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2025.07.03
6月下旬、日本の博士後期課程の大学院生向け主要支援制度である「次世代研究者挑戦的研究プログラム」(Support for Pioneering Research Initiated by the Next Generation、通称SPRING)のうち、生活費の支給を日本国籍者のみに限定するという文部科学省の見直し方針が、複数メディアで報じられた。文科省所管の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が2021年度より主要大学を通じて実施してきた制度で、2023年版のSPRING公式パンフレットによれば、博士課程の学生を「我が国の科学技術・イノベーションの将来の担い手」と位置づけ、「挑戦的・融合的な研究を支援し、優秀な博士人材が様々なキャリアで活躍できるように研究向上力や研究者能力の開発を促す」ことを目的としている。これまでは国籍を問わなかったが、今年3月ごろから一部の国会議員が「受給者の3割が中国籍」といった点を国会で問題視し、東京大学の大学院における留学生比率の高さなどとあわせて議論されたことを受け、文科省が見直し方針を固めたと見られる。
この方針転換に対し、大学関係者を中心に反対の声が上がった。新潟大学職員組合中央執行委員会は報道直後の6月26日付で「博士課程学生支援制度の国籍差別的見直しに断固反対します」との声明を発表し、教職員を対象に署名活動を開始した。また、有志による「JST-SPRING国籍要件反対アクション」も立ち上がり、市民を含めた署名活動がchange.org上で展開され、複数の大学教員が連帯コメントを寄せている。私自身も今年3月に大学院を修了し、複数の大学で研究員や非常勤講師を務めている立場として、今回の見直し方針に強く反対する。
このエッセイでは、これまで上がっている反対意見を四つ取り上げたい。①留学生に責任を帰属させることで、日本における博士課程学生の地位の低さという本質的な問題から目を逸らすものであること、②日本の研究力および研究環境の低下を招くこと、③文科省の方針が一貫性を欠いていること、④国籍による差別であること、の4点である。
第1に、今回の見直しは、日本の博士課程学生の社会・経済的地位の低さという本質的な課題に対する根本的な解決策を示さず、留学生に責任を転嫁することで問題の矮小化を図るものだと指摘されている。日本の大学院における留学生比率の高さは、「日本人」学生が博士課程に進学しにくい環境に起因しており、その背景には、博士課程の地位の低さがあると考えられる。日本では長らくジョブ型雇用が一般的ではなかったため、博士号取得者が専門性を活かして産業界で活躍する道は限られてきた。実際、産業界における博士号取得者の割合が諸外国に比べて著しく低いことは、文科省自身のデータからも明らかだ。
そのためか、アカデミアの外からは、大学院生が「勉強好き」「学歴ロンダリング」「働きもせず何をしているかわからない存在」と見なされがちかもしれない。しかし、実態として彼らは「研究」という名の労働に従事している。朝から晩(あるいは夜中)まで研究室や自宅にこもっての論文執筆、実験、フィールドワークなどに取り組んでいる。講義を受けることが中心の学部生とは異なり、博士後期課程の学生は、実質的には大学教員と同様に、新たな知見の創出を通じて社会に貢献する存在である。
欧米諸国では、博士課程の学生は「一人前の研究者・労働者」として認められている。欧州では博士後期課程の学生の多くがプロジェクトベースで雇用されており、給与が支払われるのが一般的だ。米国でもティーチングアシスタントやリサーチアシスタントとして生活費を得ている場合が多い。これに対し日本では、逆に授業料を支払う立場にあり、生活費や研究費は自己負担が基本である。日本学術振興会の特別研究員制度やSPRINGのような支援は拡充されつつあるが、社会的には勉学に対する奨学金としてしか理解されていない節もある。「日本人」学生が博士課程への進学をためらうのは当然の帰結とも言える。こうした根本的な課題を解決することなく、留学生比率の高さを問題視するのは、本質を見誤っていないだろうか。
第2に、留学生にとって日本の大学院進学への魅力が薄れることで、日本の研究力と研究環境が低下する可能性が指摘されている。日本の学生が博士課程になかなか進学しない状況では、留学生は日本の教育研究活動の多くを担う人材である。反対声明を発表した新潟大学職員組合中央執行委員会は声明で、留学生を「教育研究活動を維持するための生命線」と位置付けている。研究室の成果はチームの成果にもなる。人文・社会科学分野では日本に関するテーマを選ぶ留学生は少なくなく、将来は日本社会の中・長期的な利益をもたらすかもしれない。
日本国籍の学生が、日本以外の地域を研究していることもあり、国籍によって支援の対象者を選ぶことは不当である。母国に関するテーマを選ぶ学生も、母国では政治的に問題で研究できないテーマを日本で扱う場合があり、日本社会がそうした人々の研究環境として機能しているという点も指摘されている。学問の場では、多様性が多角的な知見を産み、「日本人」学生にも大きなプラスになるとも言われている。人文・社会科学では、国際比較によって日本社会の状況が浮き彫りになるケースがある。留学生の存在は日本の研究力を高めており、生活費支援から排除することは、中長期的に日本の可能性を狭める結果を招きかねない。
第3に、大学に対して「国際化」を要求してきた文科省の一貫しない姿勢も批判されている。国際化は世界の大学ランキングでも指標となるもので、文科省は「留学生30万人計画」や「スーパーグローバル大学創成支援事業」などを推進してきた。SPRING制度でも、令和7年度の公募要領で、以下のような文言が明記されている。
留学生を支援する場合は、科学技術・イノベーションを創出し、日本の国際競争力強化に貢献するなど、如何にして「我が国の科学技術・イノベーション」に貢献するか十分に説明してください。また、その際には、多様な文化的背景に基づいた価値観を学び理解し合う環境創出のために、より多様な国・地域からの受入れを進めるよう検討ください。特に、日本ASEAN友好協力50周年特別首脳会議の成果文書等に基づき、当該諸国からの受入れを積極的に図ることとしてください。(p.2~3)
このように、文科省自身も、留学生が日本社会に貢献しうる人材であることを認識しており、積極的に受け入れを図ることを推進しているともとれる文言を残している。文科省は一貫した立場を貫くべきであり、今回の方針転換に関して説明責任を果たすべきである。
最後に、今回の見直し方針は、国籍差別と批判が寄せられている。博士課程の大学院生は研究という名の労働に日々従事している。特に理系の分野では研究室という集団に属し、チームとして一つの研究課題に取り組むことが一般的だ。国籍によってある学生は経済的支援を受けられ、別の学生は受けられないとなれば、明確な差別と言わざるを得ない。
日本社会は日本国籍を有する人々だけで構成されているわけではない。国籍を基準に受給資格を区別することは、日本で生まれ育った外国籍の人々を不可視化し、制度から排除することにつながるという反対意見も上がっている。今回の見直しは日本の歴史的事情と国籍法を鑑みれば、より問題である。かつて日本は朝鮮半島や台湾出身の人々に日本国籍を付与し、敗戦後には奪った。その結果、日本に残った人々とその子孫は、国籍という基準によって社会保障の対象から外されていた歴史がある。しかも、日本は国籍法において血統主義を採用しており、日本で生まれたとしても、親が日本国籍を持っていなければ自動的に日本国籍を取得することはできない。この制度のもとでは2世、3世、4世となっても外国籍のまま育つ人が少なくない。一部には「他国でも国籍を要件とする支援制度がある」として、今回の方針を擁護する声もある。しかし、日本社会において国籍は中立的な属性ではなく、歴史的文脈と日本の国籍法を踏まえれば、国籍による区別は人種・民族的差別、すなわちレイシズムに極めて近い性質を帯びているといえる。
SPRINGを日本国籍者に限定する文科省の方針転換に対する主な意見をまとめてきた。「日本人ファースト」や反中を掲げるような排外主義的な雰囲気があるが、日本がグローバル化の中で競争力をつけていくために欠かせない高等教育の国際化について、文科省は現場の声を聴きながら丁寧に対応してほしい。私自身は日本国籍だけを有するが、大学院時代に切磋琢磨してきた中国人留学生を含む先輩や後輩に顔向けできないと感じ、筆を執った。この文章を読み、反対意見に同意してくださる方は、ぜひ、change.orgの署名活動で署名していただきたい。
博士課程の学生を国籍で差別しないでください!
― SPRING制度「日本人限定」見直し方針に反対します ―
最後に、これを読んでくださった留学生や外国籍の方には、皆さんの味方はここに確かにいるということをお伝えしたい。
<佐藤祐菜(さとう・ゆな)SATO Yuna>
神奈川県平塚市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。専門は国際社会学および人種・エスニシティ研究。2025年4月より特任研究員(日本学術振興会特別研究員PD)として東京大学社会科学研究所に所属。慶應義塾大学社会学研究科後期博士課程在学中に南オーストラリア大学とのダブルディグリー制度に参加し、2023年3月から1年間、オーストラリア・アデレードに留学。2025年3月に慶應義塾大学で博士号(社会学)を取得し、2025年5月に南オーストラリア大学からも博士号を取得。
2025年7月3日配信
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2025.06.26
3月の渥美国際交流財団研究報告会の後、みんなでお弁当を食べながら研究の話をしていた。すると、生物学を研究している後輩が、「毎日実験室で試薬をいじってばかりいるけれど、文系の研究者は普段どんなことをしているのか、まったく想像がつかない」と問いかけた。
文系の研究者がすることといえば、論文を書くことを除けば、一言で言うなら「読書」に尽きる。ただし、研究のための読書は一般的な読書とは異なる。そこには探究の志があり、一つの問い、例えば博士論文の課題を解明するために、膨大な文字の海から手掛かりを探し求める営みがある。
中国の学者・王国維は、読書には三つの境地があると述べている。研究とは、おそらくその第3の境地、「衆里尋他千百度、驀然回首、那人却在灯火闌珊處(幾度も人混みの中を探し求め、ふと振り返ると、その人はほのかな灯火の下に佇んでいた)」に通じるものだろう。千ページもの史料をめくっても、何の収穫もないことは日常茶飯事であり、たとえ三行でも有用な記録に出会えたなら、それは幸運とすら言える。だからこそ、史料との出会いには宿命めいたものを感じずにはいられない。幾千万の文字の中から、自分が求めるただ一節とめぐり逢う。それは、果てしなく流れる時のなかで、吉光片羽(きっこうへんう:わずかに残る昔の文物、優れた遺品)をすくい取る瞬間。ただその一瞬に、ただ静かに呟くのだ。「ああ、あなたはここにいたのか」と。
しかし、もし文系の研究者に「最近、通読した本はありますか?」と尋ねたら、多くの人はしばらく考え込んでしまうだろう。著者の労苦には申し訳ないがまず序文をざっと眺め、自分の研究に関係のある部分を探し出し、必要な箇所を読み終えたら、本をそっと脇に置く。そんな読み方がほとんどだ。
研究のための読書は、どこかお見合いに似ている。理想の相手を探すとき、多くの人は身長や容姿、性格、趣味といった条件を思い描く。そして、いざ実際に会ってみて、少しでも理想と違うと感じれば、あっさりと手を引いてしまう。研究者が本に向き合う姿勢も似ているのかもしれない。
研究に宿る運命の重みとは異なり、読書にはもっとロマンチックな魅力がある。それはまるで、「春色満園関不住、一枝紅杏出墻来(庭いっぱいに満ちた春の色は閉じ込められず、一枝の紅杏が垣根を越えて顔をのぞかせる)」ように、思いがけない邂逅に満ちている。
1冊の本と出会うのは、偶然の積み重ねによるものだ。誰かの薦めかもしれないし、流行に影響されたのかもしれない。ふと目にした紹介文に惹かれたのか、本のタイトルに心を奪われたのか、装丁の美しさに魅了されたのかもしれない。私が聞いた最も奇抜な本の選び方は、あるドラマのワンシーンにあった。目を閉じて古本の山に手を伸ばし、無作為に1冊を引き抜くというのだ。そうすることで、自分の興味の枠にとらわれることなく、新しい世界へと踏み出せる。偶然がもたらす出会いの妙。そこには思いもよらぬ発見と、ときめきが詰まっている。
大学時代の親友と昔からよく本の話をしていた。彼女は老舎や谷崎潤一郎、ドストエフスキー、イタロ・カルヴィーノについて語る。会社勤めの彼女はウェーバーの『職業としての学問』を読んでも、それが「研究」とは何かを深く考える必要はない。ただ純粋に本を読むことを楽しんでいる。私は、そんな彼女の読書の自由を羨ましく思う。私の想像力は、研究課題にすり減らされていく。彼女が知の海を自由に泳ぐ一方で、研究者である私は「弱水三千、只取一瓢飲(果てしなく広がる流れの中から、たった一瓢の水をすくい取る)」ことを求められる。
しかし、博士論文を書いている間、不思議なことに研究とは無関係の読書がどんどん増えていった。夜明け前の数時間、背徳的な喜びを感じながら夢中にページをめくる。食レポ動画やかわいい動物の映像を見ても、一瞬の気晴らしにすぎない。一つ見終われば次へ、また次へと無限に手が伸びる。しかし、それでは決して満たされない。いくら摂取しても、精神はまだ飢えたままだ。
研究によって得られるのは、謎を解き明かすような達成感であり、突破の瞬間だ。それは、読書がもたらす精神の滋養とは異なる。人は読書を必要とする。たとえ私たちの仕事が、日々本を読むことであったとしても。なぜだろうか。私の好きな(米)俳優、エイドリアン・ブロディが主演した映画『デタッチメント 優しい無関心』(編注:日本では未公開、DVDのみ)には、こんな言葉がある。「僕たちは残された人生のすべての時間、24時間ずっと働け、努力しろと駆り立てられ、やがて沈黙の中に消えていく。だからこそ、退屈と虚無が心に入り込むのを防ぐために、僕たちは想像力を刺激する術を学び、読書を通じて自分自身の信念を守らなければならない。僕たちは皆、この力を必要としている。あらがうために、そして純粋な精神世界を失わないために」
<張珺(ちょう・くん)ZHANG Jun>
廈門大学歴史与文化遺産学院助理教授。中国海南省海口市出身。2024年度渥美財団奨学生。2018年9月来日。2025年3月東京大学大学院人文社会系研究科を修了し博士号を取得。専門は中国近代史、特に日中貿易史に興味を持っている。
2025年6月26日配信
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2025.06.05
2017年10月に来日して6年半、24年の春に念願の博士号を取得した。この出来事は私の人生においてまさに重要な節目といえよう。ただ、「いつ目指すべき道を見出したのか」、あるいは「いかなる必然がこの学問の森へと導いたのか」と問われても、まだ霧の中を手探りでいるような心境だ。この文章を綴る機会に答えを探してみたい。
幼少期の私にとって「学び」とは、「やるべきこと」に過ぎなかった。クラスの中ではあまり目立たず、成績もごく普通だった。鮮明に覚えているのは、毎日食事の前に必ず本を読んでいたこと。当時、共働きの母は私の健康のために昼と夜のご飯を作ってくれたので、帰宅してから食事が始まるまでの時間が、私の読書の時間となった。『中国少年児童百科全書』や『十万個のなぜ』などの分厚くて重たい本を抱えながら、無心にページをめくっていた記憶がある。当時の私は「本が好きな子供」と周りから言われて育ったが、まだ「知の悦び」は知らなかった。高校時代、友人たちが将来の夢を語り合う輪の中で、いつも奇妙な疎外感にさいなまれた。学部への進学も、「就職に有利」や「大学の所在地に親戚がいる」という周りからの助言に従ったに過ぎない。
転機は大学院受験で現れた。専攻変更を決断した時には、自分でも明確な動機を説明できなかった。しかし、受験勉強に費やした1年半の毎日5~7時間に及ぶ読書は、泉を求めて乾いた砂漠をさまようかのような飢餓感を伴っていた。知識を摂取する快楽は、草原を吹き渡る風のように私の精神をどこまでも駆け巡った。
振り返れば、この時期は「学問」の本質を捉えていなかったと言わざるを得ない。様々な思想体系を無秩序にのみ込む海綿のような状態で、確かに知的興奮に満ちていたが、単なる情報収集の段階を脱し得ていなかった。真の学問の営みが始まったのは大学院へ進学してからのことだ。
修士から博士課程にかけて、私は徐々に知の吸収者から生産者へと変わり、学問の扉を開けたかのような感覚を覚えるようになった。ある研究課題の終着点に近づいたと思いきや、新たな課題がやってくる。山頂に立つたびに、さらにより高く遠い風景が広がっていることに気付く。この繰り返しが、学問への畏敬の念を幾度となく私の胸によみがえらせてきた。ある頂上にたどり着いた時に振り返ると、道程に潜んでいた数々の危険や過ちが鮮やかに浮かび上がる。これらの誤謬を認識することが、再び山頂を目指す際の迂回路を照らす灯火となる。この気付きは、己の執着心を静かに手放すことを余儀なくさせた。研究にも生活にも、慎重かつ緻密な姿勢で臨まねばならない。思考の襞を絶えず研ぎ澄ますことで、不毛な混乱を避けながら歩みを進めていきたい。
<馬歌陽(ま・かよう)MA Geyang>
中国新疆ウイグル自治区烏魯木斉市出身。2023年度渥美国際交流財団奨学生。早稲田大学文学研究科美術史学コース博士課程を経て、博士号を取得。現在中国復旦大学文史研究院PD。専門は仏教美術史。
2025年6月5日配信
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2025.05.26
2025年3月28日のミャンマー大地震から2カ月。マンダレーの町は瓦礫もだいぶ撤去され、生活も徐々に日常に戻ってきました。しかしあちこちで重機が作業をしており、交通機関にも影響が残っています。構造まで被害を受けた建物は取り壊して空き地になりますが、放置されている建物もたくさんあります。大半の建物は復旧していませんが、工事中でも開店する店があります。私が経営する居酒屋「秋籾」が入る「イビススタイルホテル」は大きな被害を受けなかったのですが、内装工事に時間がかかっており、来月に営業が再開出来ることを祈っています。
毎日余震があるので、建物の2階へ上がるのが怖いと言う人がたくさんいます。ミャンマーの新学年は6月に始まるため、学校の復旧が急がれています。私立の学校や病院はともかく、公立施設は予算的なこともあってか、なかなか工事が進んでいません。被害が大きかった首都ネピィドー管区では、政府が国会議事堂などの復旧に注力しています。
これまでに26カ国から災害支援活動の専門家、医療関係者が訪れ、ミャンマー政府を通して寄付金も届きました。非政府組織(NGO)や民間の仲介で外国の支援団体も来て活動しています。私もこの「SGRAかわらばん」を通して支援金を頂戴し、被害者の復興のためのお手伝いをすることができました。
前回のエッセイ(SGRAかわらばん1058号、2025年4月10日)で報告したように、地震直後はまず、私が経営するホテルに滞在していた時に自宅が被災した方々に対して一緒に話したり、無料で食事を提供したりしました。次に病院やお寺などで、お弁当と飲料水を配りました。家族を亡くした方々、家を無くした方々、自分の財産が大地震で無くなり、一瞬で生活基盤を失ってしまった方々に対して、お弁当一食だけでも心を休ませる大きな力があることを感じました。実は、お弁当より「応援していますよ!」という笑顔が、皆さんに大きな力を与えることができるのです。「これから、頑張ろう」「立ち直りましょう」と気力が湧いてきたようでした。私たちも「何か力になりたい」という気持ちで一杯になりました。
SGRAの皆様のお力をお借りしながら、夜は入院中の父親の世話をしながら、支援する場所や予算内で可能な支援物資を検討しました。その結果、震源地サガイー市の1か所と決めました。支援物資は、地震1ヵ月後に必要な医療品や米、食用油、塩、卵などとソーラーランプ250家族分を調達しました。
5月5日、私は家族とボランティアと一緒に、支援物資をお届けするためにサガイー市に向かいました。事前に知り合いのボランティア団体を通じて大きな被害を受けた方々に番号が書かれたクーポン券を配布してもらっており、券を持って来た方たちに直接物資を手渡しました。予算が限られているので、多くの被災者が押し寄せたら対応できないためです。
この日はとても暑く、大汗をかきながらも笑顔で対応しました。被災者のみなさんの喜ぶ顔が忘れられません。2007年にミャンマーを襲った「ナルギス大台風」から、私は子どもたちに「必要な時には人々に自分の力を貸す」「自分でできることを支援する」と教えてきたので、今回も家族は喜んで活動を手伝ってくれました。
サガイー市は有名な観光地です。多くのお寺や僧院、老人ホームなどがあり、大きな被害を受けました。活動の翌日、ある僧院に「復興のために使ってください」と、残りの支援予算を寄付しました。今回の復興支援活動の募金にご協力してくださった一人一人の皆様への感謝は、言葉で書き尽くせません。「地球の平和を考える地球市民の行動」であると心から敬意を表します。
これからは、単なる「復旧」ではなく、災害に強い街づくりを考えた「復興」を重視しなくてはならないでしょう。民間企業は建設基準を守り、政府は監督を厳しくすることが重要になるでしょう。地震に対応できる最新の建設技術や資材なども導入しなければならないでしょう。
4カ月間入院し、今回の地震も乗り切った父が5月15日に92歳で亡くなりました。9歳の時から聞かされ続けてきた「努力」「自分に頼らなければならない」「国民に出来ることは精一杯に」という「言葉の宝」を頭と心の中に据えて、ひとりの民間人として微力ながらも、ミャンマーのために出来ることを続けていくつもりです。
活動の写真
4月10日に配信したキン・マウン・トウエさんのエッセイ
<キン・マウン・トウエ Khin Maung Htwe>
ミャンマーで「小さな日本人村」と評価されている「ホテル秋籾(AKIMOMI)」の創設者、オーナー。マンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、AKIMOMI_COMPANY_LTD.社長。「ホテル秋籾」「居酒屋秋籾」を経営。SGRA会員。
※4月10日にSGRAかわらばん1058号で配信したキン・マウン・トウエさんのエッセイで支援活動募金にご協力をお願いしたところ、16名と1団体より、目標額を超える総計417,000円のご寄付をいただきました。皆さんから寄せられた暖かいメッセージを添えて、バンコクに留学中の長女リサさんを通じて全額をキンさんにお届けしました。ご支援をありがとうございました。 SGRA代表 今西淳子
2025年5月29日配信
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2025.05.22
休日のショッピングモール、私はふとしたことで一人の子どもと出会った。クレーンゲームの前の8歳くらいの男の子。取り出し口に詰まった小さなおもちゃを見つめて困っていて泣きそうだった。「もう一回やれば出てくるよ」と声をかけると、男の子は「コインがもうない。パパとママはあっちの喫茶店で働いている」と小声で言った。私がコインを購入してあげて、おもちゃを取り出すことができた。おもちゃを受け取った男の子は「ありがとう」と笑った。その後、私は残りのコインでぬいぐるみを取ろうとしたが、何度も失敗。フラフラと他人のゲームを眺めていた男の子に再び出会った。「難しかったわ。手伝ってくれる?」その子はまるで重大な任務を受け取ったような表情で、機械選びを経てぬいぐるみを取ってくれた。「家に帰ったらスマホ見るだけだから、ここにいた方が楽しい」とつぶやいた男の子。その子の表情・言葉・行動―それらは、単なる「子どもの遊び」ではなく、社会の中で誰かと関わり、やりとりをし、自分の存在を肯定された瞬間だった。
……だが、これは日本での出来事ではない。つい最近、母国の中国での出来事だった。これが日本であれば、見知らぬ子どもに声をかけていなかったかもしれない。
日本の公園で迷子になった子どもに気づいて声をかけようとしたら、一緒にいた日本人の友人に「不審者に思われるから、遠くから見守っていればいい」と言われ、登山している時に頑張っている小さな子どもの姿に感心して名前を聞いて褒めようとすると、「変な人と思われるからやめた方がいい」と止められた。このような経験が何度もあった。以来、「異文化理解」の姿勢を取り、見知らぬ子どもに声かけしたい気持ちを抑えるようにしている。
日本では、公共空間における子どもと他者の関係性が極めて制限されているように感じられる。大人と子どもが「適切」に関われるのは家庭・学校・児童施設など、厳密な制度に囲まれた空間の中だけだ。制度の外にある公共空間では子どもと出会い、関わり、お互いにケアを交わすことは、ときに「越えてはいけない線」のように扱われているのではないか。
私が経験した出来事は、まさに「制度外ケア」の実践だった。そこには管理者も教育者も両親もいない。あるのは困っている子どもと、それに気づいた大人との自然な応答だけだった。その時子どもはケアを受けた存在だけではなく、社会の中で「制度外の大人と関係性を築く主体者」として振る舞っていた。日本ではこうした「制度外の大人と関係性を築く主体者」としての子どもが、果たして容認されるのかとの素朴な疑問を抱えるようになった。
子どもの権利という視座からも考えてみよう。私は子どもの権利に強く関心を持っており、具体的な権利と実践について研究している。子どもの権利条約では「参加する権利」が一つの柱だ。「参加する権利」に関して第12条は、子どもが自分の意見を表明し、それが尊重される権利が保障されており、第15条は子どもが他者と集まり、自由に関わることが認められている。子どもが主体として権利を行使できる場は、本当に制度の内側に限られていいのか。私はむしろ、制度の外の公共空間こそが、子どもの「参加する権利」が日常的に試される、とても重要な実践の場だと考える。
公共空間において、目の前の子どもに関心を持っている大人を潜在的な不審者と疑い、「見知らぬ子どもに声をかけること」がリスクとみなす空気が日本社会でまん延している。子どもの「参加する権利」が公共空間では行使することが難しいと考えられる。この空気の背景には、制度依存的な安心志向と人間関係の希薄化、そして「子どもは所管されたもの」という、無意識のまなざしが潜んでいるのかもしれない。少子高齢化の中の「社会全体で子どもを育てる」というスローガンのもとで、かえって制度の外にいる子どもと大人の関係性が排除される危険性がある。
「制度に所管された子ども像」を問い直す時期に来ているのではないだろうか。子どもと知らぬ他者が自然につながれる空間をもっと寛容に受けとめられる社会。子どもに声をかけるという行為がケアとなり、他者との関係性の入り口となるような社会。それこそが、子どもが本当に「社会の一員」として生きられる参加の場なのだと思う。
目の前で困っている子どもに「大丈夫?」と、素晴らしいことをしている子どもに「すごいね」と、勇気を持って声をかけられる大人でありたい。日常のまなざしの中で、子どもと共に社会を編みなおしていく、そんな子ども研究者であり続けたい。
<何星雨(か・せいう)HE Xingyu>
中国・浙江省杭州市出身、2015年7月に来日。2023年度渥美財団奨学生。2024年3月に東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を修了し、博士号を取得。日中両国の児童虐待予防に関心を持っている。現在は子どもの権利と保育に関する研究を続けながら東京家政大学、文教大学の非常勤講師として務めている。
2025年5月22日配信
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2025.05.15
日本のメディア業界はこの1年間、前例のない激変を経験した。世論における、いわゆる「メディア不信」が表面化し、テレビ局や新聞社といった既存メディアが批判の的となった。直近では「フジテレビ問題」があり、その前には兵庫県知事選を巡って、SNS上のみならず有権者からも直接「新聞やテレビの報道は信用できない」という声が噴出した。メディアに対する攻撃は初めてではないが、今回注目すべきことは、多くのジャーナリストに対して直接的な誹謗中傷や脅迫が急速に広がった点だ。状況は憂慮すべきレベルに達している(もしくは危険水域を超えているかもしれない)。
2025年4月25日から3日間にわたって開かれた「報道実務家フォーラム2025」(会場:早稲田大学)は、それを改めて確認できる場だった。2年前、元朝日新聞記者の川崎剛さんの紹介で初めて足を運んで以来、今回が2回目の参加となった。所属に関係なく、日本の現職・元職のジャーナリストたちが集まり、取材の経験や業界の課題について語り合う数少ないフォーラムだ。恐らく私は、生まれも育ちも、さらに仕事の経験も外国という、ほぼ唯一の存在だったかもしれない。そのため、比較的一歩引いた視点で講演を聞くことができた。
今年度は、会場が重い空気に包まれているように感じた。メディア業界の明るい未来や、最新技術に関する新たな取り組みを紹介する講演もあるにはあったが、やはり最近のメディア環境の厳しさが色濃く反映され、「どうすればこの状況を打開できるか」を議論するセッションが目立った。その一つが、兵庫県知事選における「既存メディアの事実上の敗北」と「打つ手が見えない閉塞感」であり、多くの講演がこのテーマを扱った(残念ながら、フジテレビ問題を取り上げた講演はなかったため、ここでは割愛する)。
兵庫県政や斎藤元彦県知事をめぐる疑惑、県議会による辞職勧告、出直し選挙、選挙戦での既存メディアへの批判など、目まぐるしい急展開の中で、現場のジャーナリストたちは十分に対応できず、迷走を続けたという。斎藤県知事に対して激しく揺れ動く世論の行方を追いながらも、最終的には現場の有権者やSNS上の罵詈雑言、誹謗中傷にさらされ、精神的に疲弊していった。ある登壇者(新聞記者)は、会社からまともなサポートも受けられず「社内での孤立感」が極まったと証言した。選挙戦で見られた政治家の「嘘」に対する真偽検証も間に合わず、結果としてその拡散を止めることができなかった。
質疑応答の過程で頻繁に出た言葉が「メディアが負けた」だった。兵庫県政を取材する記者クラブ(記者が日常的に取材活動を行うスペース≒団体)で「会社と戦わなかった記者はいない」という。個人的に印象に残った証言は、選挙戦における「公平性への過度なこだわり」だった。片方の候補者の公約に問題があったとしても、相手側の候補者に対しても「公平に」検証を行わなければならず、結果として問題点を十分に批判的に取り上げることができなかったという。
そうした中で、既存メディアのジャーナリストたちは現場やSNSで絶えず攻撃され、精神的に極めて疲弊しているように見えた。これまで日本では、報道による被害――つまり、事件事故報道における被害者や被疑者への誹謗中傷や個人情報の漏出といった「報道される側の被害」に注目が集まってきたが、今回は「報道する側の被害」がより目立つ結果となった。
このような状況は、日本メディアだけの問題ではない。英ガーディアン紙は「世界中で報道の自由への攻撃が激化 調査結果から確認(Attacks on press freedom around the world are intensifying, index_reveals)」(2024年5月3日)という記事で、これが世界的な現象であることを指摘している。
韓国でも、2024年12月に尹錫悦が首謀したいわゆる違憲的な「内乱事態」以降、尹支持者による政権批判的なメディアやジャーナリストへの攻撃が激化した。尹氏への逮捕状を発行した裁判所では暴動事件が起き、ジャーナリストたちが直接暴力のターゲットとなった。負傷者まで出た。SNS上では、一部のジャーナリストに対する偽情報も拡散され、誹謗中傷が相次いだ。それでも、攻撃対象となったメディアは沈黙せず、批判報道(ファクトチェック報道も含む)を継続し、過度な偽情報には法的措置にも躊躇しなかった。尹氏が罷免されてからは一時期の熱狂的な支持も沈静化し、暴動事件への加担者に対する処罰も進んでいる。
韓国では、メディア支援を目的とする公共団体(韓国言論振興財団)が今年から、会員社のジャーナリストに対するメンタルケア支援事業(年間最大4万円)を開始した。自然災害や暴力事件の現場での「惨事ストレス」によるトラウマ(PTSD)解消を目的としているという。日本でも最低限、同様の支援事業は必要だろう。日本のジャーナリストたちが「敗北」からの巻き返しを図るためにも、業界全体として支える体制の構築が早急に求められている。それが、今年度の報道実務家フォーラムで痛感したことだった。
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務。2015年に来日し、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、立教大学平和コミュニティ研究機構特任研究員、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年から現職。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
2024年5月15日配信
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2025.05.01
2015年、タイのチュラロンコン大学政治学部を卒業した。卒業したての若者の情熱と根拠のない全能感に満ちていた私は、そのまま学部の先生のリサーチ・アシスタントとして1年ほど働いて大学院に進み、タイの政治を変えてやろうと息巻いていた。ところが卒業前に、先生に「あの話はなかったことになってしまった」と申し訳なさそうに言われた。合同研究プロジェクトの別のメンバーが先にアシスタントを見つけてしまっていたらしい。私の出鼻をくじいた「予定外その1」だったが、調子に乗っていた若造にはいい薬だった。少なくとも今はそう思っている。
路頭に迷っていた(というのはさすがに冗談だが)私は、大学サークルの先輩の会社に就職した。業務は保育園の日本人対応窓口と、英語塾の講師である。正直、接客や営業など完全にゼロから学ぶものであったし、ましてや幼児の相手など想像したこともなかった。ところがどうして、今の私は子供と遊ぶことが非常に楽しく、有意義なことだと感じている。最終的にはアカデミアに勝手ながら逃げ帰ってきたが、この「予定外その2」で経験したことは今の私の大事な一部であると、自信を持って言える。
「予定外その3」は、東京大学法学部・大学院法学政治学研究科の修士2年の時、突然訪れた。当時の指導教員には、「博士課程は西洋の大学か、そうでなければ(現在在籍している)早稲田大学大学院アジア太平洋研究科を考えている」と伝えていた。先生も、最初にお会いした時から「定年退職予定だから、博士課程は面倒を見られないだろう」とおっしゃっていたので、自然な流れだった。そう、これが2020年だったことを除いては。あえて言う必要もないだろうが、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が始まった年だ。
先生は、「退職後に東南アジア専門の教員が来るかもしれないから、急いで判断しなくてもいい」と言ってくれていたが、大学が閉鎖となるレベルの状況でその見通しはなくなり、他学部に移籍することになった。しかし、当時の米国や英国に渡航したかったかというと、無論ノーだ、単純に死にたくなかった。というか研究のためにタイに帰国することすらままならない状況だったのだ。今思い返しても、あの2020年はなかなかハードスケジュールだった。進学書類の準備をし、そのために家からTOEFLを受け、論文のためにアジア経済研究所の図書館に通いつめ…。正直もう体験したくはない「予定外その3」だ。
最新の「予定外」は、渥美国際交流財団の奨学生になったことに関係している。博士課程を3年で終えられるとは最初から思ってはいなかったが、実際に投稿論文が通らなかったり、自分の研究が上手くまとまらなかったりするのは楽しいことではなかった。そんな中、渥美財団奨学金を日本在住の先輩が勧めてくれたので、応募した。正直な話、「支援してもらえるならそれでいい」程度の気持ちだった。
しかし、蓋を開けてみれば、渥美財団での交流は楽しかった。あそこまで多岐にわたる学術研究の話を聞けるのは楽しかった。渥美財団の皆様や奨学生の仲間と真面目な学術的な話であれ酒の席であれ、時間を共にするのが楽しかった。完全に「予定外」な出会いであったが、あるいはだからこそ、ここまで楽しかったのかもしれない。この「予定外その4」が無かったら、私の2024年の印象はもっと暗いものであっただろう。
散らかった話になってしまったが、結論としては、今の私はいろんな「予定外」のおかげでここにいる、と言ったところだろうか。まだ博士号を取得出来ていないが(これは明らかに悪い予定外だろう)、この場を借りて多くの方々に深くお礼を申し上げたい。この先も、良くも悪くもいろんな「予定外」を楽しんで人生を歩みたいものだ。
<ラクスミワタナ モトキ LUXMIWATTANA, Motoki>
タイ、バンコク出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科の博士後期課程在籍。2021年に東京大学法学部・大学院法学政治学研究科で修士号を取得。主にタイ政治における保守派・右派の政治思想の研究を行っている。
2025年5月1日配信
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2025.04.24
「テレビで映画をやってる!男の子が4人、線路の上を歩いている……僕ももう行かなくちゃ!」。
いつからだろうか、私の目標は子供の頃に憧れていた「ポケモンマスター(携帯獣達人)」から、「イミンドクター(遺民博士)」へと変わっていった。国が滅び、遺された民、縮めて「遺民」、この世の不思議な集団、「江南」に「中州」に「日ノ本」に、その数は100、200、300……いや、それ以上かもしれない。
私の研究対象はこの「遺民」と呼ばれている人たちだ。「遺民」とは何だろうか?簡単に言えば、「遺民」とは、旧王朝が滅びた後も生き残り、あるいは義を守り、新王朝に仕えることを拒んだ人々を指す。日本人になじみのある概念では、主家を失った「浪人」(例えば『忠臣蔵』)が最も近い存在だろう。中でも私は、漢人政権の明から満洲政権の清へという王朝交代を生き抜いた遺民、さらには中国大陸から逃れ日本へ渡った遺民たちを主な研究対象としている。
研究方法は主に文献学の手法を用いながら、フィールドワークも行う。歴史学者として遺民を追う作業は、私にとって「ポケモン探し」にとてもよく似ている。「遺民博士」の仕事とは、歴史の闇に埋もれてしまった未知の遺民を発掘し、図鑑を完成させることに他ならない。まず、膨大な古書の中から「野生」の遺民を探し出す。だが、注意を怠ると、彼らは逃げて行ってしまう。そして、古書だけではなく、山中の寺院、大名の屋敷、果ては墓地に至るまで、冒険の旅が必要になる。特に寺院においては、秘蔵の史料が外部に公開されることが少ない。まず「ミッション」をクリアしないと隠し場所に入ることすら許されない場合もある。
調査の途中では、遺民にゆかりのある庭園や橋、書道作品、石碑などに出会うこともしばしば。そうした瞬間、時を超え、昔の遺民たちと交錯する感覚に陥る。まるで彼らと「対話」をしているような不思議なひとときである。遺民を「捕まえる」ことに成功した後は、彼らを「遺民図鑑(遺民録)」に登録。その上で、分析と研究を重ね、論文として発表することで図鑑の説明文を埋めていく。最終的には、パートナーである遺民と学術成果を携えて学会に発表――ポケモンゲームのように「バトル」を行い、トレーナーやジムリーダー、さらには四天王に挑むことになる。ただし、ゲームと同様に、その遊び方や楽しみ方は人それぞれ。私の夢は「チャンピオン」になることではなく、図鑑を完成させ、本物の「遺民博士」となることだ。
私の研究の旅は、修士課程で明の遺民・王夫之という人物を選んだことから始まった。王夫之は顧炎武、黄宗羲とともに「明末清初の三大師(三大儒)」と称され、遺民の中でも最も著名な三人のうちの一人。私は彼らを明遺民の「御三家」と呼びたい(王夫之は当時あまり知られておらず、清末になって同郷の曾国藩によって発掘された人物)。この「御三家」を初期パートナーとして修士論文を完成させたことで、本格的に「遺民博士」への旅路を歩み始めた。博士課程に進学する前、指導教官の小島毅博士から「顧君も曾国藩のように、将来は王夫之に匹敵する遺民を発掘してほしい」と言われた。その言葉を胸に、博士課程では、さらに知られざる遺民たちを探し求めた。広く知られる南方の遺民だけではなく、北方の李楷や日本に逃れた戴曼公、張斐といった人物も対象とした。
遺民を発掘する際、よく使うのは「芋づる式」という「遺民捕獲」のコツだ。東洋文化研究所の大木康博士から学んだ方法で、遺民の友人たちもまた多くが遺民であることから、一人を見つけると、繋がりを辿って次々と新たな遺民を発見できるというものだ。この連鎖が続くと、時には非常にレアな「伝説遺民」に巡り会う。特に未知の遺民や未発掘の史料を第一発見者として見つける瞬間は、新種のポケモンを発見した時のような感動がある。最近、約400年前に明の遺民が記した『宋遺民広録』という失われた書物を再発見した。この発掘過程は、まるで「古びた海図」を手に「最果ての孤島」へ向かい、ミュウと出会う旅のようだった。遺民を探し出す過程は「ポケモン探し」のようなもので、その過程には驚きと発見が詰まっており、楽しさに満ちている。
幾多の試練を乗り越え、遺民研究学界の「マスター」になるために、そして最高の「ドクター」になるために、新たな出会いを繰り返しながら、遺民仲間たちとの旅は今日も続く。続くったら続く……
<顧嘉晨(こ・かしん)GU Jiachen>
2024年度渥美国際交流財団奨学生。東京大学大学院人文社会系研究科(アジア文化研究専攻東アジア思想文化専門分野)博士課程。日本学術振興会特別研究員DC1、国際日本文化研究センター特別共同利用研究員を経て、現在桜美林大学リベラルアーツ学群非常勤講師。専攻は遺民思想史。日本儒教学会賞受賞。
2025年4月24日配信
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2025.04.17
2023年の夏、留学中だったオーストラリア・アデレードで、渥美国際交流財団の奨学金申請書類に取り組んでいた。「国際交流への関心」という課題を見て、「これは私にぴったりのテーマだ」と思った。私自身や家族は多文化の背景を持ち、高校生の頃から自治体や学校の国際交流や留学プログラムに積極的に参加してきた。だからこそ、私はこの財団が求める人材に違いないと、根拠のない自信すら抱いた。しかし、審査を意識するあまり、実際に書いた内容は「国際交流とはかくあるべきだ」という一般的な枠組みに沿うものだった。あの時は書ききれなかった本音を、奨学期間が終わる今、改めて率直に綴ってみたい。
国際交流の場では、しばしば「○○人」と「××人」といった対比がなされる。あたかも、明確に定義された2つの文化が交わるかのように。例えば、過去に私が参加したプログラムでは、「日本人として恥ずかしくない行動を!」、「日本人としての誇りをもって」、「日本文化を外国人に伝えよう!」といった言葉が飛び交っていた。これらの言説には暗黙の前提が含まれている。1つ、画一的で普遍的な「日本文化」が存在すること。2つ、「日本人」であれば、それを知っていて当然であること。3つ、その場にいる参加者全員が「日本人」であること。これらの前提は本当に正しいのだろうか。
例えば、プログラムに参加していた人々が同じ文化的背景を持っていたかというと、そうではない。沖縄出身の友人は「お節料理を食べたことがない」と言い、広島出身の友人は「3.11を経験していないことに負い目を感じる」と語った。その場には在日コリアンの友人や、ミックスルーツの人もいた。それでも「日本人としての文化的統一性」が求められる場面では、こうした個々の違いは無いものとして扱われたり、「例外」として扱われたりする。私自身、日韓の背景を持つが、国際交流の活動におけるそのような言説に対し、違和感を覚えることがある。それは、アイデンティティを「勝手に決めないでほしい」という思いと、狭い「日本人らしさ」に押し込められる息苦しさがあるからだ。
私は研究を通じて、「日本人らしさ」がどのように定義され、それと「ハーフ」というカテゴリーがどのように関係しているのかを社会学的に分析してきた。「ハーフ」はしばしば画一的な「日本人」イメージを広げる存在として語られる。だが、実際には見た目や振る舞いといった「日本人らしさ」からの部分的な逸脱を説明するための「ラベル」として機能している。「この人は日本人っぽくない」と感じたとき、「ハーフなのでは?」と推測することで、その違和感を説明しようとする。私の調査では、外国にルーツがないにもかかわらず「ハーフ」と誤認される人々も含まれていた。つまり、マジョリティ・「日本人」とされる人々の間にも見た目や振る舞い方や文化といった多様性はあるはずなのに、そうした多様性はしばしば無視され、「ハーフ」といった単純化されたカテゴリーに押し込められてしまうのだ。
こうしたカテゴリーの枠を外して考えると気づくことがある。「○○人」や「ハーフ」といった言葉では捉えきれない多様性が存在することに。世界は単純な二分法では説明できず、三分法や四分法でも十分に捉えきれない。「画一的な国・人と、画一的な国・人同士の交流」という、一般的な国際交流の捉え方には限界がある。国際交流とは、異なる2つの文化の間に橋をかけることだけではない。むしろ、個々の背景や経験を尊重し、固定化されたカテゴリーを超えて対話することではないだろうか。
<佐藤祐菜(さとう・ゆな)SATO Yuna>
神奈川県平塚市出身。2024年度渥美国際交流財団奨学生。専門は国際社会学および人種・エスニシティ研究。2025年4月より特任研究員(日本学術振興会特別研究員PD)として東京大学社会科学研究所に所属。慶應義塾大学社会学研究科後期博士課程在学中に南オーストラリア大学とのダブルディグリー制度に参加し、2023年3月から一年間、オーストラリア・アデレードに留学。2025年3月に慶應義塾大学で博士号(社会学)を取得し、2025年5月に南オーストラリア大学からも博士号を取得予定。
2025年4月17日配信
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2025.04.06
2025年3月28日午後12時50分(日本時間:15時20分)、ミャンマーの中心部にあるマンダレー市の近くサガイーを震源にマグニチュード7.7の大地震が発生した。地震の経験が少ないミャンマーの人々にとっては、瞬時に自分が生き残れるかが決まる一生忘れられない出来事だった。予測もしていなかったし経験もないから、地震直後は困難なことがたくさんあった。
「サガイー断層(Sagaing_Fault)」と呼ばれる1200キロ以上もある長い断層がミャンマーを南北に縦断していることは、1930年ごろから専門家によって指摘されていた。今回の大地震を引き起こした動きは「ストライクスリップ」であり、2つのブロックがお互いに水平に動いた。実は、サガイー断層プレートを中心とした大地震が100年後(現在)に起きるとも予測されていた。
ミャンマーの首都ネピィドー管区、マンダレー管区、サガイー管区、南シャン州に大きな被害が起きて多くの建物が潰れた。4月1日に死亡者2719人、負傷者4521人、行方不明441人と発表があり、その後も増加し続けている。
多くの高層ビル(例えば11階建て1000室以上のスカイヴィラ高級マンション)が潰れ、たくさんの命が失われた。地震の後、マンダレーの街に出てみると、家を失ってホームレス生活をしている人々がたくさん居た。命が残されても食料や水、寝る場所、仕事場がなくなり、夢を失い、心の傷を負っている。階段を見るだけで怖い、家は残ったが戻るのが怖い。一瞬のうちにホームレス生活になった友人たちを見て、支える言葉も出ない。40度以上の暑さは被災者の健康をむしばむ。5月になれば雨季に入り、テント生活もできなくなる。被災者のために心が痛む。
自分に命が残されたのは幸せなことだった。地震が起きた時、マンダレー市にある市民病院に2カ月半前から入院している91歳の父親のところに居た。父を背負って4階から階段で運び出した。父はこの混乱によるショックで危機的な状態に陥ったが、病院スタッフのみなさんのおかげで助かった。
地震が発生した時、家族はばらばらだった。幸いにも病院のインターネットがまだ使える状態だったので、バンコク留学中の娘から連絡があり、お互いの無事を確認した。マンダレーの学校に通っている次女は潰れた校舎から抜け出し、先生たちと避難したとの連絡があり安堵した。6階の自宅に居た妻と息子に連絡が取れなくて心配したが、2時間後に私が経営する居酒屋のスタッフと避難したとの連絡を受け、やっと全員の無事が確認できた。「イビススタイルホテル」内にある「居酒屋秋籾(AKIMOMI)」は大きな被害を受け、日本から苦労して輸入した大事な食器や飾り物が壊れてしまった。ただ、マンダレーから車で1時間ほど離れた避暑地ピンウーリンで経営する「ホテル秋籾」は、日本人の設計と監督によって建設されたこともあってか、大地震の影響はほぼない。
今回の大地震によって、家族とスタッフ全員の命に影響が無かったのは幸せだった。そこで、被災者のために私ができることをしようと考えて支援活動を始めた。まず、「ホテル秋籾」に滞在しているマンダレーからの被災者(多くは、年配の方たちと子供たち)に心の傷を短時間でも忘れてもらうために、特別な夕食を無料で提供して皆さんに美味しく、楽しく過ごしていただいた。部屋代の割引やできる限りのサービスを行った。ホテルに滞在している100人ぐらいの被災者しか支援できないので、お弁当も作って病院に差し入れた。
今、私の力ではお弁当や飲み水を配布することしかできない。これから必要になる医薬品やドライフード、ソーラー電気関係やテント、寝具など被災者支援のための募金を始めた。このエッセイを読まれる皆様にも「ミャンマー大地震復興支援活動のための募金」にご協力を願いしたい。
※地震被害の状況や支援活動の写真
<キン・マウン・トウエ Khin Maung Htwe>
ミャンマーで「小さな日本人村」と評価されている「ホテル秋籾(AKIMOMI)」の創設者、オーナー。マンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手、Ocean_Resources_Production社長を経て「ホテル秋籾」を創設。SGRA会員。
2025年4月10日配信