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エッセイ727:オリガ・ホメンコ「移民史、戦争、避難民」

7、8年前から極東アジアにおけるウクライナ人運動史、移民史を研究している。ウクライナや米国、日本の資料館で調べながら1870年から1945年までウクライナ人がアジアでどのように暮らし、文化活動をしていたかに注目した。特にコロナ禍の間、米国で集めた資料をキーウで改めて読みながら、身分証明書もなく、移民先で色々ひどい目にあった人々の苦しみを感じていた。2022年2月24日のロシアの軍事侵攻後、まさか自分の研究テーマが私自身の現実になるとは夢にも思っていなかった。避難先の警察へ行き、指紋を取られて新しい身分証明書の発行を申し込んだ。研究者としての身分と自尊を取り戻すために必死だった。色々言われたりひどい目にあったりしたこともあった。研究で知ったことを、今度は自分の肌で感じることになった。

 

1945年の上海で難民が食料券をもらう際には家庭訪問があった。家に猫がいると「お金持ち」とみなされてもらえなかった。今年の春、犬や猫を連れて避難するウクライナ人が多かった。そうすると、住むところがなかなか見つからない。やはり「お金持ち」とみなされたこともあったようだ。この歴史的な関連を不思議に思った。動物は家族の一員で捨てられないというウクライナ人が多いが、周りの圧力に負けて手放した人もいる。

 

ウクライナから海外への移民の波はこれまで4回あった。目的はさまざまだ。第1波は1870年代半ばから第1次世界大戦まで。西ウクライナからの農民や労働者がカナダ、米国、そしてブラジルへ出稼ぎに出かけた。小作制度が廃止された結果、極東開発のために移動する人も少なくなかった。オーストラリアやニュージランド、ハワイに移動した人もいた。

 

第2波は第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に社会的政治的な理由で人が動いた。ソ連政権の下にいたくない人が移動したと言っても良いかもしれない。ポーランドやチェコ、ルーマニア、フランス、ドイツ、米国、カナダなどに行った。

 

第3波は第2次世界大戦が終わった時に始まった。難民キャンプの元軍人、ナチスによって無理矢理に肉体労働のためにドイツに連れて行かれた人たち、戦争で難民になった人々など。この人たちは米国やカナダ、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリアなどに移動した。この時アジアにいたウクライナ人ディアスポラも米国や南米の国々、オーストラリアへ動いた。

 

ソ連崩壊の頃には経済的な理由で第4波があった。その時に特に西ウクライナから米国やヨーロッパ(女性はヘルパーやベビーシッターで、男性は建設労働者として、行き先はポーランドやポルトガル、イタリアなど)、ロシアに多くの出稼ぎ労働者が出かけた。2014年にクリミア併合や東部で始まった戦争で、またポーランドや他の国に移民した人も少なくないが、それは特別な「波」とはされていない。

 

今回の軍事侵攻があってから「5回目の移民の波になった」と研究者が指摘し始めた。統計がまだまだ確実ではないが、2月以来1200万人が国外に出たという。戦争が長引くとこの中のどれくらいの人が帰ってくるか誰にも分からない。いずれにせよ人口4600万人のウクライナにとって大きな人災であることは間違いない。今回海外で避難民になったウクライナ人は、それ以前に移民した人たちと全く同じ経験をしている。持ち物はほとんどなく、身分証明書類もきちんとしてなくて、子供や動物を抱えて新しい住居を必死に探す。言葉の壁もあって新しい社会に溶け込むのに時間がかかるので、取りあえずウクライナ人コミュニティで固まることも多い。交流サイト(SNS)が進んでいる時代なので、新しい町で簡単につながって情報交換し、「歌う会」、「靴下を編む会」、そして「避難民や軍人を支援するボラティアの会」にまとまる。

 

海外に避難したのはほとんど女性と子供なので「女性の会」が多い。「ウクライナ女性はきれいな身なりをしているので避難民に見えない」という意見も聞いた。イタリアのロケから戻ってきた日本人の友達が、ローマでタクシーの運転手に言われたそうだ。服装や美容に力を入れているので「今まで見てきた避難民には見えない」と。コロナの3年間で皆、運動着姿になってしまっても、化粧もするし服装にもそれなりに注意を払っている。あまり私物が持てなかったソ連時代には、外に出かける時に服装で判断されることが多かったのでドレスアップしていた。

 

それを聞いた時、別の日本の知り合いから聞いた話を思い出した。キーウに格好良い若い社長が滞在していた。ヘアスタイルや服装を揃えて男性誌に出るモデルのような人だった。聞いてみると、小さい時に経済的にあまり恵まれなかったので「だらしない」と言われないように気をつけるようになったという。人って過去のトラウマから色々な生活習慣が生まれるのだ。ヨーロッパの避難所に所持品はほとんどないのにルイ・ヴィトンの鞄を持っていた女性がいたので受け入れ先の関係者が驚いたという。国によってドレスアップとドレスダウンするところがある。狙われないように南米では逆の見方があるということを、2016年にブラジルに行った時に初めて気づいた。

 

10年以上前から知っている2人のイギリスの友達の家族が実は避難民だった、と今回初めて知った。1人のお父さんは1950年代にエジプトから避難、もう1人のお爺さんはユダヤ系で20世紀初めに移ってきた。それまで一度もそのような話をすることがなかったが、今回の軍事侵攻でその記憶が戻ってきたようだ。「知らない人が私達を助けてくれた。そのお返しをしたいのでウクライナの家族を受け入れた」とも言っている。受け入れたウクライナ人は全く知らない人だったが、数カ月間で仕事も見つけて無事に自分の家も借りられたので、そのイギリス人の「ウクライナ株」も上がった。ありがたい話です。

 

しかしながら、外国の生活や他人の家に慣れることができず、なかなか新しい言葉を学べず、社会的地位が変わったので自分のアイデンティティーに危機を迎え、ウクライナに戻る人も少なくない。旦那がウクライナに残ったので家族で合流したいという理由も大きい。そんな時に子供の意見もよく聞く。母親だとやはりどうしても子供を守りたくて、子供を優先する。ドイツに避難した子供から話を聞いたことがある。「ハルキフに帰りたいが、攻撃が怖いから帰りたくない」「パパを大好きだがママは離れてほしくない」「ドイツの学校で友達もできた」「ママやおばあちゃんもやはり残るって」。複雑だがなんとなく分かる。この人たちが以前の移民たちと同じように自分のウクライナ人としてのアイデンティティーを少なくとも生活習慣や文化活動で守り続けるか、受け入れ国の社会に溶け込んでしまうかはまだ分からない。

 

友達のお母さんがドイツで泊まっているアパートの住人は掲示板にメッセージを貼ってくれた。「ドイツ語を話せないフラウ(夫人)がいるので、困った時には助けてあげてください」と。それで皆親切にしてあげる気になったようだ。避難民と受け入れる人々のこのような小さな交流が、受け入れてくれた社会になじんでいくきっかけとなるのだろう。

 

この1年でさまざまな人に会った。パレスティナの避難民にも会ったことがある。避難生活7年目と15年目の家族だった。7年目の人たちは子供がたくさんの言葉を話すことができ、人に優しくていろいろ手伝おうとしていた。15年目の人は子供の避難経験を思い出すと泣き出してしまうが、それ以外は特別に陽気だった。共通の友達に「避難してきた家族の経験は皆同じように過酷なものですが、きっと人に落ち込んだ気持ちを見せたらいけないと考えているのでしょう」と言われた。どうでしょうね。でもそうなのかもしれない。最初は落ち込んでいる人を助けようとするけど、それが続くと支援する側もマイナイス思考に疲れて離れるかもしれない。海外に避難したウクライナ人が強気で陽気で行くか、戦争から受けたトラウマでしばらくマイナス思考になるか分からないけど、受け入れてくれることを祈る。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

 

2023年1月6日配信