SGRAかわらばん

  • 2007.06.03

    エッセイ060:高 煕卓 「赤い悪魔をめぐって」

    まだ5月だが、時折の朝夕の冷たさを気にする母親のいうことには聞くふりもせず、いつも半袖の赤いシャツだけを引き出す、うちの5才の女の子の拘りがこの話のきっかけを作った。   毎朝、保育園に行く時間になると、彼女の「デ-ハンミングください」という声と、「それはまだ乾いてないよ。今日は別のものを着たら?」という母親の声が交錯する。だが、結局、彼女の粘りが効き、そのシャツはもう3枚に増えている。   そのシャツには真っ赤な生地に白い文字で“Be the Reds!”と書かれている。が、彼女はそれを「デ-ハンミング」と名づけている。   ご存知のように、そのシャツは、サッカーの2002年ワールドカップの際、韓国代表を応援する市民応援団「赤い悪魔」こと、「レッド・デビル」のユニフォームである。また、彼女のいう「デ-ハンミング」とは、その応援団が連呼していた韓国のこと「大韓民国」の韓国語音である(国号の正式名ではあるが、私は妙にその「大」の字が気になる)。   2002年当時は、サッカーファンはもちろん、ふだんサッカーに関心のなかった人々でもそのユニフォームを着て、また「デ-ハンミング」を連呼していた。が、その独特な祝祭のような雰囲気を彼女もどことなく覚えたのだろう。   だが、今日の話は、サッカー応援をめぐる社会的現象そのものではなく、国際的にも注目を集めた、「赤い悪魔」を中心とした一般市民による競技後の自発的な後始末(掃除)についてである。   これまで熱狂的なファンによる欲望の恣意的な排出口としてクローズアップされがちだったサッカー応援だったが、その後の自発的な後始末といった公共的行為が伴われたことによって、2002年のサッカー応援はこれまでにない注目を浴びていたことは記憶に新しい。その行為は成熟した市民意識の表われだという、外国とくに過激な応援団の問題で悩んでいたヨーロッパの国々のメディアからの評価に韓国の人々は歓呼しつつ、自らを称えていた。私自身もその現象に韓国社会の一つの変化を読みとろうとしていた。   が、私自身知らなかった、これについての興味深い逸話を、ある大学生のブログから知ることができた。そこには日韓の若い人たちの間における、意図せざる交流の一つの有力なモデルが示唆されているように思う。   実は、韓国の一般市民による競技後の自発的な後始末のきっかけは、1998年フランス・ワールドカップの地域予選のために1997年東京で行われた試合まで遡っていた。その試合で韓国代表チームが、前半に1点を先制されながら、後半に2点を入れて逆転しただけに、韓国のメディアは「東京大捷」(東京での大きな歴史的勝利?!)とまで書きながら、その逆転勝利に酔いしれていた。だが、現地で直接応援をしていた韓国の「赤い悪魔」たちは、ただその結果に歓呼ばかりすることはできなかったようである。   彼らは、歓呼後のゴミ場と化した自らの応援席とは違って、敗北したにもかかわらず、競技の後、自ら黙々と後始末をして退く日本の若い人々の姿を目の前にして、大きな衝撃を受け、「ゲームでは勝ったが、市民意識では負けた」と恥じていた。5年後のソウルで示された、あの「市民意識」の表われは、日本の若い人たちの刺激によるものであったのである。   その背景からみても、また「他者」の視線が消えた2006年のドイツ・ワールドカップ当時のソウルでの狂乱ぶり(逆戻り)からも判るように、2002年韓国の人々が示していた「市民意識」とは、それほど普遍的なものとは言いがたく、まだ「韓国人」としてのプライドや恥といった意味の制限的な域を脱していないかもしれない。   とはいえ、韓国人にとっての「日本」といった方程式に興味深い変化が起こっていることには注意したい。ごく制限された人々の内輪で伝わる少数の日本人についての物語を別にして、これまで韓国の人々が「日本」から恥を感じ、それがきっかけになって自らを省察的に振り返られた場面はないといってもよいのではないだろうか。それだけに、1997年の東京からの学びと2002年のソウルでの実践は貴重な体験のように私には感じられたし、また日本の若い人々にも知ってほしいものである。   これまで「日本」とは、韓国人自らのアイデンティティを確認し、それに対する闘争心や恐怖心を扇ぐのに最も適した否定的な記号であったことは論を待たない。たとえ産業競争のため日本から技術を習うとしても、そこに尊敬心は期待できるものではなかった。   だが、明らかに時代は変わりつつある。   もちろん、表面的には依然として従来の方程式が大勢を占めているかの様相ではある。しかし私は、たとえ制限的なものだったとしても、恥じるべきことに恥じ、習うべきことを習った「赤い悪魔」たちの例にも、その事実を自らのブログに載せ、より健全なる市民意識に向けた省察を求めたある大学生の例にも、韓国社会における底流の変化を感じ、また信じる。   ------------------------------------ 高 煕卓(こう ひたく、Ko Hee-Tak)   2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------
  • 2007.06.02

    一年後、わたしは、別の会社でアルバイトをしていた。新しい会社で働いていたある日、同僚が急に「フスレ君、下北沢にモンゴルパブがあると聞いたんだけど、連れて行ってくれない?」と言いだした。   「下北沢にモンゴルパブがあると聞いたことはありません」とわたしは冷たく断った。「モンゴルパブ」という言葉を聞いたとたん、気にはなるが、日本でモンゴルパブがあるということは知らなかったし、仮に知っているとしても、わたしは行かないと思った。なぜかというと、昼間はレストランとして営業しているバプが存在しているとしても、パブは「人間をむしばみ堕落させる」という考えは変わらなかったからだ。   2000年の夏休み、わたしは故郷に帰って、古いモンゴルについての資料調査をおこなった。オルドスで調査した際、自分が働いていた芸術大学の、昔の教え子とあった。彼女はいろいろ案内してくれただけではなく、夕方に、彼女の友達を集めて、ご馳走してくれると言った。   「場所は、先生が決めてください」と彼女は言ったが、土地に不案内なわたしは「場所は任せます」と答えた。 「モンゴルパブはどうですか?」と彼女は聞いた。 「バブはダメ、普通のレストランがいい」とわたしは言いながら、「オルドスにまで、パブが作られ、しかもモンゴルパブなんて、内モンゴルはほんとうに変わった」と思った。   その日の夕方、あるレストランで、彼女は十数人を集めて、豪華な料理をご馳走してくれた。同じ世代の、彼女の友達のなか、地元の官僚になった人もいるし、大金持ちの商売人や医者になった人もいた。ほとんどは個人の車を持っている。   食事が終わって、9時ごろだったようだが、空はまだ暗くなっていなかった。彼女は、仲が最も良い女性の友人一人を残して、ほかの友達を帰らせた。そして、「時間はまだ大丈夫でしょう。もう一つの良い店があります。一緒に行きましょう」と言った。   真夏で、資料調査の目的もほぼ達成できたので、次のレストランに行ってもかまわないと思って、わたしは承諾した。   タクシーに乗って、次の店に到着した後、看板も見なかったわたしは、彼女たちと一緒に中に入った。この店の雰囲気は、少し独特であった。テーブルごとの上の小さな照明は明るいのだが、店全体としては、暗い感じがするし、男の若い歌手二人が欧米の流行歌を歌っていた。店には、冷房も付いていて、とても涼しく、また、大型のテレビが設置され、欧米の映像を流していた。店長は若くて美しいモンゴル人の女性で、彼女たちをよく知っているようだった。角のほうのテーブルを選んで三人で坐った。わたしはビールとつまみを注文したが、彼女たち二人は、わたしの名前の知らない飲み物を注文した。   話しながら、急に、よく知っているあるメロディが耳に入ってきた。二人の歌手は、わたしが大好きな、モンゴル国の有名なバンド“Hurd”の歌「戦士の心」を歌い始めた。歌は確かに上手い。感情を込めた歌だったので、とても感動的であった。聞き終えて、「この二人は何という名前ですか?プロの歌手ですか?」とわたしは尋ねた。彼女はその二人の名前を教えてくれた。わたしが「戦士の心」が好きだということを知った彼女は、店長に何か言って、歌手は再びこの歌を歌ってくれ、お客さん全員が拍手した。その後も、その二人はHurdの他の歌を歌いつづけた。   2時間ほど、気楽に話しながら、歌を聞いたわたしは、資料調査の辛さと夏の暑さを完全に忘れてしまった。店を出た際、「この店の名前は何ですか。チャンスがあったらまた来たい」とわたしは聞いた。 「デオニソス。モンゴルパブですよ」と彼女は微笑みながら言った。 「モンゴルパブ?!」と、わたしは驚いたが、このようなパブは好きだと思った。 「ここに来るお客さんはみんなモンゴル人ですよ」という彼女の友人の話を聞いて、さっき、店の中のお客さんは確かにみんなモンゴル語で話していたことを思い出した。   忘れられない夏の夜だった。   去年モンゴル国ウランバートルに行った際も、日本人の先生の紹介で、スフバートル広場の傍のパブに行った。そのパブも完全にレストランなので、雰囲気も良かったし、料理も美味しかった。ただし、値段がすこし高かっただけである。わたしは日本のパブとモンゴルのパブについて話したら、その先生は「モンゴルのパブは居酒屋だよ、ヨーロッパのパブは飲み屋で、日本のパブだけはちょっと特別だ」と言った。   夏がまた来た。2000年夏の、オルドスのモンゴルパブでの経験を、また、思い出した。   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------
  • 2007.05.31

    エッセイ058:ボルジギン・フスレ 「モンゴルパブ(その1)」

    1998年4月、日本に来た翌日の朝、わたしは親戚に連れられて大学に行った。親戚の家から駅まで10分ほど歩くのだが、途中、ネオン・サインがまたたく建物の前にたくさんの人がならんでいるのを見て、親戚は足を止めて、「日本に来て、3種類のところに行ってはいけない」とわたしに言った。   「あれはパチンコです」と、親戚は、その建物を指しながら、詳しく説明してくれた。「日本ではどこにもパチンコ屋があります。お年寄りや若者、主婦、学生など、さまざまな人がパチンコに熱中して、病みつきになっています。一部の人は仕事もせず、毎朝、起きたらパチンコに行きます。みんな幸運を当てにする考えで行くのだが、実際ほとんど負けて、すっからかんになります。それでも、どこかからお金を手に入れて、すぐ続けてパチンコに行って賭けます。結局、家計を傾けたり、離婚したり、悲しい末路になってしまいます。あなたは、絶対、こんなところに行かないでね」。   「はい。パチンコには絶対行きません」とわたしは真剣に答えた。   「パチンコだけではなく、競馬や競輪など賭博と関係するところは一切行ってはいけない。故郷から来た人の中で、競馬に賭けて負けてしまい、あっちこっち借金して、結局、千万円も超える、背負いきれないほどのお金を借金して、返済もできなくなっている人もいます。彼は、現在、不法滞在で一生懸命働いていて、返済しようとしていますが、難しいですよ。」と、歩きながら、親戚は教えてくれた。   「第二に、スナックやパブにも行ってはいけない」と、親戚は続けて、第二の約束を要求した。「“スナック”って何ですか」とわたしは聞いた。中学生から日本語を独学で勉強し始めたわたしは、「パブ」という単語の意味はわかるのだが、「スナック」という言葉は習ったことはなかった。   「あれだよ」。ちょうど目の前に、ドアにも窓にも、中を見られないようにさまざまな顔料が塗られた、雰囲気が特別な、ある小さい建物があった。親戚の説明はとても簡単だったが、わたしはすぐ「スナック」はだいたい「パブ」と同じ物であると理解した。幼い頃から、毛沢東式の社会主義教育と厳しい家庭教育を受けたわたしには、「パブ」という物は、アメリカのような資本主義国家や中国国民党の社会のなかでの、人間をむしばみ堕落させる、汚い産物であるというイメージをもっていた。こんなブルジョアジー的な腐り果てたところには行くわけはないと思ったわたしは、「はい。スナックやパブには絶対行かない」と、迷わず約束した。   「第三に、風俗と関係するところには絶対、行ってはいけない」と、親戚に第三の約束をさせられた。スナックとパブに行かないと約束したわたしは、当然、風俗にも行くわけはない。   まもなく、池袋で、最初のアルバイトを見つけた。支配人は、中年のおしゃれな女性の方で、一日めは、わたしと一緒に働いてくれた。彼女は仕事が速く、態度もとても親切で、やさしかった。その後、彼女は何回か、わたしの仕事を手伝ってくれた。「日本の支配人はやり手で、優しいね」とわたしは思った。   約二週間後、午前中の仕事を終えて、昼休みになって、休憩室に入ったところ、事務の方がやってきて、「さっき、支配人がフスレさんを探していたよ。フスレさん、はやく、“チューリップ”(仮名)に行って。支配人はそこで待っているよ」とわたしに言った。“チューリップ”は、会社から少し離れたところにあったパブの名前だ。   会社に来る途中、いつもそのパブの前を通っていた。でも、なぜ、あそこでわたしと会うのか? 日本に来たばかりだが、留学生の先輩たちはすでに、日本の女性のさまざまなことについて、教えてくれていた。「もしかして、支配人がわたしに…?」とわたしの心は千々に乱れ、どうしたらいいのかがわからなくなって、心配で落ち着かなかった。   「場所はわかるよね、早く行きなさい。吉永さんも一緒に行ってね」と、事務の方に催促された。吉永さんは職場の60代の先輩で、「彼女も一緒に行くなら、大丈夫かな」とわたしは少し安心したが、やはり「ヘン」と思った。慌てて、吉永さんと一緒に“チューリップ”に向かったわたしは、短い時間で、いろいろなことを真面目に考えた。「パブには絶対行かない」という約束があっただけではなく、問題は、「自分の上司である女性の支配人に呼ばれて、パブで会うことは、どんなことなのだ。万が一、…」とわたしは思いながら、仕事を辞めることまで覚悟をした。   不安のまま、吉永さんの後について、“チューリップ”に入ったわたしは、頭を下げて、まわりを見る勇気もなかった。支配人と挨拶して、椅子に座った。「何か食べたい」と支配人がメニューをわたしに渡した。メニューには、カタカタで書かれた料理名が多く、意味があまり分からなく、勝手にある安い値段の付いている料理名を指さして、「これにします」とわたしは言った。「これはサラダだよ。これだけでいいの?」と、支配人がそれを見て笑って、代わりに別の物を注文してくれた。料理を待っている間、「フスレさんはよく頑張っているね。まわりの評判もいいよ。頑張ってね」と支配人はわたしを誉めた後、モンゴルのさまざまなことについて聞いた。話しながら、わたしはまわりの様子を見た。部屋のなかは明るく、みんな食事をしているだけで、普通のレストランとあまり変わったところはなかった。「これってパブ?」わたしは不思議に思った。結局、無事に食事も終って、お酒も飲まずにすんだ。お金は支配人が払ったが、日本のパブは自分の想像とまったく異なっていた。   その日、自宅に帰って、夕食の後、親戚の家に行った。「ごめんなさい。今日、パブに入ってしまった」と、約束を破ったわたしは、親戚にあやまった。親戚がこの言葉を聞いて、びっくりして、「なに、あなた…」と彼女はたいへん怒った。しかし、昼のことについてのわたしの詳しい説明を聞いた後、彼女はたいそう笑った。この経験を通して、わたしは、日本では、「一部のパブは昼には普通のレストランとして営業していること」と「上司が部下におごるのは普通であること」がわかった。今、考えてみると、当時、支配人にそのような気はなかったのに、わたしが誤解して、好かれていると勝手に思い込んだことにすぎなかった。   (続く)   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------
  • 2007.05.29

    エッセイ057:範 建亭 「我が家の“お手伝いさん”」

    帰国してもうすぐ4年になる。上海の生活は日本に比べて不便なところが少なくないが、便利なところも結構ある。家事の“お手伝いさん”はその一つである。   中国の大都会では、お手伝いさんを雇うことはかなり普及しており、ごく普通の一般家庭にもよく見られる。その背景として、都会に住む人たちには仕事で忙しく、また核家族であるから家事に困っている人が多く、その一方、都会にやってくる地方出身の出稼ぎ労働者には、特別な技能を持たない女性が少なくないという事情が挙げられる。そこで、多くの出稼ぎ女性労働者は、家事の“お手伝いさん”という特殊な職業に従事していくのが現状だ。   家事のお手伝いと言っても、その雇用形態はほとんど非正式なものとなっている。家政婦紹介所あるいは口コミでお手伝いさんを紹介してもらうが、働く時間、仕事内容、時給などは双方で相談し合って決める。そのメインの仕事はトイレ、キッチンと部屋の掃除であり、ほかに洗濯、料理の仕度、子供の世話などもある。時給は上海の場合、現在7元(約100円)が相場であるが、2-3年前には6元であった。   我が家もこれを利用して、毎週2回、計5時間程度でお手伝いさんに来てもらっている。そのお陰で、80平米ぐらいの部屋の掃除は自分たちでしなくていいから、生活はかなり楽になった。しかもその代償は月に140元ぐらいしかないから、経済的な負担にもならない。だが、お手伝いさんの働きぶりなどに少し不満もある。一番困るのは急に辞めることだ。   これまで、二年未満のうちに我が家にやってくるお手伝いさんは4人も入れ替えた。辞める理由はさまざまで、彼女たちの生活事情などをよく反映していると思う。最初の彼女は家政婦紹介所で見つけた。30代で、愛想がよく、家事の仕事もテキパキこなしたが、ある日から突然来なかった。彼女からの連絡はないし、こちらから連絡してもなかなか取れない。やっと上海にいる彼女の夫が捉まったので事情を聞いたところ、なんと田舎にいる息子のことが心配になって急に帰郷したという。   1ヶ月ほど待っても彼女が戻ってこないから、紹介所を通じて2番目のお手伝いさんを探した。今度の彼女は40代で、旦那も子供も一緒に上海に出稼ぎしているから、帰郷する心配はなかった。だが、3ヵ月後にやむをえない事情で彼女も辞めてしまった。それは、彼女が下宿しているアパートを建て直すため、遠いところに引っ越さなければならないということであった。幸い、彼女からすぐに知り合いの仲間を紹介してもらった。   3番目のお手伝いさんは一番若く、明るい人であり、時には家内の話し相手にもなっていた。だが、彼女も数ヵ月後に辞めた。それは妊娠したので仕方がないが、びっくりするのは、彼女にとっては3番目の子供で、理由はどうしても男の子がほしいという旦那さんからの圧力であった。もともと彼女は「一人子」政策に違反しているから、田舎から上海に逃げてきたという事情もある。   今度の4番目のお手伝いさんは来てからもうすぐ3ヶ月になる。彼女は40代で、これまでのお手伝いさんの中で一番気遣う人であるから、長くやってもらいたいが、そんな保障はどこにもないと思う。   -------------------------- 範建亭(はん・けんてい ☆ Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2007.05.09

    エッセイ056:アブリズ・イミテ「ウルムチの冬は」

    ご存知かもしれませんが、中国の一番北西にシルクロードの主な舞台である新疆ウイグル自治区という広い地域があります。ここには面積が世界第二のタクラマカン砂漠、世界第二に標高が低い(海抜-154m)所と世界第二の高峰(K2峰:8766m)があります。   自冶区の区都ウルムチ市はユーラシア大陸の中心地で、全ての方向の海岸線から2400km以上離れていて、世界で最も海から遠い町と言われています。近年は人口が急増し、予想外に近代化されて、とても砂漠に続く地とは、思えないように変様しました。   冬の気温が氷点下の所で生活した体験がない方にはとても想像できないかも知れませんが、毎年12月から翌年の2月までウルムチの気温は氷点下20℃ぐらいで、最低氷点下28℃の記録もあります。近年は地球温暖化の影響もありまして、特に今年の冬は暖かくて、最低気温は氷点下18℃までしか下がらなかったし、そのような厳冬の日も多くはありませんでした。その代わりに旧年の11月から今年の3月まで、まるで日本の梅雨のようにずっと霧の日々が続き、青空を眺めることはまったくできませんでした。   ウルムチの冬は長く、10月中旬から翌年の4月中旬まで約6ヶ月間地域暖房熱が供給されます。この間大量の石炭を使うため、暖房設備のボイラーから煙塵や、二酸化硫黄などの汚染物質が排出されますが、霧が多いと空気中の汚染物質が分解も拡散もできなくなります。今年1月10日前後の数日間、連続で大気の汚染度が「重度」となり、国内だけでなく外国の新聞などにも載り、大きな話題となりました。つまり冬季のウルムチ市は、全国で最も大気が汚染された都市の一つということになっています。私が住んでいる高層住宅でも、朝窓を開けると変な臭いがするほどでした。少しでも雪が降れば空気中のほこりが少なくなり、空は洗われたように真っ青になりますが、今年の冬は雪もあまり降りませんでした。   80年代までは、市内の大部分が社宅で、会社、学校や政府機関などが個別暖房熱供給システムを備えていました。個別暖房の場合、熱効率が低い、エネルギーの使用量が多い、環境保全性が悪いなどの問題が存在するため、当時は、真っ白の雪が降ると次の日は真っ黒に変わりました。そのときウルムチに訪ねた外国人が「ここでは黒い雪が降るんですか」と聞いたと言う話もあります。冬になると空を飛んでいる鳥の色も黒くなってしまったのです。   90年代に入ってからウルムチ市政府は環境改善のために新しく「熱力会社」を設置し地域暖房熱供給システムを作り、稼動率が低い小型ボイラーの設置を禁止し、省エネルギー、環境保全性を目ざした「青空を取り戻す」計画を執行し、汚染物を大幅に削減するために努力しました。   1998年3月からウルムチ市の大気汚染に関する週間報告が発表されるようになり、市民が空気の汚染状況を知ることができるようになりました。その後の統計によると、冬季はTSP(総浮遊粒子量)、SOXとNOXなどの汚染物が中国の環境基準値を1-2倍超えていることが分かりました。   ウルムチ市の大気汚染の、季節による変化は非常に大きいです。毎年11月から翌年の5月までは大気が汚染されている時期で、特に12月から翌年2月までの3ヶ月間は大気汚染が最も酷くなります。6月から10月までの間は大気汚染が少なく、空気の質が非常に良い時期です。特に7から9月までは旅行に最適な期間で、外国人を含めて多くの観光客が訪ねきます。   近年、再び冬の大気汚染が酷くなっている原因としては:①熱力会社は経費を削減するために、硫黄分の高い、質の悪い石炭を使用している、②人口が急増しているため、開発業者が地理条件などを配慮しないで高層ビルを建てている、③郊外の工場などから出る煙と自動車の排気ガス等が考えられます。   ウルムチ市政府は問題を放置しているわけではありません。環境改善のために排ガスの基準を設けたり、暖房設備や工場には汚染物質排出の軽減を義務付けたり、汚染物を排気する大型工場などを郊外から撤退することと自動車の排気ガスを規制するなどの対策を採っています。   新疆ウイグル自冶区は石炭と天然ガス資源が非常に豊富です。天然ガスのパイブラインは上海まで届いていますが、その値段は上海市よりもウルムチ市のほうが高いので、暖房熱供給に使う石炭の代わりに天然ガスを使うことは近い内には不可能だと思います。   人間は安静時でも一日約10m3、重量で約12kgの空気を肺に取り込み、食物 (0.6kg、乾燥量)や水分(約2~3kg)と比べても多いので、大気汚染は市民にとても関心のある問題の一つとなり、大気汚染を減少させることが求められています。   近年、ウルムチ市政府は環境保護に大量の投資を行い、大気汚染を減少させるために多くの研究が行われています。私の研究室でも日本で身につけた知識を活かしてSOxとNOxなど汚染物の新しい測定法について研究を行っています。近いうちに、冬の厳冬の日でも青空を眺めることができるようにと心から願っています。そうなれば、ウルムチの近くに新しくできた「国際スキー場」にも観光客がいっぱい集められるようになり、冬でも夏と同じようにぎやかになると思います。   ---------------------- Abliz Yimit ☆ アブリズ・イミテ 2002年度渥美奨学生、工学博士、(現)新疆大学化学化工学院 教授。 1996年4月新疆ウイグル自冶区政府派遣で来日、明星大学理工学部客員研究員、1998年4月横浜国立大学大学院に入学し、高感度光導波路による化学センサに関する研究を行い、2003年3月工学博士号を取得。2003年4月~2004年3月、横浜国立大学環境情報研究院「博士研究員」。2004年5月新疆大学助教授、2006年11月から新疆大学教授。 ----------------------  
  • 2007.05.02

    エッセイ055:陳 姿菁 「台湾の清明節」

    台湾の重要な節句の一つ清明節は4月にあり、今年(2007)は木曜日にあたります。近年週休2日制(土日は休み)となったので、多くの企業は金曜日を休みにし(次の週の土曜を振替出勤にする)3連休となったのです。清明節は、掃墓節とも言われ、日本でいうお彼岸と同じで、皆でそろってお墓参りにいって先祖を祭ります。ただ台湾は春のお彼岸(清明節)しかなく、秋にはありません。以前、4月4日は子どもの日であり、4月5日は蒋介石総統が1975年に亡くなったことから、蒋介石の墓参りと祖先の墓参りを同時に行えるようにと政府は新暦の4月5日に清明節としたのです。学校では、数年前まで、子どもの日と清明節にあわせ、一週間ほどの「春假(春休み)」という長い休みがありました。しかし、近年、多くの学校は春休みという習慣をなくしたのです。   台湾のお墓参りは日本の習慣と異なります。昔、台湾は土葬の習慣がありました。台湾人は亡くなった人の墓地の「風水」の良し悪しによって、後代の子孫に影響を及ぼすと信じており、先祖の墓地を慎重に選ぶ習慣があります。理想な墓地、すなわち「風水」のよい墓地は、日当たりのいい、水分の多い場所だと言われています。しかも、日本の「××家」のように、家族は同じ墓地に入るのではなく、台湾のお墓は一個人が一つ持っていています。その上、よい「風水」の条件を満たすところは大体郊外にあるので、とくに自然のいいところや高台や海の見えるところに墓地が集まっていて、お墓参りは一日つぶしての大行事です。しかし、最近は土地が狭くなることから、土葬の代わりに火葬になりつつあり、納骨堂も一般的になってきています。   お墓参りに持っていく供え物は家々によって異なりますが、お菓子、果物、花などは共通しています。そのほか、お線香、蝋燭、「金紙」(台湾語。北京語で「紙銭」という)という焚き紙銭を焼いて祖先を供養するのです。   土葬の場合、先祖を供養する前に、まずお墓を掃除します。それは北京語のお墓参り「掃墓」の由来でもあります。一年一回ですので、お墓はかなり雑草が生えていたりします。それを機に家族が協力してお墓をきれいにします。暑い日に当たったら、汗ばむ重労働になります。しかし、最近、専門の人に頼む傾向が強くなり、本当の「掃墓」は形式になりつつあります。掃除を終えたら、「墓碑」の前の蝋燭に火をつけ、用意した食べ物を供え、お参りに行く人たちはお線香を持ち、祖先にお参りに来た旨を告げます。それから、焚き紙銭を焼きます。最後に、黄色の細長いやや薄めの「紙銭」と似た材質の紙をお墓の小さな盛り土の上に載せて小石で押さえます。これをす ることで子孫である自分たちがお墓参りに来たことを示すことができるそうです。   先祖一人一人へのお参りが終わったら、家に帰って食事をします。台湾の南部では「潤餅」(台湾語。北京語なら「春巻」に当たる)という揚げていない春巻きを食べる習慣があります。「潤餅」が生春巻きとも異なるのは、皮と中身にあります。「潤餅」の皮は蒸し焼きにしたもので、生春巻きほど湿っていません。中身はもやしやゆでたキャベツ、千切りした瓜、干した豆腐、豚肉、人参の千切りなど家庭によって多少違いますが、味付けはピーナッツパウダーと粉砂糖で台湾の北部も南部も同じです。今は、市場に行けば、年中売っている屋台が見つかります。   このように由緒のある一大行事の節句ですが、休みの少ない台湾だからなのか、お墓参りというより、近年、連休の「喜び」のほうが強いのではないかと印象に残りました。年配の方はまだ「お墓参りに行く」という意識が強いかもしれませんが、若者の間では果たしてどれぐらい先祖を偲んでお墓参りに行くのでしょうか。風の助力で紙銭の燃えかすが舞い上がる風景、忙しく行き来する人の群れ、そして高速道路でちっとも動かない大渋滞の状況を見てふと思ったのです。どれぐらいの人が誠心誠意でお参りにきているのだろうか、習慣に従わなければならないから仕方がなく来ている人たちはどれぐらいいるのだろうか、また若者はこの節句をどのように思っているのだろうかと考えを巡らせました。   周りの話を聞けば、「先祖を偲ぶ季節になりましたな」というのではなく、「連休だね、どこかへ出かける?」という話のほうが多いような気がします。唐詩では「清明時節雨紛紛、路上行人欲断魂(清明の時節は雨紛紛、路上の行人は魂を断たんと欲す。)」という清明節の風景を描く有名な節があります。清明節のときには確かに雨ばかり降っていました。行き来する人達はその雨から先祖のことを連想し、悲しくなるのでしょうか。先祖を大事にしてきた習慣も時代とともにその意味が薄くなってきており、形式ばったものになったような気がしてなりませんでした。これから先、土葬とお墓参りがなくなり、すべて納骨堂になったら、「掃墓」という言葉を写真で説明しなければならない時代を迎えなければならないのでしょう。   ------------------------------------- 陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching) 台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。 -------------------------------------  
  • 2007.04.20

    エッセイ054:シルヴァーナ・デマイオ「心の余裕をもとめて」

    前回、1941年大阪生まれの安藤忠雄が設計した司馬遼太郎記念館について書いた。安藤は子供向けの建物も設計している。例としては「兵庫県立こどもの館」(1990)、上野にある「国際子ども図書館」(2002)、伊東市の「野間自由幼稚園」(2004)、福島県いわき市の「絵本美術館」(2005)などがあげられる。「社会の中で、都市、建築の造られ方が子どもを自然に育てるところがあると思います。その点で私が大切に思っているのは、手を加えすぎず、忘れている場所を作りだすことです。忘れた、というと怒られそうですが、設計し尽くさず、ほったらかすところ。学校の教育でいうと、放課後の時間のような感覚ですよね。『自分で、自由にどうぞ』でいい。この時間があって、初めて学校の意味が出てくる。建築も同じで、全てを予め準備し尽くしてしまっては、子どもが自分で探していくところがなくなってしまう。」以上は村上龍の『人生における成功者の定義と条件』(2004年、NHK出版、p. 44)に掲載された安藤へのインタビューからの引用である。更にまた「子どもが自由に探していけるところがなかったらどうするんですか。我々大人にとっても同じことが言えますよね。自分の生活の中で、ほったらかしにしてあるところを探して、そこに自分なりの工夫を凝らしていくから、それぞれの個性が現れてくる。探して自分で汲み上げていくプロセスが楽しいのです。」(前掲、p. 45)とも述べている。   イタリア人のエッセイスト、演劇・映画評論家のゴッフレード・フォフィ(Goffredo Fofi)はイタリアの中部にあるグッビオ市で1937年に生まれ、有名な雑誌『クアデルニ・ピアチェンティーニ(Quaderni piacentini)』等にも書いてきた。2006年11月のイタリア経済新聞『イル・ソレ・ヴェンティクアットロ・オレ(Il sole 24 ore)』の週刊誌の社説に次のように書いている「必要でもない映像・言葉・音響があり過ぎ、我々の責任能力を鈍らせる。我々の思考力は、日常的に届く情報を消化する余裕がない。(中略)掲示広告がどんどん大きくなり、下品になってきている。その掲示広告によって自治体、教区はお金をもうけるが、町並みの風景、教会、記念建造物などが見えなくなり、より美しい町もその美しさを失ってしまう。」この社説の題は「思考力のための京都」である。要は、地球温暖化防止のために京都議定書が調印されたように、「思考力のための京都議定書」が要求されるということである。言い換えれば、思考力、それから身体の「エコロジー」のため、「少ないこと、必要なこと、いいこと、思考されたこと」を出発点にし、再びスタートする必要があると、フォフィは述べている。   彼は、悪名高きナポリ郊外のスカンピア(Scampia)地区の若者のためのプロジェクトの支援者の一人になっている。不条理演劇家アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)の『丘の上のユビュ(Ubu sur la Butte)』 (1906)はイタリア語、正確に言うとナポリ方言で上演するために書き直され、マルコ・マルティネッリ(Marco Martinelli)監督のもとで、スカンピアの約100人の若者は『ウブ・ソット・ティーロ(Ubu sotto tiro)』を演じ、大好評を浴びている。   ゴッフレード・フォフィと安藤忠雄は同じ世代の人物である。彼らが主張し活動していることは、基本的に変らないのではないか。二人とも、若い世代に心の余裕をもつ重要性を理解してもらうように、それぞれ努力している。   ---------------------- シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio) ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------
  • 2007.04.18

    エッセイ053:羅 仁淑 「4月が待ち遠しかった妻たち」

    離婚を考える日本の妻たちはこの4月が待ち遠しかっただろう。結婚経験のない者が離婚を論じること自体場違いかもしれない。いや経験がないからこそ客観的に述べられるのかもしれない。   離婚件数、有配偶離婚率(有配偶人口千人当り)、離婚率(人口千人当り)、どれを見ても強い増加傾向にある。戦後の離婚率は90年代前半まで0.7~1.6と低かった。しかし、その後急速に増加しはじめ、2000年にはとうとう2を超え2.1を記録し、2001年には2.27、2002年には2.30と右上がりに増加している(厚労省「人口動態統計」参照)。その中でも熟年離婚(結婚20年以上、あるいは養育を終えた後の離婚)の増加が目立つ。たとえば離婚件数から見た2001年の対前年比増加率は結婚10年~15年が5.9%、15年~20年が4.2%、20年~25年が7.3%、25年~30年が1.3%、30年~35年が10.3%、35年以上が7.7%である(厚労省「人口動態統計」参照)。このデータは熟年離婚率が高いことを示しているだけでなく、結婚25年~30年で一旦低くなり、30年~35年で爆発的に高くなる面白い現象を見せている。何を意味しているのか。結婚期間30年~35年の場合、仮に25歳で結婚したとすると、30年で55歳、35年で60歳となり、日本の定年年齢と一致する。つまり夫の定年退職を待ってそれを機に離婚を切り出す妻が多いということではないだろうか。   離婚率の話に戻そう。離婚率は2002年(2.30)をピークに一変し、2003年には2.25、2004年には2.15、2005年には2.08、2006年には2.04と急激に減少の一途を辿る。トレンドから予想できる増加率に減少した分を合わせるとその減少率はかなり大きい。婚姻期間別の離婚率を集計してみれば、この間の熟年離婚率の減少率はさらに高くなるはずだ。めでたく実際の離婚率が減ったのか?否であろう。結論を先取りすれば、厚生年金や共済年金の離婚時年金分割制度の実施後に離婚を延ばしたと見てよかろう。   分割制度を導入する方向が定まったのは2002年11月9日、厚生労働大臣の諮問機関である「女性のライフスタイルの変化等に対応した年金の在り方に関する検討会」においてであり、同年12月厚労省が発表した「年金改革の骨格に関する方向性と論点」には年金分割が改正項目に挙がっている。分割の方針が決まるまで右上がりで伸び続けていた熟年離婚が、方針が決まると同時に反転したことから、離婚が改正年金法の施行以後に延ばされたという結論は容易にみえてくる。   2004年2月10日閣議決定され、同年6月5日参議院で可決成立した(2007年4月1日施行)離婚時年金分割制度の内容は、①2007年4月1日以後成立した離婚が対象であり、②厚生年金や共済年金の報酬比例部分に限定し、③婚姻期間の保険料納付記録を半分まで分割でき、④将来自分が厚生年金や共済年金の受給資格が得られる年齢から受給でき、⑤分割を行った元配偶者が死亡し場合においても影響を受けない。   共働き期間については夫婦の年金の差額が分割対象になるため妻の収入が高ければ逆に夫に分割しなければならなくなる可能性はあるものの、夫が平均的収入(平均標準報酬36万円)で40年間就業し、妻がその期間全て専業主婦であった場合、夫の報酬比例年金100,576円(2006年度基準)の半分が分割できるようになったのは事実である。仮に老後の生活資金が不安で離婚を躊躇している妻の場合、自前の老齢基礎年金(被保険者期間40年で66,008円)のほかに夫の報酬比例年金の半分が受給できるようになったことは、離婚に踏み切るエネルギーになるかもしれない。   男性の立場はどうか。家庭を顧みず、いわゆる「仕事人間」として生きてきた男性の方が熟年離婚に遭遇する場合が多いらしい。家族のため仕事一辺倒の人生を生きてきて、働けなくなった途端に職と家庭を同時に失う、とくに長い間目標を一つにしてきたもっとも信頼できる人からの背信に虚脱感は大きいだろう。離婚にはかなりのエネルギーが必要だとよく聞くが、自分の退職金や年金が妻の離婚エネルギーと化するとは何とも皮肉な話だ。また、前の奥さんとの婚姻期間分年金額が少なくなるため、再婚(相手が初婚の場合)を考える場合にはとりわけ不都合だ。離婚にはさまざまな原因と理由があるだろうが、「使い捨て」感が濃厚な熟年離婚より相手が再起可能な早い時期にできないものか、我慢してきたのならもう少し我慢できないものか、と経験のない私は思うのだが。   ------------------------------ 羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------
  • 2007.04.18

    エッセイ052:キン・マウン・トウエ 「ティンジャン:ミャンマーの水掛祭」

    ミャンマーには雨季と乾季、それに夏の三つの季節があります。3月下旬あるいは4月になって暖かい風が吹き、落ち葉があちらこちらに溜まり始めると、暑い夏がやってきます。夏と言えば、ミャンマーの人たちにとってのお正月である「ティンジャン(水掛祭)」が一年中で最も楽しい時だと言えるでしょう。   ティンジャンは、ミャンマー式の12ヶ月カレンダーのはじめの月に行われます。4日間連続で、民族や宗教に関係なく、皆が祝う一番楽しい最大のお祭りです。「過ぎ去った年の(良くなかった)ことは水に流して新年を迎えよう」という意味がある伝統的なお祭りです。この水掛祭は、11~12世紀ごろのバガン王朝時代から残っていると記録されています。このお祭りは、ミャンマーだけではなく、タイやインドなどにもあり、東南アジアでは有名なお祭りの一つでしょう。   ティンジャンの4日間を説明します。1日目は、「ティンジャンを迎える日」と呼ばれ、ミャンマー全国で開会式などが行われます。ほぼ毎年、4月13日です。その日から水の掛けあいがスタートします。基本的に昼間は水を掛けあう遊び、夜は街の様々なところで踊りが見られます。2日目と3日目も同様です。最後の日である4日目は、「ティンジャンの終わる日」と呼ばれています。一年に一回しかないお祭りなので、この4日間は、若者たちが一番楽しみます。   時代の流れにのって、ティンジャンの風景も変わってきています。昔のティンジャンは、自分の両親や先生、友人たちなどに、花などを器にして水を掛けるという伝統的な習慣でした。現在は、グループ化して、ステージから水を掛けたり、オープンカーなどで遊んだりしており、昔の風景がだんだんなくなっていきます。一日中水を掛けて遊んでも、風邪をひかないことがこのティンジャンの特徴です。私も若い頃、この4日間は家に戻らずに遊んでいました。あの楽しさは、今でも忘れられません。   年輩の方々は、この4日間の豊かな時間を利用して、お寺(バゴダ)へ行くことが多いです。最近は、若い人たちも自分の来世のためにと、お寺(バゴダ)へ行くことが多くなってきています。この4日間、一部の人たちは、持ち米で作る日本のお団子のような食べ物や、ココナッツゼリーなどを作り、誰にでも食べさせますが、これもこのお祭りの一つのイメージです。   年一回しか見られない桜花のような黄色いパドク(Padouk:Gunkiro flower)と呼ばれる花もこのティンジャンのイメージです。   ティンジャンが終わったら、新年が始まります。元旦には、今まで街で遊びまわっていた若者をはじめとして、ほとんどの人々がお寺(バゴダ)へ行き、お祈りをします。ミャンマーの新年の朝はお祈りから始まります。バゴダに立ち寄り、仏に手を合わせ、真心で新年の幸をお祈りします。仏教が生活の中に息づくミャンマーでは、祈ることは生きることそのものなのです。   元旦に、若者が年輩の方々の頭髪を洗ってあげたり、様々なお世話をしたりすることも、ミャンマーの水掛祭の伝統です。また、両親や先生方、自分がお世話なってきた人々を表敬訪問することも、まだ広く行われています。このようなことは、時代の流れによってティンジャンの風景が変わっても、未だによく見られる、仏教国ミャンマーのお正月の風景です。   今年のミャンマーのティンジャンも例年と変わらず、4月13日から16日まで行われ、17日が元旦です。今年の私の予定としては、この豊かな時間を家族とお寺(バゴダ)へ行くことができるのか、まもなく完成する弊社の新食品工場設備設置のために来られる日本の技術者の方々と仕事になるか、今のところ、可能性は半々です。   ティンジャンを撮影した後藤修身氏の写真を下記URLよりご参照下さい。 http://www.ayeyarwady.com/photo/tingyan/tingyan.htm   ------------------------------------------ キン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe) ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院工学研究科物理および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学工学部物理および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ------------------------------------------
  • 2007.04.06

    エッセイ51:マックス・マキト「SGRAのおかげで研究が進んできた」

    1995年に東京大学から博士号を取得し無事に卒業したが、やむを得ない事情により、自分で探してすぐに見つけたある教育機関の職についた。しかしながら、「あなたの研究は一切支援しません」と言われ、大学院で行った日本のODAについての研究はそこで止まってしまった。もちろん完全に終わってしまったわけではなく、自分の時間とエネルギーを教えることに集中せざるを得ない状況のなかでも、日本の経済開発の研究をなんとかやり続けた。残念ながら大学院で研究をしていた頃と違って、日本と母国との比較研究はできなかった。   2000年7月にSGRAが設立され、また比較研究ができるようになった。僕の提案が留学前にフィリピンで所属していたアジア太平洋大学(UA&P)に受け入れられ、SGRAの温かい支援を受けて、フィリピンの経済特区に関する共同研究をやることになったのだ。当然ながら僕の感謝の気持ちとして、この共同研究はSGRAという組織のもとでやっている。このような姿勢はフィリピンやアジア各国ではわりと問題なく受け入れられるのだが、日本人からは凄い抵抗を感じる。抵抗が強い分、日本のNGOであるSGRAからの支援が大切なのだと僕は見なしている。   最初に行ったのは製造業の経済特区の研究だった。この研究については、今年の1月に北京にて最終報告を行った。現在、SGRA顧問で名古屋大学の平川均教授が行っている産業クラスターの研究の中のフィリピンのトヨタの調査とからめて、この製造業特区研究の継続の可能性を探っているところである。この研究の当初の目的はフィリピン経済特区管理局(PEZA)での蓄積されてきたデータの保存だった。当時、このデータは全く利用されず倉庫に入れられ、忘れられて腐り始めているという状況だった。もったいないという気持ちで保全プロジェクトを始めた。   とはいっても、北京での最終的報告で述べたように、このプロジェクトの意義は、歴史的データの保全だけではなく、日本の特殊かつ貴重な経済開発の歴史の保全と考えても過言ではない。というのは、フィリピンの製造業特区における最大投資家は日系企業であることがわかり、このデータの分析によって、日系企業の伝統的な強さが効率性に繋がることが確認できた。日本の経済発展の最大の特徴でもある「共有型成長」は、みごとにフィリピンの経済特区戦略と一致していることが認識できたのだ。   この「共有型成長」はフィリピン国民の最大の願いであるといえよう。先日マニラでバスジャック事件が起き、幸いにも無血で解決したが、その手段は決して許されるものではないとしても、「貧しい若者たちにもちゃんとした教育環境を整備せよ」という犯人の訴えは、国民の願いを代表するものだったと思う。昨年末のSGRAかわらばん「醜いアヒルの子」でとりあげたような経済学者軍団があれだけ破壊しようとした日系企業の伝統的な慣習は、フィリピンとその他の東南アジア諸国の製造業特区に生きのびている。僕の歴史保全プロジェクトは両方の意味で成功したのだ。   UA&PとSGRAの共同研究の第2段階は、フィリピン経済特区管理局(PEZA)が管理するIT経済特区を研究対象として進められている。第1段階の製造業特区研究と同様、この研究も第3者機関から研究助成を受けることになった。そして、第3段階の準備も始めた。今度は、PEZAが管理する観光経済特区を研究対象としたい。まずは4月16日(月)にマニラのアジア太平洋大学(UA&P)で、「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」というテーマでセミナーを開催することになった。   以上の三種類の経済特区研究を眺めてみると、日本の存在が段々薄くなっている気がする。日系企業は製造業特区では支配的だが、IT特区ではフィリピン企業に逆転され、観光特区ではその存在すらない。それぞれの特区の関係者をみると、製造業特区では日系企業との関係が深く、コールセンターやソフト開発などが多いIT経済特区では欧米企業との関係が深く、観光産業は韓国と関係が深まっている。近年、韓国人観光客が激増し、日本人観光客数を追い越したし、韓国政府や企業が観光地に資金を注いでいる。   もちろん、フィリピンとしては、国を問わず外国人を歓迎するが、これだけ人生を日本に投資してきた僕としては、日本にももっと頑張ってほしい。共同研究の第三段階では、日本から遠ざかるような気がしないわけでもなく、ちょっと寂しく思う。しかし、観光経済特区でも、最初の製造業特区研究で開発した分析枠組みを利用するつもりなので、日本の「共有型成長」開発モデルが再確認できるという確信を持っている。物理的に日本の存在が薄くなっても、その理念はしっかりと存在し続けるであろう。   日系企業が東南アジアに大きく進出してきた最大の理由は、安くて良質な労働者というホスト国の比較優位点を利用したためである。フィリピンのIT産業や観光産業でも、きっと日系企業も活躍するようになっていくのだろう。   僕は観光産業特区に日本の目が向いてくれる日までに準備しておきたいことがあり、現在も着々と計画を進めている。考えてみれば観光産業の本質は「持続可能な発展」にあるが、「持続可能な発展=共有型成長+環境保全」という方程式の右側の両項は日本が得意とするところなのである。   日本人の皆さん、フィリピンの青い海と白い砂浜のリゾートに行きませんか?   -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------