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エッセイ728:オリガ・ホメンコ「美術で表現する戦争と人の気持ち」

ウクライナは昔から美術の強い伝統を持っている。口に出せない時も美術で表現していた時代が少なくない。口に出さなくても美術的な表現で会話できるから。その中でも特に美術が開花していた時代が、例えばロシア革命後から1930年代まで。ミハイロ・ボイチュック(1882-1937)を中心に多くのアーティストが育った。ウクライナの画家はベネチア・ビエンナーレにも参加し、1928年には17枚、1930年には15枚の絵を出展、ソ連の他の共和国よりずっと多かった。だが1930年代のスターリンの圧政で多くのアーティストが亡くなり、出展も止まった。

 

数年前にキーウのウクライナ国立美術館で、この時代の美術展をやっていたことを思い出す。スターリンは弾圧したアーティストの絵を集めて破棄する予定だったが、誰かが隠して守ってくれた。絵は普通に奇麗だったが、キャンバスの裏にも描かれていたもう一つの絵が印象的だった。ある風景画の裏側には秘密警察などを統括する内務人民委員部(NKVD/KGB)の軍人か公安のブーツだけが描かれており、その時代の怖さを感じた。

 

2014年にクリミアがロシアに併合され、ウクライナ東部で戦争が始まった時、東部出身のアーティストたちがすぐにそれを表現するようになった。2014年の秋にキーウのピンチック現代美術館で開催されていたジャンナ・カディーロワの作品はとても印象的だった。レンガでできているウクライナの地図があり、クリミアは床に崩れ落ちていた。美術の力はすごいと改めて気づいた。

 

2014年のマイダン革命からキーウの街にグラフィティが増えた。闘争の場となっていたフルーシェフスキー広場の近くの科学アカデミーの建物に描かれた、ウクライナの19世紀の国民的詩人タラス・シェフチェンコや同時代の詩人イワン・フランコとレーシャ・ウクラインカの肖像画がとても印象的だった。バンダナをつけたり、マスクをかけたり、戦う現在の人として表現されていた。そしてシェフチェンコの絵に彼の言葉「燃えている人に火は危なくない」、フランコの顔には彼の言葉「我々の人生は戦争である」、レーシャ・ウクラインカには彼女の言葉で「自分を自由にさせた人は、いつまでも自由になる」と書いてある。それを見て、やはりウクライナ人にとっては、19世紀にウクライナ語や文化が禁止されていたことがまだまだ生々しく、マイダン革命とリンクされると感じた。革命の後、キーウの建物に壁画(以下、ムラール)が現れ始めた。そしてこの8年間で非常に増えた。ベリーカ・ワシリキフスカ通り29番には、1918年にウクライナが最初に独立した時の大統領で歴史家のミハイロー・フルシェフスキーイ、また最後の軍司令官のパフロー・スコロパロドツキ、その時代の軍事委員長シーモン・ペトリューラなど歴史的な人物や19世紀の女性詩人レーシャ・ウクラインカが描かれている。

 

文化や昔話をテーマにするムラールも増えた。アンドリーイ坂にはウクライナ人とフランス人のアーティストのコラボによる「復活」というタイトルの作品がある。民族衣装を着て花輪を頭に飾っている少女が華やかで印象的だ。雨に濡れて色が薄くなったら書き直すという。保守的な人たちは「建物をきちんと修理しないで古さを隠してしまう」とムラールアートを結構批判している。だがソフィアでは1000年前から壁画が描かれていたことが知られており、キーウにもこの文化が昔からあって、時代と共に進化して建物壁の全体に広げていったということも考えられる。最近はさらに増え続け、街の名所にもなり、キーウの「顔」を少しずつ変えることになった。

 

そして、2月24日の前にウクライナのイラストレーターは少しずつ不安を感じるポスターを作り始めていた。今でもよく覚えているのは、リボン付きのチューリップのブーケに手榴弾がぶら下がっていて「占領者を花で迎えるのではない」と書いてあった。

 

侵攻が始まってしばらくは、アーティストたちも他の市民と同じようにフリーズしていた。皆まさかと思っていたのだろう。少し時間が経つといろいろな人の作品が現れるようになった。侵攻後のイラストアートが非常に盛んになって、人々の勇気を盛り上げた。3月初めの英紙The_Guardianには色使いがとても鮮やかで、海外でも戦前から知られているセルギーイ・マイドゥコフ(インスタグラムで「sergiymaidukov」参照)の戦争関係のイラストが掲載された。オレクサンデール・グレーホフ(同「unicornandwine」参照)は詩人のシェフチェンコのキャラクターを現代風の軍人に書いた。彼のイラストは明るい色使いで独特なユーモアがある。インスタグラムで作品を購入でき、一部が軍隊に寄付される。そして画家のオレーナ・パフロワが作った頭が良くていたずらっ子の猫の「イチジクくん」もウクライナの人々を勇気づけている(同「kit_inzhyr」参照)。

 

キーウには新しいムラールが増えた。戦争関係のものが多い。2022年5月にアントノワ通り13番に聖ジャウェリーナが描かれたが、教会関係者からクレームがあったのでトライデント(三叉槍)があるニンバズ(競走馬)を消した。爆弾を見つけて有名になったチェルニヒフ非常事態省に勤務している犬のパトロンのムラールも現れた。去年の夏には、伝説的な存在になった軍隊のパイロットで「キーウの幽霊」というニックネームの人のムラールが現れた。そして11月にバンクシーを名乗る英国のストリートアートのグループが、独立広場に瓦礫でシーソー遊びをする「戦争中の子供達」を描いた。イルピーンでは新体操をする女の子の絵だ。

 

有名なアーティスト同様、市民も最初の数週間は「どうして?なんで襲われたのだろう?」という質問が頭から離れず沈黙していたが、少し気持ちを整えてから落書き程度の絵日記を書く人が増えた。その日記や絵は非常に大事な意味があると思う。なぜなら戦争が終わってもその記録は残って、暗い時代の中でも人々が生き延びていた証拠になるから。私もその一人である。

 

2022年10月からミサイル攻撃が増えてウクライナで停電の繰り返しになった時、知り合いの子供が黒い紙に白い鉛筆で描きたいと両親に頼んだ。理由を聞くと、やはり今の状況を表現するのに一番いいとの返事だった。8歳のハルキフ市出身のジェーニャはハルキフ州内に避難し、半年以上過ごしていた。都会っ子で田舎生活は初めてだったので動物や植物にたくさん触れて絵を描き続けてきた。停電になると一瞬で絵のスタイルが変わった。風景は一緒だが、電気と一緒に色が絵から消え急に白黒になった。このような表現の仕方もある。

 

友達の写真家はこの10年近くウクライナの有名アーティストの写真を撮っていた。しかし戦争になってから避難先で避難者の写真を撮り始めた。戦争の大変さは人の顔で表現できるからだ。

 

今回、西ウクライナにたくさんの人が移動したが、イワノ・フランキフスク州の劇場は1日も活動を中止しなかった。逆に、俳優たちは昼と夜で2倍仕事をすることになった。昼間は支援物資を集めて避難者に配る作業、夜は通常通りの劇場活動。劇場には毎日2回行列ができていた。昼間は支援物資を受け取るために、夜は劇を見るために。上演中に空爆があったので舞台を地下室に移動し、そこで空襲中にも続けていた。戦争中には劇場が自然にシェルターとして使われており、地下室で劇をやっている最中に空爆から避難してくる人もたくさんいた。2022年2月から4月までに500人も入っていたという話もある。戦争になってから1年近くになるが、新しい劇も出している。その中で、ウクライナの19世紀の詩人レーシャ・ウクラインカの「森の歌」を現代風にアレンジしたものが特に評判が良い。

 

海外でもこの1年間、ウクライナ美術展が増えた。特に印象的だったのが2023年1月にマドリードで開催されたウクライナの1900年から1930年の間のモダニズム美術展だ。今までの美術との連続性が見えるウクライナ美術の社会との関わりや、鮮やかな色を昔から使うのを好んでいたことを知った。そしてスターリン政権に殺された多くのウクライナのアーティストの運命を考えて悲しかった。生きていればどれだけウクライナ美術が開花していたでしょう。

 

この1年間ウクライナで空爆され、破壊された素朴画で有名なマリア・プリマチェンコの美術館、哲学者のフリホーリーイ・スコヲロダーの博物館、そして10月のミサイル攻撃で被害を受けたキーウのハネンコ美術館のことを考えると、ウクライナ人の自由で豊かな表現の仕方への妬みがあり、1930年代の圧政時代と変な連続性があるように思える。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

2023年1月26日配信