SGRAエッセイ

  • 2010.08.11

    エッセイ256:ニザミディン・ジャッパル「私の人生に一番影響を与えた人―マリア先生」

    1967年、中国で「文化大革命」が始まり、知識人は農村での強制労働を課せられました。私の父は1944年新彊学院法律学部を卒業して、裁判省に勤務していたため「反革命分子」と呼ばれ、家族全員、農村での生活を余儀なくされ、政治的権利も奪われました。私が6歳になった時のことでした。翌年、私は村の小学校に入学しましたが、学校でも村でも「反革命分子」の子供と言われていじめられ、毎日泣きながら家に帰りましたので、私には友達と外で遊んだ経験などありません。両親は毎日強制労働をさせられ、兄、姉たちも私と同じようにいじめられました。父が「申し訳ない、私のせいで家族全員がいじめられる。私が死んだらきっとよくなるだろうから、それまで辛抱してくれ。」と言ったのが今でも記憶に残っています。父はその希望通り、1971年に重労働のため51歳で亡くなりましたが、どんなにか無念だったことでしょう。しかし、父が死んでも「反革命分子の子供」というレッテルは消えませんでした。私は人がいないところで泣いてばかりいました。そして、社会が変わってチャンスが来たら、父をいじめた人達を見返そうと云う事ばかり考えていました。 1973年に中学に入学し、担任のマリア先生に出会ったことにより、私のそれまでの世間に対する負い目や後ろ向きの考え方が霧が晴れるように無くなりました。第一回目の数学試験後、先生は私を教官室に呼んで「君の成績はクラスで一番だった、これから君をクラスの学習担当者にしよう」と云ってくださいました。私が、「出身身分がよくないので私が学習担当者になってもクラスメートは誰も認めてくれないと思います。」と答えたところ、先生は、「君の家庭の事情はよくわかります。でも、君のお父さんは反革命分子ではなく、知識人で立派な弁護士でした。あなたはお父さんのことをもっと誇りに思っていいのですよ。こんな社会が長く続くはずがありません。きっと変わります。君の兄さんや姉さんたちも優秀だから、将来きっと立派な科学者になると思います。君も頑張って、困ったことがあったら私に相談してください。」と仰いました。それは初めて聞いた、私の父に対する称賛の言葉でした。生まれて初めて、嬉しく幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。それからというもの、私は授業で不明な点があれば先生に聞き、先生は熱心に教えてくださいました。先生はみんなの前でよく私のことをほめてくださったので、次第にいじめがなくなり、誰も私のことを「反革命分子」の子供と言わなくなりました。そのような事が有ってからマリア先生は私の心の中で神様のような偉大な人となりました。私の夢は将来、先生と同じ様になりたいと思い、そのことを話すととても喜んでくださいました。そして有名な科学者が子供時代に大変苦労した話などをしてくれ、いつも励まし、元気づけてくださいました。 1977年、私の人生に大きな転機が訪れました。1966年に始まった「文化大革命」が終焉を迎え、“反革命分子”が開放されたのです。身分に関係なく成績が優秀であれば大学に入ることができるようになりました。その時誰よりも喜んだのはマリア先生でした。先生は「ニザミディンくん、君たちの時代がやっと来た、頑張って、君はいい大学に入れる。」と云って、それまで以上にますます熱心に教えてくださるようになりました。そして1978年、私が新彊大学に合格すると、先生は家で送別会を開いてくださって、「大学に着いたら生活、勉学事情について手紙を書いてください」と云ってくださいました。大学での勉強方法、諸々の問題の解決法、将来などについて相談すると、先生は親身になって、手紙でいろいろとご指導くださいました。大学を卒業して、新彊大学に教官として残ることを知らせた時、先生は「就職おめでとうございます。君の考えたとおりに自分の知識をもっと増やすため、アメリカ、日本など科学技術レベルが高い国に留学したほうがいいと思います。」とアドバイスをしてくださいました。1990年に私の夢がかなって日本に留学できることになりました。先生は、「留学おめでとうございます、君はよく頑張った、君の事は私の喜び、博士学位を取得するまで頑張ってください。」と励ましてくださいました。 先生は今まで、私の人生という航海の行く先を示してくださったコンパスのような存在でした。先生は私の一番尊敬する人です。先生の存在なくしては今の私はないと言っても過言ではありません。私は先生のご恩を一生忘れません。いつでも先生の健康と長寿を祈っています。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------------------- <ニザミディン・ジャッパル ☆ Nizamidin Jappar> 中国新疆出身。1998年、東京大学より博士号取得。1998-2002年、昭和電工株式会社、ケミカルエンジニア、主任研究員、多種機能を付加した各種工業用材料の研究開発。2004年よりKimoto Tech Inc., USA、現在、研究開発部長,取締役員。 ---------------------------------------- 2010年8月11日配信
  • 2010.08.04

    エッセイ255:南 基正「平凡だが越えることが出来ない永遠の存在-私の父」

    父について書くのは難しい、という。長与善郎が父長与専斎を思うに際して「自慢のようになるのも気がひけるし、といって徒に如才なく卑下して強いてくさすようにいうのはなお更嫌なことである」と書いているが、なるほどそうであると思う。特に、公の場所では父親の名前さえ口にしてはならないと幼いときから教育されてきた私としては、父について書くのはなおさら気がひけることである。韓国では父親の名前を聞かれると、例えば私の場合、「南字、俊字、祐字です」と答えなければならない。しかし今私は、とても恐れながら、私の父に対する想いを書こうとする。 いつからかよく覚えていないが、私に対して最も影響を与えた人物を聞かれる度に、迷うことなく父親だと答えてきた。しかし、なぜなのかと聞かれるとなかなか一言でいえず、答えに困っていたように思える。実は私は父からしつこく何かを言われた覚えもなく、一度もほめられたことがない。即ち、父との直接的かかわりがなく父を判断する原材料がないということが、まず浮かび上がる理由である。父に関して、父の私に対する思いに関してはすべて、母や父の周りの人から間接的に聞いた話である。しかし、それは答えとして語ろうとしても語り尽くせない話のように思えたからでもある。そして、なによりも、父が一見とても平凡な人であり、特別な何かがある人であるということをその場で信じさせるのは無理だと思っていたからかもしれない。 父は貧しい農家の長男として生まれた。勉強はできたが、家が貧しく大学には進めず、当時の花形職業であった銀行に就職した。自力で夜間大学に通い、最初の銀行で定年まで働き、定年後は家で読書の毎日を送っている。こうしてみると、どこにもいそうなごく平凡な父である。しかし、私はわずか二、三行で締めくくれる父の人生の中で、とうてい越えることができない永遠の存在としての父を見るのである。 父はまず、私にとって永遠の先生である。父は、私に学問することの楽しさと厳しさを教えてくれた。私の祖父と曽祖父は漢学の先生であったという。清貧が学問を営みとするものの第一の教義であった時代がその背景にあり、生業にはほとんど無関心であったのが先の貧しさの原因であり、父が銀行員とならざるをえなかった理由でもあるが、とにかく、そのような環境の中で父はハングルより漢文を先に習ったという。漢学が学問である限り、それが学校での勉強とパラレルではない。その意味で、私は学校での成績などで父にとやかく言われた覚えがない。常に、もっと広くもっと深く物事を考えることを教えられたのである。父は定年後、ふだん最もしたかったことをするのだといい、漢学の勉強を始めた。私は年に一度帰国するが、そのつど、父は私よりはるかに長い時間を漢学の書物と向き合っている。学問に終わりがないことを身をもって教えている。 父はまた、私に「文が武に勝る」という意味での平和主義を教えようとしたようである。幼いころ、私は父に刀や銃などのおもちゃを一度も買ってもらえなかった。そのおかげで、私は兵隊ごっこやインディアンごっこなどの遊びには参加することができなかった。TVでの「暴力と破壊によって問題が解決される」「マジンガーZ」といった類の番組も父がいると見られなかった。代わりに、父は帰り道にいつも本を一、二冊買ってきてくれた。母から後で聞いた話だが、お金に困り、父の必要な本を書店で立ち読みすることはあっても私たち兄弟には必ず本を買ってきてくれたそうである。私が大学に入り自分の選択で本を買うようになるまでは、私の本棚は父からのお土産で一杯であった。 大学生になり、わたしはこのような父に逆らったことがある。学生運動の盛り上がりの中で、当時いわゆる「ヴ・ナロード(人民の中へ)」運動とでもいえるような「農村運動」の組織をしていた頃であり、また、すべての知識が灰色に見え、不偏不党の理論などなく、知識人といえども党派性、階級性を持つべきだというマルクス・レーニン主義的考えに傾斜し始めた頃である。ある夜、父からもらった書物で埋まっていた本棚をひっくり返したのだ。しかし、部屋の中に散らばったその書物を見ているうちに、父の考えの深さやそれを通じた私への想いに思いが至り、結局その行為は極端な考えから脱する反対方向への契機になったのである。戦後日本社会を平和主義をキーワードにしてとらえようとする私の試みは、その意味で父から仕込まれた考え方に端を発しているかもしれない。 父はまた、ただ本の中にうずくまっているひ弱なものになるのを警戒してか、時間がある度に私を登山に誘ったり、テニスにつれていってくれたりして、身体を動かすことの大切さをも教えてくれた。受験を目前にして勉強部屋に閉じこもっている私をテニスに誘ったことで母と口喧嘩になったこともあった。クラッシックのレコード盤を買ってきては、休日になるとさりげなくかけてくれたりもした。以後、いくら忙しいときでも時間を割いてできる範囲での何らかのスポーツや芸術で心の安定を保ち、身体を鍛えていこうと努めている。 こうしてみると、父の学問やスポーツ、芸術に対する思いは私のためのものであったようにみえるが、実は父が自らそれらを本当に楽しんでいたようである。森茉莉が父森鴎外を評して「私には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えた」(「父の子」)と言っているが、それは、そのまま私にもあてはまる言葉である。そのきれいな熱情が無言のうちに私に伝わってきて今までの私を暖め、現在の私を形作ったのである。そして、その熱情が私に伝わってくる限り、父は私にとって永遠の存在なのである。 (著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載) ------------------------------------------- <南 基正(なむ・きじょん)☆ Nam Ki Jeong> 1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授、韓国・国民大学国際学部副教授を経て、現在ソウル大学日本研究所HK教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。 ------------------------------------------- 2010年8月4日配信
  • 2010.07.28

    エッセイ254:韓 京子「アデュー!2010 World Cup!」

    南アフリカで開催されたワールドカップがとうとう終わってしまいました。といっても私にとっては「まだやってたんだ」という感じでしたが。2002年は燃えていた気がするのですが、2006年はあまり記憶に残っていません。年をとったのか、情熱を失い醒めた人間になってしまったのか……。今回は、韓国チームも日本チームも開催前の低評価とはうってかわった戦いぶりに湧いたのではないでしょうか。もちろん逆のチームもありました。 さて、国それぞれ応援の仕方、様子も違うと思われるので、こちら韓国の様子を少しお伝えすることにしましょう。 はじめからそれほど盛り上がっていなかったのですが、開催一ヶ月前に行われた強化試合で中国に完敗してからさらに下がってしまいました。ところが、その後の強化試合最終戦で日本に快勝してから急にスイッチが入りワールドカップモードに突入したという感じです。 ワールドカップグループリーグの初戦相手はギリシャ。この初戦で韓国チームは「いけるかも」という希望を持たせてくれました。とにかく「韓国ってこんなに強かったっけ?」と思わせてくれた試合内容でした。この試合の日本での報道が韓国寄りだったことは韓国でも報道され、「???」、「私たちはああなれないだろうな」と戸惑いを覚えた人が多かったようです。 ご存知のように韓国と日本はグループが違い、韓国の試合の数日後に日本の試合があるというパターンが続きました。日本は大会前の強化試合で韓国に敗戦したこともあり、非常に低評価でした。しかし、その後の日本チームの予想外の善戦に、どうしても日本を快く応援できない私たちは表面では応援しても心の中では「韓国チームだけ勝てばいいのに」「日本も決勝トーナメント進みそうだよ。いやだな」って思った人も多かったのではないかと思われます。いかんともしがたい性でしょうか。 2010年のワールドカップの観戦方法の特色は携帯で移動中に試合を観る人が多くなったことです。大勢で観戦するというのは以前と変わりません。テレビのない飲食店に人は全くいません。いつも行列のできるイタリアンのお店ががらがらで、店員もシェフも携帯で観戦していました。お店にテレビがなくてもどっからか聞こえる歓声で得点が入ったのか、取られたのかわかります。今回は真夜中の試合もあったのですが、やはり団地全体を揺らがす歓声でほぼ状況把握ができるほどでした。もちろんこの歓声で起きてテレビをつける人も多かったみたいです。 また、以前と変わったのが応援場所です。ソウル市庁前の広場だけでなく江南の道路が加勢。夕方の試合のある日には午前中から交通規制がしかれ、大変な渋滞になりますが、道行く人は「仕方ないか~」って反応でした。江南の道路が応援場所として加わったのは、若者も集まりやすく、また近所に高層ビルがたくさんあり、お手洗い、コンビニなども多く便利だったからということです。しかし、決勝トーナメント進出が決まった喜びで漢江に飛び込み溺死するという事故があったのは本当に残念でした。 おもしろかったのは「鶏肉」の需要がはんぱな量じゃなかったことです。みんなで集まって観戦するところは、生ビールの飲めるお店。韓国ではビールのおつまみにはフライドチキンが定番です。家で家族や友達といっしょに観戦するときもフライドチキンなど鶏肉料理やピザを出前で頼むのがほとんどです。出前を頼んでも何時間も待たされたとか。そのため、韓国戦の次の日の教職員の食堂のメニューが「タットリタン(鶏肉をじゃがいもなどの野菜を入れ辛く煮込んだスープ。Wikipediaに載ってるのにはびっくり)」だった日は、「センスないよな~。みんな昨日鶏肉食べるくらい知ってるだろう」って不平が出ます。 ところが、このチキンとビールの夜食が習慣になってしまった人が多いらしいのです。ワールドカップ期間に5キロも太ってしまったあるお姉さんは何を着てもぱっつんぱっつんになってしまったためダイエットをはじめたとか。いったいどれだけの鶏が消費されたのでしょう。 来週から夏の最も暑い期間である伏日が10日ごとに訪れます。日本では盛夏の土用丑の日にうなぎを食べますが、韓国では初伏(19日)・中伏(29日)・末伏(8月8日)の日は夏の保養食としてサムゲタン(参鶏湯)を食べます。本当は保身湯という犬肉のスープを食べる日だったらしく、今でも「守っていらっしゃる」方もいます。 今回のワールドカップ、南アフリカでの開催ということで少し遠く感じられたかもしれませんが、若者はちょっと違ったようです。最近の韓国の大学生は南アフリカに英語を学ぶため留学するということも多く、若い子は少しは身近に感じていたのかもしれません。 もう一つは鄭大世選手です。彼の涙にみんな泣きました。韓国籍の彼が北朝鮮の代表として出場したことの意味するところは大きかったように思えます。韓国の人が「在日ってなんなのか」少しは考えるきっかけになったのではないでしょうか。韓国戦争勃発50年を迎え、南北の分断などなどいろいろ考えさせられることが多かったワールドカップだったような気がします。 4年後はどう変わっているのでしょう。楽しみです。 ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、檀国大学日本研究所学術研究教授。SGRA会員 ------------------------------------------- 2010年7月28日配信
  • 2010.07.22

    エッセイ253:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その4:賞味期限を気にしすぎ?」

    みなさんが日本のスーパーとかで買い物するとき、商品の値札に書かれている数字以外に、ついつい気にしてしまうのがその商品のどこかに必ず表示されている賞味期限、もしくは消費期限ではないでしょうか。当然ながら、衛生や清潔さにいつもピリピリしている僕の国シンガポールでも、同じような品質保持期限の表示はあります。賞味期限なら日付の前に「Best Before XXX」と、消費期限なら「Use By XXX」という英語で記されます。でも、そんなシンガポールでも日本には全然かないません。なぜなら、日本では日付ばかりでなく、「賞味時間」までが表示される場合があったりしますから。「X月X日午後4時まで」とか「X月X日午前2時まで」とかの表示は日本で暮らしている人なら誰でも見たことがあると思います。「本当かよ~。その時間からこのコーナーのものが一斉に腐り始めるというの?」と素直でない僕はいつも疑念を抱いてしまいます。それだけではありません。一番びっくりしたのは、多くのスーパーではなんと卵一個一個のうえに賞味期限が印刷されているシールが丁寧に貼られていたりすることです。印刷紙がもったいないという以前に、ここまでくるともう「まいりました」と脱帽するしかありませんね。 実は、屋台村の出店まで一軒一軒に「衛生ランク」をつけてしまうシンガポールでも、市井の庶民がお肉やお魚や野菜などの生鮮食品を買うときは、今でも品質保持期限が一切表示されない「ウェットマーケット」(Wet Market)に行くことが多いです。ウェットマーケットは要するに、日本の商店街などにときどき見かける個人経営の魚屋さんや肉屋さんや八百屋さんがたくさん集まっているバザール風の市場です。普通の肉類や魚介類のほかに、生きたままの鶏や鳩、または食用の蛙とかすっぽんや亀の卵まで揃っているので、まるで生鮮食品のディズニーランドのようで、料理をあまりしない僕でさえも帰国するたびに必ず一回ぐらいは足を向ける楽しい場所の一つです。売り手の掛け声や買い手との値引き交渉に加え、一頭の豚を頭から内臓まで無駄なく量り売りするために手際よく肉を裁く包丁がまな板を叩く音、もうみんな一生懸命生きている感じというか、これぞ庶民の生活感ぷんぷんという世界が広がります。そして言うまでもなく、この世界では「賞味期限」などの無機質な数字はありません。肉や魚が腐っているかどうかは自分の目と鼻で判断してくださいという感じです。もっとも、目と鼻が利かない人でも、万が一ダメな肉や魚を買ったときには、翌日同じ店に訴えに行けば済むことです。こういう人間臭いやりとりがまた面白くて、僕は大好きです。 翻って日本では近年、賞味期限の偽装問題が次々と発覚し、これまで偽装表示された食品を食べて何の問題もなかったのに、改ざんがいったん暴露されるや、みんな以前よりもついつい敏感になってしまい、「正確な」賞味期限表示をさらに求めるようになり、生活がいっそう数字に左右されてしまいます。考えてみれば、賞味期限の「期限」がよくない気がします。なぜなら、「期限」は英語で「デッドライン」(Deadline)に訳されることもありますので、「死の線」だなんて恐ろしいったらありません。これではみんながナーバスになるのも無理はありません。例えばシンガポールのように「Best Before XXX」であれば、「XXXの前なら、ベストだよ、一番美味しいよ、でも期日を少し過ぎても大丈夫だよ、死にませんよ」というニュアンスを含んだほうが何倍も優しく聞こえるのは僕だけでしょうか。せめて「賞味期間」とか「一番美味しくいただける時期」とか、もっとポジティブな表示はできないものでしょうか。日本での僕の生活がより大らかな人間臭さを取り戻すためにも、誰か良い案がありませんかね。 -------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------------- 2010年7月21日配信 【読者の声】 楽しく読ませていただきました。食品については、冷蔵庫で期限切れになっても自分も自己判断で賞味しています。これもエコです。しかもお腹壊しても死ぬものじゃないし、ダイエットしたい方にもいい方向に作用するし。 それから予てより思っていることですが、食べ物というのは、指数関数[exp(-日数/期限定数)で質が落ちていくものです。レジシステムが情報化されている現在、この変化を即時に価格に反映させるのはいかがかと思っています。例えば一パック200円の牛乳で、期限定数を8日だとすると、入荷日は200円、日数が経つにつれて176、155、137、121、107、94、83(7日目)と値段が自然と下がって行きます。賞味期限が1日と短いおにぎり等でも、時間単位の設定が可能。 これなら新しい物から買われていって古いのが廃棄されることはなくなります。貧乏学生にとっても、日数の経ったものだけを頼りにすれば格安で生活できるし。値段表示ですが、間もなく普及するであろう電子紙、もしくは現段階でも携帯電話によるスキャンで価格表示は可能です。 ますますドライな世界になっていくようですが..... (葉 文昌 2010年7月21日)
  • 2010.06.30

    エッセイ252:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その2)」

    ○ 授業の雰囲気 今の学科がそうであるように、日本の多くの大学では授業中の飲食は禁止されている。台湾ではつい最近、台湾大学の先生が、「今の台湾で最エリートの台湾大学医学部の学生が、授業中平気でフライドチキンを平らげていて嘆かわしい」と新聞に投書して論争を呼んだように、授業によっては朝には朝飯、昼に近づけば弁当、の授業情景が繰り広げられる。実は学生は授業の最初に先生の反応に探りを入れており、そこで先生が指摘しなかったから、その授業でこのような行為がはびこるのである。ちなみに僕は、他の受講者に迷惑をかけるかどうかを基準としているので、飲み物はよいが、匂いや音の出る食べ物は駄目としている。しかし、世の中一般の状況はどうだろうか?ネットで調べると日本では学生の飲食に対して「師と学生には上下の関係があるから学生の飲食は不敬」、「社会通念上、非常識な行為」としている意見が多い。これは師と生徒を上下関係とする儒教の影響を受けているのであろう。一方でアメリカの大学の状況をネットで調べて見ると、授業中の飲食はありがちのようで、学生だけではなく中にはスナック菓子を食べながら授業をする先生もいるそうな。師と生徒が従属関係になく、よりフラットな関係にあるからなのであろう。台湾の国立大学の教授の7、8割がアメリカで博士号を取得しているが、その影響で台湾の大学でも、授業中の学生の飲食に寛容になったのではないか。 しかしながら、積極的に発言するアメリカの学生と違い、台湾の学生は日本と同様あまり意見を表したがらない。台湾の初頭教育に学ぶ論語の一番最初の語句が「剛毅木訥、近仁(口数が少ない人は、道徳の理想とする仁に近い)」、また俗語に「多説多錯(多く話すだけ過ちが多くなる」「沈黙是金(沈黙は金)」「禍従口出(口は禍の元)」などがあり、それを以って親や初等教育の先生が子供に諭すように、台湾では自分の意見を曝け出すことは良しとしない風潮がある。だから台湾の大学生は意見をあまり表さないでいるのである。「日本人は謙虚で内気な民族である」と、その民族的特徴を捉える人がいるが、多くは単に儒教文化の影響を残しているだけなのだと思う。もっとも学生が自分の意見を述べたがらないのは先生の責任であるので、研究室ゼミで学生が自分の意見を述べられるように努力している。学生が自分の意見を話すようになると、ゼミはとても面白くなる。 ○ エコ意識 15年前頃から日本の大学当局はエネルギー消費量の削減を宣伝していたし、研究室では指導教授が電源をきちんと切るように指導していた。島根大学でも、学生は帰宅前にはポットの電源を切って帰るし、研究室でも出来る限りクーラーをつけないようにしていてエコへの意識は高い。そしてごみもちゃんと分類するよう指導されている。しかし、台湾で大学がエネルギー消費量削減の宣伝をしているのは見たことがない。学生もパソコンの電源をつけっぱなしにしている方が普通である。実は台湾の電気代は日本の1/2、韓国の2/3と安い。これが影響しているのではないか。といっても台湾では全くエコ意識がないと言うわけではなく、使わなくなったプリントは多くの場合裏面でもう一回使っているように、それなりのエコ活動はしているようだ。 ○ 研究設備 着任してから一生懸命助成金獲得への企画書を書いているが、研究費の獲得がどれくらい大変であるかは、まだわからない。実験パーツの見積りは始めているが、日本の実験パーツは同じアメリカ製品でも台湾と比べて高いものが多いことに気づいた。中には価格が2倍のものもある。今やパソコンやディスプレイなどの民生工業成品は日本でも台湾でも価格はほぼ同じであるのに、なぜ実験パーツにこれほどの差があるのかは理解し難いところである。だから実験装置を作りあげることに関しては、日本の方が高くつきそうだ。 ○ 学科会議 台湾での学科会議では、会議に関する厚いプリント資料が一人一人に配られ、「Xページ目の何処何処に示された…」という具合に会議は進行する。ここで少しでも集中力が散逸すると議題のスポットを探すのにひと苦労する。「映像放映が無料の時代になぜプリントなのか?日本ではパワーポイントを利用するなどもっと賢いやり方をしているに違いない。」と思っていたが、日本に来てみたら全く同じだった。台湾に居た頃、せっかく素晴しいプロジェクターが各部屋にあるのだから、せめて会議で進行中のプリントを画面に映し出したらどうかと提案したことがある。幸い聞き入れてもらってそれ以降はそのようになった。会議の進行自体は大差ないが、頻度に関しては日本の学科会議は年間25回程あるのに対し、台湾では4回程しかない。出席率も日本では100%に近いのに対し、台湾ではおおよそ70%程度である。台湾では議決は権利なので欠席は権利を放棄したとみなされるのに対して、日本では議決は義務とみなされているようだ。だから日本での欠席は予め委任状の提出が求められる。この違いが出席率に現れているのではないか。また台湾では会議時間が11:30から午後の授業が始まる13:30までで、学科支給の無料の弁当を食べながら会議をするのに対して、日本ではお昼時間を避けて会議が始まる。台湾の会議は午後の授業が始まる13:30までには終わらせるのが普通であるが、日本の場合は4時に始まって7時に終わることも度々ある。 違いはまだまだあると思うが、また気づいたらお知らせしたい。 ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 ----------------------------------------- 葉 文昌「台湾の大学と日本の大学(その1)」 2010年6月30日配信
  • 2010.06.24

    エッセイ251:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その1)」

    台湾の旧職場を3月16日に離職し、島根県松江市に22日に来て、早速住民登録、移動手段となる自転車の購入、携帯電話申請、等、新生活に向けた準備をした。そして4月1日、待望の辞令を学部長から受け取る日となった。スーツを着てやや緊張しながらも期待に満ちた気持ちで出勤する。式典では学部長が辞令を読み上げて交付された。台湾での職場にはこういうのがない。台湾の大学では8月1日から新年度が始まるが、夏休み中なのですぐ授業が始まらない。だから先生によってはまだ海外で帰国準備をしていて授業が実際に始まる9月中旬に現れることも少なくない。また式典はないので、辞令はそれぞれが事務室に取りに行く。 着任して一週間後には新入生が入ってくる。学校のメインストリートには部活の勧誘ポスターが張り出され、活発な課外活動が繰り広げられる。それに比べると、台湾のキャンパスはおとなしい。台湾の初等教育で、学生の勉学へのモチベーションを高めるために先生がよく口にする言葉に「萬般皆下品、唯有読書高(すべては下品で読書だけが高貴)」、「書中自有黄金屋、書中自有顔如玉(書中に豪邸あり、書中に美人あり)」があるが、社会全体がこのような歪んだ価値観を漂わせていることも原因であろう。読書以外は下品なことなので、例えばオリンピックでは韓国と違って情けない成績しか得られていない。 台湾の大学でも建前では課外活動奨励しているが、多くの規制が自由な課外活動を妨げている現実がある。以前、学生にものづくりの面白さを伝えようと、太陽電池ラジコン飛行機を作るクラブを立ち上げようとしたことがある。学生有志10名程が集まったが、クラブ団体として認定されるには20名の団員を集める必要があると言われた。認定されないと活動する部屋が支給されないのである。学校の管理担当者とかけあったが「20人の名前を借りて署名を集めればいいんだよ」と親切にも“裏技”を伝授してくれた。正直者がバカを見る中華社会に自分まで染まる必要はないと思った。このような規制があるため、現存している部活には社会奉仕的な、或いは学習的な、いかにも模範的な官製部活が多い。 続いて学科の新入生オリエンテーションになるが、日本では先生全員が参加し、教壇で一人一人学生を前に自己紹介をした。台湾では教員の自意識が強いためか、オリエンテーションにでる教員は殆どいない。学生へのフォローはどちらも細かく、「大学の生活に馴染めないのであれば将来社会にも馴染めない。大学生なのだから勝手にさせればいい。」という考えは時代遅れのようだ。今や大学教員も授業と研究を通じての社会貢献だけではなく、小中高の教員と同じく学生へのメンタルケアも要求される時代のようである。 日本の学生は礼儀正しい。授業で携帯電話をいじる学生もいない。台湾ではたまに携帯が鳴って、小声で話そうとする学生がいる。咎めるのは先生の責任だが、しかし学生を言う前に台湾の先生の中には会議でも講演会でも小声で電話を話す輩がいる。今や日本人は華人に代わって“礼儀之邦”となっていることは台湾人も認める所だ。もっとも”日本人は礼があっても体はない”と日本のアダルト産業に関連させてオチをつける華人(やメディア)も多いので、日本人は礼儀正しいと華人に褒められて気を良くするのはいいが、心の中では間違いなく口に出てこない残り半分を思っているはずなので、はめをはずさないように。 授業に関しては日本では多くの教員が教科書を執筆し、それを授業で使う場合が多い。一方、台湾ではアメリカの有名大学で使われている教科書を使うことが多い。僕も台湾に行ってからアメリカの教科書に接することになったが、アメリカの教科書はとても噛み砕いて説明している教科書が多いと感じる。アジアでは99乗算をそのまま暗記するのに対しアメリカでは理解させることに重点を置いているように、教育に対する価値観の違いが根底にあるのだろう。説明が詳しいから、アメリカの教科書は自習でも身につく。一方で日本の教科書は、先生のわかりやすい講義なしではわかりづらいことが多い。更にアメリカの教科書は、説明が詳しいだけでなく参照文献もしっかりしており、かなり手間をかけて作っていると感じる。アメリカは自由競争なので寡占化されるし、また有名大学で使われる教科書は台湾などの多くの国の大学でも採用されるので、手間ひまかけて作っても成功すれば十分な見返りは期待できるのであろう。学生の視点からすれば、アメリカでメジャーになった教科書を使えば外れがないので安心できる。(つづく) ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 -----------------------------------------
  • 2010.06.16

    エッセイ250:権 南希「二度目の『留学』

    昨年9月、私は8年間の留学生活を送った東京を離れて大阪に来た。私を待っていたのは、個性的なパワーに満ちた大学三年生、いや「三回生」たちだった。私が所属しているところは、大阪にある関西大学の政策創造学部。「先生、何故日本に留学しようと思ったのですか?」「韓国人は日本人が嫌いって、本当ですか?」関西弁が飛び交う学生たちの質問攻めのなかで、私の初講義は始まった。初めて日本に留学生として来た時に感じた緊張感のようなものが、もう一度よみがえるような感じがして嬉しかった。 しかし、感傷に浸っている間もなく、これまでとは違う緊張感と責任感が心理的なプレッシャーとなって重くのしかかってきた。秋学期から担当することになった科目は、国際法事例研究。学生たちには自らテーマを決めて国際法に関する論点を発表してもらった。インドの児童労働問題、アフリカの紛争ダイヤモンド問題、地球温暖化問題、捕鯨問題、東アジア共同体問題などのテーマについて発表があった。そのなかで私を一番悩ませたのは、韓国と日本の間の問題だった。もちろん、国際法の専門的な知識だけを学生に伝えるなら、問題はそれほど難しくない。しかし、東京裁判、竹島・独島問題となると話は違う。特に「東京裁判」のような日本の歴史認識が直接問われる問題は、韓国人の私にとっては非常に扱いが難しい問題だった。「そんな勝者の裁きだったのに、何故日本だけが、我々がずっと責められなければならないのですか」と問う学生たちにどう答えれば良いのか。そもそも、外国人の私の意図は誤解されることなく、きちんと伝わるのだろうか。 二年ほど前、野坂昭如の小説を映画化したアニメ「火垂るの墓」の韓国のある大学での上映を巡って、韓国内で賛否両論が報道されたことがある。その時、韓国人の友人たちと何時間もこの問題について話した。私たちが日本に留学していなかったら、おそらくそこまで力を入れて話すことはなかったと思う。同じ韓国人留学生の中でも意見が違う人たちがいることは当然なことであった。しかし何年もの時間を同じ建物で過ごしていても、お互いの意見の違いを知り、理解する機会を持つことは意外とないものだ。もちろん、最初から結論はあるはずのない話だったが、それぞれが自分自身に対して結論を出し、解散した。この時のことを思い出したとき、私の悩みはすんなりと消えていた。 彼らの主張を真正面から受止め、問題を共有すること、そして真摯に答えることのみが私のできる精一杯のことであることに気がついた。発表グループの学生たちと議論を重ねて行くにつれ、私は学生たちに、そして学生たちは私に、言いたいことが、そして聞きたいことがたくさんあることが分かった。東京裁判チームの発表が終わった昨年11月のある日、私は改めて留学当初の自分に戻ったような気がした。 昨年の受講生たちは来春、社会人になるための準備で忙しい。私はいま、二度目の「留学」の初めての春を、一回生とともに送っている。 -------------------------------------------------------------------- <権 南希(くぉん・なみ)☆ Kwon Nami> 韓国大邱市出身。2009年東京大学法学政治学研究科博士過程単位取得満期退学。現在関西大学政策創造学部助教。担当科目は、専門導入ゼミ(国際環境法)、国際公共政策(国際法)など。研究分野は国際法。最近は「武力紛争時における環境問題の国際法的アプローチ」を研究している。 -------------------------------------------------------------------- 2010年6月16日配信
  • 2010.06.09

    エッセイ249:マックス・マキト「マニラ・レポート2010年春」

    「フィリピン人のために死ぬ価値がある」という言葉が刻まれた黄色いゴム製のリストバンドをはめて、2010年5月10日(月)の朝早く、投票所に化けた教会に向かった。この言葉は、1983年8月21日に暗殺されたニノイ・アキノ元上院議員が、米国での長年の亡命生活を終える決断をした時、母国に帰ることに反対する声に対して発した有名な言葉である。当時のマルコス大統領の独裁政権から、民主主義を円滑に取り戻すために帰国を決断したのだった。ある意味で、ニノイが目指したことは実現できた。母国に足を踏んで間もなく(踏んでいないかもしれない)暗殺者の銃弾で命を奪われたが、それがきっかけとなって独裁政権のもとで溜まっていたフィリピン国民の不満が爆発し、1986年のいわゆる無血の黄色い革命でフィリピンに民主主義が戻った。その激変の時代をリードしたのはニノイの妻、コリー・アキノ大統領だった。   今回の選挙では、このアキノ夫妻の息子であるノイノイが国の最高責任者の座に適任であるという、国民の審判が下された。選挙結果も勿論重要であるが、今回は、投票方法自体にも様々な進展があり、フィリピンの民主主義も新しい時代に突入したと感じた。 (1)機械化。今回の選挙から投票は機械で読み取り、投票所ごとに数えた票数が選挙本部に無線通信で送られた。今までの選挙では、票は投票箱に投じられ、投票箱ごと選挙本部に運ばれた。黄色い革命の時には、投票箱が安全に運ばれるのを見届けるために、一般市民が真剣な目で見守った。選挙の尊さを守るため、僕は投票箱の上に座り込んだ。ところが今回は、機械化によって、おおよその投票結果がわかったのは、フィリピンらしくないほど早かった。その結果、今回の選挙では選挙結果についての揉め事がほとんどなく、比較的平穏に選挙が終わった。出馬者が自ら敗北を認めた珍しいケースもあった。 (2)調査と発表結果の一致。今までの選挙では、NGOの独自の調査結果と政府の発表結果が大きく異なることが普通であった。今回の選挙においても、違法的に操作されたというクレームがないわけではないが、NGOの調査と政府の投票結果が大体一致していたというのが一般的な見方であろう。僕が調べた限りでは、SOCIAL WEATHER STATIONというNGOが実施した事前調査と開票結果が驚くほど合致していた。つまり、今回の選挙は開票の速度が早いだけではなく正確だったと言えるだろう。 (3)テレビ討論の審判。フィリピンはジャーナリストにとっては世界で1番か2番目に危険とされている。このことは国の治安の悪さを物語っているかもしれないが、僕は彼らの命がけの熱意に敬服している。事実を伝えようというフィリピン人ジャーナリストの使命感と覚悟は誰にも負けない。黄色い革命がまだ進行していた時、政府の統治により言論の自由が奪われたことがあったが、マスコミはただちに反駁し、立ち上がった市民にとって重要な情報源となって、無血にその革命を終わらせることに貢献した。今回の選挙では、マスコミは出馬者に討論の場を提供し、テレビ放送によって一般国民にその様相を紹介した。しかも、討論が終わった直後、会場にいる一般市民の審判を集計してテレビで流した。僕がみた限りその審判は妥当であり、選挙結果にも繋がったようである。 フィリピンの真夏に、投票者でギュウギュウ詰めの投票所は決して楽しいところではない。その夜の家族との団欒でわかったが、ほかのところはもっと深刻だった。暑さに負けて倒れた人々もいたようだ。僕がはめた黄色いリストバンドに刻まれた言葉を思い出させるかのように、投票自体が命がけという場所もあったわけだが、今回はそんなに多くなかった。意外にも、一番早く投票するはずだったノイノイが、投票所の機械の故障によって4時間も待たされた。これは大統領としての彼のこれからの仕事の困難さの前触れであるかもしれない。しかし、ノイノイらしく、慌てることもなく、辛抱強く機械が直るまで待っていたのは、彼の力かもしれない。 今、経済的及び社会の構造的要因によって出稼ぎのために海外で「亡命生活」をせざるをえないフィリピン人が年々増えている。その中には、ノイノイのお父さんのように、いつか帰国したいと考えている人もきっと沢山いる。僕もその一人である。大統領になったノイノイには、このように考えている人々の気持ちを大切にしてもらいたいと思う。つまり、海外からの仕送りに頼るのではなく、国内で雇用を生みだす政策をお願いしたい。   今回のマニラ滞在で、僅かながらも母国の進歩を肌で感じて、帰国に一歩近づいたような気がする。地方で遊んでいる土地をいかに生かせるか、妹の高校時代の友人からアドバイスを求められた。農業については素人だが、山もあり、川もある広い土地を現地視察してみたら、その美しさや可能性に魅了された。「環境的に持続可能な共有型成長に貢献できる農業はいかがですか」と提案すると、大変喜んで受けいれてくれた。いつか、フィリピンの地方で農業をするのを楽しみにしている。 実は、この「持続可能な共有型成長」という考え方は、2010年4月28日(水)にフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)で開催したSGRAの第12回日比共有型成長セミナーから思いついたアイデアである。今回のセミナーのテーマは「共有型成長と環境:フィリピン都市道路交通を事例として」であった。(詳細は http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/12.php を参照)UA&Pの理事であるバーニー・ヴィリエガス教授が、開会挨拶でセミナーの課題を次のように上手くまとめてくれた。「3E」(或いは「Eの3乗」)とは、EFFICIENCY、EQUITY、ENVIRONMENTのことである。無理やり日本語に訳せば、効率、公平(均等?)、環境であるから、「3K」(又は「Kの3乗」になるかな。EFFICIENCY+EQUITYというのは、僕の研究のメイン・テーマである共有型成長だが、そこにENVIRONMENTを加えて持続可能な共有型成長の概念が誕生した。通常この3Kの間にはトレードオフ(TRADE OFF)があり、3者を並立させるのは大変難しい。 7月3日(土)に蓼科で開催するSGRAフォーラムでは、上記のマニラセミナーの内容に関して報告させていただくので、みなさんお時間があればぜひご参加ください。 選挙に関する資料、投票所の様子、フォーラムの写真 写真をもっとご覧になりたい方はFACEBOOKサイトよりご覧いただけます。ただし閲覧するためにはFACEBOOKへの登録が必要です。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2010年6月9日配信
  • 2010.05.26

    エッセイ248:梁 蘊嫻「私の研究の原点」

    今年の3月に、研究室の神野志隆光先生が退官されました。この場を借りて、先生に小文を捧げます。   私の専門は江戸文学です。上代文学とは無縁なはずですが、不思議なご縁で私は神野志先生の教えを仰ぐ機会を得ました。そのきっかけは、実は先輩の「アドバイス」でした。東大に来たばかりのとき、研究室の事情について先輩に伺ったところ、神野志先生の授業には出ないほうがいいと念を押されました。神野志先生はとても厳しいので、一秒でも遅刻したら、受講の資格を取り消されてしまうというのです。しかし、私はそれを聞いてかえって興味がわき「よし、出てやろう」と思いました。噂の「鬼の先生」を見てみたかったのです。そこで、修士一年のときに、「日本文化論」(調べる授業)に出ることにしました。 今でも鮮明に覚えていますが、最初の授業で、私はあまりの怖さに体がずっと震えていました。先生から『国史大辞典』を渡されて、菅原道真の項目を読まされましたが、私は「みちざね」を「どうしん」と読んでしまいました。先生は「辞書をすらすら読めないと研究なんかできない」とおっしゃいました。辞書を読ませたのは、受講者のレベルを試すつもりだったのかもしれませんが、私はこのことから、文章を正確に読むことが学問の第一歩であるということを学びました。 それからの半年間は、この授業を中心に生活していたと言っても過言ではありません。毎週、宿題が出されますが、課題が発表された後、さっそく調査を始めないと作業が終わらないほど大変でした。私はとにかく毎日いろいろな図書館を歩き回って調べ、提出の前日には必ず徹夜して必死に宿題を完成させました。しかし、いくら頑張っても必ず先生に不足な点を指摘されましたから、いつも悔しかったのです。その一方で、常に新しいことを教えていただきましたので、知識欲を満足させることができ、幸せを実感していました。これは、先生がおっしゃった「教えることの楽しさ」に応える「学ぶことの楽しさ」というものではないでしょうか。   先生は研究者であるだけではなく、教育者でもあります。宿題の締め切りに近づくと、先生はいつも自分のメールボックスの前をうろうろして、学生からの提出を待ち望んでいらっしゃいました。それほど学生のレポートを楽しみにしていらっしゃるのです。学生としての私は、先生の教えに報えるほどの業績はありませんが、「頭より足で勉強しなさい」という先生の言葉をずっと肝に銘じています。私は難しい理論はよく分かりませんが、「頭を回転させる本よりも資料集が役に立つ」という先生のお言葉にしたがって、いつも原典に立ち戻って、きちんと調べるようにしていたところ、確かに問題点が見えてきました。そして、見つけた問題をじっくり考え、論点を組み立てていきました。博士論文もそうして完成することができましたので、先生の授業が私の研究の原点だったといってもよいでしょう。 博士一年のときには、神野志一門に混じって大学院の演習に参加させていただきました。ゼミに出た理由は、「文字の向こうに何があるのか」などの深い問題意識によるものではなく、ただ単純に先生の授業が楽しかったのです。この授業で私は『日本書紀通証』に出会いました。本書は実証的・考証学的な立場から『日本書紀』を注釈したもので、歴史を一つの趣向として芸能化する江戸文学とは異なった性質を持っています。このような注釈書が自分の真面目な性格にしっくりくるものがあったため、私は『日本書紀通証』に夢中になり、これについて勉強したいと思いました。しかし、前から取り組んでいる課題「江戸時代における『三国志演義』の受容」はまだ終わっていません。自分の研究テーマを成し遂げないまま諦めたくなかったのです。いろいろ悩んだ末、自分の研究テーマをまず完成させようと決めました。そして、いつか『日本書紀通証』にも本格的に取り組もうと心に誓いました。博士二年のときからは、ゼミに出ないことにしました。それはもちろん、ゼミに参加し続けると自分の本業を忘れそうになるからでした。   私は十三年も駒場にいました。学生生活はあまりにも長すぎました。それは自分の無能のせいでもありますし、知識に対する貪欲さと気まぐれな性格にも関係があると思います。なかなか次へのステップに進めないことに焦りを感じていますが、決して後悔はしていません。むしろ、夢中になるほどの研究対象に出会えて、そして真剣に悩むことができた自分は幸せだと思っています。 さて、ひとりよがりはさておいて、最後に義江彰夫先生(元東大比較文学研究室の日本史の教官、現在帝京大学教授)の言葉をお借りして先生に贈りたいと思います。「優しくなった神野志先生は、冷めたコーヒーみたいに美味しくない」ので、どうかずっと熱いコーヒーでいてください。 ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんかん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、まもなく提出。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 ------------------------------- 2010年5月26日配信
  • 2010.05.19

    エッセイ247:オリガ・ホメンコ「ウクライナ人の心を治療する女医さん」

    オリガさんの家族は皆医者なので、彼女も自然に医者になった。今や自分の病院を経営する有名な医者だ。それと同時に今まで15年以上かけて集めたイコン(聖像)を展示するために家族経営の博物館を創った。   オリガさんが子供の頃、ソ連領だったウクライナでは宗教が禁止されていたため、革命前からお爺さんがもっていたイコンは密かにタンスの後ろの壁に隠されていた。それが聖パンテレイモンのイコンである。聖パンテレイモンとは、医者が患者を治療するのを手伝う聖人である。左手に薬箱、右手にスプーンを持つ優しい顔の聖人だ。ソ連時代に子供だったオリガさんは宗教についてあまり考えたことがなかった。学校では「宗教を信じてはいけない」と言われていた。特に、春になってイースターが近づくと、先生は「学校にイースター・ケーキとイースター卵を持ってきてはいけない」と厳しく注意した。イースターがメーデーと重なったある年、オリガさんが翌日に同級生とメーデーのデモに参加するために着て行く服の準備をしている時に、お母さんは台所でイースター・ケーキを密かに作り、お婆ちゃんはイースター卵に、それとは分からないように「XB」という文字を書いていた。それは「復活したイエス・キリスト」という意味だった。それでも、その頃のオリガさんは、あまり深くは考えなかった。大人になってソ連が崩壊した時、昔のイデオロギーに代わる新しいものはでてこなかったので、初めて人々は宗教に目を向けたのだった。 大人になったオリガさんが市場を歩いていたある時、古着を売っているお店を通った。ふと見ると床の上に人間の顔の絵が置かれていることに気づいた。「これは何ですか」と聞くと、「イコンですよ。1ルーブルくれたら売りますよ」と言われた。その当時の1ルーブルは、パン1個を買えるか買えないかというくらいだった。彼女はそのイコンを買った。痛んだイコンを家に持って帰って、きれいに拭いた。宗教に詳しい知り合いに聞くと、それは子供を守って頭をよくさせる聖人の姿だった。オリガさんには3人の子供がいたが、家にそのイコンを飾ると、子供たちはなぜか落ち着くようになった。 そこでオリガさんは家にあった昔のイコンのことを思い出して、タンスの後ろの壁に隠してあったイコンをとりだして飾った。その時からイコンに興味を持ち、いろいろと調べてみたところ、このふたつのイコンは「家庭イコン」だったことがわかった。家庭イコンは教会にあるものと違って、とてもプライベートなもので、その家族のお守りにもなる。 ウクライナではキリスト教を受け入れる前にいろいろな神様を信じていた。そしてキリスト教になっても、その昔の伝統がキリスト教の中に溶け込んだ。つまり、マリア様やキリスト様には大きなお願いや悩み事がある時に祈るが、日常的なことはその家庭にある「担当」の聖人のイコンに心の中で相談していた。 その家庭の裕福さに関係なく、各家には家庭イコンがあった。ただ財布の大きさによって、有名な画家のものだったり、近所に住んでいる田舎のアマチュア画家のものだったりしたが。そしてウクライナの家ではイコンのことを「神様」と呼び、自分の「神様」を家の中の一番きれいな所に飾っていた。そして自分の「神様」が大好きだった。ウクライナの家庭イコンはロシアの暗いイメージと違って、肉体美が溢れたイメージや、優しそうなイメージのものが多かった。その点、ギリシャの伝統的なイコンとも違っていた。本来イコンには図像の規則がたくさんあるが、教会のイコンと違って、家庭イコンでは画家が比較的自由に描くことができたのだった。 昔は、日曜日になると、そのイコンを教会に持って行き、ミサの間は神父さんの後ろに、教会にあるイコンと一緒に並べていた。今はもうその習慣がない。「無神論」というソ連のイデオロギーの70年間の後、昔の家庭イコンはほとんどなくなってしまったからだ。オリガさんは今、家庭イコンがウクライナの家族の絆を強め、伝統的な高い道徳観を守るものと思い、昔の習慣をまた普及させることを望んでいる。 15年前、彼女の手元にあったイコンはたった2枚だったが、今は5000枚になっている。ほとんどのイコンはフリーマーケットで手にいれた。イコンを修復することはやめた。なぜなら、イコンについている傷は、イコンそのものだけでなく、所有していた家族、さらには国の運命を語っているからだ。ソ連の70年間、イコンの意味が分からなくて、捨てたり、傷つけたり、またお金が欲しいという理由で外国に大金で売ったりしていた人も少なくなかった。 手元にたくさんのイコンが集まってきた時、オリガさんは、やはりそれをどこかに飾って、人と触れ合わせる必要があると考えだした。だが、博物館らしくないものが良いと思った。博物館だと、ものに触ってはいけないので「触れ合いの場」にならない。オリガさんは、人々が休む椅子があり、イコンの前にろうそくを立てて祈ったり考えたりすることのできる「場所」が欲しいと思った。そして、やはり、家のものなのだから、パンの香りなどがあったら素晴らしいと思った。 イメージが固まると、そのような物件にもめぐり合った。キエフから東に90キロくらい離れたところに昔の公園に囲まれたミル(粉ひき場)の建物があった。それで家族と相談して、その建物を買った。その建物は18世紀のものだが、不思議なことにそこにはまだ「パンの香り」が残っている。今そこに、彼女のコレクションの全てを入れている。近辺の住民や観光客がよく見に来る。またクリスマスやイースターには、コレクションの一部でウクライナの町を回る巡回展を開いている。 オリガさんは医者として忙しい毎日を送りながら、相変わらず一ヶ月に一回くらいフリーマーケットに出かけて、イコンを探し続けている。ただ最近は、やはり市場にものが減っているようだ。それは外国に売り出されたのかもしれないが、もしかしたらウクライナの人々が自分の伝統に気づき家に飾りはじめたという証拠であるのかもしれない。「そうなっていると良いですね」とオリガさんは微笑みながら言う。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2010年5月19日配信