SGRAかわらばん

一年後、わたしは、別の会社でアルバイトをしていた。新しい会社で働いていたある日、同僚が急に「フスレ君、下北沢にモンゴルパブがあると聞いたんだけど、連れて行ってくれない?」と言いだした。

 

「下北沢にモンゴルパブがあると聞いたことはありません」とわたしは冷たく断った。「モンゴルパブ」という言葉を聞いたとたん、気にはなるが、日本でモンゴルパブがあるということは知らなかったし、仮に知っているとしても、わたしは行かないと思った。なぜかというと、昼間はレストランとして営業しているバプが存在しているとしても、パブは「人間をむしばみ堕落させる」という考えは変わらなかったからだ。

 

2000年の夏休み、わたしは故郷に帰って、古いモンゴルについての資料調査をおこなった。オルドスで調査した際、自分が働いていた芸術大学の、昔の教え子とあった。彼女はいろいろ案内してくれただけではなく、夕方に、彼女の友達を集めて、ご馳走してくれると言った。

 

「場所は、先生が決めてください」と彼女は言ったが、土地に不案内なわたしは「場所は任せます」と答えた。
「モンゴルパブはどうですか?」と彼女は聞いた。
「バブはダメ、普通のレストランがいい」とわたしは言いながら、「オルドスにまで、パブが作られ、しかもモンゴルパブなんて、内モンゴルはほんとうに変わった」と思った。

 

その日の夕方、あるレストランで、彼女は十数人を集めて、豪華な料理をご馳走してくれた。同じ世代の、彼女の友達のなか、地元の官僚になった人もいるし、大金持ちの商売人や医者になった人もいた。ほとんどは個人の車を持っている。

 

食事が終わって、9時ごろだったようだが、空はまだ暗くなっていなかった。彼女は、仲が最も良い女性の友人一人を残して、ほかの友達を帰らせた。そして、「時間はまだ大丈夫でしょう。もう一つの良い店があります。一緒に行きましょう」と言った。

 

真夏で、資料調査の目的もほぼ達成できたので、次のレストランに行ってもかまわないと思って、わたしは承諾した。

 

タクシーに乗って、次の店に到着した後、看板も見なかったわたしは、彼女たちと一緒に中に入った。この店の雰囲気は、少し独特であった。テーブルごとの上の小さな照明は明るいのだが、店全体としては、暗い感じがするし、男の若い歌手二人が欧米の流行歌を歌っていた。店には、冷房も付いていて、とても涼しく、また、大型のテレビが設置され、欧米の映像を流していた。店長は若くて美しいモンゴル人の女性で、彼女たちをよく知っているようだった。角のほうのテーブルを選んで三人で坐った。わたしはビールとつまみを注文したが、彼女たち二人は、わたしの名前の知らない飲み物を注文した。

 

話しながら、急に、よく知っているあるメロディが耳に入ってきた。二人の歌手は、わたしが大好きな、モンゴル国の有名なバンド“Hurd”の歌「戦士の心」を歌い始めた。歌は確かに上手い。感情を込めた歌だったので、とても感動的であった。聞き終えて、「この二人は何という名前ですか?プロの歌手ですか?」とわたしは尋ねた。彼女はその二人の名前を教えてくれた。わたしが「戦士の心」が好きだということを知った彼女は、店長に何か言って、歌手は再びこの歌を歌ってくれ、お客さん全員が拍手した。その後も、その二人はHurdの他の歌を歌いつづけた。

 

2時間ほど、気楽に話しながら、歌を聞いたわたしは、資料調査の辛さと夏の暑さを完全に忘れてしまった。店を出た際、「この店の名前は何ですか。チャンスがあったらまた来たい」とわたしは聞いた。
「デオニソス。モンゴルパブですよ」と彼女は微笑みながら言った。
「モンゴルパブ?!」と、わたしは驚いたが、このようなパブは好きだと思った。
「ここに来るお客さんはみんなモンゴル人ですよ」という彼女の友人の話を聞いて、さっき、店の中のお客さんは確かにみんなモンゴル語で話していたことを思い出した。

 

忘れられない夏の夜だった。

 

去年モンゴル国ウランバートルに行った際も、日本人の先生の紹介で、スフバートル広場の傍のパブに行った。そのパブも完全にレストランなので、雰囲気も良かったし、料理も美味しかった。ただし、値段がすこし高かっただけである。わたしは日本のパブとモンゴルのパブについて話したら、その先生は「モンゴルのパブは居酒屋だよ、ヨーロッパのパブは飲み屋で、日本のパブだけはちょっと特別だ」と言った。

 

夏がまた来た。2000年夏の、オルドスのモンゴルパブでの経験を、また、思い出した。

 

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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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