SGRAエッセイ

  • 2007.09.01

    エッセイ077:羅 仁淑 「陽は昇ると沈み、沈むとまた昇る」

    3年ほど前より都内の某大学の生涯学習センターで韓国語講座の講師を務めている。講座に参加している受講生は20代から70代まで年齢分布の幅が広い。韓国語に興味を持つようになった理由もさまざまだ。好きな芸能人と話したい、韓国に行って韓国語の看板が読めるようになりたい、またある人は韓国人と結婚した娘の娘(孫娘)と話がしたいなどなど。理由はそれぞれ違ってもみんな韓国が大好きだ。昔は韓国人嫌いの人が多かったと思う。幸い私は経験してないが、韓国人だということで部屋を貸してもらえず大変だったと多くの友人から部屋探しの苦労話をこぼされたことがある。   いきなり話が変わるが、最近、韓国にお嫁に行く外国人女性が増えているらしい。母から聞いた話だが、日本人3姉妹が次々と韓国人と結婚しテレビでも面白半分それを紹介したそうだ。昔はその反対のパタンーが多かったと思う。   一昨年、外国人がよく行くソウルのイテウォンというところに大学院生時代にお世話になった某奨学財団関連の方のお買い物にお供したことがある。数年前、日本の友人と一緒に訪れて以来のことだった。代金を払おうとしたら「韓国ウォンはないですか?ウォンにしてください」と言われた。驚いた。数年前まではウォンはお金でないかのような語調で、日本円にしてくれないかとしつこく言われていたのに・・・。   いずれにしても韓国自体も韓国に対する外国人の印象も昔と変わった。一時帰国をするたび、韓国の変わりぶりには驚かされる。80年代後半、日本で大学を卒業した後、1年半ほどイギリスにいたことがある。大英帝国イギリスを頭に描きながら渡英したが、世界を席巻した大英帝国の姿はもはやそこにはなかった。マンチェスターやリバプールなど昔栄えた町ほどそうだった。活気が感じられなかった。まるで老紳士のようだった。当時の日本はというとそれは活気に満ち溢れ、この国に強く照らし続けている太陽が沈むことはないように思えた。最近、たまに韓国へ行くと猛烈な躍動感を感じる。健康で虹色の夢を見ている成人式を終えたばかりの若者のような。   韓国は1960年代朴正熙大統領時代から始まった計画経済政策により急速な経済発展を遂げた。10%以上の成長率を記録し、「ハンガンの奇跡」と言われるほどであった。とくに1988年ソウルオリンピック以降、IT産業、造船、半導体、電子、自動車、携帯電話などにおいては基幹産業として飛躍的な成長を遂げ先進国と肩を並べるようになった。造船では海外受注量において1位であった日本を追い抜いて世界一となり、半導体の分野では三星電子を筆頭とする韓国企業が世界シェアの一位を占めている。自動車分野においても世界中に販売網を構築し先進諸国と激しい競争を繰り広げている。全産業に通用するとは言えないものの韓国企業と韓国商品が世界市場で高く評価されていることは確かのようだ。政治的には金大中大統領の太陽政策(宥和政策)以後、敵対関係であった南北が協調関係に変わった。南北を縦断する道路と鉄道を繋ぐとか、経済的協力を拡大するとか、さらに統一に向けた具体的構想を練るとか、朝鮮半島にとって明るいニュースがちらほら聞こえてくる。性急な人々は民族の宿願「統一」が実現され、陸路で朝鮮半島発アジア、EU行きもまんざら夢ではないと目を輝かす。韓国語講座の受講生たちも韓国にお嫁に行く外国人女性たちもそんな韓国が好きになったかもしれない。   人間と同じく国にも乳幼児期、青少年期、成人初期、成人後期、老年期というライフサイクルがあると思う。人間のライフサイクルは老年期から逆方向へ戻ることはできないが、国はいくらでもそれができることが違うだけだろう。世界経済史が示しているように韓国が今の状態を長期的に維持できる保証はない。いつ韓国が沈み、またどの国が昇るのか興味津々だ。   ------------------------------ <羅 仁淑(ら・いんすく)☆La Insook> 博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 ------------------------------  
  • 2007.08.21

    エッセイ075:デマイオ・シルヴァーナ「伊太利亜王国海軍と日本」

    1866年に日伊修好通商条約が締結された後の日伊関係については、1868年以降イタリアで出版されている『リヴィスタ・マリッティマ海事雑誌』(Rivista Marittima)に掲載された日本に関する海軍司令官報告書や諸論文などを読んでみると新しい発見ができる。   当時のイタリアでは、蚕糸業が蚕体の病気の蔓延により大きな被害を受けており、海外から良質の蚕種を輸入する必要に迫られていた。王国海軍が日本へ海洋遠征を開始した理由は、まさに日本から蚕種輸入を図るためであった。   しかし、伊太利亜王国海軍は条約に基づく開港地(神奈川、函館、長崎)以外にも、湾岸測量を行いつつ、入港可能な地点を探索していた。1872年にG.ロヴェーラ艦長率いる軍艦ヴェットル・ピサーニ号が日本に到着した。その軍艦のデ・ヴェッキ大将は下士官に水路学を教えながら、例えば脇浜の図面を制作している。図面制作を進めていたイタリア人は日本人たちから大いに歓迎され、乗組員たちは、その日本人たちに艦内見学までさせている。日本人たちの鋭い質問に圧倒されたと回想するロヴェーラ艦長は、下士官の淡路島・三原での訪問について興味深い指摘をしている。   「三原に住む日本人は外国人に多大な関心を示すところからみて、三原の住民は初めてヨーロッパ人に出会ったと推測される。イタリア人の士官が綿の商売で繁栄していた三原の目抜き通りを歩いたとき、前も後ろも日本人がついてきたが、全部で千人はいたであろう。三原を見学することを事前に町の人に連絡していたわけではなかったので、それら日本人は誰かに命じられて我々イタリア人を歓迎していたわけではなかった。」   更にまた、開港・開市でなかった「Yamada」という地名の付けられた場所について、ゴヴェルノーロ号のアッチンニ艦長による1873年の記録につぎのような記述があるり、伊太利亜王国海軍の士官、乗組員たちが、開港・開市以外の土地も訪れていたことがわかる。   「入り江には小さな日本の汽罐船があった。ポルチェッリ大尉と少尉の努力にもかかわらず、日本人と意思疎通できなかったため、その舟がそこで何をしていたのかはまったく分からなかった。その入り江については横浜で何人かの外国人の全権大使が話していた。しかし、小さな入り江なので大きな舟が入れない。さらにまた、海岸には小さな村しかなく、商売に適していないと思われる。そこからさらに6マイルほど離れた場所にある仙台市の方がある程度商業が発達しているため、面白いかもしれない。」   以上明治初期の伊太利亜王国海軍による海洋遠征にみる日本とイタリアとの《出会い》について若干みてきた。ここで参照した資料は、いずれもイタリア側から“テクスト”として記述された見聞録である。日本側において伊太利亜王国海軍についてどのように記述されたか文献資料を比較考量することも必要となってきている。   ---------------------- <シルヴァーナ・デマイオ ☆ Silvana De Maio> ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年から2002年までレッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002年よりナポリ大学「オリエンターレ」(ナポリ東洋大学の新名)政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------
  • 2007.08.18

    エッセイ074:孫 軍悦 「足ツボと足のツボ」

    今年の四月から、二つの大学で非常勤講師として中国語を教えるようになった。これまで大学院で先輩たちに「若手」と目されていた私だったが、平成生まれの大学生の前では、日々自分の「古さ」を突きつけられていた。確かに、いまだに携帯を持たず、活字メディアに固執しているのだから、時代遅れといわれても仕方がない。しかし、私が感じたもっとも大きな「ジェネレーションギャップ」は決してファッションや趣味、話題といった外在的なものではなく、むしろ知覚・感覚の様式や物事を認識、思考する回路の違い、つまり文字通り「人間」そのものの違いである。   というのは、テレビやゲーム、パソコン、携帯に囲まれて育てられた世代の感覚様式は驚くほど視覚に頼っている。多くの学生が私に、話した内容を逐一黒板に書くように求め、耳だけでは追いつくことができない。他人の話を聞くのも苦手のようで、何人も同じ質問を繰り返すこともしばしばあった。集中できる時間が短く、時には小学生のように手を挙げてトイレに行ったり、前に座った人にちょっかいを出したりする。しかし、彼らは決して不真面目でもなければ、中国語が嫌いというわけでもない。男子学生でもきれいなノートを作り、絶えず辞書を調べている。問題はそこなのだ。私が不思議に思うのは、本来練習問題に出てくる言葉はすべて習ったものにもかかわらず、彼らはいつもそのつど振り出しに戻って遂字に(←?)辞書を調べる、ということだ。これは、単純に復習をしていないため、覚えていないと理解してもいいが、その学習スタイルはどこかパソコンに似ていないのだろうか。つまり、そのつど、パソコンを立ち上げ、必要な情報を検索するというスタイルだ。しかし、パソコンから見つかった情報は常にそのときそのときの必要性に応じて見つけ出されるもので、決して体系をなしていないのだから、彼らの頭に取り入れられた情報も散乱としていて、記憶するために必要な体系化という作業がなされていない。さらに、こうした、全体像が分からないまま、そのつどの需要にあわせて情報を取り出す今日の学生たちの物事を認識する方法は、断片化された情報を次から次へと更新していく「断片性」と「速報性」という「世論操作」の基本とほぼ同じ構造を持っていることも、決して見過ごせないだろう。   中国の若者たちも例外ではないはずだ。世界的にますます均質化された都市生活の中で培われた感性や知性と、中国の政治、経済、社会的状況という土壌とが、いかなるダイナミズムをなしているのかを考えない限り、いわゆる「愛国主義教育」による洗脳の魔術を誇大視し、インターネットに飛び交う情報の内容の虚実に目を奪われるだけでは、日中関係の未来が一向見えてこないのではないか。   このような疑問を持って、最近「反日」デモに関する過去の新聞をいろいろと読み漁った。1908年の第二辰丸事件、1915年の山東問題、1919年の五四運動、1920年代の旅大回収、五・三〇事件、山東出兵、済南事件、1930年代の万宝山事件、満州事変・・・・・・そして、2005年の「反日」デモ。こうして新聞報道や学者の議論を追っていくと、暴徒化した学生の暴力的行為、戦々兢々とする邦人の恐怖、反日愛国主義教育、メディアの煽動、政治家の権力闘争、山積する社会問題、くすぶる群衆の不満などなど、デモの様子についての描写もデモ発生の背景を分析する視点も驚くほど類似していることに気付く。もっとも、それぞれのデモが発生する特殊な歴史的背景を無視し安易に表層的な類似点を抜き出して比較するのは禁物である。だが、あらゆる「現状」に基づいた分析に確かに一つだけ変わっていない要素がある。それは、プロパガンダに洗脳され、政治家に利用され、メディアに煽動されやすい、かくも純真な怒れる青年たちの気質である! すなわち、人間だけは、変わらないものとされているのである。   ここで、息抜きに最近ツボにはまった笑い話をちょっと紹介しよう。「シンブルー・ライン」というイギリスのコメディ・ドラマのなかで、主人公のファウラ警部の同居者パトリシャは「指圧マッサージ」に夢中になって、足裏に頭や心臓や肝臓など身体のあらゆる部分に対応するツボがあって足ツボマッサージがどんなに身体にいいのかをこんこんと説いていたら、ファウラ警部はこう聞いた。「足のツボはどこだ?足が疲れた時どのツボを押せばいい?」そう、足裏には足のツボがないのだ!と同時に、足の疲れをほぐす時にいつも足全体をマッサージしているのだから、足裏にあるすべてのツボがまた足のツボでもあるのだ。   やや強引な展開になるが、政治学や歴史学や社会学、経済学など人文科学の個々の研究分野と人間との関係も、足裏にあるさまざまなツボと足に効くツボの関係と似てはいないか(私の発想のすべての源泉はこうした日常的なたわいのない経験であることをお許しいただきたい)。つまり、われわれはそれぞれの研究領域において、具体的な政治的、歴史的、社会的、経済的事象に気をとられるあまり、全ての人文科学は、根源的に人間に関する探究にほかならないという最も重要なことをつい忘れてしまうのではないだろうか。   歴史家リュシアン・フェーヴルが明確に定義している。「歴史とは人間を対象とする学問」だと。さらにこう言う。「生きるとは変化することにほかならない」。「科学」と冠するあらゆる学問において、それでも人間を一つの常数としてではなく、常に一つの変数として細心の注意を払いながら扱うべきだと主張する私はやはり「古い」人間なのだろうか。   -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 --------------------
  • 2007.08.15

    エッセイ073:ボルジギン・ブレンサイン 「湖の中の『国際化』」

    「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。   彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。   ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。   ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。   水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。   叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。   <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学 研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間 文化学部准教授。SGRA会員。
  • 2007.08.15

    エッセイ073:ボルジギン・ブレンサイン 「湖の中の『国際化』」

    「キャンパスは琵琶湖、テキストは人間」を理念としている私の大学のキャンパスはまさに琵琶湖の畔にあるので、このごろよく湖畔を散歩する。先日、わが大学よりもずっと湖畔にある滋賀県水産試験場のある研究者の方と立ち話をする機会があった。彼はこの水産試験場で淡水魚の養殖や生態に関する研究をしているようで、話は鮒寿司の作り方から琵琶湖の歴史や生態へと広がり、最近話題になっている外来種の問題にまで及んだ。   彼の話によると、琵琶湖の生態を脅かしている最大の外来種は「オオクチバス(俗にブラックバス若しくはラージマウスバス)」と呼ばれる北アメリカ原産の魚だそうだ。この種の魚は1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて発見され1970年代になって急速に全国に広がり始め、現在は全都道府県で確認されている。琵琶湖では1974年に初めて確認され、1980年代後半に増殖のピークを迎えた。ブラックバスは大型の動物食性の魚で、魚類・甲殻類だけでなく、昆虫や鳥の雛まで食べ、日本の元来の生態を維持してきた在来種の魚や生態系に対して大きな影響を与えている。琵琶湖では1984年以降、駆除事業が始まり現在も続いている。   ブラックバスと同じく北米原産の魚ブルーギルも多様な小動物から水草まで食べる雑食性で、とくに魚の卵を好んで食べるために、激増した水域では在来生物への大きな影響が懸念される。皮肉なことにブルーギルは1960年、当時の皇太子殿下の渡米の際に、みやげとして贈呈された個体が、各地へ分与され、1965年に西ノ湖で初めて記録され、1968年には琵琶湖で捕獲され、1970年代前半に湖全域に拡大した。1990年代に入って個体数を急増させているという。最近ではコクチバス(又はスモールマウスバス)と呼ばれるはやり北米原産の大型動物食性魚も猛威をふるっているようである。   ところが、日本の河川や湖には、獰猛で肉食性の北米原産だけではなく、近隣のアジアからも色々な外来種が日本に上陸していた。例えば、ハクレンやソウギョのように、明治-大正期から食料増産の目的で中国や台湾、朝鮮半島から持ち込まれた淡水魚がいるが、北米原産と違って非肉食であるうえ、日本在来種に対して劣勢に立たされ、現在その殆どが元来の遺伝的な特徴を失ってしまったという。またこうしたアジア原産の外来種は、日本在来種と同様に北米原産魚に対して劣勢に立たされていることも注目に値する。逆に、日本から北米に持ち込まれた鯉が大発生し、北米在来種に対して脅威となっているという話もしてくれた。   水産研究に素人である私がなぜこのような外来種問題に興味を持ったのか。それは、日本在来種が北米外来種に「劣勢」であるのに対して、アジア外来種には「優位」であるという、琵琶湖を舞台にした湖の中の「国際化」現象にヒントを得たからである。   叫ばれて久しき地上における国際化の実態はどうであろうか。福沢諭吉の「脱亜論」が1885年3月16日の『時事新報』に掲載されて以来、日本は欧米追随一辺倒でアジアを厄介者扱いしてきたが、それが今日の経済大国実現の原動力であったと大勢の日本人に信じられている。しかし、経済的に欧米を圧倒しながらもスポーツや文化などの面で欧米にコンプレックスを覚えてきたことに慣れてしまったため、近年のアジア諸国の経済発展を前に、本来ならアジアに対して「優勢」であったはずの部分までが見え隠れしている状況で、もしかして自信喪失に陥っているのではないか。それが一世紀以上「脱亜」した結果と思うと、実に理解し難いところである。あるフォーラムで某学識経験者が語った「日本はアジアとのつきあいの中であまり良い目に遭ったことがない」というニュアンスの言葉が記憶に残っているが、歴史的事実がそうだとしても「脱亜」し続けてどうやってアジアの台頭に対応するのか。福沢諭吉の時代と違って、現在のアジアはもはや「亡国」を待ち受けた「頼りにならない」アジアではなく、むしろ日本よりも活力に溢れたところとなっている。「脱亜論」を聖書にし続ける人々には、潜水服を着て琵琶湖に潜って、北米原産に食われながらもアジア原種を「同化」させてきた日本在来種の逞しい「国際化」の姿を観察することをお勧めしたい。   <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学 研究科より修士号、2001年博士号取得;日本学術振興会外国人特別研究員を経て、2006年より滋賀県立大学人間 文化学部准教授。SGRA会員。
  • 2007.08.11

    エッセイ072:玄 承洙 「宗教、最も悲しい人工物」

    アフガニスタンのイスラーム武装勢力であるターリバンに23名もの韓国人が人質にされるという未曾有の事件が発生しました。被害者のうち男性二人はすでに幽明界を異にしています。ターリバンという組織は、2001年に起きたバーミアン石仏の無謀な破壊で一般人にもなじみ深い名前ではないでしょうか。   事件発生から2週間以上もたっているのに、いまだに解決の糸口さえ見つかっていない今回の事件は、私にも二つの意味で格別な関心事となっています。その一つは、私の研究分野がまさにこのターリバンと深い関わりを持っているということです。俗にいう「イスラーム原理主義」とそれを広めようとする世界各地のムスリム組織を分析することが、私の博論テーマであり、帰国した現在も韓国の研究所で相変わらずそのテーマに取り組んでいます。   もう一つは、いまアフガニスタンのどこかで不安と恐怖に苛まれているはずの韓国人の人質たちがキリスト教の布教団体に属している人たちだからです。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私は幼い頃からキリスト教の牧師になることを夢見ていました。信心深いプロテスタントの家庭で育てられ、大学時代はほぼ毎日教会に通い、日本語で書かれたバイブルをいつも暗唱したりしていました。いまも叔父の一人はアフリカでキリスト教の宣教師をやっています。そのような私が今はイスラームの専門家を自称しているのですから、まあ、人間の運命はどう方向づけられるか分からないものです。   イスラームを信仰としてではなく、あくまでも研究対象としているとはいえ、私はいつの間にかアンティ・クリスチャンになってしまいました。ヨーロッパと中東、アメリカの歴史をひもとくと、そこには愛なる唯一神の名において流された血のなまぐささでいっぱいです。ある人は、それらを壮絶でロマンに満ちた英雄談もしくは聖なる戦争云々しますが、私にはただフラトリサイド(兄弟殺し)としか見えません。どこかで聞いたように思いますが、地球上で同種を大量に殺す動物は、人間をおいていないそうです。   以前プロテスタントの信者だった頃、私はキリスト教の布教を十字軍の出兵に準える賛美歌を聴いて違和感を覚えたことを思い出します 。戦闘的で独善に満ちたあの歌詞を声高々に歌いだす人たちのメンタリティーが不思議でなりませんでした。神の愛や真理を刀と槍に、信者を武装した戦士になぞらえながら戦意を燃やす人たちが、異教徒たちに包容と慈悲を施すのは不可能でしょう。   今回の事件を契機に、過剰でかつ競争的に行われる韓国のプロテスタント教会の海外宣教をめぐって、世論では激しい議論が展開しています。多くの人たちが、韓国のプロテスタント教会に自省と省察を促しています 。一方では、人質に取られた若者たちを同情し、彼らが何の縁故もない他国で政治と宗教の犠牲となることに公憤を覚えながらも、一方では、宗教イデオロギーの宣伝を前提におこなうクリスチャンたちの慈善行為を軽蔑する人は、意外に多かったのです。他人の信仰を捨てさせ、彼らの生き方を変えさせるために、彼らを治療し、食べ物を与え、教育を施すことが、果たして人道活動たり得るのか、という声がキリスト教内部からもあがっています。   しかし殺戮と狂気の歴史はキリスト教の専有物ではありません。イスラーム史の中にも同種殺しの例はいくらでもありますから。他の宗教はどうでしょうか。確信をもっていえるのは、あらゆる宗教が絶対的な何かのために、それが究極の真理であれ創造主の神であれ、殺人を容認しているということです。ある人は反論するでしょう。私たちの宗教は「平和」を意味します、と。しかし彼らのいう平和は彼らだけのために成立する平和なのです。他者の排除を前提にしない限り、宗教そのものが成り立つはずもないでしょう。「信じる」私たちと「信じない」彼らが存在しなかったら、すでに宗教というものはあり得ないのです。そこで私は思うようになりました。人間の作り出したあらゆる事物のなかでもっとも悲しいものは、宗教ではないか、と。最近耽読しているイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスの著作『神は妄想である──宗教との決別』(The God Delusion)は無神論にたいする私の認識に驚くほどの洞察を与えてくれました。これまでいろんな宗教を経験しつつ暫定的に不可知論者を自称していた私が、無神論者になる日が来るかも知れません。   この文章を書いている今、私は祈っています。残り21人の無事釈放を、です。しかしもう私の祈りを聞いていただく絶対者が存在するとしたら、それはイエスでもなく、アッラーでもなく、ブッダーでもありません。それは人類の良心であり、私自身であり、あなたなのです。そして神に祈らなくとも、いくらでも祈ることができることに私はやっと気づいたような気がします。   (2007年8月4日)   玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN 韓国外語大中央アジア研究所研究員 SGRA会員
  • 2007.08.08

    エッセイ071:範 建亭 「『数字』の迷信」

    7月の上海は梅雨の時期なので、雨が多いが、かなり蒸し暑い。ある日の昼間に、私はいつもどおり自宅の書斎で研究に熱中していたところ、パーンと突然の爆竹に驚かされた。その爆竹は、ビルの10階ほどの高さまで飛んできたのだから、目の前で聞こえたその音は非常に大きかった。中国では、新年、結婚や引越しなどのようにおめでたい事があるとき、爆竹を鳴らして、邪気や悪気を祓い財や福を呼び込むという慣習がある。関係者以外の人にとって、普段静かな住宅地で突然、何の予兆もない爆竹音に驚愕させられることは少なくない。その時、中国で生きるには、心臓が強くないと酷い目に遭うだろうといつも思う。   だが、その後も遠いところから何回かの爆竹音が聞こえたため、この日の出来事はちょっと不思議だと思った。なぜかいうと、雨天に爆竹を鳴らす人はあまりいないからだ。夜のニュースを見るとなるほどと事情がよくわかった。この日は7月7日であったため、雨にもかかわらず結婚するカップルが普段より多かったという。2007年7月7日というめったにない吉日だから、中国だけでなく、海外でも結婚ラッシュが続いたようだ。西洋では、「7」はラッキーセブンとして吉の数字だとされることが多い。カジノのスロットマシーンやブラックジャックでは、「777」は幸運の数字であるように、それが並ぶ日も当然縁起のよい日だとされる。   ところが、中国では最も縁起のよい数字は「7」ではなく「8」だ。それは、「8」の発音が發(ファー)という音に通じるので、「發財(お金が儲かる)」と言う意味で「8」が好まれるわけだ。逆に「4」は“死”の発音に結び付けられるから不吉の数字とされており、車のナンバーなどには避けられている。その点は日本においても同様であり、「4」が嫌われることは周知の通り。病院などの階数や部屋数に「4」を付けないのが一般的である。刑務所さえ、それを付けることを嫌うという。さらに、14と24はそれぞれ「重死(じゅうし)」「二重死(にじゅうし)」と同じ発音であるからタブー視されている。   また、日本では「9」も「苦」の連想があるので、「4」についで嫌われる。だが、中国では「9」が「久(長い)」などの意味で縁起のよい数字とされている。このように、中国人の数字の好き嫌いは日本人と随分違うし、その他の国とも異なっている。数字は本来世界に共通する「言葉」で象徴的な意味を持ってないはずであるが、それにまつわる迷信の意味を含まれると、国によって人々に歓迎される、されない数字と二分化してしまう。その理由は単なる語呂合わせであり、その他の科学的や合理的根拠は一切ないと誰もわかるが、数字に対する人間の「こだわり」には実に根深いものがある。   中国では八の数字は大変縁起ものだから、究極の数となっている。電話番号から住所、部屋番号、車のナンバーなどまで、なんでもそれを選ぶ傾向がある。それが個人の生活範囲を超えて、政府の行動にも捉えられる。来年の夏季オリンピックは北京で開催されることになっているが、開幕式の時間はなんと2008年8月8日午後8時であるから、魔法の数字だ。それ以上に縁起のよい時間帯はもうないだろう。   数字に深い感情色彩を付け加えることは可笑しいが、回りの皆さんがそれに従うと、信じないより信じたほうが心強くなるに違いない。だから時代が進歩しても、数字の迷信はまったく変わらない。その関連で妄想すると、4444年4月4日という日に、中国と日本は大変な社会的混乱が生じるだろうか。さらに、7777年7月7日、または8888年8月8日には、世界そして中国は何が起こるかも全然想像できない。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2007.08.05

    エッセイ070:陳 姿菁 「台湾の若者教育(その1)」

    人にぶつかっても謝らない、図々しく列を割り込んでいるなど、最近の若者の礼儀のなさには目に余るものがあります。それを目の当たりする私たち大人は、「今どきの若者は……」とため息混じりで愚痴をこぼしたり、学校教育のせいだと強く主張したりしていませんか。しかし、よく考えてみたら、その責任は、愚痴をこぼした大人に大いにあるように思えます。   台湾は、日本に劣らない学歴社会です。いい仕事を見つけるために、日本のような名門学校の出身ということだけではなく、学士より修士、修士より博士、台湾の博士より外国の博士のように、さらに「上」を目指している傾向があります。いい人生は出世であり、そのために猛勉強して学歴を手に入れるという社会普遍の価値観が深く植えつけられています。   台湾の町を歩いた経験のある方なら誰しも街の至るところで、数学塾や英語塾、進学塾の看板を目にすることに驚かされたでしょう。日本は受験戦争のため、塾文化が発達していることは周知の通りですが、台湾も同様かつ前述した価値観の影響で、塾に通わなければこの社会に取り残されるかもしれないということで塾文化が発展していく一方です。    日本よりも厳しい受験戦争やおけいこ、毎日異なる塾通いに忙しい学生が放課後の時間に塾の集中している台北駅の近くの街路に溢れています。食事をゆっくり取る時間もないので、テイクアウトを注文するために長い列を作っている学生の数は半端ではありません。    顔には出ていないかもしれないけど、疲れている台湾の学生たちのストレスは相当なものだと思われます。加えて両親は、ないし社会全体は、「学歴」を重要視のあまり、学生たちに「ノー」を言わせるチャンスも与えず、彼らが黙々と学校、塾と家を往復する日々を送っているのは当たり前のようになってきています。    台湾では中学から高校にあがる時に受けなければならない「基測」、及び大学へ進学するための「指考」があります。これは、日本のセンター試験のような統一試験です。近年、台湾政府はほかの進学方法(たとえば「学測」つまり推薦入試)をアレンジしていますが、統一した試験制度は学生たちが進学するためのメインストリートであることは以前と変わりありません。受験生を持つ多くの家庭では受験生が中心で、「基測」や「指考」に合格できるよう家族総動員です。家事をさせず、ただ勉強すればいいという親はほとんどです。   進学試験でいい結果を得るために、子どもが幼い時から親が教育に力を注ぎます。幼稚園のクラス選びから一番大事な塾選びまで、親も自ら下調べをしてから子どもを通わせます。「幼稚園からクラスを選ぶのですか」と耳を疑う方もいらっしゃるかもしれませんが、台湾の「英才」教育は胎児の時から始まっています。幼稚園に入る前から親が学校選びの戦争に巻き込まれています。本屋では各幼稚園を分析する雑誌まで置いてある事実は、今の台湾の競争の激しさを語ってくれるでしょう。   一方、塾同士の競争が激しい台湾では、進学率を維持するために、成績のいい学生を選ぶ塾まで現れたそうです。定員制限のある有名な先生の講義を申し込むために、早朝から塾の前で長蛇の列を作ることは、もはや常識中の常識になっています。    最近聞いた話ですが、知り合いが子どもを有名高校に進学させるために、一人につき1ヶ月間で払った塾代は、なんと大卒の一ヶ月の給料の2倍近くだそうです。それはたったの30日の集中講義のためでした。普通の家庭で子どもに世間一般的に思われている「いい教育」を子どもに受けさせようとしたら、どれほどのお金を費やさなければならないのか想像できるでしょう。    こうした学歴や勉強重視の社会の中で、先生と生徒の関係は単に「受験テクニック」を売る人と買う人になってしまい、親子の関係は「いい人生選び」をしてあげる側と、望まれる学歴を手に入れて「恩返し」する側とになっているように思えます。この図式化できる関係、いささか物足りないと思いませんか。そうです、「人格教育」というものです。物質的に計算する余りに、「人間性」の重要さを見落としてしまったのです。人間性の希薄が懸念させているのは、このような背景があるのだと思います。一番顕著に現れているのは若者の礼儀です。つまり、礼儀は二の次に教育してしまったのは私たち大人です。    成績と証明書や資格で人間を計る現代社会へと変貌させ、人間としての思いやりやゆとりをなくしてしまったのは、次の世代の教育を担う親と教師です。「物質的な価値観」を与えてしまった私たち大人は「今どきの若者は…」と発言する前に、自分の責任として認識しなければいけないのではないでしょうか。   証明書や学歴は所詮出世するための「手段」の一つに過ぎません。自分の一生に影響していくのは「人間性」で、子どもを大事に思うのならば、学業重視より、礼儀や人への思いやりなどをまずしっかり教えるべきだと思わずいられません。   --------------------------------------------------------------------- <陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching)>  台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。 ---------------------------------------------------------------------
  • 2007.07.28

    エッセイ069:今西淳子「新宮澤構想と東アジア共同体議論:宮澤喜一元総理大臣を偲ぶ」

    2002年7月20日(土)、第8回SGRAフォーラム「グローバル化の中の新しい東アジア」を軽井沢で開催しました。フォーラムの最後に宮澤喜一元総理大臣にお越しいただき、フリーディスカッションにお付き合いいただきました。そもそも、宮澤先生は私の父が一番尊敬していた方で、家族ぐるみで行き来させていただいたので、私も小さいころから存知上げていました。それで、2001年2月9日(金)に東京で開催した第2回SGRAフォーラムで、「象徴的に『新宮澤構想』と宮澤先生のお名前が入っている、アジア通貨危機に対する日本の対応が、アジアの共同体づくりのきっかけになったのではないか」という名古屋大学の平川均先生のご発表にとても感動しました。そして、1年半後に軽井沢で、平川先生による「新宮澤構想」の評価について、宮澤先生に直接お聞きする機会を作れたことは、大変光栄なことだったと思います。   軽井沢のフォーラムで、平川先生は、次のように質問されました。「アジア通貨危機のあとに、宮澤先生がイニシアチブを取られた『新宮澤構想』が、アジアの地域協力に、あるいはアジアの相互理解の中で非常に大きな役割を果たしたと思います。私自身、韓国に1999年に行ったときに、先生の構想が出て、それはかなりの方が好意的でありましたし、それからタイに行ったときも、『宮澤という人はだれか知らないけれども、宮澤構想というのは、すごくいいことをしてくれた』という話を聞いたことがあります。アジアの人たちが、先生のイニシアチブで大きく変わる、1つのチャンスを作られたと思っています。」「『新』というからには、古いものがあるからで、それは当然、1980年代のラテンアメリカ危機が念頭にあるわけですが、そのときに先生がイニシアチブを取られたのに、それは結局、アメリカにそのまま持っていかれて、先生のお名前は残らなかった。そう考えたときに、『新』という言葉の中に、先生の思い、あるいは日本政府の思いが入っているのではと思いました。そこで、『新』の中の思いと、それから、先生がそういう構想を出された背景などについて教えていただければと思います。」   宮澤先生は、「1997年にああいうことがタイで起こって、あちこち広がっていったわけですが、その時、日本としては、財政的にはうまくない状況ですけれども、外貨は十分持っておりました。今まで各国とのいろいろな具体的な関係がありますから、日本の持っている外貨を使っていただければ何かの役に立つだろうと考えました。これはごくごくあたりまえのことですが、それが動機です。」「新宮澤構想と言われた『新』は、平川さんのご指摘の通りです。ラテンアメリカのときのボンドを出したらいいという、あとにいわゆるブレイディ・ボンドになって実現したわけですが、そういうことの関連で、『新』という名前がついたのだと思います。特段の意味はありません。私が期待していることは、何かの役に立ったら、それは大変幸せで、そういう間に各国間のマルチナショナルな接触が図られて、お互いをより知るようになるということです。」と答えられました。そして、私にとって一番印象的だったのは、東アジア共同体構想へのきっかけとなったという評価に対して、次のようにおっしゃったことでした。   「1997年にThe Asian Monetary Fund(AMF)が一時、取りざたされましたが、実際問題として、これは急にできるわけのものではない。また、私自身が、300億ドルのお金を使っていただくと考えたときに、それがそういうものにすぐ発展するとも思っておりませんでした。非常に率直に申せば、私は戦前の人間ですので、戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを非常に肝に命じて感じていますから、うっかりそういうことを考えるわけにはいかないと、実は今でも思っているくらいです。ですから、何かのお役に立ったというのは、そうであったら大変幸せです。」   SGRA会員の白寅秀さんは、「先生のお話を聞くと、非常に謙虚に話していらっしゃるという感じがいたしました。というのは、先程、戦前、日本がアジアに対してやった日本の行為は失敗であった、新宮澤構想では何とかアジアの国々に役に立ちたかったという話をされました」という感想を述べた後、「積極的な意味でのアジアの価値観、あるいはアジア共同体としての意味合いというものを、こちらから発信しなければならないと思うのです。そういうところで、先生ご自身が考える、アジアならではの独自性、東アジアから発信できる新しいものとはどういうものでしょうか」という質問をしました。   宮澤先生は、「私はアジアについて非常に控えめではなくて、実際には現実的だと思っているのです。なかなか、経済の領域を越えて、一緒にコモンなことをやろうというのは難しいと思っているのです。それは、各々の国にいろいろ政情があって難しいということもあります。国によっては政権が安定していないということもあります。そういうことの前に、共通なものがなかなかお互いの間で意識されていないと思うのです。それを育てるのがグローバリゼーションだということならそれでいいのですが、何で一致できるかという共通なものがなかなか見つからないのに、グローバリゼーションだけで一致したのでは困るのです。しかし、幸いにしてこうやって平和が続いていますから、お互いそういうものは見つけるようになっていくかもしれません。ただ、あまり私自身はオプティミスティックになれないものですから。ことに日本がその中で何かリーダーシップを取ろうなどということには、どうも私は賛成ではないです。そんなことは出すぎたことだと、私は思っているのです。そのような気持ちです。」と答えられました。   私は今、「戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを肝に命じる」という原点を見失わないようにしながらも、アジア通貨危機における「新宮澤構想」が「アジアのアジア化」へ大きく転換したきっかけのひとつであり、その後活発になった「東アジア共同体」議論に繋がっていると評価したいと思います。   宮澤先生のご冥福をお祈り申し上げます。   -------------------------------------- <今西淳子(いまにし・じゅんこ)> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より平和教育と異文化理解を目的とする青少年の国際交流事業を行うグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。  
  • 2007.07.25

    エッセイ068:マックス・マキト「貧乏宣言」

    最近「私は貧乏だ」と堂々という日本人が増えている。日本社会における格差拡大による当然の結果であろう。なかでも最も面白そうなのは、日本のテレビで時々特集される、田舎に暮らし始める「貧乏な人」たちだ。決して楽な生活ではないと思うが、羨ましい限りだ。いつかその機会が僕にも到来するように願っている毎日である。ただ、いくら貧乏と宣言しても、日本の一人当たりのGDPはフィリピンの20倍以上である。   日本をフィリピンと比べてもあまり次元が違いすぎるのだが、ある日本の研究所の調査によると、「幸せ度」は、フィリピンのほうが日本より高い。まさかと思いながら、すぐに僕の頭に浮かんできたのは9年間も続いている毎年の自殺者が3万人という数字である。これは9.11同時多発テロが毎年10回ぐらい、阪神大震災が毎年5回ぐらい起こることと同じ悲劇だ。命を捨てた人の不幸であると同時に、その人の周りにいる人々の不幸にもなっている。そして、日本社会全体に重くのしかかる不幸と言えるだろう。   経済的に貧しいフィリピン人の幸せ度との違いの原因はそこにあるかもしれない。フィリピンはカトリックの国なので自分の命を捨てることは大罪になる。これは命の尊さを守る掟でもある。フィリピン人にはストレスがないわけではないが、日常の問題にできる限り前向きに取り込む姿勢は、フィリピン社会の特徴でもあると思う。それでも問題が解決できない場合は仕方がない。神様に任せる。それで尊い命を捨てることはない。   昨年SGRA軽井沢フォーラムで発表してくださった東大の中西教授が進めている「フィリピンの都市の貧困コミュニティー」をめぐる研究が、今年から5年間、科学研究費をもらうことになり、光栄にも僕も参加させていただくことになった。中西先生の長年の研究対象はマニラ市内にあるスラムであるが、そこで幸せ度の調査をやってみると、フィリピン平均の幸せ度を上回る結果になった。   調査の結果を疑うわけではないが、スラムに住む人たちには、苦しい側面もあるはずだと思う。先日、募金活動のためのテレビ番組で、エチオピア、ロシア、そしてフィリピンの貧しい子供たちが特集されていた。フィリピンの子は、学校に通い続けたい、病気の母親に薬を買ってあげたい、5歳の弟をゴミ集めの仕事場に連れて行きたくない。だけど、貧乏だから、学校の塀の外側からクラスメートたちを羨ましく眺めることしかできない。母親には、たった一錠の薬しか買えない。弟には、厳しく仕事の訓練をせざるを得ない。   こんな状況でハッピーといえるのはなぜなのか。僕も理解に苦しむ。中西先生と一緒に答えを発見したいと思っているが、今のところ、僕には、フィリピンのカトリック文化しか思いつかない。聖書の「八福の教え」が思い出される。   心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 (Blessed are the poor in spirit for theirs is the Kingdom of Heaven.)   「poor in spirit」の「poor」という言葉は経済的な意味ではなく、姿勢を指す言葉 である。自分の力を過信せずに謙虚でいるという姿勢である。貧しい人でも豊かな人でも持てる姿勢だが、どちらかというとこの世に何もない貧乏人のほうが身につきやすい姿勢といえよう。貧困のなかにいながらハッピーというコツはまさにこの八福の教えにある。   このような教えにより人々が怠慢になるので、主教(キリスト教)は国民のアヘンであるという批判を浴びる。だけど、消して怠けなさいというわけではない。たとえば、留守番をしている時に任された富を増やせなかった僕(しもべ)が、帰ってきた雇い主に厳しくしかられたという聖書のマタイによる福音書の喩え話がとくに有名である。より多く任された富をちゃんと育てた他の2人の僕のように、人間には与えられたものを、力を尽くして生かす義務がある。   八福の教えとマタイによる福音書の喩え話は、「フィリピンの都市の貧困コミュニティーの研究」に取り入れる余地があると思う。この研究に利用されているネットワーク論のなかに、すでに、いわゆる「マタイ効果」が取り上げられている。多くの富を任された他の2人の僕がその富を更に増やし、何もしなかった僕との差がどんどん広がっていく「マタイ効果」とは、金持ちがもっと金持ちになるという現象を指し、ネットワークの研究の中にもそのような事例を発見することができる。そして、八福で述べられる謙虚な姿勢は、近所の人々とお互いに頼り合うコミュニティーの存続のために欠かせない。   開発経済学の授業中、「なぜこのような理論を勉強しなくてはいけないのですか」と不満を表す生徒がいた。確かにいい質問だと思ったが、「戦後の開発経済学では、『貧乏(発展途上国)は、合理的ではないから貧乏なのだ』と仮定する傾向が強い。だけど、今僕が教えているのは『貧乏であっても合理的に決断し行動することもできる』という理論なのです」と答えた。まさに中西先生との研究は、この「貧困のなかの合理性」を突き止めようとしているのだ。果たして、信仰がマニラ市内の貧乏な人たちの幸せを説明できるのか。自分の信仰を経済学者として調べる時が、とうとうきてしまったかもしれない。   ☆この機会に先日亡くなられた今西SGRA代表の叔父様、橋本康三郎さんのご冥福を祈ります。橋本さんは、フィリピンに行ってみたいとおっしゃいました。アジアのカトリックの仲間たちと出会いたいということもあったのでしょう。私の力不足で実現できませんでしたが、今、心の貧しさを知る謙そんな人たちと天の国で再会なさっていると信じています。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------