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2009.03.17
2008年の後半に米国から始まった経済危機は、またたくまに世界中の経済に大きな影響を与え、大変な情況になってきました。アメリカでは、この状況を回復するためにオバマ新大統領が努力しています。しかし、全てがグローバル化した現代の社会では、お互いにリンクされている為、ほとんどの国の経済はガタガタになったままです。それぞれの国が、どうにか景気を回復させようと、様々な方法を用いて努力をしていますが、今でも状況が改善する気配がありません。
我が国でも全世界の不景気の影響を大きく受けています。主要な輸出品目である農産物や水産物を始め、鉱産物、チーク材、ゴム材、宝石などの輸出も影響を受けています。相手国が不景気なために輸出が滞り、物流と決済方法が大幅に変化し、国内相場にも大きな影響を与え、倒産した企業も出ています。事業が大きければ大きいほど、その影響も大きいようです。一方、輸入産業も同様です。数か月前に輸入した商品は、その契約仕方・為替レートの変化、大安売りをしなければならない国内相場によって、ほとんどが赤字です。外国からの投資も中断しているところが多いです。在庫を持つか、赤字でも売るか、今までのビジネスネットワークと縁を切るか、どのように自分自身を精神的においつめないようにするかを上手く判断できないと、国内の不景気と一緒に自分も死んでしまいます。
今後世界経済は、どうなるのか?この不景気がどこまで落ち、再度復活するかということについて、たくさんの人々が頑張って考えています。たくさんの人々が、国境を超えて、様々な方法で努力をしています。世界経済の問題は、この地球に存在しているすべての人々が、国際理解と交流を基準にして、力を合わせて頑張って解決していくべきです。
我が国では、昨年5月2日に起きたナルギスサイクロンによる被害者の復興のために、国内外の多くの方達のご支援をいただきました。私自身も国内で支援グループを作り、サイクロン被害者への支援活動を行いました。SGRAかわらばんのおかげで、日本や韓国の多くの方達からご寄付を送っていただき、よりよい支援活動ができました。一回目は、被害直後に必要な生活用品を配給しました。2回目には、被害者の方達の新しい生活に必要なトラクター7台の支援を行いました。我々は、被害を受けたひとつの村だけに寄付することはやめて、多くの村が使用できるようにレンタル方式で行いました。6月下旬にトラクターのレンタル支援をした村に、10月下旬に視察に行った時には、青々と稲が育っていました。また、同時に、水産業も行えるようになっていました。サイクロン直後には飲めなかった飲み水用池もきれいになりました。一方、村の小学校も落ち着いた状況です。我々のグループは金銭的な支援も少し行いました。このように、我々が支援した村は、今後も自分たちの力で頑張れるようになりました。これまでに支援してくださった多くの皆様に大変深く感謝していることを、村民に代わってお伝えしたいと思います。
その後、我々は、11月の栽培時期に利用する為、他のサイクロン被害村へトラクターを移動しました。その村でもレンタル方式で支援し、より多くの方達に使用していただきました。このようにして、ご支援くださった皆様の心が伝わるような活動を行っています。
★支援した村の写真(2008年10月撮影)
★ナルギス被災者支援プロジェクトに関するエッセイ
ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください!
ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告
ナルギス被災者支援プロジェクト第二回活動報告
昨年12月には、ハートボックス様のご協力のもと、日本の友人たちが寄贈してくださった古着と、微力ながらも私が買い集めた冬物古着をもって山の村へ行って支援活動を行いました。これは、私が数年前より行っている山の学校支援活動です。仕事で通った多くの山の村の状況を見てから、少しでもお役にたちたいと思って始めた活動で、いままでにいくつかの山村を回って活動してきました。古着をバザーで売った利益も寄付して、学校施設の改善に使ってもらっています。彼らにとっては、今の世界経済はどうなっているのか、国内の情況はどうなっているのかということより、生きることが第一です。そして、以前にエッセイ「ゴミの中から金に書いたように、日本ではもう不要になった古着が、この方たちには必要なのです。
★山の村支援活動の写真
私は、仏様のお言葉に従って、私が生きている間、自分が出来ることを、自分が出来ないことであれば、支えてくださっている周りの方達に声をかけながら、皆様のお力と合わせて、高いところから低いところへ水が流れるように、自分たちの生活を送りながらも、誰かのお役にたてることを精一杯行っています。今後も継続的に何らかの方法で頑張って行います。「生きる価値」があるミャンマー人として存在したいと思いながら、自分の人生を創っています。
これまで、支えてきた多くの方達には、本当に心より深く感謝をしております。
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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。
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★不要になったカジュアルな夏物衣服をキンさんのプロジェクトにご寄贈ください。まとめてコンテナで送ってくださいますから、「ミャンマーのキンさんへ」と明記して、ハートボックス(静岡県)に宅配便等でお送りください。詳細はホームページをご覧ください。
2009年3月20日配信
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2009.03.03
本屋でふと手にした本が予想外に面白かったりすると、とても得をした気分になる。
『ペルセポリス イランの少女マルジ』との出会いもそうだった。ちょっとした時間
潰しに本屋に入ったつもりだったのに、すっかりはまってしまい、とうとう立読みで
一冊読み切ってしまった。途中、店員がモップで私の横を拭いてまわっていたような
気もするが全く気にもしていなかった。(本屋にとってはさぞや迷惑な客だったに違
いない。)
『ペルセポリス』はフランス在住のイラン女性、マルジャン・サトラピ(愛称マル
ジ)自身の少女時代についての漫画だが、ニュースや映画でしか窺い知ることのでき
ないイランの宗教革命前後の生活が鮮やかに描かれている。そして遠い国のことなの
に、彼女の描く世界には不思議な既視感を覚えた。中でも「正しさ」の変化について
は興味深かった。
王朝崩壊と宗教革命、そして戦争と目まぐるしく変化する状況の中で、彼女は世の中
の「正しさ」が次々と変化するのを経験する。裕福で進歩的な家庭に育ったマルジは
宗教革命前のパーレビ王朝下の学校で「シャー(王)は神に選ばれた」と習う。しか
し革命後、教科書にあるシャーに関するページを破くように言われる。さらにパーレ
ビ王朝下で投獄されていた共産主義者の伯父が、王朝崩壊と共に解放されると「英
雄」として迎えられるものの、宗教革命後に再び投獄され、「スパイ」として処刑さ
れてしまう。勝者が権力を握れば、敗れたかつての為政者は否定される。「昨日の正
義が今日の悪」になることは日本も経験したことであるし、世界中で繰り返されてい
ることだ。自由な思想の中で育ったマルジは、それらの一つ一つに反応してしまう。
彼女が生きにくくなることを心配した両親は、たった一人である我が子のためにオー
ストリアへ留学させるところで本書は終わる。続編では留学生活と帰国後の生活が描
かれる。留学先で「第三国の人間」として扱われたことや失恋。そして帰国後イラン
社会がすっかり変化していたことへの戸惑い、結婚と離婚。続編はやや暗さが漂う。
前編からは政治情勢の変化と共にマルジの生き生きとした性格やイランの様子が伝
わってくる。文字が書けないメイドに頼まれたラブレターの口述筆記にはまるマル
ジ。マイケル・ジャクソンの写真入りバッジを保守的な女性達に見とがめられると、
「これはマルコムXです」といって逃げようとするマルジ。マルジの両親はピンク・
フロイドをドライブ中に聞いているが、宗教革命前とはいえイランでピンク・フロイ
ドが普通に聞かれていたとは思ってもみなかった。日本で一般的に知ることのできる
イランの情報が限られていることを改めて実感する。「事件」でないと中東のことは
ほとんど報道されないため、「中東=事件の多い国」とすら思えてしまう程だ。だか
ら『ペルセポリス』で事件としての中東でなく、また学術書でもない、日常のイラン
が見ることができて大変面白かった。
さて所変わって日本。この2日間で面白い経験をした。一つ目はお洒落な「ニュー
ヨーク・スタイルのカフェ」の店員。50代くらいの小太りな男性で、ガラガラと大き
な声で注文を受ける。こう言っては失礼かもしれないが、こうしたカフェにはあまり
見かけないタイプである。居酒屋に居たらまったく違和感がなさそうだ。どう見ても
ほかの店員とは違っており、ひとり異彩を放っている。ところがこのおじさん、妙に
愛嬌がある。注文の品を運んでくる時もちょっとした事をお客に話し掛けたり、ケー
キセットのサービス時間が終わっていることを伝える時も、マニュアル的でない話し
方をしたりする。その様子が実にユーモラスだ。きっとこのサービスぶりが気に入っ
ているお客もいるに違いない。
そして今日。加湿機の調子がおかしいので大阪にあるメーカーのカスタマーサービス
に電話をした。担当者も当然大阪の人で、やや訛りのある声で真面目に話しているの
になぜかおかしい。これもまたコールセンターにありがたちな、妙に丁寧なマニュア
ル的な話し方ではないからかもしれない。そこに担当者の個性が反映されるのが面白
いのだ。私が加湿器の様子を伝え、「このタイプはこういうものなんでしょうか?」
と聞いた時、「いやいやそれは・・・・・・・・・確かに困りますねぇ」と担当者が
思わず呟いた同情の言葉に、何とも言えない人の良さが滲み出ており、私は必死で笑
いを噛み殺した。
丁寧なことは確かに大事で私も好きだけれど、あまりにも形式的過ぎると言葉がただ
の記号にしか思えなくなり、人と話した感じがしなくなる。気持ちが伝わってこない
からだ。会話でなくて文書でも同じように思う。これまでのイラン関係のニュースや
本で私が見つけられなかったのは、イランの人達の本音かもしれない。
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<太田美行☆おおた・みゆき>
東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本
語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。
著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共
生』第8章(三元社)2003年。
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2009年2月27日配信
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2009.02.10
2008年9月24日、成田から北京経由で、ほぼ一日かけて延辺朝鮮族自治州の延吉に到着した。今回の目的は延辺大学でSGRAフォーラムを開催するためで、私にとっては5年ぶりの訪問だった。一行は、講演者のアジア学生文化協会の工藤正司常務理事、SGRAの嶋津忠廣運営委員長と私の3名。薄暗い延吉空港には、SGRA会員の呉東鎬さんと、金香海さんの学生さんたちが迎えにきてくれていた。金さんは国際政治の専門家なので、学生さんたちは日本語よりは英語の方が得意だった。ホテルにチェックインした後、金さんと呉さんと一緒に金さんの行きつけのお店でビールを飲みながら打ち合わせをした。私たちは12時前にはホテルに戻ったが、金さんと呉さんは、なんと同じ大学に居ながらも久しぶりの機会だったそうで、明け方まで話がはずんだということだった。
翌日、金さんが、北朝鮮とロシアの国境である図們江(朝鮮語:豆満江)デルタ地帯を案内してくださった。まず、5年前と違っていたのは高速道路ができていたことである。車は一直線に進みあっという間に国境地帯へ着いた。このあたりは中国でも一番自然が残っているところだそうで、両側は木々が青々と茂っていた。「どんな動物がいるんですか?」という質問には「虎!」とのこと。道の右側に沿って流れる図們江が北朝鮮との国境である。見張りの櫓も警備の兵士も見あたらない。といっても誰も見張っていないわけではないはずだ。冬になれば凍って歩いて渡れるというが、夏でもすぐに泳いで渡れそうなほどの小さな川である。
このあたりには脱北者はいるはずだが、人々はあまり語らない。一般人が入手できる脱北者に関する情報は日本の方が多いのではないだろうか。泊まったホテルは北朝鮮系というし、レストランや旅行社など北朝鮮の人々が居ないわけではない。ただ、「独裁者に虐げられたかわいそうな人々だから、助けてあげなければいけない」ということはない。脱北者に接触したら厄介なことが起きるから関わらないに越したことはないということなのだろう。前回、北朝鮮からの留学生は北京の大学に行くと言われたが、今回は延辺大学にも来ているということだったので受け入れが拡大したのかもしれない。
北朝鮮側の羅津という町には、日本海に面する大きな港があり、中国からの物資を運ぶ輸送ルートとして注目されている。釜山へのコンテナ航路もある。一時そこにカジノがあったが、中国のお役人たちがたくさん行き浪費をするので、中国政府が禁止したそうである。「それでは、さぞかし、北朝鮮経済にとって痛手になったでしょう」と言うと、「営業していたのは香港マフィアですから」とのこと。一時非常に盛んになった図們江地域の物流は、北朝鮮の核実験でとまってしまったということを聞いたことがあったが、途中で休憩した琿春市はとても賑やかだった。
図們江は長白山に源を発し河口付近で中国領は途絶えロシア領となるが、中露朝三国の国境地域に位置する場所には展望台があり、ロシアと北朝鮮が一望でき、遠くに日本海を眺めることができる。というか、「あれが日本海ですよ」と言われると海が見えるような気がするが、地平線と海と空の境界は肉眼では定かではなかった。展望台にたどり着くまでには、右側に図們江、左側にロシアとの国境である高さ1.3mくらいの鉄条網のフェンスの間の細長い中国領が続くわけであるが、ふと見ると右側に鉄条網のフェンスがある。ということは、私たちは今ロシア領に居る???なんでも、高速道路を作る時に、川沿いの崖っぷちの元の道路が使えなかったので、ロシアと交渉してこのようになったらしい。なんとも大らかな話。
金さんが以前に休暇を過ごしたという、水道局の管理する保養所で昼食をとった。到着が遅かった上、予約が上手くはいっていなかったようで閑散としていたが、すぐに昼食を用意してくれることになった。建物の前に蓮の池と水槽があった。その池で釣りができるらしいが、水槽の中には鯉のような魚や、小魚、蟹などが居た。料理ができるのを待っている間に、近くを散歩した。トウモロコシや綿花の畑の間の道を歩いていくとダムでできた湖があった。小さな観光船のようなボートが繋がれていたが人気はなかった。のどかな農村風景であった。昼食は、そのサイズのお皿がなかったのだろう、ステンレスの巨大な器に載せられてきた5kgの鯉を始め、6人で食べても殆どを残してしまったのではないかと思うほど豪勢な食事だった。日本人としては、「こんなに残して勿体ない」と罪悪感を禁じえないのであるが、おそらくそのような心配は無用なのであろう。ちなみに、この食事が全部で470元(約8千円)と後で聞いてさらに驚いた。
途中、図們の町によった。図們江を挟んで北朝鮮と中国の町が隣接し、70年前に日本が建設したという小さな橋で繋がっていて、その真ん中が国境だった。入場料を払って橋の途中まで行く。人民解放軍の兵士がついてきた。北朝鮮側に30cmほど入って写真を撮った。私の時は問題なかったけど、嶋津さんが国境線を越えて撮ろうとしたら注意された。特に理由はなく、たまたまそうなったのだと思う。門の上に登って10分ほど橋と北朝鮮の村の様子を眺めていたが、往来は殆どなかった。大きな荷物を曳いて北朝鮮側からきた男性がひとり通っただけだった。振り返って図們の町には、新しいマンションや建設中のビルがたくさんあった。
5年ぶりの訪問で一番変わったのは、新築の建物の多いことである。途中で通りすぎた村には、屋根に太陽熱温水器をつけた同じデザインの新しい住宅がまとめて何軒も建てられ、町には新しいマンションがどんどん建設されている。この経済発展の主な収入源は、出稼ぎだという。現在、朝鮮族は韓国に50万人、日本に5万人居るという。延辺朝鮮族自治州の朝鮮族の人口は既に40%を割り、登録したまま海外へでる人もいるので、実態はさらに少ないのではないかと言う。朝鮮族が流出したことによる労働不足を補うのは漢族である。したがって、この地域では、国の政策ではなく、市場原理によって少数民族の人口比が減ってきている。朝鮮族は中国語を、漢族は朝鮮語を勉強するという。両方の言語ができるとより良い仕事がみつかり、より良い収入が約束される。いわゆるマイノリティーとしての少数民族の問題はここにはないようであった。
延吉に戻った時にはすっかり暗くなっていた。金さんが松茸を用意してくださり、羊肉の串刺しと一緒に炭火でバーベキューを楽しんだ。白酒とともに、本当に美味しかった。「日本ではめったに食べれられないから大変うれしい」と大喜びしたが、延吉でも非常に高級なもので、一緒に食事をした学生さんたちの中には、初めて食べると言う人もいた。
5年前の「延辺訪問記」はここからご覧いただけます。
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<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。
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2009年2月10日配信
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2009.02.03
SGRAフィリピンでは、現在、3つのプロジェクトを進めている。フィリピン大学機械工学部に船舶海洋工学プログラムを設立するプロジェクト、フィリピンの貧困に関するアジア太平洋大学(UA&P)と東京大学との共同研究、フィリピンの自動車産業に関するUA&P、名古屋大学との共同研究である。そして、定期的に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」を開催し、共同研究の報告を行っている。
2008年12月12日(金)にフィリピンに帰国し、早速、その翌日にフィリピン大学の機械工学部の仲間たちと会議を開いた。12月15日(月)にスービックで行う当学部に設立する船舶海洋工学プログラムについての発表の準備会議だった。発表の目的は、造船所と造船業に関わる政府機関からアドバイスや支援を得るためである。縄張りに配慮した結果、発表会は午前と午後と二回に分けた。午前の発表はスービック湾メトロ管理局(SBMA)とその管理下にある韓国の大手のハンジン重工建設社(HHIC)、午後の発表はフィリピン経済特区管理局(PEZA)とその管理下にあるシンガポールの大手のスービック造船所エンジニアリング社(SSEI)が対象である。二ヶ所とも基本的には経済特区であるが、SBMAは大統領府の直接管理、PEZAは通産省の直接管理になる。いわゆる縦割り行政である。この費用は僕ら(3人)の負担になるはずだったが、フィリピン大学機械工学部の会長がプログラムの重要性について納得したようで、スービックの発表にも参加することになったし、工学部の自動車を借りることができて、結局、高速道路料金の負担だけで済んだ。
お昼もSBMAのサロンガ会長からご馳走になった。依然として彼はこのプログラムに関して前向きで、SBMAの予算のなかに少しでも取り入れる可能性を積極的に探ってくださり、このプログラムから便益を受けそうなハンジンなどの協力を図るようにしてくれるという。一方、ハンジンの代表二人はもう少しプログラムの詳細を検討する時間を要請した。南方にあるミンダナオ島に20億ドルの造船所を建設することを検討しているハンジンは、フィリピンのような発展途上国のビジネスでいろいろと苦労しているようだが、積極的に建設工事を実施してきた。韓国人のフロンティア精神にただただ感心している。一方、SSEIはフィリピンのエンジニア評判をさらに高めた。その本社であるケペルの世界活動センターはおよそ30ヶ所があるが、そこにフィリピンのエンジニアたちを派遣する計画である。シンガポール人の開放的な考え方が印象的である。5月にまたスービックへ行く予定である。
17日(水)に発表の内容を一つのレポートに纏めて参加者へ送った。SGRA in Englishからご覧いただけるので、ご意見やアドバイスをいただけると幸いです。 東京大学の中西徹先生は、UA&Pのビエン・ニト先生との会議を22日に設定し、2009年4月に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」の一貫として、「移民と貧困:国際と国内的なパターン」をテーマにワークショップを開くことになった。中西先生はマニラ首都圏の貧困コミュニティーの研究の延長として農村から都会への移民を、ニト先生はフィリピン経済にとって大きな存在(およそ人口の10%)になった海外労働者を中心に発表する。僕は中西先生の研究の支援やワークショップの司会として務めると予定している。 自動車産業の研究は、1月7日に日系大手企業の依頼人とディナー会議をし、依頼人の勧めで、データ収集を再開することになった。全ての自動車クラスターから参加する意向を待たずに、とりあえず、依頼人からのクラスターのデータを収集し、統計的な分析を行う。この混乱の時代に、日系企業のリーダーシップと社会そのものを変える能力を期待している。SGRAの自動車産業の研究報告がまた新聞に掲載されたので、このような圧力によってフィリピン政府が動き始めているようである。(この記事のオンライン版)
実はその政府の官僚(具体的には通産省にいるUA&Pの元上司)に新年のお祝いをフィリピンの基本的な連絡ツールであるTEXT(携帯電話のメッセージ)で送ったら、翌日の7日の朝に話し合わないかということになった。SGRA報告についての新聞記事は、自動車産業に対する批判(提言)を抜いて、フィリピン政府に対する批判(提言)だけに焦点を当てているので、通産省から厳しい文句を言われるだろうと覚悟していたが、意外と慣れている様子であった。もう一人、その会議に呼ばれていた。その人はUA&Pがまだ研究所だった頃に別の部だが、僕と一緒に働いたことがあり、WTOのジュネーブ本部でのフィリピンの首席交渉人の仕事を終え、通産省に戻ってきたところであった。彼が7日の会議に参加することにより、自動車産業についてのSGRA研究報告に載っている産業開発対策のフォーミュラがフィリピンの国際協定などの制約のもとで可能かどうかを相談する貴重な機会を手に入れることができた。そのフォーミュラの概要を彼に送って検討してもらったところ、「WTOに反する部分があるではないか」という指摘が返ってきた。そこで「自由化の最も強い推進者である米国でも、自動車会社のビッグ3を一時的に保護するように転換しつつあるのだから、フィリピンも国内産業に対してそのぐらい戦略的にならないといけない」と指摘させてもらった。オバマ大統領の産業政策だけではなく、金融部門の欲望を見直す目から学ぶべきだと思う。 今年のクリスマスや新年はこのようにして過ごした。日本への帰途、マニラ空港で、初めて大人のフィリピン人同士が静かに泣いているのを見た。普通は海外に行くフィリピン人はわくわくしているのに。今年の厳しさの前兆であろうか。
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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2009年2月3日
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2009.02.03
SGRAフィリピンでは、現在、3つのプロジェクトを進めている。フィリピン大学機械工学部に船舶海洋工学プログラムを設立するプロジェクト、フィリピンの貧困に関するアジア太平洋大学(UA&P)と東京大学との共同研究、フィリピンの自動車産業に関するUA&P、名古屋大学との共同研究である。そして、定期的に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」を開催し、共同研究の報告を行っている。
2008年12月12日(金)にフィリピンに帰国し、早速、その翌日にフィリピン大学の機械工学部の仲間たちと会議を開いた。12月15日(月)にスービックで行う当学部に設立する船舶海洋工学プログラムについての発表の準備会議だった。発表の目的は、造船所と造船業に関わる政府機関からアドバイスや支援を得るためである。縄張りに配慮した結果、発表会は午前と午後と二回に分けた。午前の発表はスービック湾メトロ管理局(SBMA)とその管理下にある韓国の大手のハンジン重工建設社(HHIC)、午後の発表はフィリピン経済特区管理局(PEZA)とその管理下にあるシンガポールの大手のスービック造船所エンジニアリング社(SSEI)が対象である。二ヶ所とも基本的には経済特区であるが、SBMAは大統領府の直接管理、PEZAは通産省の直接管理になる。いわゆる縦割り行政である。この費用は僕ら(3人)の負担になるはずだったが、フィリピン大学機械工学部の会長がプログラムの重要性について納得したようで、スービックの発表にも参加することになったし、工学部の自動車を借りることができて、結局、高速道路料金の負担だけで済んだ。
お昼もSBMAのサロンガ会長からご馳走になった。依然として彼はこのプログラムに関して前向きで、SBMAの予算のなかに少しでも取り入れる可能性を積極的に探ってくださり、このプログラムから便益を受けそうなハンジンなどの協力を図るようにしてくれるという。一方、ハンジンの代表二人はもう少しプログラムの詳細を検討する時間を要請した。南方にあるミンダナオ島に20億ドルの造船所を建設することを検討しているハンジンは、フィリピンのような発展途上国のビジネスでいろいろと苦労しているようだが、積極的に建設工事を実施してきた。韓国人のフロンティア精神にただただ感心している。一方、SSEIはフィリピンのエンジニア評判をさらに高めた。その本社であるケペルの世界活動センターはおよそ30ヶ所があるが、そこにフィリピンのエンジニアたちを派遣する計画である。シンガポール人の開放的な考え方が印象的である。5月にまたスービックへ行く予定である。
17日(水)に発表の内容を一つのレポートに纏めて参加者へ送った。SGRA in Englishからご覧いただけるので、ご意見やアドバイスをいただけると幸いです。
東京大学の中西徹先生は、UA&Pのビエン・ニト先生との会議を22日に設定し、2009年4月に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」の一貫として、「移民と貧困:国際と国内的なパターン」をテーマにワークショップを開くことになった。中西先生はマニラ首都圏の貧困コミュニティーの研究の延長として農村から都会への移民を、ニト先生はフィリピン経済にとって大きな存在(およそ人口の10%)になった海外労働者を中心に発表する。僕は中西先生の研究の支援やワークショップの司会として務めると予定している。
自動車産業の研究は、1月7日に日系大手企業の依頼人とディナー会議をし、依頼人の勧めで、データ収集を再開することになった。全ての自動車クラスターから参加する意向を待たずに、とりあえず、依頼人からのクラスターのデータを収集し、統計的な分析を行う。この混乱の時代に、日系企業のリーダーシップと社会そのものを変える能力を期待している。SGRAの自動車産業の研究報告がまた新聞に掲載されたので、このような圧力によってフィリピン政府が動き始めているようである。(この記事のオンライン版)
実はその政府の官僚(具体的には通産省にいるUA&Pの元上司)に新年のお祝いをフィリピンの基本的な連絡ツールであるTEXT(携帯電話のメッセージ)で送ったら、翌日の7日の朝に話し合わないかということになった。SGRA報告についての新聞記事は、自動車産業に対する批判(提言)を抜いて、フィリピン政府に対する批判(提言)だけに焦点を当てているので、通産省から厳しい文句を言われるだろうと覚悟していたが、意外と慣れている様子であった。もう一人、その会議に呼ばれていた。その人はUA&Pがまだ研究所だった頃に別の部だが、僕と一緒に働いたことがあり、WTOのジュネーブ本部でのフィリピンの首席交渉人の仕事を終え、通産省に戻ってきたところであった。彼が7日の会議に参加することにより、自動車産業についてのSGRA研究報告に載っている産業開発対策のフォーミュラがフィリピンの国際協定などの制約のもとで可能かどうかを相談する貴重な機会を手に入れることができた。そのフォーミュラの概要を彼に送って検討してもらったところ、「WTOに反する部分があるではないか」という指摘が返ってきた。そこで「自由化の最も強い推進者である米国でも、自動車会社のビッグ3を一時的に保護するように転換しつつあるのだから、フィリピンも国内産業に対してそのぐらい戦略的にならないといけない」と指摘させてもらった。オバマ大統領の産業政策だけではなく、金融部門の欲望を見直す目から学ぶべきだと思う。
今年のクリスマスや新年はこのようにして過ごした。日本への帰途、マニラ空港で、初めて大人のフィリピン人同士が静かに泣いているのを見た。普通は海外に行くフィリピン人はわくわくしているのに。今年の厳しさの前兆であろうか。
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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2009.01.30
昨年の夏休みと今年の冬休み、二十数年ぶりに韓国を吟味することができた。
昨年の夏休み、恩師の娘にソウル市内の案内をした。私にとって来日以来、ソウルが堪能できる機会になった。彼女から町をぶらつくだけでも良い観光になると言われ、二人は目的地も決めずに町に出た。旧家を改造した食堂やお土産屋が集まっている仁寺洞(インサドン)という町に行った時のことだ。光復節(8月15日)が近かったからだろう。光復節に因んだイベントに出会えた。一休みしたいという気持ちもあって、真ん前の席でイベントが始まるのを待った。イベントの内容はマイクを持って「私は誇らしい国旗の前で国に忠誠することを誓う」と書かれている垂れ幕の文書を声を張り上げ読むと国旗で作った小さい洋傘とキーホルダを商品としてもらう、というものであった。参加者一人一人の顔はみんな真剣そのものであった。厳粛な雰囲気に飲み込まれそうだった。それ以上面白半分で見物する訳には行かずその場を去った。
外は暑いし、毎日テレビを見ながら明け暮れた。耳にたこができるほど良く使われている言葉がある。「国民」だ。国を代表するほど人気がある歌謡歌手や俳優を指して「国民歌手」とか「国民俳優」というし、テレビ局では自社が良き放送局であると宣伝するとき「国民の放送○○放送」という。「国民」が使われている場面を取り上げようとすると枚挙にいとまがない。一所懸命「国民統合」に努めている国の努力が伺える。どの国も「国民統合」を願う。しかし、他の国はここまではしない。なぜ、韓国はここまで「国民統合」に力を注がなければならないのか。 各自の仕事に責任を持って一所懸命やることも突き詰めていくと「国民統合」に突き当たる。にわかには理解しがたいかも知れない。少し整理しておこう。「国民統合」の対照的な言葉は「個人主義」あるいは「利己主義」であろう。
われわれは頻繁に利害をおいて選択に迫られる場面に遭遇する。その時の選択基準はそれぞれの価値観であろう。簡単に3種の価値観、すなわち、功利主義、パレート最適、利己主義について述べよう。 まず、「功利主義」についてだが、これは所得分配の公正基準に用いられる倫理学・哲学の専門用語で、全体主義の立場から自分の利益だけを特別扱いする利己主義に反対し、「最大多数の最大幸福」(全体の利益を増やす行動=善)を主張する。すなわち、功利主義においては全体の利益の総和が最も重要視される。ある行動をすれば、自分には10の損が発生し、相手に20の得が発生する場合でも、功利主義的価値観を持つ個人ならその行動を選択する。自分と相手の損得を差し引きした場合、得の総和が10増えるからだ。しかし、実際、生身の人間が全体の得の総和が増えるからといって自分が損する行動を選択するであろうか。
次に、「パレート最適」についてみよう。これも経済学の専門用語で、「相手を損させない限度内で個人の利益追求が許容される」という利己的行動の最終ラインが引かれている。倫理的・道徳的個人の価値判断基準はこの「パレート最適」であろう。 最後に、利己主義についてだが、この価値観には自己の利益追求に限度がない。たとえ、相手に20を損させて自分に10の得がある場合においても、その行動が選択できる。しかし、道徳的・倫理的個人であれば、この利己主義的価値基準に基づく行動はしないであろう。 数日前、急いでいたので、バス停2個ほどの短距離を、タクシーに乗った。40分以上かかった。なぜかって?遠回りをしたからだ。3回タクシーに乗ったが3回ともそうだった。タクシーに乗るたび、必ず運転手さんから「そこはどこですか?」と聞かれる。そこがどこかを予め把握しておくのはあなたのお仕事でしょう、と心の中で呟きながら行き先に電話をして運転手さんに受話器を渡す。他人を喜ばせる気持ち(功利的)があると言えるだろうか、他人に迷惑を掛けるまいという気持ち(パレート最適的)があると言えるだろうか。
夜遅くまでお酒を飲んだのでタクシーのお世話にならなければならなくなったことがあったが、寒い12月の夜、コンビニの前で夜明けを待ってタクシーに乗って帰った。私がとくに警戒心が強いだろうか? 多くの場合、国の価値判断基準は「功利主義」であり、国民個人のそれは「パレート最適」である。上記のタクシー運転手さんの価値基準は「利己主義」であると言える。遠回りをすれば、約束時間に遅れたお客さんには20の損が発生し、売り上げが上がった分運転手さんには10の得が発生する。功利主義的基準からすれば、総和で10の損になるので、そのような選択はできない。また、パレート最適価値基準に照らしても相手に損をさせ自分が得をすることになるので選択できない。利己主義的基準に基づいているため、そのような行動が選択できたのだ。
少なくとも日本人はパレート最適価値判断に基づいて行動すると思われる(過大評価かも知れませんが)。電車の中で何を言われても泣き止まない子供が「他人の迷惑になるから止めて」と言われたとたん泣き止んだのを見たことがある。若干無理はあるが、他人に損をさせないというパレート最適が適用できる。 知人に植木を手入れするはさみを作る職人がいる。自宅に行ってみると、はさみを作る装置より各種植木が占領しているスペースが広く、さらに植木を世話する手間が大変だと言われた。その友人は植木に関する研究会やシンポジウムには欠かさず参加し、植木の勉強をしている。聞いたところ、「植木について徹しないと良いはさみは作れないよ」と答えてくれた。彼はパレート最適基準を超え、功利的価値判断で行動をしていると思った。はさみの売り上げの10をほとんど良いはさみ作りに費やし、はさみを買ってくれた人に20の喜びを与えるために努めているからだ。
このような日本人に、自己より他人・コミュニティ・国を思う気持ちが持てるように仕向ける必要はない。国民統合や愛国心は自己以外の者に配慮する、さらには自己以上に自己以外のものに配慮するということである。いうまでもなく、愛国心は洗脳したり、煽ったりして作られたものより国民の心の底から自然と出てきた方が良いに決まっている。しかし、国の功利主義的価値観と国民(すべての国民ではないが)の利己主義的価値観の間に大きい乖離が存在するなら、それを狭める手段として国民統合や愛国心を洗脳したり煽ったりすることもやむを得ないかも知れない。
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<羅 仁淑(ら・いんすく)☆La Insook>
博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。
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2009年1月30日配信
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2009.01.27
バスの警笛に私は目覚めた。街津口に着いたのだ。乗客は降り始めた。今日はフェイフェイの姿が見えない、私が前もって具体的な時間を電話で言わなかったためだ。夏場の町は冬場と比べると、活気が多く、道端で数人が屋台をならべ、スイカや瓜を売るもの、自家作の野菜を売るものがいる。村に唯一軒の売店も開いていて、中を見ると生活用品が乱雑に並べられている。道を行くとすぐ尤文蘭の家についた。彼女はオンドルの上で魚皮の服を縫っている。聞くと、街津口でホジェン族の魚皮工芸品展覧会があるので、展示するために用意しているのだという。話しているうちにフェイフェイが外から駆け込んできて、あえぎながら「同級生の家に遊びに行って帰ってきたらもうバスは着いていたの」と言う。
半年も見ないうちにフェイフェイは美しい娘になった、身に着けているものは全て私が冬にあげたものだ。短いジーパンをはき、肩紐のついたシャツを着ている。「あら、お洒落な女の子だね」と驚いて言った。この着こなしは、東京の最新の流行だ。彼女の祖母尤文蘭はいう。「夏になって、この服をきてから、着替えようとしない。毎日この格好なの」。私は知っている。田舎の人は毎日服を着替える習慣がない。習慣がないと言うことは、経済的余裕がないことである。一人が四季を通じ数着の衣服しかもたず、毎日着替える余裕がないのだが、フェイフェイがこの服をどんなに気に入ったかということも解った。
私が最も知りたいことはフェイフェイの高校進学のことだ。彼女は、発表はまだだと言うが、できは悪くなく、見込みがないわけではなさそうだ。私は慌てて「高校へ合格しなかったら、大学にもいけなくなるのよ」というと、彼女は何も言わない。私もそれ以上聞けず、発表を待つしかない。
仕事の時間以外は、いつもフェイフェイと一緒にいた。私たちは川辺の釣魚台へ行き、山里のホジェン族の郷土園をみた。そこには、ホジェン族のいろいろな伝統的な生産生活用具から民族習慣を写した写真などを展示している。ホジェン族の伝統的な魚皮工芸品は、観光客に売るためである。
フェイフェイは言う。「高校に合格できなかったら、川辺で民族工芸品店を開きたい。きれいなお店を開いて、祖母が持っている写真や、作った魚皮服や、魚皮を切り張りにした絵などいろいろなものを並べるの。日本にも持ち帰って、皆に見せて」と希望に満ちた目で言った。しかし、彼女は一寸考え込んでから言う。「もし合格しても、高校へ行けるかどうかもわからない」私はそれを聞いて一寸つらくなった。
夜尤文蘭にたずねた。「高校へ入学すると一年にいくらかかるの?」彼女はいう。「小中学校は義務教育だけど、高校は自分で沢山お金をださなければならない。村には高校がないので、同江市へ行って勉強しなければならないから、学費以外に、寄宿と食費を加えると、一年に1万元位かかる。いま彼女の母が政府の援助でテンを養殖しているが、まだ利益がでない」。私は、もしフェイフェイが合格したら、私が学費を出してもよいと思った。
翌々日、尤文蘭はフェイフェイに一通の手紙を渡して「見てごらん」という。私が見ると同江市のある高校からの通知書である。「フェイフェイは合格した!」私は興奮して叫んだ。しかしフェイフェイは意外に思ったのか、ただ微笑でいた。外出したとき、村の道で、フェイフェイのお母さんが数人の女性と立ち話をしているのを見つけた。私は急いで彼女に「フェイフェイが合格したよ」と言ったのだが、彼女の表情は変わらず、「自分とは関係ないよ」というような感じで「そう」と言っただけだった。私は戸惑った。まさかうれしくないことはないだろうに?都会の母親ならば、待ち望んでいたことでないか?
尤文蘭一家は間もなく開かれる展覧会の準備に忙しく、フェイフェイも例外ではない。合格したことはもう話さなかった。卒業までまだ日がある。私は一週間の調査を終えて、あわただしく街津口を離れた。
街津口の後、長春に行き満州族関連の資料収集の仕事をした。長春では、甥の家に泊った。その夫婦にはフェイフェイと同年の女の子チンチンがおり、彼女も高校受験である。私が行ったとき、通知がきて、比較的良い高校に合格し、家族全員喜んだ。夏休みになり、高校も決まったのに、チンチンは毎日朝早く出て夜帰るという忙しさだ。朝早く父親が車で彼女を送り、夜母親が車で迎えに行く。私は高校課程の補習塾と知り、やっと事情がわかった。高校入学後学業について行けないことを心配して、このような補習塾がある。余裕のある学生はほとんど皆通う。高校の競争率はさらに高くなり、遅れをとると大学合格に決定的に不利になる。学生ばかりでなく、親たちも緊張する。都会の子供にはどんな休みもない。普通の学校の学習以外に、やり尽くせない宿題をしなければならない。親も子供に、ピアノを習わせたり、外国語を学ばせたり、多く習い事をさせ、このような学習塾はますます多くなる。
私は、フェイフェイのことを思い出した。高校始業も近いから、彼女も決めなければならない。電話をすると、尤文蘭の声だ。すぐにフェイフェイのことをたずねた。「開店資金を準備するため、フェイフェイはハルビンへ働きに行った。今レストランでウエイトレスをしている」という。私は言葉を失った。その年、村では10人の子供が高校に合格したが、誰も進学しなかったという。
翌日、成田へ向かう飛行機は予定通りに出発し、間もなく海に出た。空と海は一面紺碧であったが、私の心は重かった。
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<于 暁飛(う・ぎょうひ)☆ Yu Xiaofei>
2002年千葉大学大学院社会文化科学研究科より学術博士を取得。現在日本大学法学部准教授。専門分野は文化人類学、北方民族研究。SGRA会員。
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于さんのエッセイの前半は下記URLよりご覧いただけます。
于 暁飛「ホジェン族の少女(その1)」
于 暁飛「ホジェン族の少女(その2)」
現地の写真
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2009.01.20
2008年8月、私は夏休みを利用して、ホジェン(赫哲)族居住地黒龍江省街津口村を訪れた。1999年にホジェン族現地調査を始めてからこれでもう10数回になる。今回の調査の目的はホジェン族の夏季漁業の状況を知ることである。
バスは松花江に沿い三同国道を飛ぶように走る。いつも来た道で、両側は一面見渡す限り大豆ととうもろこしで、緑は濃くつやつやと光り、今年は豊作であることを人々に示していた。私が来るのは夏か冬なので、一面の緑でなければ、一面の雪である。バスが揺れるたびに、この前の冬に来たときのことを思い出し、すぐにでもあのホジェン族の少女に会いたいと思った。
あの冬も、同じようにこの国道であった。気温は昼でも零下20数度、郊外に着くと白く霞んでいて、全て白い雪で覆われていた。とうとうと流れていた松花江、黒竜江は巨大な銀色の竜のように、北方大地に静かに冬眠している。バスは松花江とアムール河の合流点に着くと、それから30分走り、街津口村に駆け込んだ。
バスを降りると、すぐ目に飛び込んできたのは、私が思い描いていたあの顔、霜焼けで赤くなった顔が白い雪に照らされて、まるで一輪の牡丹のようだ、「フェイフェイ、迎えに来てくれたんだ」と言い、私は忽ち寒さを忘れて、フェイフェイと抱きあった。「あなたが迷うのではないかと、おばあさんが私を迎えによこしたの」。私は笑い出した、その街津口村には一本の道しかなく、入り口から山里まで一直線にはしり、丘を越すとアムール河である。余りに簡単だが、それでも私が迷うかもしれないというのは、家がみな同じ形で、特にここ数年の間に建てられた新しい村の住宅は、造りも全て同じで、そのため来るたびにあちこち探してやっとたどり着くからである。
フェイフェイは、ここ10年私が調査の対象としている尤文蘭の孫娘である。1999年の冬以来、ホジェン族の調査のたびに、尤文蘭一家と非常に懇意にし、私を家族の一員として扱ってくれる。私は、街津口に行くたび、家に帰ったように感じる。そのときは、フェイフェイがまだ小学校に上がる前で、彼女の母は離婚して、再婚したので、それ以来ずっとフェイフェイは同じ村に住むお祖母さんと一緒に暮らしている。
フェイフェイは非常に可愛い子で、肌が白く目が大きい。髪と瞳は少し黄色みがかり、まるで西洋の人形のように、可愛い。私はいつも彼女にこう言う。「あなたには、どうしてロシアの血が混ざったのかしら。」フェイフェイは歌が好きで、踊りが好きだ。暇があると腰をまげたり、脚をあげたりして、体がとても柔らかい。彼女が踊っているのを見るたび、頑張りとおすよう彼女を励まし、大きくなったら北京へ行き、中央民族大学に入り、スターになり、ホジェン族の歌を歌い、ホジェン族の舞を踊りなさい、そのためには、一生懸命勉強しなければねと勧めた。フェイフェイはそのたびに澄んだ円らな目を輝かせ、頷くのだった。このことは、私たち2人の約束のようになり、いつしか私の希望となり理想となった。フェイフェイを外の世界に出してあげれば、スターとしての素質を持っているから、将来必ず大スターになる。このまま埋もれさせてはいけない。
この山紫水明の里の大自然の懐に包まれ、フェイフェイは五穀雑穀を食べながら、天真爛漫に成長した。今、私の前に立つフェイフェイは、私が日本から持ってきて彼女に与えた赤いダウンコートを着て、ジーンズを穿き、非常に垢抜けしており、東京原宿の街中を歩かせても、誰も彼女を鄙びた中国辺境の村の娘とは思わない。私は行くたびに自分の不要になった衣類を持って行き、彼女らに与えた。私は、所属している渥美財団の新年会にはできるだけ参加している。皆さんと顔を合わせるほか、不要になった衣類のリサイクルコーナーがあるからだ。実際のところ、いくつかは私も好きなブランド品もある。そのときは、私はフェイフェイのため、似合いそうな洒落た衣服を数着選んだ。これらの素材とスタイルの服は、この鄙びた村には見られず、買おうとしても買えず、また買う余裕も無いから、ちょうど良いお土産である。(続く)
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<于 暁飛(う・ぎょうひ)☆ Yu Xiaofei>
2002年千葉大学大学院社会文化科学研究科より学術博士を取得。現在日本大学法学部准教授。専門分野は文化人類学、北方民族研究。SGRA会員。
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2009.01.16
------「庄子心得」シリーズについて------------
中国では、2006年に「学術超男と学術超女」の話題がメディアに取り上げられ、国中に宣伝された。中国の中央テレビ(CCTV)で放映されたのは、有名大学の教授達が、これまで非常に難しいとされていた国学(中国古典文学)を易しく大衆に解説し、啓蒙する番組である。なかでも、「三国誌」を解説したアモイ(厦門)大学教授の易中天氏(男性)と、中国古典書のひとつである「庄子」を解説した北京師範大学教授の于丹氏(女性)は、それぞれの的確な理解と簡潔明瞭な解説を以って、中国で一躍有名になった。テレビ番組は本に纏められ、それぞれ「品三国」「庄子心得」と名づけられてベストセラーとなった。これまで中国の大学の先生たちは、黙々と研究や教学に努め、マスメディアにでることなく、スーパースターとは全く無縁だった。しかし、今や、学者も国学解説によって学術超男と学術超女となったわけである。
国学が復興したといわれる現在の中国であるが、その原因を分析すると、改革開放30年近くの歳月を経て、徐々に豊かになっている国民は、物質生活だけでなく、精神的な支えも求めるようになったといえるだろう。豊かな中国の古典文学を、現在起きている身近な事象に引き寄せ、易しい説明を加えることによって、金儲けと出世をめざして常に競争に晒され、負組みに陥ることへの恐怖心から常に頑張って緊張している大多数の国民の心を癒すものとなったである。
私は、上海の企業での仕事を辞めて学界に戻ってから、時間的に多少余裕が出てきたので、上述の「品三国」と「庄子心得」を読むようになった。特に、于丹氏によって解説された「庄子心得」における、彼女の独自のロジックからたくさんのヒントを得、少しずつ感想として書き出し、ブログに載せるようになった。そのいくつかを、SGRAかわらばんの場をお借りして、皆様とシェアさせていただきたい。このシリーズが皆様の癒しとなり、テンポの速い生活のなかでも、ときどき空気に漂うスローライフの淡い……淡い香を感じていただければと思う。
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● 生活の態度--達生
昨年の11月で、中国は改革開放政策の実施以来、30年の歳月が過ぎ去った。連日、テレビ、新聞、ネットなどの各種メディアはこの話題を取り上げ、さまざまな形で過去30年の中国の改革の成果を顧みた。なんら疑問なく、過去30年間に中国は、かつて世界銀行に「東アジアの奇跡」と呼ばれたNIESやASEANの成長を凌駕するほどの急速成長を遂げ、人々を錯乱させるほど劇的に変貌した。このような急変化をもたらしたプロセスのなかで、人々は経済成長の速いテンポに共振し、経済成長がもたらした成果をエンジョイすると同時に、大きなプレシャーも背負って、時には迷走しながらも、人生を潜り抜けていく。
アメリカのサブプライムをきっかけに、世界経済に大きな打撃を与えた金融危機は、人々の生活に大きな妨げをもたらしている。輸出依存の強い中国経済も例外ではない。マクロ経済は比較的に健康的な軌道に乗って走っているが、ミクロ面では、特に、輸出依存型の中小企業に多大な損失をもたらし、部分的ではあるが壊滅的な打撃を与えている。長江デルタ、珠江デルタの労働密集型企業は多数破産している。さらに、一般市民は株市場に依存する人が多く、株市場の連月暴落(SHANGHAI STOCK EXCHANGE INDEX:6000ポイントから2000ポイントまで)も人々の心に大きな動揺をもたらし、自殺した人さえいた。
急速に市場化が進む中国では、隣の人が日々変わり、町の様子も日々変わっている。こうした発展は確かに経済によい影響や成果を出しているが、激しい変貌についていけない人もいっぱいいる。自分の明日はよくなるであろうと思っていても、実際はどうなるのだろうかと戸惑い、生活面で挫折や曲がり角にぶつけると、悲しい事件の発生も避けられない。
経済発展を遂げつつある現代中国の一面である。さまざまな問題を抱えながらも、人々は懸命に生きているのも事実である。しかし、こうした問題は中国だけでなく、世界のほかの国も面しているはず。そして、現代中国だけでなく、古代中国人も同じであったはず。こうした問題に面して、中国古代の人々はどう生きぬいてきたのかを、庄子は、自分の人生経験をもとに、さまざまな知恵をわれわれに教えている。その一つは、生活に対する態度である。
「庄子」全章を読むと、庄子の生活態度を二つの文字にまとめることができる。それが「達生」である。「達生」とは、生活やいのちに対する闊達さである。庄子の言葉で言うと、本当の「達生」とは、「達生之情者、不務生之所無以為」である。その意味とは、「本当に生命の真相を理解している人は、いのちに必要でないものを追求しない」ということである。すなわち、経済発展につれて、豊かになっている人々は、従来の生活スタイルを変え、高品質・健康的な生活スタイルを追求すると同時に、生活やいのちに闊達の態度が必然となってくる。寛容な心を以って、日々生活に面し、自分の目標を追求していくことが大事であり、「生年不満百、長懐千歳憂」(注釈:生きている歳月が百年に足りないのに、常に千歳の憂いを抱えている、すなわち、日々心配事ばかりを考えていることである)の状態にならないように努力していくことが重要である。
当然、常に闊達な生活態度を以って、日々履行していくのも容易なことではない。というのは、人間社会では、さまざまな人が生存し、さまざまな考えを持ち、生活の場面で日々ぶつかっていくのだから、常に摩擦を生じ、不平不満がでてくる。たまには、大変腹が立つことにもぶつかるし、どうしても理解できないこともでてくる。いちいち平常心で対面していくのも難しい。それが人間社会の正常態である。つまり、「人生不如意事十之八九」である。
とはいえ、困難だからできないことでもない。庄子の生涯では、ずっと「達生」を体験し、常に寛容な心を以って苦しい生活に面し、いろんな知恵を現代の人々に残していた。「達生」とは庄子の生活態度である。現代人にとって、どれだけ闊達で豊かな人生を得られるのかは、人それぞれであり、人の成長環境、質、理解力などで決まると考えられいる。しかし、毎日、その生活態度を心に銘記し、履行していけば、自分の理解できる闊達人生を得られるはずだ。
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<趙 長祥(チョウ・チョウショウ) ☆ Andy Zhao>
2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国海洋大学法政学院で講師を務め。専門分野は企業戦略とイノベーション、公共管理と戦略。SGRA研究員。
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庄子心得シリーズ①「独対寂寞、静観吾心」
庄子心得シリーズ②「心中の田園」
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2009.01.13
シンガポールを紹介する本やウェブサイトなどでは、必ずといっていいほど「Singapore is a Fine Country!」という言葉が目につきます。平常時なら「天気がいい」とか「気持ちがいい」もしくは単なる「美しい」という意味をもつFineなのですが、TPOを変えれば、なぜか「罰金」という意味に変貌してしまうのです(ときに英語も日本語に負けないぐらいややこしいですね)。さっきの言葉に戻りますが、つまり「シンガポールは美しい国なのですが、罰金大国でもあります!」ということに対するシンガポール人の一種の自嘲的な皮肉です。シンガポール以外の国なら「あ、すみません、ついうっかり…」ということとして片づけられそうなことでも、シンガポールではことごとく罰金の対象とされてしまうのです。
ゴミやタバコのポイ捨て、路上でのタン吐き、冷房の効いている場所での喫煙や、交通規則を無視しての道路横断などの「けしからぬ」行為に罰金がつくことぐらいなら、シンガポールではもう小学生でも熟知している常識です。そのほかに、罰金制度のマイナー部分では、例えば公園の花を摘むと罰金(花は花屋で買ってください)、カラスやハトなどの野鳥に餌をやると罰金(そんなに鳥が可愛いのなら、ペットとして家で飼ってください)、トイレで水を流さないと罰金(誰がどこで見ているのかは知りません)、地下鉄やバスの中で飲食することはもちろん、可燃性のものやドリアンの持ち込みでも罰金(にんにくと同様、それ以上に個性的な臭いをもつドリアンの場合でも、一緒に食べたなら問題はないのですが、周りに一人でも食べていない人がいたら、その人の鼻は間違いなく地獄に陥ります。そう、まさに酸鼻の地獄!)などの罰則もあります。
とりわけ、地下鉄での罰則については、僕にはちょっとほろ苦くも恥ずかしい記憶があります。時はずいぶん遡りますが、シンガポールで初めて地下鉄ができた頃、当時青春真っ盛りの僕は日本で花の大学生生活を送っていました。それである年ひさびさに帰国した僕は、ずっと気ままに東京の電車網を使っていたせいもあり、当然ながらシンガポールの地下鉄の壁に貼ってある罰則に圧倒されてしまったわけです。これもダメあれもダメで、つまるところシンガポールの地下鉄は乗るだけの乗り物です。「フン、アホくさ、こんな国を出ておいて良かった」と自分の国をバカにしたように鼻で笑った僕にはすぐそのツケが来ました。ガムや飴を食べることも原則的にできなかったので、退屈していた僕は普通に本を取り出して読書を始めました。それから間もなく周りの冷たい視線を感じ取った僕はハッとしました。まさか、ノー・リーディング!?と僕はその場でいきなりいつものクールさを失って慌てて本をかばんの中に突っ込みながらも、警戒しながらきょろきょろ周りを見回しました。「ナニをやってんの、こいつ?」と周りの空気がさらに冷たくなったのは言うまでもありません。本当のアホは僕でした。周りの人々が僕を見ていたのは恐らく僕にひげがあったのと(シンガポール人は一般にひげを生やさない)、乗る距離が短いから普通は地下鉄の中で読書をしないためなのでしょう。とにかく、学力重視のシンガポールが地下鉄でのリーディングを禁止するはずがありません。このエピソードは、罰金制度がいかに身に染みついていて、またいつも誰かに見られているかもしれないと思う自分を見事に映し出したものでした。本当に恥ずかしいというか、情けないです。でも、この話を友達に話したら、「お前だけだよ!」と皆の失笑を買っただけでした(笑)。
そしてシンガポールの罰金制度の王様といったら、さきほども少し話に出ましたが、それはもうなんてったってチューインガムの禁止令なのです。なんでチューインガムがシンガポールにそこまで憎まれなければならないの?という質問をよくされますが、う~ん、大した理由はないですよ。まあ、でも視点を変えれば大した理由もあったかもしれません。
時はまた遡りますが、僕がそれもまた青春真っ盛りの高校生だった頃まではチューインガムはシンガポールでも普通に噛まれていました。でも噛んだあとのガムを、ポイ捨てはダメなわけですから、シンガポールの若者はこっそりとあちこちに貼り付けたりしていました(もちろん僕はやりませんでしたよ)。そしてそれがエスカレートしてしまって、その後できたばかりの地下鉄の座席の裏やドアの隙間に突っ込んだり、団地のエレベーターのボタンに貼り付けたりするケースが続出して、そのため地下鉄の運行に支障を来したり、またエレベーターのボタンがベタベタと汚くて押せないという苦情が増えたり…とにかくガムは「公害」そのものだったわけです。もちろん、悪いのはそのような悪質ないたずらをした若者であり、決してガムではありません。でも美しい国を作ることを目指してきたシンガポールにとって、ガムは目障りでしかありませんでした。それで「ガムを噛むな!」という禁止令が90年代の頭に出され、一日にしてガムはシンガポールから姿を消し、今日に至ったわけです。
そしてガムの大量持ち込みには最高罰金である1万シンガポールドル(2008年12月現在、63万円ぐらい)がついてしまいました。まあ、「大量」はいったいどれぐらいの量を指すのかは明文化されていませんが、僕が捕まったときの経験からいうと、8箱ぐらいですかね。そうです、カミングアウトします。僕はその昔ガムの密輸で警察に連行されたことがあるのです。うそではありません。僕は前科もちです。はい、説明しますね。
ガムは、シンガポールにはもうありませんが、国境の大橋を渡ればマレーシアにはたくさんあります。そしてあるとき、僕は8箱のガムをシンガポールに持ち込もうとしましたが、またひげのせいか税関で足を止められ、かばんの中身をチェックされてしまいました。「これは何ですか」と税関の捜査官。「ガムですね」と潔く正直に答えた僕。「ついてこい!」とその後僕は連れていかれた冷房の効きすぎの小部屋で名前とその他の個人情報を書かれました。「1万ドルもってないよ!」と叫ぼうとしたところ、「初めてだから、見逃してやるよ」と捜査官は一瞬にして天使になりました(まあ、正確にいえば、捕まったのは初めてでしたが、ガムを「密輸」したのは数回目でしたけどね)。
以上が、僕がシンガポールの法に触れた最初で最後の体験です。本当です。この僕の前科に関するエピソードからもわかるように、シンガポールの罰金制度は確かに細かくてうるさいのですが、僕の周りに罰金を取られたという人はそんなにいないです、というか、いないです。そのアバウトさというか、ゆるさがシンガポールも結局東南アジアの国だなぁと思わせるところです。また、敢えて法を犯すようなことを皆はしないというか、要はルールをきちんと守り、「けしからぬ」行為をしなければいいわけです。
ただ、ガム禁止令のせいでシンガポールの今のほとんどの子どもがガムも噛めないという現実が少し寂しいと思います。例えば、僕が日本から「少量」のガムをシンガポールに持ち込み、甥っ子とか姪っ子に与えようとしたら、いつも兄夫婦と弟夫婦に慌てて止められたりします。なぜなら、甥っ子や姪っ子は噛んだあとのガムを吐き出すことを知らず、飴だと思ってつい飲みこんでしまうからです。ガムを噛めなくてもいいと兄夫婦と弟夫婦は言いますが、ガムを噛めずに一生を終える人生なんてやはりどこか寂しい気が僕はします。
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<シム・チュンキャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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