SGRAエッセイ

  • 2007.07.18

    エッセイ066:オリガ・ホメンコ「ニューラおばあさん」

    ニューラおばあさんから電話があった。彼女は私の本当のおばあさんではないのに、親戚より親しい。私が生まれる前、両親がまだ若くて、キエフの「心の喜び」というきれいな名前の地区に住んでいた頃、年配のユダヤ系の家族が隣に住んでいた。ボリスさんとファイナさんという年配の夫婦と娘のアンナさんで、ニューラというニックネームで呼ばれていた。1970年代には、その夫婦は70歳くらいで、ニューラは40歳くらいだった。私の両親は30歳くらいで、共働きの家庭であったため、ボリスさんが当時小学生だった姉を、よく学校まで迎えに行ってくれた。   あの頃、ニューラは若くてとてもきれいな女性だった。真っ黒な髪をカールさせ、優雅なフレームのめがねをかけて、小さな指輪をはめていた。ニューラは独身だった。両親や私の誕生日のパーティにいつもアルセニーおじさんと一緒に来ていた。彼らはなかなかお似合いのカップルだった。アルセニーは、5歳になった私に、初めて「本物」の花束をくれた男性だった。5歳の私は、その大きな花束の美しさや大人の男性からの注目に悩殺された(笑)ため、花束を抱きしめて、しばらく手から離さずに部屋を歩いていた。大人たちが花束を花瓶にいれようと言ったけど、私はしばらく花を離さなかった。あの時、私の小さい心の中に眠っていた「女性としての重要さ」が、初めて目覚めたのかもしれない。花束のおかげで。   その誕生日に、花束と一緒に「マッジックボックス」ももらった。二つの底があったからマジックボックスと呼ばれ、その中に色んなマジックができる装置が入っていた。それを使って、パーティに集まる両親の友達の大人を驚かせる(騙す・笑)ことができる。ボックスの中に二つの底があるということ以外にも、卵が「なくなる」セットや「切れる」棒などもあった。私がそのボックスの中身をよく勉強して、しばらく遊んでいたことを覚えている。そしてマジックを覚えて両親の友達を驚かし、注目を浴びていたことも覚えている。言ってみればそのボックスは子供の頃にもらったおもちゃの中で、一番面白いものだったかもしれない。もちろんそれ以外にも、当時の自分より大きな「歩ける人形」とか、「テディベア」など、心に残るおもちゃがいろいろあったが、あのマジックボックスは今でも一番印象に残っている。   ニューラとアルセニーは結婚していなかったのに、家に遊びに来るときにはいつも一緒だった。子供だった私には、それが不思議だった。母と父、また母の兄弟や父の兄弟など、一緒に遊びに来る人たちが皆結婚していたのにもかかわらず、このふたりだけが結婚していなかった。それがちょっと理解できないことだった。   大きくなった時に、その理由を教えてもらった。ふたりは小学校の時からの同級生だった。しかし第二次世界大戦が起きたため、ボリスおじいさんは家族と一緒にシベリアに避難し、アレセニーは軍隊に入った。戦争が終わってキエフに戻った彼は、ユダヤ系であったため、家族全員がバビン・ヤル地区で虐殺されたことを知った。ニューラの家があった所には、爆弾の跡しかなかった。ニューラの一家が避難したことを知らされていなかったアレセニーは、「皆死んでしまった」と思ったようだ。住むところさえなかった彼は、工場に就職し、そこで知り合った15歳年上の女性と結婚した。1年過ぎて、シベリアからニューラの家族がキエフに戻った頃には、アルセニーの家族には双子の子供が生まれていた。彼は家族と別れてと一緒になろうと思ったが、ニューラは「あなたの家族を破壊してはいけない」と言って断った。   彼の奥さんのターニャはニューラに感謝しているので、アルセニーがニューラのために壊れた水道のクレーンを直したり、友達の誕生日会へ一緒に参加したり、家事の手伝いをしたりすることに反対しなかった。だから、彼らは、私の家に一緒に来ていたけど、結婚はしていなかった。アルセニーはニューラのことをとても大事にしていた。子供の私でさえそれを感じた。その時は、いろいろな事情を知らなくて、子供の私には、結婚していないことを理解できなかったけれど(頭を振りながら笑)。   90年代後半にアルセニーの子供たちがイスラエルに亡命することを決めた。アルセニーはイスラエルへ移る気がなかったが、ユダヤ系の家族では子供にかなり力があるもので、反対できなかった。その「亡命」は彼にとってかなりの悲劇だったに違いない。そのときに再び、ニューラと一緒になろうとした。だが彼女は彼の居場所が家族のそばであると再び彼に思い出させた。出発前に、彼は彼女のところに「最後の挨拶」に来た。二人とももう会えないからと思って泣いていた。この頃は、鉄の壁が壊れたばかりで、まだ自由に外国に行けない時代だったので、外国に移るということは「もう二度と会えない」ことだった。   それ以来彼は半年ごとに彼女に仕送りをしている。そしてできる限りに電話もしている。何年もたった今でも、彼は彼女に航空便の赤青封筒で、50ドルと100ドルのお札を時々送っている。時々封筒からお金が盗まれて、破けた封筒の中には愛を込めた手紙しか届かない。だが彼女のためには、その赤青の封筒がお金より大切に違いない。   ニューラは一人暮らしの84歳の女性だ。アルセニーは、あれ以来キエフに一度も来ていない。彼は85歳を過ぎているのにもかかわらず、またいつか一度、本当に「最後」にニューラに会いたいようだ。ふたりは、きっと天国で一緒になると思う。   ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 ------------------------------------
  • 2007.07.11

    エッセイ065:葉 文昌 「台湾通勤電車における車内行為に関する一研究」

    日本の通勤電車では新聞、雑誌、本を読む人や、情報端末(携帯電話)を操作する人が台湾と比べて多い印象が僕にはある。本といっても専門書から大衆雑誌まで、ピンからきりまであるが、例え大衆雑誌と言えども、それは情報であって脳に刺激を与えていることには変りないので、国民教養レベルの底上げに繋がると思っている。携帯インターネット情報も同じことが言えるであろう。   したがって、一国の通勤電車の車内行為を見れば、その国の社会人の知識レベル、更には情報化度を見ることができる。そこで今回、台湾通勤通学族の通勤電車内での時間の有効利用について調べてみた。調査地は台北通勤電車の淡水線、時間は午前9時半と午後6時半の各一回、であった。サンプル人数はそれぞれ170と221人、全車両内の座っている人に絞った。   その結果、車内行動は1.只座る 2.うたた寝 3.読書 4.新聞 5.おしゃべり 6.電話 7.電話メールとネット 8.電話ゲーム 9.化粧に分けることができた。また、台湾では老若限らず仏経をブツブツ読む人が多く、今回の調査でも1、2人いたが、思考の刺激になってないので3.読書よりも、1.只座るに分類した。漫画については、表現方法が活字から絵画に変っただけで、思考に刺激を与えることには本と変りはないので、3.読書に分類した。   結果は下記に示す通りとなった。    座 寝 読書 新聞 喋り 電話 メール ゲーム 化粧 朝 54% 16% 13% 6%  6%  2%  0.6%  0%   2% 夕 40% 31%  9% 4%  9%  5%  0.5%  1%   0%   朝、夕時に只座る人と寝る人が合わせて70%と71%と同程度であるが、寝る人は朝が16%であるのに対して夕は2倍の31%に増えた。やはり台北でもサラリーマンは仕事に疲れているのであろうか。   続いて読書と新聞のような知的活動だが、朝は合わせて19%であるのに対し、夕方では13%と減った。その代わりお喋りと電話している人数が合わせて8%から14%に増えた。夕方では友人と同伴して帰宅する人が多くなる結果であろう。ところで台湾ではどのような書物が好まれているかを紹介しよう。日本で電車でよく見られる書物に週刊誌があるが、台湾では週刊誌は少なく、ジャンルも限られている。人口が日本の1/5程度だからだ。その上、例えば台湾ビジネスウィークの値段は80元〔280円〕であり、これは台湾におけるバイトの時給である。一方で日本では週刊誌はバイト時給の1/2である。これがおそらく台湾で雑誌を読む人が日本ほどない原因であろう。台湾では読書対象は多くが小説、ビジネス書と試験勉強であった。また新聞については、最近は無料の新聞が配られており、読まれた新聞の半分はこのような新聞であった。台湾の無料新聞の質がどうであれ、レベルの底上げには繋がっているであろう。情報は国民レベル向上の視点から、公費を使ってまでも安くしてもらいたいものである。   最後はメールとネットである。朝夕ともに1%未満であった。これはおそらく日本と比べると遥かに少ない。台湾では携帯のショートメールは使うが、Eメールの使用は殆どない。またちょっと前に携帯電話で写真を撮って他人に送ったことがあるが、相手にインターネットでダウンロードしないと見れないと言われた。電子技術を楽しむよりも、”カメラ付き”、”300万画素”、”大画面液晶”の面子的なもので携帯を買っているようだ。台湾の若者は台湾メディアの影響でX世代(考え方が新しくて得体が知れないという意味でつけられた)との自意識が高い割には実際の新技術適応力は日本と比べると低いのが悲しい。因みに携帯をいじる人は少なくないものの、一部はゲーム遊びである。   以上が台湾の通勤電車の車内行為の調査結果であった。残念ながら日本との比較調査はできないが、それは日本に限らず世界各国の読者の皆さんが通勤電車に乗って人間観察しながらこの台湾の状況と比較してみればよい。案外そこから国民意識の全体像が見えるかもしれない。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 自慢はデバイスを作る薄膜堆積設備の大半を手作りで作ったことである。 ---------------------------  
  • 2007.07.08

    エッセイ064:韓 京子 「韓国は今―商い編―」

    かわらばんということなので、「韓国の今」をお伝えしなければと思うのですが、実際本国の人より、外国の人の方がよく見、よく知っていることが多いようです。「かわらばん」は読売されてもいたので、今回はお話口調といたします。   帰国して一年。なぜかまだまだ新発見ばかりの毎日です。さて、今回は商いについてお話しようと思います。店舗でもなく行商でもないような商いを。   まず、電車編。ソウルの電車はほとんどが地下鉄です。たまに茗荷谷や後楽園駅のように地上に駅のあることもあります。駅構内、といっても改札にいたる前ですが、階段の踊り場、通路にいろいろなものが売られています。日本でも駅構内にお店があるのが普通となってきて珍しいことと思われないでしょうが、ちょっと違うんです。階段や踊り場にはおばさんが野菜、特に山菜とかをきれいにお手入れして売っています。おじさんは綿棒(これは重宝してます。100本入りが4つで1000ウォン!)や、虫眼鏡、老眼鏡、その他小道具を売ってます。これらは以前からありましたが、新しいのは南米系の男女がアクセサリーを売っていることです。目新しいせいか、結構売れてそうでした。通路で最近はじめて見たのは「家訓書きます」です。大きな机を広げ、まわりの壁や床にはおじさん(書道の先生かと思われます)が書いた家訓が展示されています。ずいぶん長くいらっしゃるのですが、誰かが注文しているのを見たことないので商売になっているのかちょっと心配です。   改札を通ってからホームにたどり着くまでの空きスペースでは、DVDやブランドバッグ、ジャージ(すべてバッタもん)を売ってたり、ちゃんとしたお店のスペースでは入れ替わり立ち代り倒産したお店の洋服が売られたりしています。意外とないのはキオスクのようなもの。ガムとか飲み物は自販機です。新聞、雑誌の売り場はあるのですが、乗客は駅の入り口によく置いてある無料のタブロイド誌を読んでることが多いです。   電車内ではお年寄や体の不自由な方が(たまには怖そうなやーさんっぽいお兄さんが)ガムなどを売ったり、倒産した会社の品物(傘、かっぱ、電気かみそり、腰サポーター、なつかしのメロディのCD)を売ったり。   続いてバス停編。バス車内ではさすがに見かけなくなりました。こちらは降りてからです。団地の近くのバス停には結構いろんなものが売っています。屋台もありますが、トラックがお店となって止まっていることが多いです。果物やたまには魚(冷凍)、かに(茹で)、いいだこ(生)など。そして、バーベキューチキン(中にはお米とかが入っていて、スープのない参鶏湯みたいです)まで。朝の出勤の時間帯にはサンドイッチとトーストを売るミニトラックが出ます。バスの待ち時間にちょいと朝食って感じです。子供たちの下校時間にはトッポッキ(甘辛く炒めたお餅)やおでん、鯛焼き(韓国では「金魚パン」っていいます)など、おやつ系の屋台、トラックが並びます。時間帯によってお店が変わります。   道路編。ソウル市内の道路でも見かけるのは、渋滞の際、道路の真ん中でお菓子や茹でたトウモロコシ、するめなどを売ってる人です。高速道路などに多く、天から降ったのか、地から湧いたのか、いったいどこからあらわれたのだろうって思います。渋滞でお腹がすいてたまらないとき、退屈なとき、重宝します。これは何も韓国だけのものではなく、日本で見かけないだけらしいです。そういえば、「車のへこみ、きず、きれいになおします」もあります。ソウル近郊の道路では、なぜか釣竿(近くに川も海も貯水池もありません)、くつ、車関連グッズを売っていて、不思議だらけです。   そうそう。韓国は電車より車社会です。そして飲むと車を“つれて”帰りたいので「代理運転」を頼みます。これは日本にもあるそうです。ソウル近郊まで3万ウォンでタクシーとあまりかわらない値段らしいです。でも、代理の運転手さんはそこからどうやって帰るのか気になります。   韓国では、あれば便利な「ありがたい」ものから、「え、誰が買うの?」ってものまで、思いがけないところで購入できます。まだまだ話は尽きませんが、今日はこのへんで。   --------------------------------------- ハン・キョンジャ(Han Kyoung ja) 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員 ---------------------------------------
  • 2007.07.07

    エッセイ063:キン・マウン・トウエ 「ミャンマーと中国(雲南省)の貿易関係」

    4月の初めに、実家のあるマンダレーへ行きました。4年ぶりの町の風景は、完全に変わって、中国の町みたいになっています。看板などは中国語で書かれて、町の作りも中国の町みたいになっています。街を歩いている人たちは、中国との国境の近くから来た人たちが多く、顔は完全に中国人のように見えます。   私の父はマンダレーで眼科医院を持っていますが、患者さんは2種類わかれるそうです。田舎から来た本当のミャンマー人の顔を持っている患者さんたちと、通訳を連れて来くる、ミャンマーの国民登録証明書を持ってミャンマー人と呼ばれている、中国との国境に近いところから来た華僑の患者さんたちです。ミャンマー語は一切出来ずに、眼科の先生からの質問などは、全て通訳が訳して会話しています。外国人と会話しているように見えました。   この町は、一体どうなっているのでしょうか? ここは、ミャンマーですか?どこかの国の町ですか? 本当のミャンマー人たちは、どこにいますか?   マンダレー市は、歴史的に古い町です。ミャンマーは、1824年にはじめて国の一部が英国の植民地になり、1852年にまた別の一部、そして、最後1885年にマンダレーを含むミャンマー国全体が英国の植民地になりました。最後までミャンマーの王様はマンダレーパレスにいました。マンダレー市は、日本で言えば京都のように、歴史や文化がたくさんあるところなのです。王様が住んでいた、古い歴史や文化財にあふれるマンダレーは、どうなったのでしょう。   中国では、ミャンマーは「ミャン州」と呼ばれているようです。 ここは、「ミャン州」ではありません、「ミャンマー連邦」です。   1998年に私が日本からミャンマーへ戻った時に、ミャンマーの貿易業界には、かなり中国(雲南省)の影響が強いことを知りました。全国からの農産物、水産物、宝石など国の輸出品の大きな割合が、中国(雲南省)とミャンマーの国境貿易としてマンダレー経由で中国へ安く流れています。マンダレーから雲南省国境まで、ミャンマー政府と雲南省政府が半分ずつ負担して高速道路を作りました。マンダレーから中国国境までは、山道になっても道が良いため、車で数時間しかかかりません。   中国は自分の国を工業化しています。農産物や水産物の多いミャンマーは中国の「納屋(Barn)」なったり、森や山の多いミャンマーは中国の「材料屋」なったり、中国の掌に乗せられています。同時に、ミャンマーは中国の大きな市場としても利用されています。 2006年度のミャンマーと中国間の貿易総額は、14.6億米ドルになり、昨年度より20.7%も上りました。その内訳としては、中国からミャンマーに 12.07億米ドル分輸入し、ミャンマーから中国に2.52億米ドル分輸出しました。   ミャンマーと雲南省間の貿易総額は、6.92億米ドルで、昨年度より9.6%も上りました。ミャンマーは雲南省から5.21億米ドル分輸入し、ミャンマーから雲南省へ1.71億米ドル分輸出しました。ミャンマーから雲南省へ主に輸出した物は、農産物や水産物、鉱山産物、ゴム材、宝石などであり、雲南省からミャンマーへ主に輸入した物は、電気製品や様々な機械類、洋服、薬、スチール製品、様々な生活用品などです。   1988年以前は、ミャンマーのダム建設や水力発電所設備設置、鉱業などは、日本の技術によって行われていました。今は、ほとんど中国の技術で行われていますが、品質の問題が一部発生しています。2007年3月29日、ヤンゴンで行われた雲南省とミャンマー間の貿易投資会議では、中国(雲南省)から州政府の役人と共に中国商工会関係者350人が来ました。その会議には、両国の関係400社以上が参加し、600人以上が出席しました。   国際ビジネスでは、一方的な関係ではなく、お互いに心や考え方などを理解しながら行うことが大切だと思います。ミャンマーは、中国雲南省との貿易一辺倒にならないで、貿易産業を世界各国に開いて、国際的なバランスをとっていくことが必要だと思います。   ---------------------------------- キン・マウン・トウエ(Khin Maung Htwe) ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co. Ltd. 社長 (在ヤンゴン)。SGRA会員 ----------------------------------
  • 2007.06.14

    エッセイ062:太田美行 「『気づき』から理解のための『アクション』へ」

    これまで留学生の友人や、仕事の上で日本に住んでいる外国人とたくさん交流してきた。だからちょっとやそっとのことでは驚かないつもりでいたけれど、どっぷりと仕事でお付き合いするとやはり「違い」の壁にぶつかってしまう。   シンクタンク、日本語教育業界を経て、昨年まで日本にあるヨーロッパの会社で働いていた。普通におしゃべりをしたり、友達づきあいをしていれば問題ないが、日々の業務の中ではこの「違い」が誤解等を生んでいたように思う。   具体例を挙げよう。「私の知っている日本」(日本人全員とは言いません)では部下の信用を得るには、朝早くに来て皆と一緒に働きながら一体感や信頼を作ってくというモデルがあるように思う。それが部下やチームとの信頼構築へのプロセスとして機能する。一方でそうではない考えを人々もいる。「マネージャーの仕事をする」と主張する考え方だ。「指示をすること」に重点を置いており、皆がどうすべきなのかというプランの部分に力を注ぐ。例えば、マネージャーは何をすべきか部下に指示しておいて自分は早く退社したり、長期休暇を取ったりする。   どちらか一方が良くて他方が悪いということをいうことではない。ここで言いたいのはその考え方の違いが、どういう反応を生むかだ。一方からは「現場の実態を知らないのに指示だけ出している」「私たちの気持ちをわかろうとしない」という思いを抱かせ、もう一方は「なぜ自分の言うことに従ってくれないのだろう?」といらつきを感じさせる。どちらも悩む。双方とも「国が違うから考え方も違う」とは思っているのだろう。しかし仕事のスタイルに対する考え方の違いが日常の中で生む、こうしたささやかではあるが後に大きな誤解を生むであろう違いが「なぜ」なのか、なかなか踏み込んで原因究明するまでは至っていないようだ。だからとても単純なことが原因でもそれが見えず、感情的なわだかまりを残してしまうことがある。   特に日本語を話せる人に対しては、そのすれ違いの度合いが深い。「言葉が話せる=やり方を理解している」との先入観があるからだ。そしてその先入観は多くの場合、全くの無意識である。   例えば逆のパターンで、英語を話す日本人(私)の例をあげよう。私は英語をある程度話すことができる。だから外国人上司とのコミュニケーションは全く問題ないかというと、そんなことはない。なぜなら私の英語は日本でラジオの英会話番組で覚えたものが中心で、実践を在日外国人相手にしていたため、主張のタイミングや方法などが欧米流とは違っており、言葉以外の部分で苦労することが多い。そして私の上司や他の外国人マネージャーも苦労していただろう。日本語の論理構成を使って、英語で話していたのだから。   こうした問題を解消するにはどうしたらいいのか私なりに考えてみた。結論は極めて単純で、異文化理解のワークショップを定期的に開くというものだ。特定の文化について「この国の人はこう考えます」という講義型のものではなく、参加型のもので「○○○の時にはどうしますか?」という質問に答えさせていき、一通り答えが出揃ったら今度は「それはどうしてですか?」「なぜそう考えるのですか?」と聞いて発想の違いを浮き上がらせるワークショップだ。特定の文化理解を深める場合もあるだろうが、「違い」にぶつかった時に「なぜ?」につなげる。とても単純なものだが意外と面白く、違いを浮き上がらせていけそうな気がする。参加者はきっと「この人はこんな発想のしかたを持っていたのだ」と驚くに違いない。そして違いに気づくことから更に「ではどうする?」と、次のアクションに繋げるのがこのワークショップの目的だ。その事がわかれば、何かを説明するときにでも説明のしかたが変わってくるだろう。欧米の人はこうしたワークショップに慣れているだろうが、日本を初めアジア諸国ではまだ少ないので、やる価値はあると思う。   本当はこうした異文化理解ワークショップを学生時代にやるべきだと思う。現在の大学では留学生との交流サークルなどで行っているのだろうが、もう社会人になった人たちには会社内でぜひやって欲しい。外国人の多い職場の人は経験からこうした考え方の違いを感じ、自分なりの分析をしているようだが、多くの日本人にはそこまでの経験はまだない。個人の経験の積み重ねがそれぞれあるなら、それを繋げていくことでもっと大きな結果が得られるのではないだろうか。   日本で学んでいる留学生、元留学生の皆さんも「表面的な違い」をみつけるだけではなく、ぜひその次の「なぜ?」にまでいって問題を掘り下げ、その奥にある「考え方の違い」を見つけて欲しい。そして得られたものを共有して欲しい。それだけでは問題解決にはならないかもしれないが、テレビから流れる異文化間の衝突のニュースを聞くたびに、そして日本人、外国人の同僚の、ため息交じりのつぶやきを聞くたびに心からそう思う。   ----------------------------- 太田美行☆おおた・みゆき 1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 -----------------------------  
  • 2007.06.05

    エッセイ061:梁 蘊嫻 「三題噺:かわら版・はしか・カンヌ映画祭」

    落語には「三題噺」という、あらかじめ演題を用意せずに、寄席で観客からもらった三つの題目を噺の中に織り込んで、即興で落語を作るという噺家の技量を試す芸がある。明治時代、三遊亭円朝が「卵酒」「鉄砲」「毒消しの護符」の三つ、まったく関係のない言葉によって作りあげた三題噺「鰍沢」(かじかざわ)は今日でも広く知られている。あらすじを簡単にまとめておく。   父親の骨を納めるために、新助は身延山へやってきたが、帰り道に一軒の家に宿泊した。泊めてくれた女主人・お熊は金銭目当てで毒入りの『卵酒』を新助に飲ませる。そのあと、新助は隣の部屋で寝たが、『卵酒』に毒が入っていた話を耳にした。慌てて『お題目』を唱えて、転びながら逃げ出したが、鰍沢の川に落ちてしまう。幸いに新助は一本の材木を掴まえることができた。追いかけてきたお熊は『鉄砲』で新助を撃とうとするが、新助が再び『お題目』を唱えると、弾は命中しなかった。大難から逃れた新助は「お祖師様のご利益、たった一本の『お材木(題目)』で助かった」と感激する、という落ち。   噺としては単純だが、絶大な人気を呼んだ理由はやはり噺家の話芸にあずかったところが大きいだろう。さて、ここでも三題噺の形態に倣って「かわら版」、「はしか」、「カンヌ映画祭」の三つのキーワードでエッセイを書いてみたい。   一、かわら版    「かわら版」をキーワードとして選んだのは、ほかでもなく我々SGRAメンバーが意見を交換する場がこの「kawaraban」だからである。いつも「かわら版」のおもしろい話を楽しく拝読しているが、かわら版はもともとどのようなものだったのか。時代をさかのぼって見てみよう。    新聞のない時代、各種のニュースや、事実を題材とする浄瑠璃・各種の語りもの、小唄などを印刷した一枚摺りあるいは二枚ないし数枚のパンフレットなどが口頭で読み上げられて売られていた。こういうパンフレットは、街角で読んで売られたことから「読売」、または事件を早く伝えるために木版摺の一枚ものに仕立てられたことから「摺物」と呼ばれていた。「かわら版」と呼ばれるようになったのは幕末の頃であった。瓦に彫刻して印刷したことに由来する説もあれば、瓦が実際に使われていなかったという意見もある。また、京都の河原町の出来事を報道するものだから、「かわら版」になったという論もある。様々な説があって一定しない。いずれにしても、街中の風説を一枚のチラシに印刷して人々に売るという点ではニュースの原型といえるに違いない。現在でも時々街角で新聞の「号外」版が配布されるが、光景はあれに似ていると言えようか。    また、「かわら版」に載っている話は、地震・火事といった災害事情から、流行病、敵討ち、孝行美談、町中の風説、心中、怪談・奇談・珍談、神仏の霊験譚にいたるまで、実に多様である。では、一つ、二つ紹介しておこう。   二、「はしか」の流行    いま日本中で「はしか」が流行しており、大学は次々と休講措置をとり、大変深刻な事態になっている。実は江戸時代でも数年置きに「はしか」が流行していた。その様子はかわら版からも窺われる。たとえば、『はしか能毒心得草』(文久二年〈一八六二〉)では、「大根、ゆず、やきふ、毒なし、食すべし」「青梅を食すれば、はしかのうちへ入り男は淋病、女は長血しうちとなる」と、民間療法的な処方が書かれており、『為麻疹』(文久二年)では、その大流行の様子が「さてもないないつまらない、今度のはしかは逃れない、しかし命に別状ない、どこのお医者も暇がない、毒立て多くて食べ物ない、八百屋魚屋から売れない、船宿さっぱり乗り手がない、籠屋は夜昼休みない、……」と記述されている。医者に暇がなく、籠屋に休みがない、というわけで、よほど多くの病人が出ていたということが想像できるだろう。また、「はしか」の流行がすべての生業に影響を及ぼしたという実態をも窺い知ることができる。  そして、「つまらないヘイヘイ上下そろいまして十文で六せんでござい」という記載から、当時の人々は「はしか」流行の様子を知るために、こういった内容が載っている「かわら版」を購入していたことがわかる。このように、「かわら版」は江戸時代に町中の出来事を伝えるマスコミとしての役割を果たしていた。   ところで、「かわら版」には作り話もよく載っていた。たとえば、小判をくわえる猫の話。病気になった主人のために、猫は普段可愛がってくれる魚屋から小判をくわえてくる。主人はその話を聞いて激怒して猫を殺したが、その後魚屋は猫の屍骸を廻向院に葬り石碑を建てた、という話である。「猫に小判」ということわざを念頭にこのような話を作り上げたかどうかはわからないが、この話のように、当時の「かわら版」はいろいろな珍談をまるで本当の出来事であるかのように書くものが多々あった。今日のマスコミではこのようなでっち上げが許されないことは言うまでもない。   三、カンヌ映画祭    今日のニュースは真実を客観的に伝えなければならないと要求されている。しかし一つの事柄は異なる視点からの報道によって読者に異なった印象を与える。たとえば、最近盛り上がっているカンヌ映画祭についての報道。   北野武監督は映画祭60周年記念イベントに日本代表としてカンヌ映画祭に出席し、松本人志監督は「大日本人」と題する作品で監督週間部門に参加した。そして木村拓哉、香取慎吾はそれぞれ主演映画「HERO」「西遊記」の宣伝のため、駆けつけた。これに関する報道はたくさんあるが、以下対照的な記事を挙げておこう。    (1)毎日新聞  (木村拓哉は)今回のキャンペーンは映画祭とは直接関係なく、世界中から集まる映画買い付け業者にPRするために滞在中。成田からパリまでの便は、松本人志と一緒で、木村は「同じカンヌに行くんだ、と思ったらうれしくなった」と映画祭の空気を楽しんでいる。   (2)台湾ヤフー(2007/05/25 07:10” 記者:記者傅繼瑩/綜合報導) 「同じカンヌに行くんだ、と思ったらうれしくなった」と嬉しさを示している木村に対しては、松本がキムタクを見かけたかという質問されたときの反応は非常に微妙。松本はしばらく考えてから笑顔を絞り出して「そうだ。彼も行っていた。」そして「僕たちは同じ飛行機で行ったんだけど、向こうでは会わなかった。」と言った。(筆者訳)   以上の記事を比較してみると、『毎日新聞』は木村拓哉の映画PRに関心を寄せていることが明らかである。それに対して、台湾のヤフーニュースは松本人志がキムタクの存在を無視したことに注目しているわけである。つまり、前者はキムタクに好意的であるのに対して、後者は彼を貶めるような書き方になるのである。二つの記事はおそらくいずれも事実に基づくものだろうが、読者に発するメッセージの意図はまったく正反対といえる。今日では、あからさまにニュースを捏造することはない(と信じたい)が、事実に基づきながらも、読者にある程度の印象操作を行なうことはよくあるだろう。事実をどのように報道すれば、最も客観的な形で提示することができるだろうか。これ「はしか」し、どんなに優れたジャーナリストでも答えが出せない問題であり、それは将来もkawaraないだろう。   ------------------------------- 梁 蘊嫻 (りょう・うんけん☆Liang yunhsien)   台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 -------------------------------
  • 2007.06.03

    エッセイ060:高 煕卓 「赤い悪魔をめぐって」

    まだ5月だが、時折の朝夕の冷たさを気にする母親のいうことには聞くふりもせず、いつも半袖の赤いシャツだけを引き出す、うちの5才の女の子の拘りがこの話のきっかけを作った。   毎朝、保育園に行く時間になると、彼女の「デ-ハンミングください」という声と、「それはまだ乾いてないよ。今日は別のものを着たら?」という母親の声が交錯する。だが、結局、彼女の粘りが効き、そのシャツはもう3枚に増えている。   そのシャツには真っ赤な生地に白い文字で“Be the Reds!”と書かれている。が、彼女はそれを「デ-ハンミング」と名づけている。   ご存知のように、そのシャツは、サッカーの2002年ワールドカップの際、韓国代表を応援する市民応援団「赤い悪魔」こと、「レッド・デビル」のユニフォームである。また、彼女のいう「デ-ハンミング」とは、その応援団が連呼していた韓国のこと「大韓民国」の韓国語音である(国号の正式名ではあるが、私は妙にその「大」の字が気になる)。   2002年当時は、サッカーファンはもちろん、ふだんサッカーに関心のなかった人々でもそのユニフォームを着て、また「デ-ハンミング」を連呼していた。が、その独特な祝祭のような雰囲気を彼女もどことなく覚えたのだろう。   だが、今日の話は、サッカー応援をめぐる社会的現象そのものではなく、国際的にも注目を集めた、「赤い悪魔」を中心とした一般市民による競技後の自発的な後始末(掃除)についてである。   これまで熱狂的なファンによる欲望の恣意的な排出口としてクローズアップされがちだったサッカー応援だったが、その後の自発的な後始末といった公共的行為が伴われたことによって、2002年のサッカー応援はこれまでにない注目を浴びていたことは記憶に新しい。その行為は成熟した市民意識の表われだという、外国とくに過激な応援団の問題で悩んでいたヨーロッパの国々のメディアからの評価に韓国の人々は歓呼しつつ、自らを称えていた。私自身もその現象に韓国社会の一つの変化を読みとろうとしていた。   が、私自身知らなかった、これについての興味深い逸話を、ある大学生のブログから知ることができた。そこには日韓の若い人たちの間における、意図せざる交流の一つの有力なモデルが示唆されているように思う。   実は、韓国の一般市民による競技後の自発的な後始末のきっかけは、1998年フランス・ワールドカップの地域予選のために1997年東京で行われた試合まで遡っていた。その試合で韓国代表チームが、前半に1点を先制されながら、後半に2点を入れて逆転しただけに、韓国のメディアは「東京大捷」(東京での大きな歴史的勝利?!)とまで書きながら、その逆転勝利に酔いしれていた。だが、現地で直接応援をしていた韓国の「赤い悪魔」たちは、ただその結果に歓呼ばかりすることはできなかったようである。   彼らは、歓呼後のゴミ場と化した自らの応援席とは違って、敗北したにもかかわらず、競技の後、自ら黙々と後始末をして退く日本の若い人々の姿を目の前にして、大きな衝撃を受け、「ゲームでは勝ったが、市民意識では負けた」と恥じていた。5年後のソウルで示された、あの「市民意識」の表われは、日本の若い人たちの刺激によるものであったのである。   その背景からみても、また「他者」の視線が消えた2006年のドイツ・ワールドカップ当時のソウルでの狂乱ぶり(逆戻り)からも判るように、2002年韓国の人々が示していた「市民意識」とは、それほど普遍的なものとは言いがたく、まだ「韓国人」としてのプライドや恥といった意味の制限的な域を脱していないかもしれない。   とはいえ、韓国人にとっての「日本」といった方程式に興味深い変化が起こっていることには注意したい。ごく制限された人々の内輪で伝わる少数の日本人についての物語を別にして、これまで韓国の人々が「日本」から恥を感じ、それがきっかけになって自らを省察的に振り返られた場面はないといってもよいのではないだろうか。それだけに、1997年の東京からの学びと2002年のソウルでの実践は貴重な体験のように私には感じられたし、また日本の若い人々にも知ってほしいものである。   これまで「日本」とは、韓国人自らのアイデンティティを確認し、それに対する闘争心や恐怖心を扇ぐのに最も適した否定的な記号であったことは論を待たない。たとえ産業競争のため日本から技術を習うとしても、そこに尊敬心は期待できるものではなかった。   だが、明らかに時代は変わりつつある。   もちろん、表面的には依然として従来の方程式が大勢を占めているかの様相ではある。しかし私は、たとえ制限的なものだったとしても、恥じるべきことに恥じ、習うべきことを習った「赤い悪魔」たちの例にも、その事実を自らのブログに載せ、より健全なる市民意識に向けた省察を求めたある大学生の例にも、韓国社会における底流の変化を感じ、また信じる。   ------------------------------------ 高 煕卓(こう ひたく、Ko Hee-Tak)   2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------
  • 2007.06.02

    一年後、わたしは、別の会社でアルバイトをしていた。新しい会社で働いていたある日、同僚が急に「フスレ君、下北沢にモンゴルパブがあると聞いたんだけど、連れて行ってくれない?」と言いだした。   「下北沢にモンゴルパブがあると聞いたことはありません」とわたしは冷たく断った。「モンゴルパブ」という言葉を聞いたとたん、気にはなるが、日本でモンゴルパブがあるということは知らなかったし、仮に知っているとしても、わたしは行かないと思った。なぜかというと、昼間はレストランとして営業しているバプが存在しているとしても、パブは「人間をむしばみ堕落させる」という考えは変わらなかったからだ。   2000年の夏休み、わたしは故郷に帰って、古いモンゴルについての資料調査をおこなった。オルドスで調査した際、自分が働いていた芸術大学の、昔の教え子とあった。彼女はいろいろ案内してくれただけではなく、夕方に、彼女の友達を集めて、ご馳走してくれると言った。   「場所は、先生が決めてください」と彼女は言ったが、土地に不案内なわたしは「場所は任せます」と答えた。 「モンゴルパブはどうですか?」と彼女は聞いた。 「バブはダメ、普通のレストランがいい」とわたしは言いながら、「オルドスにまで、パブが作られ、しかもモンゴルパブなんて、内モンゴルはほんとうに変わった」と思った。   その日の夕方、あるレストランで、彼女は十数人を集めて、豪華な料理をご馳走してくれた。同じ世代の、彼女の友達のなか、地元の官僚になった人もいるし、大金持ちの商売人や医者になった人もいた。ほとんどは個人の車を持っている。   食事が終わって、9時ごろだったようだが、空はまだ暗くなっていなかった。彼女は、仲が最も良い女性の友人一人を残して、ほかの友達を帰らせた。そして、「時間はまだ大丈夫でしょう。もう一つの良い店があります。一緒に行きましょう」と言った。   真夏で、資料調査の目的もほぼ達成できたので、次のレストランに行ってもかまわないと思って、わたしは承諾した。   タクシーに乗って、次の店に到着した後、看板も見なかったわたしは、彼女たちと一緒に中に入った。この店の雰囲気は、少し独特であった。テーブルごとの上の小さな照明は明るいのだが、店全体としては、暗い感じがするし、男の若い歌手二人が欧米の流行歌を歌っていた。店には、冷房も付いていて、とても涼しく、また、大型のテレビが設置され、欧米の映像を流していた。店長は若くて美しいモンゴル人の女性で、彼女たちをよく知っているようだった。角のほうのテーブルを選んで三人で坐った。わたしはビールとつまみを注文したが、彼女たち二人は、わたしの名前の知らない飲み物を注文した。   話しながら、急に、よく知っているあるメロディが耳に入ってきた。二人の歌手は、わたしが大好きな、モンゴル国の有名なバンド“Hurd”の歌「戦士の心」を歌い始めた。歌は確かに上手い。感情を込めた歌だったので、とても感動的であった。聞き終えて、「この二人は何という名前ですか?プロの歌手ですか?」とわたしは尋ねた。彼女はその二人の名前を教えてくれた。わたしが「戦士の心」が好きだということを知った彼女は、店長に何か言って、歌手は再びこの歌を歌ってくれ、お客さん全員が拍手した。その後も、その二人はHurdの他の歌を歌いつづけた。   2時間ほど、気楽に話しながら、歌を聞いたわたしは、資料調査の辛さと夏の暑さを完全に忘れてしまった。店を出た際、「この店の名前は何ですか。チャンスがあったらまた来たい」とわたしは聞いた。 「デオニソス。モンゴルパブですよ」と彼女は微笑みながら言った。 「モンゴルパブ?!」と、わたしは驚いたが、このようなパブは好きだと思った。 「ここに来るお客さんはみんなモンゴル人ですよ」という彼女の友人の話を聞いて、さっき、店の中のお客さんは確かにみんなモンゴル語で話していたことを思い出した。   忘れられない夏の夜だった。   去年モンゴル国ウランバートルに行った際も、日本人の先生の紹介で、スフバートル広場の傍のパブに行った。そのパブも完全にレストランなので、雰囲気も良かったし、料理も美味しかった。ただし、値段がすこし高かっただけである。わたしは日本のパブとモンゴルのパブについて話したら、その先生は「モンゴルのパブは居酒屋だよ、ヨーロッパのパブは飲み屋で、日本のパブだけはちょっと特別だ」と言った。   夏がまた来た。2000年夏の、オルドスのモンゴルパブでの経験を、また、思い出した。   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------
  • 2007.05.31

    エッセイ058:ボルジギン・フスレ 「モンゴルパブ(その1)」

    1998年4月、日本に来た翌日の朝、わたしは親戚に連れられて大学に行った。親戚の家から駅まで10分ほど歩くのだが、途中、ネオン・サインがまたたく建物の前にたくさんの人がならんでいるのを見て、親戚は足を止めて、「日本に来て、3種類のところに行ってはいけない」とわたしに言った。   「あれはパチンコです」と、親戚は、その建物を指しながら、詳しく説明してくれた。「日本ではどこにもパチンコ屋があります。お年寄りや若者、主婦、学生など、さまざまな人がパチンコに熱中して、病みつきになっています。一部の人は仕事もせず、毎朝、起きたらパチンコに行きます。みんな幸運を当てにする考えで行くのだが、実際ほとんど負けて、すっからかんになります。それでも、どこかからお金を手に入れて、すぐ続けてパチンコに行って賭けます。結局、家計を傾けたり、離婚したり、悲しい末路になってしまいます。あなたは、絶対、こんなところに行かないでね」。   「はい。パチンコには絶対行きません」とわたしは真剣に答えた。   「パチンコだけではなく、競馬や競輪など賭博と関係するところは一切行ってはいけない。故郷から来た人の中で、競馬に賭けて負けてしまい、あっちこっち借金して、結局、千万円も超える、背負いきれないほどのお金を借金して、返済もできなくなっている人もいます。彼は、現在、不法滞在で一生懸命働いていて、返済しようとしていますが、難しいですよ。」と、歩きながら、親戚は教えてくれた。   「第二に、スナックやパブにも行ってはいけない」と、親戚は続けて、第二の約束を要求した。「“スナック”って何ですか」とわたしは聞いた。中学生から日本語を独学で勉強し始めたわたしは、「パブ」という単語の意味はわかるのだが、「スナック」という言葉は習ったことはなかった。   「あれだよ」。ちょうど目の前に、ドアにも窓にも、中を見られないようにさまざまな顔料が塗られた、雰囲気が特別な、ある小さい建物があった。親戚の説明はとても簡単だったが、わたしはすぐ「スナック」はだいたい「パブ」と同じ物であると理解した。幼い頃から、毛沢東式の社会主義教育と厳しい家庭教育を受けたわたしには、「パブ」という物は、アメリカのような資本主義国家や中国国民党の社会のなかでの、人間をむしばみ堕落させる、汚い産物であるというイメージをもっていた。こんなブルジョアジー的な腐り果てたところには行くわけはないと思ったわたしは、「はい。スナックやパブには絶対行かない」と、迷わず約束した。   「第三に、風俗と関係するところには絶対、行ってはいけない」と、親戚に第三の約束をさせられた。スナックとパブに行かないと約束したわたしは、当然、風俗にも行くわけはない。   まもなく、池袋で、最初のアルバイトを見つけた。支配人は、中年のおしゃれな女性の方で、一日めは、わたしと一緒に働いてくれた。彼女は仕事が速く、態度もとても親切で、やさしかった。その後、彼女は何回か、わたしの仕事を手伝ってくれた。「日本の支配人はやり手で、優しいね」とわたしは思った。   約二週間後、午前中の仕事を終えて、昼休みになって、休憩室に入ったところ、事務の方がやってきて、「さっき、支配人がフスレさんを探していたよ。フスレさん、はやく、“チューリップ”(仮名)に行って。支配人はそこで待っているよ」とわたしに言った。“チューリップ”は、会社から少し離れたところにあったパブの名前だ。   会社に来る途中、いつもそのパブの前を通っていた。でも、なぜ、あそこでわたしと会うのか? 日本に来たばかりだが、留学生の先輩たちはすでに、日本の女性のさまざまなことについて、教えてくれていた。「もしかして、支配人がわたしに…?」とわたしの心は千々に乱れ、どうしたらいいのかがわからなくなって、心配で落ち着かなかった。   「場所はわかるよね、早く行きなさい。吉永さんも一緒に行ってね」と、事務の方に催促された。吉永さんは職場の60代の先輩で、「彼女も一緒に行くなら、大丈夫かな」とわたしは少し安心したが、やはり「ヘン」と思った。慌てて、吉永さんと一緒に“チューリップ”に向かったわたしは、短い時間で、いろいろなことを真面目に考えた。「パブには絶対行かない」という約束があっただけではなく、問題は、「自分の上司である女性の支配人に呼ばれて、パブで会うことは、どんなことなのだ。万が一、…」とわたしは思いながら、仕事を辞めることまで覚悟をした。   不安のまま、吉永さんの後について、“チューリップ”に入ったわたしは、頭を下げて、まわりを見る勇気もなかった。支配人と挨拶して、椅子に座った。「何か食べたい」と支配人がメニューをわたしに渡した。メニューには、カタカタで書かれた料理名が多く、意味があまり分からなく、勝手にある安い値段の付いている料理名を指さして、「これにします」とわたしは言った。「これはサラダだよ。これだけでいいの?」と、支配人がそれを見て笑って、代わりに別の物を注文してくれた。料理を待っている間、「フスレさんはよく頑張っているね。まわりの評判もいいよ。頑張ってね」と支配人はわたしを誉めた後、モンゴルのさまざまなことについて聞いた。話しながら、わたしはまわりの様子を見た。部屋のなかは明るく、みんな食事をしているだけで、普通のレストランとあまり変わったところはなかった。「これってパブ?」わたしは不思議に思った。結局、無事に食事も終って、お酒も飲まずにすんだ。お金は支配人が払ったが、日本のパブは自分の想像とまったく異なっていた。   その日、自宅に帰って、夕食の後、親戚の家に行った。「ごめんなさい。今日、パブに入ってしまった」と、約束を破ったわたしは、親戚にあやまった。親戚がこの言葉を聞いて、びっくりして、「なに、あなた…」と彼女はたいへん怒った。しかし、昼のことについてのわたしの詳しい説明を聞いた後、彼女はたいそう笑った。この経験を通して、わたしは、日本では、「一部のパブは昼には普通のレストランとして営業していること」と「上司が部下におごるのは普通であること」がわかった。今、考えてみると、当時、支配人にそのような気はなかったのに、わたしが誤解して、好かれていると勝手に思い込んだことにすぎなかった。   (続く)   ------------------------------- ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。 -------------------------------
  • 2007.05.29

    エッセイ057:範 建亭 「我が家の“お手伝いさん”」

    帰国してもうすぐ4年になる。上海の生活は日本に比べて不便なところが少なくないが、便利なところも結構ある。家事の“お手伝いさん”はその一つである。   中国の大都会では、お手伝いさんを雇うことはかなり普及しており、ごく普通の一般家庭にもよく見られる。その背景として、都会に住む人たちには仕事で忙しく、また核家族であるから家事に困っている人が多く、その一方、都会にやってくる地方出身の出稼ぎ労働者には、特別な技能を持たない女性が少なくないという事情が挙げられる。そこで、多くの出稼ぎ女性労働者は、家事の“お手伝いさん”という特殊な職業に従事していくのが現状だ。   家事のお手伝いと言っても、その雇用形態はほとんど非正式なものとなっている。家政婦紹介所あるいは口コミでお手伝いさんを紹介してもらうが、働く時間、仕事内容、時給などは双方で相談し合って決める。そのメインの仕事はトイレ、キッチンと部屋の掃除であり、ほかに洗濯、料理の仕度、子供の世話などもある。時給は上海の場合、現在7元(約100円)が相場であるが、2-3年前には6元であった。   我が家もこれを利用して、毎週2回、計5時間程度でお手伝いさんに来てもらっている。そのお陰で、80平米ぐらいの部屋の掃除は自分たちでしなくていいから、生活はかなり楽になった。しかもその代償は月に140元ぐらいしかないから、経済的な負担にもならない。だが、お手伝いさんの働きぶりなどに少し不満もある。一番困るのは急に辞めることだ。   これまで、二年未満のうちに我が家にやってくるお手伝いさんは4人も入れ替えた。辞める理由はさまざまで、彼女たちの生活事情などをよく反映していると思う。最初の彼女は家政婦紹介所で見つけた。30代で、愛想がよく、家事の仕事もテキパキこなしたが、ある日から突然来なかった。彼女からの連絡はないし、こちらから連絡してもなかなか取れない。やっと上海にいる彼女の夫が捉まったので事情を聞いたところ、なんと田舎にいる息子のことが心配になって急に帰郷したという。   1ヶ月ほど待っても彼女が戻ってこないから、紹介所を通じて2番目のお手伝いさんを探した。今度の彼女は40代で、旦那も子供も一緒に上海に出稼ぎしているから、帰郷する心配はなかった。だが、3ヵ月後にやむをえない事情で彼女も辞めてしまった。それは、彼女が下宿しているアパートを建て直すため、遠いところに引っ越さなければならないということであった。幸い、彼女からすぐに知り合いの仲間を紹介してもらった。   3番目のお手伝いさんは一番若く、明るい人であり、時には家内の話し相手にもなっていた。だが、彼女も数ヵ月後に辞めた。それは妊娠したので仕方がないが、びっくりするのは、彼女にとっては3番目の子供で、理由はどうしても男の子がほしいという旦那さんからの圧力であった。もともと彼女は「一人子」政策に違反しているから、田舎から上海に逃げてきたという事情もある。   今度の4番目のお手伝いさんは来てからもうすぐ3ヶ月になる。彼女は40代で、これまでのお手伝いさんの中で一番気遣う人であるから、長くやってもらいたいが、そんな保障はどこにもないと思う。   -------------------------- 範建亭(はん・けんてい ☆ Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------