SGRAかわらばん

エッセイ078:高 煕卓 「他者への想像力-日本と韓国の明るい未来に向けて」

2004年の初夏のある日、「冬のソナタ」の虜になったかのように振舞う自分の母親の変貌ぶりを伝える、教え子のある女子大学生の話ではじめて私は日本での「韓流」ブームのことに気づき、深く考えさせられた。マス・メディアを通じてよく伝えられる、日本と韓国の間で繰り返されてきた「嫌韓」と「反日」といった従来の否定的な相関関係の側面から見て、一つのテレビ・ドラマをきっかけにして日本の人々の間で沸き起こった韓国人や韓国文化への関心の高まりは尋常なものではない。こうした社会現象は両国の人々における思想的基底の変化とそれに伴う相互関係における構造的変動の始まりを意味するものではないだろうか。

 

○原理との距離と他者との距離

 

私は近世東アジアにおける朱子学(新儒学)を中心とした思想的変化の推移に関心をもっているが、近代に始まったかのように思われがちな日韓両国の否定的な相関関係は、じつは両国の近世における思想的変動のなかでその芽が出来上がっていたことに注意する必要がある。

 

朝鮮王朝時代の朱子学はその王朝の建国理念で、しかも唯一の体制教学であった。そこでは官吏選抜システムとしての科挙制度の実施によって朱子学的教養は道徳面だけでなく政治・経済的特権と結びついていた。その分、18世紀後半になると、当時の全体人口の約80%がいわば支配的な身分(「両班」)として登録されていたほど、人々を引きつける力が強い。それだけに朱子学は宇宙秩序の道徳的な原理(「理」)に人々をよらしめ、いわば公務員倫理としての性格を強めていった。いかに私的欲望を抑制して公的使命感を高めるかがその最大の目標だったといえる。

 

だが、現実はそう簡単にはいかない。そこでは理想的な観念と実際との分裂といった偽善や欺瞞が起こりやすく、またそれへの恐怖から生じるドグマに陥りやすい。大雑把にいって、朝鮮思想史はその偽善や欺瞞に対して道徳的な原理との距離への問いをもって戦われた壮絶な思想闘争の歴史といえるかもしれない。

 

ところが、徳川日本では朱子学は朝鮮の科挙制度のような制度的装置にもとづいた体制教学でもなければ、仏教や神道的伝統が先行する思想世界のなかで独占的な地位が保証されたものでもなかった。またその分、その役割や担い手から見ても、朱子学は政治世界よりは都市庶民などの生活世界に近い存在であった。だが、その相対的に不利な条件のためにかえって、じつは朱子学はそれ自身の思想的発展だけでなく、先行の思想や宗教と交わりながら、多様な思想の豊かな展開の土壌になっていった。

 

一般にはあまり知られていないが、江戸時代において朱子学に志した多くの人は朝鮮朱子学の泰斗と呼ばれた李退渓系列の学風に大きく影響を受けていた。だが、やがてそこに孕まれていた原理主義への傾向と生活世界との不親和性に気づき、それを本格的に修正したり変容させたりする動きが民間の儒学者のなかで起こる。その思想運動の代表の一人である伊藤仁斎(1627-1705)が一方では朱子学に付きまといがちな他者の不在と自己中心的な独断や専横を批判しつつ、他方では他者への承認や寛容にもとづく対話的な社会形成の道を「公共」概念で表わしたのはその典型的な例である。民間でのこうした相対的に自由な思想的模索が東アジアの思想土壌のなかではじめて他者の発見につながっていたのである。

 

○超越者のあり方

 

ところが、必ずといって良いほど、物事には光と影の両面があるのが常である。他者の発見が朱子学修正のなかで生み出されていたために、民族的な自覚や危機意識と絡む場合には、その他者発見の可能性は薄まれ、かえって自己中心的な独断や専横の問題を民族的「外部」として記号化された朱子学に不法投棄してしまうようなことが起こる。先述の伊藤仁斎に強い影響を受けながらも、彼とは異なり、「漢意」の排除を通じて民族的純粋にもとづいた共同体形成の道を別の「公共」概念で打ち出した国学者の本居宣長(1730-1801)がその典型であった。

 

だが、本居宣長による民族的純粋への追求は応分の代償を伴う。朱子学においてその強い公的使命感を根底で支えていたのは、宇宙秩序の道徳的な原理として「理」であり、それが人においては「良心」とされるものであった。しかもその朱子学批判者の伊藤仁斎においても、他者への承認や寛容といった倫理的命令は超越者としての「天」に拠るものであった。ところが、本居宣長においては、その超越者としての「天」は神話に裏付けられた「天皇」にすりかえられ、「天」や「良心」に内包されていた普遍的可能性は民族的特殊性に閉じ込まれていった。

 

周知のように、日本近代における民族国家の建設とその後の帝国主義への過程は韓国の悲劇と連動した形で進行したが、そのなかで、加害者の嘲笑と被害者の怨恨にもとづいた「嫌韓」と「反日」といった否定的な相関関係と自民族への閉じこみといった方程式が固まっていったのである。

 

○日本と韓国の明るい未来に向けて

 

「冬のソナタ」から触発された日本での「韓流」ブームは、単に「韓国」という記号に収斂するものではなく、その人や文化に芽生え始めた普遍的な眼差しの発見とそれへの共感の表われだったのではないだろうか。その背後に、それまでの直截的で執着的な自己中心主義の韓国人像とは異なる、真の愛や尊敬は他者を視野に入れ自己を謙虚にしたうえでの配慮に目覚めた韓国人たちの発見が横たわっていた気がする。その意味でその社会的現象は両国ともに、民主主義と経済発展をその背景としながら、従来の両国をめぐる歴史的経緯に囚われぬ、同じ人類として共感できる普遍的なものへの素直な共感が両国の人々の間でも流れ始めたということを象徴しているかもしれない。「文化」を媒介にして多様で豊かに行われる民間交流は、今後のさらなる技術的発展とともに、両国の人々の間で真の隣人としての和解をもたらす重要なチャンネルになるに違いない。

 

☆この文章の英語版は、(財)国際経済交流財団発行の「Japan SPOTLIGHT」(http://www.jef.or.jp/jp/journal.html)最新号に掲載されます。

 

————————————
<高 煕卓(こう ひたく)☆KO HEE-TAK>
2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
————————————