は子供向けの建物も設計している。例としては「兵庫県立こどもの館」(1990)、上野にある「国際子ども図書館」(2002)、伊東市の「野間自由幼稚園」(2004)、福島県いわき市の「絵本美術館」(2005)などがあげられる。「社会の中で、都市、建築の造られ方が子どもを自然に育てるところがあると思います。その点で私が大切に思っているのは、手を加えすぎず、忘れている場所を作りだすことです。忘れた、というと怒られそうですが、設計し尽くさず、ほったらかすところ。学校の教育でいうと、放課後の時間のような感覚ですよね。『自分で、自由にどうぞ』でいい。この時間があって、初めて学校の意味が出てくる。建築も同じで、全てを予め準備し尽くしてしまっては、子どもが自分で探していくところがなくなってしまう。」以上は村上龍の『人生における成功者の定義と条件』(2004年、NHK出版、p. 44)に掲載された安藤へのインタビューからの引用である。更にまた「子どもが自由に探していけるところがなかったらどうするんですか。我々大人にとっても同じことが言えますよね。自分の生活の中で、ほったらかしにしてあるところを探して、そこに自分なりの工夫を凝らしていくから、それぞれの個性が現れてくる。探して自分で汲み上げていくプロセスが楽しいのです。」(前掲、p. 45)とも述べている。

 

イタリア人のエッセイスト、演劇・映画評論家のゴッフレード・フォフィ(Goffredo Fofi)はイタリアの中部にあるグッビオ市で1937年に生まれ、有名な雑誌『クアデルニ・ピアチェンティーニ(Quaderni piacentini)』等にも書いてきた。2006年11月のイタリア経済新聞『イル・ソレ・ヴェンティクアットロ・オレ(Il sole 24 ore)』の週刊誌の社説に次のように書いている「必要でもない映像・言葉・音響があり過ぎ、我々の責任能力を鈍らせる。我々の思考力は、日常的に届く情報を消化する余裕がない。(中略)掲示広告がどんどん大きくなり、下品になってきている。その掲示広告によって自治体、教区はお金をもうけるが、町並みの風景、教会、記念建造物などが見えなくなり、より美しい町もその美しさを失ってしまう。」この社説の題は「思考力のための京都」である。要は、地球温暖化防止のために京都議定書が調印されたように、「思考力のための京都議定書」が要求されるということである。言い換えれば、思考力、それから身体の「エコロジー」のため、「少ないこと、必要なこと、いいこと、思考されたこと」を出発点にし、再びスタートする必要があると、フォフィは述べている。

 

彼は、悪名高きナポリ郊外のスカンピア(Scampia)地区の若者のためのプロジェクトの支援者の一人になっている。不条理演劇家アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)の『丘の上のユビュ(Ubu sur la Butte)』 (1906)はイタリア語、正確に言うとナポリ方言で上演するために書き直され、マルコ・マルティネッリ(Marco Martinelli)監督のもとで、スカンピアの約100人の若者は『ウブ・ソット・ティーロ(Ubu sotto tiro)』を演じ、大好評を浴びている。

 

ゴッフレード・フォフィと安藤忠雄は同じ世代の人物である。彼らが主張し活動していることは、基本的に変らないのではないか。二人とも、若い世代に心の余裕をもつ重要性を理解してもらうように、それぞれ努力している。

 

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シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio)
ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。
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