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エッセイ060:高 煕卓 「赤い悪魔をめぐって」

まだ5月だが、時折の朝夕の冷たさを気にする母親のいうことには聞くふりもせず、いつも半袖の赤いシャツだけを引き出す、うちの5才の女の子の拘りがこの話のきっかけを作った。

 

毎朝、保育園に行く時間になると、彼女の「デ-ハンミングください」という声と、「それはまだ乾いてないよ。今日は別のものを着たら?」という母親の声が交錯する。だが、結局、彼女の粘りが効き、そのシャツはもう3枚に増えている。

 

そのシャツには真っ赤な生地に白い文字で“Be the Reds!”と書かれている。が、彼女はそれを「デ-ハンミング」と名づけている。

 

ご存知のように、そのシャツは、サッカーの2002年ワールドカップの際、韓国代表を応援する市民応援団「赤い悪魔」こと、「レッド・デビル」のユニフォームである。また、彼女のいう「デ-ハンミング」とは、その応援団が連呼していた韓国のこと「大韓民国」の韓国語音である(国号の正式名ではあるが、私は妙にその「大」の字が気になる)。

 

2002年当時は、サッカーファンはもちろん、ふだんサッカーに関心のなかった人々でもそのユニフォームを着て、また「デ-ハンミング」を連呼していた。が、その独特な祝祭のような雰囲気を彼女もどことなく覚えたのだろう。

 

だが、今日の話は、サッカー応援をめぐる社会的現象そのものではなく、国際的にも注目を集めた、「赤い悪魔」を中心とした一般市民による競技後の自発的な後始末(掃除)についてである。

 

これまで熱狂的なファンによる欲望の恣意的な排出口としてクローズアップされがちだったサッカー応援だったが、その後の自発的な後始末といった公共的行為が伴われたことによって、2002年のサッカー応援はこれまでにない注目を浴びていたことは記憶に新しい。その行為は成熟した市民意識の表われだという、外国とくに過激な応援団の問題で悩んでいたヨーロッパの国々のメディアからの評価に韓国の人々は歓呼しつつ、自らを称えていた。私自身もその現象に韓国社会の一つの変化を読みとろうとしていた。

 

が、私自身知らなかった、これについての興味深い逸話を、ある大学生のブログから知ることができた。そこには日韓の若い人たちの間における、意図せざる交流の一つの有力なモデルが示唆されているように思う。

 

実は、韓国の一般市民による競技後の自発的な後始末のきっかけは、1998年フランス・ワールドカップの地域予選のために1997年東京で行われた試合まで遡っていた。その試合で韓国代表チームが、前半に1点を先制されながら、後半に2点を入れて逆転しただけに、韓国のメディアは「東京大捷」(東京での大きな歴史的勝利?!)とまで書きながら、その逆転勝利に酔いしれていた。だが、現地で直接応援をしていた韓国の「赤い悪魔」たちは、ただその結果に歓呼ばかりすることはできなかったようである。

 

彼らは、歓呼後のゴミ場と化した自らの応援席とは違って、敗北したにもかかわらず、競技の後、自ら黙々と後始末をして退く日本の若い人々の姿を目の前にして、大きな衝撃を受け、「ゲームでは勝ったが、市民意識では負けた」と恥じていた。5年後のソウルで示された、あの「市民意識」の表われは、日本の若い人たちの刺激によるものであったのである。

 

その背景からみても、また「他者」の視線が消えた2006年のドイツ・ワールドカップ当時のソウルでの狂乱ぶり(逆戻り)からも判るように、2002年韓国の人々が示していた「市民意識」とは、それほど普遍的なものとは言いがたく、まだ「韓国人」としてのプライドや恥といった意味の制限的な域を脱していないかもしれない。

 

とはいえ、韓国人にとっての「日本」といった方程式に興味深い変化が起こっていることには注意したい。ごく制限された人々の内輪で伝わる少数の日本人についての物語を別にして、これまで韓国の人々が「日本」から恥を感じ、それがきっかけになって自らを省察的に振り返られた場面はないといってもよいのではないだろうか。それだけに、1997年の東京からの学びと2002年のソウルでの実践は貴重な体験のように私には感じられたし、また日本の若い人々にも知ってほしいものである。

 

これまで「日本」とは、韓国人自らのアイデンティティを確認し、それに対する闘争心や恐怖心を扇ぐのに最も適した否定的な記号であったことは論を待たない。たとえ産業競争のため日本から技術を習うとしても、そこに尊敬心は期待できるものではなかった。

 

だが、明らかに時代は変わりつつある。

 

もちろん、表面的には依然として従来の方程式が大勢を占めているかの様相ではある。しかし私は、たとえ制限的なものだったとしても、恥じるべきことに恥じ、習うべきことを習った「赤い悪魔」たちの例にも、その事実を自らのブログに載せ、より健全なる市民意識に向けた省察を求めたある大学生の例にも、韓国社会における底流の変化を感じ、また信じる。

 

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高 煕卓(こう ひたく、Ko Hee-Tak)

 

2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
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