SGRAエッセイ

  • 2007.05.09

    エッセイ056:アブリズ・イミテ「ウルムチの冬は」

    ご存知かもしれませんが、中国の一番北西にシルクロードの主な舞台である新疆ウイグル自治区という広い地域があります。ここには面積が世界第二のタクラマカン砂漠、世界第二に標高が低い(海抜-154m)所と世界第二の高峰(K2峰:8766m)があります。   自冶区の区都ウルムチ市はユーラシア大陸の中心地で、全ての方向の海岸線から2400km以上離れていて、世界で最も海から遠い町と言われています。近年は人口が急増し、予想外に近代化されて、とても砂漠に続く地とは、思えないように変様しました。   冬の気温が氷点下の所で生活した体験がない方にはとても想像できないかも知れませんが、毎年12月から翌年の2月までウルムチの気温は氷点下20℃ぐらいで、最低氷点下28℃の記録もあります。近年は地球温暖化の影響もありまして、特に今年の冬は暖かくて、最低気温は氷点下18℃までしか下がらなかったし、そのような厳冬の日も多くはありませんでした。その代わりに旧年の11月から今年の3月まで、まるで日本の梅雨のようにずっと霧の日々が続き、青空を眺めることはまったくできませんでした。   ウルムチの冬は長く、10月中旬から翌年の4月中旬まで約6ヶ月間地域暖房熱が供給されます。この間大量の石炭を使うため、暖房設備のボイラーから煙塵や、二酸化硫黄などの汚染物質が排出されますが、霧が多いと空気中の汚染物質が分解も拡散もできなくなります。今年1月10日前後の数日間、連続で大気の汚染度が「重度」となり、国内だけでなく外国の新聞などにも載り、大きな話題となりました。つまり冬季のウルムチ市は、全国で最も大気が汚染された都市の一つということになっています。私が住んでいる高層住宅でも、朝窓を開けると変な臭いがするほどでした。少しでも雪が降れば空気中のほこりが少なくなり、空は洗われたように真っ青になりますが、今年の冬は雪もあまり降りませんでした。   80年代までは、市内の大部分が社宅で、会社、学校や政府機関などが個別暖房熱供給システムを備えていました。個別暖房の場合、熱効率が低い、エネルギーの使用量が多い、環境保全性が悪いなどの問題が存在するため、当時は、真っ白の雪が降ると次の日は真っ黒に変わりました。そのときウルムチに訪ねた外国人が「ここでは黒い雪が降るんですか」と聞いたと言う話もあります。冬になると空を飛んでいる鳥の色も黒くなってしまったのです。   90年代に入ってからウルムチ市政府は環境改善のために新しく「熱力会社」を設置し地域暖房熱供給システムを作り、稼動率が低い小型ボイラーの設置を禁止し、省エネルギー、環境保全性を目ざした「青空を取り戻す」計画を執行し、汚染物を大幅に削減するために努力しました。   1998年3月からウルムチ市の大気汚染に関する週間報告が発表されるようになり、市民が空気の汚染状況を知ることができるようになりました。その後の統計によると、冬季はTSP(総浮遊粒子量)、SOXとNOXなどの汚染物が中国の環境基準値を1-2倍超えていることが分かりました。   ウルムチ市の大気汚染の、季節による変化は非常に大きいです。毎年11月から翌年の5月までは大気が汚染されている時期で、特に12月から翌年2月までの3ヶ月間は大気汚染が最も酷くなります。6月から10月までの間は大気汚染が少なく、空気の質が非常に良い時期です。特に7から9月までは旅行に最適な期間で、外国人を含めて多くの観光客が訪ねきます。   近年、再び冬の大気汚染が酷くなっている原因としては:①熱力会社は経費を削減するために、硫黄分の高い、質の悪い石炭を使用している、②人口が急増しているため、開発業者が地理条件などを配慮しないで高層ビルを建てている、③郊外の工場などから出る煙と自動車の排気ガス等が考えられます。   ウルムチ市政府は問題を放置しているわけではありません。環境改善のために排ガスの基準を設けたり、暖房設備や工場には汚染物質排出の軽減を義務付けたり、汚染物を排気する大型工場などを郊外から撤退することと自動車の排気ガスを規制するなどの対策を採っています。   新疆ウイグル自冶区は石炭と天然ガス資源が非常に豊富です。天然ガスのパイブラインは上海まで届いていますが、その値段は上海市よりもウルムチ市のほうが高いので、暖房熱供給に使う石炭の代わりに天然ガスを使うことは近い内には不可能だと思います。   人間は安静時でも一日約10m3、重量で約12kgの空気を肺に取り込み、食物 (0.6kg、乾燥量)や水分(約2~3kg)と比べても多いので、大気汚染は市民にとても関心のある問題の一つとなり、大気汚染を減少させることが求められています。   近年、ウルムチ市政府は環境保護に大量の投資を行い、大気汚染を減少させるために多くの研究が行われています。私の研究室でも日本で身につけた知識を活かしてSOxとNOxなど汚染物の新しい測定法について研究を行っています。近いうちに、冬の厳冬の日でも青空を眺めることができるようにと心から願っています。そうなれば、ウルムチの近くに新しくできた「国際スキー場」にも観光客がいっぱい集められるようになり、冬でも夏と同じようにぎやかになると思います。   ---------------------- Abliz Yimit ☆ アブリズ・イミテ 2002年度渥美奨学生、工学博士、(現)新疆大学化学化工学院 教授。 1996年4月新疆ウイグル自冶区政府派遣で来日、明星大学理工学部客員研究員、1998年4月横浜国立大学大学院に入学し、高感度光導波路による化学センサに関する研究を行い、2003年3月工学博士号を取得。2003年4月~2004年3月、横浜国立大学環境情報研究院「博士研究員」。2004年5月新疆大学助教授、2006年11月から新疆大学教授。 ----------------------  
  • 2007.05.02

    エッセイ055:陳 姿菁 「台湾の清明節」

    台湾の重要な節句の一つ清明節は4月にあり、今年(2007)は木曜日にあたります。近年週休2日制(土日は休み)となったので、多くの企業は金曜日を休みにし(次の週の土曜を振替出勤にする)3連休となったのです。清明節は、掃墓節とも言われ、日本でいうお彼岸と同じで、皆でそろってお墓参りにいって先祖を祭ります。ただ台湾は春のお彼岸(清明節)しかなく、秋にはありません。以前、4月4日は子どもの日であり、4月5日は蒋介石総統が1975年に亡くなったことから、蒋介石の墓参りと祖先の墓参りを同時に行えるようにと政府は新暦の4月5日に清明節としたのです。学校では、数年前まで、子どもの日と清明節にあわせ、一週間ほどの「春假(春休み)」という長い休みがありました。しかし、近年、多くの学校は春休みという習慣をなくしたのです。   台湾のお墓参りは日本の習慣と異なります。昔、台湾は土葬の習慣がありました。台湾人は亡くなった人の墓地の「風水」の良し悪しによって、後代の子孫に影響を及ぼすと信じており、先祖の墓地を慎重に選ぶ習慣があります。理想な墓地、すなわち「風水」のよい墓地は、日当たりのいい、水分の多い場所だと言われています。しかも、日本の「××家」のように、家族は同じ墓地に入るのではなく、台湾のお墓は一個人が一つ持っていています。その上、よい「風水」の条件を満たすところは大体郊外にあるので、とくに自然のいいところや高台や海の見えるところに墓地が集まっていて、お墓参りは一日つぶしての大行事です。しかし、最近は土地が狭くなることから、土葬の代わりに火葬になりつつあり、納骨堂も一般的になってきています。   お墓参りに持っていく供え物は家々によって異なりますが、お菓子、果物、花などは共通しています。そのほか、お線香、蝋燭、「金紙」(台湾語。北京語で「紙銭」という)という焚き紙銭を焼いて祖先を供養するのです。   土葬の場合、先祖を供養する前に、まずお墓を掃除します。それは北京語のお墓参り「掃墓」の由来でもあります。一年一回ですので、お墓はかなり雑草が生えていたりします。それを機に家族が協力してお墓をきれいにします。暑い日に当たったら、汗ばむ重労働になります。しかし、最近、専門の人に頼む傾向が強くなり、本当の「掃墓」は形式になりつつあります。掃除を終えたら、「墓碑」の前の蝋燭に火をつけ、用意した食べ物を供え、お参りに行く人たちはお線香を持ち、祖先にお参りに来た旨を告げます。それから、焚き紙銭を焼きます。最後に、黄色の細長いやや薄めの「紙銭」と似た材質の紙をお墓の小さな盛り土の上に載せて小石で押さえます。これをす ることで子孫である自分たちがお墓参りに来たことを示すことができるそうです。   先祖一人一人へのお参りが終わったら、家に帰って食事をします。台湾の南部では「潤餅」(台湾語。北京語なら「春巻」に当たる)という揚げていない春巻きを食べる習慣があります。「潤餅」が生春巻きとも異なるのは、皮と中身にあります。「潤餅」の皮は蒸し焼きにしたもので、生春巻きほど湿っていません。中身はもやしやゆでたキャベツ、千切りした瓜、干した豆腐、豚肉、人参の千切りなど家庭によって多少違いますが、味付けはピーナッツパウダーと粉砂糖で台湾の北部も南部も同じです。今は、市場に行けば、年中売っている屋台が見つかります。   このように由緒のある一大行事の節句ですが、休みの少ない台湾だからなのか、お墓参りというより、近年、連休の「喜び」のほうが強いのではないかと印象に残りました。年配の方はまだ「お墓参りに行く」という意識が強いかもしれませんが、若者の間では果たしてどれぐらい先祖を偲んでお墓参りに行くのでしょうか。風の助力で紙銭の燃えかすが舞い上がる風景、忙しく行き来する人の群れ、そして高速道路でちっとも動かない大渋滞の状況を見てふと思ったのです。どれぐらいの人が誠心誠意でお参りにきているのだろうか、習慣に従わなければならないから仕方がなく来ている人たちはどれぐらいいるのだろうか、また若者はこの節句をどのように思っているのだろうかと考えを巡らせました。   周りの話を聞けば、「先祖を偲ぶ季節になりましたな」というのではなく、「連休だね、どこかへ出かける?」という話のほうが多いような気がします。唐詩では「清明時節雨紛紛、路上行人欲断魂(清明の時節は雨紛紛、路上の行人は魂を断たんと欲す。)」という清明節の風景を描く有名な節があります。清明節のときには確かに雨ばかり降っていました。行き来する人達はその雨から先祖のことを連想し、悲しくなるのでしょうか。先祖を大事にしてきた習慣も時代とともにその意味が薄くなってきており、形式ばったものになったような気がしてなりませんでした。これから先、土葬とお墓参りがなくなり、すべて納骨堂になったら、「掃墓」という言葉を写真で説明しなければならない時代を迎えなければならないのでしょう。   ------------------------------------- 陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching) 台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。 -------------------------------------  
  • 2007.04.20

    エッセイ054:シルヴァーナ・デマイオ「心の余裕をもとめて」

    前回、1941年大阪生まれの安藤忠雄が設計した司馬遼太郎記念館について書いた。安藤は子供向けの建物も設計している。例としては「兵庫県立こどもの館」(1990)、上野にある「国際子ども図書館」(2002)、伊東市の「野間自由幼稚園」(2004)、福島県いわき市の「絵本美術館」(2005)などがあげられる。「社会の中で、都市、建築の造られ方が子どもを自然に育てるところがあると思います。その点で私が大切に思っているのは、手を加えすぎず、忘れている場所を作りだすことです。忘れた、というと怒られそうですが、設計し尽くさず、ほったらかすところ。学校の教育でいうと、放課後の時間のような感覚ですよね。『自分で、自由にどうぞ』でいい。この時間があって、初めて学校の意味が出てくる。建築も同じで、全てを予め準備し尽くしてしまっては、子どもが自分で探していくところがなくなってしまう。」以上は村上龍の『人生における成功者の定義と条件』(2004年、NHK出版、p. 44)に掲載された安藤へのインタビューからの引用である。更にまた「子どもが自由に探していけるところがなかったらどうするんですか。我々大人にとっても同じことが言えますよね。自分の生活の中で、ほったらかしにしてあるところを探して、そこに自分なりの工夫を凝らしていくから、それぞれの個性が現れてくる。探して自分で汲み上げていくプロセスが楽しいのです。」(前掲、p. 45)とも述べている。   イタリア人のエッセイスト、演劇・映画評論家のゴッフレード・フォフィ(Goffredo Fofi)はイタリアの中部にあるグッビオ市で1937年に生まれ、有名な雑誌『クアデルニ・ピアチェンティーニ(Quaderni piacentini)』等にも書いてきた。2006年11月のイタリア経済新聞『イル・ソレ・ヴェンティクアットロ・オレ(Il sole 24 ore)』の週刊誌の社説に次のように書いている「必要でもない映像・言葉・音響があり過ぎ、我々の責任能力を鈍らせる。我々の思考力は、日常的に届く情報を消化する余裕がない。(中略)掲示広告がどんどん大きくなり、下品になってきている。その掲示広告によって自治体、教区はお金をもうけるが、町並みの風景、教会、記念建造物などが見えなくなり、より美しい町もその美しさを失ってしまう。」この社説の題は「思考力のための京都」である。要は、地球温暖化防止のために京都議定書が調印されたように、「思考力のための京都議定書」が要求されるということである。言い換えれば、思考力、それから身体の「エコロジー」のため、「少ないこと、必要なこと、いいこと、思考されたこと」を出発点にし、再びスタートする必要があると、フォフィは述べている。   彼は、悪名高きナポリ郊外のスカンピア(Scampia)地区の若者のためのプロジェクトの支援者の一人になっている。不条理演劇家アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)の『丘の上のユビュ(Ubu sur la Butte)』 (1906)はイタリア語、正確に言うとナポリ方言で上演するために書き直され、マルコ・マルティネッリ(Marco Martinelli)監督のもとで、スカンピアの約100人の若者は『ウブ・ソット・ティーロ(Ubu sotto tiro)』を演じ、大好評を浴びている。   ゴッフレード・フォフィと安藤忠雄は同じ世代の人物である。彼らが主張し活動していることは、基本的に変らないのではないか。二人とも、若い世代に心の余裕をもつ重要性を理解してもらうように、それぞれ努力している。   ---------------------- シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio) ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------
  • 2007.04.18

    エッセイ053:羅 仁淑 「4月が待ち遠しかった妻たち」

    離婚を考える日本の妻たちはこの4月が待ち遠しかっただろう。結婚経験のない者が離婚を論じること自体場違いかもしれない。いや経験がないからこそ客観的に述べられるのかもしれない。   離婚件数、有配偶離婚率(有配偶人口千人当り)、離婚率(人口千人当り)、どれを見ても強い増加傾向にある。戦後の離婚率は90年代前半まで0.7~1.6と低かった。しかし、その後急速に増加しはじめ、2000年にはとうとう2を超え2.1を記録し、2001年には2.27、2002年には2.30と右上がりに増加している(厚労省「人口動態統計」参照)。その中でも熟年離婚(結婚20年以上、あるいは養育を終えた後の離婚)の増加が目立つ。たとえば離婚件数から見た2001年の対前年比増加率は結婚10年~15年が5.9%、15年~20年が4.2%、20年~25年が7.3%、25年~30年が1.3%、30年~35年が10.3%、35年以上が7.7%である(厚労省「人口動態統計」参照)。このデータは熟年離婚率が高いことを示しているだけでなく、結婚25年~30年で一旦低くなり、30年~35年で爆発的に高くなる面白い現象を見せている。何を意味しているのか。結婚期間30年~35年の場合、仮に25歳で結婚したとすると、30年で55歳、35年で60歳となり、日本の定年年齢と一致する。つまり夫の定年退職を待ってそれを機に離婚を切り出す妻が多いということではないだろうか。   離婚率の話に戻そう。離婚率は2002年(2.30)をピークに一変し、2003年には2.25、2004年には2.15、2005年には2.08、2006年には2.04と急激に減少の一途を辿る。トレンドから予想できる増加率に減少した分を合わせるとその減少率はかなり大きい。婚姻期間別の離婚率を集計してみれば、この間の熟年離婚率の減少率はさらに高くなるはずだ。めでたく実際の離婚率が減ったのか?否であろう。結論を先取りすれば、厚生年金や共済年金の離婚時年金分割制度の実施後に離婚を延ばしたと見てよかろう。   分割制度を導入する方向が定まったのは2002年11月9日、厚生労働大臣の諮問機関である「女性のライフスタイルの変化等に対応した年金の在り方に関する検討会」においてであり、同年12月厚労省が発表した「年金改革の骨格に関する方向性と論点」には年金分割が改正項目に挙がっている。分割の方針が決まるまで右上がりで伸び続けていた熟年離婚が、方針が決まると同時に反転したことから、離婚が改正年金法の施行以後に延ばされたという結論は容易にみえてくる。   2004年2月10日閣議決定され、同年6月5日参議院で可決成立した(2007年4月1日施行)離婚時年金分割制度の内容は、①2007年4月1日以後成立した離婚が対象であり、②厚生年金や共済年金の報酬比例部分に限定し、③婚姻期間の保険料納付記録を半分まで分割でき、④将来自分が厚生年金や共済年金の受給資格が得られる年齢から受給でき、⑤分割を行った元配偶者が死亡し場合においても影響を受けない。   共働き期間については夫婦の年金の差額が分割対象になるため妻の収入が高ければ逆に夫に分割しなければならなくなる可能性はあるものの、夫が平均的収入(平均標準報酬36万円)で40年間就業し、妻がその期間全て専業主婦であった場合、夫の報酬比例年金100,576円(2006年度基準)の半分が分割できるようになったのは事実である。仮に老後の生活資金が不安で離婚を躊躇している妻の場合、自前の老齢基礎年金(被保険者期間40年で66,008円)のほかに夫の報酬比例年金の半分が受給できるようになったことは、離婚に踏み切るエネルギーになるかもしれない。   男性の立場はどうか。家庭を顧みず、いわゆる「仕事人間」として生きてきた男性の方が熟年離婚に遭遇する場合が多いらしい。家族のため仕事一辺倒の人生を生きてきて、働けなくなった途端に職と家庭を同時に失う、とくに長い間目標を一つにしてきたもっとも信頼できる人からの背信に虚脱感は大きいだろう。離婚にはかなりのエネルギーが必要だとよく聞くが、自分の退職金や年金が妻の離婚エネルギーと化するとは何とも皮肉な話だ。また、前の奥さんとの婚姻期間分年金額が少なくなるため、再婚(相手が初婚の場合)を考える場合にはとりわけ不都合だ。離婚にはさまざまな原因と理由があるだろうが、「使い捨て」感が濃厚な熟年離婚より相手が再起可能な早い時期にできないものか、我慢してきたのならもう少し我慢できないものか、と経験のない私は思うのだが。   ------------------------------ 羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------
  • 2007.04.18

    エッセイ052:キン・マウン・トウエ 「ティンジャン:ミャンマーの水掛祭」

    ミャンマーには雨季と乾季、それに夏の三つの季節があります。3月下旬あるいは4月になって暖かい風が吹き、落ち葉があちらこちらに溜まり始めると、暑い夏がやってきます。夏と言えば、ミャンマーの人たちにとってのお正月である「ティンジャン(水掛祭)」が一年中で最も楽しい時だと言えるでしょう。   ティンジャンは、ミャンマー式の12ヶ月カレンダーのはじめの月に行われます。4日間連続で、民族や宗教に関係なく、皆が祝う一番楽しい最大のお祭りです。「過ぎ去った年の(良くなかった)ことは水に流して新年を迎えよう」という意味がある伝統的なお祭りです。この水掛祭は、11~12世紀ごろのバガン王朝時代から残っていると記録されています。このお祭りは、ミャンマーだけではなく、タイやインドなどにもあり、東南アジアでは有名なお祭りの一つでしょう。   ティンジャンの4日間を説明します。1日目は、「ティンジャンを迎える日」と呼ばれ、ミャンマー全国で開会式などが行われます。ほぼ毎年、4月13日です。その日から水の掛けあいがスタートします。基本的に昼間は水を掛けあう遊び、夜は街の様々なところで踊りが見られます。2日目と3日目も同様です。最後の日である4日目は、「ティンジャンの終わる日」と呼ばれています。一年に一回しかないお祭りなので、この4日間は、若者たちが一番楽しみます。   時代の流れにのって、ティンジャンの風景も変わってきています。昔のティンジャンは、自分の両親や先生、友人たちなどに、花などを器にして水を掛けるという伝統的な習慣でした。現在は、グループ化して、ステージから水を掛けたり、オープンカーなどで遊んだりしており、昔の風景がだんだんなくなっていきます。一日中水を掛けて遊んでも、風邪をひかないことがこのティンジャンの特徴です。私も若い頃、この4日間は家に戻らずに遊んでいました。あの楽しさは、今でも忘れられません。   年輩の方々は、この4日間の豊かな時間を利用して、お寺(バゴダ)へ行くことが多いです。最近は、若い人たちも自分の来世のためにと、お寺(バゴダ)へ行くことが多くなってきています。この4日間、一部の人たちは、持ち米で作る日本のお団子のような食べ物や、ココナッツゼリーなどを作り、誰にでも食べさせますが、これもこのお祭りの一つのイメージです。   年一回しか見られない桜花のような黄色いパドク(Padouk:Gunkiro flower)と呼ばれる花もこのティンジャンのイメージです。   ティンジャンが終わったら、新年が始まります。元旦には、今まで街で遊びまわっていた若者をはじめとして、ほとんどの人々がお寺(バゴダ)へ行き、お祈りをします。ミャンマーの新年の朝はお祈りから始まります。バゴダに立ち寄り、仏に手を合わせ、真心で新年の幸をお祈りします。仏教が生活の中に息づくミャンマーでは、祈ることは生きることそのものなのです。   元旦に、若者が年輩の方々の頭髪を洗ってあげたり、様々なお世話をしたりすることも、ミャンマーの水掛祭の伝統です。また、両親や先生方、自分がお世話なってきた人々を表敬訪問することも、まだ広く行われています。このようなことは、時代の流れによってティンジャンの風景が変わっても、未だによく見られる、仏教国ミャンマーのお正月の風景です。   今年のミャンマーのティンジャンも例年と変わらず、4月13日から16日まで行われ、17日が元旦です。今年の私の予定としては、この豊かな時間を家族とお寺(バゴダ)へ行くことができるのか、まもなく完成する弊社の新食品工場設備設置のために来られる日本の技術者の方々と仕事になるか、今のところ、可能性は半々です。   ティンジャンを撮影した後藤修身氏の写真を下記URLよりご参照下さい。 http://www.ayeyarwady.com/photo/tingyan/tingyan.htm   ------------------------------------------ キン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe) ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院工学研究科物理および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学工学部物理および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ------------------------------------------
  • 2007.04.06

    エッセイ51:マックス・マキト「SGRAのおかげで研究が進んできた」

    1995年に東京大学から博士号を取得し無事に卒業したが、やむを得ない事情により、自分で探してすぐに見つけたある教育機関の職についた。しかしながら、「あなたの研究は一切支援しません」と言われ、大学院で行った日本のODAについての研究はそこで止まってしまった。もちろん完全に終わってしまったわけではなく、自分の時間とエネルギーを教えることに集中せざるを得ない状況のなかでも、日本の経済開発の研究をなんとかやり続けた。残念ながら大学院で研究をしていた頃と違って、日本と母国との比較研究はできなかった。   2000年7月にSGRAが設立され、また比較研究ができるようになった。僕の提案が留学前にフィリピンで所属していたアジア太平洋大学(UA&P)に受け入れられ、SGRAの温かい支援を受けて、フィリピンの経済特区に関する共同研究をやることになったのだ。当然ながら僕の感謝の気持ちとして、この共同研究はSGRAという組織のもとでやっている。このような姿勢はフィリピンやアジア各国ではわりと問題なく受け入れられるのだが、日本人からは凄い抵抗を感じる。抵抗が強い分、日本のNGOであるSGRAからの支援が大切なのだと僕は見なしている。   最初に行ったのは製造業の経済特区の研究だった。この研究については、今年の1月に北京にて最終報告を行った。現在、SGRA顧問で名古屋大学の平川均教授が行っている産業クラスターの研究の中のフィリピンのトヨタの調査とからめて、この製造業特区研究の継続の可能性を探っているところである。この研究の当初の目的はフィリピン経済特区管理局(PEZA)での蓄積されてきたデータの保存だった。当時、このデータは全く利用されず倉庫に入れられ、忘れられて腐り始めているという状況だった。もったいないという気持ちで保全プロジェクトを始めた。   とはいっても、北京での最終的報告で述べたように、このプロジェクトの意義は、歴史的データの保全だけではなく、日本の特殊かつ貴重な経済開発の歴史の保全と考えても過言ではない。というのは、フィリピンの製造業特区における最大投資家は日系企業であることがわかり、このデータの分析によって、日系企業の伝統的な強さが効率性に繋がることが確認できた。日本の経済発展の最大の特徴でもある「共有型成長」は、みごとにフィリピンの経済特区戦略と一致していることが認識できたのだ。   この「共有型成長」はフィリピン国民の最大の願いであるといえよう。先日マニラでバスジャック事件が起き、幸いにも無血で解決したが、その手段は決して許されるものではないとしても、「貧しい若者たちにもちゃんとした教育環境を整備せよ」という犯人の訴えは、国民の願いを代表するものだったと思う。昨年末のSGRAかわらばん「醜いアヒルの子」でとりあげたような経済学者軍団があれだけ破壊しようとした日系企業の伝統的な慣習は、フィリピンとその他の東南アジア諸国の製造業特区に生きのびている。僕の歴史保全プロジェクトは両方の意味で成功したのだ。   UA&PとSGRAの共同研究の第2段階は、フィリピン経済特区管理局(PEZA)が管理するIT経済特区を研究対象として進められている。第1段階の製造業特区研究と同様、この研究も第3者機関から研究助成を受けることになった。そして、第3段階の準備も始めた。今度は、PEZAが管理する観光経済特区を研究対象としたい。まずは4月16日(月)にマニラのアジア太平洋大学(UA&P)で、「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」というテーマでセミナーを開催することになった。   以上の三種類の経済特区研究を眺めてみると、日本の存在が段々薄くなっている気がする。日系企業は製造業特区では支配的だが、IT特区ではフィリピン企業に逆転され、観光特区ではその存在すらない。それぞれの特区の関係者をみると、製造業特区では日系企業との関係が深く、コールセンターやソフト開発などが多いIT経済特区では欧米企業との関係が深く、観光産業は韓国と関係が深まっている。近年、韓国人観光客が激増し、日本人観光客数を追い越したし、韓国政府や企業が観光地に資金を注いでいる。   もちろん、フィリピンとしては、国を問わず外国人を歓迎するが、これだけ人生を日本に投資してきた僕としては、日本にももっと頑張ってほしい。共同研究の第三段階では、日本から遠ざかるような気がしないわけでもなく、ちょっと寂しく思う。しかし、観光経済特区でも、最初の製造業特区研究で開発した分析枠組みを利用するつもりなので、日本の「共有型成長」開発モデルが再確認できるという確信を持っている。物理的に日本の存在が薄くなっても、その理念はしっかりと存在し続けるであろう。   日系企業が東南アジアに大きく進出してきた最大の理由は、安くて良質な労働者というホスト国の比較優位点を利用したためである。フィリピンのIT産業や観光産業でも、きっと日系企業も活躍するようになっていくのだろう。   僕は観光産業特区に日本の目が向いてくれる日までに準備しておきたいことがあり、現在も着々と計画を進めている。考えてみれば観光産業の本質は「持続可能な発展」にあるが、「持続可能な発展=共有型成長+環境保全」という方程式の右側の両項は日本が得意とするところなのである。   日本人の皆さん、フィリピンの青い海と白い砂浜のリゾートに行きませんか?   -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------  
  • 2007.04.03

    エッセイ050:葉 文昌 「台湾版テレビ番組捏造事件」

    最近日本では関西テレビのあるある大事典での偽造が発覚し、社長の辞任にまで発展した。これほどまでに世論の力が強いことは羨ましい限りだった。台湾の番組は台湾製品のように粗末で且つ新味がないばかりでなく、偽造も日常茶飯事のように行われていたのだ。ところが、日本の事件の影響か、台湾でも変化が起きはじめたようだ。   台湾でのこれまでの映像の偽造については、例えば「中国時報」という新聞で指摘されているように、テレビ会社は次のように現場に指図するようだ。「土石流がない?昔の映像を使え」。「強盗の映像がない?とにかく夜のニュースまでに映像を作れ」。これまでも、洪水に関する報道で、レポーターが膝までの洪水を、撮影時だけ座って上半身まで浸っているように見せている滑稽な映像が、インターネットを通じて流されたこともあった。これではニュースなのか茶番劇なのか見分けがつかないので、私はもうテレビは見ないことにした。   しかし先週、台湾の世論もまんざらではないと思える出来事が起きた。それは大手テレビ局のTVBS社が、銃撃指名手配者が机にライフル銃等4丁を並べ、対抗する暴力団を威嚇する映像を、一大スクープとしてニュースに流したことから始まった。TVBS社によれば手配者が威嚇相手に送ったビデオを入手したとのことだった。この映像に世論は仰天し、「テレビ局は暴力団の威嚇を肩代わりしていいのか」とTVBSは非難の嵐にさらされた。   そして、暴力団抗争勃発の懸念から警察が動き出した。その後、事件は急転回する。この映像は入手したビデオではなくTVBS記者が暴力団員に要請されて撮った映像であることが判明した。すなわちビデオを入手したのではなく、自ら脅迫ビデオの作製に加担したことになる。TVBS社の上層部は知らなかったとして記者を解雇した。しかし現場担当者だけを解雇しただけで収まるはずはない。その後、台湾でメディアを管理・処罰する国家通訊伝播委員会(NCC)は200万元の罰金と、社長と副社長の辞任を命じた。またビデオの主人公も裏表両社会から追跡令を受けた挙句に警察に逮捕され、実はおもちゃだった「銃器」4丁が押収された。これで社会事件としての様相は収拾に向かいつつあるようだ(注)。   この件で、台湾のメディアは、あまりにも視聴率にこだわりすぎたあまりにショッキングな映像の追求に汲汲となってしまったと反省しているようだ。また事件の検証はしっかりするべきで、このようなスクープを濫発すべきではないという呼びかけも行われている。この件により、長い目で見れば、遅れている社会でも向上していることを実感した。台湾の国民としてはうれしい限りである。三日坊主でないことを望んでいる。   (注)この事件は、最近は政治色を呈するようにもなっている。国家通訊伝播委員会(NCC)は行政院管轄下ではなく、野党が過半を占める国会が設立させた独立機関である。TVBSは国民党寄りとされるメディアであり、立場的には野党の候補を支持し、また事ある毎に政権批判をしてきた。この事件で与党は厳罰をNCCに望むが、野党はそれを望まない。最初NCCはTVBS社に最大3日間の放送停止をするとしていたが、結局は罰金200万元という軽い罰が発表された。しかし世論のせいかその後一転して社長等上層部の辞任を命じた。この罰が重いかどうかは別として、NCCが一会社の人事にまで口出しするのもおかしな話である。残念なことではあるが、あらゆる問題が政治問題に発展すれば是も非もない。これが台湾の現状なのである。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。自慢はデバイスを作る薄膜堆積設備の大半を手作りで作ったことである。 ---------------------------
  • 2007.03.31

    エッセイ049:張 紹敏 「アイ リメンバー」

    あまり有名な曲ではないかもしれませんが、ピアノを習い始めて2年になる娘が、最近よく弾いているフィリップ・ケバレンの作品です。私にとっては初めて聞く曲でした。3月は日本の「年度」が終わる時期ですが、この1年の間に起きたたくさんの出来事の中には、心に響くことがたくさんありました。移り変わりの激しい世の中で、人々にいつまでも覚えていてもらうのは簡単な事ではありませんが、人々に常に思い出してもらうのは更に難しいことだと思います。   私が「日本のお父さんとお母さん」と呼んでいる友人とは、ほぼ二十年間の結びつきでした。お母さんは大変厳しく、時にはきつい言葉を言われたこともありましたが、実はとても心が優しい人でした。私が日本に住んでいた時には、まるで実家のように感じて、静岡にある小さな海辺の町に、ほぼ毎週末、東京から通っていました。私のことを息子と思ってくれていたし、私は息子としての責任も感じていました。お母さんはいつも料理の材料を準備して待っていて、私が到着すると、お母さんといっしょに中華や日本料理を作って、洋間で、皆で楽しくご馳走を食べながらいろいろとおしゃべりをしたものでした。そんな週末のことを、今でも昨日のことのように思い出します。異なっていることは異なっていることとしてそのまま受け入れて、そして理解することが大事です。日本人や中国人の立場ではなく、ひとりひとりの人間として接するのです。昨年の12月、私の日本のお母さんは80歳で亡くなりました。   昨年の8月、タイガー・ウッズが全米プロゴルフトーナメントで、7月の全英オープン選手権に続いて、メジャー通算12勝目を飾った時のことを思い出しました。アメリカと同様日本の新聞も大きく報道しましたが、よく読むと大変興味深い違いがありました。日本ではタイガーは快勝して大賞を獲得したことを中心に報道していましたが、アメリカでは「No Tears No Sweat」と、タイガーが、数月前に父親を亡くした悲しみから立ち上がったということを大きく報道しました。涙もない、汗もない、タイガーの実力で勝ちとったのだという気持ちを表現していたことが忘れられません。   先週、ワシントンポスト紙は、安倍総理大臣の人権問題への対応は「二枚舌」だとする表題の社説を掲載し、安倍総理大臣が拉致問題で国際社会の支持を得ようとするのなら、従軍慰安婦問題に対して謝罪すべきだと批判しました。これに対して、安倍総理大臣は拉致と慰安婦は別問題だと国会で答弁したということです。日本のマスコミは総理の答弁を大きく報道しましたが、従軍慰安婦問題について「総理大臣としてお詫びする」と述べたことはほとんど報道しませんでした。一方、「日本の総理大臣が従軍慰安婦に対してお詫びした」という表題のニュースがCNNとBBCでは大きく放送されました。   なぜ日本のマスコミは総理がお詫びしたと報道しなかったのでしょう。お詫びの是非はともかく、なぜお詫びをしたという事実まで隠そうとするのでしょう。なぜ「日本人としての日本」と「日本国としての日本」が違うのでしょう。なぜ60年間もそのままにしておきたいのでしょう。この問題の解決を、いつまでも、次の世代までも、引き伸ばしたくはないでしょう?   「アイ・リメンバー」。 娘がピアノで弾いた曲を録音したCDで聞いていると、誰かにそんな質問をしてみたくなります。   ------------------------------------------------- 張 紹敏(ちょう・しょうみん Zhang Shaomin) 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。
  • 2007.03.28

    エッセイ046: エレナ・パンチョア「ブルガリアのイースター(2)」

    ご存知かもしれませんが、社会主義時代には宗教や、宗教と関係する祝祭は全て禁止されていました。当時、私はまだ子供だったため、はっきりとした記憶はありません。むしろ、私の母や父の世代の方がこの時代についてはもっと詳細にお話できると思います。私の母の話によりますと、イースターなどの時、教会に行くことはもちろん許されませんでした。私の母と父がまだ学生だった時には、イースターを祝ったかどうかということを学校の先生が厳しくチェックしていたそうです。例えば、イースターの卵の色染めをしたかどうかを調べるために生徒を列に並ばせ、手や指に色あとが付いているかどうかをチェックしていたそうです。この時、そのあとが見つかった者は退学させられたり、罰を受けなければならなかったそうです。更にその子の両親までも様々な形で罰を受けていたといいます。しかし、このような厳しい状況だったにも関わらず、多くのブルガリア人は家で近所の人にもきづかれないように、家族だけでひそかにイースターを祝っていたそうです。   私が子供だった頃は、状況が少し変わってきて、昔より緩やかになりました。都市では知り合いや警察が多いため、簡単に教会に行くことができませんでした。それでもイースターの卵を作ったり、友達同士でイースターの卵を交換したりすることはできました。ただし、これらのことは、たとえ許されていたとしても、まわりの人には決していいことと思われていませんでした。このような環境の中、私の家族はほぼ毎年、私の祖父の実家があるKravenikという村でイースターを過ごしていました。Kravenikには警察が少なく、両親の職場や子供の私たちの学校と関わりのある人もいなかったため、びくびくせず、もう少し伸びやかにイースターを過ごすことができる と考えていました。前回のエッセイでご紹介したイースターの様子は、私がこの村で体験したことです。   体制転換以降、ブルガリア人はまた教会に戻り、イースターのような宗教的な祭を自由に祝うことができるようになりました。更にテレビなど、マスメディアが毎年生放送で放映することが一般的になり、にぎやかな祝祭になってきています。   ところで、Kravenikは人口約600人の小さな村です。この村は私の実家があるヴェリコ・タルノヴォという町から80キロ離れた、バルカン山脈のふもとにある自然が豊かな土地です。空気がきれいで森に囲まれているため、夏は涼しく過ごしやすく、町から遊びにくる人が大勢います。そのため結核などの療養に利用されていたところでもあります。(現在も使われているかもしれません。)村には川が流れ、地下には冷泉水があるため、様々な野菜や、梅、プラム、りんご、木苺、いちご、ぶどうなど、沢山の果物が育てられています。最近では、観光やヴァカンスのスポットにする企画もあるようです。現在、民家の形をしたホテルなども建設されています。これがいいことかどうかは私には分かりません。沢山の観光客にきていただきたいという気持ちがある一方、昔のKravenikの魅力を残しておいてくれればとも思っています。   家族でKravenikを訪れるのはイースターの時だけではありませんでした。子供の春休みや夏休みには、必ずKravenikで過ごしていました。一緒に育ったいとこと私にとってそこへ行くのは何よりの楽しみでした。Kravenikで過ごした夏休みはとても貴重な時間でした。他のヨーロッパの国と同じようにブルガリアでも夏になると仕事している人も子供もヴァカンスに出ます。皆が海に行ったり、山に行ったり、海外へ行ったりして、2週間から1ヶ月ぐらい休みを取ります。私の家族にとってこれはKravenikで皆が集まることでした。祖父、祖母、母、父、そして母の兄弟の家族を合わせて9人が同じ時期に休みを取って、暑い夏を涼しいKravenikで一緒に過ごしていました。子供だった私達にとって最高の夏休みでした。なぜならば、宿題をしていない時に外でいくらでも遊べたからです。私達と同じように町から来た子供や村に住んでいた子供が大勢集まって、一緒に川で泳いだり、森の中でいちごや黒いちごを採りに行ったり、馬に乗ったり、ヤギや羊と遊んだりして、村の周辺を自由に走り回っていました。夕方になると家に戻り、家族皆が炉端の近くに座りながら、夕食を取りました。炉辺の暖かさは家族の全員の心に広がっていたかのように笑い声がいつまでも近所に響いていました。夕食が終わると皆が家の大きなベランダに座り、ハーブティーなどを飲みながら、祖父が昔話や先祖の話を夜遅くまで語ってくれました。頭にこぼれ落ちそうなほど大きな星空の下で、月に照らされたベランダを眺めながら子供の私達は 何か不思議なことが起こりそうな気分で祖父の話を静かに聞いていました。毎年このように夏を過ごせることに対して感謝の気持ちで一杯でした。今でも「Kravenikで過ごした子供の頃の思い出は私達の一生の宝物だね」ということを、いとこといつも話しています。   今は日本と同様に、Kravenikも春に向かう頃だと思います。村中の庭にはすずらん、ヒヤシンス、すいせんやサクラソウが咲き、木の枝のつぼみがもう膨らんでいるところです。更にりんご、梅、プラム、桃、さくらんぼうなどの木は白やピンクなど目に優しい色に染まり、遠くから雲のように見えます。空気の中に漂ってくるこれらの花々の香りが春の登場を知らせようとしているように感じられます。様々な鳥の鳴き声が聞こえ、これらのコーラスは心に新しい希望をもたらしてくれます。村の人々もまた去年と同じようにイースターを通して、自然や命の復活を迎える準備に入っているのではないかと思います。このKravenikの風景やそこで過ごした思い出はブルガリアを離れている私にとって郷愁の念を呼び起こします。   ----------------------------------------- エレナ・パンチェワ(Elena Pantcheva) 2000年10月に千葉大学の研究生として来日。2003年3月に千葉大学文学研究科より修士。2006年9月に千葉大学社会文化科学研究科から「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」の研究で博士号を習得。ソフィア大学日本語学科の学部生の時からずっと日本語の擬声語・擬態語の研究を続けてきたが、4月より首都圏にある外資系のホテルに勤務することになり、新たな分野に挑戦する。 -----------------------------------------
  • 2007.03.27

    エッセイ048:江 蘇蘇 「Culture Difference と Generation Gapの狭間(2)」

    私も親と100%理解し合えているとは言えない。中国の一般家庭に比べたら、中国にいる親と、日本文化を親より何倍も吸収している私との間には、違った意味でのGeneration Gapが多くある。少しだけ私と親の対話を思い出しつつ書いてみる。   ●八月のある日 母: 今度の日曜日会社の友達が遊びに来るの。いっぱいおいしい物作らないと。 私: 日本人はお客が来てもお茶とかお菓子ぐらいで、ご飯ご馳走しても質素な物しか出さないよ。中国にいる時みたいに豪勢に出したら逆にびっくりするよ。 母: そんなことないよ、きっと。お客なんだからお茶だけは失礼でしょう。見栄えも悪いし。それにきっとお土産持ってくるでしょ? 私: お土産って言っても中国人みたいに両手にいっぱい何かを抱えてくる感じじゃないよ。 母: いつからそんなに冷たい人になったの?友人には惜しまなく接さないと!こっちがどう接するかで相手も同じように接してくるもんだよ!人間は一人では生きていけないの。友達や周りの人を大切にしていかないと。 私: それは分かっているけど、日本の文化は豪勢にというのがなくて、シンプルでも充分友達付き合いがうまくいくの。中国の友達と性質は違うかもしれないけど。 母: あなたも日本に長くいすぎたね。常日頃自分は中国人だと思わないと。 私: 別に自分が日本人だと思ってこういうことを言っているわけじゃないよ。   ●その日曜日。トータル10皿の料理:かに、えび、豚の角煮などなどゴージャスに飾られたテーブルも会社の同僚二人により遠慮なく姿形なく消費された。満足気に帰っていった二人を巡って: 母: 日本人は全く遠慮がないね!同じ皿でもいい食材ばかり食べるね! 私: そうだね。 母: それにお土産はケーキ5個、うちら家族一人一個ずつに、彼女ら二人一個ずつ・・・ 私: だから言ったじゃん。 母: それにしてもちょっとひどくない?人によるのかなー 私: ・・・   ●その二週間後、仕事から帰った母は不機嫌だった。 母: 前に家に来た二人、今日私に何を言ったと思う? 私: 何? 母: この前ご馳走様。本当においしかったわ。今度また行かせて!また李さんが作った料理食べないなーだって!招待されたら招待し返すのが道理でしょ?こっちは外国人で物静かだからってそれにつけこんで、恥ずかしくないの?! 私: まあ、あの二人も悪いと思うけど、日本ではめったにこういう風に友達づきあいをしないから。中国の文化だからと甘えている部分もあるんじゃない? 母: あなたは日本人の肩を持つわけ?自分が何人かしっかり考えなさい! 私: え・・・お父さん何とか言ってよ! 父: まあ、お母さんは今機嫌悪いから大目に見てあげて。でもお母さんの言う通り自分は中国人だという自覚は大事だよ。 私(心の中で):なんでこんなことで売国奴にされるわけ・・・   ●ある夏休み 父: 最近研究はどう? 私: ぼちぼちかな。そんなに忙しくない。学校も毎日行かないといけないわけじゃないから、よくコーヒーショップで論文書いているよ。 父: コーヒーショップ?わざわざお金を払って論文書きに行くの?お金の無駄遣いでしょうが!!回りはうるさいし集中できないでしょう!! 私: でも家にいても寒いから暖房つけるでしょ?周りは人がいっぱいだけど、慣れれば居心地いいし、けっこう集中できるよ! 父: 寒いなら研究室に行きなさい。お父さんが日本で研究していた時は、朝5時起きでバイト先に行って、9時に仕事をあがって大学に行き、夕方5時ぐらいまで研究して、ご飯を食べる時間もなくまたバイト先に直行して、夜中の12時までバイトしていたよ!!よく実験のため夜研究室で寝泊りしていたし、お金がもったいなくて、生活費、学費以外は貯金するため、当時スーパーで一番安かった卵と鶏肉を毎日食べていたよ!味付けだけ変えたりして。あなたは何お嬢様生活しているの!!そんなコーヒーショップに行く時間があったらもっと研究して論文を出しなさい!年に一本は少ないでしょう。研究に疲れたらバイトに行きなさい。自分の将来のために今は節約する時でしょう! 私: お父さんの時代は今とは違うから仕方ないじゃん。若いうちは若いうちにしか使えないお金の使い方だってあるし。海外行ったり、旅行したり、いろんなことを経験して、いろんな遊びもいまのうちにしておきたいじゃん。研究は研究でしっかりしてるよ! 父: 海外で英語の勉強をしたり研究したりするのは分かるけど、海外で経験とかなんとか言って、日本人の若者みたいにブランドショップで買物をしたり、高級レストランで食事したり、毎日いい生活しているのは経験じゃないでしょう。時間とお金を無駄に使うんじゃない。 私: そこは私もちゃんと考えているよ。英語もしっかり勉強してきたし。 父: あなたは留学生であって日本人ではない!もっと留学生と接してみると分かるが、留学生はみんな苦労している。苦労して生活費も学費もすべて自分で稼いで、その上勉学に励んでよい成績を修めている。苦労してこそ幸せが何倍も訪れてくる。あなたは苦労を知らなさすぎ!奨学金を運よく獲得したからね。それでもできる限りいっぱい知識を身につけて、バイトでいろんな社会経験も積んで、苦労を知らないと。自分は常に留学生であることを忘れないでね! 私: また日本人とか中国人とか言っている・・・仕方ないじゃん。高校生の時に日本に来たら少なからず日本気質に染まるじゃん。私は自分の大半は中国人の性質を残していると思うんだけど。 父: とにかくほどほどにね。自分が強くないと外国人として日本で生きていくのは辛いよ!中国のニュースや新聞もよく読むようにしてね! 私: はい・・・   まあこんな具合である。私が中国人離れしていくことを恐れている両親は、よく私に「自分は中国人であることを忘れないで」と忠告をする。勿論自分は中国人だし、日本人だと思ってはいないが、両親の「中国人」と「日本人」の間を明確に一線引いているところは、やはり留学第一世代とその子供の違うところなのだろうか。 とにかく、日本に「長く居すぎた」私はCulture Differenceを時たま感じながら、留学第一世代であった両親との考え方の違いによるGeneration Gapにも柔軟に対応していかないといけない。 いつもこの二つの壁に挟まれて「苦労」している。   ------------------------------ 江 蘇蘇(こう・すーすー ☆ Jiang Susu) 中国出身。留学する父親と一緒に来日。日本の高校から、横浜国立大学、大学院修士課程・博士課程を卒業。専門分野は電子工学。現在(株)東芝セミコンダクター社勤務。SGRA研究員。 ------------------------------ (このエッセイは、筆者の承諾を得て、2005年度渥美国際交流奨学財団年報より再録しました)