SGRAかわらばん

エッセイ248:梁 蘊嫻「私の研究の原点」

今年の3月に、研究室の神野志隆光先生が退官されました。この場を借りて、先生に小文を捧げます。
 
私の専門は江戸文学です。上代文学とは無縁なはずですが、不思議なご縁で私は神野志先生の教えを仰ぐ機会を得ました。そのきっかけは、実は先輩の「アドバイス」でした。東大に来たばかりのとき、研究室の事情について先輩に伺ったところ、神野志先生の授業には出ないほうがいいと念を押されました。神野志先生はとても厳しいので、一秒でも遅刻したら、受講の資格を取り消されてしまうというのです。しかし、私はそれを聞いてかえって興味がわき「よし、出てやろう」と思いました。噂の「鬼の先生」を見てみたかったのです。そこで、修士一年のときに、「日本文化論」(調べる授業)に出ることにしました。

今でも鮮明に覚えていますが、最初の授業で、私はあまりの怖さに体がずっと震えていました。先生から『国史大辞典』を渡されて、菅原道真の項目を読まされましたが、私は「みちざね」を「どうしん」と読んでしまいました。先生は「辞書をすらすら読めないと研究なんかできない」とおっしゃいました。辞書を読ませたのは、受講者のレベルを試すつもりだったのかもしれませんが、私はこのことから、文章を正確に読むことが学問の第一歩であるということを学びました。

それからの半年間は、この授業を中心に生活していたと言っても過言ではありません。毎週、宿題が出されますが、課題が発表された後、さっそく調査を始めないと作業が終わらないほど大変でした。私はとにかく毎日いろいろな図書館を歩き回って調べ、提出の前日には必ず徹夜して必死に宿題を完成させました。しかし、いくら頑張っても必ず先生に不足な点を指摘されましたから、いつも悔しかったのです。その一方で、常に新しいことを教えていただきましたので、知識欲を満足させることができ、幸せを実感していました。これは、先生がおっしゃった「教えることの楽しさ」に応える「学ぶことの楽しさ」というものではないでしょうか。
 
先生は研究者であるだけではなく、教育者でもあります。宿題の締め切りに近づくと、先生はいつも自分のメールボックスの前をうろうろして、学生からの提出を待ち望んでいらっしゃいました。それほど学生のレポートを楽しみにしていらっしゃるのです。学生としての私は、先生の教えに報えるほどの業績はありませんが、「頭より足で勉強しなさい」という先生の言葉をずっと肝に銘じています。私は難しい理論はよく分かりませんが、「頭を回転させる本よりも資料集が役に立つ」という先生のお言葉にしたがって、いつも原典に立ち戻って、きちんと調べるようにしていたところ、確かに問題点が見えてきました。そして、見つけた問題をじっくり考え、論点を組み立てていきました。博士論文もそうして完成することができましたので、先生の授業が私の研究の原点だったといってもよいでしょう。

博士一年のときには、神野志一門に混じって大学院の演習に参加させていただきました。ゼミに出た理由は、「文字の向こうに何があるのか」などの深い問題意識によるものではなく、ただ単純に先生の授業が楽しかったのです。この授業で私は『日本書紀通証』に出会いました。本書は実証的・考証学的な立場から『日本書紀』を注釈したもので、歴史を一つの趣向として芸能化する江戸文学とは異なった性質を持っています。このような注釈書が自分の真面目な性格にしっくりくるものがあったため、私は『日本書紀通証』に夢中になり、これについて勉強したいと思いました。しかし、前から取り組んでいる課題「江戸時代における『三国志演義』の受容」はまだ終わっていません。自分の研究テーマを成し遂げないまま諦めたくなかったのです。いろいろ悩んだ末、自分の研究テーマをまず完成させようと決めました。そして、いつか『日本書紀通証』にも本格的に取り組もうと心に誓いました。博士二年のときからは、ゼミに出ないことにしました。それはもちろん、ゼミに参加し続けると自分の本業を忘れそうになるからでした。
 
私は十三年も駒場にいました。学生生活はあまりにも長すぎました。それは自分の無能のせいでもありますし、知識に対する貪欲さと気まぐれな性格にも関係があると思います。なかなか次へのステップに進めないことに焦りを感じていますが、決して後悔はしていません。むしろ、夢中になるほどの研究対象に出会えて、そして真剣に悩むことができた自分は幸せだと思っています。

さて、ひとりよがりはさておいて、最後に義江彰夫先生(元東大比較文学研究室の日本史の教官、現在帝京大学教授)の言葉をお借りして先生に贈りたいと思います。「優しくなった神野志先生は、冷めたコーヒーみたいに美味しくない」ので、どうかずっと熱いコーヒーでいてください。

——————————-
<梁 蘊嫻(りょう・うんかん)☆ Liang Yunhsien>
台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、まもなく提出。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。
——————————-

2010年5月26日配信