SGRAエッセイ

  • 2007.02.21

    エッセイ040:臧 俐 「中国語教室のみなさん」

    わたしが中国語教室で教え始めてもう12年になる。中国語を学ばれるのは、中国語を専攻する大学の学生さんたちではなく、また仕事関係で必要だからと勉強に来る人たちが中心でもない。定年退職後の第二の人生を歩んでいる方々、あるいは同年輩の女性の方々がほとんどである。最高齢の方は80歳代の後半である。このように高齢の方々ではあるが、みなさんそれぞれしっかりと目標を持って、懸命に中国語を勉強されている。   最初の頃、みなさんが何のために勉強されているのかさほど気にとめなかった。しかし、長い歳月のうちに、わたしはみなさんが実にいろいろ有意義な目標を持っていて、その実現に辛抱強く努力されているのに気づいた。例えば、15歳まで中国の上海に住んでいたので中国のことが懐かしく中国の人と中国語で文通したいと言う方もいれば、中国旅行はツアーではなく、各種手続きを自分で直接中国語を使って行い、一人で中国へ行きたいと言う方もいる。ツアーの旅行でも買物する時の交渉を中国語で直接にやりたいと願っている方もいる。今の日本には旅行会社が準備した周到なサービスがあると知りながらも、自らの中国語で中国人に接して交流したいというお気持ちにわたしは感激した。また、中には中国の古典や漢詩などを読むにしても、翻訳版ではなく原文で、しかも中国語の発音で朗読したいと打ち明けてくれる方もいる。世の中に翻訳版が氾濫するほど多い今日、原文を忠実に訳してくれた翻訳版が必ず見つかると思えるのに、敢えて原文で読みたいお気持ちとお志に対して尊敬する気持ちでいっぱいである。さらに、中華料理が好きで、自分の足で中国各地を回って、本場の中華料理を味わい、その作り方を勉強してきたいという努力家の方もいる。それぞれなんと立派な目標であろう。   このように、みなさん実に多彩で有意義な目標を持って中国語教室に通っている。そしてその実現のために忍耐強く努力されている。人生の充実した後半期または何十年も仕事をした後の定年退職後にあるみなさんは、本来ならばやっとゆっくり休める時期でもあるのに、敢えて自らに「勉強」を課してまだ人生のマラソンを走り続けることを選択しているのである。そして、12年間(わたしが教え始めて以降)も努力し続けてきたのである。これは決して誰もができる簡単なことではないと思う。   一方、今日の日本社会には、将来への目標を持たず、意欲がなく、終日、家にごろごろして閉じこもり、いい年をして親に養ってもらう若者が増えつつある。いわゆるニート問題である。わたしはかつて何人かの若い女性に、将来何になりたいか、何をしたいかと聞いたことがある。戻ってきた答えは金持ちの男に嫁いで食べさせてもらいたいということであった。また、ある放送局による渋谷街頭のインタビューを聞いて仰天したことがある。「毛澤東」を知っているかという質問に、「えっ、『けざわひがし』って誰?」と、派手に装っている若者が平気でげらげら笑いながら答えていた。さらに、電車の中では、優先席の前にお年寄りが立っていても席を譲らないで平気な若者もいれば、他人の迷惑も考えずに堂々と鏡と化粧品を出して、まるで自分の家でのように化粧している女の子もいる。片方では中国語教室のみなさんのように努力している高齢の方々がいることを思うと、わたしは叫びたくなる、「若者たちよ、もっと自分のおじいさんたちとおばあさんたちに学んで、何らかの目標を持ち努力することができないのか!」と。もちろん、日本のすべての若者がこうだと言っているわけではない。一生懸命に努力している若者は大勢いる。しかし、増えつつある一部のこのような種類の若者を見ると、日本のことが好きな一外国人にとっては、寂しく残念な気持ちになる。かつて映画「おしん」の主人公が与えてくれた辛抱強く努力する日本人の印象が、偏見であるかもしれないが、今の若者たちから少しずつ消えていくような気がする。   わたしは、中国語教室のみなさんの努力し続ける精神力と行動力にかつての日本人の精神がなお強く残っていることを感じる。中国語教室ではわたしが先生であるとはいうものの、本当はわたしは学生である。中国語教室のみなさんの、年齢に負けず自らの人生目標を持ち続け、尚且つ努力し続ける品位ある精神力と行動力が、わたしに多くの感動を与えてくれて、多くのことを考えさせてくれた。また、無言のうちにわたしに大きく影響を与えてくれて、わたしが日本の大学院で勉強や研究に努力し続ける心の支えとなってくれたのである。特に、辛い論文作成時を乗り越えることができたのも、みなさんのおかげである。このようなみなさんと12年間を共にすることができ、みなさんから多くのお教えをいただいたことを生涯の誇りに思っている。   --------------------- 臧 俐 (ぞう・り ☆ Zang Li) 博士(教育学)。専門分野は教師教育・教育政策。中国四川外国語学院(大学)を卒業。四川外国語学院日本語学部で11年間専任講師を経て来日。千葉大学で修士(教育学)を経て、2006年に東京学芸大学より博士号を取得。 ---------------------
  • 2007.02.20

    エッセイ039:範 建亭 「続・中国の大学教育の現場から」

    前回、私が勤めている大学の様子を述べたが、言い切れなかったことが多くあるので、今回も引き続き中国における大学教育の様子を紹介したい。   改革開放が実施されてからこの30年近くの間に、中国は市場経済を導入して高度成長を遂げてきた。その過程で、経済体制が激変し、最大の難関とされていた国有企業さえも市場原理に従って改革された。また、経済のみならず、社会のあらゆる側面が大きく変貌した。しかし、中国の教育体制には計画経済時代の面影が色濃く残されており、構造改革が立ち遅れているところが目立っている。本学のように、普段から上級管理部門の検査が多いのは大学だけではない。報道によると、昨年末に上海の中学校や高校さえも20数回の検査を受けたという。   中国の大学の運営体制や組織を見ると、計画経済体制や国有企業を思わせるところが少なくない。たとえば、大学には共産党の委員会、組織部(党の人事部)、共青団(共産主義青年団)委員会、婦人委員会などの政党関連の部門が設置されているほかに、外事処、監査処、武装部などの部門もある。一部の組織部門は有名無実化しているが、このような組織体制は改革以前とそれほど変わっていない。こうした組織が置かれている理由の一つは、政府の管理部門に対応しているからである。つまり、大学は政府に直接管理されているため、組織自体も似たようなものにしなければならないのだ。こうして、政府からの管理が行いやすくなり、検査も多くなる。   ここまで読むと、中国の教育体制が非常に遅れていると思われるのであろう。しかし、日本の大学に比べて、中国の教育システムには感心させるところも少なくない。最も異なる点の一つは、中国の大学では成果主義が徹底的に実施されていることだ。前回説明したとおり、本学では、学部教育のレベル評価を受けるため、われわれ教員に多くの事務的な仕事が求められた。私も以前行った2千人分のテスト資料を整理しなければならなかった。だが、それでも文句は言えない。なぜならば、その人数分に応じた給与をすでにもらったからである。   中国の大学では、教員の主な収入は業績によるもので、その業績は細かな得点制になっている。一つは教育に関するものであり、担当講座数、受講生の数等で評価され、もう一つは研究に関するもので、著書、論文の数によって評価される。業績の評価システムは複雑で不備なところも少なくないが、評価の結果はボーナスに反映されるから、結局各教員の総収入は年功序列とはあまり関係なく、個人の能力と努力に応じている。つまり、教えている学生の頭数が多ければ、または書いた論文の数が多ければ給料も多くなるということだ。   さらに、個人の業績はその職階にも関連している。基本給のほかに、助教授や教授の職階に応じて一定のボーナスが支給されるが、助教授や教授になるには一定の研究成果が必要となっており、年齢とは無関係である。また、助教授や教授は基本的に5年程度の契約制となっており、その5年間に業績が上がらなければクビにはならないものの、ボーナスが減給される。こうして、中国の大学では、私のような新米の先生が多く「稼げる」ことは可能であり、また私より若い先生がすでに教授へと昇進し、または多くの給料をもらっていることもよくある話である。   他方、教育の方法や学生の勉強意欲などについても、日中の格差は大きい。中国の大学生は勉強には非常に熱心で、また成績にこだわる傾向が強いので、真面目に教えないといけない。というのは、期末に学生が各教師の授業内容、方法と効果などに点数を付けるから、低い評価を受けると将来の昇進にも影響が出るからだ。私は日本で授業をしたことはなかったが、十数年の留学経験からいうと、中国の大学の先生は日本に比べてプレッシャーがより強いと思う。   そして、大学の風景についてもやはり日中両国が大きく異なる。中国の大学生は全員キャンパス内あるいは大学周辺の学生寮に住んでいるため、食堂や浴室のような生活施設が学内に多く設置されている。また、学生は殆どアルバイトをしていないので、日本に比べて学校内はいつも賑やかで活気が感じられる。本学のキャンパスは小さいので、夏になると、髪の毛が濡れている女子大生が洗面入浴道具を持って、スリッパで歩いている姿をよく見かける。   キャンパスの大半は学生に「占領」されているため、教員のほとんどは個人用の研究室がない状態である。若い先生だけではなく、偉い教授さえも個室がない。あるのは、各「係」(グループ)ごとに分けられた共用研究室のみ。研究は自宅ですればいいけれども、学生への指導はとても不便になる。この点についていえば、中国の大学には日本のようなゼミ制度がなく、学生に対する指導もそれほど多くない。ゼミがないことはとても残念である。日本での大学生活を振り返ってみると、やはりゼミの時間が一番多く学ぶ機会にあふれていたと思うのは私だけではないだろう。   ---------------------- 範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 ----------------------
  • 2007.02.14

    エッセイ038:シルヴァーナ・デマイオ 「建築家から作家へ。それから文化的放浪主義者の皆さんへ」

    「むかしも今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。 人間は、―くり返すようだが―自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。 その態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。 ―人間こそ、いちばんえらい存在だ。 という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代と言っていい。」   さて、ちょっと長い引用となってしまったが、この文書はだれが書いたかお分かりだろうか。   昨年の真夏のことである。ジャパン・レール・パスを買い、日本の空気を吸いに行った。ジャパン・レール・パスを持って行ったからこそ、日帰りで新幹線を使って大阪や岩手県まで行ってもお金がかからなかった。だからこそ、大阪まで足をのばして司馬遼太郎記念館を訪問することができた。 イタリアから日本への出発の数ヶ月前に報告を頼まれて、ナポリ中央大学建築学部の図書室に通ったが、安藤忠雄による設計で2001年にオープンされたその建物に圧倒された。それで、日本に行ったら安藤が最近設計した建築物をたくさん見てみたいと思っていたのだ。   1996年、6万冊の書籍を残し、司馬遼太郎が死去した。言うまでもないことだが、近代日本についても多数の書籍を書いた司馬遼太郎は、神保町の古本屋によく足を運んだという。「司馬遼太郎を見せるのではなく、感じる、考える場を目指したい」ということが、司馬遼太郎記念館のコンセプトだったと文芸春秋の2006年2月臨時増刊号『司馬遼太郎ふたたび 日本人を考える旅へ』に書いてある。建物はあくまでもその通りであった。   若いときに世界を放浪した安藤の建築は、自然との調和を求めているということで世界中に知られている。しかし、司馬遼太郎記念館は違う。自然との調和を遥かに超えている。安藤が設計した司馬遼太郎記念館は、自然を尊敬しつつ「文化」の形作りに成功した。11メートル、三層吹き抜けにできた大書架は訪問者を脅迫しない、威圧しない。逆に、その「文化」を吸収させたくなる気持ちに目覚めさせる。   ネーティヴ・スピカーではない私は、英語で言うvisitorに相当する言葉に戸惑った。どう考えても司馬遼太郎記念館へのvisitorは「見学者」ではない。司馬遼太郎記念館の入り口から入り、記念館そのものにたどり着くまでの順路は、司馬遼太郎の自宅の前を通る。窓から司馬の書斎がよく見え、ご自宅に「受け入れてくださる」と言う強い印象を受ける。したがって、「訪問者」という言葉の方が適合していると確信した。   毎日のように司馬が使っていた書斎にある机の前に椅子がある。その椅子の背に、ブランケットがかけてあり、そのブランケットは普段はトランクを留めるために使うベルトで留めてある。まるで、今、そこに、司馬が現れそうな雰囲気であった。   司馬遼太郎記念館の入り口のところに、「放浪主義者から、放浪主義者へ。それから、世界の文化的放浪主義者の皆さんへ」と書いてもいいのではないか。   カフェ・コーナーで味わった真夏のホット柚ジュース、それもまた一生忘れられない。   ちなみに、文頭にあった引用は、司馬の『二十一世紀に生きる君たちへ』(司馬遼太郎記念館、2006、pp. 31-32)からである。   最後の最後になり大変恐縮ですが、早稲田大学の土屋淳二教授に、この場をお借りして感謝申し上げます。   司馬遼太郎記念館については、下記公式サイトをご覧ください。 http://www.shibazaidan.or.jp/index.html   ---------------------- シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio) ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------
  • 2007.02.07

    エッセイ037:葉 文昌 「ローマは一日にしてならず」

    学会発表でローマに行った。台北からは直行便がなく、香港―イギリス経由か、バンコク経由しかなかった。今回は台北から東京までのチケットを台湾で買い、東京からローマまでの直行便チケットを日本で買った。その結果総価格は東京経由の方が5%ほど安く、時間も往復合わせて14時間節約できた。このグローバル競争の時代に台湾の旅行会社は生き残ることができるか心配である。   東京から13時間、飛行機はローマフェミチオ空港に着陸した。空港からレオナルドエクスプレスに乗って30分でローマ市のテルミニ駅についた。駅からでるとそこではタクシーの運転手が客引きをしていた。馴染みのある光景だ。そう、台湾の駅もこうだった。こういうのはぼったくられる危険性があるので、ながしのタクシーを呼んでホテルまで乗せてもらった。窓から見る町並みには感動した。ローマを見てしまうと台湾の誇りである総統府などの石造建築物がくすんで見えてしまう。しかも道路はすべて石畳だ。「ローマは一日にしてならず」とはこういうことか、と納得した。   市内の移動には地下鉄を利用した。自動券売機は1)値段を押す、2)コイン投入、3)つり銭が出てくる、4)チケットが出てくる、の4段階から構成される(1と2の順番は日本とは逆で、アメリカと同じである)。この1ステップ1ステップの無駄時間がとても長い。台湾の自動券売機の遅さには辟易していたが、イタリアは意外にも台湾を上回っていたようだ。また夕方のラッシュアワーに利用したのであるが、混雑の具合は東京とさほど変らなかった。日本の新聞で、通勤電車のゆとりのなさが度々議論されていたので、ヨーロッパの電車はさぞかしや、席でエスプレッソを啜りながらのゆとり通勤かと思っていたのだが、のぞいてみたらさほど変らなかった。サラリーマン庶民は世界中どこに行っても大変なようである。ローマの地下鉄やバスはスリが多発しており、特にスーツ姿の人には水面下でスリがゾンビの如く群がってくるようなので、乗車時は常に五感を駆使して臨んだ。今回の学会でも研究者の中に餌食に遭った人が出た。スーツのポケットに財布を入れていて、「取られている!」と気づいた時には、時すでに遅し。見回しても誰が手を入れたか全くわからない状態だったと言う。   学会はローマ到着の翌々日から始まった。開始15分前には会場に着いたのであるが、登録は30分位列に並んでやっとできた。この状態なので、学会は50分遅れで開始される始末だった。学会慣れしてない中国での惨状は聞いていたが、そのようなことがこの一日にしてならずのローマで起こるとは意外であった。その日の夜には晩餐会があった。サンピエトロ大聖堂とサンタンジェロ城が見渡せる高級ホテルのレストランが会場として利用された。心はLOHASに切り替える必要がありそうだ。夜7時半開始のはずが何故か会場には入れず、50名以上の参加者がホテルの外で寒い中、訳も知らされずに待たされ、30分程経ってやっと中に入れた。しかし安堵するもつかの間、レストランは屋上にあり、訳もなく遅いエレベータの前に列をなして待たされる羽目となった。10分ほど待ったか、やっと自分の番が来て乗り込めたものの、エレベータは私たちを乗せたまま6階でフリーズしてしまったのである。中はパニックとまでは行かないものの子供連れのお母さんもいて大慌てだった。幸い数分後には再起動して1階に下がって開いたが、怖くて誰も乗らない。それで老若男女一行は続々と階段を駆け上ってヨーロッパの天井の高いビルの6階に辿りついたのである。これはあまりの滑稽さに笑ってしまった。   相当苦労して席に着いたので、これで美味さもひとしおだろうと思ったがとんでもない、料理がなかなか来ない。ひとつ出たとしても次までの時間が長いのである。後日欧州に長期滞在している日本人に「あの晩餐会は行ったか?」と聞いてみた。そうしたら「ヨーロッパの晩餐会はいつもあんな感じだから、最初から行くつもりなんてなかった」と。台湾はあまりにも時間にルーズなのでいかんと思っていたが、イタリアを見て少しは心が広くなった。それにしても、サービス自体がLOHASでいいのか?と言う気がした。   学会終了後、楽しみにしていたローマ観光をした。多くの観光地の道端には露天商がずらりと並んでいた。彼らは警察が来ると即座に畳んで隠れる。これも台湾でもよくみられる光景だ。これらの露天商の多くで偽ブランドが平然と売られている。台湾では、偽ブランドはこれほど大っぴらには売っていない。デザインが一大産業の家元がこの有様では他国に取り締まれと言えるのか疑問に思う。またこのような闇経済は税金を徴収できないし、製造も海外なので、放置すれば表産業の反淘汰に繋がって経済は沈静化してしまうし、それで生計を立てられるから闇人口も増えて治安は悪化する。   最後の二日間はバチカンを観光した。サンピエトロ大聖堂の豪華さには圧倒されるばかりだ。台湾では少し前、仏教の一宗派が台湾中部にすこぶる豪華な中台禅寺を建てたので、そのような資金があるなら貧しい人のために使うべきと物議を醸したが、バチカンのサンピエトロ大聖堂を見れば、台湾のものは「あんな程度なら」と思ってしまうほどなのである。日本にもあのような豪勢なお寺や神社はないが、これは庶民にとってみればむしろ幸いと思うべきことであろう。バチカン美術館にも入った。美術と歴史に造詣が少ないことは断っておくが、直感的に故宮と比べると、実に面白い。絵に限って言えば水墨画はモノクロで対象が単純な景色に限られるのに対し、西洋画は彩色である上、対象も景色から人物と広く、表現も自由で躍動感あふれているのである。   このような刺激に満ちた中で7日間を過ごした。断っておきたいことがある。台湾留学生が日本に行くとトイレットペーパーが台湾ほど柔らかくないことに気づく。それで、「日本のトイレ紙は質が悪く、故に日本は貧しい」となる。しかしそれは日本の場合は水の中で分解されるようにしているからであり、自身の快適さよりも衛生や環境のことを優先しているのである。台湾はそこまで思考が及んでいないので気づくわけがない。私の見たローマもあるいはこのような盲点があるかもしれないが、それはお許しいただきたい。   トレヴィの泉に後ろ向きにコインを投げるとローマを再訪できるそうだ。どうせコインはそこいらの浮浪者に集められるのだから投げなかったが、再訪は是非実現したいものだ。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。研究や国際学会発表は自分に納得しているが、正論文の著作は怠っており、気にはしてはいないが昇進が遅れている。 ---------------------------  
  • 2007.02.05

    エッセイ036:張 紹敏 「ハーシー、与えられた町」

    ハーシーという名前を聞くと、日本では米国のチョコレートや製菓会社と思う人しかいないかもしれない。その会社の誕生地であるハーシーの町はアメリカ人にとって、本当に甘い町であるが、リラックスできるリゾート地でもある。大人にとっては、ゴルフや音楽を楽しむ場所であり、子供や若い人にとっては、チョコレート・ワールドやハーシー・パークで一日中過ごせる。夏になれば、学生の修学旅行の目的地にもなる。しかしながら、実際に住んでみると、静かで人に優しい町であった。ハーシー・パークの100周年を迎えて、今年はイベントが満載だ。ハーシーから車で10分ほどのところにハリスバーグ国際空港があるが、シカゴ経由で日本に行けば、ニューヨークのJFK空港から成田空港へ飛ぶ直行便より料金が安いので驚いた。   ハーシーはペンシルベニア州の中南部にある人口2万人未満の小さな町である。町名の由来は博愛家のミルトン・ハーシーの名字。ハーシー氏は19世紀の中ごろ農家の息子として生まれ、貧困生活を送り、兄弟の中でただ一人生き残った。小学四年の学歴しか持っていないハーシー氏は、四年間お菓子屋の徒弟として働いた後、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨーク市で三回創業したが、全て失敗。19世紀の後半になって、四回めの挑戦として、ランカスターでキャラメルの創業に成功した後、彼はチョコレートの製造を習った。その頃チョコレートはスイスの贅沢品であったが、アメリカの大衆にチョコレートを食べさせたいと思った彼はキャラメルの会社を売り、牛乳が豊かな地元に戻って従来のブラックチョコと組み合わせ、ミルクチョコレートを創ったのだった。   チョコレート事業の成功だけでなく、従業員の生活環境を向上させるため、ハーシー氏は工場の周辺に新しい施設を作り、木や芝生を植え、整備した街路、煉瓦作りの居心地の良い住宅を作った。今のハーシー・パークには、水泳用プールや劇場、小学校から高校までの公共学校もあるが、全てハーシー氏や会社や財団が寄贈したものである。「一人の幸せは皆の幸せの一部である」というのが彼の哲学だった。1963年のある日、ペンシルベニア州立大学に電話があった。ハーシー基金のある役員から、ハーシーで大学の医学部と病院を作りたいということだった。それがハーシー医学センターのはじまりだ。それから2千人以上の医学生が卒業したが、今現在、8千人以上の医者、看護婦、研究者らがここで働いている。私もその一人になった。ハーシーの町自体が「アメリカの精神」と呼ばれる「share(分かち合うこと)とgiving(与えること)」の一つの例といえるかもしれない。それは、「日本の精神」の一つ「和」に近いかもしれない。   私が初めて「アメリカの精神」に出会ったのは、8年前に私がアメリカに来て切手を買った時。その切手には「Share & Giving - The American spirits」と書かれていた。娘が小学校の2年生の時に起きた小さな事件を忘れられない。ある日、先生が、クラスの全員に、「明日、皆とShareする何かを持ってきてください」とおっしゃった。次の日、学校から帰ってきた娘は泣きながら次のように話してくれた。「友達は皆、自分で作ったものをShareしていたの」「友達は何を作ってきたの?」と私。「Build-A-Bear!」と娘は答えた。私にとっては、それまで聞いたことのないことだった。「じゃ、それを作ってみよう」その週末、娘は生まれて初めての「Build-A-Bear」を作り、次のShare Dayに持っていった。子どもたちは、Build-A-Bear Workshop(注)で、新しいふわふわの友達を作ることができる。実際は、さまざまな素材や色のぬいぐるみや洋服やグッズを選んで組み合わせるだけだが、7-8歳の子どもたちにとっては「手作り」ということになる。「share」という言葉は、子どもたちが友達と一緒に遊ぶものを持っていくということだけでなく、それが「手作り」のものであるということを指している。時間をかけて自分の手で作った大切なものを、友達と分かち合う。子どもの時から、成長するために必要な知識と同時に「心」も学んでいるのだ。   今日、「和」の国日本の学校でいじめが大きな社会問題になっているのが信じられない。   (注)約36種類ある動物のキャラクターの中からお気に入りを選んで、自分だけのぬいぐるみが作れる体験型ストア、それが「ビルド・ア・ベア ワークショップ」です。1997年米国セントルイスにオープン以来、子供たちはもちろん大人たちにも人気を呼び、全米230店舗、世界14カ国で40店舗以上に成長しています。2007年には創業10周年を迎えます。 http://www.buildabear.jp/   ------------------------------------------------- 張 紹敏(ちょう・しょうみん Zhang Shaomin) 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。 -------------------------------------------------  
  • 2007.02.03

    エッセイ035:羅 仁淑 「北朝鮮核!韓・日・米の立場を大胆に推測する」

    2006年10月9日、北朝鮮が大胆にも核実験を行い、1980年代から懸念されてきた北朝鮮の核問題が顕在化した。世界中に激震が走った。   不思議なほど私の心は平穏だった。恐怖感はそれほど感じなかった。 徹底した反共教育で育ったはずなのに。 他の人々はどうだろう。 核実験の同日から一部のインターネット新聞やポータルサイトには以下のような祝賀、安保不感症、いい加減な予想を表すコメントで一杯であった。   ・北朝鮮の核は韓国のものとも言える。民族の自信がみなぎる出来事だ。7000万人民族が慶祝すべき出来事だ。韓民族であることが誇らしく感じる日だった。10月9日は「ハングルの日」だが、ハングル創作に匹敵するほど光栄であり、すぐにも祝日に指定しよう。 ・いまやわが民族も核を保有するようになった。核を盾に弱小国から強力な民族に成長しよう。北朝鮮を批判するより、韓半島の平和のために核が必要である当為性を国際社会に説明しなければならない。 ・北朝鮮が核開発に成功したので、米国が強硬策に出る余地は減った。周辺国への被害を考慮し、核を持つ国を先に攻撃することはないはずだ。   いつの間にか北朝鮮の核実験ニュースにもそれほど恐怖感を感じなくなっている自分自身にも驚いたが、一部とはいうものの、ネチズンのコメントには開いた口が塞がらなかった。朝鮮戦争以来、南北関係は半世紀にもわたる熾烈な対抗の歴史であった。南北首脳会談が実現(2000年)し、宥和政策へ転換して5年余りしか経っていない。反共・親米思想で固まった私の頭はまだまだ適応機能不全状態の混乱模様だ。   日本の政調会長と外務大臣が「核保有論議は必要」と発言した(10月15日、18日)。当然、国内外から激しい反論の洗礼を受けた。国内に限ってみるだけでも、与党内から発言の自制を求められたり、有力紙が社説で扱ったり、国会でも野党4党から当人の罷免が要求されたり、それに対する答弁書が閣議決定されたり、などなど。   その結果は? 当人は無傷で、聞いただけで身震いするほどの「核」という言葉に国民の耳だけが慣れた。もしかして隣国の核保有を機に国民の核への拒絶意識を和らげるための国ぐるみの脚本・演出・製作?   日本は唯一の被爆国としてNPT(核拡散防止条約)やCTBT(包括的核実験禁止条約)など国際条約の遵守と核軍縮決議を毎年国連総会に提案しており、「持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」を国是の1つとしている。そして北朝鮮の核問題の解決を目指す6カ国協議のメンバー国でもある。日本が核を持つことは想像を絶するほど難しい。だからこそ、隣国の核保有は脅威であると同時に核保有のための空前絶後のチャンでもあり得る。   一般教書演説(2002年1月)のなかで、北朝鮮を「悪の枢軸」であると高らかに批判したアメリカの立場は?6カ国協議の再開の見通しが強まり、核問題で何らかの合意が成立するとの期待が高まる最中、北朝鮮と「真剣な協定」を結ぶことに懐疑的な立場を固執し対北朝鮮強硬派で知られる国務次官が辞表を出した(2007年1月)。このことから米国の譲歩による合意の可能性を示唆する性急な見方も出ている。確かに苦しい立場に置かれているような感触だ。   やはり核は持ってしまえば強くなるのか!? 持つもの同士の均等関係が生まれるのか!? それでみんなそれに惹かれているのか!?   みんな捨てても均等関係は成立するだろうに。   ------------------------------ 羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------
  • 2007.02.02

    エッセイ034:今西淳子 「留学生数というものさし」

    少し前のことですが、気になった文章がありました。   完全な比較にはならないが、昭和2年(1927年)の我国の文部省在外研究員の留学先の比率は次のとおりであった。    イギリス 13.7%  60名    アメリカ 7.3%  32名    フランス 6.4%  28名    ドイツ  44.2%  193名    (総数 437名) ここでの留学者は、官公立学校の教官に限られているが、留学先としてはドイツ一国で総数のほぼ半数を占めている。当時の我国の学会の評価を示しているというべきであろう。 これに対して私費留学が大半を占める現在(1998年~2000年度)の海外への日本の留学生の留学先は次のようである。    (総数 78,000人)    アメリカ    46,900人  60.1%    中国      12,800人  16.4%    韓国       2,000人   7.3%    ドイツ      2,000人   2.6%    オーストラリア  1,800人   2.3%    フランス     1,300人   1.7% 僅か80年に満たない間にアメリカの割合は8倍になり、ドイツの割合は17分の1に激減している。(鹿島平和研究所「平成大不況を考える」2002年、p166-7)   以上は、文末に注としてつけられている部分ですが、本文で平泉渉会長は、「1920年代のドイツは、第一次大戦に敗北し、天文学的なインフレに苦しんだとはいえ、学術・文化の面では正に世界の中心であり続けた。(略)およそ学問のあらゆる分野でドイツの各大学は国際的な名声あふれる教授陣を持ち、そのキャンパスは全世界からの(略)留学生にわきかえっていた。第二次大戦後のドイツでは当時の盛況の片鱗も窺うことはできない。ナチスはドイツの偉大な文化と学術の伝統をすら、遂に断ち切ることに成功したのかもしれない」と語っています。   私が興味をひかれたのは、政治経済を語る論文で「国家の魅力」をはかる「ものさし」として、留学生数が使われていることでした。この文章を思いだしたのは、先日発表された統計で、日本で学ぶ留学生の数が減少したからです。日本学生支援機構のデータによると、2006年5月1日現在の日本の留学生数は対前年度3,885人減の117,927人でした。1983年から日本政府が進めてきた「留学生受入10万人計画」が、2003年に達成されて喜んだのもつかの間、留学生数は減少したのです。   私がさらに心配になったのは、アメリカで勉強している日本人留学生数も減少したことです。Open Doorが発表したデータによると、アメリカで勉強している留学生の出身国のトップ5は次のとおりです。(2006年)   1.インド 76,503人(前年比 -4.9%)   2.中国  62,582人(前年比 +0.1%)   3.韓国  58,847人(前年比 +10.3%)   4.日本  38,712人(前年比 -8.3%)   5.カナダ 28,202人(前年比 +0.2%)    (総数 564,766人)   2005年11月に留学生をテーマにしたSGRAフォーラムを行いましたが、基調講演で、一橋大学の横田雅弘教授は、「2年ぐらい前にもらった、オーストラリアが行った全世界の留学生数の予測によれば、2000年で190万人だったものが、2025年には700万人になるという数字でした。つい最近ドイツが最新の調査として発表したところによると、2004年に270万人になっているということなので、この計算でいくと20年後には実に700万人近くになるということになりましょう」と紹介されていますが、現在、全世界の留学生の数は劇的に増えています。その中で、最大の送り出し先であるアメリカへ行く日本人の留学生も、日本で受け入れている留学生も減っているのは、何かの警鐘なのではないでしょうか。   昨年6月に中国教育部が発表した中国の外国人留学生のデータが、日本の統計と比較して「アジアの友」(2006年7月号)に掲載されています。ここで紹介されている人民日報の記事によれば、2005年の中国における外国人留学生の数は、14.1万人あまりで、前年度に比べ27.28%増ということです。            中国の留学生 日本の留学生  アジア    106,840(75.7%)  114,300(93.8%)  欧州      16,463(11.7%) 3,106(2.5%)  北中南米    13,221(9.4%)  2,949(2.4%)  アフリカ    2,757(2.0%)  957(0.8%)  オセアニア   1,806(1.3%)    500(0.4%)  合計     141,087(100.0%)  121,812(100.0%)   日本と違って、中国はアジアの国だけでなく、欧米をはじめ全世界からの留学生をかなりの割合で惹きつけていることがこの比較統計に表れています。以前にドイツ人の若者に、「キャリアアップのために、アジアの言葉を習いたいのだけど、中国語と日本語とどちらがいいだろう」と相談を持ちかけられたことを思い出しました。勿論、「日本政府奨学金もありますよ!」と言いましたが、そんな簡単に合格できるものでもありませんし、仕事をしてためた貯金を使ってキャリアアップのために1年間だけ留学して語学力をつけようという彼にとって、中国の留学の間口の方がはるかに広いということを説明せざるをえませんでした。ノルウェイの大学院から国際関係学で修 士号を得たコスタリカ人の若者は、日本の大学院の博士課程で憲法九条を学ぶために留学したいと思いましたが、日本語から始めて博士号を取得するには5年以上かかることに愕然としました。英語で研究できないか探してみましたが、結局、受け皿が見つかりませんでした。そういえば、一昔前、英語で日本経済を学びたければ、日本に留学せずにスタンフォードに行きなさいといわれていたという話も聞きました。日本に関心があるのに日本には留学できないのです。このようなことを日本の大学の方に話したら「そりゃ、日本語ができなければ日本研究はできませんよ」と言われますね。   アメリカ留学が減っている日本人でさえ、中国留学は増えているようです。2003年に中国で勉強していた日本人留学生は12,765人でしたが、2006年には18,874人で、3年間に約50%の増加となります。   現在のおおよその国別留学生数は次の通りです。 アメリカ    57万人 イギリス    28万人 ドイツ     18万人 フランス    18万人 オーストラリア 14万人 中国      14万人 日本      12万人 その他、シンガポールは、10年後に15万人、15年後に20万人という計画を発表しています。マレーシアは4万人計画、韓国は5万人計画を発表していますし、ニュージーランドは5年間で高等教育の予算を4倍にするという発表をしているということです。   今から80年後に「各大学はおよそ学問のあらゆる分野で国際的な名声あふれる教授陣を持ち、そのキャンパスは全世界からの留学生にわきかえ」っている国はあるのでしょうか。日本政府や大学は、そして私たちは、留学生数の減少を入国管理局の責任に転嫁せずに、全世界からの留学生をひきつけることのできる日本の魅力は何なのか、どうすればその魅力を世界の人々と分かち合えるのか、真剣に考えなければいけない崖っぷちに立たされているような気がしてなりません。   ○リンク紹介 日本の留学生数:http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/data05.html アメリカの留学生数:http://opendoors.iienetwork.org/?p=89191 中国の留学生数:http://www.abk.or.jp/asia/pdf/20060713b.pdf   ------------------------------ 今西淳子(いまにし・じゅんこ) 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より子供のキャンプのグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。 ------------------------------
  • 2007.01.25

    エッセイ033:マックス・マキト 「比中関係を考えさせる僕のミニ東アジアサミット」

    12月7日にマニラへ一時帰国した。間もなくセブ島で東アジアサミットが開催される予定だったが、台風上陸を理由に、フィリピン政府は中止してしまった。日本では大騒ぎだったようで、「本当の理由は何ですか?」と今西代表からメールがきた。それで、我家の朝食時に大議論になった。「やはり、政府がだめだ」という母に対して「まあまあまあ」という父。僕にとっても中止の理由は理解しがたかったので、多くの人々と同様、非常にガッカリだった。   後日、政府に近い経済学者と話したら、本当に台風に対する恐怖だったらしい。数週間前にマニラとその周辺は強い台風に直撃されて、想定外の大変な被害を受けた。マニラだけで大規模な停電が一週間も続いた。SGRA研究チームの顧問である平川均先生と、マニラ郊外にあるトヨタ経済特区を訪問したが、その台風で駐車場にあった百台以上の新車がやられたと聞いた。あの台風のトラウマがあの中止に繋がったと理解しても良いだろう。   僕はサミットの中止が非常に残念で、自分なりに何かできればと思っていたところ、ちょうどそのチャンスが来た。   2005年の香港・広州訪問がきっかけとなり、広州の政府系研究所(GASS)から研究者二人をフィリピンに招くことになった。僕は、共同研究の仲間であるフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と提携させるように努力した。GASSの事情によって何回も訪問の日程が変わった。結局、UA&Pがもうクリマス・正月休みに入った時期に彼らはやってきた。ころころ日程が変わっただけでも、対応が大変だったが、サミット中止を挽回すべく、せめてフィリピン訪問で良い印象が残るように努力した。UA&Pのシニア・エコノミストを運よく捕まえて朝食会議をし、GASSとUA&Pとの交流(研究や英語・中国語学生交換)は再確認された。UA&P校内の見学もできて、中国では見たことがないクリスマス飾りなどに大変興味津々なので僕も嬉しかった。   残りの滞在期間で、どうしてもフィリピンらしいところを見学したいと言われて、家族をあげて協力し、要望通りのツアーを組むことができた。世界一小さい火山までボートで行って乗馬もしたようだ。この時は、父と、たまたま北京から一時帰国していた、中国語のできる従兄弟が案内役だった。さらに、温暖で綺麗な海と白い砂のビーチにココナッツという典型的な南国リゾートとして有名なBORACAY島に行きたいという。厳しい冬から逃げてだしている連中で今の時期はどこも一杯だが、弟とその友達が知り合いのネットワークを使って頑張って探した結果、ちょうど二人分の飛行機便や宿泊所を見つけることができた。GASSのお客さんは非常にハッピーで広州に帰った。   ささやかながらもフィリピン政府のサミット中止を補うことができたと思っていたところ、2度目のチャンスがやってきた。UA&P・SGRAの共同研究であるフィリピン経済特区の研究の最終報告を行うセミナーが、寒い北京で一月に開催されることになったと、助成機関の東アジア開発ネットワーク(EADN)の事務局から急に知らされたのだ。暖かいバンコクで開催されるはずだったが、政治的な事情で開催場所や時期が変更された。EADNは東アジア諸国の研究者が中心だが、その研究報告の時期がセブ島の東アジアサミットの新しい開催時期にも重なった。UA&Pの共同研究者は参加できないので代わりに僕が頼まれた。またサミット中止のようなことにならないように、東京で大学の授業は始まるけれど、この報告の仕事を引き受けることにした。短時間で北京報告会の参加準備をして、発表当日までかかって用意したパワーポイントを使って何とか上手く発表できた。   更に、その後、サミットの中止を補うことができるような3度目のチャンスがあった。今西代表の強い推奨で、北京の大学で教えているSGRA会員の孫建軍さんと朴貞姫さんと会うことになった。東京の渥美財団新年会とほぼ同時進行で、ラクーン会(渥美財団同窓会)新年会を北京で行った。孫さんがわざわざEADNセミナーの会場まできてくださり、翌日、朴さんと3人で一緒に時間を過ごした。二人とも、日本語に対する高需要に圧倒されて忙しいけれども、よく日本のことを考えている。朴さんはとても日本を懐かしがっているし、孫さんは北京大学で修士か博士のレベルで勉強したい日本人を探している。最後に、孫さんの話題のご自宅も訪問でき、記念写真を撮ってもらった。北京観光の準備をする余裕がなかった僕は、案内していただけることになって助かった気がした。   二人とも突然の訪問の僕を暖かく向かえてくれた。冬なのになぜか北京のSUMMER PALACEを訪問した。中国なのになぜかSTARBUCKSで休憩した。北京なのになぜか北京ダックの入っていない中華料理の夕食を食べた。振り返ってみれば、不思議なコースを僕が選んでしまったと後悔している。あのGASSのお客さんを見習って、ちゃんと前もって訪問都市の勉強をしておくべきだった。   以上のように、政府のサミット中止を自分なりに補う三つのチャンスを体験したが、このニヶ月間で、僕の人生における比中関係の要素が多くなったと感じる。その結果がどうでもあれ、僕の努力が報われたかのようにセブ島の東アジアサミットも無事に終わった。中国代表がフィリピン滞在をもう一日伸ばして交渉が行われ、フィリピンと中国の政府は、観光を含むあらゆる分野における協力について合意した。僕がマニラや北京で実感したように、中国とフィリピンの関係は一層深まっている。   北京のEADNセミナーでは、日本が高いレベルで体験した共有型成長を注目した世界銀行の「東アジアの奇跡」報告を取り上げた。この報告では「歴史的な事故(HISTORICAL ACCIDENT)」によってフィリピンと中国は共有型成長を果たせた対象国に含まれていない。この「歴史的な事故」によって中国とフィリピンは対象国と違う経済構造を持つようになった。中国では中央集権的計画経済の実験で世界銀行報告の対象期間において殆ど市場経済はなかった。フィリピンではスペインなどの植民地化の影響で「アジアで唯一のラテン系の国」と呼ばれるようになった。「ラテン系の国」とは、野心的な工業化を図ったが失敗して国際債務問題に巻き込まれ、成長が鈍くて貧富の格差が大きいということである。悲しいことだが、僕が共有型成長を習おうとしている日本も、最近違う方向に向かっているように見える。   それにも関わらず日本の特殊な発展経路に関して北京の学会で発表を終えた僕は、東京へ帰る便を、近代的な北京国際空港で待っていた。ワイド・スクリーンでボクシングの試合が放送されていた。僕はこんなことに普段興味がないが、試合はフィリピン人対ラテン・アメリカ人だったので思わず最後まで見ることになった。フィリピン人選手は相手を3回も倒して勝った。このことは、共有型成長がなかなか実現できないフィリピンが、ラテン系の歴史を克服して共有型成長の可能性を切り拓いていくことに、日本や中国がなんらかの形で関係することになる前兆だと信じたい。   -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------  
  • 2007.01.23

    エッセイ032:金 香海 「日中韓三国の旅」

    2006年11月2日から15日まで、私は国際シンポジュウムに参加するため、中日韓三国を回るハードなスケジュールに挑戦した。まずは延吉から瀋陽に出て空港付近で一晩泊まってから、翌日10時に瀋陽空港を飛び発って2時間後に仁川空港に到着した。そこでしばらく休んで大阪に入ったのは夜の10時であった。一日で三国を回れるのであるから、三国は本当に近いと実感した。   大阪産業大学アジア共同体研究センターが主催した会議では、「北東アジアの経済連携強化の道を探る」というテーマで、日本を始め、中国、韓国及びロシアから来た学者たちが熱い議論を交わし、「北東アジアにおける国際協力は可能である」という結論を出した。上記のテーマは文部科学省の平成17年度私立大学学術研究高度化推進事業の「オープンリサーチセンター整備事業」に選定されたもので、今後5年間行われる計画である。私は「中国の対北朝鮮援助開発の現状と課題」について報告した。   5日の朝には「第6回日韓アジア未来フォーラム:親日*反日*克日」に参加するため、久しぶりに新幹線に乗って横浜に向かった。懐かしさと快適さで胸一杯であった。会議の会場であった鹿島建設葉山研修センターに着くと、今西常務理事を始めとする会議の関係者達が熱く出迎えてくださり、昼食の後には歴史を踏まえた日韓関係について議論した。宴会の後には酒を飲みながら面白い話、歌を交えながら葉山の美しい夜をすごした。先輩の李鋼哲さんが場を取り仕切って、故郷の「三鞭酒」を振舞い、飲み会は最高潮に盛り上がった。私はいつもお酒に自信を持っていたが、ここ葉山にきてはじめで自分の酒量が未熟であることを知った。   葉山で楽しい夜をすごして6日の朝、恩師に会うため上京した。東京は本当に懐かしかった。それはそうだ。ここで8年間、博士号を取るために家族と一緒に奮闘した。振り返って見れば、ここが私に名譽、地位、豊かさ、及び力を与えてくれたのである。東京では靖国神社と神保町の内山書店の二箇所を回った。靖国神社に行ったのはもちろん参拝のためではなく、今私が関わっている「北東アジアにおける歴史共通認識」プロジェクトの一環としての現地調査だった。就遊館を見学しながら、私は、歴史認識において日中はこんなに大きなギャップがあることを改めて確認し、これを克服するのはどんなに難しいだろうかと感じた。留学生時代にはお金がなくて、よく神保町にいって古本を買っていたが、今回は違う。私の博士論文がやっと本になったので、中国の大文豪魯迅と深い関わりがあり、中国図書専門販売店である内山書店に頼んで販売してもらうためであった。やっと8年間の努力の結実が日本の書店の本棚に並ぶことになって本当に嬉しかった。   東京の旅は余りにも短く、昔のいろいろな思い出を味わう暇もなく、羽田空港を発って韓国の金浦空港に向かった。先輩の南基正さんの招請により、済州島で開催された韓国国民大学主催の「外交文書公開による日韓会談の再照明」のシンポジュウムに討論者として参加させてもらった。ここでもやはり歴史問題がテーマであったが、私はこの分野における専門家ではないので、この会議に参加できたのは南さんの手厚い配慮であった。会議が終わったのは夜9時、葉山と同じ「爆弾酒」の爆撃を浴びながら、豪華なリゾートホテルのバルコニーにおいて、岸辺の岩にぶつかる波の音を聞きながら、日中韓のことについて議論した。   朝鮮半島は北の長白山(韓国名は白頭山)から済州島まで三千里江山といわれ、寒帯から熱帯の気候に恵まれている。だが、故国のこんな綺麗な南国風景を初めて目にして、私はすっかり感心し、「旅愁」に胸が痛かった。済州島には女、石、風が多いと言われ、有名な蜜柑の産地でもある。昔から粛清された官吏達がここに追放され、思想の蓄積も厚く、今になってもソウルの植民地だと言われるほど本土への抵抗と疎外意識が強い。仁川空港から延吉に向かう飛行機の窓から北東アジアの海と大陸を見下ろしながら、私はどうやってこの地域において「共生空間」を作れるかということを、ずーと考えた。・・・もしかしたら歴史を乗り越えた上で、お酒と疎外地域のイニシアチブで作れるかも知れない。心の壁をなくし、尊重し合うことが共同体構築の土台になるだろう。   ------------------------------------------- 金香海 (きん・こうかい ☆ Jin Xianghai)   中国東北師範大学学部、大学院を卒業後、延辺大学政治学部専任講師に赴任、1995年来日。上智大学国際問題研究所の研究員を経て、1996年に中央大学大学院法学研究科に入学、2002年に政治学博士号を取得。現在は延辺大学人文社会学院政治学専攻助教授、同東北亜国際政治研究所所長。2005.9-06.8ソウル大学国際問題研究所客員研究員。専攻は国際政治学。北東アジア共同体―平和手段よる紛争の転換について研究中。
  • 2007.01.22

    エッセイ031:オリガ・ホメンコ 「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」

    先日、新しい日本映画を見た。戦後おばあちゃん一人で孫を育てた話だった。戦後の生活は大変で、食べるものもあまりなかったが、おばあちゃんはがんばって漬物とご飯で毎日お弁当を作ってくれた。ある日、それを見た学校の先生が、「おなかが痛いから、漬物がほしい」と言って、自分のお弁当と交換してくれた。男の子は海老が入っている豪華なお弁当を今までに食べたことがなかったので、すごく喜んだ。先生は本当におなかが痛いから、お弁当を交換してくれたと思っていた。この時、おばあちゃんは一番の優しさを与えていたのに、孫は気づかなかった。おばあちゃんの優しさや愛情は、時間がたってから分かる。大きくなるにつれて。   私も自分のおばあちゃんたちを思い出した。パパの方のマリアおばあちゃんは一緒に暮らしていたけど、昔話は読んでくれなかった。それはママの仕事だったから。でも、マリアおばあちゃんは私の遊び相手だった。一緒におばあちゃんの友達のところに行って、散歩したり遊んだりした。おかげで、小さい頃、私もちょっとおばあちゃんぽかった。彼女は日本人女性のように小柄で、155センチしかなかった。優しい目をしていて、生活にとても馴染んでいて、何でもできる人だった。   おじいさんはテイラーだったので、小柄な彼女にきれいなドレスやジャケットを作ってくれた。そこまで愛されている奥さんは、私の回りには他にいなかったと思う。だが戦争が始まった。おじいさんは軍隊の制服を作る仕事も始めたので戦争に行かなくても良かったのだが、亡国への「愛」をその形では表明できないと考えた。彼は入隊を決めた。戦争は1941年6月に始まったが、おじいさんは、7月にキエフの近くの小さい町の近辺の戦いで殺された。当然ながら、彼ははさみ以外のものを手にしたことは殆どなかったのだから、戦争が始まって一ヶ月間では、銃を撃つ訓練を受ける時間もなかったかもしれない。その時のおじいさんより年上になってしまった私だが、今でもおじいさんのことを考えると涙が出る。彼は無名兵士の墓に眠っている。   数ヶ月前、今までに見たことがなかった彼らの家族の写真を見つけた。その写真の日付がその時代を語る。1941年5月20日。戦争が始まるまで、たった一ヶ月しか残されていない。そしておばあちゃんには、幸せで良く笑う小柄な奥さんから、しっかり二人の子供を育てなければならない未亡人になるまで、二ヶ月しか残されていない。7歳のパパの視線は深くて寂しいものである。まさか、二ヵ月後に7歳のパパは家族で唯一の「男」になるとは思っていなかったでしょう。年を重ねてもパパの視線は変わらなかった。私の日本の先生が彼の写真を初めて見た時に「いろんなことを考えた人みたいですね」とおっしゃった。その通りです。生まれつきか、それとも時代や状況でそうするしかなかったか分からない。でも色々考える人でした。ちなみに私もそう。家族の特徴かもしれない(笑)。   もう一人の、ママの方のパーシャおばあちゃんは、田舎の小さな村に住んでいた。ズボンを一度もはいたことがない人で、背が高くて、茶色の目で、長い黒髪の美人だった。でもやっぱり戦争によって家族が破壊された。頑固だけど優しいおばあちゃん。町から遊びに来る私の姿を、おばあちゃんの友達が見て「あら、パーシャさん!あなたの孫はこんなに細くて、顔が真っ白で、病気みたいじゃないか。都会に住む子供たちは、外で遊ばないし、おいしいものを食べないから、皆病気に見えるんだ」と大きな声で叫んでいた。当時、子供だった私たちは、別にやせようと思ってやせていたわけではない。ただおっしゃるとおりで、田舎の子と比べたら外で遊ぶ時間が少なかったかもしれない。田舎の子は皆ぽっちゃりしていた。   パーシャおばあちゃんは私を友達の厳しい意見から守って、「この子は、普通の子供ですよ。他の子供と同じ。いじめないでください。大きくなったらきれいになるから、その時には言い返されるよ!」と反論してくれた。そして、一所懸命、しぼりたての牛乳を私に飲ませた。だがパッケージされた牛乳に慣れた都会っ子のおなかは、その牛乳を飲んで革命を起こした。変な音を出したり、痛かったり、反発していた。「パッケージの牛乳の方がいいよ」と言いたかったわけです。   パーシャおばあちゃんはシンプルなものが好きだった。その生き方は、今なら「simple and slow life」と呼ばれるでしょう。手の込んだ料理を試した時、「食材を無駄にして!材料を別々に食べても結構美味しいのに」と言った。ウクライナで起きた1933年の飢餓や戦争の苦しさを経験した人だから、食べ物の価値がよく分かっていた。1933年、ウクライナの全ての収穫をソ連の違うところに持っていかれて、何百万人のウクライナ人が飢えて死んでしまった時、おばあちゃんが住んでいた田舎でも、おかしくなって自分の子供を食べてしまった人もいた。当時のウクライナでは、それはごく普通の話だった。それが記憶から消えない。だから、食べ物の「存在」と「価値」がよく分かる。   パーシャおばあちゃんは珊瑚のネックレスをしていて、「生活がいくら大変でも、それに贅沢の一品があると違います。どんなに暗くても心が温かくなる。それは何でもいいの。たとえば、花、ネックレス、きれいなドレスなど。あなただけの心を喜ばすものでなければいけないけど・・・」と幼い私に言った。私は、それをずっと忘れない。そして、20年後に、知り合いの日本人の80歳のおばあちゃんから、全く同じ話を聞いた時にびっくりした。「おばあちゃんたちは、どこでも一緒なんだ」と、その瞬間に思った。長生きして、いろんなことを見て、人生の価値、意味、味が良く分かる。   私が小さい時には、「おばあちゃんは何て頑固で厳しいんだ」とよく思った。当時は、色々分からなかったので、おばあちゃんは気まぐれだと思ったこともある。だが、大人になって分かったのだが、おばあちゃんは戦争のために、23歳で子供二人を連れた未亡人になった。おじいさんは村長で、村のコルホーズ(ソ連の集団農場)の人たちを助けようとしたので、ドイツ軍が村に入ってきた時に逃げられなかった。それで牢屋に入れられて殺された。おばあちゃんは実家に子供二人を連れて戻った。おじいさんが助けようとしたコルホーズで働きながら子供を育てた。大家からの厳しい意見も我慢した。大変苦労して二人とも大学教育まで受けさせた。それは、その村では珍しかったかもしれない。おばあちゃんの頑固な性格は、厳しい生活条件の中で形成されたものだったと思う。もともと優しい人だった。パーシャおばあちゃんは、私が1998年5月に日本に留学に来たときに亡くなった。お葬式にも行けず悲しかった。   マリアおばあちゃんは、私が小学校一年生のときに亡くなった。今でも学校で泣きながら同級生にミントのアメを配っている自分の姿を覚えている。ウクライナでは人が亡くなったら、周りの人に食べ物を配る。食べながら亡くなった人を思い出すために。そして、私は、しばらくミントのアメを食べられなかった。食べると涙が出るから。おばあちゃんのことを思い出して。   どうしておばあちゃんたちのことを書いてみたかったかというと、気づかない優しさが一番の優しさであると思うからです。そして、当時、何も分からなかった私をここまで成長させてくれて、おばあちゃんたちにどれだけ感謝しているか、どれだけ好きだったか伝えたくて書きました。ありがとう、大好き、マリアおばあちゃんとパーシャおばあちゃん!   --------------------------------- オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ---------------------------------