SGRAかわらばん

  • エッセイ021:マックス・マキト 「醜いアヒルの子」

    今年のノーベル平和賞はバングラデシュの経済学者ユヌス・モハメッド氏と、彼が設立したグラミン銀行が選ばれた。グラミン銀行の中心業務は、発展途上国の貧しい人々への融資である。健全な投資プロジェクトを持っているのに、貧乏だからという理由だけで融資を受けられずプロジェクトを実現できない。(金融)市場から見捨てられていたこのような人々に、いかに融資へのアクセスを与えるかということが、グラミン銀行が知恵を絞りながら見事に克服した課題だった。このような試みは真に美しいものでござる。   実は僕が担当するSGRA「グローバル化と日本の独自性」チームの最初のフォーラムでグラミン銀行を取り上げた。このフォーラムで僕が発表したのは、「日本のODAの効率性をいかに向上させるか」という問題だった。欧米と異なって、日本のODAは円借款に偏る傾向が強い。これは贈与を重視しがちの他の先進国と正反対のやりかたである。日本側は返済義務を課すことによって披援助国に「自助努力」が生まれると説明している。たしかに「自助努力を側面から支援する」というのが日本ODAの理念である。もっと広い観点からいえばこの自助努力理念は日本独自の「共有型成長」という開発経験の原動力ともいえよう。自助努力と共有型成長を狙うグラミン銀行の融資と全く同じという意味で、日本のODAはノーベル賞をもらえるはずである。   でもこの数年間の日本の動きを見ていると、さすがの僕も疑いはじめている。なぜなら、日本は「アヒル」であると思い込んでいる影響力のある経済学者が多すぎる。彼らは世界の一流教育機関の出身で、専門知識はノーベル並みに優れていることは間違いない。ただ、彼らの専門は「アヒル」であり、当然のように日本をアヒルとみなしている。いや、より正確に言えば、彼らが受けた専門教育において馴染んでいた「アヒル」とどこか違うので、日本は「醜いアヒル」である。ある日、この「アヒル」が風邪をひいて元気がなくなったので診察してもらったら、この専門家は「体重が普通のアヒルと比べて重すぎるので厳しいダイエットすればきっと元気になる」と診断した。読者の皆さんは、この喩えの主人公がどのような鳥かお分かりと思うので、以上のような診断が逆効果しか生まないことは明らかであろう。実は日本経済の長引く低迷にも繋がったといっても過言ではないであろう。   悲劇がそこだけで終わればよかったのだが、このような誤った診断は日本システムのあらゆるところで行われた。診断書には「首が長すぎ」て「羽が白すぎる」などと書いてある。日本の場合に言い換えれば、「目立ちすぎ」て「時代遅れ」なので「抜本的な改革が必要」という。   昔、佐藤栄作元総理大臣の時、日本の「非核三原則」が認められてノーベル平和賞を受賞したことがあった。背景には広島と長崎の被爆経験と、その結果ともいえる日本の平和憲法がある。非核三原則や平和憲法も実に美しいものでござる。ところが、今の日本のリーダーたちにとっては、あの戦争の経験者の存在が薄くなっているせいか、これもだんだん見えざるものになりつつある。   経済学者にとって「美しいノーベル賞」といえば、ゲーム論でノーベル経済学賞を受賞したJ.ナッシュ教授のことを思い出す。彼の人生を参考にした「A Beautiful Mind」という映画までできた。天才であることはBeautiful Mindそのものであるかもしれない。「Mind」というのは「心」と訳してもいいと思う。あの映画から教えてもらったのだが、ナッシュ氏は、SCHIZOPRENIAという精神的な難病を抱えていたが、それを克服した。実在しないものを妄想するような心から、美しいものが生まれるわけがない。やはり、人間は心に正直になってはじめて美しくなるのであろう。   日本では「醜いアヒル」の年ばかりだ。早く「美しいハクチョウ」の年が来てほしい。   ※以上、渥美理事長、今西代表、渥美財団やSGRAの関係者や支援者のみなさんへの私の年末のご挨拶とさせていただきます。来年も宜しくお願いします。   -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------  
  • エッセイ020:葉 文昌 「台湾の通勤電車でガムと飲食が禁止されたことについて」

    昔、あるアメリカ人から「シンガポールは最も嫌いな国だ」と聞かされたことがある。「なぜなら、ガムを噛んだだけでお尻を鞭打ちされるからだ」と。なるほど、ガムを吐き捨てる行為は他人に影響を及ぼすからいけないが、噛むことは誰にも迷惑をかけないから禁止するのはあまりにも自由がない。僕は「シンガポールは街が綺麗な国」という良いイメージを持っていただけに、この外国人の言うことが新鮮な意見に映り、「さすがは自由なアメリカ人だ」と思った。   時も場所も変わって2001年、僕は自由な日本から台湾に戻ってきた。悲しいことに台北のMRT(Mass Rapid Transport 通勤電車)ではガムはおろか、飲食もいけない(「飲」からして水も含まれる)。でもここまでは一企業の規定だからいいとしよう。しかし2004年、国会で「MRTではガムと飲食をしてはならない。勧告に応じないものは1500-7500元の罰金(約5000-25000円)」と言う法律が可決されてしまった。これで電車の中でガムを噛んだり水を飲んだりすることが法律で禁止されたことになる。自由が奪われた気分だ。   可決後の2004年4月28日の新聞記事の一部を紹介しよう。「台湾MRTでは先進国を見習ってMRT内と駅での飲食、ガム、タバコ等を厳格に禁じてきた。しかし現在の法令では『吐き捨て』についてのみ罰せられるので、取締りができなかった。今回の法改正により、以上の行為をした者に対して、勧告に応じない場合罰せられるようになった」。   庶民の反応はどうだろう。同僚との議論では、全員規制に賛成だった。ネット上の意見を見てみると・・・「この規制はいい。少し我慢すればいいことだからね」、「華人の公衆道徳を顧みて、強烈賛成」、「この改革に賛成。さもなければMRTは滅茶苦茶になる」、「シンガポールのように全面禁止すればいい。処罰は同じく鞭打ち。そうすれば誰も食べなくなるだろう」。圧倒的大勢は賛成のようだ。   日本ではこのような規制についてどう思われるだろうか。おそらく僕が考えたように「そんな窮屈な!」と思うだろう。しかしよく考えてみれば冒頭の「誰にも迷惑をかけなければいい」の論理に一貫性をもたせるならば、自衛目的の銃の所持も、ポルノも、麻薬もいいことになる。これらは何れも日本では規制されている。アメリカ人から見れば、日本は窮屈な国と映るだろう。しかしアメリカもオランダ人から見れば一部窮屈だ。そしてアメリカ人も銃規制されたオランダ人を窮屈に思うだろう。こうしてしまいに揚げ足取り論議になる。世界を見渡せば、おそらく全部自由な国はない。どの国でも現状として「誰にも迷惑をかけないからいい」は通用しておらず、どこかしら規制は存在している。だから他国の規制されたものを見て「あなたの国は自由ではない」と言うのは五十歩百歩である。   規制はその社会にとって、最良であればいい。例えば、北欧諸国でポルノを解禁したところ、性犯罪の件数が顕著に減少したという事実がある。慣習や従来の価値観に頼るのではなく、それぞれの社会のその時代の発展に見合って、規制したり、開放したりすればいい。そしてたとえある国の社会で規制の度が過ぎて発展を阻むようなことがあったとしても、それは国際競争で取り残されるだけで、他国に云々言われるものではない。自国の規制に関してはあたりまえ、他国の規制に関しては「自由がない」。これでは自国の価値観の押し付けになってしまう。   こう考えれば、MRTのガムと飲食の禁止は、台湾の社会での最良の選択であって、やむを得ないが受け入れるしかない気がした。数年後の秩序ある社会の創出のため、これからはガムと水をMRT内で意図的に噛んだり飲んだりするのはやめることにしよう。   --------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう ☆ Yeh Wenchuang) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員 2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。研究や国際学会発表は自分に納得しているが、正論文の著作は怠っており、気にはしてはいないが昇進が遅れている。 -  --------------------------
  • エッセイ019:張 紹敏 「バー・ハーバー:リラックスできる町」

    <北東アメリカから(その2)>   8月初め、共同研究のために、メーン州のバー・ハーバーにあるジャクソン実験室を5年ぶりに訪ねた。ちょうど夏休みだったので、娘と二人で行くことにした。私が住むニュー・ヘブンからは、北へ車で8時間かかる。前回3歳だった娘はほとんど寝ていたから、今回は毛布とクッションも車にいれた。しかし、道中、娘は合唱団で覚えた歌をずっと歌っていて、退屈する暇もなくメーン州に入った。日曜日だったが、ジャクソン実験室の研究員である友人のボウさんに電話したところ、バー・ハーバーの手前の港町ラックランドで釣りをしているという。日本に行って間もないころ、よく釣りにいったことがあるのだが、この十数年はほとんどしていない。久しぶりに、夕暮れ時まで一緒に釣りを楽しんだ。娘も生まれて初めてスズキを釣った。   バー・ハーバーは、アカディア国立公園に含まれるマウント・デザート島の中の、最も大きな町である。夏場のバー・ハーバーは実に魅力的だ。大きなロブスターの看板のかかったレストラン、さまざまな工芸品の店、ショッピングを楽しむ歓光客、白い帆船やクルーザーが停泊する港の前の芝生の広場には、のんびり休日を楽しむカップル達。ギャラリーもレストランも地元の素朴さがいっぱいだ。バー・ハーバーから海岸沿いに遊歩道があり、国立公園の素晴らしい景色を満喫しながら探索することができる。良く整備されたキャデラック山の上に足を伸ばせば、澄んだ湖、青い原生林、岩の海岸、そして際限なく広がる大西洋が見渡せる。   冬は長くて寒いので、夏場の季節だけここに暮らす人もいる。5年前にジャクソン実験室の研究会に出席した時には、この港の近くのアパートを2週間借りた。オーナーは国際線のスチュワーデスで、冬になると南の地方にある家に住みながらアジアへ行くフライトで勤務しているが、夏になるとバー・ハーバーに戻ってきて、楽しみながらギャラリーを経営しているということだった。   バー・ハーバーはアメリカ本土で最も東に位置するので、日が昇るのは早い。私の仕事も早めに始めた。ジャクソン実験室は、マウスの遺伝子解析やヒト疾患の動物モデルの研究で、世界的に有数の高レベルの研究所である。日本も含む世界各地から研究者がここに集まり、研究成果である疾患モデルを世界各地へ発送している。数年前、ジャクソン実験室の動物舎が火事になったことがあったが、世界中から支援を受けて再建された。静岡県にいる私の親友も寄付したと言っていた。このすばらしい自然環境の中で一流の研究が生まれるのだ。リラックスできることが、良い研究を生むための基本かもしれない。研究データ捏造は、最近に限らず、日本、韓国、中国、アメリカなど世界各地で発覚している。科学研究の本筋から外れてしまったのだ。研究者が研究を職業として生きているのが現実としても、競争原理の導入は科学研究に相応しくないのではないか。   2日間はあっという間にすぎた。この間はボウさんの奥さんにベビーシッターをしてもらい、娘も近所の6歳の女の子と友達になった。この島で働く中国人は、5年前には4―5人だったが、今や30-40人のコミュニティーになっている。娘とその女の子を一緒に抱きしめて、「さよなら、来年また来るよ」と言った。大変忙しい2日間で、一度もバー・ハーバーの町に行けなかったので、帰り道にちょっと寄ってみた。5年前に住んでいたアパートの隣のギャラリーに入ったら、オーナーの彼女が居て、「あなたは5年前ここに来た女の子ですか?」「お母さん元気ですか?」と、5年前に母親も一緒に来たことをまだ覚えていた。今は季節による生活をやめ、家族と一緒にバー・ハーバーで通年暮らしているということだった。   ------------------------------------------------- 張 紹敏(チャン・シャオミン Zhang Shaomin) 中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。現在は米国エール大学医学部眼科研究員。間もなくペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年に1回程度。 -------------------------------------------------  
  • エッセイ018:ボルジギン・フスレ 「ウランバートルの宴会」

    8月にウランバートルで行われた国際モンゴル学会(IAMS)主催の第9回国際モンゴル学者シンポジウムの開会式に出席したモンゴル国のナンバリン・エンフバヤル(Nambaryn Enkhbayar)大統領は、自分の別荘で盛大な歓迎宴会を開いて、参加者全員を招待した。宴会は3時間以上つづき、大統領は、参加者の要求に応じて、一人ずつ握手し記念写真をとらせた。これまで、数回、国際シンポジウムに参加したことがあるが、一国の最高指導者が開会式に出席し、歓迎宴会を開き、そして一緒に記念写真をとるのを許したのは、私にとっては、初めてのことだった。これは、モンゴル国がこのシンポジウムを、どれほど重視しているのかを示していると同時に、大統領の親切さも切実に感じられた。   大会2日目の夜は、アメリカ在モンゴル大使館とアメリカモンゴル研究センターが、シンポジウムの参加者全員を歓迎する宴会を共催した。宴会の前、一部の研究者はわざわざホテルにもどって、よそゆきの服に着替えた。宴会場に行くバスの中で隣に座った中国のエリート大学のC教授が、スーツを着てネクタイもちゃんとしめているので、「暑くありませんか?」と聞いてみた。彼は、「アメリカ大使館の招待なので、きちんとしないと」と真面目に答えた。私はTシャツを着ていたので、自分の服装は失礼なのではと少し心配した。   宴会場に着いて30分ほど待った後、やっと会場に案内された。立食の宴会が始まった。私は、まず飲み物をもらう列に並んだ。自分の前に並んだ人は10数人しかいなかったにもかかわらず、たくさんの人が割り込んできたため、結局、ビールを手にしたのは30分後のことだった。ビールをもって、料理のテーブルへ行ってみたら、そこには食べ残しのお皿しか残っていなかった。「テーブルの前に立って待てば、料理はちゃんと来るよ」と隣の人が教えてくれた。話している間に、ピザやフライドチキンなどの料理が運ばれてきた。しかし、紙皿も全部使用済みだったので、私は他の人を真似て、手元のフォークでチキンを刺して、少し空いているところに行って食べようと思った。そこへ、日本人のO教授が来て、「フスレ君、まだ帰らないのか?」と聞いてきた。彼はちょうど帰るところだった。「えー、まだ“始まったばかり”ではないですか」と私は答えたが、「日本人の研究者はもういないよ」と彼は教えてくれた。会場を見渡してみたら、来場した日本人の研究者のほとんどは、すでに姿を消していた。   ちょうどその時、内モンゴル大学のオラスガル教授が招待してくれたので、O教授の案内で、わたしたち3人は、スフバートル広場のそばにある日本人経営の居酒屋に行った。小さな居酒屋だったが、小泉首相(当時)のモンゴル訪問を報道する日本人の記者がたくさんいたので満員だった。店長はなんとかして、私たち3人も入れてくれた。料理は確かに本当の日本料理なので結構人気があるようだった。店内も日本の雰囲気だったが、入り口の左側にはレーニン像、右側にはスターリン像が並べられており、わたしたちの席のとなりの本棚には毛沢東の像が置かれていた。食事をしながら、さきほどの宴会が話題になった。私は「よそゆきじゃなくて、Tシャツのままで、あのアメリカ的なユーモアを経験したのは幸いだった」と言った。   3日目の晩餐は、主催者(IAMS)側の招待だった。宴会場で、ヘルシンキ大学のA氏が、「今日は、日本大使館が日本の研究者を招待することになっているではないですか」と不思議そうに言った。確かに当日まで、日本大使館の人が来て、招待状を配っていた。招待されたのは、日本人の出席者のみだった。アメリカ人のやりかたと比べて、日本人のやりかたははるかに賢い。20数ヵ国400人以上の出席者を招待するより、数十人の日本人の研究者のみを招待する方がだいぶ節約できる。 「知っているけど、招待されたのは日本人の研究者だけだよ」と私は答えた。 「あなたは日本の研究者ではないのか」と彼はまた聞いた。 「内モンゴルから日本に行った者なので、日本人の研究者とはやはり違う」。 「でも、あなたは日本の大学で働いているのではないか」と彼はとことん尋ねてきた。 「まあ、内モンゴル人なので、日本国籍ではないし、日本の大学で働いているとはいえ、私個人は非常勤なので、招待されるわけはないよ」。 わたしの答を聞いても、彼は首を振ってなかなか納得できなかったようだった。   その時、2年前の夏に中国で行われたある国際シンポジウムのことを思い出した。私を含めた数人の日本から来た内モンゴル出身の研究者は、受付で、200ドルの参加費を請求されたのだ。中国国内の研究者ならこの金額の約3分の1だった。私たちは、主催側の責任者の一人に「なぜ私たちを外国研究者として扱うのですか」と聞いてみた。 「あなたたちは、日本から来たのだから、200ドルを払うのは当然だ」と彼は言った。 「私たちは中国から日本に行った者で、国籍も中国なのに」と言ったら、相手は、 「でも、あなたたちは、現在日本で生活し、日本の大学で働き、給料をもらい、日本の大学を代表しているではないか」と答えた。日本大学の非常勤講師B氏が大変怒って、 「私たちは日本でのシンポジウムに参加するとき、いつも外国人として扱われている。自分の国に戻ってきても、外国人として扱われる。私たちはいったいどこの国の者なんだ」と言った。口論は続いたが、結局、私たちは、日本の研究者として、200ドルの会議費を支払わざるを得なかった。   ウランバートルの宴会の話に戻ろう。閉会の日、シンポジウムに出席した研究者のリストがくばられた。シンポジウムに参加した内モンゴル出身で、日本の大学で働いている人の名前は、すべて中国の研究者リストに並んでいた。数年前、内モンゴルからイギリスに行き、ケンブリッジ大学で博士号を取得し、現在アメリカのニューヨーク市立大学ハンター・カレッジ準教授のE.B氏の名前も中国研究者のリストに入っていた。実は、アメリカ国籍になっている彼は、現在、中国のビザを申請するのも困難だという。彼は日本にも数回来たことがあり、日本では、内モンゴル出身のアメリカ人研究者として知られている。閉会式後の宴会は、モンゴル国の女優と結婚したドイツ人の企業家がつくったホテルでおこなわれた。私はE.B氏に、「あなたは、まだ中国の研究者になっていますよ」と、そのリストについて話した。 「そうか、祖国はまだ私を忘れていないのか」と、彼は大いに笑った。   ------------------------ ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel) 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。  ------------------------
  • エッセイ017:今西淳子 「続・バシコルトスタン共和国訪問記」

    「民族友好パレス」の建設現場を見学しました。リシャットさんは、この地域のランドスケープ・デザインのコンペで優勝し、その中に含まれている民族友好パレスの施工がさっそく始まっているわけです。工事が急ピッチで進んでいるのは、2007年の秋、ロシア中の共和国の首脳が集まる大会議がここで行われる予定だからです。プーチン大統領も来るのだそうです。   現場について最初にびっくりしたのは、建設現場管理方法の違いでした。日本の建設現場は、まわりが塀で囲まれ、入り口には数人の警備の人が立っていて、人や車の出入りを管理しています。勿論、リシャットさんと一緒だったので、誰にもとがめられることなくどんどん現場にはいれましたが、もしかしたら誰でも入れてしまうかも・・・・既に巨大な建物のコンクリートの床と壁はできていました。友好パレスのエントランスからショッピング街になる部分の屋根の上に行きましたが、とにかく広い。高台の建設現場から川岸までの広大な斜面にあった広葉樹は全て伐採され、一部は針葉樹を、一部は芝生を植えていました。おそらく、ランドスケープの工事は、短い夏の間に全部しなければならないのでしょう。現場のすぐ横に、労働者用の簡易宿 舎がありました。リシャットさんが、「この人たちは、北朝鮮から来ているんですよ」と説明してくれました。   その後、リシャットさんが設計した競馬場の工事現場を見に行きました。こちらはもうほぼ出来上がっていました。リシャットさんの設計事務所では、空港のターミナルも設計中だそうです。これだけのプロジェクトをしているのですから、リシャットさんは、今や「時の人」で、雑誌(?)に特集されていたりしていました。   奥様のさえこさんと生後7ヶ月のけんちゃんと一緒にランチをしました。奥様は東京で編集のお仕事をしていますが、現在産休中なので当地に来ています。なにしろコンペに当たってから全てが想定外になっており、今後のことは未定のようでした。ウファに来ても、リシャットさんは忙しすぎるから、義理のご両親と一緒にサナトリウム(保養地)に行ってきたそうです。山やステップ地方の澄んだ空気と、多様な効能成分と特質を有する鉱泉や治療用泥土はバシコルトスタンをロシアでも指折りの保養地にしているそうです。「けんちゃんは、何語で育てるんですか」と聞くと、お二人とも迷わず、お母さんは「日本語」、お父さんは「バシキール語」。その時になって、はじめて、バシコルトスタン共和国では、標識などはロシア語とバシキール語の ふたつの言語で併記されていることを知りました。どちらも英語のアルファベットではないので、私には区別さえつかないわけです。けんちゃんは、日本語とバシキール語とロシア語と多分英語の最低4ヶ国語はマスターしなければならないということでしょう。リシャットさんの中に、不思議にもバランスよく共存している、バシキール人とロシア人のアイデンティティーは、けんちゃんにはどう伝わっていくのでしょうか。   午後7時をすぎてからウファの町を観光しました。とても高い塔のあるモスクに行きました。バシコルトスタンは、イスラーム教の国で、モスクがいくつかありますが、毎日のお祈りに集まるという習慣があるのはごく一部の(お年よりの?)人たちだけのようです。昨晩、一緒に田舎に行った旅行会社社長のグリニサさんが、乾杯しながら「私たちはモスリムですけど、何でも食べるし、お酒も飲むの」と、ちょっと恥ずかしそうに教えてくれました。スカーフをかぶっている女性も殆ど見かけません。宗教の戒律が非常にゆるやかに守られているわけです。最後に、川をわたって、反対側からウファの町を眺めました。ウファは3方を川に囲まれた高台の上にある町で、そ の北側の3分の1くらいは、巨大な石油関係の工場関連施設であることが一望できました。ウィキペディア(インターネット上の百科事典)によると、バシコルトスタン共和国の経済はもっぱら石油工業に依存しており、産業の大部分は私有化され、大統領の親族に支配されているということですから、今後、ウクライナをはじめ旧ソ連から分かれたいくつかの国々が経験した民主革命のようなことが起こりうるのでしょうか。   バシキール語で「ありがとう」は「ラフマット」と言うと聞きた時、思わず「ウィグルと同じじゃない」と叫んでしまいました。今年の5月に、中国新疆ウィグル自治区のウルムチに、SGRA会員のアブリズさんを訪ねて行った時、恥ずかしながら唯一覚えたウィグル語だったのです。両者ともトルコからの影響を受けているわけですが、私から見ると、リシャットさんとアブリズさんは対照的です。今まで、むしろ大国の中で主流の民族と文化に抵抗している少数民族の方々に接することの方が多かったので、リシャットさんの中にバシキール人としての誇りと、ロシア人としての誇りが同時に存在していることや、バシコルトスタン共和国がロシア連邦と上手く関係を保っていることの方が、むしろ変わっていることのように感じられます。同じロシアでも、チェチェン共和国のように、ロシア連邦からの独立派が弾圧され、さらにテロリストが入り込んで、めちゃくちゃになってしまっているところもあるのです。中央アジアの政治的、宗教的、民族的な複雑さを垣間見た気がしました。   もし可能であれば、リシャットさんの「民族友好パレス」が完成したら、またウファに行ってみたいと思います。でも、今度はモスクワ経由ではなく、ウズベキスタンのタシケント経由で行こうかと思っています。勿論そうしたところで、空港で8時間つぶさなくてもいいという保証はありませんが。   ★バシコルトスタン旅行中の写真は、下記URLからご欄いただけます。 http://www.aisf.or.jp/photos/index.php?spgmGal=Russia%20August%202006   ★ウルムチを含む私の「ゴールデンウィークの中国旅行記」は、下記URLからご覧いただけます。 http://www.aisf.or.jp/aisf_private/aisfnews-j.htm   --------------------------- 今西淳子(いまにし・じゅんこ) 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育を促進する青少年交流事業を行うグローバル組織、CISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなくアジア太平洋地域や国際でも活動中。 -----------------------  
  • エッセイ015:シルヴァーナ・デマイオ「チルクムヴェスヴィアーナで『東京タワー』」

    麻薬中毒者などのおかげで、イタリアでも悪名の高いチルクムヴェスヴィアーナ(ヴェスーヴィオ火山周遊鉄道)は、ナポリ市から南へ走り、西暦79年にヴェスーヴィオ火山の大噴火で地中に埋没した古代都市ポンペイも通っていく。東京のラッシュアワーの電車に負けないぐらい込み合っており、朝早くから大声でしゃべる人が大勢いるし、新聞、雑誌、書籍を読んでいる人も少なくない。私は、この秋、この通勤電車の中で、友人にもらった『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の読書を楽しんだ。読み終えたら、日本で2006年本屋大賞受賞作品になった理由が良くわかった。この本には、年齢に関係なく、だれもが求めている価値観がよく描写されている。更にまた、東京での慌ただしい日常生活にもかかわらず、その価値観を大切にしながら、日々を過ごして行く様子が上手く書かれている。それを読んで、とても感動した。   主人公が描写している両親との関係、両親に対する気持ちはイタリア人と全く同じで、「この本こそイタリア人にも読んでもらいたい」と毎日のように考えていた。言うまでもないことだが、日本とイタリアは、文化が違う。それぞれの国に蓄積してきた文化によって、それぞれの国の社会が発展してきた。しかし、異なる文化について話すとき、あるいは、異なる文化を紹介するとき、その文化の「珍しいこと」「違うこと」しか紹介しない傾向があるではないかと思う。異文化を紹介されながらも、自分の文化とその文化との共通点を発見することを期待している人も少なくないと思う。   最近日本を訪れたのは、今年の8月のことだ。『東京タワー』を読む前だったが、「東京はますます活気ある街になり、二、三年前と比べたら、大分変わってきた」と思いつつ街を歩いた。以前から、東京は活気のある街だと思っていた。しかし、振り返ってみると、例えば10年前、15年前の「活気」は現在と違って、「ソフトの活気」ではなく、「ハードの活気」だけだったのではないかと思う。なんとなく感じていたことであったが、「東京フレンズ」という面白い映画を見たら確認できた。家業手伝いの地方在住のごく普通の女の子が一気奮発して上京し、アルバイト先の居酒屋「夢の蔵」で新しい友達と出会う。夢なんて見つからないと思っていた皆が、夢を見つけていく様子を描いた作品だが、東京の下北沢を舞台にした、最近の東京の若者たちの様子が非常に上手く描かれていた。   「人間の能力は、まだ果てしない可能性を残しているのだという。しかし、その個々の能力を半分でも使えている者はいないらしい。それぞれが自分の能力、可能性を試そうと、家から外に踏み出し、世に問い、彷徨(さまよ)う。その駆け出しの勢いも才能。弓から引き放たれたばかりの矢のように、多少はまっすぐ飛ぶものだから、それなりの成果は生んでしまう。全能力の一、二パーセントを弾きだしただけでも、少しは様になってくる。」という文章を『東京タワー』で見つけ、日本人の若者の日常生活は表面的に大分変わってきているかもしれないが、根元は、しっかりし続けていると思った。   「東京の街は原色が溢れていると言われるが、本当は、すべての色が濁っている。チューブから出した彩やかな絵の具で描ける部分はどこにもない。風景も考え方もすべて、パレットの上で油とグレーに混ぜられて、何色とも呼べなくなった色をしているのだ。」ということも書いてある。   それは「オ・ソレ・ミオ」の国でも同様だ。 他の国はどうだろう。   ★『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』のあらすじは、下記公式サイトをご覧ください。 http://www.tokyotower-movie.jp/story/index.html     ---------------------- シルヴァーナ・デマイオ(Silvana De Maio) ナポリ東洋大学卒、東京工業大学より修士号と博士号を取得。1999年?2002年レッチェ大学外国語・外国文学部非常勤講師。2002 年よりナポリ大学オリエンターレ政治学部研究員。現在に至る。主な著作に、「1870年代のイタリアと日本の交流におけるフェ・ドスティアーニ伯爵の役割」(『岩倉使節団の再発見』米欧回覧の会編 思文閣出版 2003)。 ----------------------  
  • エッセイ014:金 香海 「北朝鮮の核実験の衝撃」

    前回のエッセイに、北朝鮮の羅津市に行くと書いた。しかし、ソウルから延吉市(延辺朝鮮族自治州の首府)に帰ってまもなく、10月9日に北朝鮮が地下核実験を行ったため、この計画は実行できなくなった。私の勤める延辺大学でも、延吉市内でも、北朝鮮の核実験の話でもちきりだ。それもそうだ。延吉市は今回の核実験の場所からわずか300キロしか離れておらず、中国国内の都市では一番近い距離にある。だから、北朝鮮核実験の衝撃は何処よりも大きい。   北朝鮮が核実験を発表してから二日後に授業に出ると、学生達が不安げな表情で「先生、北朝鮮が核実験をしましたが、放射性物質がここまで飛んで来るんじゃないですか?」と質問する。私は「今、確認中だけど、大丈夫だから安心して勉強しなさい」と学生たちを慰めた。学校当局も「内緊外松(国内に対しては宣伝教育をしっかりして学生を安心させ、対外的には平穏な姿勢をとる)」の方針を打ち出し、われわれ教師に対して、とりあえず学生を安心させるよう要求している。   中国の他の地域にいる友人からは「北朝鮮が中国の辺境地域を爆撃したという情報があるが本当か」という電話が掛かってきた。そして、海外から研究チームや通信社がこの小さな町に殺到し、中朝辺境地域の現状把握に忙しい。外国マスコミの報道のおかげで、辺境の町延吉は一挙に国際舞台で脚光を浴びるようになった。   当地の闇金融市場は北朝鮮の核実験に一番敏感に反応した。延吉市から韓国に出稼ぎにいく人が多いからだ。彼らは韓国で稼ぎ、韓国ウォンを持ち帰り、闇市場で中国の人民元に換える。しかし、北朝鮮の核実験直後に韓国ウォンが暴落したので、がっかりした人がたくさんいる。また延吉市は「西市場」という大きな日常生活品のマーケットがあるが、ここには北朝鮮の商品を販売するコナーがある。商人達の話を聞いてみると、最近は北朝鮮からの仕入れが減っているという。   現在、延辺自治州は北朝鮮との国境地域に5つの税関を設けており、中朝貿易全体の20%がこれらの税関を通じて行われている。先日、そのひとつである図門税関(対岸は北朝鮮の南陽)に行ってみたところ、表面はいつもと変わらない平穏さを保っているものの、国境の橋を通る車両と人の数が前より著しく減っていた。貨物検査について税関関係者に聞いたら、普通通りで特別の検査はしていないという。   中国の対北朝鮮政策は、2004年から大きな変化が見られた。その一つとして、従来のただの援助政策から利益志向の開発政策に重点をおいたことが挙げられる。中朝貿易は2005年には15億ドルまで膨らみ、北朝鮮にとって中国は第一の貿易相手国となっている。それと同時に、中国は北朝鮮の資源、社会インフラ及び物流への大規模な投資を行っている。2005年9月には延辺の琿春市が北朝鮮の羅津港の50年間の使用権を獲得し、この地域の総合開発に参入する計画である。延辺と北朝鮮の経済関係はますます緊密になっている真っ最中に、今回の核実験が起きたのだ。中国の対応はジレンマに陥り、政策の選択幅はますます狭くなっている。延辺の対外開放事業も曇りがちである。   その故、中国外交部スポークスマンは、今回の国連の対北朝鮮制裁決議の実行に対して、「中国はこの決議をしっかり実行していくものの、正常な貿易を通じての対朝鮮援助は制裁の内容に含まれていない」と発言したのである。   ------------------------------------------- 金香海(きん・こうかい ☆ Jin Xianghai) 中国東北師範大学学部、大学院を卒業後、延辺大学政治学部専任講師に赴任、1995年来日。上智大学国際問題研究所の研究員を経て、1996年に中央大学大学院法学研究科に入学、2002年に政治学博士号を取得。現在は延辺大学人文社会学院政治学専攻助教授。2005.9-06.8ソウル大学国際問題研究所客員研究員。専攻は国際政治学。北東アジア共同体―平和手段よる紛争の転換について研究中。 -------------------------------------------  
  • エッセイ013:範 建亭 「続・上海の住宅事情」

    前回は私の住まい状況などを話したが、今回はその続きであり、別の角度から上海の住宅事情の一面を紹介したい。   1970年代末から始まった改革開放によって、中国の住宅制度も激変した。すなわち、従来の、国による一元的住宅建設投資体系を、住宅投資の一部を個人に負担させるような体制に変え、併せて都市部では個人の持ち家制度を奨励し、土地使用権付きの公有住宅、商品住宅が販売されるようになった。これは、経済発展の一環として不動産産業を重視するとともに、住宅不足や建設財政難などの問題の解決をも目指し、さらに公平な住宅供給体制の確立を目的としたものである。こうして、かつて配分されていた住宅は商品化され、都会を中心に不動産開発が急速に進められている。   だが、上海のような大都会の住宅価格は、近年、経済成長を上回るスピードで上昇し、市民の消費水準からかけ離れたものとなっている。一般市民にとって、住宅は一生で最大の買い物であるが、実際に暮らしていると、周りの環境に悩まされることは少なくない。その一つは内装工事の騒音である。   中国で販売されている住宅はほとんど内装なしのものである。せっかく大金を出して手に入れたものだから、購入者各自が自分で業者を選び、自分の好み通りの内装工事を施すことが一般的だ。そうすると、新築のマンションの場合、最初の半年か一年の間にあちこち内装工事を行っているので、うるさくてほとんど住めない状況である。   そして、もし全棟の部屋が一気に内装を済ませないと、その後も、時々その内装工事の騒音に悩まされる。私が今住んでいる部屋の上下の住戸は、内装なしの状態で他人に賃貸しているから、いずれか内装工事が行われる。その場合は工事が最低一ヶ月以上に及ぶから、いつも自宅で仕事をしている私にとって、とても耐え難い日々になる。   だが、頭が痛くなるようなことは騒音だけではない。ごみの処理、ビルの清掃、エレベータの運営、車や自転車の駐車、公共施設の利用といった日常管理に関するトラブルがよく起きる。それらの問題はどこでもよくあることであるが、最近、思いがけないような問題も出ている。不動産価格の急上昇が住宅の供給構造に影響を与えた結果、一般住宅が大きく不足しているのに対して、高級大型住宅では空き部屋が目立つようになっている。こうした住宅市場の歪を背景に、上海では「群租(グループ賃貸)」という現象が一つの社会問題として話題になっている。   「群租」とは、マンションのような普通の住宅を改造して、多くのお互いに知らない人に賃貸することである。大家さんが自らそういうことを行うこともあるが、一次借主が借りたものを再び他人に貸し出すことが多いようである。いずれにしろ、通常では一つの家庭が住むような住宅が旅館に変身してしまい、そこに十数人、ひどい場合は数十人が住むことになる。二段ベッドが並んでいる同じ部屋に、顔見知らずの人が住んでいるから、トラブルが絶えない。また、地方からの短期滞在者が多いので、出入りが激しい。静かな住宅地が突然「賑やか」となれば、そこに住む地元の住民たちの不安と不満が募るばかりである。   せっかく大金を出して購入したマンションなのに、突然隣の部屋が旅館になったら、誰でも黙っていられないだろう。トラブルがますますエスカレートする一方なのである。最近、「群租」の問題はマスコミにも大きく取り上げられ、また上海市政府も関連規定を修正して積極的に対応していくと表明しているが、これは法規だけでは簡単に解決できない問題であろう。   上海市の流動人口は昨年580万人(全市総人口の約三分の一)にも達しており、その人たちにはホテルや高級マンションに住めない人が多いに違いない。また、上海で定住した外来人口には、急騰した不動産価格と賃貸価格にため息をつく人も多いに違いない。一方、最近の取引規制による不動産市場の低迷を背景に、不動産に投機した多くのマンション購入者は、それを賃貸に回し、中高級の賃貸住宅が供給過剰の状況になりつつある。大型高級マンションを中心に発生した「群租」という現象は、まさに激変する大都会の住宅問題を反映する象徴的な出来事であると言える。   -------------------------- 範建亭(はん・けんてい ☆ Fan Jianting) 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------  
  • エッセイ012:オリガ・ホメンコ 「ウクライナのイメージとチェルノブイリ:ウクライナ人は何を恐れているのか」

    今年の8月、ウィーンに住む友人が、東京に住む彼女の友人と一緒にウクライナに遊びに来ると言ってきた。丁度ひまわりが咲いてきれいなので是非それも見たいということだった。二人はウィーンで会って、オーストリア航空でキエフに到着する予定だった。しかし、その日に飛行場に迎えに行ったら、一人だけだった。「お友達はどうしたの?」と聞いたら、「ウクライナはチェルノブイリがあるでしょ。ちょうど今年20周年なので日本でいろいろ報道され、回りの人から『あんな危ないところには行かない方が良い』と言われたらしい。最後まで迷って、ウィーンまでは来たけど、キエフには行かないと決めたので、私は一人で来ました」と言うので驚いた。それから外国から見たウクライナのイメージ、特にチェルノブイリ原発事故に関わる印象について考えた。   確かにキエフから80キロしか離れてない所にチェルノブイリがある。昔も今も場所は変わらない。事故当時、そんなに近いからとても不安だった。事故の後、雨が降り、風が吹いた。あの時の風は北のベラルーシの方向に吹いていた。変な話だが、キエフは運が良かったのだ。もし、あの時の風向きが逆だったら、あの事故の影響はもっと大きかっただろう。80キロしか離れていないので、キエフの人々はいつも気になり不安を感じている。しかしながら、長い間ずっと不安になっていると、結局その状態に慣れてしまって、気にならなくなってしまうことも多い。もちろん、時々思い出して、最近の調査結果を見たりするが、20年前のように怖くはない。   キエフの人やウクライナ人にとって怖いものはたくさんある。今月の世論調査の結果によれば、今のウクライナ人が一番怖いのは仕事を失うこと。二番目は病気になること。三番目はパートナーに裏切られること。その後が政治不安で、最後の10番目がチェルノブイリ事故の影響になっている。つまり、この調査がウクライナのものとわからなければ、どこの国にも当てはめることが出来るような結果なのだ。   といっても、チェルノブイリのことが気にならないわけではない。毎年4月のあの事故の記念日が近づくと、また漏れだしたではないかといううわさが必ず流れる。もう誰を信じればいいか分からないから、何人かの友人は、放射線を計る機械を手に入れて、時々確認している。   でも多くの人たちは、厳しい経済状況で生きることに精一杯なので、昔のことを気にしていられないのかもしれない。あるいは、たくさん情報が入ってくると耳にたこができて、聞こえなくなったのかもしれない。そのことばかり聞かされるのでうんざりして、無意識のうちに聞かなくなっているのかもしれない。   だが気にしないと言っている私でも気をつけていることがある。それは国産のきのこを食べないこと。日本では贅沢のように聞こえるかもしれないが、毎年秋になるとウクライナの人はきのこ狩りに出かけ、その後いろいろなきのこ料理を作る。だが専門家によれば、放射能が一番残りやすいのは、きのこ、小麦、イチゴ、乳製品なのだ。だから、あの事故の後もう20年もたつが、きのこ狩りに出かけたことがない。それは少し寂しく思う。最近、私の回りの人々は少しずつきのこ狩りにも出かけるようになった。20年も過ぎているから「もう大丈夫」と思っているかもしれない。これもある意味で、この状況に慣れてしまったからかもしれない。   一方、最近、とても変わったキエフからの日帰りツアーも紹介されている。どこへと思いますか?もちろん、チェルノブイリへのツアーです。地元の人はあまり行かないが、外国人には大人気だそうだ。バスであの原子力発電所まで行き、バスから降りて写真を撮る。地元の人は80キロしか離れていないところに住んでいるから、慣れてしまっていると言っても、もううんざりだし、早く忘れたい。だから、あの場所が観光名所になっていくことには複雑な気持ちがある。知り合いのおじいさんに意見を聞いたら「観光に来る人に馬鹿にされている気がするから、早く止めさせてほしい」と言われた。そいう意見もあるかもしれないが、私は、出来るだけ多くの人に見てもらった方が良いと思う。二度とこのような悲劇が繰り返されないように。   オレンジ革命の時、外国のメディアが、ウクライナ=チェルノブイリと紹介したことが、たびたびあったらしい。それで私の友人の友人のように、ウクライナに来ることを怖れる人が多くなった。もちろん、チェルノブイリは相変わらずキエフから80キロくらいの距離にあるが、もう20年も過ぎたのだし、事故現場のカバーも少しずつやり直されているということなので、「大丈夫」と思いたい。チェルノブイリ以外にも、ウクライナには、綺麗なところ(16世紀のコサックのお城、博物館、オペラ・バレー劇場などなど)がありますから、是非日本からの観光客にたくさん来てほしいです。北ウクライナ産のキノコだけは、やっぱり食べない方がいいかもしれないですけど(笑)。   ------------------------------------ オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、今月より学術振興会研究員として早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。  ------------------------------------  
  • エッセイ011:マキト「環境にみる多様性の中の調和」

    SGRAの基本的な目標は「多様性の中の調和」を通じて「良き地球市民」を実現することである。僕は専門の経済学を通じてこの課題に取り組んできた。日本は欧米社会とは違う経済システムと経済発展を世界に提示してきたのだから、この多様性を維持すべきだと強調してきた。「グローバル化」は「グローバル・スタンダード化」ではないと。   SGRAフォーラムでは、経済学以外の分野においても、この「多様性のなかの調和」を考える機会があった。2003年の夏に軽井沢で開催された第12回フォーラム「環境問題と国際協力:COP3の目標は実現可能か」の時、環境においてもこの原理が重要であることを実感した。僕は、そのフォーラムで、京都議定書に対するフィリピン政府の対応について報告した。その時、サンゴ資源に関しては、オーストラリアとインドネシアとともに母国のフィリピンも、世界のトップ3に入っているという、僕にとって嬉しい発見があったのだ。海の底を綺麗に飾るだけではなく、サンゴは海洋の多様性を育む役割を担っていること、日本の主な海流は東南アジアから北に流れてくることを指摘した。日本とフィリピンの「海の関係」は思ったより深かっ た。   今年、フィリピンで開催された海洋専門家の国際的会議において、フィリピン列島は海洋の多様性の中心だと宣言された。サンゴの重要さが一層強調された。ただ、それと同時に、その会議は警鐘も鳴らした。他の東南アジア諸国に比べて、フィリピンはこの海洋資源の利用がもっとも非効率なのである。フィリピンのサンゴは、ブラジルの熱帯雨林と同じくらい環境に大切なものだから保全すべきだと政策提言が行われた。というのはブラジルの熱帯雨林と同様、フィリピンのサンゴも「経済開発」という口実で、どんどん破壊されつつあるのだ。   今、フィリピンのこの大切な資源がどのぐらいが残っているのか、不安に思うことがある。インドネシアのサンゴの半分はもう破壊されているという報告を聞いたことがある。フィリピンも同じぐらいであろうか。一回失った資源を取り戻すことができるのだろうか。   今、沖縄では珊瑚礁の再生で騒いでいる。なかでもサンゴの養殖による再生プロジェクトを世界で初めて行なっている阿嘉島にある研究所が注目を集めている。珊瑚は動物で、1年に1回だけ、赤ん坊を産む。その時期を忍耐強く待てば養殖で使える「もと」を採ることができる。サンゴの養殖技術は、資源が少ない国から資源が豊かな国への贈り物になるだろう。   今年、マキト家では大きな決断がなされた。マニラの都会の便利さを捨てて、できたら海の近くに移住する。そういえば、幼いころに海の近くに長く住んだことがあった。毎週末のように海岸に連れていってもらって真っ黒になった。だから、ある意味でこの移住は原点に戻るわけだ。多様性の中心に選ばれたフィリピンの海は、そのとき一段と僕の目に美しく見えるであろう。   ケネディー大統領は、「人の血や汗や涙には海と同じ割合の塩が含まれている。ですから、海に戻るときに、我々は原点に戻っているだけです」と、海を賞賛した。銃撃で倒れる2ヶ月前だったという。人間は海と結びついているのであり、これからもこの『水球』と呼ぶべき惑星は、聖なる生命の揺りかごであると信じている。   お勧めのウェブサイト(1と2は、URLが長いので検索してください) 1.“Philippine Environment Monitor 2005: Coastal and Marine Resource Management” 世界銀行のサイト 2.“The center of the center of marine shore fish biodiversity: the Philippine Islands” Environmental Biology of Fishesのサイト 3.阿嘉島にある研究所 http://www.amsl.or.jp/    -------------------------- マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師  --------------------------