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エッセイ063:キン・マウン・トウエ 「ミャンマーと中国(雲南省)の貿易関係」

4月の初めに、実家のあるマンダレーへ行きました。4年ぶりの町の風景は、完全に変わって、中国の町みたいになっています。看板などは中国語で書かれて、町の作りも中国の町みたいになっています。街を歩いている人たちは、中国との国境の近くから来た人たちが多く、顔は完全に中国人のように見えます。

 

私の父はマンダレーで眼科医院を持っていますが、患者さんは2種類わかれるそうです。田舎から来た本当のミャンマー人の顔を持っている患者さんたちと、通訳を連れて来くる、ミャンマーの国民登録証明書を持ってミャンマー人と呼ばれている、中国との国境に近いところから来た華僑の患者さんたちです。ミャンマー語は一切出来ずに、眼科の先生からの質問などは、全て通訳が訳して会話しています。外国人と会話しているように見えました。

 

この町は、一体どうなっているのでしょうか?
ここは、ミャンマーですか?どこかの国の町ですか?
本当のミャンマー人たちは、どこにいますか?

 

マンダレー市は、歴史的に古い町です。ミャンマーは、1824年にはじめて国の一部が英国の植民地になり、1852年にまた別の一部、そして、最後1885年にマンダレーを含むミャンマー国全体が英国の植民地になりました。最後までミャンマーの王様はマンダレーパレスにいました。マンダレー市は、日本で言えば京都のように、歴史や文化がたくさんあるところなのです。王様が住んでいた、古い歴史や文化財にあふれるマンダレーは、どうなったのでしょう。

 

中国では、ミャンマーは「ミャン州」と呼ばれているようです。
ここは、「ミャン州」ではありません、「ミャンマー連邦」です。

 

1998年に私が日本からミャンマーへ戻った時に、ミャンマーの貿易業界には、かなり中国(雲南省)の影響が強いことを知りました。全国からの農産物、水産物、宝石など国の輸出品の大きな割合が、中国(雲南省)とミャンマーの国境貿易としてマンダレー経由で中国へ安く流れています。マンダレーから雲南省国境まで、ミャンマー政府と雲南省政府が半分ずつ負担して高速道路を作りました。マンダレーから中国国境までは、山道になっても道が良いため、車で数時間しかかかりません。

 

中国は自分の国を工業化しています。農産物や水産物の多いミャンマーは中国の「納屋(Barn)」なったり、森や山の多いミャンマーは中国の「材料屋」なったり、中国の掌に乗せられています。同時に、ミャンマーは中国の大きな市場としても利用されています。 2006年度のミャンマーと中国間の貿易総額は、14.6億米ドルになり、昨年度より20.7%も上りました。その内訳としては、中国からミャンマーに 12.07億米ドル分輸入し、ミャンマーから中国に2.52億米ドル分輸出しました。

 

ミャンマーと雲南省間の貿易総額は、6.92億米ドルで、昨年度より9.6%も上りました。ミャンマーは雲南省から5.21億米ドル分輸入し、ミャンマーから雲南省へ1.71億米ドル分輸出しました。ミャンマーから雲南省へ主に輸出した物は、農産物や水産物、鉱山産物、ゴム材、宝石などであり、雲南省からミャンマーへ主に輸入した物は、電気製品や様々な機械類、洋服、薬、スチール製品、様々な生活用品などです。

 

1988年以前は、ミャンマーのダム建設や水力発電所設備設置、鉱業などは、日本の技術によって行われていました。今は、ほとんど中国の技術で行われていますが、品質の問題が一部発生しています。2007年3月29日、ヤンゴンで行われた雲南省とミャンマー間の貿易投資会議では、中国(雲南省)から州政府の役人と共に中国商工会関係者350人が来ました。その会議には、両国の関係400社以上が参加し、600人以上が出席しました。

 

国際ビジネスでは、一方的な関係ではなく、お互いに心や考え方などを理解しながら行うことが大切だと思います。ミャンマーは、中国雲南省との貿易一辺倒にならないで、貿易産業を世界各国に開いて、国際的なバランスをとっていくことが必要だと思います。

 

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キン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe)
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co. Ltd. 社長 (在ヤンゴン)。SGRA会員
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