SGRAエッセイ

  • 2010.09.08

    エッセイ259:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その1)」

    冬休みはもう終わりに近い。というか、あと24時間。この一ヵ月半の休みを振り返ってみると、やったことは二件しかなかったことに気がつく。妻との通院と読書。 妻は病気ではなく、懐妊している。分娩予定日はあと三週間後の3月21日。ひ孫を待ちに待った祖母も安産を祈願すべく、観音様の像を買って家に仏壇を設けた。本来、実にめでたいことだが、我が家を受け継ぐ血脈の活性化を図る執念と、食べ物を粗末にしてはいけないという座右の銘によって買い置きはせずに、常に「あれを買って、これを買って」と、夫の私に主として肉とデザートを注文し、そしてその日に完食する。そのあげく、ある日の検査で、妊娠糖尿病にかかったことが判明した。 「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給う」と『法華経』にいう。きっと、夜明け頃に現れた観音様が空っぽになった冷蔵庫を見て怒ったからだ、と筆者はひそかに思う。とにかく、一般の妊婦より多い、週2、3回ほどの通院検査を余儀なくされた。筆者はもちろんその付き添いだ。 通う病院は、北京で最も有名な公立産婦人科の専門病院、北京婦産医院である。ここは、おそらく、中国随一の産婦人科といっても差し支えない。67,484㎡の敷地面積、1,062名の専門医、660のベッド数、いずれも全国のトップクラスである。医術はもちろん、お医者さんの態度もよく、注意事項など、大切なことをいろいろと教えてくれる。公務員と医者のほとんどはにべもないと思っていた留学前の印象は、今回の経験でだいぶ薄らいだ。 ところが、丁寧なお医者さんにお会いするまでの道程があまりにも困難であった。 病院までの距離は遠いわけではない。車で30分くらいである。しかし、冬休みに入って付き添いの初日、妻に起こされたのは5時半だった。まさかこの世には妊娠時計認知症でもあるのかと変な顔をしたら、「いつものことだよ」と涼しい顔で説明された。平日にほとんど学校の寮に住み込む私には、妻の苦労を承知していなかった。 婦産医院はたいへん有名だが、前を通る道は案外細い。敷地内の駐車場に入ろうとする車はすでに行列を作っている。入り口に入ったところで、急に3、4人の男性に囲まれた。映画で見た少林拳のポーズをしようと思ったとたん、「専門医の番号、いる?」と声をかけられた。 中国の病院では、日本の銀行のように、まず受付で番号登録を済ませて番号札をもらうことが診察の第一歩。番号は専門医用と普通の医師用と二種類。科によって当直医師の人数が違うが、婦産医院の場合、産科が一番多く、毎日、専門医5人、普通医3人の規模である。ランクは問わず、医師一人当たりの受診可能患者数は40人。さらに、一つの科に、20の特別登録の枠が設けられている。要するに、産科では、一日の最大患者数は約340名である。当然、登録料金も普通、専門、特別の順で上がり、それぞれに7元(100円)、14元(200円)、200元(3000円)となっている。有名な病院、有名な科であればあるほど、番号札がなくなるのは速くなる。 「結構です、すみません」と、妻はあっさりと断りながら私を連れて道を急ぐ。 「専門医の番号って、いくら?」と、男の好奇心は鼠のようにうごめく。 「100元」 「100元!?」鼠はハンマーに遭う。そして、病院のダフ屋(!)を相手にしない妻がえらく見える。「でも、そんなに朝早く起きなくたって」と、やはり心のどこかでひそかに思う。 だが、病院1階のロビーに入った瞬間、その思いは吹飛ばされた。 (つづく) ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。9月より北京外国語大学日本語学部専任講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2010年9月8日配信
  • 2010.08.25

    エッセイ258:朱 庭耀「私の父親」

    今までに私に一番影響を与えた人は父だ。 父の祖父は清朝末期の知識人だったが、父の父親は当時の政府と政治に失望して、また当時の「実業救国」思想の影響を受けて、経済活動を始めた。父は一人息子として、家業を継ぐため、海外に留学することを断念して、祖父に示された道を歩んだ。父の夢は叶えられなかったが、子供達を教育することに人生をかけた。 しかし、事のなりゆきは希望どおりにならなかった。1950年代初期、中国の民間企業はすべて国に「合弁」された。父は企業の持ち主から職員になった。家の経済状態がまったく変わって、子供に良い教育をさせるのも難しくなった。60年代中期、文化大革命が始まって、知識青年と呼ばれた学生達が農村、辺境へと下放された。その時、大学を卒業した私の一番上の姉も進学できず、江西省の南昌市に「分配」された。その後、「高考制度」が廃止されたが、高校を卒業した兄、姉達は大学へ進学することができなくなって、相次ぎ農村へ「再教育」に行かされた。家族がバラバラになったことは父に大きな打撃を与えた。でも父は倒れなかった。父は教育こそ国を強くさせる唯一の道と確信していて、いつか教育制度がまた変わるだろうと希望を持って、子供を教育することを諦めなかった。当時、「抄家」された家は本もほとんど焼却され、また新しい本を買うお金もないので、父は手書きで私に教科書を作ってくれた。父はよく私に経済的な貧乏はこわくない、知識を身につければ心が豊かになると教えてくれた。1976年、「四人組」打倒後、中国の大学教育制度が元に戻る形で再改革された。その時、まだ在学中だったのは私一人だけだった。重点中学校に合格した私に、父はさらに厳しくなった。 私が高校卒業の時、父は病気にかかって、半身不随になった。私は父の病気と家の経済状況が気になって、進学と就職のどちらの道を選ぶか迷っていた。当時大学卒業生の就職はまだ大学側で決められ、就職地や、職業などを自分で選ぶことができなかった。私は姉のように大学を卒業したら遠い地方に「分配」されることを心配していた。両親は年をとり、姉、兄達は皆遠い地方に行っていたので、私には両親の面倒を見る責任がある。人生の交差点で、私は迷い、なかなか自分の将来を決めることができなかった。 大学の願書の締切日の前夜、父は私を彼のベッドに呼んで、私にこう言った。「あなたは私の末っ子だ。私の最後の希望といえる。あなたの姉、兄達は勉強の機会がなかった。でもみんな夜間学校に通って、頑張ってやっている。あなたは進学に迷う必要はない。私の生きている時間はもうそんなに長くない。でもあなたたちは私の生命の延長だ。私の叶えられなかった夢を、あなたが実現してほしい。学ぶことは若い人にとって、何より大切なことだ。あなたは私のことや家のことなど、心配することはない。私の息子に対する希望は、あなたができる限り勉強すること、人に負けずに勉強すること、わかったかな。」父の話が私の一生を決めた。その後、私は両親と離れて、鎮江にある船舶大学へ行った。大学卒業前、私は上海交通大学大学院の修士課程を志望した。試験前の準備期間に、上海から電報が来た。父の病気が悪化して入院したという知らせだった。私が慌てて病院へ駆けつけたとき、父はもう話せなくなっていた。看護婦さんは父が私の来るのを待っていたと言った。泣いていた母は私に、「父の最後の言葉は『耀ちゃんの修士試験はいつか、彼に頑張ってと伝えてね』だった。」と話してくれた。私は涙をこぼして、父に「必ず大学院試験に合格する。」と誓った。父は私を見て、微笑みながら亡くなった。 昨年春、私は東京大学大学院の博士課程に合格した。母に電話でそれを話した。母は「お父さんが生きていれば、このことを聞いてどんなに喜んだろう。」と言った。父が亡くなってもう11年たった。でも父はずっと私の心の中に生きている。困った時、迷う時、弱くなった時、父は私の心の中で私を励ましてくれる。学問の道は終点がない。私は学ぶことの大切さを家で教わった。父の一生は平凡だったが、父に教育されて私は幸運だった。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- 1997年3月に東京大学を卒業後、4月に財団法人日本海事協会に入会、技術研究所に所属。1997年、上席研究員。2006年、首席研究員。主に船舶及び海洋構造物に働く荷重に関する基礎研究並びに国際船級規則の研究開発に従事。2003年より、中国、江蘇科技大学客員教授、2005年より、ハルピン工程大学客員教授、2008年より天津大学客員教授。 ---------------------------- 2010年8月25日配信
  • 2010.08.18

    エッセイ257:方 美麗「今までに私に一番影響を与えた人に」

    その人は母という名の女性なのだ。 母は戦前に生まれ、小学校に進学するその年に戦争による厳しい時代が始まった。そのため、彼女は教育を受けることさえできなかった。 貧しい農家で育てられた彼女は、目上の人への絶対的な服従をしつけられ、考え方も昔風の保守的で且つ頑固なものであった。彼女にとって、女性は家庭に入って子育てをするのが天職であった。教育を受けなくても、字を知らなくても立派な母親になれると彼女は思っていた。そのため、彼女は教育熱心な母ではなかった。そればかりか、私たち子供にとって、彼女は優しいお母さんでもなかった。彼女には人に優しくする余裕がなかったのかもしれない。厳しい時代に立身出世に恵まれなかった夫を持ち、4人の子供を抱えながら毎日翌日の生活費を悩み、貧しい生活と借金に追われたストレスがその原因だろう。彼女はきつくて、厳しく、不平だらけだった。しかし、それでも、彼女は悪環境に負けず、戦っていたのだ。 彼女の娘として生まれた私は、苦い苦い幼年と青春を過ごした。男尊女卑という考え方の彼女に対して、至って不満であった。彼女の言動には私たちの気持ちに対する思いやりが欠けていた。それだけでなく、子供の教育にも、男は偉くなるために勉強するが、女は、所詮人妻になるから「小学校で、いいさ。字も知らない私だって、人生はここまで来られたのさ。」という。そのため、姉は小学校の最優秀卒業者であったにも関わらず、中学校へ進学することができなかった。私は運よく、義務教育が県から強制実行され、中学校を出ることができた。が、高校へ行くことは許されず、私は稼ぎに出ることにした。一年後、高校受験に挑戦し、自力で高校を卒業した。 その頃から、生活は少々よくなり、兄は農産物の事業を始めた。しかし、この事業は失敗に終わり、母の半生の貯金と、私の二年間の給料と、家の畑を全部売却するほどの大損害となった。彼女は、息子に対する期待が大きかっただけに、ショックも大きかった。私も、せっかくの貯金が借金返済のために使われ、大学へ行こうとする夢も泡のように消えてしまった。もうこの家から離れて、自分の人生を歩んでみたいと思った。そして、片道のチケットと、わずか300ドルを手にして日本にきた。もちろん反対されたが、彼女の人生を見てきた私は、そのような人生だけは送りたくないと、押し切った。日本語学校での2年間、援助のない異国での生活はつらくて、苦しかった。目指す国立大学(経済的だから)に入れなかったら帰るしかない。否、成功しなければ帰らないと誓った。 そして、受かった。父の友人の金持ちの息子が数百万円と2年間の努力をしても入れなかった大学ということから、母は喜んでくれた。神経、時間、金銭をかけた息子に託した夢を、皮肉にも無視してきた娘が果たした。そして、修士課程終了前に「頑張って、博士課程に進みなさい」と私に言うようになったのだ。母の考え方の変化が嬉しかった。今では、彼女は村の若い娘さんに「うちの娘のように頑張ってください。今の社会は、努力さえすれば女の子でも立派な人間になれるのよ。」という助言をしている。だが、いろんな壁を乗り越えてこれたのは、厳しい状態に置かれた時の母の頑張りを見ていたからこそであり、そのため今日の私がいるのに違いない。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- <方 美麗(ホウ ビレイ)☆Fang Meili> 1992年横浜国立大学国語教育卒業。1994年同大学修士課程修了。1997年お茶の水女子大学科博士課程修了。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所非常勤研究員、台湾輔仁大学日本語文学科助理教授、筑波大学外国人教師を勤めながら、東京外国語大学(中国語表現演習、台湾語)兼任。その後、ロンドン大学SOAS(台湾語)、ロンドン大学Imperial College (中国語)の 非常勤講師を経て、現在お茶の水女子大学外国人教師。専門分野は言語学・外国語教授法で、週に一回1.5時間で年間25回の学習で外国語が11分間流暢に話せる“表現教授法“を創った。 ---------------------------- 2010年8月18日配信
  • 2010.08.11

    エッセイ256:ニザミディン・ジャッパル「私の人生に一番影響を与えた人―マリア先生」

    1967年、中国で「文化大革命」が始まり、知識人は農村での強制労働を課せられました。私の父は1944年新彊学院法律学部を卒業して、裁判省に勤務していたため「反革命分子」と呼ばれ、家族全員、農村での生活を余儀なくされ、政治的権利も奪われました。私が6歳になった時のことでした。翌年、私は村の小学校に入学しましたが、学校でも村でも「反革命分子」の子供と言われていじめられ、毎日泣きながら家に帰りましたので、私には友達と外で遊んだ経験などありません。両親は毎日強制労働をさせられ、兄、姉たちも私と同じようにいじめられました。父が「申し訳ない、私のせいで家族全員がいじめられる。私が死んだらきっとよくなるだろうから、それまで辛抱してくれ。」と言ったのが今でも記憶に残っています。父はその希望通り、1971年に重労働のため51歳で亡くなりましたが、どんなにか無念だったことでしょう。しかし、父が死んでも「反革命分子の子供」というレッテルは消えませんでした。私は人がいないところで泣いてばかりいました。そして、社会が変わってチャンスが来たら、父をいじめた人達を見返そうと云う事ばかり考えていました。 1973年に中学に入学し、担任のマリア先生に出会ったことにより、私のそれまでの世間に対する負い目や後ろ向きの考え方が霧が晴れるように無くなりました。第一回目の数学試験後、先生は私を教官室に呼んで「君の成績はクラスで一番だった、これから君をクラスの学習担当者にしよう」と云ってくださいました。私が、「出身身分がよくないので私が学習担当者になってもクラスメートは誰も認めてくれないと思います。」と答えたところ、先生は、「君の家庭の事情はよくわかります。でも、君のお父さんは反革命分子ではなく、知識人で立派な弁護士でした。あなたはお父さんのことをもっと誇りに思っていいのですよ。こんな社会が長く続くはずがありません。きっと変わります。君の兄さんや姉さんたちも優秀だから、将来きっと立派な科学者になると思います。君も頑張って、困ったことがあったら私に相談してください。」と仰いました。それは初めて聞いた、私の父に対する称賛の言葉でした。生まれて初めて、嬉しく幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。それからというもの、私は授業で不明な点があれば先生に聞き、先生は熱心に教えてくださいました。先生はみんなの前でよく私のことをほめてくださったので、次第にいじめがなくなり、誰も私のことを「反革命分子」の子供と言わなくなりました。そのような事が有ってからマリア先生は私の心の中で神様のような偉大な人となりました。私の夢は将来、先生と同じ様になりたいと思い、そのことを話すととても喜んでくださいました。そして有名な科学者が子供時代に大変苦労した話などをしてくれ、いつも励まし、元気づけてくださいました。 1977年、私の人生に大きな転機が訪れました。1966年に始まった「文化大革命」が終焉を迎え、“反革命分子”が開放されたのです。身分に関係なく成績が優秀であれば大学に入ることができるようになりました。その時誰よりも喜んだのはマリア先生でした。先生は「ニザミディンくん、君たちの時代がやっと来た、頑張って、君はいい大学に入れる。」と云って、それまで以上にますます熱心に教えてくださるようになりました。そして1978年、私が新彊大学に合格すると、先生は家で送別会を開いてくださって、「大学に着いたら生活、勉学事情について手紙を書いてください」と云ってくださいました。大学での勉強方法、諸々の問題の解決法、将来などについて相談すると、先生は親身になって、手紙でいろいろとご指導くださいました。大学を卒業して、新彊大学に教官として残ることを知らせた時、先生は「就職おめでとうございます。君の考えたとおりに自分の知識をもっと増やすため、アメリカ、日本など科学技術レベルが高い国に留学したほうがいいと思います。」とアドバイスをしてくださいました。1990年に私の夢がかなって日本に留学できることになりました。先生は、「留学おめでとうございます、君はよく頑張った、君の事は私の喜び、博士学位を取得するまで頑張ってください。」と励ましてくださいました。 先生は今まで、私の人生という航海の行く先を示してくださったコンパスのような存在でした。先生は私の一番尊敬する人です。先生の存在なくしては今の私はないと言っても過言ではありません。私は先生のご恩を一生忘れません。いつでも先生の健康と長寿を祈っています。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------------------- <ニザミディン・ジャッパル ☆ Nizamidin Jappar> 中国新疆出身。1998年、東京大学より博士号取得。1998-2002年、昭和電工株式会社、ケミカルエンジニア、主任研究員、多種機能を付加した各種工業用材料の研究開発。2004年よりKimoto Tech Inc., USA、現在、研究開発部長,取締役員。 ---------------------------------------- 2010年8月11日配信
  • 2010.08.04

    エッセイ255:南 基正「平凡だが越えることが出来ない永遠の存在-私の父」

    父について書くのは難しい、という。長与善郎が父長与専斎を思うに際して「自慢のようになるのも気がひけるし、といって徒に如才なく卑下して強いてくさすようにいうのはなお更嫌なことである」と書いているが、なるほどそうであると思う。特に、公の場所では父親の名前さえ口にしてはならないと幼いときから教育されてきた私としては、父について書くのはなおさら気がひけることである。韓国では父親の名前を聞かれると、例えば私の場合、「南字、俊字、祐字です」と答えなければならない。しかし今私は、とても恐れながら、私の父に対する想いを書こうとする。 いつからかよく覚えていないが、私に対して最も影響を与えた人物を聞かれる度に、迷うことなく父親だと答えてきた。しかし、なぜなのかと聞かれるとなかなか一言でいえず、答えに困っていたように思える。実は私は父からしつこく何かを言われた覚えもなく、一度もほめられたことがない。即ち、父との直接的かかわりがなく父を判断する原材料がないということが、まず浮かび上がる理由である。父に関して、父の私に対する思いに関してはすべて、母や父の周りの人から間接的に聞いた話である。しかし、それは答えとして語ろうとしても語り尽くせない話のように思えたからでもある。そして、なによりも、父が一見とても平凡な人であり、特別な何かがある人であるということをその場で信じさせるのは無理だと思っていたからかもしれない。 父は貧しい農家の長男として生まれた。勉強はできたが、家が貧しく大学には進めず、当時の花形職業であった銀行に就職した。自力で夜間大学に通い、最初の銀行で定年まで働き、定年後は家で読書の毎日を送っている。こうしてみると、どこにもいそうなごく平凡な父である。しかし、私はわずか二、三行で締めくくれる父の人生の中で、とうてい越えることができない永遠の存在としての父を見るのである。 父はまず、私にとって永遠の先生である。父は、私に学問することの楽しさと厳しさを教えてくれた。私の祖父と曽祖父は漢学の先生であったという。清貧が学問を営みとするものの第一の教義であった時代がその背景にあり、生業にはほとんど無関心であったのが先の貧しさの原因であり、父が銀行員とならざるをえなかった理由でもあるが、とにかく、そのような環境の中で父はハングルより漢文を先に習ったという。漢学が学問である限り、それが学校での勉強とパラレルではない。その意味で、私は学校での成績などで父にとやかく言われた覚えがない。常に、もっと広くもっと深く物事を考えることを教えられたのである。父は定年後、ふだん最もしたかったことをするのだといい、漢学の勉強を始めた。私は年に一度帰国するが、そのつど、父は私よりはるかに長い時間を漢学の書物と向き合っている。学問に終わりがないことを身をもって教えている。 父はまた、私に「文が武に勝る」という意味での平和主義を教えようとしたようである。幼いころ、私は父に刀や銃などのおもちゃを一度も買ってもらえなかった。そのおかげで、私は兵隊ごっこやインディアンごっこなどの遊びには参加することができなかった。TVでの「暴力と破壊によって問題が解決される」「マジンガーZ」といった類の番組も父がいると見られなかった。代わりに、父は帰り道にいつも本を一、二冊買ってきてくれた。母から後で聞いた話だが、お金に困り、父の必要な本を書店で立ち読みすることはあっても私たち兄弟には必ず本を買ってきてくれたそうである。私が大学に入り自分の選択で本を買うようになるまでは、私の本棚は父からのお土産で一杯であった。 大学生になり、わたしはこのような父に逆らったことがある。学生運動の盛り上がりの中で、当時いわゆる「ヴ・ナロード(人民の中へ)」運動とでもいえるような「農村運動」の組織をしていた頃であり、また、すべての知識が灰色に見え、不偏不党の理論などなく、知識人といえども党派性、階級性を持つべきだというマルクス・レーニン主義的考えに傾斜し始めた頃である。ある夜、父からもらった書物で埋まっていた本棚をひっくり返したのだ。しかし、部屋の中に散らばったその書物を見ているうちに、父の考えの深さやそれを通じた私への想いに思いが至り、結局その行為は極端な考えから脱する反対方向への契機になったのである。戦後日本社会を平和主義をキーワードにしてとらえようとする私の試みは、その意味で父から仕込まれた考え方に端を発しているかもしれない。 父はまた、ただ本の中にうずくまっているひ弱なものになるのを警戒してか、時間がある度に私を登山に誘ったり、テニスにつれていってくれたりして、身体を動かすことの大切さをも教えてくれた。受験を目前にして勉強部屋に閉じこもっている私をテニスに誘ったことで母と口喧嘩になったこともあった。クラッシックのレコード盤を買ってきては、休日になるとさりげなくかけてくれたりもした。以後、いくら忙しいときでも時間を割いてできる範囲での何らかのスポーツや芸術で心の安定を保ち、身体を鍛えていこうと努めている。 こうしてみると、父の学問やスポーツ、芸術に対する思いは私のためのものであったようにみえるが、実は父が自らそれらを本当に楽しんでいたようである。森茉莉が父森鴎外を評して「私には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えた」(「父の子」)と言っているが、それは、そのまま私にもあてはまる言葉である。そのきれいな熱情が無言のうちに私に伝わってきて今までの私を暖め、現在の私を形作ったのである。そして、その熱情が私に伝わってくる限り、父は私にとって永遠の存在なのである。 (著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載) ------------------------------------------- <南 基正(なむ・きじょん)☆ Nam Ki Jeong> 1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授、韓国・国民大学国際学部副教授を経て、現在ソウル大学日本研究所HK教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。 ------------------------------------------- 2010年8月4日配信
  • 2010.07.28

    エッセイ254:韓 京子「アデュー!2010 World Cup!」

    南アフリカで開催されたワールドカップがとうとう終わってしまいました。といっても私にとっては「まだやってたんだ」という感じでしたが。2002年は燃えていた気がするのですが、2006年はあまり記憶に残っていません。年をとったのか、情熱を失い醒めた人間になってしまったのか……。今回は、韓国チームも日本チームも開催前の低評価とはうってかわった戦いぶりに湧いたのではないでしょうか。もちろん逆のチームもありました。 さて、国それぞれ応援の仕方、様子も違うと思われるので、こちら韓国の様子を少しお伝えすることにしましょう。 はじめからそれほど盛り上がっていなかったのですが、開催一ヶ月前に行われた強化試合で中国に完敗してからさらに下がってしまいました。ところが、その後の強化試合最終戦で日本に快勝してから急にスイッチが入りワールドカップモードに突入したという感じです。 ワールドカップグループリーグの初戦相手はギリシャ。この初戦で韓国チームは「いけるかも」という希望を持たせてくれました。とにかく「韓国ってこんなに強かったっけ?」と思わせてくれた試合内容でした。この試合の日本での報道が韓国寄りだったことは韓国でも報道され、「???」、「私たちはああなれないだろうな」と戸惑いを覚えた人が多かったようです。 ご存知のように韓国と日本はグループが違い、韓国の試合の数日後に日本の試合があるというパターンが続きました。日本は大会前の強化試合で韓国に敗戦したこともあり、非常に低評価でした。しかし、その後の日本チームの予想外の善戦に、どうしても日本を快く応援できない私たちは表面では応援しても心の中では「韓国チームだけ勝てばいいのに」「日本も決勝トーナメント進みそうだよ。いやだな」って思った人も多かったのではないかと思われます。いかんともしがたい性でしょうか。 2010年のワールドカップの観戦方法の特色は携帯で移動中に試合を観る人が多くなったことです。大勢で観戦するというのは以前と変わりません。テレビのない飲食店に人は全くいません。いつも行列のできるイタリアンのお店ががらがらで、店員もシェフも携帯で観戦していました。お店にテレビがなくてもどっからか聞こえる歓声で得点が入ったのか、取られたのかわかります。今回は真夜中の試合もあったのですが、やはり団地全体を揺らがす歓声でほぼ状況把握ができるほどでした。もちろんこの歓声で起きてテレビをつける人も多かったみたいです。 また、以前と変わったのが応援場所です。ソウル市庁前の広場だけでなく江南の道路が加勢。夕方の試合のある日には午前中から交通規制がしかれ、大変な渋滞になりますが、道行く人は「仕方ないか~」って反応でした。江南の道路が応援場所として加わったのは、若者も集まりやすく、また近所に高層ビルがたくさんあり、お手洗い、コンビニなども多く便利だったからということです。しかし、決勝トーナメント進出が決まった喜びで漢江に飛び込み溺死するという事故があったのは本当に残念でした。 おもしろかったのは「鶏肉」の需要がはんぱな量じゃなかったことです。みんなで集まって観戦するところは、生ビールの飲めるお店。韓国ではビールのおつまみにはフライドチキンが定番です。家で家族や友達といっしょに観戦するときもフライドチキンなど鶏肉料理やピザを出前で頼むのがほとんどです。出前を頼んでも何時間も待たされたとか。そのため、韓国戦の次の日の教職員の食堂のメニューが「タットリタン(鶏肉をじゃがいもなどの野菜を入れ辛く煮込んだスープ。Wikipediaに載ってるのにはびっくり)」だった日は、「センスないよな~。みんな昨日鶏肉食べるくらい知ってるだろう」って不平が出ます。 ところが、このチキンとビールの夜食が習慣になってしまった人が多いらしいのです。ワールドカップ期間に5キロも太ってしまったあるお姉さんは何を着てもぱっつんぱっつんになってしまったためダイエットをはじめたとか。いったいどれだけの鶏が消費されたのでしょう。 来週から夏の最も暑い期間である伏日が10日ごとに訪れます。日本では盛夏の土用丑の日にうなぎを食べますが、韓国では初伏(19日)・中伏(29日)・末伏(8月8日)の日は夏の保養食としてサムゲタン(参鶏湯)を食べます。本当は保身湯という犬肉のスープを食べる日だったらしく、今でも「守っていらっしゃる」方もいます。 今回のワールドカップ、南アフリカでの開催ということで少し遠く感じられたかもしれませんが、若者はちょっと違ったようです。最近の韓国の大学生は南アフリカに英語を学ぶため留学するということも多く、若い子は少しは身近に感じていたのかもしれません。 もう一つは鄭大世選手です。彼の涙にみんな泣きました。韓国籍の彼が北朝鮮の代表として出場したことの意味するところは大きかったように思えます。韓国の人が「在日ってなんなのか」少しは考えるきっかけになったのではないでしょうか。韓国戦争勃発50年を迎え、南北の分断などなどいろいろ考えさせられることが多かったワールドカップだったような気がします。 4年後はどう変わっているのでしょう。楽しみです。 ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、檀国大学日本研究所学術研究教授。SGRA会員 ------------------------------------------- 2010年7月28日配信
  • 2010.07.22

    エッセイ253:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その4:賞味期限を気にしすぎ?」

    みなさんが日本のスーパーとかで買い物するとき、商品の値札に書かれている数字以外に、ついつい気にしてしまうのがその商品のどこかに必ず表示されている賞味期限、もしくは消費期限ではないでしょうか。当然ながら、衛生や清潔さにいつもピリピリしている僕の国シンガポールでも、同じような品質保持期限の表示はあります。賞味期限なら日付の前に「Best Before XXX」と、消費期限なら「Use By XXX」という英語で記されます。でも、そんなシンガポールでも日本には全然かないません。なぜなら、日本では日付ばかりでなく、「賞味時間」までが表示される場合があったりしますから。「X月X日午後4時まで」とか「X月X日午前2時まで」とかの表示は日本で暮らしている人なら誰でも見たことがあると思います。「本当かよ~。その時間からこのコーナーのものが一斉に腐り始めるというの?」と素直でない僕はいつも疑念を抱いてしまいます。それだけではありません。一番びっくりしたのは、多くのスーパーではなんと卵一個一個のうえに賞味期限が印刷されているシールが丁寧に貼られていたりすることです。印刷紙がもったいないという以前に、ここまでくるともう「まいりました」と脱帽するしかありませんね。 実は、屋台村の出店まで一軒一軒に「衛生ランク」をつけてしまうシンガポールでも、市井の庶民がお肉やお魚や野菜などの生鮮食品を買うときは、今でも品質保持期限が一切表示されない「ウェットマーケット」(Wet Market)に行くことが多いです。ウェットマーケットは要するに、日本の商店街などにときどき見かける個人経営の魚屋さんや肉屋さんや八百屋さんがたくさん集まっているバザール風の市場です。普通の肉類や魚介類のほかに、生きたままの鶏や鳩、または食用の蛙とかすっぽんや亀の卵まで揃っているので、まるで生鮮食品のディズニーランドのようで、料理をあまりしない僕でさえも帰国するたびに必ず一回ぐらいは足を向ける楽しい場所の一つです。売り手の掛け声や買い手との値引き交渉に加え、一頭の豚を頭から内臓まで無駄なく量り売りするために手際よく肉を裁く包丁がまな板を叩く音、もうみんな一生懸命生きている感じというか、これぞ庶民の生活感ぷんぷんという世界が広がります。そして言うまでもなく、この世界では「賞味期限」などの無機質な数字はありません。肉や魚が腐っているかどうかは自分の目と鼻で判断してくださいという感じです。もっとも、目と鼻が利かない人でも、万が一ダメな肉や魚を買ったときには、翌日同じ店に訴えに行けば済むことです。こういう人間臭いやりとりがまた面白くて、僕は大好きです。 翻って日本では近年、賞味期限の偽装問題が次々と発覚し、これまで偽装表示された食品を食べて何の問題もなかったのに、改ざんがいったん暴露されるや、みんな以前よりもついつい敏感になってしまい、「正確な」賞味期限表示をさらに求めるようになり、生活がいっそう数字に左右されてしまいます。考えてみれば、賞味期限の「期限」がよくない気がします。なぜなら、「期限」は英語で「デッドライン」(Deadline)に訳されることもありますので、「死の線」だなんて恐ろしいったらありません。これではみんながナーバスになるのも無理はありません。例えばシンガポールのように「Best Before XXX」であれば、「XXXの前なら、ベストだよ、一番美味しいよ、でも期日を少し過ぎても大丈夫だよ、死にませんよ」というニュアンスを含んだほうが何倍も優しく聞こえるのは僕だけでしょうか。せめて「賞味期間」とか「一番美味しくいただける時期」とか、もっとポジティブな表示はできないものでしょうか。日本での僕の生活がより大らかな人間臭さを取り戻すためにも、誰か良い案がありませんかね。 -------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------------- 2010年7月21日配信 【読者の声】 楽しく読ませていただきました。食品については、冷蔵庫で期限切れになっても自分も自己判断で賞味しています。これもエコです。しかもお腹壊しても死ぬものじゃないし、ダイエットしたい方にもいい方向に作用するし。 それから予てより思っていることですが、食べ物というのは、指数関数[exp(-日数/期限定数)で質が落ちていくものです。レジシステムが情報化されている現在、この変化を即時に価格に反映させるのはいかがかと思っています。例えば一パック200円の牛乳で、期限定数を8日だとすると、入荷日は200円、日数が経つにつれて176、155、137、121、107、94、83(7日目)と値段が自然と下がって行きます。賞味期限が1日と短いおにぎり等でも、時間単位の設定が可能。 これなら新しい物から買われていって古いのが廃棄されることはなくなります。貧乏学生にとっても、日数の経ったものだけを頼りにすれば格安で生活できるし。値段表示ですが、間もなく普及するであろう電子紙、もしくは現段階でも携帯電話によるスキャンで価格表示は可能です。 ますますドライな世界になっていくようですが..... (葉 文昌 2010年7月21日)
  • 2010.06.30

    エッセイ252:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その2)」

    ○ 授業の雰囲気 今の学科がそうであるように、日本の多くの大学では授業中の飲食は禁止されている。台湾ではつい最近、台湾大学の先生が、「今の台湾で最エリートの台湾大学医学部の学生が、授業中平気でフライドチキンを平らげていて嘆かわしい」と新聞に投書して論争を呼んだように、授業によっては朝には朝飯、昼に近づけば弁当、の授業情景が繰り広げられる。実は学生は授業の最初に先生の反応に探りを入れており、そこで先生が指摘しなかったから、その授業でこのような行為がはびこるのである。ちなみに僕は、他の受講者に迷惑をかけるかどうかを基準としているので、飲み物はよいが、匂いや音の出る食べ物は駄目としている。しかし、世の中一般の状況はどうだろうか?ネットで調べると日本では学生の飲食に対して「師と学生には上下の関係があるから学生の飲食は不敬」、「社会通念上、非常識な行為」としている意見が多い。これは師と生徒を上下関係とする儒教の影響を受けているのであろう。一方でアメリカの大学の状況をネットで調べて見ると、授業中の飲食はありがちのようで、学生だけではなく中にはスナック菓子を食べながら授業をする先生もいるそうな。師と生徒が従属関係になく、よりフラットな関係にあるからなのであろう。台湾の国立大学の教授の7、8割がアメリカで博士号を取得しているが、その影響で台湾の大学でも、授業中の学生の飲食に寛容になったのではないか。 しかしながら、積極的に発言するアメリカの学生と違い、台湾の学生は日本と同様あまり意見を表したがらない。台湾の初頭教育に学ぶ論語の一番最初の語句が「剛毅木訥、近仁(口数が少ない人は、道徳の理想とする仁に近い)」、また俗語に「多説多錯(多く話すだけ過ちが多くなる」「沈黙是金(沈黙は金)」「禍従口出(口は禍の元)」などがあり、それを以って親や初等教育の先生が子供に諭すように、台湾では自分の意見を曝け出すことは良しとしない風潮がある。だから台湾の大学生は意見をあまり表さないでいるのである。「日本人は謙虚で内気な民族である」と、その民族的特徴を捉える人がいるが、多くは単に儒教文化の影響を残しているだけなのだと思う。もっとも学生が自分の意見を述べたがらないのは先生の責任であるので、研究室ゼミで学生が自分の意見を述べられるように努力している。学生が自分の意見を話すようになると、ゼミはとても面白くなる。 ○ エコ意識 15年前頃から日本の大学当局はエネルギー消費量の削減を宣伝していたし、研究室では指導教授が電源をきちんと切るように指導していた。島根大学でも、学生は帰宅前にはポットの電源を切って帰るし、研究室でも出来る限りクーラーをつけないようにしていてエコへの意識は高い。そしてごみもちゃんと分類するよう指導されている。しかし、台湾で大学がエネルギー消費量削減の宣伝をしているのは見たことがない。学生もパソコンの電源をつけっぱなしにしている方が普通である。実は台湾の電気代は日本の1/2、韓国の2/3と安い。これが影響しているのではないか。といっても台湾では全くエコ意識がないと言うわけではなく、使わなくなったプリントは多くの場合裏面でもう一回使っているように、それなりのエコ活動はしているようだ。 ○ 研究設備 着任してから一生懸命助成金獲得への企画書を書いているが、研究費の獲得がどれくらい大変であるかは、まだわからない。実験パーツの見積りは始めているが、日本の実験パーツは同じアメリカ製品でも台湾と比べて高いものが多いことに気づいた。中には価格が2倍のものもある。今やパソコンやディスプレイなどの民生工業成品は日本でも台湾でも価格はほぼ同じであるのに、なぜ実験パーツにこれほどの差があるのかは理解し難いところである。だから実験装置を作りあげることに関しては、日本の方が高くつきそうだ。 ○ 学科会議 台湾での学科会議では、会議に関する厚いプリント資料が一人一人に配られ、「Xページ目の何処何処に示された…」という具合に会議は進行する。ここで少しでも集中力が散逸すると議題のスポットを探すのにひと苦労する。「映像放映が無料の時代になぜプリントなのか?日本ではパワーポイントを利用するなどもっと賢いやり方をしているに違いない。」と思っていたが、日本に来てみたら全く同じだった。台湾に居た頃、せっかく素晴しいプロジェクターが各部屋にあるのだから、せめて会議で進行中のプリントを画面に映し出したらどうかと提案したことがある。幸い聞き入れてもらってそれ以降はそのようになった。会議の進行自体は大差ないが、頻度に関しては日本の学科会議は年間25回程あるのに対し、台湾では4回程しかない。出席率も日本では100%に近いのに対し、台湾ではおおよそ70%程度である。台湾では議決は権利なので欠席は権利を放棄したとみなされるのに対して、日本では議決は義務とみなされているようだ。だから日本での欠席は予め委任状の提出が求められる。この違いが出席率に現れているのではないか。また台湾では会議時間が11:30から午後の授業が始まる13:30までで、学科支給の無料の弁当を食べながら会議をするのに対して、日本ではお昼時間を避けて会議が始まる。台湾の会議は午後の授業が始まる13:30までには終わらせるのが普通であるが、日本の場合は4時に始まって7時に終わることも度々ある。 違いはまだまだあると思うが、また気づいたらお知らせしたい。 ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 ----------------------------------------- 葉 文昌「台湾の大学と日本の大学(その1)」 2010年6月30日配信
  • 2010.06.24

    エッセイ251:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その1)」

    台湾の旧職場を3月16日に離職し、島根県松江市に22日に来て、早速住民登録、移動手段となる自転車の購入、携帯電話申請、等、新生活に向けた準備をした。そして4月1日、待望の辞令を学部長から受け取る日となった。スーツを着てやや緊張しながらも期待に満ちた気持ちで出勤する。式典では学部長が辞令を読み上げて交付された。台湾での職場にはこういうのがない。台湾の大学では8月1日から新年度が始まるが、夏休み中なのですぐ授業が始まらない。だから先生によってはまだ海外で帰国準備をしていて授業が実際に始まる9月中旬に現れることも少なくない。また式典はないので、辞令はそれぞれが事務室に取りに行く。 着任して一週間後には新入生が入ってくる。学校のメインストリートには部活の勧誘ポスターが張り出され、活発な課外活動が繰り広げられる。それに比べると、台湾のキャンパスはおとなしい。台湾の初等教育で、学生の勉学へのモチベーションを高めるために先生がよく口にする言葉に「萬般皆下品、唯有読書高(すべては下品で読書だけが高貴)」、「書中自有黄金屋、書中自有顔如玉(書中に豪邸あり、書中に美人あり)」があるが、社会全体がこのような歪んだ価値観を漂わせていることも原因であろう。読書以外は下品なことなので、例えばオリンピックでは韓国と違って情けない成績しか得られていない。 台湾の大学でも建前では課外活動奨励しているが、多くの規制が自由な課外活動を妨げている現実がある。以前、学生にものづくりの面白さを伝えようと、太陽電池ラジコン飛行機を作るクラブを立ち上げようとしたことがある。学生有志10名程が集まったが、クラブ団体として認定されるには20名の団員を集める必要があると言われた。認定されないと活動する部屋が支給されないのである。学校の管理担当者とかけあったが「20人の名前を借りて署名を集めればいいんだよ」と親切にも“裏技”を伝授してくれた。正直者がバカを見る中華社会に自分まで染まる必要はないと思った。このような規制があるため、現存している部活には社会奉仕的な、或いは学習的な、いかにも模範的な官製部活が多い。 続いて学科の新入生オリエンテーションになるが、日本では先生全員が参加し、教壇で一人一人学生を前に自己紹介をした。台湾では教員の自意識が強いためか、オリエンテーションにでる教員は殆どいない。学生へのフォローはどちらも細かく、「大学の生活に馴染めないのであれば将来社会にも馴染めない。大学生なのだから勝手にさせればいい。」という考えは時代遅れのようだ。今や大学教員も授業と研究を通じての社会貢献だけではなく、小中高の教員と同じく学生へのメンタルケアも要求される時代のようである。 日本の学生は礼儀正しい。授業で携帯電話をいじる学生もいない。台湾ではたまに携帯が鳴って、小声で話そうとする学生がいる。咎めるのは先生の責任だが、しかし学生を言う前に台湾の先生の中には会議でも講演会でも小声で電話を話す輩がいる。今や日本人は華人に代わって“礼儀之邦”となっていることは台湾人も認める所だ。もっとも”日本人は礼があっても体はない”と日本のアダルト産業に関連させてオチをつける華人(やメディア)も多いので、日本人は礼儀正しいと華人に褒められて気を良くするのはいいが、心の中では間違いなく口に出てこない残り半分を思っているはずなので、はめをはずさないように。 授業に関しては日本では多くの教員が教科書を執筆し、それを授業で使う場合が多い。一方、台湾ではアメリカの有名大学で使われている教科書を使うことが多い。僕も台湾に行ってからアメリカの教科書に接することになったが、アメリカの教科書はとても噛み砕いて説明している教科書が多いと感じる。アジアでは99乗算をそのまま暗記するのに対しアメリカでは理解させることに重点を置いているように、教育に対する価値観の違いが根底にあるのだろう。説明が詳しいから、アメリカの教科書は自習でも身につく。一方で日本の教科書は、先生のわかりやすい講義なしではわかりづらいことが多い。更にアメリカの教科書は、説明が詳しいだけでなく参照文献もしっかりしており、かなり手間をかけて作っていると感じる。アメリカは自由競争なので寡占化されるし、また有名大学で使われる教科書は台湾などの多くの国の大学でも採用されるので、手間ひまかけて作っても成功すれば十分な見返りは期待できるのであろう。学生の視点からすれば、アメリカでメジャーになった教科書を使えば外れがないので安心できる。(つづく) ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 -----------------------------------------
  • 2010.06.16

    エッセイ250:権 南希「二度目の『留学』

    昨年9月、私は8年間の留学生活を送った東京を離れて大阪に来た。私を待っていたのは、個性的なパワーに満ちた大学三年生、いや「三回生」たちだった。私が所属しているところは、大阪にある関西大学の政策創造学部。「先生、何故日本に留学しようと思ったのですか?」「韓国人は日本人が嫌いって、本当ですか?」関西弁が飛び交う学生たちの質問攻めのなかで、私の初講義は始まった。初めて日本に留学生として来た時に感じた緊張感のようなものが、もう一度よみがえるような感じがして嬉しかった。 しかし、感傷に浸っている間もなく、これまでとは違う緊張感と責任感が心理的なプレッシャーとなって重くのしかかってきた。秋学期から担当することになった科目は、国際法事例研究。学生たちには自らテーマを決めて国際法に関する論点を発表してもらった。インドの児童労働問題、アフリカの紛争ダイヤモンド問題、地球温暖化問題、捕鯨問題、東アジア共同体問題などのテーマについて発表があった。そのなかで私を一番悩ませたのは、韓国と日本の間の問題だった。もちろん、国際法の専門的な知識だけを学生に伝えるなら、問題はそれほど難しくない。しかし、東京裁判、竹島・独島問題となると話は違う。特に「東京裁判」のような日本の歴史認識が直接問われる問題は、韓国人の私にとっては非常に扱いが難しい問題だった。「そんな勝者の裁きだったのに、何故日本だけが、我々がずっと責められなければならないのですか」と問う学生たちにどう答えれば良いのか。そもそも、外国人の私の意図は誤解されることなく、きちんと伝わるのだろうか。 二年ほど前、野坂昭如の小説を映画化したアニメ「火垂るの墓」の韓国のある大学での上映を巡って、韓国内で賛否両論が報道されたことがある。その時、韓国人の友人たちと何時間もこの問題について話した。私たちが日本に留学していなかったら、おそらくそこまで力を入れて話すことはなかったと思う。同じ韓国人留学生の中でも意見が違う人たちがいることは当然なことであった。しかし何年もの時間を同じ建物で過ごしていても、お互いの意見の違いを知り、理解する機会を持つことは意外とないものだ。もちろん、最初から結論はあるはずのない話だったが、それぞれが自分自身に対して結論を出し、解散した。この時のことを思い出したとき、私の悩みはすんなりと消えていた。 彼らの主張を真正面から受止め、問題を共有すること、そして真摯に答えることのみが私のできる精一杯のことであることに気がついた。発表グループの学生たちと議論を重ねて行くにつれ、私は学生たちに、そして学生たちは私に、言いたいことが、そして聞きたいことがたくさんあることが分かった。東京裁判チームの発表が終わった昨年11月のある日、私は改めて留学当初の自分に戻ったような気がした。 昨年の受講生たちは来春、社会人になるための準備で忙しい。私はいま、二度目の「留学」の初めての春を、一回生とともに送っている。 -------------------------------------------------------------------- <権 南希(くぉん・なみ)☆ Kwon Nami> 韓国大邱市出身。2009年東京大学法学政治学研究科博士過程単位取得満期退学。現在関西大学政策創造学部助教。担当科目は、専門導入ゼミ(国際環境法)、国際公共政策(国際法)など。研究分野は国際法。最近は「武力紛争時における環境問題の国際法的アプローチ」を研究している。 -------------------------------------------------------------------- 2010年6月16日配信