SGRAエッセイ

  • 2007.08.05

    エッセイ070:陳 姿菁 「台湾の若者教育(その1)」

    人にぶつかっても謝らない、図々しく列を割り込んでいるなど、最近の若者の礼儀のなさには目に余るものがあります。それを目の当たりする私たち大人は、「今どきの若者は……」とため息混じりで愚痴をこぼしたり、学校教育のせいだと強く主張したりしていませんか。しかし、よく考えてみたら、その責任は、愚痴をこぼした大人に大いにあるように思えます。   台湾は、日本に劣らない学歴社会です。いい仕事を見つけるために、日本のような名門学校の出身ということだけではなく、学士より修士、修士より博士、台湾の博士より外国の博士のように、さらに「上」を目指している傾向があります。いい人生は出世であり、そのために猛勉強して学歴を手に入れるという社会普遍の価値観が深く植えつけられています。   台湾の町を歩いた経験のある方なら誰しも街の至るところで、数学塾や英語塾、進学塾の看板を目にすることに驚かされたでしょう。日本は受験戦争のため、塾文化が発達していることは周知の通りですが、台湾も同様かつ前述した価値観の影響で、塾に通わなければこの社会に取り残されるかもしれないということで塾文化が発展していく一方です。    日本よりも厳しい受験戦争やおけいこ、毎日異なる塾通いに忙しい学生が放課後の時間に塾の集中している台北駅の近くの街路に溢れています。食事をゆっくり取る時間もないので、テイクアウトを注文するために長い列を作っている学生の数は半端ではありません。    顔には出ていないかもしれないけど、疲れている台湾の学生たちのストレスは相当なものだと思われます。加えて両親は、ないし社会全体は、「学歴」を重要視のあまり、学生たちに「ノー」を言わせるチャンスも与えず、彼らが黙々と学校、塾と家を往復する日々を送っているのは当たり前のようになってきています。    台湾では中学から高校にあがる時に受けなければならない「基測」、及び大学へ進学するための「指考」があります。これは、日本のセンター試験のような統一試験です。近年、台湾政府はほかの進学方法(たとえば「学測」つまり推薦入試)をアレンジしていますが、統一した試験制度は学生たちが進学するためのメインストリートであることは以前と変わりありません。受験生を持つ多くの家庭では受験生が中心で、「基測」や「指考」に合格できるよう家族総動員です。家事をさせず、ただ勉強すればいいという親はほとんどです。   進学試験でいい結果を得るために、子どもが幼い時から親が教育に力を注ぎます。幼稚園のクラス選びから一番大事な塾選びまで、親も自ら下調べをしてから子どもを通わせます。「幼稚園からクラスを選ぶのですか」と耳を疑う方もいらっしゃるかもしれませんが、台湾の「英才」教育は胎児の時から始まっています。幼稚園に入る前から親が学校選びの戦争に巻き込まれています。本屋では各幼稚園を分析する雑誌まで置いてある事実は、今の台湾の競争の激しさを語ってくれるでしょう。   一方、塾同士の競争が激しい台湾では、進学率を維持するために、成績のいい学生を選ぶ塾まで現れたそうです。定員制限のある有名な先生の講義を申し込むために、早朝から塾の前で長蛇の列を作ることは、もはや常識中の常識になっています。    最近聞いた話ですが、知り合いが子どもを有名高校に進学させるために、一人につき1ヶ月間で払った塾代は、なんと大卒の一ヶ月の給料の2倍近くだそうです。それはたったの30日の集中講義のためでした。普通の家庭で子どもに世間一般的に思われている「いい教育」を子どもに受けさせようとしたら、どれほどのお金を費やさなければならないのか想像できるでしょう。    こうした学歴や勉強重視の社会の中で、先生と生徒の関係は単に「受験テクニック」を売る人と買う人になってしまい、親子の関係は「いい人生選び」をしてあげる側と、望まれる学歴を手に入れて「恩返し」する側とになっているように思えます。この図式化できる関係、いささか物足りないと思いませんか。そうです、「人格教育」というものです。物質的に計算する余りに、「人間性」の重要さを見落としてしまったのです。人間性の希薄が懸念させているのは、このような背景があるのだと思います。一番顕著に現れているのは若者の礼儀です。つまり、礼儀は二の次に教育してしまったのは私たち大人です。    成績と証明書や資格で人間を計る現代社会へと変貌させ、人間としての思いやりやゆとりをなくしてしまったのは、次の世代の教育を担う親と教師です。「物質的な価値観」を与えてしまった私たち大人は「今どきの若者は…」と発言する前に、自分の責任として認識しなければいけないのではないでしょうか。   証明書や学歴は所詮出世するための「手段」の一つに過ぎません。自分の一生に影響していくのは「人間性」で、子どもを大事に思うのならば、学業重視より、礼儀や人への思いやりなどをまずしっかり教えるべきだと思わずいられません。   --------------------------------------------------------------------- <陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching)>  台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------------------------
  • 2007.07.28

    エッセイ069:今西淳子「新宮澤構想と東アジア共同体議論:宮澤喜一元総理大臣を偲ぶ」

    2002年7月20日(土)、第8回SGRAフォーラム「グローバル化の中の新しい東アジア」を軽井沢で開催しました。フォーラムの最後に宮澤喜一元総理大臣にお越しいただき、フリーディスカッションにお付き合いいただきました。そもそも、宮澤先生は私の父が一番尊敬していた方で、家族ぐるみで行き来させていただいたので、私も小さいころから存知上げていました。それで、2001年2月9日(金)に東京で開催した第2回SGRAフォーラムで、「象徴的に『新宮澤構想』と宮澤先生のお名前が入っている、アジア通貨危機に対する日本の対応が、アジアの共同体づくりのきっかけになったのではないか」という名古屋大学の平川均先生のご発表にとても感動しました。そして、1年半後に軽井沢で、平川先生による「新宮澤構想」の評価について、宮澤先生に直接お聞きする機会を作れたことは、大変光栄なことだったと思います。   軽井沢のフォーラムで、平川先生は、次のように質問されました。「アジア通貨危機のあとに、宮澤先生がイニシアチブを取られた『新宮澤構想』が、アジアの地域協力に、あるいはアジアの相互理解の中で非常に大きな役割を果たしたと思います。私自身、韓国に1999年に行ったときに、先生の構想が出て、それはかなりの方が好意的でありましたし、それからタイに行ったときも、『宮澤という人はだれか知らないけれども、宮澤構想というのは、すごくいいことをしてくれた』という話を聞いたことがあります。アジアの人たちが、先生のイニシアチブで大きく変わる、1つのチャンスを作られたと思っています。」「『新』というからには、古いものがあるからで、それは当然、1980年代のラテンアメリカ危機が念頭にあるわけですが、そのときに先生がイニシアチブを取られたのに、それは結局、アメリカにそのまま持っていかれて、先生のお名前は残らなかった。そう考えたときに、『新』という言葉の中に、先生の思い、あるいは日本政府の思いが入っているのではと思いました。そこで、『新』の中の思いと、それから、先生がそういう構想を出された背景などについて教えていただければと思います。」   宮澤先生は、「1997年にああいうことがタイで起こって、あちこち広がっていったわけですが、その時、日本としては、財政的にはうまくない状況ですけれども、外貨は十分持っておりました。今まで各国とのいろいろな具体的な関係がありますから、日本の持っている外貨を使っていただければ何かの役に立つだろうと考えました。これはごくごくあたりまえのことですが、それが動機です。」「新宮澤構想と言われた『新』は、平川さんのご指摘の通りです。ラテンアメリカのときのボンドを出したらいいという、あとにいわゆるブレイディ・ボンドになって実現したわけですが、そういうことの関連で、『新』という名前がついたのだと思います。特段の意味はありません。私が期待していることは、何かの役に立ったら、それは大変幸せで、そういう間に各国間のマルチナショナルな接触が図られて、お互いをより知るようになるということです。」と答えられました。そして、私にとって一番印象的だったのは、東アジア共同体構想へのきっかけとなったという評価に対して、次のようにおっしゃったことでした。   「1997年にThe Asian Monetary Fund(AMF)が一時、取りざたされましたが、実際問題として、これは急にできるわけのものではない。また、私自身が、300億ドルのお金を使っていただくと考えたときに、それがそういうものにすぐ発展するとも思っておりませんでした。非常に率直に申せば、私は戦前の人間ですので、戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを非常に肝に命じて感じていますから、うっかりそういうことを考えるわけにはいかないと、実は今でも思っているくらいです。ですから、何かのお役に立ったというのは、そうであったら大変幸せです。」   SGRA会員の白寅秀さんは、「先生のお話を聞くと、非常に謙虚に話していらっしゃるという感じがいたしました。というのは、先程、戦前、日本がアジアに対してやった日本の行為は失敗であった、新宮澤構想では何とかアジアの国々に役に立ちたかったという話をされました」という感想を述べた後、「積極的な意味でのアジアの価値観、あるいはアジア共同体としての意味合いというものを、こちらから発信しなければならないと思うのです。そういうところで、先生ご自身が考える、アジアならではの独自性、東アジアから発信できる新しいものとはどういうものでしょうか」という質問をしました。   宮澤先生は、「私はアジアについて非常に控えめではなくて、実際には現実的だと思っているのです。なかなか、経済の領域を越えて、一緒にコモンなことをやろうというのは難しいと思っているのです。それは、各々の国にいろいろ政情があって難しいということもあります。国によっては政権が安定していないということもあります。そういうことの前に、共通なものがなかなかお互いの間で意識されていないと思うのです。それを育てるのがグローバリゼーションだということならそれでいいのですが、何で一致できるかという共通なものがなかなか見つからないのに、グローバリゼーションだけで一致したのでは困るのです。しかし、幸いにしてこうやって平和が続いていますから、お互いそういうものは見つけるようになっていくかもしれません。ただ、あまり私自身はオプティミスティックになれないものですから。ことに日本がその中で何かリーダーシップを取ろうなどということには、どうも私は賛成ではないです。そんなことは出すぎたことだと、私は思っているのです。そのような気持ちです。」と答えられました。   私は今、「戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを肝に命じる」という原点を見失わないようにしながらも、アジア通貨危機における「新宮澤構想」が「アジアのアジア化」へ大きく転換したきっかけのひとつであり、その後活発になった「東アジア共同体」議論に繋がっていると評価したいと思います。   宮澤先生のご冥福をお祈り申し上げます。   -------------------------------------- <今西淳子(いまにし・じゅんこ)> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より平和教育と異文化理解を目的とする青少年の国際交流事業を行うグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。  
  • 2007.07.25

    エッセイ068:マックス・マキト「貧乏宣言」

    最近「私は貧乏だ」と堂々という日本人が増えている。日本社会における格差拡大による当然の結果であろう。なかでも最も面白そうなのは、日本のテレビで時々特集される、田舎に暮らし始める「貧乏な人」たちだ。決して楽な生活ではないと思うが、羨ましい限りだ。いつかその機会が僕にも到来するように願っている毎日である。ただ、いくら貧乏と宣言しても、日本の一人当たりのGDPはフィリピンの20倍以上である。   日本をフィリピンと比べてもあまり次元が違いすぎるのだが、ある日本の研究所の調査によると、「幸せ度」は、フィリピンのほうが日本より高い。まさかと思いながら、すぐに僕の頭に浮かんできたのは9年間も続いている毎年の自殺者が3万人という数字である。これは9.11同時多発テロが毎年10回ぐらい、阪神大震災が毎年5回ぐらい起こることと同じ悲劇だ。命を捨てた人の不幸であると同時に、その人の周りにいる人々の不幸にもなっている。そして、日本社会全体に重くのしかかる不幸と言えるだろう。   経済的に貧しいフィリピン人の幸せ度との違いの原因はそこにあるかもしれない。フィリピンはカトリックの国なので自分の命を捨てることは大罪になる。これは命の尊さを守る掟でもある。フィリピン人にはストレスがないわけではないが、日常の問題にできる限り前向きに取り込む姿勢は、フィリピン社会の特徴でもあると思う。それでも問題が解決できない場合は仕方がない。神様に任せる。それで尊い命を捨てることはない。   昨年SGRA軽井沢フォーラムで発表してくださった東大の中西教授が進めている「フィリピンの都市の貧困コミュニティー」をめぐる研究が、今年から5年間、科学研究費をもらうことになり、光栄にも僕も参加させていただくことになった。中西先生の長年の研究対象はマニラ市内にあるスラムであるが、そこで幸せ度の調査をやってみると、フィリピン平均の幸せ度を上回る結果になった。   調査の結果を疑うわけではないが、スラムに住む人たちには、苦しい側面もあるはずだと思う。先日、募金活動のためのテレビ番組で、エチオピア、ロシア、そしてフィリピンの貧しい子供たちが特集されていた。フィリピンの子は、学校に通い続けたい、病気の母親に薬を買ってあげたい、5歳の弟をゴミ集めの仕事場に連れて行きたくない。だけど、貧乏だから、学校の塀の外側からクラスメートたちを羨ましく眺めることしかできない。母親には、たった一錠の薬しか買えない。弟には、厳しく仕事の訓練をせざるを得ない。   こんな状況でハッピーといえるのはなぜなのか。僕も理解に苦しむ。中西先生と一緒に答えを発見したいと思っているが、今のところ、僕には、フィリピンのカトリック文化しか思いつかない。聖書の「八福の教え」が思い出される。   心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 (Blessed are the poor in spirit for theirs is the Kingdom of Heaven.)   「poor in spirit」の「poor」という言葉は経済的な意味ではなく、姿勢を指す言葉 である。自分の力を過信せずに謙虚でいるという姿勢である。貧しい人でも豊かな人でも持てる姿勢だが、どちらかというとこの世に何もない貧乏人のほうが身につきやすい姿勢といえよう。貧困のなかにいながらハッピーというコツはまさにこの八福の教えにある。   このような教えにより人々が怠慢になるので、主教(キリスト教)は国民のアヘンであるという批判を浴びる。だけど、消して怠けなさいというわけではない。たとえば、留守番をしている時に任された富を増やせなかった僕(しもべ)が、帰ってきた雇い主に厳しくしかられたという聖書のマタイによる福音書の喩え話がとくに有名である。より多く任された富をちゃんと育てた他の2人の僕のように、人間には与えられたものを、力を尽くして生かす義務がある。   八福の教えとマタイによる福音書の喩え話は、「フィリピンの都市の貧困コミュニティーの研究」に取り入れる余地があると思う。この研究に利用されているネットワーク論のなかに、すでに、いわゆる「マタイ効果」が取り上げられている。多くの富を任された他の2人の僕がその富を更に増やし、何もしなかった僕との差がどんどん広がっていく「マタイ効果」とは、金持ちがもっと金持ちになるという現象を指し、ネットワークの研究の中にもそのような事例を発見することができる。そして、八福で述べられる謙虚な姿勢は、近所の人々とお互いに頼り合うコミュニティーの存続のために欠かせない。   開発経済学の授業中、「なぜこのような理論を勉強しなくてはいけないのですか」と不満を表す生徒がいた。確かにいい質問だと思ったが、「戦後の開発経済学では、『貧乏(発展途上国)は、合理的ではないから貧乏なのだ』と仮定する傾向が強い。だけど、今僕が教えているのは『貧乏であっても合理的に決断し行動することもできる』という理論なのです」と答えた。まさに中西先生との研究は、この「貧困のなかの合理性」を突き止めようとしているのだ。果たして、信仰がマニラ市内の貧乏な人たちの幸せを説明できるのか。自分の信仰を経済学者として調べる時が、とうとうきてしまったかもしれない。   ☆この機会に先日亡くなられた今西SGRA代表の叔父様、橋本康三郎さんのご冥福を祈ります。橋本さんは、フィリピンに行ってみたいとおっしゃいました。アジアのカトリックの仲間たちと出会いたいということもあったのでしょう。私の力不足で実現できませんでしたが、今、心の貧しさを知る謙そんな人たちと天の国で再会なさっていると信じています。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2007.07.18

    エッセイ066:オリガ・ホメンコ「ニューラおばあさん」

    ニューラおばあさんから電話があった。彼女は私の本当のおばあさんではないのに、親戚より親しい。私が生まれる前、両親がまだ若くて、キエフの「心の喜び」というきれいな名前の地区に住んでいた頃、年配のユダヤ系の家族が隣に住んでいた。ボリスさんとファイナさんという年配の夫婦と娘のアンナさんで、ニューラというニックネームで呼ばれていた。1970年代には、その夫婦は70歳くらいで、ニューラは40歳くらいだった。私の両親は30歳くらいで、共働きの家庭であったため、ボリスさんが当時小学生だった姉を、よく学校まで迎えに行ってくれた。   あの頃、ニューラは若くてとてもきれいな女性だった。真っ黒な髪をカールさせ、優雅なフレームのめがねをかけて、小さな指輪をはめていた。ニューラは独身だった。両親や私の誕生日のパーティにいつもアルセニーおじさんと一緒に来ていた。彼らはなかなかお似合いのカップルだった。アルセニーは、5歳になった私に、初めて「本物」の花束をくれた男性だった。5歳の私は、その大きな花束の美しさや大人の男性からの注目に悩殺された(笑)ため、花束を抱きしめて、しばらく手から離さずに部屋を歩いていた。大人たちが花束を花瓶にいれようと言ったけど、私はしばらく花を離さなかった。あの時、私の小さい心の中に眠っていた「女性としての重要さ」が、初めて目覚めたのかもしれない。花束のおかげで。   その誕生日に、花束と一緒に「マッジックボックス」ももらった。二つの底があったからマジックボックスと呼ばれ、その中に色んなマジックができる装置が入っていた。それを使って、パーティに集まる両親の友達の大人を驚かせる(騙す・笑)ことができる。ボックスの中に二つの底があるということ以外にも、卵が「なくなる」セットや「切れる」棒などもあった。私がそのボックスの中身をよく勉強して、しばらく遊んでいたことを覚えている。そしてマジックを覚えて両親の友達を驚かし、注目を浴びていたことも覚えている。言ってみればそのボックスは子供の頃にもらったおもちゃの中で、一番面白いものだったかもしれない。もちろんそれ以外にも、当時の自分より大きな「歩ける人形」とか、「テディベア」など、心に残るおもちゃがいろいろあったが、あのマジックボックスは今でも一番印象に残っている。   ニューラとアルセニーは結婚していなかったのに、家に遊びに来るときにはいつも一緒だった。子供だった私には、それが不思議だった。母と父、また母の兄弟や父の兄弟など、一緒に遊びに来る人たちが皆結婚していたのにもかかわらず、このふたりだけが結婚していなかった。それがちょっと理解できないことだった。   大きくなった時に、その理由を教えてもらった。ふたりは小学校の時からの同級生だった。しかし第二次世界大戦が起きたため、ボリスおじいさんは家族と一緒にシベリアに避難し、アレセニーは軍隊に入った。戦争が終わってキエフに戻った彼は、ユダヤ系であったため、家族全員がバビン・ヤル地区で虐殺されたことを知った。ニューラの家があった所には、爆弾の跡しかなかった。ニューラの一家が避難したことを知らされていなかったアレセニーは、「皆死んでしまった」と思ったようだ。住むところさえなかった彼は、工場に就職し、そこで知り合った15歳年上の女性と結婚した。1年過ぎて、シベリアからニューラの家族がキエフに戻った頃には、アルセニーの家族には双子の子供が生まれていた。彼は家族と別れてと一緒になろうと思ったが、ニューラは「あなたの家族を破壊してはいけない」と言って断った。   彼の奥さんのターニャはニューラに感謝しているので、アルセニーがニューラのために壊れた水道のクレーンを直したり、友達の誕生日会へ一緒に参加したり、家事の手伝いをしたりすることに反対しなかった。だから、彼らは、私の家に一緒に来ていたけど、結婚はしていなかった。アルセニーはニューラのことをとても大事にしていた。子供の私でさえそれを感じた。その時は、いろいろな事情を知らなくて、子供の私には、結婚していないことを理解できなかったけれど(頭を振りながら笑)。   90年代後半にアルセニーの子供たちがイスラエルに亡命することを決めた。アルセニーはイスラエルへ移る気がなかったが、ユダヤ系の家族では子供にかなり力があるもので、反対できなかった。その「亡命」は彼にとってかなりの悲劇だったに違いない。そのときに再び、ニューラと一緒になろうとした。だが彼女は彼の居場所が家族のそばであると再び彼に思い出させた。出発前に、彼は彼女のところに「最後の挨拶」に来た。二人とももう会えないからと思って泣いていた。この頃は、鉄の壁が壊れたばかりで、まだ自由に外国に行けない時代だったので、外国に移るということは「もう二度と会えない」ことだった。   それ以来彼は半年ごとに彼女に仕送りをしている。そしてできる限りに電話もしている。何年もたった今でも、彼は彼女に航空便の赤青封筒で、50ドルと100ドルのお札を時々送っている。時々封筒からお金が盗まれて、破けた封筒の中には愛を込めた手紙しか届かない。だが彼女のためには、その赤青の封筒がお金より大切に違いない。   ニューラは一人暮らしの84歳の女性だ。アルセニーは、あれ以来キエフに一度も来ていない。彼は85歳を過ぎているのにもかかわらず、またいつか一度、本当に「最後」にニューラに会いたいようだ。ふたりは、きっと天国で一緒になると思う。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------
  • 2007.07.11

    エッセイ065:葉 文昌 「台湾通勤電車における車内行為に関する一研究」

    日本の通勤電車では新聞、雑誌、本を読む人や、情報端末(携帯電話)を操作する人が台湾と比べて多い印象が僕にはある。本といっても専門書から大衆雑誌まで、ピンからきりまであるが、例え大衆雑誌と言えども、それは情報であって脳に刺激を与えていることには変りないので、国民教養レベルの底上げに繋がると思っている。携帯インターネット情報も同じことが言えるであろう。   したがって、一国の通勤電車の車内行為を見れば、その国の社会人の知識レベル、更には情報化度を見ることができる。そこで今回、台湾通勤通学族の通勤電車内での時間の有効利用について調べてみた。調査地は台北通勤電車の淡水線、時間は午前9時半と午後6時半の各一回、であった。サンプル人数はそれぞれ170と221人、全車両内の座っている人に絞った。   その結果、車内行動は1.只座る 2.うたた寝 3.読書 4.新聞 5.おしゃべり 6.電話 7.電話メールとネット 8.電話ゲーム 9.化粧に分けることができた。また、台湾では老若限らず仏経をブツブツ読む人が多く、今回の調査でも1、2人いたが、思考の刺激になってないので3.読書よりも、1.只座るに分類した。漫画については、表現方法が活字から絵画に変っただけで、思考に刺激を与えることには本と変りはないので、3.読書に分類した。   結果は下記に示す通りとなった。    座 寝 読書 新聞 喋り 電話 メール ゲーム 化粧 朝 54% 16% 13% 6%  6%  2%  0.6%  0%   2% 夕 40% 31%  9% 4%  9%  5%  0.5%  1%   0%   朝、夕時に只座る人と寝る人が合わせて70%と71%と同程度であるが、寝る人は朝が16%であるのに対して夕は2倍の31%に増えた。やはり台北でもサラリーマンは仕事に疲れているのであろうか。   続いて読書と新聞のような知的活動だが、朝は合わせて19%であるのに対し、夕方では13%と減った。その代わりお喋りと電話している人数が合わせて8%から14%に増えた。夕方では友人と同伴して帰宅する人が多くなる結果であろう。ところで台湾ではどのような書物が好まれているかを紹介しよう。日本で電車でよく見られる書物に週刊誌があるが、台湾では週刊誌は少なく、ジャンルも限られている。人口が日本の1/5程度だからだ。その上、例えば台湾ビジネスウィークの値段は80元〔280円〕であり、これは台湾におけるバイトの時給である。一方で日本では週刊誌はバイト時給の1/2である。これがおそらく台湾で雑誌を読む人が日本ほどない原因であろう。台湾では読書対象は多くが小説、ビジネス書と試験勉強であった。また新聞については、最近は無料の新聞が配られており、読まれた新聞の半分はこのような新聞であった。台湾の無料新聞の質がどうであれ、レベルの底上げには繋がっているであろう。情報は国民レベル向上の視点から、公費を使ってまでも安くしてもらいたいものである。   最後はメールとネットである。朝夕ともに1%未満であった。これはおそらく日本と比べると遥かに少ない。台湾では携帯のショートメールは使うが、Eメールの使用は殆どない。またちょっと前に携帯電話で写真を撮って他人に送ったことがあるが、相手にインターネットでダウンロードしないと見れないと言われた。電子技術を楽しむよりも、”カメラ付き”、”300万画素”、”大画面液晶”の面子的なもので携帯を買っているようだ。台湾の若者は台湾メディアの影響でX世代(考え方が新しくて得体が知れないという意味でつけられた)との自意識が高い割には実際の新技術適応力は日本と比べると低いのが悲しい。因みに携帯をいじる人は少なくないものの、一部はゲーム遊びである。   以上が台湾の通勤電車の車内行為の調査結果であった。残念ながら日本との比較調査はできないが、それは日本に限らず世界各国の読者の皆さんが通勤電車に乗って人間観察しながらこの台湾の状況と比較してみればよい。案外そこから国民意識の全体像が見えるかもしれない。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 自慢はデバイスを作る薄膜堆積設備の大半を手作りで作ったことである。 ---------------------------  
  • 2007.07.08

    エッセイ064:韓 京子 「韓国は今―商い編―」

    かわらばんということなので、「韓国の今」をお伝えしなければと思うのですが、実際本国の人より、外国の人の方がよく見、よく知っていることが多いようです。「かわらばん」は読売されてもいたので、今回はお話口調といたします。   帰国して一年。なぜかまだまだ新発見ばかりの毎日です。さて、今回は商いについてお話しようと思います。店舗でもなく行商でもないような商いを。   まず、電車編。ソウルの電車はほとんどが地下鉄です。たまに茗荷谷や後楽園駅のように地上に駅のあることもあります。駅構内、といっても改札にいたる前ですが、階段の踊り場、通路にいろいろなものが売られています。日本でも駅構内にお店があるのが普通となってきて珍しいことと思われないでしょうが、ちょっと違うんです。階段や踊り場にはおばさんが野菜、特に山菜とかをきれいにお手入れして売っています。おじさんは綿棒(これは重宝してます。100本入りが4つで1000ウォン!)や、虫眼鏡、老眼鏡、その他小道具を売ってます。これらは以前からありましたが、新しいのは南米系の男女がアクセサリーを売っていることです。目新しいせいか、結構売れてそうでした。通路で最近はじめて見たのは「家訓書きます」です。大きな机を広げ、まわりの壁や床にはおじさん(書道の先生かと思われます)が書いた家訓が展示されています。ずいぶん長くいらっしゃるのですが、誰かが注文しているのを見たことないので商売になっているのかちょっと心配です。   改札を通ってからホームにたどり着くまでの空きスペースでは、DVDやブランドバッグ、ジャージ(すべてバッタもん)を売ってたり、ちゃんとしたお店のスペースでは入れ替わり立ち代り倒産したお店の洋服が売られたりしています。意外とないのはキオスクのようなもの。ガムとか飲み物は自販機です。新聞、雑誌の売り場はあるのですが、乗客は駅の入り口によく置いてある無料のタブロイド誌を読んでることが多いです。   電車内ではお年寄や体の不自由な方が(たまには怖そうなやーさんっぽいお兄さんが)ガムなどを売ったり、倒産した会社の品物(傘、かっぱ、電気かみそり、腰サポーター、なつかしのメロディのCD)を売ったり。   続いてバス停編。バス車内ではさすがに見かけなくなりました。こちらは降りてからです。団地の近くのバス停には結構いろんなものが売っています。屋台もありますが、トラックがお店となって止まっていることが多いです。果物やたまには魚(冷凍)、かに(茹で)、いいだこ(生)など。そして、バーベキューチキン(中にはお米とかが入っていて、スープのない参鶏湯みたいです)まで。朝の出勤の時間帯にはサンドイッチとトーストを売るミニトラックが出ます。バスの待ち時間にちょいと朝食って感じです。子供たちの下校時間にはトッポッキ(甘辛く炒めたお餅)やおでん、鯛焼き(韓国では「金魚パン」っていいます)など、おやつ系の屋台、トラックが並びます。時間帯によってお店が変わります。   道路編。ソウル市内の道路でも見かけるのは、渋滞の際、道路の真ん中でお菓子や茹でたトウモロコシ、するめなどを売ってる人です。高速道路などに多く、天から降ったのか、地から湧いたのか、いったいどこからあらわれたのだろうって思います。渋滞でお腹がすいてたまらないとき、退屈なとき、重宝します。これは何も韓国だけのものではなく、日本で見かけないだけらしいです。そういえば、「車のへこみ、きず、きれいになおします」もあります。ソウル近郊の道路では、なぜか釣竿(近くに川も海も貯水池もありません)、くつ、車関連グッズを売っていて、不思議だらけです。   そうそう。韓国は電車より車社会です。そして飲むと車を“つれて”帰りたいので「代理運転」を頼みます。これは日本にもあるそうです。ソウル近郊まで3万ウォンでタクシーとあまりかわらない値段らしいです。でも、代理の運転手さんはそこからどうやって帰るのか気になります。   韓国では、あれば便利な「ありがたい」ものから、「え、誰が買うの?」ってものまで、思いがけないところで購入できます。まだまだ話は尽きませんが、今日はこのへんで。   --------------------------------------- ハン・キョンジャ(Han Kyoung ja) 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員 ---------------------------------------
  • 2007.07.07

    エッセイ063:キン・マウン・トウエ 「ミャンマーと中国(雲南省)の貿易関係」

    4月の初めに、実家のあるマンダレーへ行きました。4年ぶりの町の風景は、完全に変わって、中国の町みたいになっています。看板などは中国語で書かれて、町の作りも中国の町みたいになっています。街を歩いている人たちは、中国との国境の近くから来た人たちが多く、顔は完全に中国人のように見えます。   私の父はマンダレーで眼科医院を持っていますが、患者さんは2種類わかれるそうです。田舎から来た本当のミャンマー人の顔を持っている患者さんたちと、通訳を連れて来くる、ミャンマーの国民登録証明書を持ってミャンマー人と呼ばれている、中国との国境に近いところから来た華僑の患者さんたちです。ミャンマー語は一切出来ずに、眼科の先生からの質問などは、全て通訳が訳して会話しています。外国人と会話しているように見えました。   この町は、一体どうなっているのでしょうか? ここは、ミャンマーですか?どこかの国の町ですか? 本当のミャンマー人たちは、どこにいますか?   マンダレー市は、歴史的に古い町です。ミャンマーは、1824年にはじめて国の一部が英国の植民地になり、1852年にまた別の一部、そして、最後1885年にマンダレーを含むミャンマー国全体が英国の植民地になりました。最後までミャンマーの王様はマンダレーパレスにいました。マンダレー市は、日本で言えば京都のように、歴史や文化がたくさんあるところなのです。王様が住んでいた、古い歴史や文化財にあふれるマンダレーは、どうなったのでしょう。   中国では、ミャンマーは「ミャン州」と呼ばれているようです。 ここは、「ミャン州」ではありません、「ミャンマー連邦」です。   1998年に私が日本からミャンマーへ戻った時に、ミャンマーの貿易業界には、かなり中国(雲南省)の影響が強いことを知りました。全国からの農産物、水産物、宝石など国の輸出品の大きな割合が、中国(雲南省)とミャンマーの国境貿易としてマンダレー経由で中国へ安く流れています。マンダレーから雲南省国境まで、ミャンマー政府と雲南省政府が半分ずつ負担して高速道路を作りました。マンダレーから中国国境までは、山道になっても道が良いため、車で数時間しかかかりません。   中国は自分の国を工業化しています。農産物や水産物の多いミャンマーは中国の「納屋(Barn)」なったり、森や山の多いミャンマーは中国の「材料屋」なったり、中国の掌に乗せられています。同時に、ミャンマーは中国の大きな市場としても利用されています。 2006年度のミャンマーと中国間の貿易総額は、14.6億米ドルになり、昨年度より20.7%も上りました。その内訳としては、中国からミャンマーに 12.07億米ドル分輸入し、ミャンマーから中国に2.52億米ドル分輸出しました。   ミャンマーと雲南省間の貿易総額は、6.92億米ドルで、昨年度より9.6%も上りました。ミャンマーは雲南省から5.21億米ドル分輸入し、ミャンマーから雲南省へ1.71億米ドル分輸出しました。ミャンマーから雲南省へ主に輸出した物は、農産物や水産物、鉱山産物、ゴム材、宝石などであり、雲南省からミャンマーへ主に輸入した物は、電気製品や様々な機械類、洋服、薬、スチール製品、様々な生活用品などです。   1988年以前は、ミャンマーのダム建設や水力発電所設備設置、鉱業などは、日本の技術によって行われていました。今は、ほとんど中国の技術で行われていますが、品質の問題が一部発生しています。2007年3月29日、ヤンゴンで行われた雲南省とミャンマー間の貿易投資会議では、中国(雲南省)から州政府の役人と共に中国商工会関係者350人が来ました。その会議には、両国の関係400社以上が参加し、600人以上が出席しました。   国際ビジネスでは、一方的な関係ではなく、お互いに心や考え方などを理解しながら行うことが大切だと思います。ミャンマーは、中国雲南省との貿易一辺倒にならないで、貿易産業を世界各国に開いて、国際的なバランスをとっていくことが必要だと思います。   ---------------------------------- キン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe) ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co. Ltd. 社長 (在ヤンゴン)。SGRA会員 ----------------------------------
  • 2007.06.14

    エッセイ062:太田美行 「『気づき』から理解のための『アクション』へ」

    これまで留学生の友人や、仕事の上で日本に住んでいる外国人とたくさん交流してきた。だからちょっとやそっとのことでは驚かないつもりでいたけれど、どっぷりと仕事でお付き合いするとやはり「違い」の壁にぶつかってしまう。   シンクタンク、日本語教育業界を経て、昨年まで日本にあるヨーロッパの会社で働いていた。普通におしゃべりをしたり、友達づきあいをしていれば問題ないが、日々の業務の中ではこの「違い」が誤解等を生んでいたように思う。   具体例を挙げよう。「私の知っている日本」(日本人全員とは言いません)では部下の信用を得るには、朝早くに来て皆と一緒に働きながら一体感や信頼を作ってくというモデルがあるように思う。それが部下やチームとの信頼構築へのプロセスとして機能する。一方でそうではない考えを人々もいる。「マネージャーの仕事をする」と主張する考え方だ。「指示をすること」に重点を置いており、皆がどうすべきなのかというプランの部分に力を注ぐ。例えば、マネージャーは何をすべきか部下に指示しておいて自分は早く退社したり、長期休暇を取ったりする。   どちらか一方が良くて他方が悪いということをいうことではない。ここで言いたいのはその考え方の違いが、どういう反応を生むかだ。一方からは「現場の実態を知らないのに指示だけ出している」「私たちの気持ちをわかろうとしない」という思いを抱かせ、もう一方は「なぜ自分の言うことに従ってくれないのだろう?」といらつきを感じさせる。どちらも悩む。双方とも「国が違うから考え方も違う」とは思っているのだろう。しかし仕事のスタイルに対する考え方の違いが日常の中で生む、こうしたささやかではあるが後に大きな誤解を生むであろう違いが「なぜ」なのか、なかなか踏み込んで原因究明するまでは至っていないようだ。だからとても単純なことが原因でもそれが見えず、感情的なわだかまりを残してしまうことがある。   特に日本語を話せる人に対しては、そのすれ違いの度合いが深い。「言葉が話せる=やり方を理解している」との先入観があるからだ。そしてその先入観は多くの場合、全くの無意識である。   例えば逆のパターンで、英語を話す日本人(私)の例をあげよう。私は英語をある程度話すことができる。だから外国人上司とのコミュニケーションは全く問題ないかというと、そんなことはない。なぜなら私の英語は日本でラジオの英会話番組で覚えたものが中心で、実践を在日外国人相手にしていたため、主張のタイミングや方法などが欧米流とは違っており、言葉以外の部分で苦労することが多い。そして私の上司や他の外国人マネージャーも苦労していただろう。日本語の論理構成を使って、英語で話していたのだから。   こうした問題を解消するにはどうしたらいいのか私なりに考えてみた。結論は極めて単純で、異文化理解のワークショップを定期的に開くというものだ。特定の文化について「この国の人はこう考えます」という講義型のものではなく、参加型のもので「○○○の時にはどうしますか?」という質問に答えさせていき、一通り答えが出揃ったら今度は「それはどうしてですか?」「なぜそう考えるのですか?」と聞いて発想の違いを浮き上がらせるワークショップだ。特定の文化理解を深める場合もあるだろうが、「違い」にぶつかった時に「なぜ?」につなげる。とても単純なものだが意外と面白く、違いを浮き上がらせていけそうな気がする。参加者はきっと「この人はこんな発想のしかたを持っていたのだ」と驚くに違いない。そして違いに気づくことから更に「ではどうする?」と、次のアクションに繋げるのがこのワークショップの目的だ。その事がわかれば、何かを説明するときにでも説明のしかたが変わってくるだろう。欧米の人はこうしたワークショップに慣れているだろうが、日本を初めアジア諸国ではまだ少ないので、やる価値はあると思う。   本当はこうした異文化理解ワークショップを学生時代にやるべきだと思う。現在の大学では留学生との交流サークルなどで行っているのだろうが、もう社会人になった人たちには会社内でぜひやって欲しい。外国人の多い職場の人は経験からこうした考え方の違いを感じ、自分なりの分析をしているようだが、多くの日本人にはそこまでの経験はまだない。個人の経験の積み重ねがそれぞれあるなら、それを繋げていくことでもっと大きな結果が得られるのではないだろうか。   日本で学んでいる留学生、元留学生の皆さんも「表面的な違い」をみつけるだけではなく、ぜひその次の「なぜ?」にまでいって問題を掘り下げ、その奥にある「考え方の違い」を見つけて欲しい。そして得られたものを共有して欲しい。それだけでは問題解決にはならないかもしれないが、テレビから流れる異文化間の衝突のニュースを聞くたびに、そして日本人、外国人の同僚の、ため息交じりのつぶやきを聞くたびに心からそう思う。   ----------------------------- 太田美行☆おおた・みゆき 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------  
  • 2007.06.05

    エッセイ061:梁 蘊嫻 「三題噺:かわら版・はしか・カンヌ映画祭」

    落語には「三題噺」という、あらかじめ演題を用意せずに、寄席で観客からもらった三つの題目を噺の中に織り込んで、即興で落語を作るという噺家の技量を試す芸がある。明治時代、三遊亭円朝が「卵酒」「鉄砲」「毒消しの護符」の三つ、まったく関係のない言葉によって作りあげた三題噺「鰍沢」(かじかざわ)は今日でも広く知られている。あらすじを簡単にまとめておく。   父親の骨を納めるために、新助は身延山へやってきたが、帰り道に一軒の家に宿泊した。泊めてくれた女主人・お熊は金銭目当てで毒入りの『卵酒』を新助に飲ませる。そのあと、新助は隣の部屋で寝たが、『卵酒』に毒が入っていた話を耳にした。慌てて『お題目』を唱えて、転びながら逃げ出したが、鰍沢の川に落ちてしまう。幸いに新助は一本の材木を掴まえることができた。追いかけてきたお熊は『鉄砲』で新助を撃とうとするが、新助が再び『お題目』を唱えると、弾は命中しなかった。大難から逃れた新助は「お祖師様のご利益、たった一本の『お材木(題目)』で助かった」と感激する、という落ち。   噺としては単純だが、絶大な人気を呼んだ理由はやはり噺家の話芸にあずかったところが大きいだろう。さて、ここでも三題噺の形態に倣って「かわら版」、「はしか」、「カンヌ映画祭」の三つのキーワードでエッセイを書いてみたい。   一、かわら版    「かわら版」をキーワードとして選んだのは、ほかでもなく我々SGRAメンバーが意見を交換する場がこの「kawaraban」だからである。いつも「かわら版」のおもしろい話を楽しく拝読しているが、かわら版はもともとどのようなものだったのか。時代をさかのぼって見てみよう。    新聞のない時代、各種のニュースや、事実を題材とする浄瑠璃・各種の語りもの、小唄などを印刷した一枚摺りあるいは二枚ないし数枚のパンフレットなどが口頭で読み上げられて売られていた。こういうパンフレットは、街角で読んで売られたことから「読売」、または事件を早く伝えるために木版摺の一枚ものに仕立てられたことから「摺物」と呼ばれていた。「かわら版」と呼ばれるようになったのは幕末の頃であった。瓦に彫刻して印刷したことに由来する説もあれば、瓦が実際に使われていなかったという意見もある。また、京都の河原町の出来事を報道するものだから、「かわら版」になったという論もある。様々な説があって一定しない。いずれにしても、街中の風説を一枚のチラシに印刷して人々に売るという点ではニュースの原型といえるに違いない。現在でも時々街角で新聞の「号外」版が配布されるが、光景はあれに似ていると言えようか。    また、「かわら版」に載っている話は、地震・火事といった災害事情から、流行病、敵討ち、孝行美談、町中の風説、心中、怪談・奇談・珍談、神仏の霊験譚にいたるまで、実に多様である。では、一つ、二つ紹介しておこう。   二、「はしか」の流行    いま日本中で「はしか」が流行しており、大学は次々と休講措置をとり、大変深刻な事態になっている。実は江戸時代でも数年置きに「はしか」が流行していた。その様子はかわら版からも窺われる。たとえば、『はしか能毒心得草』(文久二年〈一八六二〉)では、「大根、ゆず、やきふ、毒なし、食すべし」「青梅を食すれば、はしかのうちへ入り男は淋病、女は長血しうちとなる」と、民間療法的な処方が書かれており、『為麻疹』(文久二年)では、その大流行の様子が「さてもないないつまらない、今度のはしかは逃れない、しかし命に別状ない、どこのお医者も暇がない、毒立て多くて食べ物ない、八百屋魚屋から売れない、船宿さっぱり乗り手がない、籠屋は夜昼休みない、……」と記述されている。医者に暇がなく、籠屋に休みがない、というわけで、よほど多くの病人が出ていたということが想像できるだろう。また、「はしか」の流行がすべての生業に影響を及ぼしたという実態をも窺い知ることができる。  そして、「つまらないヘイヘイ上下そろいまして十文で六せんでござい」という記載から、当時の人々は「はしか」流行の様子を知るために、こういった内容が載っている「かわら版」を購入していたことがわかる。このように、「かわら版」は江戸時代に町中の出来事を伝えるマスコミとしての役割を果たしていた。   ところで、「かわら版」には作り話もよく載っていた。たとえば、小判をくわえる猫の話。病気になった主人のために、猫は普段可愛がってくれる魚屋から小判をくわえてくる。主人はその話を聞いて激怒して猫を殺したが、その後魚屋は猫の屍骸を廻向院に葬り石碑を建てた、という話である。「猫に小判」ということわざを念頭にこのような話を作り上げたかどうかはわからないが、この話のように、当時の「かわら版」はいろいろな珍談をまるで本当の出来事であるかのように書くものが多々あった。今日のマスコミではこのようなでっち上げが許されないことは言うまでもない。   三、カンヌ映画祭    今日のニュースは真実を客観的に伝えなければならないと要求されている。しかし一つの事柄は異なる視点からの報道によって読者に異なった印象を与える。たとえば、最近盛り上がっているカンヌ映画祭についての報道。   北野武監督は映画祭60周年記念イベントに日本代表としてカンヌ映画祭に出席し、松本人志監督は「大日本人」と題する作品で監督週間部門に参加した。そして木村拓哉、香取慎吾はそれぞれ主演映画「HERO」「西遊記」の宣伝のため、駆けつけた。これに関する報道はたくさんあるが、以下対照的な記事を挙げておこう。    (1)毎日新聞  (木村拓哉は)今回のキャンペーンは映画祭とは直接関係なく、世界中から集まる映画買い付け業者にPRするために滞在中。成田からパリまでの便は、松本人志と一緒で、木村は「同じカンヌに行くんだ、と思ったらうれしくなった」と映画祭の空気を楽しんでいる。   (2)台湾ヤフー(2007/05/25 07:10” 記者:記者傅繼瑩/綜合報導) 「同じカンヌに行くんだ、と思ったらうれしくなった」と嬉しさを示している木村に対しては、松本がキムタクを見かけたかという質問されたときの反応は非常に微妙。松本はしばらく考えてから笑顔を絞り出して「そうだ。彼も行っていた。」そして「僕たちは同じ飛行機で行ったんだけど、向こうでは会わなかった。」と言った。(筆者訳)   以上の記事を比較してみると、『毎日新聞』は木村拓哉の映画PRに関心を寄せていることが明らかである。それに対して、台湾のヤフーニュースは松本人志がキムタクの存在を無視したことに注目しているわけである。つまり、前者はキムタクに好意的であるのに対して、後者は彼を貶めるような書き方になるのである。二つの記事はおそらくいずれも事実に基づくものだろうが、読者に発するメッセージの意図はまったく正反対といえる。今日では、あからさまにニュースを捏造することはない(と信じたい)が、事実に基づきながらも、読者にある程度の印象操作を行なうことはよくあるだろう。事実をどのように報道すれば、最も客観的な形で提示することができるだろうか。これ「はしか」し、どんなに優れたジャーナリストでも答えが出せない問題であり、それは将来もkawaraないだろう。   ------------------------------- 梁 蘊嫻 (りょう・うんけん☆Liang yunhsien)   台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 -------------------------------
  • 2007.06.03

    エッセイ060:高 煕卓 「赤い悪魔をめぐって」

    まだ5月だが、時折の朝夕の冷たさを気にする母親のいうことには聞くふりもせず、いつも半袖の赤いシャツだけを引き出す、うちの5才の女の子の拘りがこの話のきっかけを作った。   毎朝、保育園に行く時間になると、彼女の「デ-ハンミングください」という声と、「それはまだ乾いてないよ。今日は別のものを着たら?」という母親の声が交錯する。だが、結局、彼女の粘りが効き、そのシャツはもう3枚に増えている。   そのシャツには真っ赤な生地に白い文字で“Be the Reds!”と書かれている。が、彼女はそれを「デ-ハンミング」と名づけている。   ご存知のように、そのシャツは、サッカーの2002年ワールドカップの際、韓国代表を応援する市民応援団「赤い悪魔」こと、「レッド・デビル」のユニフォームである。また、彼女のいう「デ-ハンミング」とは、その応援団が連呼していた韓国のこと「大韓民国」の韓国語音である(国号の正式名ではあるが、私は妙にその「大」の字が気になる)。   2002年当時は、サッカーファンはもちろん、ふだんサッカーに関心のなかった人々でもそのユニフォームを着て、また「デ-ハンミング」を連呼していた。が、その独特な祝祭のような雰囲気を彼女もどことなく覚えたのだろう。   だが、今日の話は、サッカー応援をめぐる社会的現象そのものではなく、国際的にも注目を集めた、「赤い悪魔」を中心とした一般市民による競技後の自発的な後始末(掃除)についてである。   これまで熱狂的なファンによる欲望の恣意的な排出口としてクローズアップされがちだったサッカー応援だったが、その後の自発的な後始末といった公共的行為が伴われたことによって、2002年のサッカー応援はこれまでにない注目を浴びていたことは記憶に新しい。その行為は成熟した市民意識の表われだという、外国とくに過激な応援団の問題で悩んでいたヨーロッパの国々のメディアからの評価に韓国の人々は歓呼しつつ、自らを称えていた。私自身もその現象に韓国社会の一つの変化を読みとろうとしていた。   が、私自身知らなかった、これについての興味深い逸話を、ある大学生のブログから知ることができた。そこには日韓の若い人たちの間における、意図せざる交流の一つの有力なモデルが示唆されているように思う。   実は、韓国の一般市民による競技後の自発的な後始末のきっかけは、1998年フランス・ワールドカップの地域予選のために1997年東京で行われた試合まで遡っていた。その試合で韓国代表チームが、前半に1点を先制されながら、後半に2点を入れて逆転しただけに、韓国のメディアは「東京大捷」(東京での大きな歴史的勝利?!)とまで書きながら、その逆転勝利に酔いしれていた。だが、現地で直接応援をしていた韓国の「赤い悪魔」たちは、ただその結果に歓呼ばかりすることはできなかったようである。   彼らは、歓呼後のゴミ場と化した自らの応援席とは違って、敗北したにもかかわらず、競技の後、自ら黙々と後始末をして退く日本の若い人々の姿を目の前にして、大きな衝撃を受け、「ゲームでは勝ったが、市民意識では負けた」と恥じていた。5年後のソウルで示された、あの「市民意識」の表われは、日本の若い人たちの刺激によるものであったのである。   その背景からみても、また「他者」の視線が消えた2006年のドイツ・ワールドカップ当時のソウルでの狂乱ぶり(逆戻り)からも判るように、2002年韓国の人々が示していた「市民意識」とは、それほど普遍的なものとは言いがたく、まだ「韓国人」としてのプライドや恥といった意味の制限的な域を脱していないかもしれない。   とはいえ、韓国人にとっての「日本」といった方程式に興味深い変化が起こっていることには注意したい。ごく制限された人々の内輪で伝わる少数の日本人についての物語を別にして、これまで韓国の人々が「日本」から恥を感じ、それがきっかけになって自らを省察的に振り返られた場面はないといってもよいのではないだろうか。それだけに、1997年の東京からの学びと2002年のソウルでの実践は貴重な体験のように私には感じられたし、また日本の若い人々にも知ってほしいものである。   これまで「日本」とは、韓国人自らのアイデンティティを確認し、それに対する闘争心や恐怖心を扇ぐのに最も適した否定的な記号であったことは論を待たない。たとえ産業競争のため日本から技術を習うとしても、そこに尊敬心は期待できるものではなかった。   だが、明らかに時代は変わりつつある。   もちろん、表面的には依然として従来の方程式が大勢を占めているかの様相ではある。しかし私は、たとえ制限的なものだったとしても、恥じるべきことに恥じ、習うべきことを習った「赤い悪魔」たちの例にも、その事実を自らのブログに載せ、より健全なる市民意識に向けた省察を求めたある大学生の例にも、韓国社会における底流の変化を感じ、また信じる。   ------------------------------------ 高 煕卓(こう ひたく、Ko Hee-Tak)   2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------