SGRAエッセイ

  • 2009.04.20

    エッセイ202:マックス・マキト「今こそ、時と場のあるヴィジョンを(その2)」

    2008年のノーベル経済学賞は、米国プリンストン大学のポール・クルーグマン博士が受賞した。その賞の対象となった彼の先駆的な研究は、時間の経過による貿易パターンと経済学的地理学をめぐるものであった。まさに、僕がSGRAエッセイ#164 に書いた「時」と「場」に関係する分野であるという気がする。   東京大学大学院経済学研究科で勉強していた頃、僕はクルーグマン博士の論文をいくつか読んだことがあったし、経済学の院生たちのなかでも評判がよかった。しかし、彼が1994年に「東アジア奇跡の神話」という論文を書いた頃から、僕の彼の研究に対する関心が急速に冷え込んだ記憶がある。   「東アジアの奇跡」というのは1993年に出版された世界銀行の報告書で、東アジアにおける8経済主体の珍しい発展パターンを対象にした研究調査であった。世界銀行は、その発展パターンを、SHARED GROWTH(僕は「共有型成長」と訳している)と命名した。つまり、東アジアの8経済主体(日本、韓国、台湾、香港、シンガポール、マレイシア、インドネシア、タイ)は目覚ましい成長を遂げながら、その成長が社会に広く共有され、国内の所得分配(貧富の差)を改善していた。近代史においては確かに実現しにくい発展形態である。まさに、奇跡というほかない。この数十年間を振り返ってみれば、このことを理解できるだろう。平等性を重視する国々は効率性を犠牲にせざるをえなくなり、成長率が鈍くなった。一方、効率性を重視する国々は平等性を犠牲にせざるをえなくなり、社会混乱を招くまで貧富の差が広がった。   この「東アジアの奇跡」報告と出会ったからこそ、僕は経済学を勉強するために日本に来たのだとわかったと言っても過言ではない。単に経済学を勉強するのであれば、英語圏の先進国へ留学したほうがいいが、日本の独自性について勉強するには、当然日本が一番いいに決まっている。それ以来、共有型成長は僕の研究の柱となっている。僕の留学のきっかけになった「東アジアの奇跡」は単に「神話」でしかないとしたクルーグマン博士は、おまけに、日本の独自性についても「何も新しいことがない」と、同じ1994年の論文で強調していたのだ。だから、日本の「失われた10年」となった1990年代に、日本をバッシングしていた主要な人物の一人と考えている。今でも、僕は、日本独自の企業文化が、この共有型成長に大きく貢献したと信じて研究を続けている。従って、クルーグマン博士のことをどうしても許すことができなかった。   ただ、最近、親友の紹介でクルーグマン博士がニューヨーク・タイムズに投稿しているコラムに接する機会があり、友情のためだから自分を騙しながら大学院の頃に発病したクルーグマン花粉症を抑えてみようかと読んでみた。そのうち、あらま!意外にも、(最近の)クルーグマン博士と同感できる部分が結構多いではないか。オバマ大統領の自動車産業と金融部門に対する厳しい目を支持するとか、金融部門のどこが悪いかと今でも思っているローレンス・サマーズ国家経済会議委員長がおかしいとか(サマーズ氏は、1997年のアジア通貨危機の時に日本が主張したアジア版IMFに反対した)、米国が今回の経済危機の震源地であり米国がすべて悪いという流れに対する懸念とか、今回の経済危機は1930年代以来の大不況だが、当時と違って戦争という手段は使えないとか。一理あるな、と思わず賛成する。   今、名古屋大学の平川均先生、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユー先生と一緒に、フィリピンを事例として、共有型成長を実現するための自動車産業の役割について研究している。先月も現地調査に行ってきた(短期訪問の写真)。僕は、この研究を、「時」と「場」のある(もはや昔の?)日本のヴィジョンの探求と考えている。信じられないかもしれないが、共有型成長と縁がなさそうなフィリピンでも、日系企業がそのDNAを伝授している兆候を示している。この研究を更に展開するためにも、意外にもこんなに同意できるクルーグマン博士のノーベル賞級の研究を読み直してみようかなと思わないこともない。ただ、博士と違って、「日本と東アジアの経験は単なる神話でしかない」とは決して思わない。この地域の経験が語っていることは、ノーベル賞をはるかに上回る何かがあると信じている。   ●速報   先日、UA&PとSGRAの共同研究プロジェクトに対する研究助成が決定した。5年間のプロジェクトで、フィリピンの研究機関のCAPACITY-BUILDINGが目的である。対象になる機関はCENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)財団であり、UA&Pの源でもある。この共同プロジェクトにより、CRCはフィリピン教育、健康、水道に対する政府の公共支出を監視する能力を高めていく。SGRAフィリピンから、公共会計に詳しい顧問がこのプロジェクトに参加する。助成金の申請書に大きく関わっていたので、微力ながらも、僕も海外顧問として協力する。研究助成金を提供してくださるのは、世界銀行や英国の海外開発省から融資されているGLOBAL DEVELOPMENT NETWORK(GDN)である。GDNは、来月、世界銀行の拠点であるWASHINGTON DCで研修を行うので、共同研究チームの代表を派遣する予定である。このプロジェクトは、発展途上国の政府が社会に対する責任をちゃんと果たすことを目的とした、世界銀行の最近の「GOOD GOVERNANCE方針」の一貫である。政治腐敗を最小化し、社会の少数派と弱者の声が、政府の政策に反映されているようにするのが目的である。GDNは日本にも事務所を構えているようなので、興味のある方はGDNホームページをご参照ください。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2009年4月22日配信
  • 2009.04.15

    エッセイ201:オリガ・ホメンコ「エレーナの指輪」

    【人物で描くウクライナの歴史⑤】 キエフ大学に入ってから、ほとんど毎日ある建物の前を通っていた。隣には公園があるから、きっと毎朝バルコニーから眺めていたに違いない。今その建物は博物館になっているけど、ずっとそうだったわけではない。ロシア革命の前は、その建物に住んでいる人がいた。    ほとんど毎日通っているのに、昔そこに住んでいた人の話は何も知らなかった。ところが、あるおばあさんと町の建物の歴史についておしゃべりしていたら急にその話が出て来た。そのおばあさんは、右手に小さな宝石が入っている指輪をしていた。昔風の繊細なデザインのもので、宝石も小さくて、ちょうど小柄な彼女の小さい手にあっていた。ある日、彼女のお母さんの話をしていたら、その指輪やあの建物の話に繋がって、溢れてきた。    おばあさんのお母さんは若い時に好きな人がいた。彼は裕福な家族で、ウクライナに砂糖工場をたくさん持っていた人の息子だった。彼の父親はキエフや郊外にたくさんの立派な家を持っていた。あの公園に面している建物、今は博物館になっているあの家も、そのひとつだった。彼は小さい時からあの家で育って、あの公園で遊んでいた。大学に入ってからも、授業をさぼって友達と一緒にあの公園で過ごしたこともあった。彼は金髪で背が高くて、小さい時からフランス人のベビーシッターがついていたのでフランス語がぺらぺらで、家ではフランス風に「ニコリャー」と呼ばれていた。おばあさんのお母さんと同級生だった。二人とも二十歳の時に恋して、いつか結婚するでしょうと皆思っていた。   しかしその年の秋になると革命が起きて、彼の家族は国外に移ることを決めた。フランス語が話せて、パリに家があったのでそこに行くことにした。彼は、おばあさんのお母さん、愛するエレーナも一緒に連れて行きたかった。しかしエレーナは家族も一緒でないと行けないと言った。そのとき彼女の親は国外に出られる書類など持っていなかったので、取りあえずニコリャーが先に行って、その後に皆が行くことにした。   パリに行く前にニコリャーはエレーナに結婚を申し込んだ。そして一緒に町の一番良い宝石店に婚約指輪を選びに行った。彼は、愛するエレーナのために一番高価な指輪を買いたかったが、彼女は繊細なデザインで小さい宝石の指輪が気に入ったので、それを買ってもらった。まもなくニコリャーは両親とパリへ行き、エレーナはその指輪をはめてキエフで暮らしていた。もう少したつと革命や第一次世界大戦が起きて、町は大混乱に陥り、国外に出る書類どころではなかった。そして一回国外に出た人が戻ることもなかった。最初の頃は、パリから手紙や食料品の入った郵便物などが届いていたが、少したつと外国との連絡を絶たれた時代が訪れた。ニコリャーがパリで元気にしているか聞くことさえもできなくなった。   年をとった両親は社会の激しい変化に堪えられず、次々に亡くなってしまった。エレーナは一人ぼっちになるのが怖くて、もう一人の同級生と結婚してあげた。しかし結婚してもあの指輪を外すことはなかった。旦那はその話を良く知っていたが、反対はしなかった(外してくれとも言えなかった)。結婚しても彼女のプライバシーを尊重していたに違いない。   砂糖工場をたくさん持っていたニコリャーの家族が戦争を生き延びたのか、パリかまた別のところで元気にしているかさえも分からない。エレーナが亡くなる数年前に、娘がインターネットで探してみたが見つからなかった。もう誰もいないかもしれない。あるいは、名前を変えたのかもしれない。そしてエレーナが亡くなった時、娘がその指輪を受け継いだ。その時から外さないでずっと着けている。名前を変えても、あの指輪の話を知っていたら、もしかして、いつかどこかで誰かが気づいてくれるかもしれない。気づいたらエレーナのお墓参りを一緒にしてくれるかもしれない。   その話を聞いてから、あの建物の前を通るといつもニコリャー、エレーナとその指輪のことを思い出す。もう二人ともこの町にいない。彼の父親が持っていた砂糖工場もない。彼の家は誰でもはいれる博物館になってしまった。しかしながら人の記憶の中にその二人の物語が生きている。激しい時代の変化のために、離れ離れになった人々の物語だ。    ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------   *オリガさんの「人物で描くウクライナの歴史」シリーズは下記よりご覧いただけます。   (4)「小柄なマリーナおばあさん」   (3)「ワレンティナ」   (2)「ニューラおばあさん」   (1)「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」   2009年4月15日配信
  • 2009.04.13

    エッセイ203:マイリーサ「日本の団塊世代が凄い」

    戦後の日本を支えてきた団塊世代が、定年退職を迎えている。彼らの多くは、定年後、地域で自分探しを始めている。ここで一例をあげる。最初のうちは、地域の道路や河川の清掃のボランティアをやっていたが、いつの間にか、NPO法人を立ち上げて地域の公益事業に関わるようになった。   町田市の境川の旧河川敷棚に囲まれた未利用の広い公共空間がある。そこはかつて不法投棄のターゲットになっていた。これまで近所の住民が、かろうじて自主的な清掃活動と不法投棄ゴミの撤去作業をやってきた。近年、団塊世代がリーダーシップをとって、この作業をやるようになった。彼らは町田市と「住民による管理」協定を締結し、河川や道路の清掃活動違反広告物の撤去や不法投棄監視活動などの活動をやってきた。   そのうち、彼らは、境川沿いに親水公園を作りはじめた。境川流域では洪水対策として急にコンクリート壁が作られた。それにより、河川周辺道路を散策する人々が水に直接触れる機会がなくなった。旧河川敷に水辺の広場を作れば、水のある自然環境が少し取りもどすことができるのではないかと、彼らは思った。   「水辺の広場」概要   旧河川敷の広場にビオトープのせせらぎとよどみを作る。せせらぎの水深は20~30cmで、よどみは約10cmである。よどみは小動物や湿生植物の棲家となる。ここに棲む生物たちはなるべく境川に昔から棲む種にしたい。このせせらぎ広場の水源を井戸で賄う。ここが境川を散策する人達のいこいの場になる、子供達の遊び場になる。   親水公園を作るために、メンバーたちが積極的に関係部署と協議し、関連制度の活用を生かし、事業を可能にした。地域の造園専門家がボランティアで設計と指導を行った。   1、地下水を汲み上げる。それから井戸掘り作業をする。 2、水路や浅瀬のある親水広場を作る。 3、憩いの場としての公園整備をする。   現場での稼動日数は76日であり、稼動人数は400人以上である。最初の井戸掘りは、シニアを中心としたメンバーにとっては重労働であったが、徐々に地域住民の関心も高まり、多くの支援を得ることができた。力仕事は、地元小学校の「父親の会」の若い「お父さんパワー」の助けを得た。また、ホームページでの呼びかけに応じて、護岸工事に使う毛布や石塊の一部が寄付されたほか、住民からは手押しポンプを、そして、地元アウトレットからベンチを寄付してもらった。   広場には、かきつばたを植えた浅瀬があり、木の橋を渡ると草木の間を抜け、水路の向こう側に出られる。また、水路には小さな魚が泳いでいる。ここは、子供から大人まで、地域のコミュニティーをつなぐ交流空間として機能している。散策の途中で広場により、ベンチで休んだり、井戸汲みを楽しんだりする姿が多く見られる。   現在、親水広場づくりの活動は、点から面へと広げられつつある。調査や勉強会などを通して旧河川敷棚に囲まれた未利用の広い公共空間から、25か所の整備ポイントを決定した。その計画書はすでに市民の政策提案として市長に手渡された。   金の卵といわれる日本の高度経済成長を支えてきた団塊世代が定年を迎えている。彼らは、これから地域社会に戻り地域をベースに生活をする。団塊世代の大量到来は、間違いなく日本の地域社会に大きな影響を与えるにちがいない。   -------------------------- <マイリーサ ☆ Mailisha> 一橋大学社会学博士。立教大学、昭和女子大学非常勤講師。 --------------------------   2009年4月29日配信
  • 2009.04.08

    エッセイ200:範 建亭「海外人材導入と上海財経大学の“一校両制度”」

    前回は、上海市政府が今回の国際金融危機を海外人材獲得の絶好のチャンスとみて、ウオール街などで募集活動を行ったことを話した。今回は、その後の動向、そして私の勤め先である上海財経大学における海外人材導入の状況を紹介したい。   昨年末、上海市金融当局は、底値を狙うつもりで大規模な募集団をニューヨークやロンドンまで派遣した。反響は予想以上に大きかった。27の金融機関が用意した170の就職先に、二千人以上の応募者が殺到したという。意外だったのは、応募者の中の10%ぐらいが中国人元留学生ではなく、外国人であったことである。さらに、今回の海外募集活動を契機に、上海市政府は各金融機関に対して、これまで受入れている海外人材の現状と今後五年間の導入計画を調査すると決めた。目的は、これからの海外人材導入を制度化、長期化させることである。   このように、海外人材導入の活動はこれから本格的になりそうだ。もちろん、導入される人材は金融関係だけではない。近年の帰国ラッシュを背景に、上海にいる元留学生がいろいろな分野で活躍しており、その規模はすでに7万人を超えている。さらに、今回の金融危機の影響で帰国者が急増し、2010年には10万人の規模になると予想されている。   ちなみに、改革開放後の30年間において、中国から出国した留学生は07年末で約120万人を超えている。現在、帰国した人はそのうちの四分の一しかないが、大半はここ数年の間に戻ったのである。要するに、殆どの元留学生が海外に定住していたが、近年では事情が一変し、帰国する人が急速に増加しているということだ。しかも、帰国するときに、上海や北京を選ぶ傾向が強く見られる。実は、海外人材の導入をめぐって、地域間の競争も激しくなっている。例えば、南京市も上海のやり方を真似して、海外に人材募集団を派遣したと報道されている。   海外人材の争奪戦は各地の政府や企業だけの話ではなく、大学間の競争も激化している。もともと大学は海外人材の主要な受入れ先の一つであるが、最近は特に活発になっていろいろな取組みを行っている。その中で、上海財経大学は大変興味深い動きを見せており、しかもモデルのような存在となっている。   海外人材を導入するために、上海財経大学が取った措置は革新的なものといえる。その一つは、2004年ごろから海外の大学に勤めている教授を招聘して、五つの学部の学部長に就任させたことである。国際的な人事配置は他の大学にも見られるが、学校内の主要な学部が一気に国際化したのは珍しい。これらの教授は海外国籍の中国人元留学生であり、また常勤ではなく、国内滞在は年に三ヶ月ぐらいしかないが、国際的な学術交流、海外人材の導入などに大きな役割を果たしている。例えば、毎年、米国経済学会や金融学会が開催される時期に、上海財経大学がこれらの海外出身の学部長を中心とした募集団をアメリカに派遣し、その場で面接などを行っている。   もう一つは、2007年から正式に実施した海外人材を導入するための特別な人事制度である。それはアメリカの大学のtenure制度に近いもので、主な内容は、海外から採用した教員の給料を一般教員の三、四倍にする一方、求められる業績(海外一流の学術雑誌で発表される論文の数)も厳しくなるというものである。採用期間は六年間であるが、業績がなければ退職、合格すれば常任(終身)の教員になる。   このような人事制度が採用されている背景には、通常の待遇だけでは海外の一流大学で卒業した博士がなかなか帰りたがらない事情があるからだ。しかも、上海財経大学はまだ国内でもそれほどの知名度がないから、一流の人材を導入するのはそう簡単ではない。解決方法は高い年俸(平均30万人民元以上)を出すしかないが、同時に、国際的な慣行に近い評価システムも導入されている。このように、上海財経大学には一つの学校で二つの人事制度が並行されている。すなわち、「一校両制度」である。   そのtenure制度に採用された教員は現在40人前後で、すべて欧米一流大学で博士を取得した元中国人留学生である。これによって、海外との学術交流が頻繁になり、一流の学術雑誌に発表された論文の数も増加しつつある。効果が徐々に現れているが、一つの学校の中で違う人事評価システムが実施されているのは、恐らく世界中にも稀なことであろう。一校両制度はいろいろな問題を抱えているが、一番危惧されているのは海外出身の教員と一般教員との対立である。そのため、制度上、一般教員もtenure制度に申請することが可能となっている。ただし、申請する教員はまだいないそうだ。tenure制度はハイリスク・ハイリターンのようなもので、決して心地良いとはいえない。tenure制度で採用された同僚の教員をみると、プレッシャーもかなり大きいようである。   私のようなtenure制度が実施される前に海外から帰国した教師は、一般教員となっているが、不満があまりない。求められる高い研究業績があまりにも難しいからだ。特に日本や韓国など、欧米諸国以外の国に留学した教師は、その要求を満たすことができそうもないと思う。というのは、評価される一流の学術雑誌がほとんど英語のもので、日本語など他の言語の雑誌はそのリストに載っていないからだ。このように、残念ながら、英語圏以外の国に留学した価値が低くなると認めざるを得ない。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------   2009年4月8日配信
  • 2009.03.31

    エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

    日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。    一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。   しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。    もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。    もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。    ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。    もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。    日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。    昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。   --------------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------------------   2009年3月31日配信
  • 2009.03.27

    エッセイ198: シム・チュン・キャット「キャンペーン超大国でもあるシンガポール」

    前回のエッセイのなかで、「罰金大国」シンガポールにチューインガムを大量に持ち込んだら、最高罰金である1万シンガポールドルがついてしまうという罰則について書いたところ、「あれっ?シンガポールでガムは解禁になったんじゃないの?」という問い合わせがSGRAのほうにすぐ来たそうです。この点に関してこの場を借りて説明したいと思います。   確かに、シンガポールがアメリカと自由貿易協定(FTA)の締結交渉をおこなっていた何年か前に、アメリカ側からガムの輸入解禁の圧力がかかったため、2004年にガムはシンガポールで12年ぶりに一部解禁となりました。ただし、解禁されたのはアメリカ産の「治療目的」のガムに限られ、購入するにはお医者さんや歯医者さんの処方箋が必要であるうえ、薬局で入手するときに個人情報などを提出しなければならないことから、この方法を使ってガムを買ったというシンガポーリアンに僕は会ったこともなければ聞いたこともありません。ガムを買うのに処方箋が必要だなんて、大袈裟というか実にアホらしいというしかありません。どうしてもガムを噛みたいという人は、昔の僕みたいに国境を越えてマレーシアで手に入れたほうが全然速いということです。このように、一部解禁になったとはいえ、公害とされているガムがシンガポールで普通に日の目を見るようになったわけではないので、シンガポールヘいらっしゃる方はくれぐれも大量に(8箱ぐらい?僕の前回のエッセイを参照)持ち込まないようご注意ください。   さて、前置きが長くなりましたが、罰金大国である以上、それぞれの罰則を説明し、国民に守ってもらおうとするキャンペーンを実施することは当然ながら重要となります。否、罰則と関係なくても、ある制度やルール、もしくはマナーを国民に知らせよう・守らせよう・従わせようとする場合に、シンガポール政府は必ずといっていいほど全国規模のキャンペーンを展開するのです。共産主義・社会主義でない国の中では、国家キャンペーンが一番多いのが恐らくシンガポールなのではないかと思います。皆さんも以下を読めば、シンガポールが「キャンペーン超大国」であることにきっと納得することになるのでしょう。   独立した当時から、ガーデン・シティになるべくシンガポールが真っ先に取り組んだのが「Keep Singapore Clean & Green(シンガポールを清潔かつ緑豊かに)」キャンペーンでした。当然のことながら、優しいスローガンやポスターの裏には、ポイ捨てやタン吐きに対する厳しい罰金制度がくっついていました。また、「戦国時代状態」になっていた中国系の方言を統合すべく、つぎに打ち出された大型キャンペーンが今日まで続いている「Speak Mandarin(マンダリンを話そう)」キャンペーンでした。この最初の二つの全国キャンペーンが非常に成功したためか、その後シンガポール政府は調子に乗り、実にバラエティーに富むキャンペーンを次から次へとスタートさせたわけです。   経済発展に伴い、車の数が著しく増えると「Road Safety(道路安全)Campaign」を。人口密度が高く(というか、国土が狭すぎ!)、団地住まいの隣人同士の摩擦が多発すれば「Courtesy(礼儀正しく)Campaign」および「Be a Good Neighbour(良い隣人になろう)Campaign」を。水はマレーシアからパイプを使って輸入しているわけですから、貴重な水を無駄にしてはダメということで「Save Water(水を大事に)Campaign」を。拝金主義が蔓延り、社会貢献活動に参加する人が急減するのをみると「Be a Volunteer(ボランティアになろう)Campaign」を。汚れた公衆トイレが増えれば「Clean Public Toilets(清潔な公衆トイレ)Campaign」を。国民のメタボ率が上がるとすぐさま「National Healthy Lifestyle(国家ヘルシーライフスタイル)Campaign」を。労働者の生産力が少し落ちれば「Higher Productivity(より高い生産力)Campaign」を。などなど…例を挙げれば本当にキリがないほどです。とにもかくにも、シンガポールでは国民の暮らしの隅々まで浸透しているのが、罰金制度と双壁をなすこのキャンペーン依存症なのです。   それだけではありません。多種多彩なキャンペーンのなかには、あるキャンペーンがうまく行き過ぎたせいでそれを軌道修正するための「調整キャンペーン」のようなものもあったりします。例えば、独立した当初、増加する人口を抑制するために70年代の頭に真っ先に打ち出された「Two is Enough」というキャンペーンは、子どもは二人もいればそれで十分というメッセージを国の津々浦々(そんなにありませんが)まで行き渡らせました。ところが、このキャンペーンが非常に功を奏したせいもあり、80年代に入って人口増加が急に減速し始めると、今度はなんと「Three children or more, if you can afford it」というスローガンが掲げられました。この「余裕があれば、三人以上の子どもを産もう」というあからさまに貧乏人を差別しているキャンペーンは言うまでもなく国民から猛反発を受けました。このとんでもないスローガンはすぐ姿形なく消えてしまいましたが、その後シンガポールにも少子化の波が押し寄せ、もう余裕がある人にもない人にも、とにかく子どもを設けてほしいという事態に発展しました。そのため、今ではどの家庭に対しても、子どもが生まれると「ベビー・ボーナス」(一人目の子どもならS$4000シンガポールドル[約25万円]、二人目であれば総額約65万円、そして三人目以降ならば一人の子につき総額約120万円以上)が政府からプレゼントされるようになりました。   まあ、うるさいのではありますが、これまで紹介したキャンペーンのいずれも国や国民のことを考えての施策だとも受け取れるので、許すことができなくもありません。また、キャンペーンが展開されるたびに、ポスターやテレビCM、新聞広告などの宣伝物のほかに、いろいろな行事やイベントが催されたりテーマソングも町中に流れたりするから、お祭りめいた雰囲気が味わえてたまに楽しくなったりもします。だが、「生真面目でフレンドリーでない」シンガポーリアンのイメージを改善しようとして、90年代の半ばに「Smile(スマイルを)Singapore」というやりすぎキャンペーンがスタートしたときには、僕の顔からそれこそスマイルが消えてしまいました。さらに、多くの独身のシンガポーリアンがお金を稼ぐのに忙しすぎて、または内気すぎて恋なんてしていないということから、「Romancing(ロマンスを)Singapore」というあり得ないキャンペーンが2002年に展開され始めたと同時に、祖国に対する僕の最後の残りわずかなロマンスもフェードアウトしてしまいました…。   ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -----------------------------------   2009年3月27日配信
  • 2009.03.27

    エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

    日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。    一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。    しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。    もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。    もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。    ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。    もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。    日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。    昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。   --------------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------------------   2009年3月31日配信
  • 2009.03.17

    エッセイ195:アンポン・ベリル「アメリカよ、あえて夢を見よう!」

    2009年1月20日。その日はとても寒い日だった。天気予報は、華氏40度の半ば(華氏41度=摂氏5度)という予測だったが、私はもっとずっと低い気温だったと思う。空は曇り、どんよりした天気で、少し霧が混じった風が吹いて、ひどく底冷えした。私は何枚も重ね着をしていたが、だんだん手足の感覚が無くなる感じだった。それは敢えて外出するような日ではなかった。他のどんな状況にあったとしても、暖かく心地良い家を出て首都に出かけることは無かっただろう。しかし、今日は普通の日ではない。私の周りを見回すと、だんだんと集まってくる何千人もの群衆が同じように凍えていた。アメリカ全土の隅々から、そして外国から、あらゆる年代、あらゆる階層の人々がやってきた。民主党上院議員バラク・オバマ氏のアメリカ合衆国第44代大統領就任式の、この日この瞬間、この場に居合わすために、熱烈な期待を抱いて、抑えきれないほど興奮して、彼らは集まってきた。   就任式は、その日の午後1時に行われることになっていたが、記録的な人出が予測され、交通機関への規制もあり、この式を良く見える場所を確保するためには早めに陣取らなければならない。私は前の年に東京からワシントンDCに引っ越したばかりだった。実を言うと、私はアメリカの政治に、そして、私の生まれた自国の政治を除いて他のどの国の政治についても、特別な感心は無かった。日本に居た時、私は政府に変化が起こっても、一週間後に気づくということが普通だった。それは外国暮らしだったからだと思う。   しかし、これは違った。これは全く異なったことだった。オバマ上院議員は、ただ単に合衆国第44代大統領になるのではない。彼はこの最も尊敬される職務に就任する初めての黒人大統領なのだ。高揚感は最高潮に達した。それもそのはずだ。なぜならアメリカの歴史についてほんのわずかしか知らない者でもこの瞬間の重要性は理解できる。だから私はここにいなければならなかった。歴史のこの瞬間に。私はいつの日か「私もこの場にいた!」と言えなければならない。だからこそ骨が凍るような気温でも、他の皆と同じように、何枚も重ね着して私は立ち、見つめ、待った。   観衆が前大統領夫妻など政府高官、要人たちを歓呼して迎えた時、私は鳥肌がたった。そしていよいよ大統領の番になり、観衆は熱狂した!私は説明しがたい何かの感情が湧きあがるのを感じた・・・誇り?畏怖?信じられない?・・・考えられることは、「なんということだろう!彼は本当にこれを成し遂げたのだ!」    2年前オバマ氏が大統領選に向けた選挙活動を始めた時、この日が現実になると誰が思っただろう?!その当時、私はまだ東京の小さなアパートに住んでいた。アメリカで仕事を得ることに頭がいっぱいで、なかなかうまくいかないことにいらだっていた。私の大部分のアフリカ人の友人と同じく、オバマ氏の大統領戦出馬表明に、私も懐疑的な思いだった。私達は、東京の中心にある流行の地、原宿にある友人の店で、いつものように土曜の夜の交流イベントのため集まっていた。ホットスパイシーケバブズ(スパイシーなグリル肉)を噛み、アフリカ醸造の輸入ビールを流し込みながら、私たちはどんな議論でも熱く語るムードになっていた。   「彼は黒人だね。勝つ見込みは非現実的だね。」一人が論じた。 「そう。それに半分白人の血が混じっている。黒人票を得るためせいぜいがんばってくれ。」他のもう一人が鼻であしらった。   本当だ。私はそれ以前に、CNNのある番組を見ていたのだが、オバマ氏の特権階級の生い立ちがアメリカの黒人社会の支持をもてない理由として引用されていた。 「彼が次のマーチンルーサーキングにならないことを願おう。」これが多分皆の心に第一に浮かんだことだった。 「これは後に続く者たちのため率先して道を切り開こうとする人々がいるといういい兆候じゃないか。」誰かが提言した。   それ以前にテレビで彼が少人数の支持者に向けて演説している姿を見たとき、恥かしながら私自身も彼の可能性を疑っていた。しかしあの時から多くのことが変わった。見事に考案された戦略、変革の約束、そしてとても好感のもてる隣人のような人柄で、バラク・オバマ氏は影の薄い存在からアメリカの歴史、しいては世界の歴史にしっかりと根をおろし、台頭してきた。   オバマ氏の台頭は、ある物語を思い出させる。ある天体が太陽系よりずっと離れたところから地球に向かってゆっくりと近づいてくる。初めは小さくほとんど気づかないほどで、大部分無視されている。しかし、地球に近づいてくるにつれ速度を増し、だんだん早く、より目的をもって進み、より大きく、より輝いて火の玉になる。それを見た者は全てその偉大さに畏れ敬う。もちろんこれは子供のおとぎ話にすぎない・・・しかし私はこの物語を思い起こさずにはいられない。   東京での私の友人達との議論を振り返ってみると、私達はなんと世界に対して冷笑的で不信感を持っていたことだろう。私たちは、彼の人種はアメリカを導くという彼の夢を成し遂げるための障害にはならないということを検討してみたことさえなかった。そしてここで、彼は今や、疑いなく歴史に語り継がれるだろう演説で、あらゆることへの期待と希望のスピーチをしている。私たちはこのことから学ぶべきことがあるだろう。オバマ大統領自身がそれを一番上手に語っている―――アメリカは全てのことが可能になる国なのだ。   ・・・ただ、少し時間がかかるかもしれないけど。   アメリカに、神の祝福がありますよう!   ----------------------------------------- <アンポン・ベリル☆ Ampong Beryl> ガーナ出身。2005年東京薬科大学薬理学研究科より医学博士を取得。現在ワシントンDCのChildren’s National Medical Center (Research Center for Genetic Medicine)研究員。専門分野は免疫学、リウマチの治療研究。 ----------------------------------------- (原文は英語。日本語訳:伊藤扶佐江)   英語の原文   2009年3月17日配信
  • 2009.03.17

    エッセイ196:キン・マウン・トウエ「生きる価値」

    2008年の後半に米国から始まった経済危機は、またたくまに世界中の経済に大きな影響を与え、大変な情況になってきました。アメリカでは、この状況を回復するためにオバマ新大統領が努力しています。しかし、全てがグローバル化した現代の社会では、お互いにリンクされている為、ほとんどの国の経済はガタガタになったままです。それぞれの国が、どうにか景気を回復させようと、様々な方法を用いて努力をしていますが、今でも状況が改善する気配がありません。   我が国でも全世界の不景気の影響を大きく受けています。主要な輸出品目である農産物や水産物を始め、鉱産物、チーク材、ゴム材、宝石などの輸出も影響を受けています。相手国が不景気なために輸出が滞り、物流と決済方法が大幅に変化し、国内相場にも大きな影響を与え、倒産した企業も出ています。事業が大きければ大きいほど、その影響も大きいようです。一方、輸入産業も同様です。数か月前に輸入した商品は、その契約仕方・為替レートの変化、大安売りをしなければならない国内相場によって、ほとんどが赤字です。外国からの投資も中断しているところが多いです。在庫を持つか、赤字でも売るか、今までのビジネスネットワークと縁を切るか、どのように自分自身を精神的においつめないようにするかを上手く判断できないと、国内の不景気と一緒に自分も死んでしまいます。   今後世界経済は、どうなるのか?この不景気がどこまで落ち、再度復活するかということについて、たくさんの人々が頑張って考えています。たくさんの人々が、国境を超えて、様々な方法で努力をしています。世界経済の問題は、この地球に存在しているすべての人々が、国際理解と交流を基準にして、力を合わせて頑張って解決していくべきです。   我が国では、昨年5月2日に起きたナルギスサイクロンによる被害者の復興のために、国内外の多くの方達のご支援をいただきました。私自身も国内で支援グループを作り、サイクロン被害者への支援活動を行いました。SGRAかわらばんのおかげで、日本や韓国の多くの方達からご寄付を送っていただき、よりよい支援活動ができました。一回目は、被害直後に必要な生活用品を配給しました。2回目には、被害者の方達の新しい生活に必要なトラクター7台の支援を行いました。我々は、被害を受けたひとつの村だけに寄付することはやめて、多くの村が使用できるようにレンタル方式で行いました。6月下旬にトラクターのレンタル支援をした村に、10月下旬に視察に行った時には、青々と稲が育っていました。また、同時に、水産業も行えるようになっていました。サイクロン直後には飲めなかった飲み水用池もきれいになりました。一方、村の小学校も落ち着いた状況です。我々のグループは金銭的な支援も少し行いました。このように、我々が支援した村は、今後も自分たちの力で頑張れるようになりました。これまでに支援してくださった多くの皆様に大変深く感謝していることを、村民に代わってお伝えしたいと思います。   その後、我々は、11月の栽培時期に利用する為、他のサイクロン被害村へトラクターを移動しました。その村でもレンタル方式で支援し、より多くの方達に使用していただきました。このようにして、ご支援くださった皆様の心が伝わるような活動を行っています。   ★支援した村の写真(2008年10月撮影)   ★ナルギス被災者支援プロジェクトに関するエッセイ    ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください!    ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告    ナルギス被災者支援プロジェクト第二回活動報告     昨年12月には、ハートボックス様のご協力のもと、日本の友人たちが寄贈してくださった古着と、微力ながらも私が買い集めた冬物古着をもって山の村へ行って支援活動を行いました。これは、私が数年前より行っている山の学校支援活動です。仕事で通った多くの山の村の状況を見てから、少しでもお役にたちたいと思って始めた活動で、いままでにいくつかの山村を回って活動してきました。古着をバザーで売った利益も寄付して、学校施設の改善に使ってもらっています。彼らにとっては、今の世界経済はどうなっているのか、国内の情況はどうなっているのかということより、生きることが第一です。そして、以前にエッセイ「ゴミの中から金に書いたように、日本ではもう不要になった古着が、この方たちには必要なのです。   ★山の村支援活動の写真   私は、仏様のお言葉に従って、私が生きている間、自分が出来ることを、自分が出来ないことであれば、支えてくださっている周りの方達に声をかけながら、皆様のお力と合わせて、高いところから低いところへ水が流れるように、自分たちの生活を送りながらも、誰かのお役にたてることを精一杯行っています。今後も継続的に何らかの方法で頑張って行います。「生きる価値」があるミャンマー人として存在したいと思いながら、自分の人生を創っています。   これまで、支えてきた多くの方達には、本当に心より深く感謝をしております。   --------------------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------   ★不要になったカジュアルな夏物衣服をキンさんのプロジェクトにご寄贈ください。まとめてコンテナで送ってくださいますから、「ミャンマーのキンさんへ」と明記して、ハートボックス(静岡県)に宅配便等でお送りください。詳細はホームページをご覧ください。   2009年3月20日配信
  • 2009.03.03

    エッセイ191:太田美行「本音の伝わり方」

    本屋でふと手にした本が予想外に面白かったりすると、とても得をした気分になる。 『ペルセポリス イランの少女マルジ』との出会いもそうだった。ちょっとした時間 潰しに本屋に入ったつもりだったのに、すっかりはまってしまい、とうとう立読みで 一冊読み切ってしまった。途中、店員がモップで私の横を拭いてまわっていたような 気もするが全く気にもしていなかった。(本屋にとってはさぞや迷惑な客だったに違 いない。)   『ペルセポリス』はフランス在住のイラン女性、マルジャン・サトラピ(愛称マル ジ)自身の少女時代についての漫画だが、ニュースや映画でしか窺い知ることのでき ないイランの宗教革命前後の生活が鮮やかに描かれている。そして遠い国のことなの に、彼女の描く世界には不思議な既視感を覚えた。中でも「正しさ」の変化について は興味深かった。   王朝崩壊と宗教革命、そして戦争と目まぐるしく変化する状況の中で、彼女は世の中 の「正しさ」が次々と変化するのを経験する。裕福で進歩的な家庭に育ったマルジは 宗教革命前のパーレビ王朝下の学校で「シャー(王)は神に選ばれた」と習う。しか し革命後、教科書にあるシャーに関するページを破くように言われる。さらにパーレ ビ王朝下で投獄されていた共産主義者の伯父が、王朝崩壊と共に解放されると「英 雄」として迎えられるものの、宗教革命後に再び投獄され、「スパイ」として処刑さ れてしまう。勝者が権力を握れば、敗れたかつての為政者は否定される。「昨日の正 義が今日の悪」になることは日本も経験したことであるし、世界中で繰り返されてい ることだ。自由な思想の中で育ったマルジは、それらの一つ一つに反応してしまう。   彼女が生きにくくなることを心配した両親は、たった一人である我が子のためにオー ストリアへ留学させるところで本書は終わる。続編では留学生活と帰国後の生活が描 かれる。留学先で「第三国の人間」として扱われたことや失恋。そして帰国後イラン 社会がすっかり変化していたことへの戸惑い、結婚と離婚。続編はやや暗さが漂う。 前編からは政治情勢の変化と共にマルジの生き生きとした性格やイランの様子が伝 わってくる。文字が書けないメイドに頼まれたラブレターの口述筆記にはまるマル ジ。マイケル・ジャクソンの写真入りバッジを保守的な女性達に見とがめられると、 「これはマルコムXです」といって逃げようとするマルジ。マルジの両親はピンク・ フロイドをドライブ中に聞いているが、宗教革命前とはいえイランでピンク・フロイ ドが普通に聞かれていたとは思ってもみなかった。日本で一般的に知ることのできる イランの情報が限られていることを改めて実感する。「事件」でないと中東のことは ほとんど報道されないため、「中東=事件の多い国」とすら思えてしまう程だ。だか ら『ペルセポリス』で事件としての中東でなく、また学術書でもない、日常のイラン が見ることができて大変面白かった。   さて所変わって日本。この2日間で面白い経験をした。一つ目はお洒落な「ニュー ヨーク・スタイルのカフェ」の店員。50代くらいの小太りな男性で、ガラガラと大き な声で注文を受ける。こう言っては失礼かもしれないが、こうしたカフェにはあまり 見かけないタイプである。居酒屋に居たらまったく違和感がなさそうだ。どう見ても ほかの店員とは違っており、ひとり異彩を放っている。ところがこのおじさん、妙に 愛嬌がある。注文の品を運んでくる時もちょっとした事をお客に話し掛けたり、ケー キセットのサービス時間が終わっていることを伝える時も、マニュアル的でない話し 方をしたりする。その様子が実にユーモラスだ。きっとこのサービスぶりが気に入っ ているお客もいるに違いない。   そして今日。加湿機の調子がおかしいので大阪にあるメーカーのカスタマーサービス に電話をした。担当者も当然大阪の人で、やや訛りのある声で真面目に話しているの になぜかおかしい。これもまたコールセンターにありがたちな、妙に丁寧なマニュア ル的な話し方ではないからかもしれない。そこに担当者の個性が反映されるのが面白 いのだ。私が加湿器の様子を伝え、「このタイプはこういうものなんでしょうか?」 と聞いた時、「いやいやそれは・・・・・・・・・確かに困りますねぇ」と担当者が 思わず呟いた同情の言葉に、何とも言えない人の良さが滲み出ており、私は必死で笑 いを噛み殺した。   丁寧なことは確かに大事で私も好きだけれど、あまりにも形式的過ぎると言葉がただ の記号にしか思えなくなり、人と話した感じがしなくなる。気持ちが伝わってこない からだ。会話でなくて文書でも同じように思う。これまでのイラン関係のニュースや 本で私が見つけられなかったのは、イランの人達の本音かもしれない。   --------------------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本 語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。 著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共 生』第8章(三元社)2003年。 --------------------------------------- 2009年2月27日配信