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エッセイ201:オリガ・ホメンコ「エレーナの指輪」

【人物で描くウクライナの歴史⑤】

キエフ大学に入ってから、ほとんど毎日ある建物の前を通っていた。隣には公園があるから、きっと毎朝バルコニーから眺めていたに違いない。今その建物は博物館になっているけど、ずっとそうだったわけではない。ロシア革命の前は、その建物に住んでいる人がいた。

 

 
ほとんど毎日通っているのに、昔そこに住んでいた人の話は何も知らなかった。ところが、あるおばあさんと町の建物の歴史についておしゃべりしていたら急にその話が出て来た。そのおばあさんは、右手に小さな宝石が入っている指輪をしていた。昔風の繊細なデザインのもので、宝石も小さくて、ちょうど小柄な彼女の小さい手にあっていた。ある日、彼女のお母さんの話をしていたら、その指輪やあの建物の話に繋がって、溢れてきた。

 

 
おばあさんのお母さんは若い時に好きな人がいた。彼は裕福な家族で、ウクライナに砂糖工場をたくさん持っていた人の息子だった。彼の父親はキエフや郊外にたくさんの立派な家を持っていた。あの公園に面している建物、今は博物館になっているあの家も、そのひとつだった。彼は小さい時からあの家で育って、あの公園で遊んでいた。大学に入ってからも、授業をさぼって友達と一緒にあの公園で過ごしたこともあった。彼は金髪で背が高くて、小さい時からフランス人のベビーシッターがついていたのでフランス語がぺらぺらで、家ではフランス風に「ニコリャー」と呼ばれていた。おばあさんのお母さんと同級生だった。二人とも二十歳の時に恋して、いつか結婚するでしょうと皆思っていた。

 

しかしその年の秋になると革命が起きて、彼の家族は国外に移ることを決めた。フランス語が話せて、パリに家があったのでそこに行くことにした。彼は、おばあさんのお母さん、愛するエレーナも一緒に連れて行きたかった。しかしエレーナは家族も一緒でないと行けないと言った。そのとき彼女の親は国外に出られる書類など持っていなかったので、取りあえずニコリャーが先に行って、その後に皆が行くことにした。

 

パリに行く前にニコリャーはエレーナに結婚を申し込んだ。そして一緒に町の一番良い宝石店に婚約指輪を選びに行った。彼は、愛するエレーナのために一番高価な指輪を買いたかったが、彼女は繊細なデザインで小さい宝石の指輪が気に入ったので、それを買ってもらった。まもなくニコリャーは両親とパリへ行き、エレーナはその指輪をはめてキエフで暮らしていた。もう少したつと革命や第一次世界大戦が起きて、町は大混乱に陥り、国外に出る書類どころではなかった。そして一回国外に出た人が戻ることもなかった。最初の頃は、パリから手紙や食料品の入った郵便物などが届いていたが、少したつと外国との連絡を絶たれた時代が訪れた。ニコリャーがパリで元気にしているか聞くことさえもできなくなった。

 

年をとった両親は社会の激しい変化に堪えられず、次々に亡くなってしまった。エレーナは一人ぼっちになるのが怖くて、もう一人の同級生と結婚してあげた。しかし結婚してもあの指輪を外すことはなかった。旦那はその話を良く知っていたが、反対はしなかった(外してくれとも言えなかった)。結婚しても彼女のプライバシーを尊重していたに違いない。

 

砂糖工場をたくさん持っていたニコリャーの家族が戦争を生き延びたのか、パリかまた別のところで元気にしているかさえも分からない。エレーナが亡くなる数年前に、娘がインターネットで探してみたが見つからなかった。もう誰もいないかもしれない。あるいは、名前を変えたのかもしれない。そしてエレーナが亡くなった時、娘がその指輪を受け継いだ。その時から外さないでずっと着けている。名前を変えても、あの指輪の話を知っていたら、もしかして、いつかどこかで誰かが気づいてくれるかもしれない。気づいたらエレーナのお墓参りを一緒にしてくれるかもしれない。

 

その話を聞いてから、あの建物の前を通るといつもニコリャー、エレーナとその指輪のことを思い出す。もう二人ともこの町にいない。彼の父親が持っていた砂糖工場もない。彼の家は誰でもはいれる博物館になってしまった。しかしながら人の記憶の中にその二人の物語が生きている。激しい時代の変化のために、離れ離れになった人々の物語だ。

 

 
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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。
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*オリガさんの「人物で描くウクライナの歴史」シリーズは下記よりご覧いただけます。

 

(4)「小柄なマリーナおばあさん」

 

(3)「ワレンティナ」

 

(2)「ニューラおばあさん」

 

(1)「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」

 

2009年4月15日配信