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エッセイ074:孫 軍悦 「足ツボと足のツボ」

今年の四月から、二つの大学で非常勤講師として中国語を教えるようになった。これまで大学院で先輩たちに「若手」と目されていた私だったが、平成生まれの大学生の前では、日々自分の「古さ」を突きつけられていた。確かに、いまだに携帯を持たず、活字メディアに固執しているのだから、時代遅れといわれても仕方がない。しかし、私が感じたもっとも大きな「ジェネレーションギャップ」は決してファッションや趣味、話題といった外在的なものではなく、むしろ知覚・感覚の様式や物事を認識、思考する回路の違い、つまり文字通り「人間」そのものの違いである。

 

というのは、テレビやゲーム、パソコン、携帯に囲まれて育てられた世代の感覚様式は驚くほど視覚に頼っている。多くの学生が私に、話した内容を逐一黒板に書くように求め、耳だけでは追いつくことができない。他人の話を聞くのも苦手のようで、何人も同じ質問を繰り返すこともしばしばあった。集中できる時間が短く、時には小学生のように手を挙げてトイレに行ったり、前に座った人にちょっかいを出したりする。しかし、彼らは決して不真面目でもなければ、中国語が嫌いというわけでもない。男子学生でもきれいなノートを作り、絶えず辞書を調べている。問題はそこなのだ。私が不思議に思うのは、本来練習問題に出てくる言葉はすべて習ったものにもかかわらず、彼らはいつもそのつど振り出しに戻って遂字に(←?)辞書を調べる、ということだ。これは、単純に復習をしていないため、覚えていないと理解してもいいが、その学習スタイルはどこかパソコンに似ていないのだろうか。つまり、そのつど、パソコンを立ち上げ、必要な情報を検索するというスタイルだ。しかし、パソコンから見つかった情報は常にそのときそのときの必要性に応じて見つけ出されるもので、決して体系をなしていないのだから、彼らの頭に取り入れられた情報も散乱としていて、記憶するために必要な体系化という作業がなされていない。さらに、こうした、全体像が分からないまま、そのつどの需要にあわせて情報を取り出す今日の学生たちの物事を認識する方法は、断片化された情報を次から次へと更新していく「断片性」と「速報性」という「世論操作」の基本とほぼ同じ構造を持っていることも、決して見過ごせないだろう。

 

中国の若者たちも例外ではないはずだ。世界的にますます均質化された都市生活の中で培われた感性や知性と、中国の政治、経済、社会的状況という土壌とが、いかなるダイナミズムをなしているのかを考えない限り、いわゆる「愛国主義教育」による洗脳の魔術を誇大視し、インターネットに飛び交う情報の内容の虚実に目を奪われるだけでは、日中関係の未来が一向見えてこないのではないか。

 

このような疑問を持って、最近「反日」デモに関する過去の新聞をいろいろと読み漁った。1908年の第二辰丸事件、1915年の山東問題、1919年の五四運動、1920年代の旅大回収、五・三〇事件、山東出兵、済南事件、1930年代の万宝山事件、満州事変・・・・・・そして、2005年の「反日」デモ。こうして新聞報道や学者の議論を追っていくと、暴徒化した学生の暴力的行為、戦々兢々とする邦人の恐怖、反日愛国主義教育、メディアの煽動、政治家の権力闘争、山積する社会問題、くすぶる群衆の不満などなど、デモの様子についての描写もデモ発生の背景を分析する視点も驚くほど類似していることに気付く。もっとも、それぞれのデモが発生する特殊な歴史的背景を無視し安易に表層的な類似点を抜き出して比較するのは禁物である。だが、あらゆる「現状」に基づいた分析に確かに一つだけ変わっていない要素がある。それは、プロパガンダに洗脳され、政治家に利用され、メディアに煽動されやすい、かくも純真な怒れる青年たちの気質である! すなわち、人間だけは、変わらないものとされているのである。

 

ここで、息抜きに最近ツボにはまった笑い話をちょっと紹介しよう。「シンブルー・ライン」というイギリスのコメディ・ドラマのなかで、主人公のファウラ警部の同居者パトリシャは「指圧マッサージ」に夢中になって、足裏に頭や心臓や肝臓など身体のあらゆる部分に対応するツボがあって足ツボマッサージがどんなに身体にいいのかをこんこんと説いていたら、ファウラ警部はこう聞いた。「足のツボはどこだ?足が疲れた時どのツボを押せばいい?」そう、足裏には足のツボがないのだ!と同時に、足の疲れをほぐす時にいつも足全体をマッサージしているのだから、足裏にあるすべてのツボがまた足のツボでもあるのだ。

 

やや強引な展開になるが、政治学や歴史学や社会学、経済学など人文科学の個々の研究分野と人間との関係も、足裏にあるさまざまなツボと足に効くツボの関係と似てはいないか(私の発想のすべての源泉はこうした日常的なたわいのない経験であることをお許しいただきたい)。つまり、われわれはそれぞれの研究領域において、具体的な政治的、歴史的、社会的、経済的事象に気をとられるあまり、全ての人文科学は、根源的に人間に関する探究にほかならないという最も重要なことをつい忘れてしまうのではないだろうか。

 

歴史家リュシアン・フェーヴルが明確に定義している。「歴史とは人間を対象とする学問」だと。さらにこう言う。「生きるとは変化することにほかならない」。「科学」と冠するあらゆる学問において、それでも人間を一つの常数としてではなく、常に一つの変数として細心の注意を払いながら扱うべきだと主張する私はやはり「古い」人間なのだろうか。

 

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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