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エッセイ731:陳希「複数の故郷で生きる」

日本に留学に来たのは2013年秋のことでした。もともと日本に留学したいと思っていたので、公募を知りすぐに応募したところ、運良く国費留学生として選ばれて都内の大学院で研究生活を始めることになりました。異なる言語に囲まれ、異なる言語で研究生活を送るのは決して簡単なことではありません。しかし、私は言葉の面で窮地に立たされた記憶がほとんどありません。理由として考えられるのは次の二つです。

 

一つは、留学する前に大学で日本語を学び、日本人の先生方や留学生たちとコミュニケーションを取った経験があるからです。おかげで比較的すんなりと日本社会に馴染むことができました。

 

もう一つは、小さい頃から中国・貴州省の中で学校を転々としていたことが挙げられます。同じ省とはいえ話される言葉はかなり異なっているので、最初に苦労するのは言葉でした。しかも、当時は共通語としての「普通話」(中国における民族共通語 )は今ほど普及していなかったため、日常生活はもちろん、教室の使用言語も方言が使われることが普通でした。子供であっても、現地の言葉に順応するのには時間と工夫が必要でした。

 

なぜなら、異なる方言を学ぶときには、発音、語彙、文法だけでなく、その方言の独特の表現法や現地の文化も合わせて学ばなくてならないからです。そうでなければ、現地の人々と真の意味でのコミュニーションは成立しがたいです。逆に言えば、異なる言語を学ぶことによって、自分がいままで知らなかった新しいものの考え方や文化を知ることができます。

 

何度も転校を繰り返して気づいたのは、言葉はコミュニケーションのための手段である以上の機能を持っているということでした。つまり、言葉を思想や文化と切り離して考えることができません。異なる言語を学ぶとは、その言語を用いる他者を知り、自分の世界を広げていくことでもある、ということを、子供の時になんとなく感じ取っていたようです。

 

この経験から「異なる道を歩み、異なる地に逃げて、異なる人々を探し出しにいく」(魯迅『吶喊・自序』)かのように、日本留学を選びました。幸いなことに日本で何人かの「異なる人々」と出会いました。「異なる人々」との協力と支えがあったからこそコロナ禍でも博士論文が書け、無事に学位を取得し、研究者としての第一歩を踏み出すことができました。

 

限られた時間と能力のなかでの執筆であり、史料の発掘、テクストの分析などに関しては十分であったとは思えませんし、別の観点、別の論点から考察を行うこともできたと思います。これらの反省は今後の課題です。

 

留学生活のなかで度々実感していたことの一つは、もう帰るべき故郷がないということです。幼年期と少年期は貴州で過ごしたので、大雑把に言えば故郷は貴州です。しかし、大学進学のために貴州から離れ、その後は天津で6年ほど、東京で8年ほど、と、ずっと遠く離れた所に住み続けてきました。いつのまにか故郷であるはずの貴州は、ほんの一時住んでいた土地の一つ、という程度でしかなくなりました。

 

しかし、これは不幸なことではないと思います。なぜなら、私は帰るべき故郷を喪失することによって、複数の故郷を手に入れることができたからです。

 

哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリの共著に『千のプラトー』という本があります。この中で二人の思想家は、人間の言語、文化、性、そして人間そのものの歴史といったものは、決してひとつの原理によって成り立っているわけではないと述べています。つまり、人間は、さまざまな言語、文化、性、歴史によって生きている。ドゥルーズとガタリはこのような「多数性」あるいは「複数性」の原理を提唱しています。

 

「複数性」の原理は、人間には多様性があるといった単純な事実を掲げるだけではなく、世界を変える可能性をもはらんでいる、と多くの研究者は考えています。私もそう信じています。今後、私は単に「お客さん」としてではなく、一定の責任を持った立場で「複数の故郷で生きる」ことを実践し続けていきたいと思います。

 

英語版はこちら

 

<陳希(チン・キ)CHEN Xi>
中国貴州省生まれ。2013年に文部科学省国費留学生として来日。2021年度渥美財団奨学生。中国近現代史を専攻、2022年3月に東京大学大学院地域文化研究専攻にて博士(学術)学位取得。現在、東京大学東アジア藝文書院特任研究員、津田塾大学非常勤講師。2022年度太田勝洪中国学術研究賞を受賞。

 

 

2023年2月16日配信