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エッセイ066:オリガ・ホメンコ「ニューラおばあさん」

ニューラおばあさんから電話があった。彼女は私の本当のおばあさんではないのに、親戚より親しい。私が生まれる前、両親がまだ若くて、キエフの「心の喜び」というきれいな名前の地区に住んでいた頃、年配のユダヤ系の家族が隣に住んでいた。ボリスさんとファイナさんという年配の夫婦と娘のアンナさんで、ニューラというニックネームで呼ばれていた。1970年代には、その夫婦は70歳くらいで、ニューラは40歳くらいだった。私の両親は30歳くらいで、共働きの家庭であったため、ボリスさんが当時小学生だった姉を、よく学校まで迎えに行ってくれた。

 

あの頃、ニューラは若くてとてもきれいな女性だった。真っ黒な髪をカールさせ、優雅なフレームのめがねをかけて、小さな指輪をはめていた。ニューラは独身だった。両親や私の誕生日のパーティにいつもアルセニーおじさんと一緒に来ていた。彼らはなかなかお似合いのカップルだった。アルセニーは、5歳になった私に、初めて「本物」の花束をくれた男性だった。5歳の私は、その大きな花束の美しさや大人の男性からの注目に悩殺された(笑)ため、花束を抱きしめて、しばらく手から離さずに部屋を歩いていた。大人たちが花束を花瓶にいれようと言ったけど、私はしばらく花を離さなかった。あの時、私の小さい心の中に眠っていた「女性としての重要さ」が、初めて目覚めたのかもしれない。花束のおかげで。

 

その誕生日に、花束と一緒に「マッジックボックス」ももらった。二つの底があったからマジックボックスと呼ばれ、その中に色んなマジックができる装置が入っていた。それを使って、パーティに集まる両親の友達の大人を驚かせる(騙す・笑)ことができる。ボックスの中に二つの底があるということ以外にも、卵が「なくなる」セットや「切れる」棒などもあった。私がそのボックスの中身をよく勉強して、しばらく遊んでいたことを覚えている。そしてマジックを覚えて両親の友達を驚かし、注目を浴びていたことも覚えている。言ってみればそのボックスは子供の頃にもらったおもちゃの中で、一番面白いものだったかもしれない。もちろんそれ以外にも、当時の自分より大きな「歩ける人形」とか、「テディベア」など、心に残るおもちゃがいろいろあったが、あのマジックボックスは今でも一番印象に残っている。

 

ニューラとアルセニーは結婚していなかったのに、家に遊びに来るときにはいつも一緒だった。子供だった私には、それが不思議だった。母と父、また母の兄弟や父の兄弟など、一緒に遊びに来る人たちが皆結婚していたのにもかかわらず、このふたりだけが結婚していなかった。それがちょっと理解できないことだった。

 

大きくなった時に、その理由を教えてもらった。ふたりは小学校の時からの同級生だった。しかし第二次世界大戦が起きたため、ボリスおじいさんは家族と一緒にシベリアに避難し、アレセニーは軍隊に入った。戦争が終わってキエフに戻った彼は、ユダヤ系であったため、家族全員がバビン・ヤル地区で虐殺されたことを知った。ニューラの家があった所には、爆弾の跡しかなかった。ニューラの一家が避難したことを知らされていなかったアレセニーは、「皆死んでしまった」と思ったようだ。住むところさえなかった彼は、工場に就職し、そこで知り合った15歳年上の女性と結婚した。1年過ぎて、シベリアからニューラの家族がキエフに戻った頃には、アルセニーの家族には双子の子供が生まれていた。彼は家族と別れてと一緒になろうと思ったが、ニューラは「あなたの家族を破壊してはいけない」と言って断った。

 

彼の奥さんのターニャはニューラに感謝しているので、アルセニーがニューラのために壊れた水道のクレーンを直したり、友達の誕生日会へ一緒に参加したり、家事の手伝いをしたりすることに反対しなかった。だから、彼らは、私の家に一緒に来ていたけど、結婚はしていなかった。アルセニーはニューラのことをとても大事にしていた。子供の私でさえそれを感じた。その時は、いろいろな事情を知らなくて、子供の私には、結婚していないことを理解できなかったけれど(頭を振りながら笑)。

 

90年代後半にアルセニーの子供たちがイスラエルに亡命することを決めた。アルセニーはイスラエルへ移る気がなかったが、ユダヤ系の家族では子供にかなり力があるもので、反対できなかった。その「亡命」は彼にとってかなりの悲劇だったに違いない。そのときに再び、ニューラと一緒になろうとした。だが彼女は彼の居場所が家族のそばであると再び彼に思い出させた。出発前に、彼は彼女のところに「最後の挨拶」に来た。二人とももう会えないからと思って泣いていた。この頃は、鉄の壁が壊れたばかりで、まだ自由に外国に行けない時代だったので、外国に移るということは「もう二度と会えない」ことだった。

 

それ以来彼は半年ごとに彼女に仕送りをしている。そしてできる限りに電話もしている。何年もたった今でも、彼は彼女に航空便の赤青封筒で、50ドルと100ドルのお札を時々送っている。時々封筒からお金が盗まれて、破けた封筒の中には愛を込めた手紙しか届かない。だが彼女のためには、その赤青の封筒がお金より大切に違いない。

 

ニューラは一人暮らしの84歳の女性だ。アルセニーは、あれ以来キエフに一度も来ていない。彼は85歳を過ぎているのにもかかわらず、またいつか一度、本当に「最後」にニューラに会いたいようだ。ふたりは、きっと天国で一緒になると思う。

 

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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。
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