SGRAエッセイ

  • 2010.10.06

    エッセイ263:林 泉忠「尖閣衝突は日中の『蜜月期』の終焉を早めた」

    今回の尖閣諸島をめぐる紛争が予想外の展開を見せている。日本が初めて「法律に基づき」中国人船長を逮捕したのに対し、中国は日本に異例な圧力をかけ続けた。確かに、1970年代より、尖閣諸島をめぐる紛争が絶えず、日中関係の火種として認識されてきた。ところで、今回の紛争は、これまでにない特徴をもち、日中両国の政府は未曾有の試練に直面している。 新しい尖閣問題の特徴 まず日本サイドを見てみよう。この度の漁船衝突事故は、日本で昨年7月に施行された「領海外国船舶航行法」に基づき、「違法的」に領海に進入した中国船を拘留し船員を逮捕し、初めて事件を日本の司法の枠内に収めたのである。そして、この度の事件は日本で政権交代が実現した後、民主党が政権をとった時期に起こったものである。この一年あまり、民主党によるいわゆる「離米親中」政策は、国内の保守勢力に猛烈に批判されたばかりか、世論も国益を守るという点における民主党の言動に疑わしい視線を向けていた。このような情勢の中、国家を統治する能力と正当性をアピールするため、民主党は尖閣問題および東シナ海ガス田問題において強硬な姿勢を示さなければならなかったのである。 一方で、90年代以来、中国本土においてナショナリズムを絡んだ「釣魚島(尖閣諸島)防衛運動」が高まり、中国政府も民間からの圧力に直面しなければならなくなった。いままでは、日中関係に関わる事件によって火をつけられたナショナリズムに対処する際、政府は慎重な態度をとりながら、大体うまくやりこなしてきた。この度台北で行なわれた民間主催の「中華圏釣魚島(尖閣諸島)防衛フォーラム」への中国本土代表の出席を阻止したことを含め、中国は、いままで通りに民間の活動を厳しくコントロールしてきた。これは、民間の運動が極端に走ってしまうのを回避するためだけでなく、この問題を取り扱う際に政府がしっかりと主導権を握ろうとしたためでもある。しかし、今回の事件において、日本が中国人を逮捕したので事件が直ちに外交問題に発展したため、中国政府は深く介入せざるを得なくなった。そこで、中国政府は自らの立場を守るため、漁業監視船を尖閣領域に派遣し、六度にわたって駐中国日本大使を呼びだした。日本が船長の釈放を拒否するうちに、中国の抗議のレベルも次第にエスカレートした。 一瞬だけの日中<蜜月期> この度の尖閣事件が日中関係に与えた直接的影響は、久しぶりの日中の<蜜月期>の終焉を早めたことである。 1978年の日中平和友好条約以来、日中両国は二度の<蜜月期>を経験した。一度目は80年代であった。当時、中国は改革開放の初期にあったため、アジア一の経済大国日本は中国にとって協力を求める重要な対象であった。当時中国は「歴史問題」を熱く語らず、「日本の国民も軍国主義の被害者である」を唱えた。そして80年代の日中関係は<蜜月期>に入った。日本では、上野動物園のパンダが全国でブームになった。中国では、日本の映画『君よ憤怒の河を渉れ』が、その世代の人々にとって消せない良い思い出となった。 しかし、このような良い状況が長続きはしなかった。90年代に入ってから、「愛国主義」を謳歌する中、「右翼教科書」問題、日本政治の右傾化、そして小泉首相の靖国神社参拝などが中国ナショナリズムを刺激する重要な契機となった。昨年、民主党政権の登場によって日中関係がようやく二度目の春を迎えるようになった。鳩山首相が「離米親中」のスローガンを高く掲げ、歴史問題でこれまでの自民党政権のできなかった譲歩を率先して行ない、中国からの厚い信頼を得た。これは、今年7月に鳩山前首相が訪中の際に受けた破格の待遇から窺うことができる。 転換期の日中関係への事件の影響 しかしながら、普天間移転問題において鳩山首相がアメリカに疑念を抱かせたことや、オバマ大統領が今年に入ってから対中政策を調整し始めたことなどは、就任した後の菅直人首相に日中関係を改めて考え直させるようになった。菅首相がいろいろ思索している最中に、尖閣問題が再燃した。加えて、鳩山路線の継続を強調する小沢氏が党首選挙で敗北したことなどによって、二度目の日中<蜜月期>が早くも終わりを迎えることになった。 先月、中国の国内総生産が初めて日本を超えた事実は、日中の国力に歴史的な逆転が生じたことを象徴している。この度の事件における中国政府の高飛車な態度も、台頭した後の中国が国益にかかわる問題を取り扱う際に、新しい思考を模索していることを示唆している。と同時に、今回の「日本の主権を守る」ことへの日本側の執着も、台頭しつつある中国への警戒感を隠しきれないことの表れである。 中国が日本に代わって世界第二位の経済大国になった今、日本がどのように東アジアの新盟主となった中国と付き合っていくのか、そして、どういうふうにアジアのナンバーツーに転落した事実を受け止めるのか。同様に、中国がいかにして日本を含む周辺各国から信頼される盟主になるのかという問題に関して、この度の尖閣事件は、日中両国の政府および国民に日中の新しい関係を考え直す契機を与えたのである。 林泉忠 2010年9月15日 カナダのトロントにて (本稿は9月17日『明報』(香港)に掲載された記事「中日「蜜月期」提早終結」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。同記事の抄訳はRecord Chinaのウェブサイトにも掲載されています。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2010年10月6日配信
  • 2010.09.29

    エッセイ262:オリガ ホメンコ「きれいな服が大好きな私」

    私は昔からきれいな服が大好きです。旅先では必ず新しい衣服を買ってきます。そして着るときに、「この上着はロンドンで買った」と、その旅のことを思い出し、暖かい気持ちに包まれるように感じます。 私の子供の頃はソ連時代だったので、きれいな服や靴を手に入れるのが困難でした。国産のものはほとんど皆同じでつまらないデザインのものばかりでした。そして外国のものは身近になかったので、たとえお金があっても、普通の店ではあまり良いものは買えませんでした。その当時でも、外貨の店にはいろいろな品物がありましたが、外国に行かない限りは外貨を持てなかったので買うすべがありませんでした。 一方、ブラックマーケットでも、高い値段で様々なものを売っていました。私にはかなり年上の姉がいます。彼女の友達に外国製の服を密かに売っている友達がいたので、私がジーンズを欲しいと頼むと、ある時のこと、持ってきてもらうことが出来ました。大喜びで試着しましたが、小さい時にぽっちゃりしていた私は、どんなに頑張っても、横になっても、そのジーンズのボタンを留められなかったのです。悲しくて辛くて大泣きしました。サイズが限られていたので、どうしようもありませんでした。ジーンズを手に入れる夢はまた数年先送りされました。そしてその数年間、自分は太っていると思い込んでいました。 高校の時に一人の友達ができました。その友達は小さい頃、家族でアメリカに亡命し、アメリカの学校や大学を出て、スイスの会社に就職してキエフの事務所に転勤になったのでした。彼を思い出す時、まず、初めて見たカウボーイブーツが頭に思い浮かびます。彼は背が低かったので、そのブーツのせいで少し可愛く見えました。シャルル・ペッロの昔話のブーツに入った猫のように見えたのかもしれません。しかし、1990年のキエフには同じような格好をしている人はまだ誰もいませんでした。ある日、彼の同僚がスイス人の奥さんを連れてキエフに遊びに来ました。彼女はとてもおしゃれな格好をしていました。きれいな靴におそろいのバッグ、そして首に素敵なスカーフを巻いていました。日曜日に一緒にオペラ座へ行ったとき、私は心の中でとても恥ずかしい思いをしました。どうしてもその人のファッションを自分のと較べてしまったからです。私の格好は、どちらかというと。。。流行のものではなく。。。しかし清潔感はありました(笑)。人生で最初のカルチャーショックでした。 キエフの中央デパートで買ったチェック柄の上着と自分で作ったミニスカート。つまり、商品は店にほとんどなかったので選択の余地がなかったのです。自分で作らなければなりませんでした。ものがなかったから、「ものより心が大事」と言われました。心や精神が大事と分かっていても、きれいなものが欲しいという十代の乙女の正直な気持ちを抑えることは出来ませんでした。 そのスイス人の女性と出会って、オペラ座から家に帰る途中にいろいろ考えました。その時私はキエフ大学の前の公園を歩いていました。星空を眺めながら、「私も頑張ってよく勉強して、仕事をしてお金を稼いで絶対にきれいな服を手に入れるよ」と心の中に誓いました。 その後もやはり、皆と同じものを着るのがいやで、しばらく頑張って自分で服を縫い続けました。大学の3年生の時にはコートまで縫い上げました。皆と同じ茶色や黒のものを着るのはいやでした。少しでも明るいコートが欲しかったのでピンク系のコートを縫いました。今考えてみると暗い色ばっかり着ている皆に反発していたのかもしれません。 あれから20年近くが過ぎました。勉強もして仕事もするようになりました。そして、もう長い間服を縫っていませんが、その代わりにいろいろな服を各地で買い集めました。服は相変わらず好きです。それはソ連の体制下で多感な子供時代を送った影響、あるいはその時に感じたコンプレックスだったかもしれません。時の流れと共にそれを乗り越えることができました。 しかしながら、今でもやはりストレスを強く感じている時に、ストレス解消のため服を縫うことがあります。おもちゃの服ですけど。 去年、モスクワに遊びに行った時、友達の16歳の娘さんと赤の広場を歩きながらそのような話題になりました。そしてその16歳の子は「店にジーンズがなかったの?それはどういうこと?」ととても驚いた表情で尋ねました。そのときすぐには説明できませんでした。彼女は私の話にとてもショックを受けたようでした。そして「ソ連が崩壊してよかった!」と。自由にものを買えるだけではなく、旅行もできるようになったからです。それはそうですよ。ものと心のバランスも、それから自然に協調できるようになったのかもしれません。。。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2010年9月29日配信
  • 2010.09.22

    エッセイ261:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その5:天気で騒ぎすぎ?」

    長年日本に住んでいるので、日本人が天気の話題が好きであることは重々承知しています。「今日も暑いですね~」「昨日はなんか寒かったね~」「これから雨が降るらしいよ~」「明日は雪みたいだね」などのたわいもない挨拶は留学生たちが日本語教室の初級コースで絶対に習う言葉ですし、手紙やはがきやメールを書くときも、ほとんどの場合は本文に入る前の冒頭にまず気候や季節を表す「時候の挨拶」が入ります。さらに、たとえば夏の暑さにまつわる表現ひとつとっても、猛暑、炎暑、熱暑、酷暑、大暑、極暑、激暑、厳暑、残暑などがずら~っとあって、まあ、それぞれの微妙な違いについて僕はよくわかりませんが、とにかくどれも「暑いよ!」ということなのでしょうね。僕の国シンガポールのある有名なお土産Tシャツに書かれている「Singapore has 3 seasons(シンガポールには三つの季節がある):Hot(暑い)、Hotter(より暑い)、Hottest(最も暑い)」というような、なんのひねりもない単純表現よりは日本語のほうが暑さを表すうえで断然に多暑、もとい多彩であることは間違いなしです。 しかしながら、ちょっと前まで、全国放送のNHKを含むテレビ局などが各々のニュース番組で「今日も暑いです!」「猛暑日が続いています!」というニュースを毎日のように報道していたのをみると、ちょっと騒ぎすぎだったのではないかという気がしないでもありません。毎日の暑さについてトップニュースとして報道するテレビ局も少なくありませんでした。確かに今年の日本の夏は記録的に暑かったです。熱中症で病院に運ばれた人も例年より多かったそうです。でも多くの諸外国のように、天気についてのことは天気予報の時間に注意なり警戒なり重点的に報道すればいいのではないでしょうか。ほかの大事な国際関連のニュースを差し置いてまで真っ先に「今日も猛暑日です!」という「ニュース」が流れることに疑問を感じていたのは僕だけでしょうか。「ニュース」の意味を辞書で調べると、「新しく一般にはまだ知られていないできごとや情報」とありました。百歩譲って今年の夏の猛暑が「一般にはまだ知られていないできごとや情報」だとしても、毎日のように頻繁に、しかもトップニュースとして報道する必要があるのでしょうか。天気予報の時間ではダメなのでしょうか。週間ニュースとして報道するのもダメでしょうか。 「天気」はつまり「天の気」であって天地間の大気の流れによる自然現象である以上、気まぐれなのはそれこそ自然の摂理です。遠くで爆発を起こしながら猛烈に燃え続ける太陽による影響も無きにしもあらずでしょう。その証拠に、去年の夏は今年とは打って変わって、長雨や日照不足の冷夏でした。去年のことなんかもう忘れているという人もいるかもしれませんが、思い起こせば去年の夏にも日本の各テレビ局が冷夏についての「ニュース」を毎日のように流していました。暑すぎてもニュース冷たすぎてもニュースでは、いったいどのような夏が人間にとって一番良くて「普通」なのかと聞きたくなります。数字やデータが大好きな日本人のことですから、きっと「夏の平均気温は33.58度がちょうどいいです」とかいう人がいるかもしれませんね(笑)。この「平均」という言葉も曲者です。考えてみれば、ニュースなどではよく今年の夏の気温は「平均以上です」もしくは「平均以下です」と言ったりはしますが、ぴしゃりと「今年の夏は平均です!」という報道を聞いたことがありません。そもそも自然界の中に「平均」という言葉が存在しないからなのでしょう。逆に「平均な夏」なんて話題性が乏しく、日本人は好まないかもしれません。でも一度でいいから、「今年の夏はなんと平均です!」というトップニュースを是非聞きたいものですね! ----------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------- 2010年9月22日配信
  • 2010.09.15

    エッセイ260:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その2)」

    ロビーと廊下は「L」字或いはゴルフのクラブの形をしていて、目に入ったのは3列の人、三つの窓口に始まって、アイアンとシャフトを繋ぐところで直角に曲がり、薄暗い廊下の奥へと延々と伸びていく。曲がったところから列と列の間隔はなくなる。この人間でできたクラブは25メートル以上もの長さがある。日本では、ディズニーランドのアトラクションに匹敵する風景だ。しかし、歓声はない。いまだに眠気に囚われる人が多いからだろう。 辛うじて列の後ろに並び始めたところ、2人の40代に見える女性が微笑みながら声をかけてきた。「ここで並ぶと専門医は無理だわ」「さあ、さあ、前のほうにおいで、1番だから、一番いい先生に見てもらえるよ。」妻の顔をちらっと覗いた。平然とした顔だ。多少動揺した私にも力が付いて、「いいです」と断った。 妻が心配なのでロビーの椅子に座らせて自分一人で並ぶことにした。病院は8時からで、窓口は7時30分からだ。あと1時間すれば行列が縮む。それまでは膨らむ一方だ。「1時間あれば、ぐっすり眠れる、ゆっくり食べれる、ドラマなら1回見れる、小説なら30ページ読める、ジョギングなら10キロ走れる……」と、私は一時間の使い道を考えた。 「どうだ?前に来ないか、1番だよ。」女の声がまたした。相手は後ろの人だ。 「じゃあ、お願いします。」東北訛りの若い妊婦で、躊躇した声だ。 「おいで、おいで、今日は看板医師だから、200元ね。」女の二人組は更に笑った。 「は、はい」妊婦はお腹を抱えながらついていった。 「特別番号と同じ値段じゃないか。」「本当に。」隣の列の夫婦みたいな男女は河南訛りで会話をした。 8時過ぎに、やっと窓口までたどり着いた。普通の医師の26番だった。専門家ではないが、寝不足の甲斐があった。今度は診察室の外で待つことになった。前に5、6歳の女の子を連れた30代の女性がいた。暇つぶしで妻とその女性は世間話を交わし始めた。「飯に行ってくる」と、番号を手に入れて一安心した私は彼女たちを後にした。 病院の向い側の路地裏に「宏状元」というお粥専門の店があった。20種類以上のお粥のメニューを手にして、どれにするか迷った結果、自分へのご褒美として「状元極品粥」を注文した。22元だった。店にはほかに3、4人いた。みんな黙々と食べていた。店の外に、油条(棒状の揚げパン)を売っている屋台があった。何人かの男が横の道端にしゃがんでしゃべりながら1本1元の油条を噛んでいた。耳を澄ませば、また方言が聞こえてきた。 「地方の人がやたらに多いな。」かつて日本人学生と平等な扱いを求めて大学院の事務室にクレームをつけていた中国人留学生の私でも、北京人のプライドで、地方の人は一人でもいいから病院から消えてほしくなった。そうすればダフ屋たちも笑えなくなるだろう、こんなに朝早く来なくても専門家に見てもらえるだろうと思った。この思いとは別に、彼らとは、店の中と外という二つの世界に分かれていることに、小さな優越感を感じているのにも気づいた。 妻が診察を終えたのは午後2時だった。血液検査と結果待ちにも時間がかかった。 帰る途中、妻は診察室前で会話した女性の話をした。東北省の出身で、長女がいるが、旦那さんの親の要望に逆らえず政府に罰金を払う覚悟で男の子を生もうとしている。二年前に妊娠したとき、知り合い経由で地元病院の医師に頼んで超音波検査をし、胎児の性別を教えてもらった。女の子だと告げられて堕してみたら男の子だった。地元に病院が数ヶ所あるが、超音波器のある病院はそこしかない。しかも、1台しかない。今回は地元の病院を諦めて北京の親戚の家に泊まって婦産医院に通っている。最後に、「ここは患者が多いが安心してみてもらえるところだ」と妻に言ったらしい。 「患者に胎児の性別を教えないこと」という張り紙は病院の中で確かに見た。男尊女卑の思想を持つ親たちが実に腹立たしいが、機械があっても性別を正しく判断できなかったり、平気で堕胎手術を行ったりする病院と医師の存在に驚愕し、憎たらしく思った。そして、22元のお粥を吟味しながら外の人たちを眺めて得意になった自分がバカだったと思った。 中国語では、「僧多粥少」つまり、坊さんが多くてお粥が少ないという言葉がある。人が多くて、分け配るものが少ないことの喩だ。これはまさに現在の中国の患者と病院の現状にふさわしい言葉なのではないか。7月23日のニュースだが、北京市の流動人口は1000万人を突破した。そのうち、病院にかかる流動人口は200万人近くで、北京市全体の6割を占めているという(北京市公共衛生情報中心)。 このエッセイの冒頭で、冬休みに読書をしたと書いた。タイトルを忘れたが、東アジアにおける仏教の誕生と歴史に関するものだった。その中で玄奘のことについて記され、その業績を称えている。計75部、1335巻のインドの仏教経典を中国語に訳し、中国の『老子』を梵語に訳したという。その中の『般若心経』は日本にも伝わり、法相宗、天台宗、真言宗、禅宗などの宗派に強い影響を与えているようだ。インド周遊中の玄奘は、数十万の僧侶が参加した現地の仏教弁論大会で向かうところ敵なしで、大きな名声を博した。また帰国後、唐の玄宗皇帝にたいへん尊敬され、その教義も一世を風靡した。しかし、仏教僧侶や特権層に認められたそんな玄奘より、『西遊記』で描かれた三蔵法師のほうがずっと人々に知られ、人間らしく見える。どうも、今は、北京人独占の婦産医院より、すべての中国人を安心させる婦産医院のほうがよさそうだ。ただし、「今」という期間が短いことだけを願っている。 ちなみに、息子は昨日から咳を続けている。妻と相談した結果、明日は北京婦産医院よりも有名な北京児童医院に赴くことにした。たった今、「さっさと終わらして、目覚しを探しなさい」という妻の声がしたから、こんなところで筆を擱こう。 ☆エッセイ251:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その1)」は、ここからご覧ください。 ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。9月より北京外国語大学日本語学部非常勤講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2010年9月15日配信
  • 2010.09.08

    エッセイ259:宋 剛「坊さんとお粥―北京婦産医院に関する雑感(その1)」

    冬休みはもう終わりに近い。というか、あと24時間。この一ヵ月半の休みを振り返ってみると、やったことは二件しかなかったことに気がつく。妻との通院と読書。 妻は病気ではなく、懐妊している。分娩予定日はあと三週間後の3月21日。ひ孫を待ちに待った祖母も安産を祈願すべく、観音様の像を買って家に仏壇を設けた。本来、実にめでたいことだが、我が家を受け継ぐ血脈の活性化を図る執念と、食べ物を粗末にしてはいけないという座右の銘によって買い置きはせずに、常に「あれを買って、これを買って」と、夫の私に主として肉とデザートを注文し、そしてその日に完食する。そのあげく、ある日の検査で、妊娠糖尿病にかかったことが判明した。 「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給う」と『法華経』にいう。きっと、夜明け頃に現れた観音様が空っぽになった冷蔵庫を見て怒ったからだ、と筆者はひそかに思う。とにかく、一般の妊婦より多い、週2、3回ほどの通院検査を余儀なくされた。筆者はもちろんその付き添いだ。 通う病院は、北京で最も有名な公立産婦人科の専門病院、北京婦産医院である。ここは、おそらく、中国随一の産婦人科といっても差し支えない。67,484㎡の敷地面積、1,062名の専門医、660のベッド数、いずれも全国のトップクラスである。医術はもちろん、お医者さんの態度もよく、注意事項など、大切なことをいろいろと教えてくれる。公務員と医者のほとんどはにべもないと思っていた留学前の印象は、今回の経験でだいぶ薄らいだ。 ところが、丁寧なお医者さんにお会いするまでの道程があまりにも困難であった。 病院までの距離は遠いわけではない。車で30分くらいである。しかし、冬休みに入って付き添いの初日、妻に起こされたのは5時半だった。まさかこの世には妊娠時計認知症でもあるのかと変な顔をしたら、「いつものことだよ」と涼しい顔で説明された。平日にほとんど学校の寮に住み込む私には、妻の苦労を承知していなかった。 婦産医院はたいへん有名だが、前を通る道は案外細い。敷地内の駐車場に入ろうとする車はすでに行列を作っている。入り口に入ったところで、急に3、4人の男性に囲まれた。映画で見た少林拳のポーズをしようと思ったとたん、「専門医の番号、いる?」と声をかけられた。 中国の病院では、日本の銀行のように、まず受付で番号登録を済ませて番号札をもらうことが診察の第一歩。番号は専門医用と普通の医師用と二種類。科によって当直医師の人数が違うが、婦産医院の場合、産科が一番多く、毎日、専門医5人、普通医3人の規模である。ランクは問わず、医師一人当たりの受診可能患者数は40人。さらに、一つの科に、20の特別登録の枠が設けられている。要するに、産科では、一日の最大患者数は約340名である。当然、登録料金も普通、専門、特別の順で上がり、それぞれに7元(100円)、14元(200円)、200元(3000円)となっている。有名な病院、有名な科であればあるほど、番号札がなくなるのは速くなる。 「結構です、すみません」と、妻はあっさりと断りながら私を連れて道を急ぐ。 「専門医の番号って、いくら?」と、男の好奇心は鼠のようにうごめく。 「100元」 「100元!?」鼠はハンマーに遭う。そして、病院のダフ屋(!)を相手にしない妻がえらく見える。「でも、そんなに朝早く起きなくたって」と、やはり心のどこかでひそかに思う。 だが、病院1階のロビーに入った瞬間、その思いは吹飛ばされた。 (つづく) ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 中国北京聯合大学日本語科を卒業後、2002年に日本へ留学、桜美林大学環太平洋地域文化専攻修士、現在桜美林大学環太平洋地域文化専攻博士課程在学中。中国瀋陽師範大学日本研究所客員研究員。9月より北京外国語大学日本語学部専任講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2010年9月8日配信
  • 2010.08.25

    エッセイ258:朱 庭耀「私の父親」

    今までに私に一番影響を与えた人は父だ。 父の祖父は清朝末期の知識人だったが、父の父親は当時の政府と政治に失望して、また当時の「実業救国」思想の影響を受けて、経済活動を始めた。父は一人息子として、家業を継ぐため、海外に留学することを断念して、祖父に示された道を歩んだ。父の夢は叶えられなかったが、子供達を教育することに人生をかけた。 しかし、事のなりゆきは希望どおりにならなかった。1950年代初期、中国の民間企業はすべて国に「合弁」された。父は企業の持ち主から職員になった。家の経済状態がまったく変わって、子供に良い教育をさせるのも難しくなった。60年代中期、文化大革命が始まって、知識青年と呼ばれた学生達が農村、辺境へと下放された。その時、大学を卒業した私の一番上の姉も進学できず、江西省の南昌市に「分配」された。その後、「高考制度」が廃止されたが、高校を卒業した兄、姉達は大学へ進学することができなくなって、相次ぎ農村へ「再教育」に行かされた。家族がバラバラになったことは父に大きな打撃を与えた。でも父は倒れなかった。父は教育こそ国を強くさせる唯一の道と確信していて、いつか教育制度がまた変わるだろうと希望を持って、子供を教育することを諦めなかった。当時、「抄家」された家は本もほとんど焼却され、また新しい本を買うお金もないので、父は手書きで私に教科書を作ってくれた。父はよく私に経済的な貧乏はこわくない、知識を身につければ心が豊かになると教えてくれた。1976年、「四人組」打倒後、中国の大学教育制度が元に戻る形で再改革された。その時、まだ在学中だったのは私一人だけだった。重点中学校に合格した私に、父はさらに厳しくなった。 私が高校卒業の時、父は病気にかかって、半身不随になった。私は父の病気と家の経済状況が気になって、進学と就職のどちらの道を選ぶか迷っていた。当時大学卒業生の就職はまだ大学側で決められ、就職地や、職業などを自分で選ぶことができなかった。私は姉のように大学を卒業したら遠い地方に「分配」されることを心配していた。両親は年をとり、姉、兄達は皆遠い地方に行っていたので、私には両親の面倒を見る責任がある。人生の交差点で、私は迷い、なかなか自分の将来を決めることができなかった。 大学の願書の締切日の前夜、父は私を彼のベッドに呼んで、私にこう言った。「あなたは私の末っ子だ。私の最後の希望といえる。あなたの姉、兄達は勉強の機会がなかった。でもみんな夜間学校に通って、頑張ってやっている。あなたは進学に迷う必要はない。私の生きている時間はもうそんなに長くない。でもあなたたちは私の生命の延長だ。私の叶えられなかった夢を、あなたが実現してほしい。学ぶことは若い人にとって、何より大切なことだ。あなたは私のことや家のことなど、心配することはない。私の息子に対する希望は、あなたができる限り勉強すること、人に負けずに勉強すること、わかったかな。」父の話が私の一生を決めた。その後、私は両親と離れて、鎮江にある船舶大学へ行った。大学卒業前、私は上海交通大学大学院の修士課程を志望した。試験前の準備期間に、上海から電報が来た。父の病気が悪化して入院したという知らせだった。私が慌てて病院へ駆けつけたとき、父はもう話せなくなっていた。看護婦さんは父が私の来るのを待っていたと言った。泣いていた母は私に、「父の最後の言葉は『耀ちゃんの修士試験はいつか、彼に頑張ってと伝えてね』だった。」と話してくれた。私は涙をこぼして、父に「必ず大学院試験に合格する。」と誓った。父は私を見て、微笑みながら亡くなった。 昨年春、私は東京大学大学院の博士課程に合格した。母に電話でそれを話した。母は「お父さんが生きていれば、このことを聞いてどんなに喜んだろう。」と言った。父が亡くなってもう11年たった。でも父はずっと私の心の中に生きている。困った時、迷う時、弱くなった時、父は私の心の中で私を励ましてくれる。学問の道は終点がない。私は学ぶことの大切さを家で教わった。父の一生は平凡だったが、父に教育されて私は幸運だった。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- 1997年3月に東京大学を卒業後、4月に財団法人日本海事協会に入会、技術研究所に所属。1997年、上席研究員。2006年、首席研究員。主に船舶及び海洋構造物に働く荷重に関する基礎研究並びに国際船級規則の研究開発に従事。2003年より、中国、江蘇科技大学客員教授、2005年より、ハルピン工程大学客員教授、2008年より天津大学客員教授。 ---------------------------- 2010年8月25日配信
  • 2010.08.18

    エッセイ257:方 美麗「今までに私に一番影響を与えた人に」

    その人は母という名の女性なのだ。 母は戦前に生まれ、小学校に進学するその年に戦争による厳しい時代が始まった。そのため、彼女は教育を受けることさえできなかった。 貧しい農家で育てられた彼女は、目上の人への絶対的な服従をしつけられ、考え方も昔風の保守的で且つ頑固なものであった。彼女にとって、女性は家庭に入って子育てをするのが天職であった。教育を受けなくても、字を知らなくても立派な母親になれると彼女は思っていた。そのため、彼女は教育熱心な母ではなかった。そればかりか、私たち子供にとって、彼女は優しいお母さんでもなかった。彼女には人に優しくする余裕がなかったのかもしれない。厳しい時代に立身出世に恵まれなかった夫を持ち、4人の子供を抱えながら毎日翌日の生活費を悩み、貧しい生活と借金に追われたストレスがその原因だろう。彼女はきつくて、厳しく、不平だらけだった。しかし、それでも、彼女は悪環境に負けず、戦っていたのだ。 彼女の娘として生まれた私は、苦い苦い幼年と青春を過ごした。男尊女卑という考え方の彼女に対して、至って不満であった。彼女の言動には私たちの気持ちに対する思いやりが欠けていた。それだけでなく、子供の教育にも、男は偉くなるために勉強するが、女は、所詮人妻になるから「小学校で、いいさ。字も知らない私だって、人生はここまで来られたのさ。」という。そのため、姉は小学校の最優秀卒業者であったにも関わらず、中学校へ進学することができなかった。私は運よく、義務教育が県から強制実行され、中学校を出ることができた。が、高校へ行くことは許されず、私は稼ぎに出ることにした。一年後、高校受験に挑戦し、自力で高校を卒業した。 その頃から、生活は少々よくなり、兄は農産物の事業を始めた。しかし、この事業は失敗に終わり、母の半生の貯金と、私の二年間の給料と、家の畑を全部売却するほどの大損害となった。彼女は、息子に対する期待が大きかっただけに、ショックも大きかった。私も、せっかくの貯金が借金返済のために使われ、大学へ行こうとする夢も泡のように消えてしまった。もうこの家から離れて、自分の人生を歩んでみたいと思った。そして、片道のチケットと、わずか300ドルを手にして日本にきた。もちろん反対されたが、彼女の人生を見てきた私は、そのような人生だけは送りたくないと、押し切った。日本語学校での2年間、援助のない異国での生活はつらくて、苦しかった。目指す国立大学(経済的だから)に入れなかったら帰るしかない。否、成功しなければ帰らないと誓った。 そして、受かった。父の友人の金持ちの息子が数百万円と2年間の努力をしても入れなかった大学ということから、母は喜んでくれた。神経、時間、金銭をかけた息子に託した夢を、皮肉にも無視してきた娘が果たした。そして、修士課程終了前に「頑張って、博士課程に進みなさい」と私に言うようになったのだ。母の考え方の変化が嬉しかった。今では、彼女は村の若い娘さんに「うちの娘のように頑張ってください。今の社会は、努力さえすれば女の子でも立派な人間になれるのよ。」という助言をしている。だが、いろんな壁を乗り越えてこれたのは、厳しい状態に置かれた時の母の頑張りを見ていたからこそであり、そのため今日の私がいるのに違いない。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------- <方 美麗(ホウ ビレイ)☆Fang Meili> 1992年横浜国立大学国語教育卒業。1994年同大学修士課程修了。1997年お茶の水女子大学科博士課程修了。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所非常勤研究員、台湾輔仁大学日本語文学科助理教授、筑波大学外国人教師を勤めながら、東京外国語大学(中国語表現演習、台湾語)兼任。その後、ロンドン大学SOAS(台湾語)、ロンドン大学Imperial College (中国語)の 非常勤講師を経て、現在お茶の水女子大学外国人教師。専門分野は言語学・外国語教授法で、週に一回1.5時間で年間25回の学習で外国語が11分間流暢に話せる“表現教授法“を創った。 ---------------------------- 2010年8月18日配信
  • 2010.08.11

    エッセイ256:ニザミディン・ジャッパル「私の人生に一番影響を与えた人―マリア先生」

    1967年、中国で「文化大革命」が始まり、知識人は農村での強制労働を課せられました。私の父は1944年新彊学院法律学部を卒業して、裁判省に勤務していたため「反革命分子」と呼ばれ、家族全員、農村での生活を余儀なくされ、政治的権利も奪われました。私が6歳になった時のことでした。翌年、私は村の小学校に入学しましたが、学校でも村でも「反革命分子」の子供と言われていじめられ、毎日泣きながら家に帰りましたので、私には友達と外で遊んだ経験などありません。両親は毎日強制労働をさせられ、兄、姉たちも私と同じようにいじめられました。父が「申し訳ない、私のせいで家族全員がいじめられる。私が死んだらきっとよくなるだろうから、それまで辛抱してくれ。」と言ったのが今でも記憶に残っています。父はその希望通り、1971年に重労働のため51歳で亡くなりましたが、どんなにか無念だったことでしょう。しかし、父が死んでも「反革命分子の子供」というレッテルは消えませんでした。私は人がいないところで泣いてばかりいました。そして、社会が変わってチャンスが来たら、父をいじめた人達を見返そうと云う事ばかり考えていました。 1973年に中学に入学し、担任のマリア先生に出会ったことにより、私のそれまでの世間に対する負い目や後ろ向きの考え方が霧が晴れるように無くなりました。第一回目の数学試験後、先生は私を教官室に呼んで「君の成績はクラスで一番だった、これから君をクラスの学習担当者にしよう」と云ってくださいました。私が、「出身身分がよくないので私が学習担当者になってもクラスメートは誰も認めてくれないと思います。」と答えたところ、先生は、「君の家庭の事情はよくわかります。でも、君のお父さんは反革命分子ではなく、知識人で立派な弁護士でした。あなたはお父さんのことをもっと誇りに思っていいのですよ。こんな社会が長く続くはずがありません。きっと変わります。君の兄さんや姉さんたちも優秀だから、将来きっと立派な科学者になると思います。君も頑張って、困ったことがあったら私に相談してください。」と仰いました。それは初めて聞いた、私の父に対する称賛の言葉でした。生まれて初めて、嬉しく幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、涙があふれてきました。それからというもの、私は授業で不明な点があれば先生に聞き、先生は熱心に教えてくださいました。先生はみんなの前でよく私のことをほめてくださったので、次第にいじめがなくなり、誰も私のことを「反革命分子」の子供と言わなくなりました。そのような事が有ってからマリア先生は私の心の中で神様のような偉大な人となりました。私の夢は将来、先生と同じ様になりたいと思い、そのことを話すととても喜んでくださいました。そして有名な科学者が子供時代に大変苦労した話などをしてくれ、いつも励まし、元気づけてくださいました。 1977年、私の人生に大きな転機が訪れました。1966年に始まった「文化大革命」が終焉を迎え、“反革命分子”が開放されたのです。身分に関係なく成績が優秀であれば大学に入ることができるようになりました。その時誰よりも喜んだのはマリア先生でした。先生は「ニザミディンくん、君たちの時代がやっと来た、頑張って、君はいい大学に入れる。」と云って、それまで以上にますます熱心に教えてくださるようになりました。そして1978年、私が新彊大学に合格すると、先生は家で送別会を開いてくださって、「大学に着いたら生活、勉学事情について手紙を書いてください」と云ってくださいました。大学での勉強方法、諸々の問題の解決法、将来などについて相談すると、先生は親身になって、手紙でいろいろとご指導くださいました。大学を卒業して、新彊大学に教官として残ることを知らせた時、先生は「就職おめでとうございます。君の考えたとおりに自分の知識をもっと増やすため、アメリカ、日本など科学技術レベルが高い国に留学したほうがいいと思います。」とアドバイスをしてくださいました。1990年に私の夢がかなって日本に留学できることになりました。先生は、「留学おめでとうございます、君はよく頑張った、君の事は私の喜び、博士学位を取得するまで頑張ってください。」と励ましてくださいました。 先生は今まで、私の人生という航海の行く先を示してくださったコンパスのような存在でした。先生は私の一番尊敬する人です。先生の存在なくしては今の私はないと言っても過言ではありません。私は先生のご恩を一生忘れません。いつでも先生の健康と長寿を祈っています。 (著者の了承を得て、渥美財団1996年度年報より転載) ---------------------------------------- <ニザミディン・ジャッパル ☆ Nizamidin Jappar> 中国新疆出身。1998年、東京大学より博士号取得。1998-2002年、昭和電工株式会社、ケミカルエンジニア、主任研究員、多種機能を付加した各種工業用材料の研究開発。2004年よりKimoto Tech Inc., USA、現在、研究開発部長,取締役員。 ---------------------------------------- 2010年8月11日配信
  • 2010.08.04

    エッセイ255:南 基正「平凡だが越えることが出来ない永遠の存在-私の父」

    父について書くのは難しい、という。長与善郎が父長与専斎を思うに際して「自慢のようになるのも気がひけるし、といって徒に如才なく卑下して強いてくさすようにいうのはなお更嫌なことである」と書いているが、なるほどそうであると思う。特に、公の場所では父親の名前さえ口にしてはならないと幼いときから教育されてきた私としては、父について書くのはなおさら気がひけることである。韓国では父親の名前を聞かれると、例えば私の場合、「南字、俊字、祐字です」と答えなければならない。しかし今私は、とても恐れながら、私の父に対する想いを書こうとする。 いつからかよく覚えていないが、私に対して最も影響を与えた人物を聞かれる度に、迷うことなく父親だと答えてきた。しかし、なぜなのかと聞かれるとなかなか一言でいえず、答えに困っていたように思える。実は私は父からしつこく何かを言われた覚えもなく、一度もほめられたことがない。即ち、父との直接的かかわりがなく父を判断する原材料がないということが、まず浮かび上がる理由である。父に関して、父の私に対する思いに関してはすべて、母や父の周りの人から間接的に聞いた話である。しかし、それは答えとして語ろうとしても語り尽くせない話のように思えたからでもある。そして、なによりも、父が一見とても平凡な人であり、特別な何かがある人であるということをその場で信じさせるのは無理だと思っていたからかもしれない。 父は貧しい農家の長男として生まれた。勉強はできたが、家が貧しく大学には進めず、当時の花形職業であった銀行に就職した。自力で夜間大学に通い、最初の銀行で定年まで働き、定年後は家で読書の毎日を送っている。こうしてみると、どこにもいそうなごく平凡な父である。しかし、私はわずか二、三行で締めくくれる父の人生の中で、とうてい越えることができない永遠の存在としての父を見るのである。 父はまず、私にとって永遠の先生である。父は、私に学問することの楽しさと厳しさを教えてくれた。私の祖父と曽祖父は漢学の先生であったという。清貧が学問を営みとするものの第一の教義であった時代がその背景にあり、生業にはほとんど無関心であったのが先の貧しさの原因であり、父が銀行員とならざるをえなかった理由でもあるが、とにかく、そのような環境の中で父はハングルより漢文を先に習ったという。漢学が学問である限り、それが学校での勉強とパラレルではない。その意味で、私は学校での成績などで父にとやかく言われた覚えがない。常に、もっと広くもっと深く物事を考えることを教えられたのである。父は定年後、ふだん最もしたかったことをするのだといい、漢学の勉強を始めた。私は年に一度帰国するが、そのつど、父は私よりはるかに長い時間を漢学の書物と向き合っている。学問に終わりがないことを身をもって教えている。 父はまた、私に「文が武に勝る」という意味での平和主義を教えようとしたようである。幼いころ、私は父に刀や銃などのおもちゃを一度も買ってもらえなかった。そのおかげで、私は兵隊ごっこやインディアンごっこなどの遊びには参加することができなかった。TVでの「暴力と破壊によって問題が解決される」「マジンガーZ」といった類の番組も父がいると見られなかった。代わりに、父は帰り道にいつも本を一、二冊買ってきてくれた。母から後で聞いた話だが、お金に困り、父の必要な本を書店で立ち読みすることはあっても私たち兄弟には必ず本を買ってきてくれたそうである。私が大学に入り自分の選択で本を買うようになるまでは、私の本棚は父からのお土産で一杯であった。 大学生になり、わたしはこのような父に逆らったことがある。学生運動の盛り上がりの中で、当時いわゆる「ヴ・ナロード(人民の中へ)」運動とでもいえるような「農村運動」の組織をしていた頃であり、また、すべての知識が灰色に見え、不偏不党の理論などなく、知識人といえども党派性、階級性を持つべきだというマルクス・レーニン主義的考えに傾斜し始めた頃である。ある夜、父からもらった書物で埋まっていた本棚をひっくり返したのだ。しかし、部屋の中に散らばったその書物を見ているうちに、父の考えの深さやそれを通じた私への想いに思いが至り、結局その行為は極端な考えから脱する反対方向への契機になったのである。戦後日本社会を平和主義をキーワードにしてとらえようとする私の試みは、その意味で父から仕込まれた考え方に端を発しているかもしれない。 父はまた、ただ本の中にうずくまっているひ弱なものになるのを警戒してか、時間がある度に私を登山に誘ったり、テニスにつれていってくれたりして、身体を動かすことの大切さをも教えてくれた。受験を目前にして勉強部屋に閉じこもっている私をテニスに誘ったことで母と口喧嘩になったこともあった。クラッシックのレコード盤を買ってきては、休日になるとさりげなくかけてくれたりもした。以後、いくら忙しいときでも時間を割いてできる範囲での何らかのスポーツや芸術で心の安定を保ち、身体を鍛えていこうと努めている。 こうしてみると、父の学問やスポーツ、芸術に対する思いは私のためのものであったようにみえるが、実は父が自らそれらを本当に楽しんでいたようである。森茉莉が父森鴎外を評して「私には父が、学問や芸術に対して、山の頂を極める人のような、きれいな熱情を持っていた人のように、見えた」(「父の子」)と言っているが、それは、そのまま私にもあてはまる言葉である。そのきれいな熱情が無言のうちに私に伝わってきて今までの私を暖め、現在の私を形作ったのである。そして、その熱情が私に伝わってくる限り、父は私にとって永遠の存在なのである。 (著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載) ------------------------------------------- <南 基正(なむ・きじょん)☆ Nam Ki Jeong> 1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授、韓国・国民大学国際学部副教授を経て、現在ソウル大学日本研究所HK教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。 ------------------------------------------- 2010年8月4日配信
  • 2010.07.28

    エッセイ254:韓 京子「アデュー!2010 World Cup!」

    南アフリカで開催されたワールドカップがとうとう終わってしまいました。といっても私にとっては「まだやってたんだ」という感じでしたが。2002年は燃えていた気がするのですが、2006年はあまり記憶に残っていません。年をとったのか、情熱を失い醒めた人間になってしまったのか……。今回は、韓国チームも日本チームも開催前の低評価とはうってかわった戦いぶりに湧いたのではないでしょうか。もちろん逆のチームもありました。 さて、国それぞれ応援の仕方、様子も違うと思われるので、こちら韓国の様子を少しお伝えすることにしましょう。 はじめからそれほど盛り上がっていなかったのですが、開催一ヶ月前に行われた強化試合で中国に完敗してからさらに下がってしまいました。ところが、その後の強化試合最終戦で日本に快勝してから急にスイッチが入りワールドカップモードに突入したという感じです。 ワールドカップグループリーグの初戦相手はギリシャ。この初戦で韓国チームは「いけるかも」という希望を持たせてくれました。とにかく「韓国ってこんなに強かったっけ?」と思わせてくれた試合内容でした。この試合の日本での報道が韓国寄りだったことは韓国でも報道され、「???」、「私たちはああなれないだろうな」と戸惑いを覚えた人が多かったようです。 ご存知のように韓国と日本はグループが違い、韓国の試合の数日後に日本の試合があるというパターンが続きました。日本は大会前の強化試合で韓国に敗戦したこともあり、非常に低評価でした。しかし、その後の日本チームの予想外の善戦に、どうしても日本を快く応援できない私たちは表面では応援しても心の中では「韓国チームだけ勝てばいいのに」「日本も決勝トーナメント進みそうだよ。いやだな」って思った人も多かったのではないかと思われます。いかんともしがたい性でしょうか。 2010年のワールドカップの観戦方法の特色は携帯で移動中に試合を観る人が多くなったことです。大勢で観戦するというのは以前と変わりません。テレビのない飲食店に人は全くいません。いつも行列のできるイタリアンのお店ががらがらで、店員もシェフも携帯で観戦していました。お店にテレビがなくてもどっからか聞こえる歓声で得点が入ったのか、取られたのかわかります。今回は真夜中の試合もあったのですが、やはり団地全体を揺らがす歓声でほぼ状況把握ができるほどでした。もちろんこの歓声で起きてテレビをつける人も多かったみたいです。 また、以前と変わったのが応援場所です。ソウル市庁前の広場だけでなく江南の道路が加勢。夕方の試合のある日には午前中から交通規制がしかれ、大変な渋滞になりますが、道行く人は「仕方ないか~」って反応でした。江南の道路が応援場所として加わったのは、若者も集まりやすく、また近所に高層ビルがたくさんあり、お手洗い、コンビニなども多く便利だったからということです。しかし、決勝トーナメント進出が決まった喜びで漢江に飛び込み溺死するという事故があったのは本当に残念でした。 おもしろかったのは「鶏肉」の需要がはんぱな量じゃなかったことです。みんなで集まって観戦するところは、生ビールの飲めるお店。韓国ではビールのおつまみにはフライドチキンが定番です。家で家族や友達といっしょに観戦するときもフライドチキンなど鶏肉料理やピザを出前で頼むのがほとんどです。出前を頼んでも何時間も待たされたとか。そのため、韓国戦の次の日の教職員の食堂のメニューが「タットリタン(鶏肉をじゃがいもなどの野菜を入れ辛く煮込んだスープ。Wikipediaに載ってるのにはびっくり)」だった日は、「センスないよな~。みんな昨日鶏肉食べるくらい知ってるだろう」って不平が出ます。 ところが、このチキンとビールの夜食が習慣になってしまった人が多いらしいのです。ワールドカップ期間に5キロも太ってしまったあるお姉さんは何を着てもぱっつんぱっつんになってしまったためダイエットをはじめたとか。いったいどれだけの鶏が消費されたのでしょう。 来週から夏の最も暑い期間である伏日が10日ごとに訪れます。日本では盛夏の土用丑の日にうなぎを食べますが、韓国では初伏(19日)・中伏(29日)・末伏(8月8日)の日は夏の保養食としてサムゲタン(参鶏湯)を食べます。本当は保身湯という犬肉のスープを食べる日だったらしく、今でも「守っていらっしゃる」方もいます。 今回のワールドカップ、南アフリカでの開催ということで少し遠く感じられたかもしれませんが、若者はちょっと違ったようです。最近の韓国の大学生は南アフリカに英語を学ぶため留学するということも多く、若い子は少しは身近に感じていたのかもしれません。 もう一つは鄭大世選手です。彼の涙にみんな泣きました。韓国籍の彼が北朝鮮の代表として出場したことの意味するところは大きかったように思えます。韓国の人が「在日ってなんなのか」少しは考えるきっかけになったのではないでしょうか。韓国戦争勃発50年を迎え、南北の分断などなどいろいろ考えさせられることが多かったワールドカップだったような気がします。 4年後はどう変わっているのでしょう。楽しみです。 ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、檀国大学日本研究所学術研究教授。SGRA会員 ------------------------------------------- 2010年7月28日配信