SGRAエッセイ

  • 2010.07.22

    エッセイ253:シム チュン キャット「日本に『へえ~』その4:賞味期限を気にしすぎ?」

    みなさんが日本のスーパーとかで買い物するとき、商品の値札に書かれている数字以外に、ついつい気にしてしまうのがその商品のどこかに必ず表示されている賞味期限、もしくは消費期限ではないでしょうか。当然ながら、衛生や清潔さにいつもピリピリしている僕の国シンガポールでも、同じような品質保持期限の表示はあります。賞味期限なら日付の前に「Best Before XXX」と、消費期限なら「Use By XXX」という英語で記されます。でも、そんなシンガポールでも日本には全然かないません。なぜなら、日本では日付ばかりでなく、「賞味時間」までが表示される場合があったりしますから。「X月X日午後4時まで」とか「X月X日午前2時まで」とかの表示は日本で暮らしている人なら誰でも見たことがあると思います。「本当かよ~。その時間からこのコーナーのものが一斉に腐り始めるというの?」と素直でない僕はいつも疑念を抱いてしまいます。それだけではありません。一番びっくりしたのは、多くのスーパーではなんと卵一個一個のうえに賞味期限が印刷されているシールが丁寧に貼られていたりすることです。印刷紙がもったいないという以前に、ここまでくるともう「まいりました」と脱帽するしかありませんね。 実は、屋台村の出店まで一軒一軒に「衛生ランク」をつけてしまうシンガポールでも、市井の庶民がお肉やお魚や野菜などの生鮮食品を買うときは、今でも品質保持期限が一切表示されない「ウェットマーケット」(Wet Market)に行くことが多いです。ウェットマーケットは要するに、日本の商店街などにときどき見かける個人経営の魚屋さんや肉屋さんや八百屋さんがたくさん集まっているバザール風の市場です。普通の肉類や魚介類のほかに、生きたままの鶏や鳩、または食用の蛙とかすっぽんや亀の卵まで揃っているので、まるで生鮮食品のディズニーランドのようで、料理をあまりしない僕でさえも帰国するたびに必ず一回ぐらいは足を向ける楽しい場所の一つです。売り手の掛け声や買い手との値引き交渉に加え、一頭の豚を頭から内臓まで無駄なく量り売りするために手際よく肉を裁く包丁がまな板を叩く音、もうみんな一生懸命生きている感じというか、これぞ庶民の生活感ぷんぷんという世界が広がります。そして言うまでもなく、この世界では「賞味期限」などの無機質な数字はありません。肉や魚が腐っているかどうかは自分の目と鼻で判断してくださいという感じです。もっとも、目と鼻が利かない人でも、万が一ダメな肉や魚を買ったときには、翌日同じ店に訴えに行けば済むことです。こういう人間臭いやりとりがまた面白くて、僕は大好きです。 翻って日本では近年、賞味期限の偽装問題が次々と発覚し、これまで偽装表示された食品を食べて何の問題もなかったのに、改ざんがいったん暴露されるや、みんな以前よりもついつい敏感になってしまい、「正確な」賞味期限表示をさらに求めるようになり、生活がいっそう数字に左右されてしまいます。考えてみれば、賞味期限の「期限」がよくない気がします。なぜなら、「期限」は英語で「デッドライン」(Deadline)に訳されることもありますので、「死の線」だなんて恐ろしいったらありません。これではみんながナーバスになるのも無理はありません。例えばシンガポールのように「Best Before XXX」であれば、「XXXの前なら、ベストだよ、一番美味しいよ、でも期日を少し過ぎても大丈夫だよ、死にませんよ」というニュアンスを含んだほうが何倍も優しく聞こえるのは僕だけでしょうか。せめて「賞味期間」とか「一番美味しくいただける時期」とか、もっとポジティブな表示はできないものでしょうか。日本での僕の生活がより大らかな人間臭さを取り戻すためにも、誰か良い案がありませんかね。 -------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------------- 2010年7月21日配信 【読者の声】 楽しく読ませていただきました。食品については、冷蔵庫で期限切れになっても自分も自己判断で賞味しています。これもエコです。しかもお腹壊しても死ぬものじゃないし、ダイエットしたい方にもいい方向に作用するし。 それから予てより思っていることですが、食べ物というのは、指数関数[exp(-日数/期限定数)で質が落ちていくものです。レジシステムが情報化されている現在、この変化を即時に価格に反映させるのはいかがかと思っています。例えば一パック200円の牛乳で、期限定数を8日だとすると、入荷日は200円、日数が経つにつれて176、155、137、121、107、94、83(7日目)と値段が自然と下がって行きます。賞味期限が1日と短いおにぎり等でも、時間単位の設定が可能。 これなら新しい物から買われていって古いのが廃棄されることはなくなります。貧乏学生にとっても、日数の経ったものだけを頼りにすれば格安で生活できるし。値段表示ですが、間もなく普及するであろう電子紙、もしくは現段階でも携帯電話によるスキャンで価格表示は可能です。 ますますドライな世界になっていくようですが..... (葉 文昌 2010年7月21日)
  • 2010.06.30

    エッセイ252:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その2)」

    ○ 授業の雰囲気 今の学科がそうであるように、日本の多くの大学では授業中の飲食は禁止されている。台湾ではつい最近、台湾大学の先生が、「今の台湾で最エリートの台湾大学医学部の学生が、授業中平気でフライドチキンを平らげていて嘆かわしい」と新聞に投書して論争を呼んだように、授業によっては朝には朝飯、昼に近づけば弁当、の授業情景が繰り広げられる。実は学生は授業の最初に先生の反応に探りを入れており、そこで先生が指摘しなかったから、その授業でこのような行為がはびこるのである。ちなみに僕は、他の受講者に迷惑をかけるかどうかを基準としているので、飲み物はよいが、匂いや音の出る食べ物は駄目としている。しかし、世の中一般の状況はどうだろうか?ネットで調べると日本では学生の飲食に対して「師と学生には上下の関係があるから学生の飲食は不敬」、「社会通念上、非常識な行為」としている意見が多い。これは師と生徒を上下関係とする儒教の影響を受けているのであろう。一方でアメリカの大学の状況をネットで調べて見ると、授業中の飲食はありがちのようで、学生だけではなく中にはスナック菓子を食べながら授業をする先生もいるそうな。師と生徒が従属関係になく、よりフラットな関係にあるからなのであろう。台湾の国立大学の教授の7、8割がアメリカで博士号を取得しているが、その影響で台湾の大学でも、授業中の学生の飲食に寛容になったのではないか。 しかしながら、積極的に発言するアメリカの学生と違い、台湾の学生は日本と同様あまり意見を表したがらない。台湾の初頭教育に学ぶ論語の一番最初の語句が「剛毅木訥、近仁(口数が少ない人は、道徳の理想とする仁に近い)」、また俗語に「多説多錯(多く話すだけ過ちが多くなる」「沈黙是金(沈黙は金)」「禍従口出(口は禍の元)」などがあり、それを以って親や初等教育の先生が子供に諭すように、台湾では自分の意見を曝け出すことは良しとしない風潮がある。だから台湾の大学生は意見をあまり表さないでいるのである。「日本人は謙虚で内気な民族である」と、その民族的特徴を捉える人がいるが、多くは単に儒教文化の影響を残しているだけなのだと思う。もっとも学生が自分の意見を述べたがらないのは先生の責任であるので、研究室ゼミで学生が自分の意見を述べられるように努力している。学生が自分の意見を話すようになると、ゼミはとても面白くなる。 ○ エコ意識 15年前頃から日本の大学当局はエネルギー消費量の削減を宣伝していたし、研究室では指導教授が電源をきちんと切るように指導していた。島根大学でも、学生は帰宅前にはポットの電源を切って帰るし、研究室でも出来る限りクーラーをつけないようにしていてエコへの意識は高い。そしてごみもちゃんと分類するよう指導されている。しかし、台湾で大学がエネルギー消費量削減の宣伝をしているのは見たことがない。学生もパソコンの電源をつけっぱなしにしている方が普通である。実は台湾の電気代は日本の1/2、韓国の2/3と安い。これが影響しているのではないか。といっても台湾では全くエコ意識がないと言うわけではなく、使わなくなったプリントは多くの場合裏面でもう一回使っているように、それなりのエコ活動はしているようだ。 ○ 研究設備 着任してから一生懸命助成金獲得への企画書を書いているが、研究費の獲得がどれくらい大変であるかは、まだわからない。実験パーツの見積りは始めているが、日本の実験パーツは同じアメリカ製品でも台湾と比べて高いものが多いことに気づいた。中には価格が2倍のものもある。今やパソコンやディスプレイなどの民生工業成品は日本でも台湾でも価格はほぼ同じであるのに、なぜ実験パーツにこれほどの差があるのかは理解し難いところである。だから実験装置を作りあげることに関しては、日本の方が高くつきそうだ。 ○ 学科会議 台湾での学科会議では、会議に関する厚いプリント資料が一人一人に配られ、「Xページ目の何処何処に示された…」という具合に会議は進行する。ここで少しでも集中力が散逸すると議題のスポットを探すのにひと苦労する。「映像放映が無料の時代になぜプリントなのか?日本ではパワーポイントを利用するなどもっと賢いやり方をしているに違いない。」と思っていたが、日本に来てみたら全く同じだった。台湾に居た頃、せっかく素晴しいプロジェクターが各部屋にあるのだから、せめて会議で進行中のプリントを画面に映し出したらどうかと提案したことがある。幸い聞き入れてもらってそれ以降はそのようになった。会議の進行自体は大差ないが、頻度に関しては日本の学科会議は年間25回程あるのに対し、台湾では4回程しかない。出席率も日本では100%に近いのに対し、台湾ではおおよそ70%程度である。台湾では議決は権利なので欠席は権利を放棄したとみなされるのに対して、日本では議決は義務とみなされているようだ。だから日本での欠席は予め委任状の提出が求められる。この違いが出席率に現れているのではないか。また台湾では会議時間が11:30から午後の授業が始まる13:30までで、学科支給の無料の弁当を食べながら会議をするのに対して、日本ではお昼時間を避けて会議が始まる。台湾の会議は午後の授業が始まる13:30までには終わらせるのが普通であるが、日本の場合は4時に始まって7時に終わることも度々ある。 違いはまだまだあると思うが、また気づいたらお知らせしたい。 ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 ----------------------------------------- 葉 文昌「台湾の大学と日本の大学(その1)」 2010年6月30日配信
  • 2010.06.24

    エッセイ251:葉 文昌「台湾の大学から日本の大学に移って思うこと(その1)」

    台湾の旧職場を3月16日に離職し、島根県松江市に22日に来て、早速住民登録、移動手段となる自転車の購入、携帯電話申請、等、新生活に向けた準備をした。そして4月1日、待望の辞令を学部長から受け取る日となった。スーツを着てやや緊張しながらも期待に満ちた気持ちで出勤する。式典では学部長が辞令を読み上げて交付された。台湾での職場にはこういうのがない。台湾の大学では8月1日から新年度が始まるが、夏休み中なのですぐ授業が始まらない。だから先生によってはまだ海外で帰国準備をしていて授業が実際に始まる9月中旬に現れることも少なくない。また式典はないので、辞令はそれぞれが事務室に取りに行く。 着任して一週間後には新入生が入ってくる。学校のメインストリートには部活の勧誘ポスターが張り出され、活発な課外活動が繰り広げられる。それに比べると、台湾のキャンパスはおとなしい。台湾の初等教育で、学生の勉学へのモチベーションを高めるために先生がよく口にする言葉に「萬般皆下品、唯有読書高(すべては下品で読書だけが高貴)」、「書中自有黄金屋、書中自有顔如玉(書中に豪邸あり、書中に美人あり)」があるが、社会全体がこのような歪んだ価値観を漂わせていることも原因であろう。読書以外は下品なことなので、例えばオリンピックでは韓国と違って情けない成績しか得られていない。 台湾の大学でも建前では課外活動奨励しているが、多くの規制が自由な課外活動を妨げている現実がある。以前、学生にものづくりの面白さを伝えようと、太陽電池ラジコン飛行機を作るクラブを立ち上げようとしたことがある。学生有志10名程が集まったが、クラブ団体として認定されるには20名の団員を集める必要があると言われた。認定されないと活動する部屋が支給されないのである。学校の管理担当者とかけあったが「20人の名前を借りて署名を集めればいいんだよ」と親切にも“裏技”を伝授してくれた。正直者がバカを見る中華社会に自分まで染まる必要はないと思った。このような規制があるため、現存している部活には社会奉仕的な、或いは学習的な、いかにも模範的な官製部活が多い。 続いて学科の新入生オリエンテーションになるが、日本では先生全員が参加し、教壇で一人一人学生を前に自己紹介をした。台湾では教員の自意識が強いためか、オリエンテーションにでる教員は殆どいない。学生へのフォローはどちらも細かく、「大学の生活に馴染めないのであれば将来社会にも馴染めない。大学生なのだから勝手にさせればいい。」という考えは時代遅れのようだ。今や大学教員も授業と研究を通じての社会貢献だけではなく、小中高の教員と同じく学生へのメンタルケアも要求される時代のようである。 日本の学生は礼儀正しい。授業で携帯電話をいじる学生もいない。台湾ではたまに携帯が鳴って、小声で話そうとする学生がいる。咎めるのは先生の責任だが、しかし学生を言う前に台湾の先生の中には会議でも講演会でも小声で電話を話す輩がいる。今や日本人は華人に代わって“礼儀之邦”となっていることは台湾人も認める所だ。もっとも”日本人は礼があっても体はない”と日本のアダルト産業に関連させてオチをつける華人(やメディア)も多いので、日本人は礼儀正しいと華人に褒められて気を良くするのはいいが、心の中では間違いなく口に出てこない残り半分を思っているはずなので、はめをはずさないように。 授業に関しては日本では多くの教員が教科書を執筆し、それを授業で使う場合が多い。一方、台湾ではアメリカの有名大学で使われている教科書を使うことが多い。僕も台湾に行ってからアメリカの教科書に接することになったが、アメリカの教科書はとても噛み砕いて説明している教科書が多いと感じる。アジアでは99乗算をそのまま暗記するのに対しアメリカでは理解させることに重点を置いているように、教育に対する価値観の違いが根底にあるのだろう。説明が詳しいから、アメリカの教科書は自習でも身につく。一方で日本の教科書は、先生のわかりやすい講義なしではわかりづらいことが多い。更にアメリカの教科書は、説明が詳しいだけでなく参照文献もしっかりしており、かなり手間をかけて作っていると感じる。アメリカは自由競争なので寡占化されるし、また有名大学で使われる教科書は台湾などの多くの国の大学でも採用されるので、手間ひまかけて作っても成功すれば十分な見返りは期待できるのであろう。学生の視点からすれば、アメリカでメジャーになった教科書を使えば外れがないので安心できる。(つづく) ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。台湾での9年間では研究室を独自運営して薄膜トランジスタやシリコン太陽電池が作れる環境を整えた。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 -----------------------------------------
  • 2010.06.16

    エッセイ250:権 南希「二度目の『留学』

    昨年9月、私は8年間の留学生活を送った東京を離れて大阪に来た。私を待っていたのは、個性的なパワーに満ちた大学三年生、いや「三回生」たちだった。私が所属しているところは、大阪にある関西大学の政策創造学部。「先生、何故日本に留学しようと思ったのですか?」「韓国人は日本人が嫌いって、本当ですか?」関西弁が飛び交う学生たちの質問攻めのなかで、私の初講義は始まった。初めて日本に留学生として来た時に感じた緊張感のようなものが、もう一度よみがえるような感じがして嬉しかった。 しかし、感傷に浸っている間もなく、これまでとは違う緊張感と責任感が心理的なプレッシャーとなって重くのしかかってきた。秋学期から担当することになった科目は、国際法事例研究。学生たちには自らテーマを決めて国際法に関する論点を発表してもらった。インドの児童労働問題、アフリカの紛争ダイヤモンド問題、地球温暖化問題、捕鯨問題、東アジア共同体問題などのテーマについて発表があった。そのなかで私を一番悩ませたのは、韓国と日本の間の問題だった。もちろん、国際法の専門的な知識だけを学生に伝えるなら、問題はそれほど難しくない。しかし、東京裁判、竹島・独島問題となると話は違う。特に「東京裁判」のような日本の歴史認識が直接問われる問題は、韓国人の私にとっては非常に扱いが難しい問題だった。「そんな勝者の裁きだったのに、何故日本だけが、我々がずっと責められなければならないのですか」と問う学生たちにどう答えれば良いのか。そもそも、外国人の私の意図は誤解されることなく、きちんと伝わるのだろうか。 二年ほど前、野坂昭如の小説を映画化したアニメ「火垂るの墓」の韓国のある大学での上映を巡って、韓国内で賛否両論が報道されたことがある。その時、韓国人の友人たちと何時間もこの問題について話した。私たちが日本に留学していなかったら、おそらくそこまで力を入れて話すことはなかったと思う。同じ韓国人留学生の中でも意見が違う人たちがいることは当然なことであった。しかし何年もの時間を同じ建物で過ごしていても、お互いの意見の違いを知り、理解する機会を持つことは意外とないものだ。もちろん、最初から結論はあるはずのない話だったが、それぞれが自分自身に対して結論を出し、解散した。この時のことを思い出したとき、私の悩みはすんなりと消えていた。 彼らの主張を真正面から受止め、問題を共有すること、そして真摯に答えることのみが私のできる精一杯のことであることに気がついた。発表グループの学生たちと議論を重ねて行くにつれ、私は学生たちに、そして学生たちは私に、言いたいことが、そして聞きたいことがたくさんあることが分かった。東京裁判チームの発表が終わった昨年11月のある日、私は改めて留学当初の自分に戻ったような気がした。 昨年の受講生たちは来春、社会人になるための準備で忙しい。私はいま、二度目の「留学」の初めての春を、一回生とともに送っている。 -------------------------------------------------------------------- <権 南希(くぉん・なみ)☆ Kwon Nami> 韓国大邱市出身。2009年東京大学法学政治学研究科博士過程単位取得満期退学。現在関西大学政策創造学部助教。担当科目は、専門導入ゼミ(国際環境法)、国際公共政策(国際法)など。研究分野は国際法。最近は「武力紛争時における環境問題の国際法的アプローチ」を研究している。 -------------------------------------------------------------------- 2010年6月16日配信
  • 2010.06.09

    エッセイ249:マックス・マキト「マニラ・レポート2010年春」

    「フィリピン人のために死ぬ価値がある」という言葉が刻まれた黄色いゴム製のリストバンドをはめて、2010年5月10日(月)の朝早く、投票所に化けた教会に向かった。この言葉は、1983年8月21日に暗殺されたニノイ・アキノ元上院議員が、米国での長年の亡命生活を終える決断をした時、母国に帰ることに反対する声に対して発した有名な言葉である。当時のマルコス大統領の独裁政権から、民主主義を円滑に取り戻すために帰国を決断したのだった。ある意味で、ニノイが目指したことは実現できた。母国に足を踏んで間もなく(踏んでいないかもしれない)暗殺者の銃弾で命を奪われたが、それがきっかけとなって独裁政権のもとで溜まっていたフィリピン国民の不満が爆発し、1986年のいわゆる無血の黄色い革命でフィリピンに民主主義が戻った。その激変の時代をリードしたのはニノイの妻、コリー・アキノ大統領だった。   今回の選挙では、このアキノ夫妻の息子であるノイノイが国の最高責任者の座に適任であるという、国民の審判が下された。選挙結果も勿論重要であるが、今回は、投票方法自体にも様々な進展があり、フィリピンの民主主義も新しい時代に突入したと感じた。 (1)機械化。今回の選挙から投票は機械で読み取り、投票所ごとに数えた票数が選挙本部に無線通信で送られた。今までの選挙では、票は投票箱に投じられ、投票箱ごと選挙本部に運ばれた。黄色い革命の時には、投票箱が安全に運ばれるのを見届けるために、一般市民が真剣な目で見守った。選挙の尊さを守るため、僕は投票箱の上に座り込んだ。ところが今回は、機械化によって、おおよその投票結果がわかったのは、フィリピンらしくないほど早かった。その結果、今回の選挙では選挙結果についての揉め事がほとんどなく、比較的平穏に選挙が終わった。出馬者が自ら敗北を認めた珍しいケースもあった。 (2)調査と発表結果の一致。今までの選挙では、NGOの独自の調査結果と政府の発表結果が大きく異なることが普通であった。今回の選挙においても、違法的に操作されたというクレームがないわけではないが、NGOの調査と政府の投票結果が大体一致していたというのが一般的な見方であろう。僕が調べた限りでは、SOCIAL WEATHER STATIONというNGOが実施した事前調査と開票結果が驚くほど合致していた。つまり、今回の選挙は開票の速度が早いだけではなく正確だったと言えるだろう。 (3)テレビ討論の審判。フィリピンはジャーナリストにとっては世界で1番か2番目に危険とされている。このことは国の治安の悪さを物語っているかもしれないが、僕は彼らの命がけの熱意に敬服している。事実を伝えようというフィリピン人ジャーナリストの使命感と覚悟は誰にも負けない。黄色い革命がまだ進行していた時、政府の統治により言論の自由が奪われたことがあったが、マスコミはただちに反駁し、立ち上がった市民にとって重要な情報源となって、無血にその革命を終わらせることに貢献した。今回の選挙では、マスコミは出馬者に討論の場を提供し、テレビ放送によって一般国民にその様相を紹介した。しかも、討論が終わった直後、会場にいる一般市民の審判を集計してテレビで流した。僕がみた限りその審判は妥当であり、選挙結果にも繋がったようである。 フィリピンの真夏に、投票者でギュウギュウ詰めの投票所は決して楽しいところではない。その夜の家族との団欒でわかったが、ほかのところはもっと深刻だった。暑さに負けて倒れた人々もいたようだ。僕がはめた黄色いリストバンドに刻まれた言葉を思い出させるかのように、投票自体が命がけという場所もあったわけだが、今回はそんなに多くなかった。意外にも、一番早く投票するはずだったノイノイが、投票所の機械の故障によって4時間も待たされた。これは大統領としての彼のこれからの仕事の困難さの前触れであるかもしれない。しかし、ノイノイらしく、慌てることもなく、辛抱強く機械が直るまで待っていたのは、彼の力かもしれない。 今、経済的及び社会の構造的要因によって出稼ぎのために海外で「亡命生活」をせざるをえないフィリピン人が年々増えている。その中には、ノイノイのお父さんのように、いつか帰国したいと考えている人もきっと沢山いる。僕もその一人である。大統領になったノイノイには、このように考えている人々の気持ちを大切にしてもらいたいと思う。つまり、海外からの仕送りに頼るのではなく、国内で雇用を生みだす政策をお願いしたい。   今回のマニラ滞在で、僅かながらも母国の進歩を肌で感じて、帰国に一歩近づいたような気がする。地方で遊んでいる土地をいかに生かせるか、妹の高校時代の友人からアドバイスを求められた。農業については素人だが、山もあり、川もある広い土地を現地視察してみたら、その美しさや可能性に魅了された。「環境的に持続可能な共有型成長に貢献できる農業はいかがですか」と提案すると、大変喜んで受けいれてくれた。いつか、フィリピンの地方で農業をするのを楽しみにしている。 実は、この「持続可能な共有型成長」という考え方は、2010年4月28日(水)にフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)で開催したSGRAの第12回日比共有型成長セミナーから思いついたアイデアである。今回のセミナーのテーマは「共有型成長と環境:フィリピン都市道路交通を事例として」であった。(詳細は http://www.aisf.or.jp/sgra/active/schedule/12.php を参照)UA&Pの理事であるバーニー・ヴィリエガス教授が、開会挨拶でセミナーの課題を次のように上手くまとめてくれた。「3E」(或いは「Eの3乗」)とは、EFFICIENCY、EQUITY、ENVIRONMENTのことである。無理やり日本語に訳せば、効率、公平(均等?)、環境であるから、「3K」(又は「Kの3乗」になるかな。EFFICIENCY+EQUITYというのは、僕の研究のメイン・テーマである共有型成長だが、そこにENVIRONMENTを加えて持続可能な共有型成長の概念が誕生した。通常この3Kの間にはトレードオフ(TRADE OFF)があり、3者を並立させるのは大変難しい。 7月3日(土)に蓼科で開催するSGRAフォーラムでは、上記のマニラセミナーの内容に関して報告させていただくので、みなさんお時間があればぜひご参加ください。 選挙に関する資料、投票所の様子、フォーラムの写真 写真をもっとご覧になりたい方はFACEBOOKサイトよりご覧いただけます。ただし閲覧するためにはFACEBOOKへの登録が必要です。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2010年6月9日配信
  • 2010.05.26

    エッセイ248:梁 蘊嫻「私の研究の原点」

    今年の3月に、研究室の神野志隆光先生が退官されました。この場を借りて、先生に小文を捧げます。   私の専門は江戸文学です。上代文学とは無縁なはずですが、不思議なご縁で私は神野志先生の教えを仰ぐ機会を得ました。そのきっかけは、実は先輩の「アドバイス」でした。東大に来たばかりのとき、研究室の事情について先輩に伺ったところ、神野志先生の授業には出ないほうがいいと念を押されました。神野志先生はとても厳しいので、一秒でも遅刻したら、受講の資格を取り消されてしまうというのです。しかし、私はそれを聞いてかえって興味がわき「よし、出てやろう」と思いました。噂の「鬼の先生」を見てみたかったのです。そこで、修士一年のときに、「日本文化論」(調べる授業)に出ることにしました。 今でも鮮明に覚えていますが、最初の授業で、私はあまりの怖さに体がずっと震えていました。先生から『国史大辞典』を渡されて、菅原道真の項目を読まされましたが、私は「みちざね」を「どうしん」と読んでしまいました。先生は「辞書をすらすら読めないと研究なんかできない」とおっしゃいました。辞書を読ませたのは、受講者のレベルを試すつもりだったのかもしれませんが、私はこのことから、文章を正確に読むことが学問の第一歩であるということを学びました。 それからの半年間は、この授業を中心に生活していたと言っても過言ではありません。毎週、宿題が出されますが、課題が発表された後、さっそく調査を始めないと作業が終わらないほど大変でした。私はとにかく毎日いろいろな図書館を歩き回って調べ、提出の前日には必ず徹夜して必死に宿題を完成させました。しかし、いくら頑張っても必ず先生に不足な点を指摘されましたから、いつも悔しかったのです。その一方で、常に新しいことを教えていただきましたので、知識欲を満足させることができ、幸せを実感していました。これは、先生がおっしゃった「教えることの楽しさ」に応える「学ぶことの楽しさ」というものではないでしょうか。   先生は研究者であるだけではなく、教育者でもあります。宿題の締め切りに近づくと、先生はいつも自分のメールボックスの前をうろうろして、学生からの提出を待ち望んでいらっしゃいました。それほど学生のレポートを楽しみにしていらっしゃるのです。学生としての私は、先生の教えに報えるほどの業績はありませんが、「頭より足で勉強しなさい」という先生の言葉をずっと肝に銘じています。私は難しい理論はよく分かりませんが、「頭を回転させる本よりも資料集が役に立つ」という先生のお言葉にしたがって、いつも原典に立ち戻って、きちんと調べるようにしていたところ、確かに問題点が見えてきました。そして、見つけた問題をじっくり考え、論点を組み立てていきました。博士論文もそうして完成することができましたので、先生の授業が私の研究の原点だったといってもよいでしょう。 博士一年のときには、神野志一門に混じって大学院の演習に参加させていただきました。ゼミに出た理由は、「文字の向こうに何があるのか」などの深い問題意識によるものではなく、ただ単純に先生の授業が楽しかったのです。この授業で私は『日本書紀通証』に出会いました。本書は実証的・考証学的な立場から『日本書紀』を注釈したもので、歴史を一つの趣向として芸能化する江戸文学とは異なった性質を持っています。このような注釈書が自分の真面目な性格にしっくりくるものがあったため、私は『日本書紀通証』に夢中になり、これについて勉強したいと思いました。しかし、前から取り組んでいる課題「江戸時代における『三国志演義』の受容」はまだ終わっていません。自分の研究テーマを成し遂げないまま諦めたくなかったのです。いろいろ悩んだ末、自分の研究テーマをまず完成させようと決めました。そして、いつか『日本書紀通証』にも本格的に取り組もうと心に誓いました。博士二年のときからは、ゼミに出ないことにしました。それはもちろん、ゼミに参加し続けると自分の本業を忘れそうになるからでした。   私は十三年も駒場にいました。学生生活はあまりにも長すぎました。それは自分の無能のせいでもありますし、知識に対する貪欲さと気まぐれな性格にも関係があると思います。なかなか次へのステップに進めないことに焦りを感じていますが、決して後悔はしていません。むしろ、夢中になるほどの研究対象に出会えて、そして真剣に悩むことができた自分は幸せだと思っています。 さて、ひとりよがりはさておいて、最後に義江彰夫先生(元東大比較文学研究室の日本史の教官、現在帝京大学教授)の言葉をお借りして先生に贈りたいと思います。「優しくなった神野志先生は、冷めたコーヒーみたいに美味しくない」ので、どうかずっと熱いコーヒーでいてください。 ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんかん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、まもなく提出。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。 ------------------------------- 2010年5月26日配信
  • 2010.05.19

    エッセイ247:オリガ・ホメンコ「ウクライナ人の心を治療する女医さん」

    オリガさんの家族は皆医者なので、彼女も自然に医者になった。今や自分の病院を経営する有名な医者だ。それと同時に今まで15年以上かけて集めたイコン(聖像)を展示するために家族経営の博物館を創った。   オリガさんが子供の頃、ソ連領だったウクライナでは宗教が禁止されていたため、革命前からお爺さんがもっていたイコンは密かにタンスの後ろの壁に隠されていた。それが聖パンテレイモンのイコンである。聖パンテレイモンとは、医者が患者を治療するのを手伝う聖人である。左手に薬箱、右手にスプーンを持つ優しい顔の聖人だ。ソ連時代に子供だったオリガさんは宗教についてあまり考えたことがなかった。学校では「宗教を信じてはいけない」と言われていた。特に、春になってイースターが近づくと、先生は「学校にイースター・ケーキとイースター卵を持ってきてはいけない」と厳しく注意した。イースターがメーデーと重なったある年、オリガさんが翌日に同級生とメーデーのデモに参加するために着て行く服の準備をしている時に、お母さんは台所でイースター・ケーキを密かに作り、お婆ちゃんはイースター卵に、それとは分からないように「XB」という文字を書いていた。それは「復活したイエス・キリスト」という意味だった。それでも、その頃のオリガさんは、あまり深くは考えなかった。大人になってソ連が崩壊した時、昔のイデオロギーに代わる新しいものはでてこなかったので、初めて人々は宗教に目を向けたのだった。 大人になったオリガさんが市場を歩いていたある時、古着を売っているお店を通った。ふと見ると床の上に人間の顔の絵が置かれていることに気づいた。「これは何ですか」と聞くと、「イコンですよ。1ルーブルくれたら売りますよ」と言われた。その当時の1ルーブルは、パン1個を買えるか買えないかというくらいだった。彼女はそのイコンを買った。痛んだイコンを家に持って帰って、きれいに拭いた。宗教に詳しい知り合いに聞くと、それは子供を守って頭をよくさせる聖人の姿だった。オリガさんには3人の子供がいたが、家にそのイコンを飾ると、子供たちはなぜか落ち着くようになった。 そこでオリガさんは家にあった昔のイコンのことを思い出して、タンスの後ろの壁に隠してあったイコンをとりだして飾った。その時からイコンに興味を持ち、いろいろと調べてみたところ、このふたつのイコンは「家庭イコン」だったことがわかった。家庭イコンは教会にあるものと違って、とてもプライベートなもので、その家族のお守りにもなる。 ウクライナではキリスト教を受け入れる前にいろいろな神様を信じていた。そしてキリスト教になっても、その昔の伝統がキリスト教の中に溶け込んだ。つまり、マリア様やキリスト様には大きなお願いや悩み事がある時に祈るが、日常的なことはその家庭にある「担当」の聖人のイコンに心の中で相談していた。 その家庭の裕福さに関係なく、各家には家庭イコンがあった。ただ財布の大きさによって、有名な画家のものだったり、近所に住んでいる田舎のアマチュア画家のものだったりしたが。そしてウクライナの家ではイコンのことを「神様」と呼び、自分の「神様」を家の中の一番きれいな所に飾っていた。そして自分の「神様」が大好きだった。ウクライナの家庭イコンはロシアの暗いイメージと違って、肉体美が溢れたイメージや、優しそうなイメージのものが多かった。その点、ギリシャの伝統的なイコンとも違っていた。本来イコンには図像の規則がたくさんあるが、教会のイコンと違って、家庭イコンでは画家が比較的自由に描くことができたのだった。 昔は、日曜日になると、そのイコンを教会に持って行き、ミサの間は神父さんの後ろに、教会にあるイコンと一緒に並べていた。今はもうその習慣がない。「無神論」というソ連のイデオロギーの70年間の後、昔の家庭イコンはほとんどなくなってしまったからだ。オリガさんは今、家庭イコンがウクライナの家族の絆を強め、伝統的な高い道徳観を守るものと思い、昔の習慣をまた普及させることを望んでいる。 15年前、彼女の手元にあったイコンはたった2枚だったが、今は5000枚になっている。ほとんどのイコンはフリーマーケットで手にいれた。イコンを修復することはやめた。なぜなら、イコンについている傷は、イコンそのものだけでなく、所有していた家族、さらには国の運命を語っているからだ。ソ連の70年間、イコンの意味が分からなくて、捨てたり、傷つけたり、またお金が欲しいという理由で外国に大金で売ったりしていた人も少なくなかった。 手元にたくさんのイコンが集まってきた時、オリガさんは、やはりそれをどこかに飾って、人と触れ合わせる必要があると考えだした。だが、博物館らしくないものが良いと思った。博物館だと、ものに触ってはいけないので「触れ合いの場」にならない。オリガさんは、人々が休む椅子があり、イコンの前にろうそくを立てて祈ったり考えたりすることのできる「場所」が欲しいと思った。そして、やはり、家のものなのだから、パンの香りなどがあったら素晴らしいと思った。 イメージが固まると、そのような物件にもめぐり合った。キエフから東に90キロくらい離れたところに昔の公園に囲まれたミル(粉ひき場)の建物があった。それで家族と相談して、その建物を買った。その建物は18世紀のものだが、不思議なことにそこにはまだ「パンの香り」が残っている。今そこに、彼女のコレクションの全てを入れている。近辺の住民や観光客がよく見に来る。またクリスマスやイースターには、コレクションの一部でウクライナの町を回る巡回展を開いている。 オリガさんは医者として忙しい毎日を送りながら、相変わらず一ヶ月に一回くらいフリーマーケットに出かけて、イコンを探し続けている。ただ最近は、やはり市場にものが減っているようだ。それは外国に売り出されたのかもしれないが、もしかしたらウクライナの人々が自分の伝統に気づき家に飾りはじめたという証拠であるのかもしれない。「そうなっていると良いですね」とオリガさんは微笑みながら言う。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2010年5月19日配信
  • 2010.05.13

    エッセイ246:李 恩民「人民元切り上げ?中国都市住民の動き」

    最近、アメリカ議会やEU諸国は中国通貨・人民元の切り上げを強く要求している。中国政府の予想以上の猛反発から国際社会における人民元への関心は一気に高まった。通常、世界経済・国際貿易の視点からこの問題を考察するが、ここでは次元を変えて、人民元切り上げを予感する中国都市住民の動きを紹介したい。   1993年末、中国政府は人民元の為替レートを調整して約30%引き下げた。その結果、1米ドル(以下同じ)=5.8元の公定相場は1ドル=8.7元に統一された。その直後、人民元の対ドル相場は緩やかに上昇し、1997年から2005年までの約9年間、そのレートは基本的に1ドル=8.2元前後に維持されていた。中国が事実上の固定為替制度を取っていると言われる所以はここにある。 1993年の人民元の大規模な引き下げによって、ドルが唯一の安定した通貨であるとの認識が中国全土で広がり、都市住民、特に知識人(留学生だった筆者も含む)は出国など機会がある度に、喜んで所定の金額のドルを購入し、なるべく定期預金にしておく。ドル預金の利息は高く、政府の外貨準備もドルを主としているから、ドル預金は一番有利かつ安全だと思われたからである。 この傾向を加速したのは、1997年のアジア金融危機だ。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、韓国の通貨が相次いで暴落していく波に乗って、中国も人民元を引き下げるのではないかと国際社会は懸念した。そこで「財産の損益」を考える中国都市住民は、慌ててドル買い出しに回った。と言っても、外貨の売買が自由にできなかった当時、闇市場が横行した。各地の「中国銀行」の周辺やホテル・北京空港の周辺には、ドルを買求める人が溢れ、外国旅行客や筆者も含む留学生は買い入れを強いられるケースもあった。 しかし、中国政府は最終的に人民元の引き下げを行わず、危機のさらなる悪化に歯止めをかけた。その結果、貿易損失は大きかったが、「人民元は安定した通貨だ」とのイメージが固められ、中国人自身も人民元に自信を持つようになった。 そして国内ではドル買いの傾向は下火となり、モンゴル、ロシア、ベトナム、ミャンマー、タイ、北朝鮮など周辺諸国との国境貿易では人民元が歓迎され、言わば特定地域の非公式の国際通貨の一種になった。 2001年、輸出競争力の低下などで悩んでいた日本の政財界は、人民元が外国通貨に対して過小評価されているとし、切上げるべきだと指摘、米政府高官も同調した。2003年9月、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の財務相会合は、共同声明を発表して人民元切り上げの必要性を示唆した。その後、先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が毎回人民元を主要議題に据え、人民元の変動幅の拡大を求めた。これが国際社会による人民元切り上げ要求の第一ラウンドであった。 こうした国際的圧力を受けた中国政府は建前上、外圧に屈しなかったが、経済実力を反映したより柔軟な為替レートが望ましいとの声に耳を傾けた。2005年7月21日、中国は事前通告なく、自主的に人民元相場形成メカニズムの改革を行い、その結果、人民元対ドル相場は2%の切り上げとなった(1ドル=8.11元)。以降5年間、毎年年末の人民元は前年比2.56-6.9%の上昇率で事実上徐々に切り上がってきており、2010年4月現在は1ドル=6.81~6.83元前後で維持されている。   中国政府は外圧よる人民元の切り上げはしないと宣言している。当面、人民元の相対固定相場制は引き続き維持されていくと見られるが、民間は既に新しい動向を見せている。これまでドルを預金してきた市民が、ドルの購買力の低下を心配し、ドル立て貯金の一部を売り出して人民元に換え始めたのである。いつまでも安価な労働力と資源を消耗して作った安価な商品だけを中国のセールス・ポイントとするべきではない、との考え方も広がっているそうだ。中国が現行の為替制度を漸進的に転換し、最終的に変動相場へ移行していくのはもはや時間の問題だと、都市市民が考えていると言ってもよかろう。   ------------------------ <李恩民(リ エンミン)☆Li Enmin> 1961年中国山西省生れ。1996年南開大学で歴史学博士号取得。1999年一橋大学で博士(社会学)取得。現在は桜美林大学リベラルアーツ学群教授。専門は日中関係、現代中国社会論。著書『転換期の中国・日本と台湾』(大平正芳賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』など。 ------------------------ 2010年5月12日配信
  • 2010.05.05

    エッセイ245:エリック シッケタンツ「日本式喫茶店」

    私は日本に留学したことによって、異文化の中で暮らしはじめた。日本での生活にともなって、たくさんの新しい体験が出来た。いわゆる「異文化体験」だ。日本に来る前から、私は日本で異文化に接することをとても楽しみにしていた。来日前からすでに日本の文化について、本やテレビを通じて得た知識をたくさん持っていた。畳の上の暮らしも期待していたし、お箸で食事することもわかっていた。これらは、ドイツでよく知られている日本文化のシンボルである。だが、このような私が期待していた異文化体験に加えて、予想外の場所での異文化も私を待っていた。この予想外の場所の一つが、日本の喫茶店だ。こんな所で異文化体験ができるとは予想していなかった。つまり、日本の喫茶店はドイツの喫茶店とは異なる文化空間になっているのである。さて、ではこの「日本式喫茶店」とはどのような場所だろうか。 日本の喫茶店が提供するサービスは、ドイツと異なっている。もちろん、飲み物と軽食を売るという点では似ている。しかし、日本の喫茶店はそれ以上の機能を持っている。それに気づいたのは、上智大学に一年間留学した時だった。当時はお金があまりなく、エアコンとお風呂が付いていないアパートの部屋で暮らしていた。扇風機があったとはいえ、夏は暑い。それで、近くのドトールに行って、店のエアコンで涼みながら読書をしようと考えた。店に入ると、私と同じアパートの隣の部屋に住んでいた人も同じ発想で来ていた。なるほど、喫茶店にはこんな便利な機能があったのだ。安い部屋に住んでいた私はあの夏、大いにドトールの世話になった。確かにエアコンは喫茶店の正式なサービスではないかもしれないが、あの夏は喫茶店のエアコンのおかげで何とか生き延びることが出来た。 しかし、喫茶店をより本格的に利用することになったのは、東京大学に留学することになってからである。今のアパートの部屋はエアコンを装備してはいるけれども、部屋が狭く、一人だとなかなか集中できない。私は周りに人がいる場所で勉強することが好きだ。普段は図書館で勉強するのだが、図書館が閉まっている日もよくある。最初はたしかに、図書館が閉まっていたので仕方なく喫茶店で勉強しようと思った。ところが入ってみると、勉強目的で来ているのは僕だけではなかった。これには驚いた。ドイツではよく友達と喫茶店で待ち合わせして、コーヒーやお茶を飲みながらおしゃべりをしていたけれども、喫茶店を勉強する場所としては認識していなかった。ドイツであれば、コーヒー一杯をずるずると飲んで長時間そこにいれば、お店の人に怒られるだろう。しかし、日本では、コーヒー一杯を飲みながら、喫茶店を長時間利用してもいいということが暗黙の了解になっているようだ。多くの人々が狭い部屋に住んでいるという原因もあるのかもしれない。しかし、僕からすると、私的な空間が喫茶店に忍び込んでいるように見える。読書している人ももちろんいるし、友達と会話する人も多い。だが、それ以上に、ドイツでは考えられないのは、喫茶店が職場の延長になっていることである。私のよく行く喫茶店では、隣のテーブルでテストの採点をする学校の先生や、ノートパソコンで洋服やグラフィックのデザインの仕事をする人をよく見かける。時々、どこかの会社の会議室に間違って入ってしまったような気がすることもある。 もちろん、すべての喫茶店がそうであるというわけではない。私の近所にある喫茶店から判断すると、ある程度、喫茶店の使い分けがあるようだ。この喫茶店では主に友達同士で会ったりすることが多いのに、あの喫茶店は勉強と仕事をする場所として知られている。多くの人が仕事場として利用する近所のスターバックスのスタッフもそれを意識しているようで、「14:00時-17:00時の間は勉強と仕事をしないようにお願いします」という看板を立てて、店にとって経済的に重要な時間帯を指定している。このことから、この店が仕事場として使われている姿が伺える。 日本にある喫茶店が日本社会の一部として、その特徴を現していることは当然なのかもしれないが、こうして喫茶店によく通ってみると、日本的な社会空間に入りこんで、ドイツで馴染んでいた場所をまた新しい目で見ることができた。これも日本ですることができた重要な文化体験の一つだと思う。 ------------------------ <エリック シッケタンツ ☆ Erik Schicketanz> 1974年、ドイツ(プフォルツハイム)生まれ。2001年、ロンドン大学東洋アフリカ学院(日本学)修士。2006年、東京大学人文社会系研究科(宗教学宗教史学)修士。同年、東京大学人文社会系研究科宗教学宗教史学博士過程入学。現在、東京大学人文社会系研究科・特任研究員。趣味は、旅行と映画・音楽鑑賞。 ------------------------ 2010年5月5日配信
  • 2010.04.28

    エッセイ244:シム チュン キャット「シンガポールの新しい賭け:カジノ!カジノ!」

    国内外の富裕層の取り込みを狙ってあの清廉かつ堅物のイメージで有名なシンガポール政府がちょうど5年前にカジノをつくると宣言したときは、正直にいってシンガポール人でさえ驚かされました。それもいきなり2つも!マジで?大丈夫?などの疑問をよそに、政策を決めたら即刻実施という「効率至上」のシンガポール政府は、あれよあれよという間に入札を始め、そのすぐ後に工事を急ピッチで進めてきました。そして、計画通りに今年2010年の旧正月の元日に一軒目のカジノが始動し、もう一軒も今年の4月末にオーブンすることになりました。   もちろん、シンガポールにおいてこれまで賭け事のような産業がまったくなかったわけではありません。イギリスの「伝統」を受け継いで競馬は昔からありますし、宝くじも普通にあります。クルーズに乗れば海上カジノもありますし、橋を渡って国境を越えればマレーシアの高原リゾートにも立派な老舗カジノがあります。さらに、賭け事が好きで今は他界した僕のお祖母さんの話によると、法を犯すことを恐れなければ、ちょっと船に乗ってシンガポールの海域を出たら、違法なインドネシアのカジノ船も何隻か海上に停泊していたそうです(うちのお祖母さんはいったいどこまで賭け事をしに行ったのでしょう…)。   ただ、これまでのカジノではクルーズやリゾートに行くための時間と出費、あるいは法網をくぐってまで違法なカジノ船に乗り込む勇気が必要でしたが、国内に簡単にアクセスできるカジノをつくるとなると、話は全然違ってきます。しかも、都市国家シンガポールの国土は東京23区の面積ぐらいしかないので、二つの新しい合法カジノは本当に「ちょっとそこまで」という距離にあるわけですから、カジノ産業によって賭け事にのめり込む国民が増え、仕事放棄、家庭崩壊、犯罪助長の引き金になりやしないかという心配の声があがりました。当然、同じ心配をシンガポール政府の役人も抱えています。かといって国内外の富裕層のお金もほしいものです。さあ、あなたならどうしますか。   シンガポール政府が考え出した対策は簡単です。外国人はともかく、賭け事にのめり込む国民が増えることだけが心配の種ならば、その国民をカジノに来にくくさせればいいのです。そこで、シンガポールの国民と永住者に限り、100ドル(約7千円)のカジノ入場税が課されることになりました。カジノに入場するための税金が導入されたのは世界初だそうです。またご親切に、2000ドル(約14万円)の年間税を先払いすれば、一年間無制限に入場することもできます。ただし、二つのカジノをまたがっての相互利用はできず、カジノ別の入場税もしくは年間税が必要となります。   それだけではありません。三種類の「カジノ排除」(Casino Exclusions)措置も取られることになりました。賭博中毒を自覚しており、自らをカジノから遠ざけるための「自己排除」(Self Exclusion)、親、配偶者、兄弟、子どもなど直接の家族構成員が自分の家族をカジノに入れないための「家族排除」(Family Exclusion)と、破産申告した者や政府から生活保護を受けている者などのカジノへの立ち入りを自動的に禁止する「第三者排除」(Third-Party Exclusion)がそれにあたります。さすがはルールづくりに長けているシンガポールというところでしょうか。一軒目のカジノのオーブン早々、「大阪にカジノを」と掲げる橋本知事がさっそく視察にシンガポールへ行ったのも頷けます。   ところが、カジノがオープンした旧正月の元日にシンガポール政府の想定外の事態が起きました。なんと外国のパスポートを持ち、入場税のかからない外国人単純労働者がきれいで快適な設備と無料で提供される飲み物だけを求めに洪水のごとく世界最新のカジノに押し寄せたのです。そのうえ、カジノの清潔な床の上で昼寝する外国人労働者もいっぱいいたようで、華やかに着飾ってカジノを楽しむために来た入場者からは苦情が殺到しました。その後、またいろいろな議論が起きたのは言うまでもありません。外国人労働者にも入場税を課すべきだとか、そもそもあの立派なカジノをつくったのが工事現場で働く外国人労働者なのですから彼らも行く権利はあるとか、富裕層は歓迎するのにお金を持たない外国人なら排除するとはいったいシンガポールの社会はどこに向かっているのかとか、とにかくいろいろな意見がマスコミを賑わしたわけですが、二軒目のカジノのオープンを前に新しいルールはまだできていないようです。さあ、あなたならどうしますか。   ---------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------------   2010年4月28日配信