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エッセイ075:デマイオ・シルヴァーナ「伊太利亜王国海軍と日本」

1866年に日伊修好通商条約が締結された後の日伊関係については、1868年以降イタリアで出版されている『リヴィスタ・マリッティマ海事雑誌』(Rivista Marittima)に掲載された日本に関する海軍司令官報告書や諸論文などを読んでみると新しい発見ができる。

 

当時のイタリアでは、蚕糸業が蚕体の病気の蔓延により大きな被害を受けており、海外から良質の蚕種を輸入する必要に迫られていた。王国海軍が日本へ海洋遠征を開始した理由は、まさに日本から蚕種輸入を図るためであった。

 

しかし、伊太利亜王国海軍は条約に基づく開港地(神奈川、函館、長崎)以外にも、湾岸測量を行いつつ、入港可能な地点を探索していた。1872年にG.ロヴェーラ艦長率いる軍艦ヴェットル・ピサーニ号が日本に到着した。その軍艦のデ・ヴェッキ大将は下士官に水路学を教えながら、例えば脇浜の図面を制作している。図面制作を進めていたイタリア人は日本人たちから大いに歓迎され、乗組員たちは、その日本人たちに艦内見学までさせている。日本人たちの鋭い質問に圧倒されたと回想するロヴェーラ艦長は、下士官の淡路島・三原での訪問について興味深い指摘をしている。

 

「三原に住む日本人は外国人に多大な関心を示すところからみて、三原の住民は初めてヨーロッパ人に出会ったと推測される。イタリア人の士官が綿の商売で繁栄していた三原の目抜き通りを歩いたとき、前も後ろも日本人がついてきたが、全部で千人はいたであろう。三原を見学することを事前に町の人に連絡していたわけではなかったので、それら日本人は誰かに命じられて我々イタリア人を歓迎していたわけではなかった。」

 

更にまた、開港・開市でなかった「Yamada」という地名の付けられた場所について、ゴヴェルノーロ号のアッチンニ艦長による1873年の記録につぎのような記述があるり、伊太利亜王国海軍の士官、乗組員たちが、開港・開市以外の土地も訪れていたことがわかる。

 

「入り江には小さな日本の汽罐船があった。ポルチェッリ大尉と少尉の努力にもかかわらず、日本人と意思疎通できなかったため、その舟がそこで何をしていたのかはまったく分からなかった。その入り江については横浜で何人かの外国人の全権大使が話していた。しかし、小さな入り江なので大きな舟が入れない。さらにまた、海岸には小さな村しかなく、商売に適していないと思われる。そこからさらに6マイルほど離れた場所にある仙台市の方がある程度商業が発達しているため、面白いかもしれない。」

 

以上明治初期の伊太利亜王国海軍による海洋遠征にみる日本とイタリアとの《出会い》について若干みてきた。ここで参照した資料は、いずれもイタリア側から“テクスト”として記述された見聞録である。日本側において伊太利亜王国海軍についてどのように記述されたか文献資料を比較考量することも必要となってきている。

 

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<シルヴァーナ・デマイオ ☆ Silvana De Maio>
ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。
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