-
2022.07.28
「絵画鑑賞において、最も大事なのは原作を見ることである」美術史専攻の課程の中で、先生たちはこういう言葉を繰り返し強調していた。学部に入ったばかりの頃、私は疑問を抱いた。真贋の鑑定なら紙、絵の具、表装といった要素もあわせて参考となるため、実物を調査するのは必要なことである。しかし、単に絵画を楽しみたい時に、複製品と原作の違いがそこまで重要だろうか?
技術の発展によって、高精度のプリント複製品や画像データでの保存が可能になった。中国美術史の専門家が日本のホテルで南宋時代の名作を見て、とても驚いたという逸話がある。後にこれは日本の東洋美術専門の出版社である二玄社による複製品だということが分かった。専門家も騙されるほどの複製品は、「下真跡一等」と評価される。「この複製品は原作とほぼ同じものであるが、原作ではないという点で一つレベルを下げたもの」ということである。一方、高精度の画像データは拡大が自由で、細部まで詳しく確認できる。それに対して美術館で原作を見る時、常に照明が暗くて、距離も遠く、データのようにはっきりと弁別することができない。図像分析などの研究をする際、原作より画像データの方が使いやすいのではないか?
こうした「原作」の意義に対する疑問は、日本留学中の経験で答を得ることになった。以下では日本絵画を例に感想を述べたい。
まず寸法に違いがある。日本絵画の中で屏風・襖絵は相当の割合を占めている。しかしカタログの印刷図版やパソコンで見る画像データはサイズに制限があり、原作よりかなり小さくなる。サイズの変化によって、鑑賞者に与える迫力も変わる。画集の図版を見る感覚は、二条城の大広間で襖絵を仰ぎ見る時に受ける衝撃とは比べものにならない。また、人物画の場合も同様である。等身大の画像は、鑑賞者と画中人物の心理的な距離を縮め、実在の人間としての印象を残す。それに対して宗教的な壁画にある巨大な仏像・神像は、非人間性の一面を強調し、観者に崇高な敬意を喚起させる。複製によってサイズが変われば、制作者の意図は汲み取ることが難しくなる。
次に素材に独特の魅力がある。日本画には、一般に鉱物の絵の具や金銀箔などの素材が利用される。鉱物で作られた絵の具は、光線の変化によって反射する。このピカピカする微光は、画面に透明感や活気をもたらす。写真、プリンター、画像データは、いずれもそうした素材の魅力を伝えることが出来ない。金銀色は絵画を写真に撮る際、最も再現が困難な部分であり、印刷を経ると一層見劣りがする。東山魁夷(1908年―1999年)の作品は一つの好例であると思っている。昔、私は画集や講座のパワーポイントなどで彼の絵を何度も確認したものの、その良さをあまり感じることができなかった。2018年、京都国立近代美術館の「生誕110年 東山魁夷展」で原作を見たことを契機に、初めてその美を知った。絵画の前に立つ時、寒い夜に光の冷たく冴えわたった森に浸みこんだ感じを覚えた。
最後に、一部の絵画において制作者が構図に注いだ奇想は、特定の展示方法でしか見ることができない。寺院の法堂の天井画と言えば、「八方睨みの龍」がよく見られるテーマである。即ち、頭をあげて天井を見ると、法堂のどこに立っても龍が自分をじっと見ている感覚がする。京都の相国寺、建仁寺、南禅寺、天龍寺、いずれもこのような龍図が採用されている。一部の屏風は、展開する際の凹凸を利用して立体感を示している。円山応挙(1733年―1795年)の≪雲龍図屏風≫(1773年、重要文化財、個人蔵)や木島桜谷(1877年―1938年)の≪寒月≫(1912年、京都京セラ美術館蔵)は、共にこのような作品だ。
日本留学の数年間で、私は多くの絵画の原作を実際に見て、大いに見識を広げた。美術鑑賞に対する「原作」の重要な意義を深く認識した。このほんのわずかな心得を多くの人々にシェアしたい。
英語版はこちら
<陳藝婕(チン・イジェ)CHEN Yijie>
2021年度渥美奨学生。総合研究大学院大学国際日本研究専攻博士、中国北京大学美術史専攻修士、中国中央美術学院美術史専攻学士。専門は日中近代美術交流史、日本美術史。国際美術史学会(CIHA)、アジア研究協会(AAS)、ヨーロッパ日本研究協会(EAJS)などの国際学術会議で研究成果を発表。 著作に『黄秋園 巨擘伝世・近現代中国画大家』(中国北京 高等教育出版社、2018年)、「高島北海『写山要訣』の中国受容:傅抱石の翻訳・紹介を中心に」『日本研究』64集(2022年3月)他。
2022年7月28日配信
-
2022.07.14
自分の家が空爆され家を出なければならない時、家族以外に誰に助けを求められるのかしら。そんな時に聞いてくれる相手は神様しかいないかもしれない。しかし、神様とウクライナ人の関係は特別かもしれない。それは普通の宗教と少し違うかもしれない。特に中部のウクライナでは。
ロシア革命以降宗教は弾圧され、教会も壊され、自由に祈ることもできなかった。宗教の代わりに共産主義、神様の代わりに国のリーダーを信じていた。生まれた子供の洗礼もできなかった。やりたい人はひそかにするしかなかった。どうしてひそかに洗礼をさせていたのかというと、不安定な社会の中で子供を守るためには神様に任せるのが最初で最終的な手段だった。
宗教が弾圧されても、教会が閉まっても、神様を信じなかったことは全くない。開いている教会もいくつかあったが、そこの神父はおそらく国の指導者に従うか、組織的につながって裏で報告していたので、教会の人は信用できなかった。
しかし、教会に行かなくても皆家のどこか隠れた場所で祈っていた。田舎に行ったらおばあちゃんの家には必ずイコン(聖画像)があった。田舎では都会と違って誰もそれに文句を言わなかった。表では共産党のメンバーでも、洗礼を受けた時に頂いた十字架を大事に引き出しの中にしまっていた人もいた。
ソ連時代の小学校の授業では、「宗教の信者は変わった人で、子供が病気になっても医者にかからず、神の力で治せられると信じて死なせる」と教えられてびっくりし、家に帰って泣いた覚えがある。なんとなく宗教の信者は危ない人間と学ばされた。宗教の信者に違和感を持たせる雰囲気の中で育てられた。
宗教は表ではダメであったが、それでも自分より大きな力があると信じることはやめなかった。皆ひそかに復活祭とクリスマスを家で祝っていた。先生たちもそれが分かっていた。生徒の家庭でイースター・ケーキとピサンカ(装飾された卵)を作ると分かっていたので、前の週には「あのケーキをお弁当で持って来てはいけません」と注意された。
このような環境でずっと生活してきたウクライナ人には特別な宗教観が生まれたかもしれない。表と裏の宗教観という。表では祈ってはいけない、教会の近くを通る時に十字架をかけることもできない、そして教会へ行っても神父を信用できない状況だった。ウクライナ語でお祈りすることはほぼできなかった。教会はロシア語だった。ウクライナ語でミサをする教会はキーウには数カ所しかなかった。しかもそこでもロシア革命以降、特に1930年代のスターリン時代、また1970年代に強い圧力を受けて神父や信者を取り締まっていた。特にキーウの教会はそうだった。
2014年に東部で戦争が始まってからは、多くのウクライナ人はロシア正教会に行かなくなった。ミサのなかに政治が絡んでいるので、モスクワからの説教を聞きたくない。そして、何よりも自分の言語で神様と会話をしたいから。神と話せるものが言葉や言語でなくても。2018年にウクライナ正教会がやっと独立できたのは歴史的な出来事である。政治的な圧力でそれができたという批判には反論したい。要するに全ては政治である。ウクライナがロシア革命の後に一回独立した時、正教会には強い独立願望があったが、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)にロシアから強い圧力をかけられて認めてもらえなかった。自分の国を持って、自分の宗教の本部を持つのは当たり前の話である。税金を他国に納めるのではなく、自分の所に納めるのと同じような話だ。自分の言葉で祈り、ウクライナ正教会の本部がキーウにあるのは当然である。それも心の自由で、精神的な独立でもある。
このような状況の中で育てられたウクライナの子供に両親は「神様は心の中にいる」と言う。どこに行ってもあなたの心の中にいる。どの宗教のお寺に言っても祈ることができる。宗教は形だけで、神様は一人である。正教会から考えたらあり得ない話。正しい神はそこだけにあるからだ。でも歴史的、政治的な状況から考えたら、その厳しい状況を受け入れて、その中に自分の世界を作ることができたとも言える。
独立後間もない頃、ある有名な修道院で撮影をしていた時、成績が良い生徒が案内してくれた。その時に色々な話を聞いた。コネがある学生はお金持ちの町の教会で主任になるが、そうでもない人は遠い貧乏な地域の担当になるなど。そこも普通の社会と変わらないと思った。
このような事情によって、ウクライナ人の宗教観が形成された。心の中にはいつも話せる相手がいて、それを、自分を守ってくれる天使か、神様か、自然の力か、手伝ってくれる力と呼んでもいいかもしれないが、いつまでも側にいてくれる力がある。大きく考えれば宗教は元々そのようなものだが、ウクライナの人は教会の人抜きで直接神様に話せるようになった。
ウクライナ人は昔から上からの圧力に反発心が強かったし、型式から抜けるようにしていた。その意味で新しい所に行く好奇心があり、国境を超えてコミュニケーションをする力もあった。17世紀のウクライナに生まれた家庭イコンの現象もある意味でその1つとも言える。もちろん教会で売っていた高いイコンを買えないという理由でもあって、形式を勉強していない人間が自由にイコンを描くようになった。そのイコンはギリシャ、ローマ、ロシアと違って、華やかで慰めてくれるもので、そこに表現されている神様は罰を与えられる存在ではなく、自由に相談できる相手でもあった。
1991年に独立して宗教が自由になった時、それまで禁止されていた宗教にどれだけ関心が集まったか想像してほしい。出版社に勤めていた人の話では、当時一番多く印刷したのは聖書、サスペンス小説、翻訳されたビジネス書だった。また色々な宗教団体が活動にやってきた。同級生は英語を勉強したかったがお金がなかったので、ある米国系の教会に通った。今まで見たことのない外国人であるアメリカ人がそこにいて、自由に会話ができたからだ。しかし3か月後に様々な理由でやめた。宗教ではなく英語が目的だったので。全然宗教に関心のない友達が牧師さんと結婚した時も皆驚いた。幼なじみの従兄は急に航空大学をやめて宗教学校に入った。ちなみに彼は立派な牧師になって今でもやっている。
だが同時に多くの若者を宗教から遠ざける大きな事件もあった。1993年秋に「白い兄弟」と言う新宗教団体にはいっていたキーウ大学哲学部や数学部などの優秀な学生がソフィア寺院あたりで集団自殺をしようとした時だった。警察や公安が早めに察知し、大人のリーダー夫婦を逮捕し、学生を家族に戻した。しかし、大きな精神障害を被って普通の生活に戻れなかった人もいた。マスコミに大きく報道され、新宗教の怖さに皆が気づいた。当時の若者の宗教への熱心さが冷めたとも言える。その後は冷静な目で宗教を見るようになった。
ウクライナの中部と西部では宗教に対する親近感が違う。大都会のキーウはそうでもないが、西へ行けば行くほど、道端に小さな祭壇が多くなり、日曜日に家族揃って教会へ行くのが当たり前になる。宗教が生活の中に溶け込んでいると言っていいかもしれない。正教のお祭りがその土地古来の信仰のお祭りと混ざって生活の中に入っている。お正月を祝って、1月7日に正教のクリスマスを祝って、その次に古来の新春を祝い、その後にキリストの復活祭を祝う。また教会と関係なく、古代の命のシンボルであるピサンカも作る。装飾した卵の伝統が後にイースター卵になったと言われている。7月7日には夏至祭のイワーナ・クパーラを祝う。たまたまその日は聖イオアンのお祭りも重なっている。さらに、最近では7月28日のキーウ公国がキリスト教を受け入れた日がウクライナ国家の日になった。そして古くからあるカレンダーに従って8月14日に蜂蜜収穫、8月19日にリンゴ収穫のお祭りがある。それがキリスト教のものとも重なっている。
日曜日に教会へ行かなくても、家にイコンがあってもなくても、車に小さなイコンを飾っている人も多い。特にタクシーの運転手だ。イコンに守られると思ってシートベルトを締めないのは不思議としか思えないが。
宗教と同じくらいに運命を信じる人もいる。日本の友達がウクライナの一番有名な詩人のタラス・シェフチェンコの詩を読んで、「この人はどうして自分の運命を恨むのですか。ウクライナ人は人生観の中で運命に何パーセント任せられるのですか」と聞いてきた。なるほどと思って翌日クラスで私の生徒にその質問をした。そうすると50%という人、80%の人もいた。だが生徒は皆運命の大きな役割を認めた。それは迷信の文化とも言えるかもしれない。暗い歴史を経験しているので、人前ではあまり自慢しない。運が逃げないように自慢しないという習慣もある。神様を信じる人は迷信を信じないのが普通だが、ウクライナでは両方とも平和的に存在している。
外国の友達に「ウクライナの『運命』の定義は自分の受身的な立場の理由付けに使う」と言われたことがある。その時は、それは大きく間違っていると思った。しかし、戦争が始まってから再び「運命」のことを考えさせられた。3月の初めだったが、キーウにずっと留まっていた友達に避難するように呼びかけたが、「ここから離れない。しようがない。これが私たちの運命であったら、ここで死にます」と言われた。「自分は死んでも良いけど、子供を救いなさい」と言っても聞いてくれなかった。その友達は行動的ではなかったし、また戦争という大きな人生の変化の中でフリーズしていたとしてもおかしくないかもしれない。しかし他の人が決めた「死なせる運命」に任せてはいけないと思う。その人の旦那に話したら、家族を西の方に避難させてくれてありがたかった。皆元気で命が助かった。
戦争が始まってから、ウクライナ人は心の中で神様ともっと会話するようになった。私物はほとんど何も持たずに洗礼の十字架だけを体につけて家から逃げた人、軍隊に参加しているウクライナ人もそうだ。助けてくれるのは自分の手、人の手、また神の手しかない。戦争が始まってから4カ月の間にウィーン、ブダペスト、デュッセルドルフ、ロンドンの駅で出会った避難民のウクライナ人は、ほぼ全員が首に十字架をかけていた。多くの人は手に赤い糸もつけていた。その赤い糸は悪魔から守ってくれる「輪」であり、キリスト教とは全く関係ない。何も助けにならない時はそれでも良いと思う。これもウクライナでは迷信と言っても良いかもしれない土着の信仰が、宗教と複雑に生活の中に溶け込んでいると言えるだろう。
厳しい状況の中に置かれているウクライナ人は一人一人神様とひそかに会話をしている。「神よ、どうしてこんなことにさせられるんですか。私たちは何も悪いことをしていない。ただ自分の国で幸せな暮らしをしようとしていただけです。どうして守ってくれなかったのですか。私たちはどうしてこのような試練を味わうことになったのですか。しかし、周りの人は被害にあったけど、私と私の家族を助けてくれてありがとう。本当にすみません、こんな話をあなたにしてしまって。でもあなたにしか助けてもらえないからお願いしています。どうにかしてください、神様。私たちの上に傘を開き、燃えているところから、あなたの掌の上に救い上げてください。お願いです。お年寄り、子供たち、動物たちも。頼みます」と。大体皆このように毎日神と会話している。
BBCの記者が東部から報道しているテレビ番組を見ていたら、後ろにいたおばあちゃんがミサイルが飛んでいるのを眺めて大声でお祈りを早口に叫んでいた。イギリス人の記者は「どうして逃げないのか」と目を丸くしていた。
知り合いの13歳の息子は46時間もかけてドイツに向かっている車の中で話していた。到着前の1時間半は母親も疲れ切って運転中に居眠りすることを怖れて、上の息子にお祈りでもしてと頼んだ。その子が知っているお祈りは10分で終わってしまったので、母親を絶対に寝かさないために、いつものように神様との会話を始めた。無事に着くように頼んでいた。守ってもらうように大声で願っていた。無事に行き先に到着した。祈りが届いたとも言える。心の中にいる神に守られたとも言える。
ただの会話だけではなく、実際に積極的に行動もしていることに感動する。そこには諺(ことわざ)でも表現されている昔の知恵がある。「神様にお祈りをしようとしても、自分がただ寝ていたらダメです」。言い換えれば、神には自分の手しかないということだ。また「神に守られていても本当は刀がコサックを守ってくれる」を読めば神に対する定義がだいたい分かっていただけるでしょうか。
<オリガ・ホメンコ Olga Khomenko>
キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。
※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。
2022年7月14日配信
-
2022.06.30
スーパーやコンビニで買い物をする時、商品の包装に「遺伝子組み換え」、「遺伝子組み換えでない」などの表示を見たことがあると思う。遺伝子組み換え作物は主に飼料や加工食品の原材料に使われているため、我々は気付かないうちにこれらをたくさん食べている。筆者は日本に留学中、ずっと遺伝子組み換え植物を研究対象として使っていたので、遺伝子組み換えについて少し話したいと思う。
遺伝子とは?
生物学の教科書の説明によると、遺伝子は遺伝情報を載せるDNAセグメントである、となっている。では、「DNAとは何ですか?」という質問が出ると思う。答えはデオキシリボ核酸である。さらに「デオキシリボ核酸とは何か?」となって、問答は永遠に終わらない。簡単に言うと、遺伝子とは生物をつくる設計図に相当するものである。この設計図は生物が環境に適応するため、どのように成長するかを決定する。人間の場合、それは性別、外見、体調、生涯にわたる治療不可能な病気を持っているかどうか、そして子孫の人生さえ決定するかもしれない。
もちろん、今の社会には人の表現型(生物が示す外見上の形態)を変える科学技術の発展がたくさんある。たとえば、一重まぶたが嫌いなら整形手術で変えられ、目の色が嫌いならコンタクトレンズを着用し、さらに性別も手術で変更することが可能である。しかし、これらはただ表面的な現象であり、遺伝子によって決定されるものの多くは変えられない。たくさん食べても体重が増えない人がいるのはなぜか?運動をしないのに病気にならない人がいるのはなぜか?不治の病になる人がいるのはなぜか?・・・人々はいつも「神がすべてを決定する」と言ってきたが、本当は遺伝子がすべてを決定する。科学者たちの仕事はこの遺伝子という設計図を解読することで、私たちの生活を変えることであろう。
遺伝子組み換えとは?
遺伝子組み換えは生物が持つ遺伝子の一部を他の生物の細胞に導入して、その遺伝子を発現させる技術のことである。簡単に言えば、生物Aには生活の質の低下につながる不利な点があり、生物Bにはこの不利な点がないということであれば、生物Bの原因となる遺伝子を生物Aに移行することで、生物Aはそれまでの不利な点がなくなってうまく生きることができる、ということだ。
最初の遺伝子組み換え植物は、1983年に米国で作り出された遺伝子組み換えタバコである。そして1994年にフレーバー・セーバー・トマトと呼ばれる遺伝子組み換えトマトが世界で初めて発売された。遺伝子組み換え作物は病気・農薬に強い、収穫量が多いなどメリットを持っている。日本は遺伝子組み換え作物を大量に輸入し、加工食品の原料や畜産の飼料として利用している。日本国内のトウモロコシ、ワタ、ナタネおよびダイズ使用量の9割程度が遺伝子組み換え作物と推定されている。
遺伝子組み換え作物の安全性
まず、遺伝子が人間に移されるのではないかという心配について、論理的に「不可能」とは言えないが、映画のように「遺伝子組み換えスーパースパイダー」に刺されてスパイダーマンになることは、数十年間は実現できないと考える。例えば細菌由来のBt遺伝子を導入した組み換えイネについて、「食べると虫が死ぬが、人に害はないか」という質問がある。このBt遺伝子の機能はタンパク質を作ることで、昆虫に食べられた後、タンパク質と昆虫体内の受容体が結合して毒性を生み出し、昆虫を殺すことができる。一方、この受容体を持っていない人間やその他の生物には影響がない。もちろん、遺伝子組み換え作物の安全性について、まだ少し懸念は残っているが、現在輸入されている遺伝子組み換え食品は緻密な安全検定を行っているので、安心していただきたい。
遺伝子組み換え自体は単なる専門用語であり、それが良いか悪いかは関係ないし、技術に正誤はない。もちろん、私たちは消費者として遺伝子組み換え食品を食卓に出さないことができるし、遺伝子組み換え綿花で作られた服を着ることも避けられる。ただし、科学者の研究結果を否定しないでほしい。
英語版はこちら
<胡石(こ・せき)HU Shi>
2021年度渥美奨学生。中国湖北省出身。2022年3月に東京農工大学大学院・生物システム応用科学専攻の博士号取得。現在日産化学株式会社で農薬の開発に携わる。
論文に「Rerouting of the lignin biosynthetic pathway by inhibition of cytosolic shikimate recycling in transgenic hybrid aspen」(Plant Journal, 2022)など。
2022年6月30日配信
-
2022.06.23
【場面 #1】
今から70年前の1952年の初春、ある若い兵士が朝鮮戦争の最中に戦場から一時帰郷し、家族とともに幸せなひと時を過ごしていた。名前はウィリアム・スピークマン(William Speakman)。小さな娘を膝の上に座らせたまま、家族に囲まれて夕食を食べていた。こぢんまりとした一般家庭の、平凡な父親の姿であった。
【場面 #2】
1965年の春、韓国・釜山の国連記念墓地(現在は国連記念公園)では、朝鮮戦争での英連邦軍の犠牲者を追悼し平和を祈念する英連邦記念碑の除幕式が挙行されていた。スピークマン氏はイギリスを代表する軍人として戦友たちと一緒に出席した。
スピークマン氏は朝鮮戦争に参戦したイギリス出身の元国連軍兵士であった。1951年11月4日に繰り広げられた臨津江(イムジンガン)地域の戦いでは彼が活躍したおかげで、多くの戦友たちの命が救われた。
2018年に90歳で召天したスピークマン氏は翌年、生前の自らの遺志の通り「第2の故郷」の国連記念公園に奉安された。葬儀は、遺族をはじめ、イギリスおよび韓国の政府関係者、多くの市民たちが見守る中、厳かな雰囲気の中で執り行われた。
冒頭に話を戻してみよう。スピークマン氏が登場する2つの場面は、私が博士論文に関する調査の過程で発見した歴史映像であった。朝鮮戦争勃発70年を迎えた2020年に学術研究の結果、彼の軌跡を探り当てることができた。
場面#1の白黒の映像に見られるスピークマン氏は終始一貫ほほ笑み、至福の様子であった。英連邦軍の公式の催しに出席した堂々とした様子(場面#2)よりも自宅で家族と過ごし、父としてささやかな幸せを感じている様子の方が、何故か私の心に深い余韻を残した。それは彼の姿と、長らく実家を離れて留学している自分の姿が重なったためだけではないだろう。
2本の映像をしばらく見つめていた私は、2019年のスピークマン氏の葬儀の時、彼のご子息たちが訪韓したことを思い出した。そして、博論がきっかけとなり日ごろ連絡をしている国連記念公園の関係者にメールを送った。「貴国連記念公園の奉安者であるスピークマン氏が登場する希少な映像を見つけました。もし可能であれば、この映像を関連する方々にお伝えいただけますでしょうか」と。すると間もなく返信が届いた。
「ご子息の一人とこの映像を共有しました。…初めてこの映像を見たそうです。1964年に父親が国連記念墓地を訪れたことも知りませんでした。もちろん、彼はこの映像が発見されて非常に喜んでいます」
これを契機に私は研究者として知識を蓄積する努力以上に、その知を社会に広く還元する実践の重要性を身をもって実感した。知識の習得が「物事の一端を知ること」を意味するならば、知識の実践は、まず理論である知識を確立したうえで、物事の本質を見極めて人類や社会に貢献する営みではないか。日本に留学し、約7年間かけて研究に取り組んできた私の立場からすると、これまでの自分の活動は知識を体得することに重点がおかれていた。しかし、真の研究者を目指すには、そのような個人的な次元の「知識の習得」を発展させ、「知識の共有」へと結実することがさらに大事であろう。冒頭の場面に当てはめると、従来の国連記念公園に関連する歴史や人物を知ることが一次的な知識習得の行為だとすれば、これからは学術的な知の意義を国連記念公園の関係者たちやスピークマン氏のご子息と分かち合って、社会に発信することが二次的な知の構築行為になると考えられる。
この映像を手がかりに、私は研究を通して「あの時・あそこ」のヒト・モノ・コトが、結局「今・ここ」に帰結するという悟りを得た。「今・ここ」の私が、「あの時・あそこ」のスピークマン氏の足跡を彼の遺族に取り戻してあげたように。この映像を通して亡き父の生前の姿を目にした時のご子息の感動は計り知れないものだろう。
過去から構築されてきた知を体得するとともに、善意の知を実践していくこと。「あの時・あそこ」から「今・ここ」にも通用する有効な示唆点を導き出し、平和で包摂的な社会の一助となることが一人の研究者、そして21世紀のよき地球市民としての役割ではないか。その延長線上で、朝鮮戦争にちなんだ文化遺産を研究する立場から、地球市民がお互いに共鳴するという自覚と連帯感を持ち、目下のロシアのウクライナ侵攻にも深く心を痛め憂慮する。
早く戦争が終わり、70年前のあのスピークマン氏のように、すべての戦闘員・非戦闘員が無事に家に戻り、愛する家族とまた至福の日常を過ごす日が訪れることを願ってやまない。
英語版はこちら
<李貞善(イ・ジョンソン)LEE Chung-sun>
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。2021年度渥美奨学生。高麗大学卒業後、韓国電力公社在職中に労使協力増進優秀社員の社長賞1等級を受賞。2015年来日以来、2017年国際建築家連合等、様々な論文コンクールで受賞。大韓民国国防部・軍史編纂研究所が発刊する『軍史』を始め、国連教育科学文化機関(ユネスコ)関連の国際学術会議で研究成果を発表。2018年日本の世界遺産検定で最高レベルであるマイスターを取得。
2022年6月23日配信
-
2022.06.16
あなたとって家とは何ですか?
「お家はどこですか?」と聞かれると一瞬戸惑ってしまう。戦争で避難民になって家を離れたということもある。だが普段でも「あなたにとって家とは何?どこですか?」と聞かれたら考えてしまうかもしれない。習慣や年齢によって違いがあるとしても、「家」に対する思いは人それぞれなのだ。家はどこにあるかと聞いても、返事はさまざまであろう。ある人にとってそれは実家で、クリスマスやイースターに帰る両親の家で、母親の料理を食べて子供時代に戻れるところだ。そこは自分の心の家でもあるかもしれない。別の人にとっては、長い間頑張って積み重ねた努力で買った「マイホーム」である。旅行かばんの中に持ち込んで、どこでも「家」を作れる人もいる。「家はどこ?」と聞かれたら「飛行機の中」と笑いながら答える人もいる。人は色々で、家も色々である。
だが、家とは場所、もの、人、雰囲気でもある。特にコロナが始まってから、皆が「家」の物理的な存在を見直すことになった。家から仕事をするようになって、住んでいる環境をもう一度じっくり見直すことができた。2年間もじっくり見させていただいた。見たくないほど見ました(笑)。それまではほぼ「寝る場所」として使っていた人も、家の存在を見直さざるをえなかった。
外資系の法律事務所で働いている友達は、コロナの前には出張が多くてほとんどキエフ(キーウ、キイブ)にいなかった。自分の「家」を出張用スーツケースの中に持ち歩いた。だがいくら外見はそうだったとしても、やはり帰る場所が欲しくてコロナ前に家を買った。将来キエフに定住するかどうかも決まっておらず、賃貸よりお金がかかるのに、どうして買ったのか聞いたら「自分の靴下を自由にあちこちに散らかして誰にも文句を言われない自分だけのスペースが欲しい」と言う。何となく分かるなぁ。
別の友達に聞くと、「パートナーや家族、子供がいるところ」との答。そして好きなワンちゃんがいる場所。「皆一緒にいてワイワイする所ですよ」という答もあった。ある年寄りは「ゆっくり自炊できる台所と体をほぐせるお風呂場が自分の場所」と言った。確かに!
家に対するウクライナ人の思い
ウクライナ人は自分の家に対する特別な思いがある。都市でも田舎でもそれがよく分かる。例えば、街の古いマンションの玄関や廊下が汚くても、中に入ると綺麗に手入れされている。イギリス人ほどではないかもしれないが、やはり「マイホーム」を非常に大事にしている。ロシア革命以前に、ある歴史家で民俗学者がウクライナを旅した日記がある。その中で、ウクライナとロシアの村はかなり違うと書いている。ウクライナでは、家の周りに庭があって花を植え、壁は毎年塗り直されている。家の中も綺麗である。少しでもお金を稼いだら家に投資する。西に行けば行くほど家が豊かで綺麗になるという。
個人所有が許されなかったソ連時代でも、家は唯一の資産であった。自動車は購入するのが大変で、それほど普及していなかった。家は一番の資産であり、精神的にも大きな意味があった。圧力をかけられている社会から唯一逃げられる場であった。社会主義がいくらコントロールしようとしても、人々が朝食や夕食をとっている台所で、あるいは寝室で、どんな話をしているかは最後まで管理しきれなかった。家は自由に生活を楽しむことができる最後に残された「場」であった。特に台所はそうで、皆が集まり語り合う場所でもあった。ソ連時代でも台所で密かに誰にも言えない政治的な話をした。台所は「奥様」がつかさどるところでもあって、家の台所を見たらどのような人が住んでいるか大体分かるというくらいだから、台所を中心とした自分の家への愛と密着感は半端ではない。
家を出る
2月24日にロシアの侵攻が始まって、改めて自分の家の存在への思いが強くなった。コロナの2年間飽きるくらい居た家から突然出なければならなかった。一所懸命稼いで買って、内装を全部自分で一つ一つ考えて作った家を一気に奪われた。まだ物理的に存在していても、そこに帰れない精神的な辛さはうまく表現できない。家に残ってミサイルに撃たれて死ぬ場所になるか、それとも家はあるけど出るのか、こんなに厳しい選択を迫られるとは思っていなかった。
ウクライナ人には既に数回、家を離れなければならない危険な状況があった。まず1986年4月のチェルノビーリ原発事故。その夏、キエフの女と子供はほぼ全員家を離れた。8月末に疎開先からキエフの家に戻った時、自分の家で再び普通に生活できることが信じられない気分だった。2013年の秋にヤヌコビッチ元大統領が欧州連合(EU)加盟への道を捨てた時にも、家を出ることを考えた若者が少なくなかった。ある友達は両親に「いざとなったら国を出る」と告げた。母親が昔は富の象徴でもあった壁にかかっている絨毯(じゅうたん)のそばに座って「でもこの家はどうするの?」と聞いた時、「いくら立派な絨毯の家であっても、それより自由の方が大事だ。このような60年代にフルシチョフの政策で作られ、もう古臭くなっている絨毯だらけのマンションはいらない。貧乏でも自由のままでいい」と答えたという。
その頃、別の友達は大きなソファを買うために貯めたお金を「万が一の貯金」に回した。幸い政権が変わったので貯金を取り崩す必要はなくなった。10年後、家と母親を大事にしているウクライナ人ですから、彼は母親を新築の高層マンションに引っ越させた。窓からは綺麗な風景が広がり、母親は毎日夕焼けを楽しんでいた。まさかその高層マンションの一角にミサイルが飛んでくることになるとは夢にも思わなかった。2月24日の午後に近所のマンションがやられた時、「家に居たら死ぬ」という厳しい現実を受け止める必要があった。それで家を出た。最初は西に逃げ、今は長男が住むドイツにいる。残念ながら家は動かせない資産であるため、今でもそこにある。キエフの家賃は半分になった。不動産屋が困り、建設会社はさらに困っている。新しい家を作る見込みはない。建設に使う鉄筋コンクリートの工場が破壊され、コンクリートの値段が急騰している。
だがそれだけじゃない。家を出なければならなかったことはもっと前からあった。その時からずっと続いているのだ。ロシア革命の時、裕福な農家はほぼ全部、家を奪われた。しかしながら、早く空気を読み取って早く家を離れ、大都市に移って隠れ通せた人もいた。実は私の親戚もそうだった。2月初めに私が出張に出かける頃、すでにキエフの空気は重かった。荷造りをしている間、どうして歴史は繰り返されるのか考えていた。私たちは自分の土地で自由に生活しているのに、どうしていつもよそ者に邪魔されるのか。答えが見つからない。その時、体のどこかで先祖から受け継いだ言葉に現れなかった記憶がよみがえって恐怖に襲われたことを今でも覚えている。無意識のうちに学校の卒業証書をかばんに入れていた。戦争で若い未亡人になった祖母が再婚した相手は、戦前に大学を卒業したが戦争中に卒業証書を失くした。戦争が終わっても再発行してもらえなかったため、祖父はずっと安い給料の仕事しかできなかった。小さい時からその話を聞いていたので「まずは証書」と思ったのだろう。
大切なもの
ウクライナでは「長く使う」という考え方で、自分の家に一番良いものを買う。今、西ヨーロッパに避難した多くのウクライナ人が、生活スタイルの違いに気づいている。ヨーロッパの人はあまり家にお金をかけない。アパートの壁紙、風呂場やキッチンの設備などに量販品を使うことも少なくない。そこで、逆にウクライナの生活レベル、またはクオリティ・オブ・ライフがかなり高いことに気づく。ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士も自分の生活と比較して気づいたようだ。ウクライナの公安が聞き取れた電話の会話に「いい生活しているぞ。こんな家電は10年働いても買えない」というものがあった。それで洗濯機まで盗んで持っていかれる。ある意味でウクライナの家の生活レベルの高さを認めたことになるだろう。
ウクライナ人は家に対する特別な思いがあると言っても良いかもしれない。そしてもちろん家はイコール「自分が所有するもの」である。独立後30年間、資本主義の自由を味わったウクライナ人であるが、ものを買えなかったソ連時代をまだ覚えていて、「もの」に対するハングリー精神はまだまだ残っている。自分の家には一番良いものを買い、人前に出る時はまだまだドレスダウンではなく、ドレスアップする。
社会主義時代には共同生活というものがあった。「もの」も思い出も全部共同にさせて、人の個人性を無くそうという動きだった。共同農家、共同組合、共同ナントカができていた。友達の話を聞くと、東ドイツもそうだったらしい。施設で暮らす時には、自分のスプーンを持たずに共同で使うものがあった。しかし、日本の家庭ではそれぞれがお箸を持っているのと同様に、昔からウクライナの家庭では自分のスプーンを持っていた。他人のスプーンを使うのはタブーだった。亡くなった時にそのスプーンを棺に入れる習慣が今でも残っている。当時はもしかしてそれが唯一の個人資産であったかもしれない。
人はあくまでも「自分だけのもの」を欲して、自分が「安心して過ごせる縄張り」を確認していると思う。私もそうだ。ヨーロッパに来てから最初の2週間は、出張中の友達の家に泊まっていた。その時には自分が避難民になったという事実をなかなか受け止められなかった。その家には何でもあったが、やはり自分だけのものが欲しくなった。それである日ウィーンのIKEAに行って、取り敢えずスプーン、ナイフ、フォーク、お皿3枚とコップを買った。まだ寒かったから寝巻き、スリッパ、布団と枕も。自分だけの枕。新しい夢を見る枕を。久しぶりに100ユーロも使ったが、ものすごく得した気分だった。「IKEA、ありがとう」と思いながら青いバッグに入れて帰ってきた。そこは自分の家ではないが、少し家らしくなったような気がした。生活するのにどれだけものが必要か、引っ越しの時によく分かる。今までに25回くらい引っ越ししたことがあるが、いつもそう思う。長く夢見ていた自分の家を10年ほど前に買った。これでやっと落ち着くと思った。その先にこんな状況が待っているとは思わなかった。
避難民にとっての「家」
オーストリア、ドイツ、ハンガリー、イギリスなどでウクライナの避難民にインタビューをした。家の話も聞いてみた。「『自分のもの』と『自分のルール』があるところ」と答えた人が多かった。「自分の生活習慣が成り立っている空間である」という人もいた。キエフ郊外からドイツに子供3人を連れて避難してきたスビトラーナーさんにとっては、キエフに居た時と同じように、毎朝好きなコーヒーを作って飲むことが落ち着きを取り戻せるようだ。コーヒーメーカーは全く知らないドイツ人がコーヒー大好きな彼女にくれた。息子のミーシャ君はキエフから持ってきたサッカーボールで遊ぶことが「家にいた時にしていた」日常となった。そこにあった生活習慣や雰囲気が「家」なのだ。
3月からウィーンで借りていたウィークリーマンションで、キエフから避難してきたリトアニア人の国際機関の職員に会った。彼は「自分の子供のおもちゃが散らかっているところが家だ」と。なるほど。私の母にとっては、犬と散歩した後にソファでクロスワードをすることだ。フランクフルト空港で買ったクロスワードをあげたら大喜びしてくれた。ウクライナ語の本を買えずに悲しんでいるので、ユーチューブの使い方を3ヶ月かけて学んでもらった。夜のニュースを見たいのだ。彼女にとってはそれが家にあった毎日のリズムを整えるものだった。それを再生することができて良かった。
ヨーロッパの多くの国々は今回、ウクライナの避難民を受け入れてくれた。「家」の意味をよく分かっているイギリスの人々は、ウクライナ人の避難者向けのプログラムを「ウクライナ人向けのホーム」とそのまま名づけた。その説明書には「家」の定義がよく説明されている。まずは、自分の部屋、プライバシーがある空間。
キエフの家を離れなかった同級生とも「家」について話した。彼は留学もせず、早く結婚して子供を5人持ってずっとキエフで仕事をしている。やはり「大きな家はウクライナ、小さい家は自分の家。好きな人が待ってくれるところだ。臍(へそ)を埋めてあるところ(注)でもあって、我々の領土である。どこも行かない。最後まで戦う」と言った。それもなんとなくわかる。心配で毎日メッセージを送っている。彼は今、私たちの「心の家」を守っている。
(注)ウクライナの諺で「生まれたところ、母国」という意味
<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。
※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。
2022年6月16日配信
-
2022.06.15
13年前、28歳の時に息子を産んだ。当時私は博士課程2年生で、夫は来日が遅れたため私の後輩になった。同じ専攻に在籍し、同じ先生に師事していた。
出産3日前まで、毎夜遅くまで研究室にいて論文を書き、また先生の手伝いをしていた。
私費留学だった私たちは日本に来てから奨学金をもらうことができたものの、決して裕福な暮らしができたわけではなかった。子供を授かった時には、将来この子を育てていくだけの経済力があるかが不安だった。出産費用は国の助成があって、不足分もなんとか貯金から捻出できた。学生だった私たちには、将来の仕事の保証も全くなかったけれども、他方では将来子供の教育はどうするか、親になったからには責任を持たないといけないと思った。私が貧しい家に生まれ、行きたかった塾や習い事を全部我慢していた過去があったからかも知れない。なんとしても子供には不自由なく、何でも体験させたいと考えていた。
赤ちゃんの頃、息子は手間がかからなかった。夜泣きはしなかったし、夜起きたとしても、夫が対応して私を休ませてくれた。
保育園が決まっていなかった頃には、息子を連れて大学に行った。私と夫が授業の時には、インドネシア人の後輩たちに面倒をみてもらった。息子が2歳の頃、私は国連機関のプロジェクトに採用され、東北地方に度々出張することとなった。数日間家を空けることもあった。その時は、全て夫が息子の面倒を見ていた。今思えば、私が息子の弁当を作ったのは遠足の日だけだった。しかも「ママにはキャラ弁は無理」と説得し、友達の可愛い弁当を見ても私におねだりしないように先手を打った。
夫も共に学術界にいるので長期現地調査はもちろん、海外の学会にも息子を連れて行った。息子の“学会デビュー”は3歳の頃で、私が発表をする際は同じ教室に座らせ、iPadを渡して好きな「きかんしゃトーマス」「アンパンマン」「トムとジェリー」などの映像を見させていた。批判覚悟だったが、学会後いろいろな人に「静かに座れて、お利口な子だね。」と褒められ、励ましの言葉もたくさんもらった。
6カ所での非常勤講師をかけ持ちしていた頃はほぼ休みがなく、保育園や学校の行事にろくに参加できず、一緒に遊んでやれなかった。それでも息子は理解をしてくれた。
息子のために必死に働いていると思っているが、実は息子の方が我慢をして私のわがままに付き合ってくれているのではないかとも思う。13年間かなり我慢させている代わりに、これからはできる限りママ業をやるつもりでいる。
<ミヤ・ドゥイ・ロスティカ Mya_Dwi_Rostika>
インドネシア出身。2010年度渥美奨学生。大東文化大学国際関係学部国際関係学科講師。1998年広島県立三和高校に1年間交換留学をきっかけにガジャマダ大学で日本語を専攻。国士舘大学大学院博士号取得(政治学)。国士舘大学、大東文化大学、亜細亜大学、神奈川大学、放送大学非常勤講師、警察大学校インドネシア語主任講師を経て2019年より現職。専門は東南アジア(特にインドネシア)地域研究。インドネシアの障害児童学校への車椅子寄贈・奨学金提供のボランティア活動を活動中。
※このエッセイはミヤさんがフェイスブックに投稿したものを、許可を得て転載させていただきました(編集部)
2022年6月2日配信
-
2022.05.26
フィリピン大統領選挙が迫ってきた昨年暮、この国の政治体制について僕自身の考えが変わったことに気づいた。きっかけはコロナ禍のストレス解消で始めた職場のアマチュアのオンライン合唱団の仲間から、インターネットで盛んに聴かれているある歌の動画が紹介されたことだ。ハリウッドのミュージカルに興味がある方は誰でもご存知の「レ・ミゼラブル」の歌をタガログ語に翻訳したものだった。名前こそ出さなかったが、フィリピン大学ロスバニョス校が大学を挙げて応援している大統領候補のためにこの曲を歌おうという意図は見え見えだった。合唱団のメンバーは話し合い、「楽譜や歌詞や練習材料があるからやりましょう、一緒に歌いましょう」と決定した。紹介者の意図とは異なり、特定の候補者のための選挙運動ではない中立的なものとして、合唱団の7番目の演奏曲の練習と動画制作が始まった。
中立的な立場を守る決意は、我が合唱団の標語である「多様性の中の調和」に基づいている。合唱団が演奏する曲はできる限り4つの声(ソプラノ、アルト、テノール、バス)から成り立つことで、多様な音声(ボーカル)から1つのハーモニーを作り出すという意味合いがある。「SGRAかわらばん」読者の皆さんはご存知のように、これはSGRAと渥美財団の標語にもなっている。「多様性の中の調和」に沿っていれば政治的な意見の違いで入団を断ることは絶対にないし、特定の候補者のための選挙活動もしない。
今度の選挙について考えさせられたのは、次期大統領を誰に委ねるべきかということではなく、フィリピンの民主主義そのものであった。それこそが第7演奏曲の主題である。
冒頭で述べたミュージカルの原作であるヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は民主主義革命で激変した19世紀フランスが舞台であり、フィリピン人にとっては1980年代のマルコス独裁政権と戦った革命に通じるところがある。第7演奏曲の動画では、最初にフィリピンとフランスの国歌が部分的に似ているところを取り上げる。次にフィリピンが東南アジアにおいて一番古い民主主義国でありながら、何かが壊れているという論文が紹介される。
プロローグが終わると、レ・ミゼラブルの映画と1986年のエドゥサ革命(マルコス政権の崩壊を導いた)の映像を交互に見せながら、「民衆の歌が聞こえるか」を合唱する。背景の映画とエドゥサの場面には共通点がある。幸せそうに国旗を振る国民たち。女性も子供もいる。太鼓を叩いて行進、高い場所から眺めている野次馬。そして、兵隊と市民が平和に繋がる道にあふれている。エドゥサの無血革命は有名になり、ベルリンの壁の崩壊やアラブの春のようなピープルパワー革命に例えられた。
第7演奏曲の動画には僕なりの政治的メッセージも入れた。1980年代から2020年までのASEAN諸国の一人当たり国内総生産(GDP)の変化が表示された。こぶしを挙げた子どもが画面に映った時、統計の動きが止まる。2020年、フィリピンはベトナムに追いつかれた。フィリピンに真の民主主義が健在であったら、このようにはならなかったはずだ。民主主義である以上、国民全員の幸せが追及されるべきである。ところがフィリピンは成長が鈍く、未だに貧富の格差が大きい。共有型成長が実現されないのはなぜなのか。ある米国の政治経済学者の分析によれば、それこそが問題。格差が酷い社会では1人1票より、1ドル1票になりがちなのだ。結果として政治的決定権は人口比率が少ない上層階級にあり、政治方針を左右する。
「民衆の歌が聞こえるか」では「明日が来れば!」という歌詞が2回も歌われている。それに便乗して「未来は明日から始まるが、そこで終わらない」と長期的な努力が必要なことを強調した。続いて「国造りは投票所から始まるが、そこで終わらせるべきではない」、最後にケネディ元米大統領の演説の動画とその有名な言葉「国家が諸君のために何をしてくれるかを求めず、諸君が国家のために何をできるかを求めよ」を映すことによって、フィリピンに真の民主主義を実現するために気を緩めないで努力しようと呼びかけた。
(外伝)
勤務している大学院にはセンターが3つあるが、その1つの「共同社会・革新研究センター」長候補として、若い研究員達の圧倒的な支持を得て推薦された。全く意外な展開で、適任ではないので辞退したいと説得を試みたが納得してくれず、指名を受けざるをえなかった。4月上旬に推薦期間が終了した時、候補者は僕1人だった。しかし、人事委員会はよくわからない理由で推薦期間の延長を決めた。うんざりして辞退したかったが、若い支持者たちに強く反対されたので、彼らの熱い働きかけを再び尊重するしかなかった。予想通り候補者がもう1人推薦された。しかも大物である。最近大学に来たばかりの教員なので、誰かが相当なエネルギーをかけて僕に反対しているということだ。候補者の施政方針の発表と人事委員会による面接が終わり、今は決定を待っている。結果がどうなろうと、5年前に私が大学に来てから続けている「持続可能な共有型成長」の普及活動を好意的にみてくれた若い研究者たちがいてくれることに、感謝の気持ちで一杯である。若手研究者の支持を尊重するのか、トップダウン政治で決めるのか、最終決断は組織のトップの手中にある。これも民主主義の試練の1つである。
(後書き)
実は「第7プラス演奏曲」というバージョンも作った。第7演奏曲の一番後には、白黒写真で「早く再会したい我が愛する父」が出ている。この動画を作成中に父が亡くなった。僕は最後まで父のそばに居ることができた。20年以上の日本滞在の後、5年前に帰国したことに感謝する。「第7プラス」の最後に病院の父の短い動画を入れた。パンデミックで病院の出入りが極めて厳しかったので、父は甥や姪や僕たちにオンラインで話しかける。「あなたたちは祖国の未来の一員なのだから、堂々と行動できるように研鑽してください」と。未熟ながらも第7演奏曲と「第7プラス演奏曲」を父に捧げる。
Thrice, My People Wept
フィリピン大学ロスバニョス校の同僚達は圧倒的にレニ・ロブレド大統領候補者を支持していたが、津波のように襲ってきたフェルディナンド・マルコス二世に敗北した。選挙結果の信憑性が問われているが、選挙管理委員会は結果を認める方向で固まっている。民間調査がその結果をずっと報じていたことが強い理由だという。しかし、誰が勝ったかというよりはフィリピンの民主主義そのものの方が問題なのだ。国民全員が泣くべきだ。僕を応援してくれたセンターの若き研究者たちも、彼らの意志が否定される可能性を作り出した人事の過程に対して深い不満を抱え泣いている。そして、国のために頑張れと最後にエールを投げかけた愛する父の他界を家族が嘆く。
フィリピンに真の民主主義が到来するよう、オールフィリピンで一人残らず頑張るしかない。改めて共有型成長の必要性を強調したい。
「第7プラス演奏曲」をご覧ください。
<フェルディナンド・マキト Ferdinand C. Maquito>
SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。
2022年5月26日配信
-
2022.05.19
幸徳秋水の『帝国主義』から始まった私の研究生活はコロナ禍でジレンマに突き当たった批判的思考力の危機と向き合っている。パンデミック保護主義と非常事態の日常化、社会的疎外に覆われていた2年あまりの間、国境と主権国家の統治を前提としたロックダウンとスローダウン、シャットダウンなどの動きが続いていた。
一方、ひっそりと地理的境界線を越えて繰り広げられたのは、戦争と内戦として現れた暴力である。世界が注目するロシア・ウクライナ戦争のほか、パレスチナとイエメン、シリア、エチオピア、ミャンマー……、世界各地に暴力の影が依然として潜んでいる。現代の戦争形態は工業化とグローバリゼーションにともなって変化し、必ずしも物理的攻撃とは限らない。社会の隅々にまで浸透し、見えずとも日常生活につながっている暴力の実態は現代政治思想のなかでグローバル内戦とも呼ばれる。パンデミック下の大規模な渡航制限の関係で、他の国・地域情勢は容易に自分とは無関係で別世界のことだと思われる。人間の存在にとどまらず、社会的孤立状態が国際社会でも起きているなか、グローバル内戦の現実はさらに想像がつきにくいかもしれない。
1900年代初頭に出版された『帝国主義』は遠くから2020年代のパンデミックとグローバル内戦の課題と呼応している。結論で幸徳は「愛国的病菌は朝野上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し」尽くすと、近代帝国主義への注意を喚起する。当書の執筆時期にはペストの日本での初流行と子年(ねずみどし)の大流行必至のパニックが起きていたので、病菌とペストのメタファーが用いられた。また、全書をつらぬく愛国心への問いかけから帝国主義の心理的メカニズムを見抜いたことが際立っている。他者への憎しみとの絡み合いこそが愛国の構造なのだと、帝国という暴力装置にかかわったメンタリティが析出される。こうした構造のもとで、「非愛国者なり、国賊なりと」愛国を理由に他者を差別・攻撃する傾向が必然的に内部の対立を深め、「世界人民は遂に敵を有せざる能わず、憎悪せざる能わず、戦争せざる能わず」という世界人民の敵対をもたらすと、幸徳は語る。
『帝国主義』は実に帝国主義の大流行による世界規模の戦争・内戦状態という恐ろしい結末へのパンデミック・アラートなのである。この書を出してしばらくのあいだ注目を集めていたが、日露戦争の最中あえて非戦論とトランスナショナルな連帯を堅持した幸徳は平民社同人とともにひどい目に遭い、『平民新聞』の発行部数は急落した。それは当局の弾圧によるものであり、読者に見捨てられたのもあった。『帝国主義』が世に問われてわずか10年で、「愛国的病菌」と「帝国主義的ペスト」と闘ってきた幸徳の生涯は監視と入獄、亡命を経て、大逆事件のフレームアップによって終止符が打たれた。政権の恨みを買ったと言われるが、愛国の要求に応じなかったから非国民扱いをされたという愛国主義の社会的雰囲気と対照的な社会的孤立も看過できないだろう。大逆を口実に反対する声を圧殺した政権の暴走を社会の内戦的傾向の芽生えとすれば、暴走に歯止めをかけられなかったことは社会連帯の限界を反映していたのではないか。
パンデミック・アラートとして、愛国の構造と世界規模の戦争・内戦状態との関わりへの鋭いまなざしは今日でも欠かせない。むろん、『帝国主義』がそのまま通用するわけではなく、今の時代状況に基づき、冷静な目で課題解決を見つめなければならない。パンデミック下、難しい決断か戦略的操作かとまでは言い切れないが、ワクチン・ナショナリズムと国境封鎖のような自国優先で保護主義的措置がまるで残された唯一の選択肢であるかのように取られている。トランスナショナルな連帯が弱まるなか、紛争地域の衝突と南北格差、ジェンダー不平等、人種差別、移民難民問題などの課題は世界規模の感染拡大とともに深刻化している。これは現在進行形のグローバル内戦である。従来の国際協調体制の限界を認め、主権国家の固定観念を変え、国境を越えて社会的連帯の可能性を模索していくことは、コロナの時代と向き合う基本姿勢だと考える。『帝国主義』をリアルタイムで読むことで、この時代のパンデミック・アラートとしての批判的思考力を引き出せば、積極的な取り組みにもつながるだろう。
英語版はこちら
<詹亜訓(せん・あくん)CHAN Ya-hsun>
台湾国立交通大学社会と文化研究科修士。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻修士、同専攻の博士後期課程に在籍中。専門は、東アジア政治・社会思想史。20世紀日本の社会問題と帝国主義論の相互関係について研究している。
2022年5月19日配信
-
2022.05.12
現在、SNS(会員制交流サイト)は普遍的なものになり、人間の生活を変えつつあります。もちろん良い方向に変わっているところがたくさんあります。情報を早く拡散したり、長い間離れている人と接続したりすることができます。一方、世間では大目に見られているSNSの悪いところも紛れもなくあります。色々ありますが、最近注目を浴びているのが人間の気を散らすことです。「SNSを使うことによって気が散る」ということについて、詳しく説明しなくてもこのエッセイを読んでいる皆さんはなんとなく分かると思います。SNSを人生に導入し使いすぎることによって、自分の本当のポテンシャルを引き出すことができなくなると思います。この問題を解決し、人生を変えたい人は少なくないと思いますが、そのような方にジョージタウン大学のカル・ニューポート教授が著した『ディープ・ワーク(Deep Work)』という本を強くお薦めます。生産率を上げるのに、この本は不可欠だと思います。
ディープ・ワークというのは「認知能力を限界まで押し上げ、注意散漫のない集中状態で実行される活動」と定義します。著者は現在の世界で首尾よく生き残るために、このディープ・ワークを実行できる能力を身につけないといけないと述べています。SNSのように気を散らすものは自分にとって良くないので、完全にではなくてもできるだけそこから自分を離さなければなりません。これによって集中力を手に入れることができます。ディープ・ワークがなぜ大事かというと、現在多くの場合、脳とメンタルを使用する仕事が求められているからです。周りをきちんと観察すれば、誰でも分かると思います。
言わずもがなですが、世界は「自動システム」という将来に向かっています。自動運転の車をはじめ、スマートハウスやロボットなどという最先端技術・サービスが普及しています。この技術・サービスのコストが下がりつつあり、庶民にとっても手頃な値段になっています。現代のあらゆる会社はこの最先端技術・サービスに関わっているため、それらの会社に「ソフトウェア部」が存在しています。この「ソフトウェア部」は時間がたつにつれて大きくなり、大事な部署になると思われます。将来はソフトウェアに関わる仕事が多くなり、それに関連するジョブチャンスも多くなると考えられます。複雑なソフトウェアのスキルや知識を得るためには誰にとっても集中力が必要で、ディープ・ワークがとても重要であると考えられます。
さあ、ディープ・ワークの大切さは分かったけど、そのスキルを手に入れるにはどうすれば良いかと皆さん戸惑っているでしょう。著者は詳しく書いていますが、私が個人的に使っており、お薦めしたい方法を説明します。それはフェイスブックやインスタグラムなどのSNSの使い方を変えることです。現在多くの人が24時間、SNSを使っています。いつでも、どこでも。起床したらすぐ最初にSNSをチェックします。レストランで順番を待っていたら、すぐポケットから携帯を出しSNSをチェックします。これは非常に悪い習慣です。これによって脳が「つまらなさ」に慣れず、常に刺激を求めるようになります。そのため、複雑で大変なタスクに取り組むときに集中できなくなり、仕事の質が低下します。これを解決するために、一日にSNSをチェックする時間を決め、守るようにします。例えば、昼の12時と夜の8時にそれぞれ45分間だけSNSをチェックする、などです。その時間帯以外はできるだけSNSのチェックを控えます。これで脳が「つまらなさ」に対して鍛えられ、メンタルの強い人になることができます。結果として、集中力が上り、大変なタスクを実行することができます。
ディープ・ワークの本を読み、それをできるだけ自分の人生に取り入れた結果、人生は180度変わりました。学部3年生の時、プログラミングと画像処理の課題・研究をしなければならないことになりましたが、当時機械工学の学生だった私は非常に困りました。短時間でこの複雑で難しいことをできるだろうかと自分の能力を疑いました。ちょうどその時、ディープ・ワークの本に出会って夢中で読みました。この本から学んだことをすぐに実行しました。最初は自分の時間の使い方の習慣を変えるのが大変でしたが、だんだん慣れるようになりました。時間がたつにつれて、難しいプログラミングのスキルすら手に入れることができました。皆さんもぜひディープ・ワークの本を読み、自分の一日の生活に取り入れてみてください。人生が良い方向に変わると思います。
英語版はこちら
◇モハマドハフィズ・ヒルマン・ビン・モハマド・ソフィアン Mohd Hafiz Hilman Bin Mohammad Sofian
2021年度渥美国際交流財団奨学生。マレーシア出身。芝浦工業大学機能制御システム専攻博士。研究テーマは「Semi-Automated Active Learningによるディープラーニングのための画像アノテーションにおける作業時間の削減に関する研究」。現職は日立Astemo株式会社システムアキテックチャーエンジニア。
2022年5月12日配信
-
2022.05.08
オーストリアの田舎を走る電車に乗っている。窓の外の景色は春の花で着飾っていて、美しさのあまりにどきどきする。オーストリアに避難できた私の家族に初めて会いに行く。私自身は戦争が始まる2週間前から仕事でヨーロッパに来ていた。母と姉の家族は空爆が始まった2月24日に学校の地下室にある寒いシェルターで一晩を過ごし、皆でキーウを離れることを決めた。町を出るのは決して安全ではなかったので、どの道を走るか迷った。西ウクライナの友達に相談し、キーウとリビフをつなぐ幹線の高速道路はやめて、村の中を走る迂回路にした。普通は高速道路で6~7時間の旅が、村道も渋滞していて28時間もかかった。それでも途中でガソリンを入れられ、空爆に会わないで出られて幸せ。
教え子のポリーナさん家族の場合はそれほど運が良くなかった。同じ25日にジトーミル方向に走ると、まず渋滞に巻き込まれて動けない。さらにホストーメリ空港がひどく空爆されている音を聞いて結局キーウに戻った。ドライブは諦めて翌日キーウ駅に行ったが、あまりの混雑で電車に乗れなかった。ストレスで吃音し始め、白髪も出た。幸い2週間後にポーランドに出稼ぎに出ている父親の所に行くことができた。
私の家族がキエフの家を出るまでに40分しかなかった。キーウの人たちは1月から避難用のかばんを準備し始めていた。そこに必要な書類(身分証明書や運転免許証)、下着、靴下、携帯食品、飲料水、電池、携帯ラジオ、携帯電話の充電器などなどを入れる。そこで2014年に東部で戦争が始まった時に配布された「もしも空爆の場合は」というマニュアルを初めて読んで、家の中でお風呂場が一番安全な場所と知った。構造柱があって窓がないので爆撃を受けても命を守ることができる可能性が高いと書いてある。振り返ってみると必ずしもそうではなかったようだが。
この避難かばんは、地震に備える非常持出袋と同じ。ただ地震の代わりに戦争が入っていた。まさかそれを経験すると思わなかった。そして私の母は最後まで避難かばんを作らなかった。無視していた。それで家を出る時に物を集めるのに結構慌てた。自分のものだけではなく、ワンちゃんの餌や薬なども必要だった。結局、一番古いかばんに入れて出発。後になって「あなたがたくさんかばんを買ってくれたのに、どうして一番汚いのに詰めたんだろう」と悲しんでいた。母が避難かばんを作らなかったのは不注意というより、子どもの頃にもうすでに戦争を経験している80歳の人が、まさか同じような経験をしなければならないとは思わなかったのだろう。1月末からヨーロッパの母の友達から「遊びに来ませんか」と誘われていたが強く断っていた。
同じような感じは年寄りだけではなかった。若い人もそうだった。状況を甘く見ていた。1月7日の正教のクリスマスで帰ってきた友達が「アメリカやヨーロッパのメディアは結構騒いでいるのに、キーウの人はお祭り気分で現実を忘れているのが不思議」と言っていた。キーウの家族には「あなたは想像力が豊かすぎる。戦争なんか起こらないよ」と言われていた。今思い出すと笑えない。
1月後半のキーウは表面には出なかったが、既に見えないところでは緊張感が走っていた。外国の大使館が撤退し始めた。日本の商社マンが家族を日本に帰国させた。その後も外国人が少しずつ近くのヨーロッパの国々に移動し始めた。友達が皆去っていき取り残された気分になった。1月25日に日本政府が渡航危険レベル4に上げた翌日の朝5時、その日にコンサルティングを予定していた会社から急にメールがきた。「お元気ですか」の挨拶もなく「全ての業務をやめます」としか書いてなかった。なるほどと思った。その日から皆が一気にいなくなった。お世話になっている人に「これは普通ですよ。イラクとアフガニスタンの時と同じこと。大変なことにならない前に皆を帰らせたがっているでしょう。後になって避難させるために政府のチャーター機を飛ばすのは大変なお金がかかるから」と冷静に言われてびっくりした。まさかイラクとアフガニスタンと同じではないじゃないかと思った。しかし、私の見方も甘かった。
1月末の外国メディアには「キーウの人は勇気があって町を出ない」という報道が多かった。勇気だったのか、それとも、ただ顔に出さない不安を言葉にできなかったのか。ふり返ってみると、周りには、緊張感が和らがずに結構不安になっていた人が多かったと思う。万が一の場合はどうするか考えていた。ただ口に出さなかった。ウクライナの人はぎりぎりまで我慢する特徴があるからだ。日本人と似たところがあって、人の前で面子を失うのを避け、最後まで無理して我慢するところがある。いくら緊張しても人の前で言わない。
1月末に著書の出版記念講演会の後、車の中で教え子とそんな話をした覚えがある。知り合いがSNSに書いたこともあった。面白い書き方で「皆さん、私は空気を読めない人間で最後まで気づかないタイプで、今回の状況で何か大事な情報を見流すのが怖いので、いざとなったら誰か教えてください。背中を押してください。頭も叩いてくださいよ」と。その人はチェルニヒフ出身で今ベルリンにいる。誰かが知らせたのでしょう。
私は多くの国際プロジェクトに参加しているので外国に出張へ行く段取りはできている。パスポート、保険、クレジットカード、現金、パソコンや携帯電話や充電器、そして必要な連絡先情報さえあれば他は全部買える。だが旅慣れてない人にとって家を出るのは簡単な話ではない。しかも避難者になるのだ。たくさんの壁があったに違いない。
一番大きな不安を及ぼす壁は金銭的なものでしょう。ウクライナはソ連崩壊から今に至るまで銀行に信用がないので、タンス預金も多い。そのため空巣や泥棒が入ることも多い。もちろん、みんなに貯金がたくさんあったわけではない。特に若い人には、お金を借りるシステムが導入されてからそれで困った人がたくさんいる。コロナが進んでから失業率が上がり、緊急金貸しもたくさん増えた。日本では大きい金額とも思われない5万~10万円くらいを、自分の家や車を担保にして借りる。だが年寄りは違う。今まで色々な時代を経験しているから、万が一のためのお金と葬儀代は必ず用意している。2014年には通貨の下落のせいで5分の1になったが、外貨に変えておく年寄りは少ない。
唯一の財産である自分の家を置いていく壁。それから外国語の壁。だが今回ヨーロッパに避難してきたウクライナの人々を見ると、言葉を話せなくても遠くに来た人がたくさんいる。身に危険を感じたらとにかくサバイバル力で動く。3月中旬、そのような人たちにウィーンの中央駅で出会った。スーミ市に住んでいて、2月24日に家から100メートルの所に爆弾が落ちたので、慌てて荷造りして子供2人を抱えて電車を乗り継いでスペインにいる姉の家族の所に行くことにした。不安と緊張感を移動の原動力にした人たちだった。
だが、苦労して大事に買った唯一の財産でもある家を去ることが考えられない人たちもいる。それ以外に財産がない人。外国語が分からなくて言葉の壁にぶつかる人もいる。また「外国では誰も我々を待っていない。行っても困る」という思い込みの壁にぶつかる人たち。そして他にも色々な誰にも言えない壁とトラウマが体の中に染み込んでいる人達。空爆されても自分の家に残るという考え方も分からないわけではない。特に自分の家で死にたいというお年寄りの気持ちは世界共通でしょう。
家を出たままもう2ヶ月が過ぎている。2月中旬の出張には当然、必要最低限の物しか持ってこなかった。季節が変わり春夏の服を買いました。しかし今回分かったのは、家なんてどうでもいいです。元気さえあればいくらでも新しい家を作れる。命が取られたら終わりですから。
<オリガ・ホメンコ Olga_Khomenko>
キーウ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004
年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行
※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。