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エッセイ079:オリガ・ホメンコ 「ワレンティナ」

大学の三年生の時だった。彼女がそのときに何歳だったかよく覚えていない。三十歳くらいだったと思う。彼女は礼儀正しい可愛い女性で、自分のおかあさんが大好きだった。ほとんど毎週末、おかあさんが住んでいた田舎に、都会のお土産が入ったかばんを両手に持って帰っていた。その中には必ずパンが入っていた。なぜならおかあさんが住んでいた遠い田舎の町には、おいしいパンを売っている店がなかったから。それで、ほとんどの週末に都会のおいしいパンをおかあさんに持っていった。

 

その村はなぜか「何もない村」という名前だった。17世紀にコザックたちがそこに住もうと決めたとき、そこは何もない野原だったので、「何もない村」と名づけた。野原はきれいな草花がいっぱいだったのだから、「かみつれ村」とか「矢車菊の村」とでも名づけられたのに・・・

 

マリアおばあさんの家はドライフルーツで香っていた。毎夏、庭でとれたりんごやなしからドライフルーツを作っていたから。窓際にあった柏の茶色の椅子の涼しい香りもしていた。私が子供のころ、この家に初めて入ったときから、その香りに満たされていた。昔の家の香り。マリアおばあさんは私の祖母で、ワレンティナは私のはとこだった。

 

ワレンティナは微笑みがきれいで、美しい声の女性だった。そして貴族的なきれいな名前で、きっと素敵な将来が訪れるに違いないと思われていた。彼女はこの小さい「何もない村」で生まれ育ち、キエフの出版関係の大学を出て仕事を始めて都会に住み着いた。だが田舎にほとんど毎週末帰っていた。彼女の友達は同じ学校を出て同じ出版社の仕事をしていたが、そのうち若い男の人と一緒に田舎に帰るようになって、それから結婚して、子供も生まれて、家族と一緒に里帰りするようになったのだけど、彼女はいつも一人だった。

 

ワレンティナは友達の結婚式や誕生日会にもほとんど一人で出席していた。知り合いに「誰かを紹介しましょうか」といわれたとき、彼女ははにかんで微笑んだだけだった。彼女の知り合いの男性は「背が低い」か、「面白くない」か、「性格合わない」人ばかりだった。選べる男がいないという事情だった。

 

彼女の父親には一度も会ったことがない。だが、マリアおばあさんにご主人の話を聞くと「はい、結婚したことはありますよ。でも、もういいんだ。もう<それ>は経験したのだから」と答えた。子供の私にとってそんな言い方は不思議に思えた。私の両親の「結婚」は結構いいものだったので、マリアおばあさんは違うことを経験したと、そのときは思うしかなかった。

 

ワレンティナは私の家によく遊びにきていたが、私が大学三年生のある日、急に病気になり、仕事もやめなければならなかった。彼女が入院していた病院は放射線治療で一番良い病院だった。病院の正面には、かわったモザイクの絵があった。放射線の機器を手にした男性が驚いた目でその光を眺めている。ソ連時代の絵だが、当時、「人間は自然を支配した」という考えがはやっていた。つまり、人間の手によって、放射線を支配し、治療に使うという意味の絵だった。その絵に描かれている男性は、すごく驚いているように私には見えた。彼はまだ「自然を支配した」ということを心の中で信じていない目をしていた。

 

彼女はその病院で亡くなった。白血病だった。

 

最後に見舞いに行った時、家族は「何でこんなに若い人が死ななければならないのか」という怒りと悲しみの気持ちでいっぱいだった。だが彼女は皆に向かって「泣かないでください。死ぬことなんか怖くない。みんなのことを大好きだから」とかぼそい声で語った。彼女は大変な病気に苦しんでいたのに、勇ましい心の女性だった。だが突然部屋に入ってきた若い看護婦は「ワレンティナ!泣き虫!泣くのをやめなさい。注射ですよ」とがみがみ言った。あまりに乱暴な態度だったので、この短い白衣とハイヒールの若い看護婦を殴りたいと思ったほどだった。

 

亡くなる前にワレンテイィナはひとつのお願いをした。葬儀のときに好きなひとからもらったネクレスを首につけること。それで彼女に好きな人がいたとわかった。誰も彼を知らなかった。葬儀の時、古い習慣に基づいて、一度も結婚してない女性はウェディングドレスやベールを着て棺にいれられた。そして首には小さい赤いビーズのネクレスをしていた。きれいだった。

 

ワレンティナは、小さい「何もない村」の墓に埋められた。聞いた話によれば、彼女がもう病院から戻れないとわかったときに、彼女の家の鍵をもっていた女友達が、彼女の家から多くのものを持っていってしまった。服、アクセサリー、シーツまでとったらしい。マリアおばあさんはワレンティナの家に何があったかよくわからなかったし、娘の急死で動転していたので、そんなことどうでもよかった。

 

誰もはっきり言わなかったが、チェルノブイリの事故があった1986年の夏には、「何もない村」には帰らないほうがよかったといううわさが流れた。風がチェルノブイリから「何もない村」を通って、ベラルーシに吹いていたから。だが彼女はママが好きでほとんど毎週土曜日に帰っていた。それが原因だったと誰も言わなかったが、その夏だけは村にいなければよかったといううわさがあった・・・

 

ワレンティナはきれいで心の優しい人だった。「何もない村」の小さい墓にもう15年以上眠っているにもかかわらず、人に思い出されることがある。彼女の家の鍵をあずかっていたあの「単純な」女友達は元気で子供や孫もいるようだ。今でもあのシーツで眠って素敵な夢をみているかもしれない。彼女たちはとても単純な人ですから。そして彼女たちの子供や孫はマリアおばあさんの隣の庭で騒いでいる。

 

マリアおばあさんはもう80歳を超えて、ドライフルーツの香りのするあの小さな家に一人暮らしている。

 

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オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko)
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。
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