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エッセイ730:王杏芳「光陰矢の如し」

日本に来て4年半が過ぎた。時間が存在するかどうかはさておき、「ある時刻とある時刻との間の長さ」の意味で時間を理解する。こうした理解では、4年半の期間は決して短くはないが、あっという間である。光陰矢の如し。しかし、振り返ってみると、子供の時代はそうではなかった。時間がより長く感じられた。いや、まるで無限で永遠に終わらないように。しかし、年をとるにつれて、月日の流れの速さをますます強く感じるようになってきた。無論、これは私個人だけの感想ではない。多くの人に共通する感覚であろう。年を重ねるごとに時間が早く感じられるのはなぜか、その原因についてはさまざまな研究と調査があるが、ここでは省く。それより、時間の流れを強く感じている私自身の感想を述べてみたい。

 

子供の時に覚えた「子在川上曰、『逝者如斯夫、不舎昼夜』」(『論語』子罕第九)という孔子の感慨に、ここ数年、ようやく共感を持てるようになった気がする。孔子が川のほとりに立って言う。「歳月はこの川の流れのように去っていくものだ。昼となく夜となく、休むことはない」。それはいつでも奇麗な現代語に訳することができる。そして、この言葉の意味はよく理解できる、とずっと思っていた。確かに、言葉の表面的な意味はそうだった。しかしここ数年、時間の止まらない、特にその速さに驚き、文字の意味を自身の経験を通して体得するようになった。それと同時に、恐れ及び怖いという感覚も生じてきた。生命が徐々に消えてなくなることに対する恐れ、及び怠けが怖くなる気持ち。人間はなぜ命を失う死を恐れるのか、ここでは議論しない。それより、後者に注目してみたい。つまり、人間が時間を無駄にする怠けが怖くなるのはなぜか。さらに言えば、怠けたらなぜいけないのか、ということに関心を持つようになった。

 

怠けの話というと、『論語』公冶長篇の孔子が宰予を叱るあの有名な段落がすぐに思い出されるだろう。「宰予昼寢。子曰、『朽木不可雕也、糞土之牆不可朽也。於予與何誅』」と。宰予とは孔子の高弟の一人である。彼が昼寝をしていた。これに対して、孔子は「朽ちた木に彫刻はできない。土がぼろぼろに腐った土塀には上塗りをしてもだめだ。お前のような怠け者を責めても何ともしようがない」と言った。昼寝ぐらいでどうしてこんなに叱られるのだろうか。理由について昔から諸説あったが、それはそれとして、ここでは「怠け」についての理解に留める。

 

なるほど、孔子は怠けを批判していた。しかし、なぜ批判すべきなのか。前文の「川上之嘆」に、回答が潜んでいる。確かにそれは時の流れを感じる言葉だが、同時に川は休みなく流れ、万物は止まることなく変化するように、人間である我々も日夜努力しなければならないという意味にも読み取れるだろう。また、『周易』にも同じ趣旨の言葉が見られる。例えばあの有名な「天行健。君子以自強不息」。天の運行は現在に至るまで、ずっと休みなく健やかであるように、君子たるものも、この健やかな天の運行を範とし、自ら努め励み、怠けることなく奮励しなければならない、と。

 

天が健やかで休みなく運行し、万物が止まることなく変化する。自然としての人間である以上、それに従い、永遠に努力しなければならない。これは儒学の人間が怠けてはいけない理由になるだろう。魅力的な答えだと思う。

 

ちなみに、その答えを探すために、ネットで検索したり、周りの友達にもいろいろ聞いてみたりした。回答は一様ではないが、「怠けるのは別に悪くない」ということは通説である。なぜかというと、怠けるか怠けないかは個人次第でその人の自由であるからだ。

 

天にその根源があるか自己決定するか、そこにはまた伝統と近代との区別が見られる。

 

英語版はこちら

 

<王杏芳(おう・きょうほう)WANG Xingfang>
2021年度渥美奨学生。中国江西省出身。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程に在学中。日本政治思想史を専攻。

 

 

2023年2月9日配信