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エッセイ058:ボルジギン・フスレ 「モンゴルパブ(その1)」

1998年4月、日本に来た翌日の朝、わたしは親戚に連れられて大学に行った。親戚の家から駅まで10分ほど歩くのだが、途中、ネオン・サインがまたたく建物の前にたくさんの人がならんでいるのを見て、親戚は足を止めて、「日本に来て、3種類のところに行ってはいけない」とわたしに言った。

 

「あれはパチンコです」と、親戚は、その建物を指しながら、詳しく説明してくれた。「日本ではどこにもパチンコ屋があります。お年寄りや若者、主婦、学生など、さまざまな人がパチンコに熱中して、病みつきになっています。一部の人は仕事もせず、毎朝、起きたらパチンコに行きます。みんな幸運を当てにする考えで行くのだが、実際ほとんど負けて、すっからかんになります。それでも、どこかからお金を手に入れて、すぐ続けてパチンコに行って賭けます。結局、家計を傾けたり、離婚したり、悲しい末路になってしまいます。あなたは、絶対、こんなところに行かないでね」。

 

「はい。パチンコには絶対行きません」とわたしは真剣に答えた。

 

「パチンコだけではなく、競馬や競輪など賭博と関係するところは一切行ってはいけない。故郷から来た人の中で、競馬に賭けて負けてしまい、あっちこっち借金して、結局、千万円も超える、背負いきれないほどのお金を借金して、返済もできなくなっている人もいます。彼は、現在、不法滞在で一生懸命働いていて、返済しようとしていますが、難しいですよ。」と、歩きながら、親戚は教えてくれた。

 

「第二に、スナックやパブにも行ってはいけない」と、親戚は続けて、第二の約束を要求した。「“スナック”って何ですか」とわたしは聞いた。中学生から日本語を独学で勉強し始めたわたしは、「パブ」という単語の意味はわかるのだが、「スナック」という言葉は習ったことはなかった。

 

「あれだよ」。ちょうど目の前に、ドアにも窓にも、中を見られないようにさまざまな顔料が塗られた、雰囲気が特別な、ある小さい建物があった。親戚の説明はとても簡単だったが、わたしはすぐ「スナック」はだいたい「パブ」と同じ物であると理解した。幼い頃から、毛沢東式の社会主義教育と厳しい家庭教育を受けたわたしには、「パブ」という物は、アメリカのような資本主義国家や中国国民党の社会のなかでの、人間をむしばみ堕落させる、汚い産物であるというイメージをもっていた。こんなブルジョアジー的な腐り果てたところには行くわけはないと思ったわたしは、「はい。スナックやパブには絶対行かない」と、迷わず約束した。

 

「第三に、風俗と関係するところには絶対、行ってはいけない」と、親戚に第三の約束をさせられた。スナックとパブに行かないと約束したわたしは、当然、風俗にも行くわけはない。

 

まもなく、池袋で、最初のアルバイトを見つけた。支配人は、中年のおしゃれな女性の方で、一日めは、わたしと一緒に働いてくれた。彼女は仕事が速く、態度もとても親切で、やさしかった。その後、彼女は何回か、わたしの仕事を手伝ってくれた。「日本の支配人はやり手で、優しいね」とわたしは思った。

 

約二週間後、午前中の仕事を終えて、昼休みになって、休憩室に入ったところ、事務の方がやってきて、「さっき、支配人がフスレさんを探していたよ。フスレさん、はやく、“チューリップ”(仮名)に行って。支配人はそこで待っているよ」とわたしに言った。“チューリップ”は、会社から少し離れたところにあったパブの名前だ。

 

会社に来る途中、いつもそのパブの前を通っていた。でも、なぜ、あそこでわたしと会うのか? 日本に来たばかりだが、留学生の先輩たちはすでに、日本の女性のさまざまなことについて、教えてくれていた。「もしかして、支配人がわたしに…?」とわたしの心は千々に乱れ、どうしたらいいのかがわからなくなって、心配で落ち着かなかった。

 

「場所はわかるよね、早く行きなさい。吉永さんも一緒に行ってね」と、事務の方に催促された。吉永さんは職場の60代の先輩で、「彼女も一緒に行くなら、大丈夫かな」とわたしは少し安心したが、やはり「ヘン」と思った。慌てて、吉永さんと一緒に“チューリップ”に向かったわたしは、短い時間で、いろいろなことを真面目に考えた。「パブには絶対行かない」という約束があっただけではなく、問題は、「自分の上司である女性の支配人に呼ばれて、パブで会うことは、どんなことなのだ。万が一、…」とわたしは思いながら、仕事を辞めることまで覚悟をした。

 

不安のまま、吉永さんの後について、“チューリップ”に入ったわたしは、頭を下げて、まわりを見る勇気もなかった。支配人と挨拶して、椅子に座った。「何か食べたい」と支配人がメニューをわたしに渡した。メニューには、カタカタで書かれた料理名が多く、意味があまり分からなく、勝手にある安い値段の付いている料理名を指さして、「これにします」とわたしは言った。「これはサラダだよ。これだけでいいの?」と、支配人がそれを見て笑って、代わりに別の物を注文してくれた。料理を待っている間、「フスレさんはよく頑張っているね。まわりの評判もいいよ。頑張ってね」と支配人はわたしを誉めた後、モンゴルのさまざまなことについて聞いた。話しながら、わたしはまわりの様子を見た。部屋のなかは明るく、みんな食事をしているだけで、普通のレストランとあまり変わったところはなかった。「これってパブ?」わたしは不思議に思った。結局、無事に食事も終って、お酒も飲まずにすんだ。お金は支配人が払ったが、日本のパブは自分の想像とまったく異なっていた。

 

その日、自宅に帰って、夕食の後、親戚の家に行った。「ごめんなさい。今日、パブに入ってしまった」と、約束を破ったわたしは、親戚にあやまった。親戚がこの言葉を聞いて、びっくりして、「なに、あなた…」と彼女はたいへん怒った。しかし、昼のことについてのわたしの詳しい説明を聞いた後、彼女はたいそう笑った。この経験を通して、わたしは、日本では、「一部のパブは昼には普通のレストランとして営業していること」と「上司が部下におごるのは普通であること」がわかった。今、考えてみると、当時、支配人にそのような気はなかったのに、わたしが誤解して、好かれていると勝手に思い込んだことにすぎなかった。

 

(続く)

 

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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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