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2007.02.03
2006年10月9日、北朝鮮が大胆にも核実験を行い、1980年代から懸念されてきた北朝鮮の核問題が顕在化した。世界中に激震が走った。
不思議なほど私の心は平穏だった。恐怖感はそれほど感じなかった。
徹底した反共教育で育ったはずなのに。
他の人々はどうだろう。
核実験の同日から一部のインターネット新聞やポータルサイトには以下のような祝賀、安保不感症、いい加減な予想を表すコメントで一杯であった。
・北朝鮮の核は韓国のものとも言える。民族の自信がみなぎる出来事だ。7000万人民族が慶祝すべき出来事だ。韓民族であることが誇らしく感じる日だった。10月9日は「ハングルの日」だが、ハングル創作に匹敵するほど光栄であり、すぐにも祝日に指定しよう。
・いまやわが民族も核を保有するようになった。核を盾に弱小国から強力な民族に成長しよう。北朝鮮を批判するより、韓半島の平和のために核が必要である当為性を国際社会に説明しなければならない。
・北朝鮮が核開発に成功したので、米国が強硬策に出る余地は減った。周辺国への被害を考慮し、核を持つ国を先に攻撃することはないはずだ。
いつの間にか北朝鮮の核実験ニュースにもそれほど恐怖感を感じなくなっている自分自身にも驚いたが、一部とはいうものの、ネチズンのコメントには開いた口が塞がらなかった。朝鮮戦争以来、南北関係は半世紀にもわたる熾烈な対抗の歴史であった。南北首脳会談が実現(2000年)し、宥和政策へ転換して5年余りしか経っていない。反共・親米思想で固まった私の頭はまだまだ適応機能不全状態の混乱模様だ。
日本の政調会長と外務大臣が「核保有論議は必要」と発言した(10月15日、18日)。当然、国内外から激しい反論の洗礼を受けた。国内に限ってみるだけでも、与党内から発言の自制を求められたり、有力紙が社説で扱ったり、国会でも野党4党から当人の罷免が要求されたり、それに対する答弁書が閣議決定されたり、などなど。
その結果は?
当人は無傷で、聞いただけで身震いするほどの「核」という言葉に国民の耳だけが慣れた。もしかして隣国の核保有を機に国民の核への拒絶意識を和らげるための国ぐるみの脚本・演出・製作?
日本は唯一の被爆国としてNPT(核拡散防止条約)やCTBT(包括的核実験禁止条約)など国際条約の遵守と核軍縮決議を毎年国連総会に提案しており、「持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」を国是の1つとしている。そして北朝鮮の核問題の解決を目指す6カ国協議のメンバー国でもある。日本が核を持つことは想像を絶するほど難しい。だからこそ、隣国の核保有は脅威であると同時に核保有のための空前絶後のチャンでもあり得る。
一般教書演説(2002年1月)のなかで、北朝鮮を「悪の枢軸」であると高らかに批判したアメリカの立場は?6カ国協議の再開の見通しが強まり、核問題で何らかの合意が成立するとの期待が高まる最中、北朝鮮と「真剣な協定」を結ぶことに懐疑的な立場を固執し対北朝鮮強硬派で知られる国務次官が辞表を出した(2007年1月)。このことから米国の譲歩による合意の可能性を示唆する性急な見方も出ている。確かに苦しい立場に置かれているような感触だ。
やはり核は持ってしまえば強くなるのか!?
持つもの同士の均等関係が生まれるのか!?
それでみんなそれに惹かれているのか!?
みんな捨てても均等関係は成立するだろうに。
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羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。
専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。
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2007.02.02
少し前のことですが、気になった文章がありました。
完全な比較にはならないが、昭和2年(1927年)の我国の文部省在外研究員の留学先の比率は次のとおりであった。
イギリス 13.7% 60名
アメリカ 7.3% 32名
フランス 6.4% 28名
ドイツ 44.2% 193名
(総数 437名)
ここでの留学者は、官公立学校の教官に限られているが、留学先としてはドイツ一国で総数のほぼ半数を占めている。当時の我国の学会の評価を示しているというべきであろう。
これに対して私費留学が大半を占める現在(1998年~2000年度)の海外への日本の留学生の留学先は次のようである。
(総数 78,000人)
アメリカ 46,900人 60.1%
中国 12,800人 16.4%
韓国 2,000人 7.3%
ドイツ 2,000人 2.6%
オーストラリア 1,800人 2.3%
フランス 1,300人 1.7%
僅か80年に満たない間にアメリカの割合は8倍になり、ドイツの割合は17分の1に激減している。(鹿島平和研究所「平成大不況を考える」2002年、p166-7)
以上は、文末に注としてつけられている部分ですが、本文で平泉渉会長は、「1920年代のドイツは、第一次大戦に敗北し、天文学的なインフレに苦しんだとはいえ、学術・文化の面では正に世界の中心であり続けた。(略)およそ学問のあらゆる分野でドイツの各大学は国際的な名声あふれる教授陣を持ち、そのキャンパスは全世界からの(略)留学生にわきかえっていた。第二次大戦後のドイツでは当時の盛況の片鱗も窺うことはできない。ナチスはドイツの偉大な文化と学術の伝統をすら、遂に断ち切ることに成功したのかもしれない」と語っています。
私が興味をひかれたのは、政治経済を語る論文で「国家の魅力」をはかる「ものさし」として、留学生数が使われていることでした。この文章を思いだしたのは、先日発表された統計で、日本で学ぶ留学生の数が減少したからです。日本学生支援機構のデータによると、2006年5月1日現在の日本の留学生数は対前年度3,885人減の117,927人でした。1983年から日本政府が進めてきた「留学生受入10万人計画」が、2003年に達成されて喜んだのもつかの間、留学生数は減少したのです。
私がさらに心配になったのは、アメリカで勉強している日本人留学生数も減少したことです。Open Doorが発表したデータによると、アメリカで勉強している留学生の出身国のトップ5は次のとおりです。(2006年)
1.インド 76,503人(前年比 -4.9%)
2.中国 62,582人(前年比 +0.1%)
3.韓国 58,847人(前年比 +10.3%)
4.日本 38,712人(前年比 -8.3%)
5.カナダ 28,202人(前年比 +0.2%)
(総数 564,766人)
2005年11月に留学生をテーマにしたSGRAフォーラムを行いましたが、基調講演で、一橋大学の横田雅弘教授は、「2年ぐらい前にもらった、オーストラリアが行った全世界の留学生数の予測によれば、2000年で190万人だったものが、2025年には700万人になるという数字でした。つい最近ドイツが最新の調査として発表したところによると、2004年に270万人になっているということなので、この計算でいくと20年後には実に700万人近くになるということになりましょう」と紹介されていますが、現在、全世界の留学生の数は劇的に増えています。その中で、最大の送り出し先であるアメリカへ行く日本人の留学生も、日本で受け入れている留学生も減っているのは、何かの警鐘なのではないでしょうか。
昨年6月に中国教育部が発表した中国の外国人留学生のデータが、日本の統計と比較して「アジアの友」(2006年7月号)に掲載されています。ここで紹介されている人民日報の記事によれば、2005年の中国における外国人留学生の数は、14.1万人あまりで、前年度に比べ27.28%増ということです。
中国の留学生 日本の留学生
アジア 106,840(75.7%) 114,300(93.8%)
欧州 16,463(11.7%) 3,106(2.5%)
北中南米 13,221(9.4%) 2,949(2.4%)
アフリカ 2,757(2.0%) 957(0.8%)
オセアニア 1,806(1.3%) 500(0.4%)
合計 141,087(100.0%) 121,812(100.0%)
日本と違って、中国はアジアの国だけでなく、欧米をはじめ全世界からの留学生をかなりの割合で惹きつけていることがこの比較統計に表れています。以前にドイツ人の若者に、「キャリアアップのために、アジアの言葉を習いたいのだけど、中国語と日本語とどちらがいいだろう」と相談を持ちかけられたことを思い出しました。勿論、「日本政府奨学金もありますよ!」と言いましたが、そんな簡単に合格できるものでもありませんし、仕事をしてためた貯金を使ってキャリアアップのために1年間だけ留学して語学力をつけようという彼にとって、中国の留学の間口の方がはるかに広いということを説明せざるをえませんでした。ノルウェイの大学院から国際関係学で修
士号を得たコスタリカ人の若者は、日本の大学院の博士課程で憲法九条を学ぶために留学したいと思いましたが、日本語から始めて博士号を取得するには5年以上かかることに愕然としました。英語で研究できないか探してみましたが、結局、受け皿が見つかりませんでした。そういえば、一昔前、英語で日本経済を学びたければ、日本に留学せずにスタンフォードに行きなさいといわれていたという話も聞きました。日本に関心があるのに日本には留学できないのです。このようなことを日本の大学の方に話したら「そりゃ、日本語ができなければ日本研究はできませんよ」と言われますね。
アメリカ留学が減っている日本人でさえ、中国留学は増えているようです。2003年に中国で勉強していた日本人留学生は12,765人でしたが、2006年には18,874人で、3年間に約50%の増加となります。
現在のおおよその国別留学生数は次の通りです。
アメリカ 57万人
イギリス 28万人
ドイツ 18万人
フランス 18万人
オーストラリア 14万人
中国 14万人
日本 12万人
その他、シンガポールは、10年後に15万人、15年後に20万人という計画を発表しています。マレーシアは4万人計画、韓国は5万人計画を発表していますし、ニュージーランドは5年間で高等教育の予算を4倍にするという発表をしているということです。
今から80年後に「各大学はおよそ学問のあらゆる分野で国際的な名声あふれる教授陣を持ち、そのキャンパスは全世界からの留学生にわきかえ」っている国はあるのでしょうか。日本政府や大学は、そして私たちは、留学生数の減少を入国管理局の責任に転嫁せずに、全世界からの留学生をひきつけることのできる日本の魅力は何なのか、どうすればその魅力を世界の人々と分かち合えるのか、真剣に考えなければいけない崖っぷちに立たされているような気がしてなりません。
○リンク紹介
日本の留学生数:http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/data05.html
アメリカの留学生数:http://opendoors.iienetwork.org/?p=89191
中国の留学生数:http://www.abk.or.jp/asia/pdf/20060713b.pdf
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今西淳子(いまにし・じゅんこ)
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より子供のキャンプのグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。
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2007.01.25
12月7日にマニラへ一時帰国した。間もなくセブ島で東アジアサミットが開催される予定だったが、台風上陸を理由に、フィリピン政府は中止してしまった。日本では大騒ぎだったようで、「本当の理由は何ですか?」と今西代表からメールがきた。それで、我家の朝食時に大議論になった。「やはり、政府がだめだ」という母に対して「まあまあまあ」という父。僕にとっても中止の理由は理解しがたかったので、多くの人々と同様、非常にガッカリだった。
後日、政府に近い経済学者と話したら、本当に台風に対する恐怖だったらしい。数週間前にマニラとその周辺は強い台風に直撃されて、想定外の大変な被害を受けた。マニラだけで大規模な停電が一週間も続いた。SGRA研究チームの顧問である平川均先生と、マニラ郊外にあるトヨタ経済特区を訪問したが、その台風で駐車場にあった百台以上の新車がやられたと聞いた。あの台風のトラウマがあの中止に繋がったと理解しても良いだろう。
僕はサミットの中止が非常に残念で、自分なりに何かできればと思っていたところ、ちょうどそのチャンスが来た。
2005年の香港・広州訪問がきっかけとなり、広州の政府系研究所(GASS)から研究者二人をフィリピンに招くことになった。僕は、共同研究の仲間であるフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と提携させるように努力した。GASSの事情によって何回も訪問の日程が変わった。結局、UA&Pがもうクリマス・正月休みに入った時期に彼らはやってきた。ころころ日程が変わっただけでも、対応が大変だったが、サミット中止を挽回すべく、せめてフィリピン訪問で良い印象が残るように努力した。UA&Pのシニア・エコノミストを運よく捕まえて朝食会議をし、GASSとUA&Pとの交流(研究や英語・中国語学生交換)は再確認された。UA&P校内の見学もできて、中国では見たことがないクリスマス飾りなどに大変興味津々なので僕も嬉しかった。
残りの滞在期間で、どうしてもフィリピンらしいところを見学したいと言われて、家族をあげて協力し、要望通りのツアーを組むことができた。世界一小さい火山までボートで行って乗馬もしたようだ。この時は、父と、たまたま北京から一時帰国していた、中国語のできる従兄弟が案内役だった。さらに、温暖で綺麗な海と白い砂のビーチにココナッツという典型的な南国リゾートとして有名なBORACAY島に行きたいという。厳しい冬から逃げてだしている連中で今の時期はどこも一杯だが、弟とその友達が知り合いのネットワークを使って頑張って探した結果、ちょうど二人分の飛行機便や宿泊所を見つけることができた。GASSのお客さんは非常にハッピーで広州に帰った。
ささやかながらもフィリピン政府のサミット中止を補うことができたと思っていたところ、2度目のチャンスがやってきた。UA&P・SGRAの共同研究であるフィリピン経済特区の研究の最終報告を行うセミナーが、寒い北京で一月に開催されることになったと、助成機関の東アジア開発ネットワーク(EADN)の事務局から急に知らされたのだ。暖かいバンコクで開催されるはずだったが、政治的な事情で開催場所や時期が変更された。EADNは東アジア諸国の研究者が中心だが、その研究報告の時期がセブ島の東アジアサミットの新しい開催時期にも重なった。UA&Pの共同研究者は参加できないので代わりに僕が頼まれた。またサミット中止のようなことにならないように、東京で大学の授業は始まるけれど、この報告の仕事を引き受けることにした。短時間で北京報告会の参加準備をして、発表当日までかかって用意したパワーポイントを使って何とか上手く発表できた。
更に、その後、サミットの中止を補うことができるような3度目のチャンスがあった。今西代表の強い推奨で、北京の大学で教えているSGRA会員の孫建軍さんと朴貞姫さんと会うことになった。東京の渥美財団新年会とほぼ同時進行で、ラクーン会(渥美財団同窓会)新年会を北京で行った。孫さんがわざわざEADNセミナーの会場まできてくださり、翌日、朴さんと3人で一緒に時間を過ごした。二人とも、日本語に対する高需要に圧倒されて忙しいけれども、よく日本のことを考えている。朴さんはとても日本を懐かしがっているし、孫さんは北京大学で修士か博士のレベルで勉強したい日本人を探している。最後に、孫さんの話題のご自宅も訪問でき、記念写真を撮ってもらった。北京観光の準備をする余裕がなかった僕は、案内していただけることになって助かった気がした。
二人とも突然の訪問の僕を暖かく向かえてくれた。冬なのになぜか北京のSUMMER PALACEを訪問した。中国なのになぜかSTARBUCKSで休憩した。北京なのになぜか北京ダックの入っていない中華料理の夕食を食べた。振り返ってみれば、不思議なコースを僕が選んでしまったと後悔している。あのGASSのお客さんを見習って、ちゃんと前もって訪問都市の勉強をしておくべきだった。
以上のように、政府のサミット中止を自分なりに補う三つのチャンスを体験したが、このニヶ月間で、僕の人生における比中関係の要素が多くなったと感じる。その結果がどうでもあれ、僕の努力が報われたかのようにセブ島の東アジアサミットも無事に終わった。中国代表がフィリピン滞在をもう一日伸ばして交渉が行われ、フィリピンと中国の政府は、観光を含むあらゆる分野における協力について合意した。僕がマニラや北京で実感したように、中国とフィリピンの関係は一層深まっている。
北京のEADNセミナーでは、日本が高いレベルで体験した共有型成長を注目した世界銀行の「東アジアの奇跡」報告を取り上げた。この報告では「歴史的な事故(HISTORICAL ACCIDENT)」によってフィリピンと中国は共有型成長を果たせた対象国に含まれていない。この「歴史的な事故」によって中国とフィリピンは対象国と違う経済構造を持つようになった。中国では中央集権的計画経済の実験で世界銀行報告の対象期間において殆ど市場経済はなかった。フィリピンではスペインなどの植民地化の影響で「アジアで唯一のラテン系の国」と呼ばれるようになった。「ラテン系の国」とは、野心的な工業化を図ったが失敗して国際債務問題に巻き込まれ、成長が鈍くて貧富の格差が大きいということである。悲しいことだが、僕が共有型成長を習おうとしている日本も、最近違う方向に向かっているように見える。
それにも関わらず日本の特殊な発展経路に関して北京の学会で発表を終えた僕は、東京へ帰る便を、近代的な北京国際空港で待っていた。ワイド・スクリーンでボクシングの試合が放送されていた。僕はこんなことに普段興味がないが、試合はフィリピン人対ラテン・アメリカ人だったので思わず最後まで見ることになった。フィリピン人選手は相手を3回も倒して勝った。このことは、共有型成長がなかなか実現できないフィリピンが、ラテン系の歴史を克服して共有型成長の可能性を切り拓いていくことに、日本や中国がなんらかの形で関係することになる前兆だと信じたい。
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マックス・マキト(Max Maquito)
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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2007.01.23
2006年11月2日から15日まで、私は国際シンポジュウムに参加するため、中日韓三国を回るハードなスケジュールに挑戦した。まずは延吉から瀋陽に出て空港付近で一晩泊まってから、翌日10時に瀋陽空港を飛び発って2時間後に仁川空港に到着した。そこでしばらく休んで大阪に入ったのは夜の10時であった。一日で三国を回れるのであるから、三国は本当に近いと実感した。
大阪産業大学アジア共同体研究センターが主催した会議では、「北東アジアの経済連携強化の道を探る」というテーマで、日本を始め、中国、韓国及びロシアから来た学者たちが熱い議論を交わし、「北東アジアにおける国際協力は可能である」という結論を出した。上記のテーマは文部科学省の平成17年度私立大学学術研究高度化推進事業の「オープンリサーチセンター整備事業」に選定されたもので、今後5年間行われる計画である。私は「中国の対北朝鮮援助開発の現状と課題」について報告した。
5日の朝には「第6回日韓アジア未来フォーラム:親日*反日*克日」に参加するため、久しぶりに新幹線に乗って横浜に向かった。懐かしさと快適さで胸一杯であった。会議の会場であった鹿島建設葉山研修センターに着くと、今西常務理事を始めとする会議の関係者達が熱く出迎えてくださり、昼食の後には歴史を踏まえた日韓関係について議論した。宴会の後には酒を飲みながら面白い話、歌を交えながら葉山の美しい夜をすごした。先輩の李鋼哲さんが場を取り仕切って、故郷の「三鞭酒」を振舞い、飲み会は最高潮に盛り上がった。私はいつもお酒に自信を持っていたが、ここ葉山にきてはじめで自分の酒量が未熟であることを知った。
葉山で楽しい夜をすごして6日の朝、恩師に会うため上京した。東京は本当に懐かしかった。それはそうだ。ここで8年間、博士号を取るために家族と一緒に奮闘した。振り返って見れば、ここが私に名譽、地位、豊かさ、及び力を与えてくれたのである。東京では靖国神社と神保町の内山書店の二箇所を回った。靖国神社に行ったのはもちろん参拝のためではなく、今私が関わっている「北東アジアにおける歴史共通認識」プロジェクトの一環としての現地調査だった。就遊館を見学しながら、私は、歴史認識において日中はこんなに大きなギャップがあることを改めて確認し、これを克服するのはどんなに難しいだろうかと感じた。留学生時代にはお金がなくて、よく神保町にいって古本を買っていたが、今回は違う。私の博士論文がやっと本になったので、中国の大文豪魯迅と深い関わりがあり、中国図書専門販売店である内山書店に頼んで販売してもらうためであった。やっと8年間の努力の結実が日本の書店の本棚に並ぶことになって本当に嬉しかった。
東京の旅は余りにも短く、昔のいろいろな思い出を味わう暇もなく、羽田空港を発って韓国の金浦空港に向かった。先輩の南基正さんの招請により、済州島で開催された韓国国民大学主催の「外交文書公開による日韓会談の再照明」のシンポジュウムに討論者として参加させてもらった。ここでもやはり歴史問題がテーマであったが、私はこの分野における専門家ではないので、この会議に参加できたのは南さんの手厚い配慮であった。会議が終わったのは夜9時、葉山と同じ「爆弾酒」の爆撃を浴びながら、豪華なリゾートホテルのバルコニーにおいて、岸辺の岩にぶつかる波の音を聞きながら、日中韓のことについて議論した。
朝鮮半島は北の長白山(韓国名は白頭山)から済州島まで三千里江山といわれ、寒帯から熱帯の気候に恵まれている。だが、故国のこんな綺麗な南国風景を初めて目にして、私はすっかり感心し、「旅愁」に胸が痛かった。済州島には女、石、風が多いと言われ、有名な蜜柑の産地でもある。昔から粛清された官吏達がここに追放され、思想の蓄積も厚く、今になってもソウルの植民地だと言われるほど本土への抵抗と疎外意識が強い。仁川空港から延吉に向かう飛行機の窓から北東アジアの海と大陸を見下ろしながら、私はどうやってこの地域において「共生空間」を作れるかということを、ずーと考えた。・・・もしかしたら歴史を乗り越えた上で、お酒と疎外地域のイニシアチブで作れるかも知れない。心の壁をなくし、尊重し合うことが共同体構築の土台になるだろう。
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金香海 (きん・こうかい ☆ Jin Xianghai)
中国東北師範大学学部、大学院を卒業後、延辺大学政治学部専任講師に赴任、1995年来日。上智大学国際問題研究所の研究員を経て、1996年に中央大学大学院法学研究科に入学、2002年に政治学博士号を取得。現在は延辺大学人文社会学院政治学専攻助教授、同東北亜国際政治研究所所長。2005.9-06.8ソウル大学国際問題研究所客員研究員。専攻は国際政治学。北東アジア共同体―平和手段よる紛争の転換について研究中。
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2007.01.22
先日、新しい日本映画を見た。戦後おばあちゃん一人で孫を育てた話だった。戦後の生活は大変で、食べるものもあまりなかったが、おばあちゃんはがんばって漬物とご飯で毎日お弁当を作ってくれた。ある日、それを見た学校の先生が、「おなかが痛いから、漬物がほしい」と言って、自分のお弁当と交換してくれた。男の子は海老が入っている豪華なお弁当を今までに食べたことがなかったので、すごく喜んだ。先生は本当におなかが痛いから、お弁当を交換してくれたと思っていた。この時、おばあちゃんは一番の優しさを与えていたのに、孫は気づかなかった。おばあちゃんの優しさや愛情は、時間がたってから分かる。大きくなるにつれて。
私も自分のおばあちゃんたちを思い出した。パパの方のマリアおばあちゃんは一緒に暮らしていたけど、昔話は読んでくれなかった。それはママの仕事だったから。でも、マリアおばあちゃんは私の遊び相手だった。一緒におばあちゃんの友達のところに行って、散歩したり遊んだりした。おかげで、小さい頃、私もちょっとおばあちゃんぽかった。彼女は日本人女性のように小柄で、155センチしかなかった。優しい目をしていて、生活にとても馴染んでいて、何でもできる人だった。
おじいさんはテイラーだったので、小柄な彼女にきれいなドレスやジャケットを作ってくれた。そこまで愛されている奥さんは、私の回りには他にいなかったと思う。だが戦争が始まった。おじいさんは軍隊の制服を作る仕事も始めたので戦争に行かなくても良かったのだが、亡国への「愛」をその形では表明できないと考えた。彼は入隊を決めた。戦争は1941年6月に始まったが、おじいさんは、7月にキエフの近くの小さい町の近辺の戦いで殺された。当然ながら、彼ははさみ以外のものを手にしたことは殆どなかったのだから、戦争が始まって一ヶ月間では、銃を撃つ訓練を受ける時間もなかったかもしれない。その時のおじいさんより年上になってしまった私だが、今でもおじいさんのことを考えると涙が出る。彼は無名兵士の墓に眠っている。
数ヶ月前、今までに見たことがなかった彼らの家族の写真を見つけた。その写真の日付がその時代を語る。1941年5月20日。戦争が始まるまで、たった一ヶ月しか残されていない。そしておばあちゃんには、幸せで良く笑う小柄な奥さんから、しっかり二人の子供を育てなければならない未亡人になるまで、二ヶ月しか残されていない。7歳のパパの視線は深くて寂しいものである。まさか、二ヵ月後に7歳のパパは家族で唯一の「男」になるとは思っていなかったでしょう。年を重ねてもパパの視線は変わらなかった。私の日本の先生が彼の写真を初めて見た時に「いろんなことを考えた人みたいですね」とおっしゃった。その通りです。生まれつきか、それとも時代や状況でそうするしかなかったか分からない。でも色々考える人でした。ちなみに私もそう。家族の特徴かもしれない(笑)。
もう一人の、ママの方のパーシャおばあちゃんは、田舎の小さな村に住んでいた。ズボンを一度もはいたことがない人で、背が高くて、茶色の目で、長い黒髪の美人だった。でもやっぱり戦争によって家族が破壊された。頑固だけど優しいおばあちゃん。町から遊びに来る私の姿を、おばあちゃんの友達が見て「あら、パーシャさん!あなたの孫はこんなに細くて、顔が真っ白で、病気みたいじゃないか。都会に住む子供たちは、外で遊ばないし、おいしいものを食べないから、皆病気に見えるんだ」と大きな声で叫んでいた。当時、子供だった私たちは、別にやせようと思ってやせていたわけではない。ただおっしゃるとおりで、田舎の子と比べたら外で遊ぶ時間が少なかったかもしれない。田舎の子は皆ぽっちゃりしていた。
パーシャおばあちゃんは私を友達の厳しい意見から守って、「この子は、普通の子供ですよ。他の子供と同じ。いじめないでください。大きくなったらきれいになるから、その時には言い返されるよ!」と反論してくれた。そして、一所懸命、しぼりたての牛乳を私に飲ませた。だがパッケージされた牛乳に慣れた都会っ子のおなかは、その牛乳を飲んで革命を起こした。変な音を出したり、痛かったり、反発していた。「パッケージの牛乳の方がいいよ」と言いたかったわけです。
パーシャおばあちゃんはシンプルなものが好きだった。その生き方は、今なら「simple and slow life」と呼ばれるでしょう。手の込んだ料理を試した時、「食材を無駄にして!材料を別々に食べても結構美味しいのに」と言った。ウクライナで起きた1933年の飢餓や戦争の苦しさを経験した人だから、食べ物の価値がよく分かっていた。1933年、ウクライナの全ての収穫をソ連の違うところに持っていかれて、何百万人のウクライナ人が飢えて死んでしまった時、おばあちゃんが住んでいた田舎でも、おかしくなって自分の子供を食べてしまった人もいた。当時のウクライナでは、それはごく普通の話だった。それが記憶から消えない。だから、食べ物の「存在」と「価値」がよく分かる。
パーシャおばあちゃんは珊瑚のネックレスをしていて、「生活がいくら大変でも、それに贅沢の一品があると違います。どんなに暗くても心が温かくなる。それは何でもいいの。たとえば、花、ネックレス、きれいなドレスなど。あなただけの心を喜ばすものでなければいけないけど・・・」と幼い私に言った。私は、それをずっと忘れない。そして、20年後に、知り合いの日本人の80歳のおばあちゃんから、全く同じ話を聞いた時にびっくりした。「おばあちゃんたちは、どこでも一緒なんだ」と、その瞬間に思った。長生きして、いろんなことを見て、人生の価値、意味、味が良く分かる。
私が小さい時には、「おばあちゃんは何て頑固で厳しいんだ」とよく思った。当時は、色々分からなかったので、おばあちゃんは気まぐれだと思ったこともある。だが、大人になって分かったのだが、おばあちゃんは戦争のために、23歳で子供二人を連れた未亡人になった。おじいさんは村長で、村のコルホーズ(ソ連の集団農場)の人たちを助けようとしたので、ドイツ軍が村に入ってきた時に逃げられなかった。それで牢屋に入れられて殺された。おばあちゃんは実家に子供二人を連れて戻った。おじいさんが助けようとしたコルホーズで働きながら子供を育てた。大家からの厳しい意見も我慢した。大変苦労して二人とも大学教育まで受けさせた。それは、その村では珍しかったかもしれない。おばあちゃんの頑固な性格は、厳しい生活条件の中で形成されたものだったと思う。もともと優しい人だった。パーシャおばあちゃんは、私が1998年5月に日本に留学に来たときに亡くなった。お葬式にも行けず悲しかった。
マリアおばあちゃんは、私が小学校一年生のときに亡くなった。今でも学校で泣きながら同級生にミントのアメを配っている自分の姿を覚えている。ウクライナでは人が亡くなったら、周りの人に食べ物を配る。食べながら亡くなった人を思い出すために。そして、私は、しばらくミントのアメを食べられなかった。食べると涙が出るから。おばあちゃんのことを思い出して。
どうしておばあちゃんたちのことを書いてみたかったかというと、気づかない優しさが一番の優しさであると思うからです。そして、当時、何も分からなかった私をここまで成長させてくれて、おばあちゃんたちにどれだけ感謝しているか、どれだけ好きだったか伝えたくて書きました。ありがとう、大好き、マリアおばあちゃんとパーシャおばあちゃん!
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オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko)
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。
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2007.01.10
来日当初、故郷の内モンゴル製のカシミヤセーターを日本の友人に送った時、友人はとても喜んでくれた。柔軟で、保温性に富むカシミヤは、季節風が吹き、空気が湿っぽい島国の日本人の衣料に最適だと思っていたが、カシミヤを着る日本人はとても少ないことに気がついていた。冬になると、おしゃれな日本の女性が、化学繊維のセーターを着ているのをよく目にするが、寒そうで、とてもかわいそうだと思っていた。日本にはカシミヤヤギがほとんどいないので、市場にカシミヤ製品が少ないことも道理であるかもしれない。
その後、わたしは偶然ある営業企画・イベント会社でアルバイトをしていた。社長はモンゴルに興味を持っている人で、内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入し、普及させる企画を試みた。わたしはただちに故郷のいくつかのカシミヤ会社と連絡をとり、内モンゴルからカシミヤのセーター・キャミソール・ストール・マフラー・手袋などのサンプルを取りよせた。
社長がさっそく、内モンゴル製のカシミヤ製品販売の促進を目的とする「大モンゴルパシュミナ&カシミヤフェアー」の企画書をつくり、あるグループに所属する数十のスーパーやデパートに、自信満々でこの仕事を売り込もうとした。ところが、意外なことが続いて起きた。まず、カシミヤの知識について、バイト先の日本人とわたしの理解が多少異なっていた。この企画のタイトルは「大モンゴル パシュミナ&カシミヤ フェアー」であり、わたしはカシミヤを知っているが、パシュミナとは何であるかを知らなかった。
「“パシュミナ”って何ですか」と聞くと、社長の奥さんは「カシミヤは普通の羊の毛でつくったもので、パシュミナはカシミヤの中で最も良いものであり、ヤギのひげでつくったものです。ヤギのひげはもっとも柔軟で、保温性も良く、だから値段も高いですよ。」と教えてくれたが、わたしはとてもびっくりした。わたしが知っている限りでは、羊の毛はカシミヤにならず、カシミヤはカシミヤヤギからしか取れない物である。さらに理解できなかったのは、ヤギのひげも保温効果があるという説明であった。それに、ヤギのひげでセーターをつくるとしたら、1枚のセーターを何匹のヤギのひげでつくるのだろうか。
「そうじゃないですよ、パシュミナは動物ですよ、パシュミナはパシュミナという動物の毛でつくったものです」と、会社でバイトをしているおしゃれな女子大生が異なった意見を出した。
「動物?」わたしはさらに驚愕した。「ヤギですか?」と聞いてみた。
「ヤギじゃないよ、日本にはいないけど。」
高級カシミヤをつくれる、ヤギ以外の動物が存在していることを、日本に来てはじめて知り、非常に不思議だと思った。自分のカシミヤについての知識や日本語のレベルが、まだ日本人の知恵とユーモアを理解できるほどまでに至っていないかもしれないと思った。
いったい、パシュミナとは何であろうか。わたしは大学の図書館に行って、さまざまな資料を調べ、『国語辞典』から、『広辞苑』、『大辞林』、『日本語大辞典』……『日本大百科辞書』まで開いたが、パシュミナという言葉は出てこなかった。最後に、カシミヤを経営するある日本のカシミヤ商社のホームページで、やっとパシュミナについての情報を見つけた。
「カシミヤは、インドの北境カシミールを原産地とし、モンゴル、中国の奥地など、中央アジア高原地域で飼育されているカシミヤヤギの毛であり、カシミヤの繊維は極めて細く、美しい光沢を備えており、柔軟な独特の感触を持ち、軽くて保温性に優れているために、最高級の繊維と珍重されている」。
このカシミヤについての紹介は、わたしが見た日本のさまざまな辞書の説明と同じである。この次に、パシュミナという言葉が出てきた!「カシミヤの上にいく製品が欲しい人のために、“パシュミナ”と呼ばれる、超スゴ物が登場した。カシミヤヤギの胸の部分の柔らかい毛は、更に薄くて柔らかく、原糸が白くて発色も抜群である」。
なるほど、パシュミナとは、最高級のカシミヤのことであった。
カシミヤとパシュミナの関係について分かったが、カシミヤサンプルと企画書を持って、各スーパーをまわった社長が予想外の情報を持ち帰った。それらスーパーを統轄するグループはすでに内モンゴルの別のカシミヤ会社からカシミヤセーターを予約購入し、9月末に各所属スーパーで販売ことになっていた。うちの会社の企画は変えざるを得なくなった。
新しく考えられたイベント中心とした企画は、各店舗の採択をまだ得ておらず、内モンゴルとの交渉は暗礁に乗り上げた。交渉中、専門用語の翻訳や注文の条件、契約書、関税の問題などで、双方にさまざまな誤解が生じ、危うく企画を取り消す寸前にまで到った。幸い、この企画はかろうじて生き残った。
内モンゴルで出会った酸乳をヒントに「カルピス」を発売、更にカルピス会社をつくったカルピス創業者三島海雲氏の実績を社長に言った。カルピスの場合とはちがうが、日本人に合う内モンゴル製のカシミヤ製品を日本で広めることは可能であろう。
残暑の日々、社長は各スーパーやデパートで自分の企画をうりこみ、採択させようとしていた。内モンゴルとの交渉も進めていた。「なせばなる」と当初、わたしは言ったが、真剣に実行すると、さまざまな困難に遭うことは避けられなかった。例えば、例のパシュミナ製品は、内モンゴルの商社で、2種類に分けられていた。一種類は、本当の上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品で、値段は舌をすすらせるほど高い。もう一種類は、手触り感は上級カシミヤのようだが、実際、「糸光毛」というウールの原材料を加工して、つくられた「パシュミナ」であり、値段もはるかに安い。これは日本のある商社の技術で「発明」したものであり、日本でもけっこう売られていたそうである。社長は、迷わず上級カシミヤを原材料としたパシュミナ製品と
普通のカシミヤマフラー、ストールを仕入れた。
10月末に入ると、最初の販売は成功したが、おもに普通のカシミヤマフラー、ストールなどが売れていた。しかし、うちが輸入した上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品は、他社の「糸光毛」を原材料とした「パシュミナ」に負けて、ほとんど売れなかった。幸いなことは、うちのほかのカシミヤ製品がよく売れたため、内モンゴルからの注文を追加し、結果的には、会社は儲けた。
その後、博士課程に進学したわたしは、研究に専念するため、バイトをやめた。
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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
来日当初、故郷の内モンゴル製のカシミヤセーターを日本の友人に送った時、友人はとても喜んでくれた。柔軟で、保温性に富むカシミヤは、季節風が吹き、空気が湿っぽい島国の日本人の衣料に最適だと思っていたが、カシミヤを着る日本人はとても少ないことに気がついていた。冬になると、おしゃれな日本の女性が、化学繊維のセーターを着ているのをよく目にするが、寒そうで、とてもかわいそうだと思っていた。日本にはカシミヤヤギがほとんどいないので、市場にカシミヤ製品が少ないことも道理であるかもしれない。
その後、わたしは偶然ある営業企画・イベント会社でアルバイトをしていた。社長はモンゴルに興味を持っている人で、内モンゴル製のカシミヤ製品を日本に輸入し、普及させる企画を試みた。わたしはただちに故郷のいくつかのカシミヤ会社と連絡をとり、内モンゴルからカシミヤのセーター・キャミソール・ストール・マフラー・手袋などのサンプルを取りよせた。
社長がさっそく、内モンゴル製のカシミヤ製品販売の促進を目的とする「大モンゴルパシュミナ&カシミヤフェアー」の企画書をつくり、あるグループに所属する数十のスーパーやデパートに、自信満々でこの仕事を売り込もうとした。ところが、意外なことが続いて起きた。まず、カシミヤの知識について、バイト先の日本人とわたしの理解が多少異なっていた。この企画のタイトルは「大モンゴル パシュミナ&カシミヤ フェアー」であり、わたしはカシミヤを知っているが、パシュミナとは何であるかを知らなかった。
「“パシュミナ”って何ですか」と聞くと、社長の奥さんは「カシミヤは普通の羊の毛でつくったもので、パシュミナはカシミヤの中で最も良いものであり、ヤギのひげでつくったものです。ヤギのひげはもっとも柔軟で、保温性も良く、だから値段も高いですよ。」と教えてくれたが、わたしはとてもびっくりした。わたしが知っている限りでは、羊の毛はカシミヤにならず、カシミヤはカシミヤヤギからしか取れない物である。さらに理解できなかったのは、ヤギのひげも保温効果があるという説明であった。それに、ヤギのひげでセーターをつくるとしたら、1枚のセーターを何匹のヤギのひげでつくるのだろうか。
「そうじゃないですよ、パシュミナは動物ですよ、パシュミナはパシュミナという動物の毛でつくったものです」と、会社でバイトをしているおしゃれな女子大生が異なった意見を出した。
「動物?」わたしはさらに驚愕した。「ヤギですか?」と聞いてみた。
「ヤギじゃないよ、日本にはいないけど。」
高級カシミヤをつくれる、ヤギ以外の動物が存在していることを、日本に来てはじめて知り、非常に不思議だと思った。自分のカシミヤについての知識や日本語のレベルが、まだ日本人の知恵とユーモアを理解できるほどまでに至っていないかもしれないと思った。
いったい、パシュミナとは何であろうか。わたしは大学の図書館に行って、さまざまな資料を調べ、『国語辞典』から、『広辞苑』、『大辞林』、『日本語大辞典』……『日本大百科辞書』まで開いたが、パシュミナという言葉は出てこなかった。最後に、カシミヤを経営するある日本のカシミヤ商社のホームページで、やっとパシュミナについての情報を見つけた。
「カシミヤは、インドの北境カシミールを原産地とし、モンゴル、中国の奥地など、中央アジア高原地域で飼育されているカシミヤヤギの毛であり、カシミヤの繊維は極めて細く、美しい光沢を備えており、柔軟な独特の感触を持ち、軽くて保温性に優れているために、最高級の繊維と珍重されている」。
このカシミヤについての紹介は、わたしが見た日本のさまざまな辞書の説明と同じである。この次に、パシュミナという言葉が出てきた!「カシミヤの上にいく製品が欲しい人のために、“パシュミナ”と呼ばれる、超スゴ物が登場した。カシミヤヤギの胸の部分の柔らかい毛は、更に薄くて柔らかく、原糸が白くて発色も抜群である」。
なるほど、パシュミナとは、最高級のカシミヤのことであった。
カシミヤとパシュミナの関係について分かったが、カシミヤサンプルと企画書を持って、各スーパーをまわった社長が予想外の情報を持ち帰った。それらスーパーを統轄するグループはすでに内モンゴルの別のカシミヤ会社からカシミヤセーターを予約購入し、9月末に各所属スーパーで販売ことになっていた。うちの会社の企画は変えざるを得なくなった。
新しく考えられたイベント中心とした企画は、各店舗の採択をまだ得ておらず、内モンゴルとの交渉は暗礁に乗り上げた。交渉中、専門用語の翻訳や注文の条件、契約書、関税の問題などで、双方にさまざまな誤解が生じ、危うく企画を取り消す寸前にまで到った。幸い、この企画はかろうじて生き残った。
内モンゴルで出会った酸乳をヒントに「カルピス」を発売、更にカルピス会社をつくったカルピス創業者三島海雲氏の実績を社長に言った。カルピスの場合とはちがうが、日本人に合う内モンゴル製のカシミヤ製品を日本で広めることは可能であろう。
残暑の日々、社長は各スーパーやデパートで自分の企画をうりこみ、採択させようとしていた。内モンゴルとの交渉も進めていた。「なせばなる」と当初、わたしは言ったが、真剣に実行すると、さまざまな困難に遭うことは避けられなかった。例えば、例のパシュミナ製品は、内モンゴルの商社で、2種類に分けられていた。一種類は、本当の上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品で、値段は舌をすすらせるほど高い。もう一種類は、手触り感は上級カシミヤのようだが、実際、「糸光毛」というウールの原材料を加工して、つくられた「パシュミナ」であり、値段もはるかに安い。これは日本のある商社の技術で「発明」したものであり、日本でもけっこう売られていたそうである。社長は、迷わず上級カシミヤを原材料としたパシュミナ製品と
普通のカシミヤマフラー、ストールを仕入れた。
10月末に入ると、最初の販売は成功したが、おもに普通のカシミヤマフラー、ストールなどが売れていた。しかし、うちが輸入した上級カシミヤでつくられたパシュミナ製品は、他社の「糸光毛」を原材料とした「パシュミナ」に負けて、ほとんど売れなかった。幸いなことは、うちのほかのカシミヤ製品がよく売れたため、内モンゴルからの注文を追加し、結果的には、会社は儲けた。
その後、博士課程に進学したわたしは、研究に専念するため、バイトをやめた。
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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。
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2006.12.30
幸運にも、現在所属している兵庫県立大学から8ヶ月間(2006年8月~2007年3月まで)ボストン大学の心理学部の心理臨床教育機関であるCenter for Anxiety and Related DisordersセンターのClinical Psychology Programに参加することになった。不安障害に対する認知行動療法という心理療法の理論と実践を学ぶ機会を得て、ボストンでの生活も5ヶ月目を迎えるところである。
在外研究が決まり渡米する直前までは人には言えない苦労もたくさんあった。やっとボストンへ出発日が決まり、留守期間中の大学や病院の仕事の手配や渡米準備などで、出発まで目の回るほど忙しい日々を過ごして、予定より5日間遅れてボストンに着いた。
私にとって、日本も外国生活であるが、さらにアメリカのボストンで研究や生活を経験できることをとても楽しみにしていた。しかし、着いた次の日、朝8時のmeetingに緊張の中で参加し、その後、挨拶、手続きなどで、どのように一日を過ごしたかがわからないぐらい本当にたいへんな1週間が過ぎた。このセンターは不安障害(パニック障害、強迫性障害、社会不安障害、全般性不安障害など)の専門治療機関で、アメリカでも名門として知られていることもあり、子供から成人まで患者の年齢は幅広い。研究室での生活は月曜日から木曜日までのハードなスケジュール(それぞれの専門の先生のsupervisionに参加する)は、日本での大学院生の時のことを思い出すぐ
らいたいへんだった。朝は早く、集団治療がある日は夜も遅い。患者のほとんどは仕事を終えて病院へ来るので、集団治療は午後6時から始まり、8時に終わることが多い。金曜日から日曜日まで、自由に時間を作ることができるのが唯一の楽しみである。
私は日本の異文化にも適応し、長期間日本で生活をしていることから、きっと言葉や文化の違いに慣れているはずだと思っていった。日本にいる時は、自分から積極的に人に挨拶をしたり、気軽に声をかけたりする私をみて、友人には時々「日本人ではないから、知らない人にも自然に挨拶ができるね」と言われた。しかし、自然体に「Hi」と挨拶できるまでは随分時間がかかった。もちろん、個人差はあると思うが、その状況に慣れないだけで、滞在国やその文化とはあまり関係ないと思った。実際にアメリカで生活してみると、ささいな文化の違いに接したときの反応(Culture Shock)は、同じ外国生活でも、状況が変わると感じることも異なってくることがわかる。今でも慣れないのはチップの計算やカードで支払うときのチップ代を書き合計
金額を記入するときである。もともと計算が苦手な私はいつも悩んでしまう。特に小切手で払うときに、その便利さをまだ感じていないのは、きっとこちらの生活に慣れていないことが原因だろう。
次に、こちらに来て気づいたのは、自分の専門分野(臨床心理学)以外は日本のことや自分の国(韓国)についてよく知らないということである。「日本に住んでいるから韓国のことはわからない」「日本人ではないのでわかりません」と言ってすまされることではない。私にとって、アメリカも日本も韓国も外国?---これからもう少し自分の専門分野以外のところにも目を向け、関心を持つべきだとつくづく思っているところである。
この頃、やっとボストンでの暮らしも慣れはじめ、日本にいると毎日時間に追われてできなかったこと、以前から訪れてみたいと思っていたところへの旅心が沸いてきた。週末には気軽に出かけられる日帰り旅行から2~3泊程度でニューヨークなどの近い都市へバスや電車を使っていける余裕が出できた。ボストン美術館をはじめ、ハーバード大学内にある9つの美術館と博物館、MIT美術館と博物館などはアパートから歩いて5~10分ぐらいなので時間があれば何度も訪ねた。さらにバスでゆれ、5時間かけてニューヨークのメトロポリタン美術館などを訪ねてみた。また、11月にシカゴで開催されたアメリカの認知行動療法学会に参加したり、南アフリカのケープタウンの国際学会に参加したりして、短い期間でも世界はひろ~いことをあらためて実
感することができた5ヶ月間だった。アメリカの生活はまだまだ始まったばかりである。残り3ヶ月は普段しないような新しいことにチャレンジしたい。来年2月末には、「うつ病の認知療法」の治療で世界でも名前が知られているPhiladelphia大学のBeck Institute for Cognitive Therapy Training Programに参加することにしている。どのような出会いが待っているだろう。今までとは違う自分を見出すかもしれないと思いながら、この経験が次の仕事へのモチベーションになることを期待している。
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金 外淑(キム・ウェスク ☆Kim WoeSook)
兵庫県立大学看護学部心理学系助教授。1998年度早稲田大学大学院で学位を所得し、大学教員、病院の臨床現場で心理士として活動中。
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2006.12.29
いよいよ新しい年を迎える時節となった。中国では、旧正月で新年を迎える習慣であるが、企業などはやはり新暦に従うのが一般的なので、年末はいろいろと忙しくなる。大学は企業とは違って、いつも各学期の始まりと終わり頃が忙しくなる。だが、私が勤めている大学は、最近急に余計な仕事が増えている。それは授業でもなければ、論文指導でもない。主に以前行った試験と卒論指導に関する資料の整理と手入れなど事務的な仕事である。
きっかけは二週間前に行われた学内の大規模な「点検」であり、その目的は学部の教育レベルなどを評価することである。他の大学からきた7名の専門家で組織されている調査団は、三日間ほど大学内に駐在し、教育施設、専門科目のカリキュラム、授業の方法、論文の指導、教員の構成など、細かいところまで調べた。
中国の大学では、政府や上級管理部門からの検査、調査は日常茶飯事となっているが、今回の様子は違う。これは、中国教育委員会(文部省相当)が各大学の学部教育レベルを総合的に評価するものであり、5年に一回実施される。その結果は大学の経費、専門学科の増減、学生募集の規模などに大きく影響するので、どこの大学もこれを無視するわけにはいかない。正式な検査は来年の5月のことであるが、今回はそのための予備テストであった。
3日間しかない点検作業は、結局資料のチェック、ヒアリングが中心となり、教育システムを深く考察することができないが、それにしてもたくさんの問題が発見された。その結果を深刻に受け止めた大学の主管部門は各学部に圧力をかけ、細かい指示に従って整頓するように求めた。すぐに直せない問題も結構あるが、とりあえず年内に過去何年分の関連資料を整えるように各教員に要求した。その殆どはくだらない仕事であり、例えば、試験用紙の点数の付け方を統一された方法で修正することなどである。これについて、当然、貴重な時間が無駄に使われると不満を感じる教員が多く、また、このような「インチキくさい」ことに反対する声も高い。
だが、冷静に考えてみれば、中国の現在の教育体制で、このような上級管理部門による検査はやむをえない側面もあると思う。全国には四年制大学だけで700校ぐらいあり、そのほとんどが国公立である。これらの国の予算に大きく依存する大学を差別化するには、やはり納得できるような基準が必要であろう。公表される大学の教育レベルに関する評価結果は、このような基準のひとつであり、またそれが大学の重点化政策にも繋がっている。
中国の大学は重点大学と普通大学に分別され、前者には政府から莫大な援助資金と研究資源が集中的に投下されている。大学の重点化政策のひとつである「211工程(プロジェクト)」は、21世紀へ向けて100校程度の重点大学と重点学科をつくることを目指しているものであり、1995年から進められている。さらに、1999年に実行された「985工程」は世界一流大学の育成を目的で、重点大学からさらに重点を選ぶようなものであり、現在38校の大学が選ばれている。
こうした重点大学は、当然、学部教育レベルは「優」でなければならない。本学も「211工程」の大学に選ばれた大学として、5年前に「優」の評価をもらったため、今回も同じ結果をとれないことは考えられない。大学当局のこのような焦る気持ちは理解できるが、その取り組み方には改善の余地が多くあると思われる。さらに、大学の真価は教育の内容にあり、決して上級管理部門からの評価ではないことを忘れてはいけないだろう。
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範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2006.12.22
今年の夏、3年ぶりに子供たちをつれて、故郷のチチハル(斉斉哈爾)に帰った。チチハル市は黒竜江省の中で第二の大都市であり、現在では黒竜江省西部の政治、経済、文化の中心である。市名は満族語で「天然の牧場」という意味で、市域には十数種の鶴が生息する有名な湿地ジャロン自然保護区があり、鶴城とも呼ばれている。せっかくのチャンスなので家族全員そろって、ジャロンに行ってきた。タンチョウは紅色の頭、前顔・喉・首・すらりと長い足、そしてスケーターのスカートのようにふわっとお尻を被う羽が黒で、残り全部が純白である。長い足で一直線にゆっくり歩む姿を、是非見てほしい。首・足を伸ばし飛ぶ姿は、白と黒のコントラストだ。澄んだ青空にツルの白は真に美しい。日本人の観光客も少なくない。地球全体の気候変動による降雨量の減少や、湿地周辺の開発によって水資源のバランスが崩れたことなどにより、ツルの生息地が減少していく傾向もあるという。自然の推移ともいえるが、人の手がこれを加速していることが問題なのだ。毎年秋になると、「焼荒」(来年いい土壌になるよう枯れ草を燃やすこと)という行事がある。よくコントロールしないと、火事になって湿地の面積が減っていく原因となり、ジャロンに渡ってくる鶴も減っているという。
ちょうど真夏だったので、昼間は33度前後の暑さだったが、夕方になると涼しくなった。夕食後人々が広場(運動器具や子供の遊具もそろっている)にダンスの練習やペットの散歩、将棋をするために集まって来る。ゆったり充実している生活の一面が窺える。実家のマンションの近くに自由市場がある。毎日の朝市場に行くのが楽しみだった。回りの県から新鮮な野菜、果物をトラックなどで運んで来る。(馬車を使う人もいて、子供たちが馬を見て大喜びだった。)買う人も近くに住んでいる住民たちで「もう少し安くしてくれないか?」という値段のやりとりも結構面白かった。けれども、8時までに片づけないと、出勤のラッシュアワーが来るので、朝早く起きて市内へ売りに来る人たちにとって、かなり慌ただしい毎日だ。ここからも城市と農村部の人々の生活パターンと収入の違いを窺うことができる。
親戚のおばさんは3年前に3LDKで一人暮らししていた。今回会いに行ったら、二つあまり使わない部屋を近くにあるチチハル大学の学生に貸し出して、大家さんになっていた。周りに空き部屋を持っている人はこうしてお金を儲けているそうだ。学生たちと話をして分かったのは家賃を実家からの仕送りではなく、自分でアルバイトして支払っている。十年前の私の大学生活を思い出すと、アルバイトをしたくてもその環境がなかったし、大学の寮があるから、一人で高い家賃を払って住むことなど考えもしなかった。人々の経済についての考え方や生活スタイルがこんなに早く変わったのだ。
行きと帰りはともに大連での乗換えだった。中国の他の地域とは違い、東北三省の住民は遼寧、吉林、黒龍江の各省の住民としてよりも「東北人」としての意識が高い。この原因は、この地区の独特な歴史、風俗習慣及び言語の一致、そして、河北省や山東省からの移民が関係している。総人口は約1億1千万人,中国の総人口の8%である。1990年代以降の中国の開放政策により上海など経済特区の経済成長が著しく、東北は古いインフラ設備により、経済的には立ち遅れた地域となっている。東北振興はこれからの中国の課題であり、難関でもある。経済体制の遅れ、市場経済観念・形態の発育不良、国営企業(多)と民営企業(少)の巨大な格差を克服しなければならない。今までこの地方を支えてきた重工業を捨てずに、大量の設備、技術、人材を十分利用して、新興産業や軽工業やサービス産業に変換していく方策こそ、三省のリーダーたちが一番頭を悩ませていることだろう。大連にいる友達によると、産業変換の中で大連はすでに中国最大の造船基地になっている。外資を利用する割合も東北三省中の半分を占めている。大連の市街を見ると、高層ビルが多く立っており、建設中のものもたくさんあった。大連は発展の先頭にたっているのだが、遼寧省は失業人数が全国でトップとなっている。本当に一喜一憂の体制改革である。お金はどこから?人はどこへ?体制をどう変える?模索しながらの真剣勝負だ。一人の東北人として、東北がこの勝負に勝ってほしい。
追伸:中国でも日本でも「鶴は千年」という言い方がある。鶴は瑞鳥といわれ、おめでたい鳥とされている。鶴の端麗な姿を見ると「千年」に納得がいく。鶴の吉祥を借りて、2007年が皆さんにとって良い年でありますように!
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武 玉萍 (う・いぴん☆ Wu Yuping)
医学博士。中国のハルビン医科大学を卒業。2001年3月千葉大学医学部より博士学位を取得。専門分野は分子生物学・発生学。現在理化学研究所(発生・再生科学総合研究センター)で研究を継続中。
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2006.12.20
2006年10月、私は神戸国際貿易促進会の依頼を受け、中国国家外専局より派遣された中国西安市農業研修団の通訳をすることになった。私が担当した東京方面の研修は6日間であった。短い日々ではあったが、団員の方々と行動を共にし、また様々な会話を交わす中から、団員の方々が日本に対して抱く思いについて、いくつか興味深いことを感じた。そして、それは今後日中友好の促進に多くの示唆を与えるものであるとも感じた。
西安市農業研修団一行26名は、中国西部の陜西省西安市及び周辺の郷鎮にある農業部門の責任者たちである。平均年齢は45歳で、うち1名が20年前に日本の農家を訪れた経験がある以外、全員が日本は初めてであった。経済の高度成長の中にある現在の中国は、外国へ自由に旅行できる富裕な人々もいるが、大多数の普通の中国人、特に経済発展が比較的に遅れている西部の農業地域の方々は外国旅行するチャンスはめったにない。そこで、研修団の方々は今回の訪日を喜ぶはずであった。だが、昨年の「反日デモ」の影響で日本に対してさほどいい印象を持っていなかった団員の方々はこの訪日に複雑な心境であったと、打ち明けてくれる人もいた。
初日の研修は農林水産省においてであった。10月も半ばではあったが、背広姿ではまだ暑い日であった。きちんとネクタイを締めている背広姿のみなさんは、電車で農林水産省に着いた時にはもう汗だくであった。農林水産省の中も冷房がなかった。ハンカチで汗を拭きながら、「こんなに暑いのに、農林水産省のような大機構でなぜ冷房をつけないのか」と不思議に思ったようだった。だが、係りの人からの「環境配慮のため、10月1日以降官庁が率先して冷房を使わないようにしている」という説明にみんなは感心して言葉がなかった。そして、帰りの電車では「日本は経済で豊かな国なのに贅沢していない。公務員は本当の公僕だ。中国では我々程度の公務員でも出勤等でよく公用車を利用するが、よくないね。」と反省する人がいた。この思わぬ反省の言葉に私は良識を感じて少し安心した。
2日目の国会議事堂の見学の時であった。順番待ちの長い行列に地方から来たお年寄グループや小学生グループがいた。「国会議事堂を無料で誰にでも開放するやり方はいいなあ」とつぶやく団員がいた。そして、私に「日本では官庁も国民に開放されているのか」と聞いた。私は「ちゃんとした用件があり、何らかの身分証明書さえ提示すれば、大丈夫だ」と答え、一例として、私自身が博士論文用の資料を収集するために、文部科学省、都道府県教育委員会などを訪れて、係りの方に質問したり、説明をしてもらったり、資料をいただいたりした経験を紹介した。すると、「えっ、外国人、学生にも対応してくれるのか?」と信じ難そうな顔をしていた。「中国の官庁もいつかそうなってくれるといいなあ」と、日本のこのような状況に感心したようだった。
3日目の朝、通勤ラッシュにぶつかった。非常に混雑していた地下鉄のホームで、自然にできた電車待ちの列と、電車が着いた時に降りるお客さんが終わるのを辛抱強く待ち、その後で整然と乗り込む通勤ラッシュの風景を見て、ある人は「これは私の故郷では絶対に不可能なことだ。こんなに整然とルールを守る修養の高い国民がいるからこそ、日本は発展したのだ。」と深く感銘を受けたようであった。その日は経済産業省における研修だった。研修修了後に、日本人の係りの人が整然と机、椅子を片付け、お茶の缶などのゴミの後始末をしているのを見て、また、ゴミ箱にきちんと分別してあるゴミを見て、みんなは再び感心した。再び帰りの電車でその1日の感想を教育と関連して語ってくれた人がいた。即ち、「日本国民が高い修養を持つのは教育の成果だ。修養がある国民がいなければ国がよくなるはずはない。中国はもっと教育を重視し、特に子どもの社会規範意識のような教育を重視すべきだ。」という感想であった。
団員の方々は私と同年代で話しやすかったのかもしれない。東京方面研修の最終日の箱根旅行中に、研修団で一番若い30代の方が思わず次のように話してくれた。「実は、日本に来る前に日本のことがあまり好きではなかった…、しかし、この研修、この一週間に日本で見たこと、体験したことが私の日本への印象を大きく変えた。戦後の廃墟から日本がなぜこんなに速く復帰でき経済大国になれたかが、私の全身を通して分かったような気がする。」これはこの人の本心からの感想のように思えた。
初めて日本の土を踏んだ訪日団の方々の通訳をした際のわずかな出来事をここに挙げたが、この通訳の日々を通していろいろと考えさせられた。この訪日団員の方々には日本を愛する教育を特に誰も施していないし、日本がいかにいい国であるかということも誰も一言も教えていないと思われる。だが、このわずか6日間の研修での日本滞在中に、自分の目で見たことや自分の体で感じたことが、それまで抱いていた日本に対する考え方にかなりの変化を与えたのは事実である。このような体験は、もし同じようなチャンスが与えられたならば、多くの一般の中国人の人々に当てはまる変化であろうと言っても過言ではないと思われる。このことから、日中友好を促進するには、首脳間の相互訪問や世論のムードづくりが大切であるのは言うまでもないが、一般国民の行き来による一般の人々の目と体の体験を通じての草の根の真の相互理解の拡大が、より効果的で重要であると感じた。
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臧 俐(ぞう・り☆Zang Li)博士(教育学)。専門分野は教師教育・教育政策。中国四川外国語学院(大学)を卒業。四川外国語学院日本語学部で11年間専任講師を経て来日。千葉大学で修士(教育学)を経て、2006年に東京学芸大学より博士号を取得。
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