SGRAイベントの報告

  • 2024.04.26

    孫建軍「第17回SGRAチャイナフォーラム『東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生』報告」

    2023年11月25日(土)北京時間午後3時(日本時間午後4時)より第17回SGRAチャイナフォーラム「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」が開催された。コロナが収束して4年ぶりに対面形式で行う予定だったが、スケジュールを決める9月の時点で2012年秋の事態を思わせる空気が漂い始め、オンライン方式を続けることに決めた。   テーマの通り、今回は美術史の返り咲きとなった。しかもこれまで焦点が置かれていた「東アジア」から初めて「東南アジア」に視点を向けたため、事前の準備はこれまでと異なり、チャイナフォーラムの歴史の中でかつてない国際的な展開となっていた。講師は北九州市立美術館館長の後小路雅弘先生、指定討論者は北京大学東南アジア学科准教授の熊燃先生、ナショナル・ギャラリー・シンガポール学芸員でコレクション部門ディレクターの堀川理沙先生のお二方をお迎えした。東京、北九州、北京、シンガポール、マカオと事前準備の連絡は広範囲にわたった。日本語だけでなく、英語によるメールの連絡もこれまでにないレベルで、渥美財団のスタッフ一同の国際色の高さに脱帽した。   例年通り、開催にあたり、主催者側から今西淳子・渥美財団常務理事、後援の野田昭彦・北京日本文化センター所長より冒頭の挨拶があった。野田所長の挨拶は前年同様にテーマに沿った問題提起があり、フォーラムのウォーミングアップともなった。   日本における東南アジア美術史の第一人者である後小路雅弘先生の講演は、ご自身の東南アジアの実体験から始まった。東南アジアにおける近代美術の萌芽的な動きは1930年代に見られると指摘した。地域や国同士の相互の連動は見られなかったが、植民地において19世紀末から盛んになったナショナリズムや民族自決の高まりといった国際的な共通性から、ほぼ同じ時期に見られるようになったと、数多くの絵画の紹介を通じて語った。そして19世紀末から20世紀前半にわたって、東南アジアの近代美術運動を担うパイオニアたちが直面する課題、目指す目標、各国における共通性や相違を読み解いた。   自由討論はモデレーターの名手、澳門大学の林少陽先生によって進められた。美術作品を通して、その背後にあるより微妙で生き生きとした植民地支配に対する抵抗や民族解放を求める東南アジアの歴史の詳細を見ることができるという熊燃先生のご見解や、後小路先生のご研究の原点は東南アジアだけでなく、東アジア全体にあるのではないかという堀川理沙先生のご指摘が印象的だった。その後、会場およびオンライン参加者の質問に対し、後小路先生が丁寧に回答した。   最後に清華東亜文化講座を代表して、北京第二外国語大学趙京華先生より閉会の挨拶があった。趙先生は後小路先生のご講演により、美術史を専門としない人も美術界の新たな風潮を通じて、東南アジアの20世紀の複雑な歴史的プロセス、そして民族、言語、宗教、文化の多様性について初歩的な理解を得ることができたと指摘した上で、「どのような覇権も、世界を統一することも、差異を排除することもできない。私たちは各民族国家の多様性を尊重することでしか、文明の相互理解と平和共存の理想を実現することができない」と強く訴えた。   東京会場、北京会場、そしてオンライン参加を含め、合わせて150名の参加を得た。参加者からは「東南アジアにおける近代美術が生まれた背景や、その代表的な人物に関する基本知識を得ることができた。今後もこの研究領域に関するフォーラムを開催してほしい」などの感想が寄せられた。   フォーラム開催当日は趙先生の誕生日で、北京会場でささやかなお祝いをした。4年ぶりの会食も実現した。そして次回の第18回も引き続き後小路先生に依頼し、対面形式で北京で行うことが早々に決まった。 かつてのおなじみのチャイナフォーラムが確実に戻ってくる。   当日の写真 アンケート集計結果   <孫建軍(そん・けんぐん)SUN Jianjun> 1990年北京国際関係学院卒業、1993年北京日本学研究センター修士課程修了、2003年国際基督教大学にてPh.D.取得。北京語言大学講師、国際日本文化研究センター講師を経て、北京大学外国語学院日本言語文化系副教授。専攻は近代日中語彙交流史。著書『近代日本語の起源―幕末明治初期につくられた新漢語』(早稲田大学出版部)。
  • 2024.04.03

    アメリ・コーベル「第21回SGRAカフェ『日本社会における二重国籍の実態―複数国籍保持者に対するスティグマ付与と当事者らの実践』報告」

    2024年2月17日に開催された第21回SGRAカフェには57人が参加し、「日本社会における二重国籍の実態」が議論されました。今回のSGRAカフェを企画した理由の一つは、日本の国籍法を巡る誤解が多いことにあります。その最大のものは「日本は二重国籍を認めていない。二重国籍は違法だ!」という認識です。日本の国籍法が「国籍唯一の原則」という理念を取り入れていることは確かですが、それが二重国籍を禁止したり、不可能としたりするものではありません。この原則の下、二重国籍のケースを減らすための制度がいくつか設けられていますが、その重国籍防止・解消制度の多くは必ずしも積極的なものではなく、また行政による運用についても同じことが言えます。例えば国籍選択制度の下では、選択の義務を果たしながらも日本国籍を選択した上で、外国の国籍を保持することは可能なのです。それに対して、海外在住の日本人が居住国の国籍を取得した場合等に適用されている規定(11条1項)は非常に厳しいもので、重国籍の存続は許されません。同じ二重国籍者でも、状況によって法の適用が異なることが示されました。     基調講演では、武田里子氏が複数国籍の実態について「日本社会における複数国籍の実態―放置主義から摘発強化への政策転換」と題して35分にわたって発表しました。まず、国際結婚の研究から二重国籍の問題に関心を寄せ、特に台湾や韓国での調査を通じて現地男性と結婚した日本人女性たちとの交流から子どもの二重国籍問題が浮かび上がったことを紹介。日本国籍と外国籍の選択が22歳までに必要とされるが、実際にはこの義務を果たさなくても何も起こらないという混乱した情報の中で、母親たちが子供の将来について心配していることを指摘しました。   次に、日露ハーフの子どもたちに関する国籍問題が取り上げられました。通常、ハーフの子供たちは片方の親から日本国籍、もう一方の親から外国籍を取得しますが、日本に生まれたロシア人の子は出生によってロシア国籍を取得したとは見なされず、「簡易帰化のような手続きを経て取得した」と、日本政府は解釈します。そのため、ロシア大使館で出生届を提出した時点で日本国籍を喪失します。子どもの最善の利益の観点から、この国籍法の運用は許されるものなのかと、武田氏は問いかけました。   その後、発表のタイトルにある通り、過去40年の間、日本政府による複数国籍への対応がどのように変遷してきたのかを論じてくださいました。 40年前と言うと、ちょうど1984年の国籍法改正の時です。当時、女子差別撤廃条約の批准のための法整備の一環として、父系優先血統主義が父母両系血統主義に改められました。この法改正により、二重国籍者の増加が予測され、それに対処するために重国籍解消制度が導入されました。 1984年の国籍法改正後、複数国籍の議論が進まず現在に至っています。その間、海外では重国籍容認への動きがあり、国外居住者のロビー活動が影響力を持ちました。「日本ではなぜ在外邦人が国籍法改正に向けて大きな力を発揮しないのか」と武田氏は問いかけます。 2000年代に入り、日本政府は重国籍者に対する対応を変化させ、「放置主義から摘発強化」への方針転換が見られるようになりました。特に、在外公館ではこの転換が顕著に現れました。それまでは11条1項の定めるところによって、日本の国籍を喪失したはずの在外邦人に対し、日本政府は国籍喪失届の提出を指示することもなく放置していました。戸籍さえあれば、日本人扱いで構わなかったようです。しかし、2005年以降は、11条1項が適用される人たちの摘発に力を入れるようになりました。 近年、二重国籍者を萎縮させた最大の出来事は間違いなく、2016年に起きた蓮舫議員の二重国籍騒動です。メディア報道により、「重国籍=違法」という印象が拡散し、強まりました。その結果、当事者の間には不安が広がり、国籍のことを友達にも話せなくなったと言う人もいます。 そして、この問題が日本国憲法の基本原則である平和主義、民主国民主権、人権擁護とどのように関連しているかについても議論が展開されました。武田氏は、複数国籍の容認は憲法に基づく要請であるとする憲法学者の見解を紹介し、複数国籍の問題が国の基本原則とも密接に関連していることを強調しました。 2010年代の終わり頃から、この状況の悪化に歯止めをかけようとする当事者らによる運動が見られるようになります。11条1項の違憲性を訴え、国を提訴した「国籍はく奪条項違憲訴訟」です。残念なことに、現時点では敗訴が続いていますが、今後、違憲判決が出ることを信じて、武田氏は弁護団と原告らを支援し続けています。 最後に「複数国籍の容認は日本国憲法の基本原則たる平和主義、民主国民主権、そして人権擁護に基づく要請である」と指摘する憲法学者の近藤敦氏と同意見であることを明確に述べて、基調講演を終えました。     話題提供を務めてくださった3人は、それぞれ異なる視点から二重国籍の問題に限らず、国籍のあり方そのものに疑問を投げかけ、カフェ参加者に「Food for thought」を与えてくれました。   最初の話題提供者は、社会福祉学の専門家であるヴィラーグ・ヴィクトル氏です。日本の公的な福祉制度と国籍の関係について説明し、多様性を尊重する必要性を強調しました。さらに、ソーシャルワークの視点から二重国籍問題を分析し、当事者の活動の重要性を強調します。参加者からは賛同する声が上がりました。   金崇培氏は、3世代にわたる自身の家族史やライフ・ヒストリーから、国際関係や国家の諸事情がいかに個人の国籍に影響を与えるのかを教えてくれました。1941年に朝鮮人の両親をもち、日本で生まれた金氏の母親は、生まれつき日本国籍を有していましたが、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、日本国籍を失うことになりました。金氏の息子たちは、韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれたことから、生まれながらの二重国籍者です。2011年に韓国が部分的に重国籍を認めたため、息子は成人した後も二重国籍を保持できるようになりました。ただ、韓国人男性に課されている徴兵制による兵役義務がネックとなりそうです。金氏の報告からうかがえるのは、国籍というのはアイデンティティーと絡む側面もあれば、権利・義務が発生する法的身分を表すものでもあり、時には実利的な事情で国籍を取得したり、放棄したりすることもあるということです。   高偉俊氏は個人的な経験を通じて議論しました。日本生まれ、日本育ちの娘が日本に帰化した際の手続きの複雑さや時間のかかり方を挙げ、日本で生まれ育った外国籍の子どもたちが、より簡単な方法で日本国籍を取得できる仕組みが必要だと提案しました。こういった子どもたちの多くは、日本にアイデンティティーを置いており、今後も日本社会に貢献していくことから、彼ら、彼女らに日本国籍を与えることが、本人たちのみならず、日本にとっても有益であると主張しました。 参加者は休憩を挟み、会場とオンラインの4つのグループに分かれてディスカッションを行いました。国籍制度自体に疑問を投げかける声が挙がり、国籍が人々を区別する制度として機能する側面について考えられました。また、国籍法改正に関して国の姿勢を批判するだけでなく、国を動かす方法を模索すべきだという意見も出されました。その他、国籍を捨てることがアイデンティティーの一部を捨てることと結びつく可能性が指摘され、日本で国籍が重要な境界線として果たしてきた役割についても議論が行われました。     当日の写真 https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2024/03/SGRACafe21Photos.pdf   アンケート集計結果 https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2024/03/SGRACafe21Feedback.pdf   報告書の全文 https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2024/03/SGRACafe2Report_ALL.pdf   <アメリ・コーベル Amélie CORBEL> 獨協大学フランス語学科特任講師。パリ政治学院政治学研究科博士課程修了(政治学博士)。博士論文「日本の国際結婚の諸規制——ビザ専門の行政書士の役割を中心に」(仏語のみ)。2022年度フランス日本研究学会博士論文賞を受賞。専門は政策過程論、ジェンダー研究、法社会学。2018年度渥美国際交流財団奨学生。
  • 2024.03.12

    シェッダーディ・アキル「第20回SGRAカフェ『パレスチナについて知ろう』報告」

    2024年2月3日、第20回SGRAカフェ「パレスチナについて知ろう― 歴史、メディア、現在の問題を理解するために」が渥美財団ホールおよびZoomによるハイブリッド形式で開催されました。   今回は明治大学の特任講師であり、東京ジャーミイ文書館(テュルク文化・イスラム文化研究施設)理事でもあるハディ・ハーニ先生が講師を務め、パレスチナの歴史やメディアの扱い、そして現在進行形の問題について詳細に解説しました。長年にわたるイスラエル・パレスチナ紛争の根本原因と、現在におけるその影響について深い洞察を提供。さらに同紛争に関する包括的な分析を行い、その歴史的背景や主要な出来事、現在の状況を説明。特に紛争の起源やイスラエルの設立、その後の戦争と平和努力について言及し、パレスチナ人の追放や占領地の状況など、人道的問題を強調しました。さらに2023年10月のハマスによるイスラエル領土への攻撃とイスラエルの対応を例に挙げ、双方の行動が国際法を違反していることを指摘。パレスチナ人の権利と自己決定権の重要性を強調し、平和と共存を望むすべての人々を支持する意志を表明しました。   さらに、イスラエル・パレスチナ問題の簡略化に反対し、少なくとも4つの主要な行為者を2つの異なるレベルで見ることを提案。パレスチナはガザにおいて妥協を許さない強硬な立場を採るハマスと、西岸を統治するより和平と妥協に開かれたファタハ政府に分かれ、同様にシオニスト陣営も紛争への異なるアプローチを反映した右派と左派に分かれています。この枠組みは、直接的な軍事衝突とその結果に焦点を当てる「表層-戦術」レベルと、関与する行為者のより深い、根本的な目標と政策を探求する「構造-戦略」レベルに分類できます。これは両陣営内の微妙なダイナミクスと内部の多様性を認識する必要性を強調し、紛争を形作る戦略的および戦術的な次元を理解するために単純な物語を超えて進むことの重要性を示しています。   ハディ先生はこのように、イスラエル・パレスチナ紛争における「両側主義」の概念を批判し、それが不当に抑圧者に正当性を与え、最終的には植民地主義的占領構造の「目に見えないテロ」を維持すると主張。「正義の側」に立つことは、パレスチナ人の行動を無条件で擁護することでも、イスラエル人の行動を全面的に非難することでもない。紛争における両側を同等に扱うことは、非対称な実体を対称的と見なすことであり、これは中立的でも公正でもなく、実際には抑圧者に味方することになります。真に正義と公平を支持するためには、イスラエルの占領政策、それらを可能にする排他的で暴力的なイデオロギー、そしてそれらを支持する政治構造、特に米国の外交政策に挑戦する必要があるとみています。   紛争の解決に向けて市民社会の役割も強調されました。正義の実現には、ハマスとイスラエルの両方からテロリズムの問題を認識し、特に右翼シオニスト派におけるイスラエルの不釣り合いな責任を認め、半世紀にわたるイスラエルの一方的な構造的テロリズムが重大な問題であることを理解するという「3つの命題」の同時実現が必要であると提案。市民に対しては、問題についての意識を高め、声を上げ、これらの懸念を政治行動に反映させ、外交圧力を形成することを目指すよう呼びかけています。   司会・討論者を務める私、シェッダーディ・アキルはガザの現在の人道状況について報告。2024年2月3日時点でガザでの死亡者数が2万7000人を超え、その70%が女性と子どもであることを強調し、紛争の深刻な影響と緊急の国際的対応を呼びかけました。また、国連国際司法裁判所が1月26日にイスラエルに対してガザでのジェノサイドを防ぐための仮命令を下したことは、世界政治と平和努力にとって画期的な瞬間であると強調し、国際法と人権保護の重要性を訴えました。米国、日本、欧州連合などの主要な国際プレーヤーによる国連救済復興事業機関(UNRWA)への支援の停止は、世界的な人道支援に関する重要な疑問を提起し、外交と人道支援という課題に対する日本の対応が、国際社会内での連帯と責任ある行動の必要性を示しているとも指摘しました。   質疑応答セッションは、東京大学博士課程の徳永佳晃氏がアシストしてくださり、会場参加とオンライン参加の両方から多岐にわたる質問が寄せられ、長年にわたる紛争が世界平和、正義、そして人類にとって何を意味するのかについて議論しました。「外交の失敗がイスラエルの植民地化政策の継続を可能にしているのか」、「今後の見通しと解決策は何か」、そして「私たちが世界市民として平和にどのように貢献できるか」についての質問とコメントがありました。   初めてのパレスチナ問題に係るSGRAカフェでは、政治的、歴史的、人道的要因の間のバランスを取りながら、紛争の異なるレベルを分析する枠組みを用いて説明しました。また、パレスチナ問題に対する私たちのアプローチを集団的に再評価する緊急性があることを明確にしました。   当日の写真   <シェッダーディ・アキル Mohammed Aqil CHEDDADI> モロッコ出身。モロッコ国立建築学校卒業。慶應義塾大学政策・メディア研究科環境デザイン・ガバナンス専攻修士号取得・博士課程在学。同大学総合政策学部訪問講師。2022年渥美奨学生。     2024年3月14日配信
  • 2024.03.04

    ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2023」

    シルクロードは古くから東アジアと中央アジア、西アジア、さらにヨーロッパ、北アフリカとを結んできた道である。「草原の道」はそのルートの一つであった。一方、近年、匈奴の「龍城」を含む、モンゴルにおける考古学の新発見が世界的に注目されている。モンゴルにおけるシルクロードの文化遺産を焦点に研究することは大きな意義がある。   2023年9月2日、昭和女子大学国際学部国際学科と渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)、モンゴル国立大学科学カレッジ人文科学系アジア研究学科の共同主催、モンゴルの歴史と文化研究会の後援、麒麟山酒造株式会社、ユジ・エネルジ有限会社の協賛で、第16回ウランバートル国際シンポジウム「モンゴルにおけるシルクロード文化遺産」がモンゴル国立大学図書館202室で開催された。本シンポジウムは、歴史学、考古学、文化遺産学などの諸分野の最新の研究成果と課題を総括し、モンゴルにおけるシルクロード遺跡の文化遺産としての位置づけを試み、その保護と復元をめぐって、創造的な議論を展開することを目的とした。   開会式では、在モンゴル日本国大使館参事官菊間茂、モンゴル国立大学副学長G.ガルバヤル(G. Galbayar)が祝辞を述べた。その後、日本、モンゴルの研究者17名(共同発表も含む)より、14本の報告がなされた。近年、関係諸国の研究者によるシルクロードにおける「草原の道」のルートや交易の町、匈奴、鮮卑の遺跡、チンギス・ハーンの長城等に関する研究成果が報告された。オープンディスカッションは東京外国語大学名誉教授二木博史が司会をつとめた。フロアーからさまざまな質問がだされ、活発な議論が展開された。100名ほどの研究者、大学院生、学生等が対面で参加した。同日の夜、チンギス・ハーンホテルで招待宴会がおこなわれ、モンゴルの著名な歌手や馬頭琴奏者、ヤタグ(琴)奏者、柔軟演技者が素晴らしいミニコンサートを披露した。   本シンポジウムについては、モンゴルの『ソヨンボ』『オラーン・オドホン』などの新聞により報道された。また報告文は2024年3月に『日本モンゴル学会紀要』で発表する。また本シンポジウムの成果をまとめた論文集は2024年3月に日本で刊行される予定である。   9月3日のエクスカージョンで、海外からの参加者はウランバートル郊外の観光リゾートチンギスーン・フレーを見学した。ここでは、ちょうどIHAA(国際ホースバックアーチェリー連盟) World Championshipsが開催されていた。い会場に飾られている国旗からみると、モンゴル、ドイツ、ロシア、中国、韓国、日本、カナダ、スイス、イギリス、イタリア、フランス、アメリカ、スペイン、ハンガリー、マレーシア、南アフリカ、ポルトガル、アイルランド、カザフスタン、オーストラリアなどの国の代表が同世界選手権大会に参加したことがわかる。本シンポジウムの報告者は、その素晴らしい競技から、意外の喜びを味わった。   当日の写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学大学院生活機構研究科教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、『日本人のモンゴル抑留の新研究』(三元社、2024年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)、『遊牧帝国の文明――考古学と歴史学からのアプローチ』(三元社、2023年)他。    
  • 2023.12.28

    陳藝婕「第7回東アジア日本研究者協議会パネル報告『異文化の流通や受容:日本を中心に』」

    2023年11月3日から5日まで、東アジア日本研究者協議会第7回国際学術大会が東京外国語大学で開催された。私が企画したパネルセッション「異文化の流通や受容:日本を中心に」は司会1名、討論者1名、発表者4名で構成され、SGRAの派遣チームとして参加した。   日本は古くから積極的に海外と接触し、多文化交流の重要な交差点といえる。異文化を受容することを通じて「日本文化」が築かれた。本パネルは美術を切り口として、6世紀から20世紀にいたる時代の中で日本と中国、朝鮮の交流の様相を検討する試みである。   発表は研究テーマの時代順に行われた。最初は馬歌陽氏(早稲田大学博士課程)の「飛鳥・白鳳時代の仏教美術における宝塔の造形化―東アジア的視点を中心に」。仏塔、あるいは宝塔は釈迦の象徴物として古くから造形化され、信仰されてきた。仏教が日本へ公伝すると、図様としての宝塔もしばしばみられるようになることが飛鳥・白鳳時代の仏教造形作品に確認できる。この時代の宝塔には三つの特徴がみられる。1)塔身の屋頂に覆鉢とよばれる半球形の膨らみがない、2)相輪が5本立つ、3)塔身部に円拱龕を表す。この特徴をもつ宝塔は日本のみならず、中国六朝時代の都であった建康(現在南京市)や西の四川地域、そして朝鮮半島の作例に見出せる。馬氏は飛鳥・白鳳時代の宝塔を手掛かりとして、古代東アジア仏教美術の受容と展開の一端を論じた。   2番目は孫愛琪氏(日本学術振興会外国人特別研究員)の「福建甫田画家趙珣と江戸画壇への影響」。明末の福建画家趙珣は現在の中国ではほとんど無名だが、彼の作品は江戸時代の日本に数多くもたらされ、異国で新しい命を獲得した。趙珣の作品は長崎~京都の黄檗僧と教団に関係する文人たちの絵画学習の手本となった。江戸後期の儒学者・頼山陽や、文人画家・田能村竹田らは趙珣を高く評価し、コレクターであり書家の市河米庵は作品を積極的に収集し、江戸の南画家・谷文晁一門は趙珣作品の模倣作を残している。孫氏の発表は趙珣を一つの切り口として17、18世紀の福建絵画及び黄檗絵画と江戸絵画との間に様式的展開と変容を観察しようとする。   3番目は王紫沁氏(総合研究大学院大学博士課程)の「池大雅における伊孚九の学習を再考する」。江戸時代の画家池大雅が学んだとされる明清画家の中で、伊孚九は沈南蘋と同じほどの名声を持ち、とりわけ山水画に長じたことで知られる。しかし、実際に大雅が伊孚九の絵をどのように、どれくらい学んだかについて詳しく研究されていなかった。王氏の研究は来舶清人画家の受容の一例、伊孚九の画風を整理し、当時の上方文人圏における伊孚九作品の鑑賞・学習を考察した上で、池大雅における伊孚九の学習を考え直そうとする。   最後は私の「高島北海の皴法認識――日本留学した中国人画家傅抱石の理解を参照に――」。日本留学をした中国人画家傅抱石(1904年~1965年)の理解を参照しながら、画家・地質学者高島北海(1850年~1931年)の皴法に対する認識を分析するものである。皴法とは毛筆の特性を生かして山、石、樹などの景物の立体感や質感を写実的に表現する伝統的な中国絵画技法である。高島北海は画論『写山要訣』(1903年)の中で、皴法を山水写生の具体的な技法として紹介。しかし、傅抱石も当時の日本画壇の評論家も疑問を唱えているので、文字や絵画を通じて検証した。近代中国を代表する名画家の傅は日本で注目されず、高島も1930年代から日本美術史から消えているが、東アジア美術史において両名の史的な価値を再検討した。この発表内容は『鹿島美術研究』(年報第40号別冊)に掲載された。   4人の発表の後、王楽氏(東北大学特任助教)が討論者としてそれぞれにコメントした上で、質問した。発表者は一人ずつ質問に答え、相互に議論を行った。時間が限られていたため、会場参加者たちとの交流はパネル終了後になった。   今回はSGRA派遣チームとして、本学会に参加できた。貴重なコメントを頂き、多くの研究者と意見交換ができたことを大変嬉しく思う。企画者として、あらためて渥美財団の皆さまに御礼を申し上げたい。   <陳藝婕(チン・イジェ)CHEN_Yijie> 2022年度渥美奨学生。中国浙江省出身。2023年、総合研究大学院大学国際日本研究博士号取得。現在は中国上海大学上海美術学院助教授。研究分野は日中絵画の交流や受容。論文には「高島北海『写山要訣』の中国受容:傅抱石の翻訳・紹介を中心に」(『日本研究』64集,2022年3月)、「記美術史家鈴木敬」(『美術観察』2018年 5月号)など、著作は『黄秋庭 巨擘伝世・近現代中国画大家』(中国北京高等教育出版社、 2018 年)などがある。     2023年12月28日配信
  • 2023.12.22

    カバ・メレキ「第7回東アジア日本研究者協議会パネル発表 『中東における日本研究と日本語教育-マンガ・アニメの受容と若者の日本語への関心』報告」

    2023年11月4日(土)11:00-12:30に東京外国語大学研究講義棟102号室にてパネルセッション「中東における日本研究と日本語教育-マンガ・アニメの受容と若者の日本語への関心」を開催した。5名のパネリストがそれぞれの出身国における日本研究及び日本語教育と若者の日本語への関心について説明した。プレゼンテーションの後、質疑応答で討論が進んだ。   発表テーマとパネリストは次の通り。   1)「トルコにおけるマンガの歴史と教育」    チャクル・ムラット(CAKIR, Murat)関西外国語大学 2)「トルコにおける日本語教育とマンガの役割」    カバ・メレキ(KABA, Melek)チャナッカレ・オンセキキズ・マルト大学 3)「シリアにおける日本語教育の歴史と現状」    アルメリ・ナヘード(ALMEREE, Nahed)ダマスカス大学 4)「イランにおける日本語教育の歴史と現状」    アキバリ・フーリエ(AKBARI, Hourieh)白百合女子大学 5)「モロッコにおける日本語教育の歴史と現状」    チェッダディ・モハンマド・アキ―ル(CHEDDADI, Mohammed Aqil)慶應義塾大学   最初にチャクルさんが「マンガ・漫画」という言葉の歴史と日本・トルコ両国におけるマンガの歴史の概略を説明し、特にトルコではマンガの歴史がオスマントルコ時代に遡ることを強調した。その後、マンガ熱が高まった1908年代に登場した主なキャラクターを紹介しながら、トルコの教育現場におけるマンガ使用事例を説明し、これからもマンガが日本語教育のみならず、教育のさまざまな場で活用できることを指摘した。   次は私でトルコの若者の間で日本のポップカルチャー熱が上がっていることを指摘し、日本のポップカルチャーの中でも特に注目を集めているマンガと日本語教育の関連性を考察した。事例として、私たちの学科で実践した「マンガ坊ちゃん」を教材とするオンライン日本語教育講座の研究を取り上げた。マンガ教材を利用することで、トルコ人の日本語学習者がより積極的に学習に臨んだことや、マンガ教材の面白さを知り日本文学に興味を持つようになり、日本文学を読むようになったことが分かった。   ナヘードさんはシリアにおける日本語教育の現状を紹介した。1979年に在シリア日本大使館で日本語講座が開講され、およそ20年間続いた。1995年にアレッポ大学学術交流日本センター、1999年にはダマスカス大学付属言語研究所に日本研究センターが開設され、2002年にはダマスカス大学人文学部に日本語・日本文学科が開設された。2010年にはアレッポ大学に日本研究専攻の修士課程が設置された。しかしながら、現在戦時下のシリアでは日本語教育は停滞しており、日本語教育機関では学習者がゼロとなっている。国際情勢が教育、特に日本語教育に与えるダメージが大きいことを実感した。   フーリエさんの発表はイランの日本語教育をまとめるものだった。日本語教育の始まりは1989年にテヘラン大学外国語学部内に必修選択第二外国語科目として日本語コースが開設されたことにさかのぼる。その後1994年に同学部に日本語・日本文学科が設置された。2013年にはテヘラン大学世界研究部日本研究コース(修士課程)が開講した。   以上から、シリアとイランとトルコでは1990年代に日本語教育に力を入れ始めたことが判明した。   最後のアキルさんの発表では、モロッコにおける日本語教育の現状が扱われた。1982年にモハメッド五世大学(ラバト)において、モロッコの公的機関における日本語教育が開始した。2002年以降は順次5つの大学で日本語講座が行われるようになった。マンガ・アニメへの関心は高く、これからも日本語教育に力を入れるべき状況である。   今回のパネルディスカッションで、中東における日本語教育はまだ力を入れつつある現状であることが分かった。地政学的な特徴が日本語教育に歯止めをかけていることも判明した。中東の5つの国の日本語教育状況を比較的に考察することができたが、日本のポップカルチャー、特にマンガ教材の開発はまだ十分に行われていないようだ。   パネリストは全員が渥美奨学生であり、今後も共同で研究集会や勉強会や交流を重ねて中東における日本語教育に力を入れることを目指すことで合意した。   当日の写真   <カバ・メレキ KABA Melek> 2009年度渥美奨学生。トルコ共和国チャナッカレ・オンセキズ・マルト大学日本語教育学部助教授。2011年11月筑波大学人文社会研究科文芸言語専攻の博士号(文学)取得。白百合女子大学、獨協大学、文京学院大学、早稲田大学非常勤講師、トルコ大使館文化部/ユヌス・エムレ・インスティトゥート講師、トルコ共和国ネヴシェル・ハジュ・ベクタシュ・ヴェリ大学東洋言語東洋文学部助教授を経て2018年10月より現職。     2023年12月22日配信
  • 2023.12.14

    マックス・マキト「第7回東アジア日本研究者協議会パネル『日本から学ぶ地域通貨』報告」

    2023年11月4日(土)11:00-12:30、東京外国語大学研究講義棟102号室にてパネルセッション「日本から学ぶ地域通貨」が開催され、3つの発表と2つの討論の後、質疑応答が行われた。 内容は以下の通り。 発表1:「フィリピン・ラグナ州のコミュニティにおける地域通貨の可能性:日本を参考に」 ジョアン・セラノ、ジャネル・エボロン(フィリピン大学オープン大学) 発表2:「フィリピン・ラグナ州における地域交換取引制度(LETS)の可能性:日本を参考に」 セザー・ルナ、ジャネル・べレガル(フィリピン大学オープン大学) 発表3:「フィリピン・ラグナ州における電子地域通貨の可能性:日本を参考に」 フェルディナンド・マキト(フィリピン大学ロスバニョス校) ノリン・アラザダ(フィリピン大学オープン大学) 討論1:ジャクファー・イドルス(国士舘大学) 討論2:栗田健一(東京経済大学) 3本の発表は、フィリピン大学オープン大学(UPOU)で実験中の「アリタップタップ(蛍)」と呼ばれる地域通貨をめぐるものであった。「アリタップタップ」という名前は、フィリピン大学オープン大学のキャンパスで、コロナ禍後に蛍が再出現したことにちなんでつけられた。キャンパスの隣にある稲と米の実験場からの化学肥料の流出が中止になって蛍が復活したと考えられている。 最初の発表は、地域通貨を作るための「コミュニティ」概念の取り組みについて。ラグナ州の学術的なコミュニティにおける地域通貨の可能性に焦点を当て、フィリピンが直面している「持続可能な開発」という課題に適用される地域通貨の可能性について深く掘り下げた。「アリタップタップ」はオープン大学の教職員の間で物やサービスの取引を促進する媒体として役割を果たしている。日本、特に神奈川県藤野町の「よろづ屋」の経験を参考に、フィリピンにおける地域通貨の可能性を検討した結果、まずは学術界主導の地域通貨設立の可能性を探ることにした。 これは学術的な環境におけるコミュニティ形成を促進する地域通貨の先駆的なモデルともいえるだろう。他の地域通貨と比較して、地理的な境界に制限されず、大学の教職員、研究者、スタッフ間の取引ネットワークが強固に存在することが特徴である。警備員やグランドスタッフも含まれるため、地域通貨取引によって生じるコミュニティの絆の強化も確認できる。人々がこの新しいシステムに興味を持ち、実際に試してもらうことで地域通貨の良さを理解してもらえる。地域通貨モデルのプロトタイプを作り、メンバーの動機や課題を把握することができる。 2番目の発表では、地域交換取引システム(Local_Exchange_Trading_System:LETS)について、歴史、地域への導入実績、衰退、日本における復活について紹介した。LETSは、組織化されたコミュニティやグループ内で地域通貨を使って商品やサービスを交換するもの、と定義されている。1983年にマイケル・リントンがカナダのブリティッシュ・コロンビア州でコモックス・バレーLETSを始め、1990年代に欧米諸国で最盛期を迎えた。最もよく知られた第一世代の地域通貨システムとして知られ、日本の地域通貨の拡大に大きな影響を与えた。 金融不安を伴う地域的または国家的危機への対応として始まることが多いが、会員の減少、経済効果がほとんど見られないことや管理コストなどの要因のために、維持することができなかった例も多い。一方、日本では地域通貨を長期管理する仕組みとしてLETSモデルが登場した。通帳型のモデルを導入するケースが多く、地域通貨「萬(よろず)」を使う藤野町でも、地域の絆を強め、レジリエンスを高めると言われている。このようにして相互信頼を植え付け、地域コミュニティを巻き込み、利用可能なスキルや資源を最大限に活用し、コミュニティ内で価値と効用を生み出すというメリットを享受しようと努力している。 3番目の発表は、通帳型地域通貨に焦点が当てられた。通帳には「よろず屋」の会員2名(売り手と買い手)の取引の詳細が記録され、地域通貨「萬」で評価される。取引の検証は、取引当事者が署名するという手法で分散化されている。通帳は会員の「ギブミー(ほしい)」・「ギブユー(あげる)」リストへのアクセスを提供するメーリングリストによって補完される。しかし、このリストは石に刻まれたものではない。緊急に必要なものは、メーリングリストを通じて会員が投稿することができる。 日本の通帳システムは、管理コストが最小限に抑えられ、比較的インフォーマルであるため、欧米の通帳システムより持続可能である。日本で通帳制度が長続きしている背景には、他にも3つの理由がある。互恵と義務の日本文化との相性の良さ、地方開発の促進、そして設立した社会起業家のさまざまな好みに対応できる高い柔軟性である。「アリタップタップ」も日本の経験に基づき、デジタル版に移行する前に、まずアナログ版の通帳で試してみることになった。通帳はオープン大学経営開発研究学部(FMDS)で印刷し無料で提供されている。この通帳は「よろず屋」の形式を踏襲しており、地域通貨が開始される以前から取引が行われていたかどうかを示す欄が追加されている。 私たちのチームが最初に発見したのは、会員数は多いものの商品やサービスの交換に積極的に参加している会員は全体の25%に過ぎないということであった。次に同地域通貨を実施するための実験として、オープン大学経営開発研究学部の「レジリエンス、開発、起業家精神、栄養に対する評価」部門の取引が増加した。さらに、入会希望者は事前にプラス残高を要求し、マイナス残高には難色を示した。研究者は残高がマイナスであることは悪いことではないことを会員に説明し、プラス残高を得るために「レジリエンス、開発、起業家精神、栄養に対する評価」部門で行うサービスや提供する商品を会員に提案することに努めている。 続いて2名の討論者からコメントがあった。 ジャクファー先生は、インドネシア国内のローカル・コミュニティや先住民コミュニティに現在14の地域通貨が存在していることを紹介した。これらのコミュニティ通貨システムでは木製のお金が使用されていることも興味深い。 最後に地域通貨研究の第一人者である栗田先生が「『萬社会』は会員の借金を認めているから全員が多くの商品やサービスを手に入れようとするのではないだろうか?しかし、そのようなことは決して起こらない。すべての会員は、借金を減らすことでコミュニティへのコミットメントを示す。残高がマイナスになったメンバーは、どうすれば『萬社会』に貢献できるかを考える。その結果、会員は自分自身の可能性を再発見する」と強調された。 EACJS学会の後に、栗田先生の手配で研究チームは「よろず屋」の故郷である佐川原市の藤野へ見学に行った。藤野電力とパーマカルチャー・センター・ジャパンの担当者らのお話を伺い、サイトを案内していただいて皆が楽しい半日を過ごした。 言葉の限界があったものの、この大会に参加できて大変勉強になった。 当日の写真 <フェルディナンド・マキト Ferdinand_C._MAQUITO> SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center_for_Research_and_Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。     2023年12月14日配信  
  • 2023.12.08

    せん亜訓「第7回東アジア日本研究者協議会パネル『帝国という言説空間の越境・連帯・抵抗―アナーキズムと現代詩、フリージャズ』報告」

    2023年11月の「東アジア日本研究者協議会 第7回国際学術大会」(会場は東京外国語大学)に向け、6月には私を含む台湾と韓国、日本出身の7名の若手研究者がパネル企画の検討を開始した。   同協議会が提示したテーマを基に私たちは「帝国という言説空間の越境・連帯・抵抗―アナーキズムと現代詩、フリージャズ」を提案した。パネリストの専門分野は多岐にわたっているが、東アジアの歴史認識と政治的イデオロギーの齟齬、トランスナショナルな連帯の問題について関心を共有している。共通課題は帝国と社会の周縁を生きてきた運動家、文学者、音楽家の立場から越境する連帯と抵抗のダイナミズムを描き出すことが挙げられる。東アジアの内部でありながら互いの外部にもなる台韓日の間に生まれてくる議論の底力を、パネルの形で発信することが本企画の特徴と考えた。   大会の3日間は、初日から晴れていて暖かかった。私達のパネルは最終日朝のセッションで、寺岡知紀氏(中京大学)のオープニングから始まり、「帝国に抗するアナーキズムを再考する―大杉栄の所有と連帯の論理を手がかりに」(せん亜訓:放送大学)、「戦中・戦後の台湾における石川啄木の受容―文学サークル銀鈴会メンバーを中心に」(劉怡臻:慶應SFC中高部)、「谷川雁の〈工作者〉における力学とフリージャズ」(羅皓名:台湾中央研究院)の3つの報告と、それに対する蔭木達也氏(慶應義塾大学)、閔東曄氏(東北学院大学)、趙沼振氏(淑明女子大学)のコメントを経て、フロアからの質問と総合討議が行われた。   私の報告は1920年に自由連合の主張にたどり着いた大杉栄思想を、第一次世界大戦後の社会問題熱にともなう帝国問題に対する省察と捉えた。そのなかで、自由連合の構想を支えた「労働者の自己獲得」と「蓋然的ソリダリテ」の論理は、脱植民地化への共鳴としての主体の創出と、ポスト大逆事件の社会状況の両方への応答として検討された。この二つの論理は、経済決定の克服を試みた草の根の民衆的創造であり、脱植民地化の広がりを意識してその内面化を試みた越境する連帯のきっかけともいえようと結論付けた。   劉氏は、戦前から戦後まで文芸活動を続けた銀鈴会の朱実と錦連の詩作における啄木文学の受容について発表した。そのなかで、第二次世界大戦中の台湾における伝統的な詩の形式から距離を置いた啄木調の再生産と、戦時中の心理の屈折を意識して正直に記録するという啄木の短歌観への共鳴が示唆された。戦後の2・28事件及び白色テロによる弾圧を受けつつも、啄木文学を自らの抵抗と結びつけた面は、戦後の権威主義体制へのポストコロニアルな応答として捉えた。そして、銀鈴会の「民衆の中へ」のスタンスは、左翼文学史の文脈にとどまらず、台湾の郷土文学との継承関係を示したと論じられた。   羅氏は1960年代の平岡正明と相倉久人の「ジャズ革命論」を取り上げた。谷川の「工作者」の論理が媒介した60年安保の革命思想と前衛芸術、下層労働者のあいだに生まれた「反定型」と相互破壊的な関係性、辺境的マイノリティといった概念をジャズ演奏の歴史映像を通じて説明された。具体的には、異質な他者の間の破壊的な弁証と、自己消滅により継起するノートを呼び起こすという永久革命の企てを持つジャズの結合を論じた。その上で「ジャズ革命論」の意義に関しては、美学と政治の批判的実践のみならず、第三世界論と新左翼運動のパラダイム転換、マイノリティへの眼差しから解釈した。   3つの報告について、3名の討論者が各自の専門から出発し、東アジアの歴史を振り返りつつコメントし、パネル全体との接点を作って質問した。(1)蔭木氏からは、煩悶青年の文脈および自己と国家、社会の関係性から生まれた大杉の「社会的所有」の意味合いと「蓋然的ソリダリテ」の発想に及ぼす根拠、(2)閔氏からは、戦時期植民地知識人の抵抗と戦争擁護の絡み合いから啄木文学の受容の再検討と、戦中から戦後への啄木調の植民地的展開の再認識、(3)趙氏からは、ジャズの即興演奏を他者との出会いとして捉える理解とその妥当性、マイノリティや下層民衆の枠に収まらない社会的矛盾と植民地支配の位置づけ、といった質問があった。   参加者からは文脈の補足や議論のさらなる展開を求められたが、90分の時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。総合討議では抵抗の日常性と民衆性につながった「社会」と連帯の構想を接点に、帝国と植民地、支配と抵抗の間)の思想的連続と緊張関係が、同時に思想と文学、芸術に反映されたと語られた。同時に、異質なるものが構造的支配に回収され、暴力の装置に右旋回してしまうおそれへの問題関心は、東アジアの歴史認識と政治的イデオロギーのあつれきに関係し、看過できない課題だと、パネリスト同士で共感した。時間内に収まらない議論は、昼食後の雑談まで続いたが、帰らないといけない時間になった。台湾と韓国、日本の各地から集まってきた私たちは、今回のパネルの成果を養分として蓄え、次回の企画に力を注いで行きたい。   当日の写真   <詹亜訓(せん・あくん)CHAN Ya-hsun> 台湾国立交通大学社会と文化研究科修士。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻修士、博士。現在日本学術振興会外国人特別研究員として早稲田大学政治学研究科に在籍している。専門は、東アジア政治・社会思想史。
  • 2023.11.16

    江永博「第10回日台アジア未来フォーラム『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』報告」

    2011年から始まった日台アジア未来フォーラム(JTAFF)は19年5月に国立台湾大学で実施された第9回までは連続して開催され、本来であれば20年5月に初めて日本で第10回が行なわれる予定であった。しかしながら、周知の通り日本では同年1月に最初の新型コロナウイルス感染者が確認され、イベントの中止・延期・自粛をはじめ、組織・機関も時短・利用制限による一時的閉館や立入禁止を余儀なくされた。その後は在宅勤務・オンライン授業・会議などの形式が活用されていった。オンラインの利便性・安全性のメリットにより現在でもハイブリッド方式が活用されているが、対面でなければ共有・体験できない場合がある。4年半ぶりに開催された本フォーラムは、その代表的な一例である。   前置きが長くなったが23年10月21日(土)に島根県のJR松江駅前施設「松江テルサ」で開催されたフォーラムがなぜ対面でないと真価を問うことが難しいかというと、『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』というテーマに尽きる。日本最古の歴史書『古事記』にも登場し日本酒発祥の地とされる島根県で、醸造酒をテーマに日台の関係者が相互理解を深めるために対面で開催することに大きな意味があった。   フォーラムは渥美財団今西常務理事の開会挨拶でスタートした。 最初は島根大学法文学部の要木純一先生の講演「近代山陰の酒と漢詩」。詩仙と称される李白の代表作の一つ「月下独酌」の冒頭「花間一壺酒 獨酌無相親 舉杯邀明月 對影成三人(後略)」(花間[かかん]一壺[いっこ]の酒、独り酌[く]んで相親しむもの無し、杯[さかずき]を挙[あ]げて名月を迎え、影に対して三人と成る(後略))からもうかがえるように、酒と作詩のような「知的創造」との付き合いは長い歴史を持つ。要木先生は明治36年(1903年)から戦後まで松江に存在していた「剪松吟社」の活動を通して、近代山陰地方に於ける事例を紹介した。明治30年代に入ると漢詩・漢学的教養はすでに衰退の兆しがあったため、剪松吟社は最初から漢詩・漢学的教養の振興を目標として、機関誌『剪松詩文』の発刊や詩人大会の開催を行い、一時的には全国的な漢詩復興運動の一拠点と見なされるほど、活発な活動を進めていた。   昭和に入ると高齢な指導者を相次いで失い、詩人の力量低下と相俟って活動は衰退に向かい、戦後自然消滅したが、今回取り上げたのは昭和5年(1930年)10月の『剪松詩文』に収録された「若槻克堂公歓迎雅集」。若槻克堂とは日本首席全権として同年のロンドン軍縮会議に参加した若槻礼次郎のことである。国内では一部反対の声もあったが、軍縮会議は難航の末合意されたため、松江に帰った若槻に対して剪松吟社は「錦衣帰郷」の歓迎雅集を行なった。そこでは柏梁体連句が詠まれ、その中に「詩酒応忘利名栄」「共仰高風挙杯迎」「一醉似忘衣錦栄」「誰是詩弟誰酒兄」「平和会裏闘酒兵」「柏梁詩成挙巨觥」「対月豪飲気如鯨」のような句が見られ、酒と漢詩・歓迎雅会との相乗効果が句の内容から見て取れる。最後は若槻により軍縮会議後の心境をうかがわせる「詩中天地自和平」で締められたが、午後7時から始まった歓迎雅集は三更(午後11時〜午前1時の間)まで盛り上がったという。   次の島根県産業技術センターの土佐典照先生の講演「島根県の日本酒について」は、「神様はお酒が好き」という島根と神話から展開された。島根県にある酒蔵30社および二つの酒造り職人集団を紹介した上で、日本酒の造り方についての詳細な説明があった。製造技術の基礎知識として環境と気象(気温・降水量)、水(硬度)、米(品種)とその処理(精米)、麹(生育・製造工程・品質)、酒母と酵母(製造操作)、仕込みと管理と搾りについて詳しく説明。普段何も考えずただ美味しくいただく日本酒の生産過程で、今まで「伝統」として引き継がれてきた酒造技術が更に科学的な技術を通して検証・進化されていくことに筆者は驚きを禁じ得なかった。   講演の後半では日本酒のラベルの見方、吟醸・大吟醸など特定名称の清酒の分類、甘辛度と濃淡度など「実用的」な知識のほか、島根の酒の味と食生活に於ける地域の特性に焦点が当てられた。日本列島沿いに北上する対馬暖流の恩恵もあって島根県で採れる日本海の漁業資源は豊富であり、その魚を活かした島根料理の代表として「へかやき」が取り上げられた。この甘辛い醤油で味付けられた魚のすき焼きに合うように、島根の酒も旨味重視の傾向が見られる。最後は魚料理に留まらず、今後は果実を使った和風料理にも合う香り高い吟醸酒に注目し、酒の新たな魅力の発見に力を注ぐという。   休憩時間には島根県の日本酒(生酛原酒)と台湾紹興酒・中国紹興酒・酒肴が供され、前半の講演を思い出しながら試飲・試食を楽しみ盛り上がった。   台湾煙酒株式会社埔里酒廠の江銘峻先生による最後の講演「台湾紹興酒のお話」は、台湾紹興酒の歴史から始まった。紹興酒は世界三大古酒の一つであり、中国大陸を起源とするが、いつ台湾に渡ったかについては定かではない。ただし、台湾総督府専売局時代にはすでに生産記録があった。戦後、1949年に蒋介石の指示により埔里で紹興酒の試醸造が始まり、50年代に入ると市場化に成功して世界30余国に輸出された。80年代には年間の最大生産量が230万ダースに達した。90年代以後は、国民の飲酒嗜好の変化により徐々に市場を失い、95年頃には紹興酒を使ったおこわ、煮物などの特色食品・料理が開発された。現在、製品の高度化に成功した「状元紅」・「女児紅」・20年以上の「陳年紹興酒」以外、台湾における紹興酒の主な用途は料理になった。   台湾紹興酒の歴史を把握した上で、「紹興酒の伝統的な醸造法」と「台湾紹興酒の作成工程」が紹介された。同じ紹興酒にも関わらず、伝統的な醸造法に対して、台湾紹興酒はどのように独自の進化を遂げたかが浮き彫りになった。さらに同じ醸造酒の日本酒と比較し、最後は「夏は常温か冷蔵」「冬は38〜42度ぐらいまで間接加熱したら、より香り高い」「味変(あじへん)には台湾梅干し・生姜・レモン、カクテルにはソーダ・コーラ・ジュース」など紹興酒のお勧めの飲み方や、「適量の飲用では血液循環と新陳代謝を促進し、体力を増強し、耐寒性を増す」と言った紹興酒の栄養価など「実用的」な情報を教えてくださった。   質疑応答では、「中国紹興酒・台湾紹興酒・日本酒における仕込みの段数の差」「紹興酒の伝統的な醸造過程でヤナギタデの粉を入れる理由は何か」などの質問があった。筆者にとって一番興味深かったのは、台湾紹興酒の市場占有率であった。台湾では2002年1月まで煙草・酒の生産・流通・販売は煙酒専売局に独占されていたが、専売制度が廃止されてから、台湾煙酒専売局は「台湾煙酒株式会社」に変わり、煙草・酒の生産・流通・販売も国営の専売事業ではなくなったにも関わらず、生産・流通・販売する紹興酒は、台湾市場全体の99%を占めている。換言すれば前述した「台湾では現在製品の高度化に成功したが、主な用途は料理に取って代わられた」紹興酒の現在の位置付けも、これからの方向性もこの会社の方針に左右される。これに対して、冒頭で紹介したように日本酒を醸造している蔵は島根県だけでも30社に及ぶ。環境・気象・水・米と製造過程などの差によって「薫・爽・醇・熟」など多様な風味が味わえる日本酒は、「ボディが醇厚」で基本的に「アミノ酸味がメイン」の紹興酒とは異なる道を歩んできた。どちらが正しいか断言できないが、今回のフォーラムを通して得られた経験は今後互いにいかなる道を歩むかを検討する際に参考になるだろう。   質疑応答後、隣の会議室で懇親会が行われ、今回のフォーラムのテーマでもある島根の日本酒と台湾紹興酒のほか、講演の中で言及された島根の魚も大きな舟盛で提供された。参加者一同おいしい料理をいただきながら7種類の日本酒と6種類の紹興酒を飲み比べ、対面でなければ共有・体験できない貴重な経験を積むことができた。約4年半ぶりに開催された日台アジア未来フォーラムは、日本各地および台湾からの参加者が50名ほど集まった。台湾での開催と比べ規模は多少小さくなったが、筆者にとって会得できたものは決して少なくなかった。日本酒発祥の地とされている島根県で『日台の酒造りと文化:日本酒と紹興酒』に参加できたことは、まさに「百聞は一見に如かず」「万巻の書を読み 千里の道を行く」の体現だと信じている。今後は基本的に今まで通り台湾で行われるであろうが、時には今回のように地域の特性を活かしたテーマと内容を選定・計画すれば予想外の収穫が得られるかもしれない。   当日の写真   <江永博(こう・えいはく)CHINAG Yung-Po> 2018年度渥美奨学生。台湾出身。東呉大学歴史学科・日本語学科卒業。2011年早稲田大学文学研究科日本史学コースにて修士号取得。2020年10月から常勤嘱託として早稲田大学大学史資料センターに所属、『早稲田大学百五十年史』第一巻の編纂に携わった。2023年4月より助手として早稲田大学歴史館に所属、現在『早稲田大学百五十年史』第二巻の編纂業務に従事しながら、「台湾総督府の文化政策と植民地台湾における歴史文化」を題目に博士論文の完成を目指す。専門は日本近現代史、植民地期台湾史、大学沿革史編纂。     2023年11月16日配信  
  • 2023.11.09

    アキバリ・フーリエ「第19回SGRAカフェ「国境を超える『遠距離ケア』」報告」

    2023年10月14日(土)、「国境を超える『遠距離ケア』」をテーマに第19回SGRAカフェが開催されました。午後2時から約2時間にわたり、討論者による議論と参加者全員によるグループディスカッションが行われました。実際に財団に足を運んでくださった参加者とオンライン参加を合わせて約50名で開催され、非常に有意義な時間となりました。   5名の討論者は国籍や研究の専門分野が異なることもあり、さまざまな視点から課題について議論できました。司会と討論者であった私(アキバリ・フーリエ)以外に、長年にわたり日本の介護に関する研究を行っている張悦さん、そして2017年度の元渥美奨学生で、良き友人であり研究仲間でもある沈雨香さん(早稲田大学)、ファスベンダー・イザベルさん(関西外国語大学)、レティツィア・グアリーニさん(法政大学)が参加し、意見を交換しました。   私たちが生きている21世紀はグローバル化が進み、年齢や国籍を問わず世界中でキャリアを築く人々が増加しています。母国から離れて異なる地域で生活基盤を築くことで多くの成功を収める一方、通常直面することのない課題も出てきます。その中の一つが、母国に残る家族へのケアの問題です。   今回は、母国に残る家族への「ケア」を出発点として、育児や異国での自己ケアについてもディスカッションしました。ケア・コレクティブは『ケア宣言 相互依存の政治へ』(岡野八代・冨岡薫・武田宏子訳/解説、大月書店、2021年)の中でケアを「やりがいのあることと同時に、極度の疲労を伴う現実」と述べています。ケアには関心、不安、悲しみ、嘆き、困惑といったさまざまな感情が絡み合っており、現代社会において非常に重要なテーマであると同時に、忙しい現代社会ではどこかで見落とされがちな課題でもあると思います。   したがって本カフェでは「本日の議題」として3つの質問を討論者に投げかけました。そして、「国境を越えて日本で生活しながら、ケアについて感じてきた思いと経験」について議論し、今後の「日本における国境を超える遠距離ケアの実態と背後にある要因」を考えました。   まず、「ケア」とは何かについて議論が交わされました。討論者たちの発言から「家族へのケアと自己ケア」にはネガティブな側面がある一方で、いくつかの工夫をすればポジティブに変えることができるのではないかという意見が出されました。   張さんの考えは「個人の力だけでなく、皆さんと協力することによってより強力になる」です。例えば、日本では「包括ケアシステム」という言葉があります。多くの異なる健康関連サービスや専門家が連携し、総合的かつ包括的なケアを提供するアプローチを指しており、横断的な連携を強調しています。この視点から、在日外国人の遠距離ケアの問題を解決する一つの方法として、在日外国人自身も「多文化コミュニティの中での協力」を積極的に促進することを提案しました。   一方、イザベルさんは来日してから「ケア」という言葉が自分の中で徐々にネガティブな意味合いを帯びてきたと語り、その背後にはドイツの介護システムの充実があることを指摘しました。ドイツでは社会福祉システムや社会保険などが充実したサービスを提供しており、親の介護は子供の責任という考え方はあまり一般的ではないので、「ドイツの親のことよりも、日本でのケア(自分と夫の老後、日本の親のケアなど)の問題が非常に気になります」という言葉には在日外国人が直面する葛藤が見られました。   また、レティツィアさんもケアは単なる育児や介護といった活動だけでなく、そして「(核)家族」という個人の私的な領域に限らず、より多面的に考えるべきだと述べました。つまり、個人が家族の個人的な問題を解決するだけでなく、コミュニティによるケアや政策的なアプローチを含め、様々なレベルでケアの問題を考慮しながら解決策を模索する必要があるのではないか、と問いかけました。   沈さんと私は、韓国とイランには以前の風習が残っており、両親の介護は家族にとって重い負担であり、親を介護施設のような老人ホームに預けることは社会的にはまだタブーとされていることを実体験を通じて語りました。イランでは近年、少子化の問題や若者の海外移住(年間約6万5000人)が懸念されており、昔のように子供が親の面倒を見たり、両親に孫の世話をしてもらったりするということが期待できない状況にあり、家族の構造が変わりつつある時期に入っていると紹介しました。   その後、参加者全員が会場2つとオンライン3つの計5つのグループに分かれて本日のテーマについてディスカッションをしました。   グループワークに参加した方々の中には、もうじき自身が介護されるかもしれない立場になるという方もいらっしゃったため、「両親の視点」からも意見を聞くことができました。このテーマについて二つの世代が共に考えて語り合う場ができ、非常に興味深かったです。彼らは「健康の維持」と「独立して暮らせる環境の整備」を希望していました。また、あるグループの意見では「安心できるケア」というキーワードも挙がりました。どうしても日本に住む外国人という立場では、コミュニティの一員として認められたり、ケアを提供したり受け入れたりする一員として認識されたりすることが難しいことが多いため、実際に「安心できる」ケアが得られる可能性はかなり限られているかもしれません。   最後に、ケアという言葉が本来持つべき温かくポジティブな意味合いを実現するためには、一人だけの力ではなく、さまざまな知恵と協力が必要であることを学びました。そこには、一つの正解があるわけではありません。   「遠距離ケア」については、年明けに張さんと両親のケアについて話していた際、このテーマでより多くの人と語り合いたいと思ったことが発端となって、このような場を設けることができました。今後も「遠距離ケア」に関する議論を続け、一緒に語り合えるメンバーを増やしていきたいと思います。また今回、私の実母もたまたま来日していたため、イベントに参加してもらいました。両親とはなかなか面と向かって語り合う機会が得られないことから、このような場で話し合えたことは私にとっては深い意味があり、忘れられない思い出となりました。   当日の写真   <アキバリ・フーリエ AKIBARI,_Hourieh> イラン出身。千葉大学博士後期課程終了(2018年博士号取得)。千葉大学特別研究員、白百合女子大学国語国文学科非常勤講師。2017年度渥美奨学生。日本に在住している外国人、主にイラン人やアフガニスタン人難民の言語環境や言語問題の実態について社会学・言語学の立場から研究。多文化共生社会・異文化理解とコミュニケーションについて研究・教育活動。     2023年11月9日配信