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2025.01.18
2024年11月8日(金)~11月10日(日)台湾の新北市淡水区において、「第8回東アジア日本研究者協議会国際学術大会」が開催され、SGRAから参加した4つのパネルの1 つとして「物語空間におけるモビリティ:日本と台湾の児童文学における鉄道旅行の象徴」と「都市空間におけるモビリティ: 多角的な視点からの探求」と題する2 セッション立てのパネルディスカッションが行なわれた。それぞれのセッションは発表者2名、討論者2名、座長兼司会1名で構成され、最近注目されている「モビリティ」をキーワードに国際・学際を跨って幅広い議論が交わされた。
第1部「物語空間におけるモビリティ:日本と台湾の児童文学における鉄道旅行の象徴」
このセッションでは、物語空間におけるモビリティの概念に焦点を当て、日本と台湾の児童文学における鉄道旅行がどのように描かれ、どのような役割や意味を持つかについて深く議論が行われた。モビリティは、単なる移動や冒険の象徴としてだけではなく、成長や変化、また文化的背景を反映する重要な要素としても機能することが明らかにされ、鉄道旅行はその中心的な象徴の1つとして注目された。本セッションでは、鉄道旅行が異なる文化や歴史的背景を有する日本と台湾の児童文学においてどのように共通点や相違点を通じて描かれ、異文化間の理解と交流を促進する役割を果たすのかが論じられた。
[日本児童文学における鉄道旅行]
最初の発表は、イタリア・ボローニャ大学のマリア・エレナ・ティシ先生による「日本児童文学における鉄道旅行」であった。ティシ先生は、日本の児童文学における鉄道旅行の象徴性とその変遷について、近代から現代に至るさまざまな作品を取り上げ、詳細に考察した。特に、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や小川未明の『負傷された線路と月』、さらに現代の絵本『きかんしゃやえもん』、『こんとあき』、『おばけでんしゃ』などが具体例として紹介され、鉄道旅行が近代化の象徴や夢、想像を掻き立てる対象から、懐かしさや安心感を伴う魔法的な乗り物へと変化している点が指摘された。また、鉄道旅行が現実と幻想を兼ね備え、読者に深い問いを投げかける存在であること、そしてその過程で深遠なメッセージを伝える点が強調された。
コメンテーターの東京大学大学院助教・安ウンビョル先生は、鉄道というモビリティテクノロジーを通じて児童文学が持つ社会的・文化的意義を深く掘り下げた点を高く評価した。さらに、鉄道が日本における国家的な象徴性と結びついている点や、鉄道の表象が他のテクノロジーとどのように異なる特徴を持つのかについて、社会史的な視点から研究の可能性を示唆した。関西学院大学の齋木喜美子先生は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』における旅の過程の重要性や、日本の絵本における鉄道の役割について言及し、特に近年の児童文学において鉄道が子どもたちにとって親しみやすく魅力的な存在であり続けていることを指摘した。
[台湾児童文学における鉄道の役割とモビリティの象徴性]
次は、本パネルの企画者である台湾・東呉大学副教授張桂娥による「台湾児童文学における鉄道の役割とモビリティの象徴性─九歌版『年度童話選』(2003-2023)に登場する鉄道関連要素の考察」であった。台湾におけるモビリティ研究の視座を取り入れ、21世紀の台湾児童文学における鉄道関連要素を中心に分析を行った。九歌版『年度童話選』(2003-2023)に収録された461編の作品の中で、鉄道が象徴的に描かれた少数の作品を取り上げ、鉄道や電車が登場人物の成長、冒険、自己発見の過程にどのように寄与しているのかを探求した。鉄道が単なる移動手段ではなく、登場人物の心理的成長や文化的アイデンティティの形成を象徴する存在として描かれている点が強調された。
コメンテーターの齋木先生は、台湾における鉄道モチーフの作品が少ない点に触れ、沖縄の車社会を例に挙げて「軽便鉄道アヒィー」(野村ハツ子)のような絵本が存在するものの、子どもたちの生活に鉄道が関与する機会が少ないことが類似した状況を作り出していると述べた。その上で、今後鉄道に触れる機会が増えることで、新しい作品が登場する可能性に期待を寄せた。
[モビリティという概念は社会変化を捉える有効な枠組み]
「鉄道という乗り物の存在が日台両国の地域文化や歴史的背景とどのように結びついているのか」というフロアからの質問に、セッションを総括した座長である大阪教育大学の成實朋子先生と齋木先生は、日本と台湾の児童文学における鉄道の描写を比較することで、モビリティの社会的・文化的な多様性が明らかになり、特に、日本の児童文学における鉄道旅行が近代化の象徴として、また夢や幻想を喚起する存在として描かれる一方、台湾では鉄道が急速に進展する都市化と地域文化との接点として描かれている点が注目されたという。
最後に、座長の成實先生が、モビリティの発展が児童文学に与える影響についての議論が新しい視点を提供したことを評価し、モビリティという概念が社会変化を捉える有効な枠組みであることが確認されたと総括した。また、今回取り上げた日本と台湾の児童文学に加え、他地域の作品や同時代の大人向け文学との比較を進めることで、さらなる研究の発展が期待できるとの見解を示した。
第2部「都市空間におけるモビリティ: 多角的な視点からの探求」
2つ目のセッションでは、都市におけるモビリティをテーマとし、複数の研究者が異なる視点から研究成果を発表し、活発な議論を展開した。議論は都市鉄道を中心に据え、外国人観光客、日本語学習者、地域社会といった多様な利用者の経験や課題に焦点を当て、技術と教育の融合を通じた新たな理解と解決策を模索するものであった。
[東京圏の鉄道における外国人観光客の移動の実践に関する研究]
最初の発表は、東京大学の安ウンビョル先生による「東京圏の鉄道における外国人観光客の移動の実践に関する研究―モバイル・エスノグラフィーを手法にして―」であった。観光客が移動中に直面する問題や感覚的な体験を明らかにするとともに、鉄道という物理的な施設が観光客の視点からどのように意味づけられるかを論じた。観光客の移動を単なる移動手段ではなく、都市空間における新たな体験価値を創造するプロセスとして捉える視点を提示した点が、本研究の重要な貢献である。
台湾・中興大学の陳建源先生がコメントを行い、研究の新規性を評価するとともに、その手法的課題について指摘した。特に、調査対象である外国人観光客の多様な背景を反映するデータ収集の必要性や、観察行為が観光客の行動に与える影響についての考察が求められるとした。安先生は、こうした指摘を受け、今後の研究においては調査対象の拡大や観察行為の影響をより精緻に分析する必要性を認識していることを述べた。
[CLILの授業実践から考察する日本のモビリティサービスの課題]
次に、台湾・東呉大学の田中綾子先生が「CLILの授業実践から考察する日本のモビリティサービスの課題―台湾JFL学習者を対象にしてー」と題する発表を行った。台湾人日本語学習者が日本の公共交通機関を利用する際に直面する課題を、内容言語統合型学習(CLIL)の枠組みを活用して考察した。学習者が交通サービスに関する知識を深める過程を分析し、それが日本語能力や訪日旅行への意欲にどのような影響を与えるかを論じ、日本語教育のシラバスに交通関連の内容を導入することの教育的意義について提言した。
台湾・開南大学の陳姿菁先生がコメントを述べ、本研究の独自性と応用可能性を高く評価した。一方で、学習者の背景に基づくさらなる詳細な分析や、対象範囲の拡大についての課題を提示した。田中先生は、より多様な学習者のデータを取り入れることで研究を深化させる意向を示し、教育現場での実践的応用を目指す姿勢を強調した。
最後に、パネルの座長である張桂娥が総括として、本セッションが都市モビリティに関する研究を文化的、教育的、技術的視点から多角的に考察した点を評価し、特に外国人観光客や日本語学習者といった多様な利用者の経験に焦点を当てた意義を強調した。また、教育と技術の連携を通じた公共交通サービスの改善が、都市の持続可能な発展に寄与する可能性についても触れた。多文化的視点を取り入れた研究が現実社会の課題解決にいかに貢献できるかが明らかにされたことは重要な成果である。本セッションで得られた議論の成果は、今後のモビリティ研究や教育実践にとっても大きな示唆を与えるものであり、持続可能な交流と相互理解の深化に寄与する可能性を秘めている。
[モビリティという概念が持つ広がりと深さと学際的研究の可能性]
2つのパネルセッションにおける4本の研究発表の成果を総括すると、都市空間と物語空間におけるモビリティのメタ概念が、それぞれ補完的な視点で深く探求されたことが明確に見えてくる。都市空間におけるモビリティは、物理的な移動や社会的な機能にとどまらず、文化的、教育的、そして体験的な側面をも包含し、個人やコミュニティにとっての意味を再定義するものとして捉えられる。一方、物語空間におけるモビリティは、物理的な移動が持つ象徴的な意味や、登場人物の成長、自己発見、さらには文化的アイデンティティの形成に深く関わる側面として現れた。
これらの研究を通じて、都市空間におけるモビリティと物語空間におけるモビリティが、互いに補完し合う形で学術的に展開される可能性が示唆された。都市空間のモビリティは、物理的な移動とともに社会的・文化的な変革を促す力を持っている一方、物語空間のモビリティは、個々の登場人物がどのように自己を発見し、文化的アイデンティティを形成していくかという象徴的・哲学的な側面を内包している。両者は異なる領域でありながら、モビリティという概念が持つ広がりと深さを示しており、今後の学際的な研究において、都市と物語の相互作用を探ることで、新たな知見が生まれることが期待される。
ポストコロナの時代においてこそ、人々の往来の意義や移動の真価を再確認することが急務である。こうした時期に、手厚いサポートとともに、多国籍の学者たちと我が出身国である台湾で知的交流を深める素晴らしい機会を提供してくださった渥美国際交流財団には、深く感謝の意を表す。また、遠路はるばる「移動」して一堂に会した報告者、討論者、座長(司会)を務めた先生方に対しても、改めて感謝の意を申し上げたい。(文中敬称略)
当日の写真
<張 桂娥(ちょう・けいが)Chang_Kuei-E>
台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科副教授。授業と研究の傍ら、日台児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。
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2025.01.16
2020年代も半ばに差し掛かった現在、言論の自由や人権保障といった民主社会を支える最も基本的な倫理的前提が新たな挑戦に直面している。ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエル・パレスチナ紛争といった国際的な紛争、少子高齢化や若年層の貧困問題といった日本国内における課題まで、私たちの社会は不安と恐怖を伴う多くの困難に直面している状況だ。
こうした中、政治的保守勢力は、複雑かつ国境を超えた宗教、政治、経済ネットワークを通じて連携を強め、社会の周縁に位置するマイノリティ――少数民族、移民、労働者、性的マイノリティなど――を、人類社会の進歩や伝統的な宗教文化的価値観、民主的制度、さらには社会の安定そのものを脅かす存在として再構築しつつある。これらの動きは、多様性と自由を否定するだけでなく、「自由」という概念そのものを見直す必要性を私たちに問いかけている。現代社会の基本的、倫理的前提として位置づけられてきた「自由」は、果たして今日の複雑化する社会問題に対抗するうえで十分なものか。また、「自由」をめぐる闘いには新たな可能性が存在するのか。これらの問いに向き合うことは、現代に生きる私たちにとって喫緊の課題だ。
2024年8月10日から11日にかけて、タイのチュラーロンコーン大学にて開催された「自由の限界と可能性」と題する第7回アジア文化対話の円卓会議が、渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)の主催で開催された。事例に根ざした議論と意見交換が繰り広げられ、主にアジアの文化や社会における自由の意味や実践について検討した。会議では学術的な議論に加えて学者、研究者そして活動家の間の経験共有と交流が重視された。
◇プログラム
【1日目】
司会:Sonja・PF・Dale(アジア文化対話プログラムディレクター)
発表1:Yingcheep・Atchanont(iLawディレクター)
討論:Jose・Jowel・Canuday(アテネオ・デ・マニラ大学准教授)/Carine・Jaquet(独立研究者)/郭立夫(筑波大学助教)
発表2:Miki・Dezaki(独立ドキュメンタリー映画監督)
発表3:Bonnibel・Rambatan(New_Naratif編集長)
討論:Jose・Jowel・Canuday/Mya・Dwi・Rostika(大東文化大学講師)/郭立夫
【2日目】
司会:Sonja・PF・Dale
発表1:Nyi・Nyi・Kyaw
発表2:Thigala・Sulathireh(Justice_for_Sisters)
討論:武内今日子(関西学院大学助教)/Carine・Jaquet
会議は3つのセッションから構成された。
1日目の発表1では「タイの自由」を調査・記録してきたiLawという非政府組織(NGO)リーダーのYingcheep・Atchanont氏が、タイにおける君主の尊厳に対する不敬罪などを定めた「レーザー・マジェステ法」を始めとする自由の制約について紹介、議論が交わされた。そこからタイ社会における少数民族問題や情報アクセスの制約まで展開し、公式文書公開の必要性や、何を持って自由を享受すべきかを検討した。
発表2では「表現の自由」を主題に、独立ドキュメンタリー映画監督のMiki・Dezaki氏が自身の体験に基づいて慰安婦問題をテーマとしたドキュメンタリーを日本で上映した後に遭遇したバッシングという自身の体験に基づき、日本の右翼文化を指摘した。「言論の自由」を掲げながらも、右翼団体や活動家たちが言論に制限をかけようとしている矛盾した様子が実体験として共有された。
発表3では、主にインドネシアで活動するオンライン情報プラットフォームのNew_Naratifの編集長Bonnibel・Rambatan氏が、アジアにおける3つの「自由の技術」に関する分析を提示し、既存の価値観や物質的基盤、アルゴリズムがもたらす影響について発表。これまで冷静かつ客観的とされてきた科学技術も実際は人の自由を制限する武器として利用されることを明らかにし、科学技術の力を自由を守るためのものにするためのアプローチについて提案した。
2日目のセッションでは「存在する自由」に着目し、Nyi・Nyi・Kyaw氏が南東アジアにおける移住の問題を提起した。ミャンマーのクーデターの例など、実践に根ざした詳細な報告と検討が行われた。続いて、Justice_for_SistersのThilaga・Sulathireh氏がクィア・フェミニズムの観点から、マレーシアにおける性的マイノリティのLGBTQコミュニティーが目指す実践について発表した。
通底する議論は「自由」の視点から現代社会の多様性を探るものであり、論者たちの主張や経験はアジア全体に広がる問題を提起していた。参加者は「自由が広がる」とはどのような状況が展開されるのかを議論しながら、文化対話的な観点を提示した。何が自由を促進し、何が自由をそぐのかに関する議論は、参加者自身の問題意識を深めるものとなった。これらの議論から見出された制約の要因や自由の展望については、さらなる分析や討論の次の機会へとつながる要素を含んでいる。特に現代社会の多様性を議論する中で、自由の意味を再定義する視野の必要性も明らかになった。
当日の写真
<郭立夫(グオ・リフ)GUO_Lifu>
2012年から北京LGBTセンターや北京クィア映画祭などの活動に参加。2024年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻で博士号を取得。現在筑波大学ヒューマンエンパワーメント推進局助教。専門領域はフェミニズム・クィアスタディーズ、地域研究。
研究論文に、「中国における包括的性教育の推進と反動:『珍愛生命:小学生性健康教育読本』を事例に」小浜正子、板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(2022年)、「終わるエイズ、健康な中国:China_AIDS_Walkを事例に中国におけるゲイ・エイズ運動を再考する」『女性学』vol.28, 12-33(2020 年)など。
2025年1月16日配信
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2025.01.09
2024年11月23日(土)午後3時(日本時間4時)より第18回SGRAチャイナ・フォーラム「アジア近代美術の〈西洋〉受容」が北京外国語大学日本学研究センターで開催された。新型コロナウイルスのパンデミックが終息した後、フォーラムは5年ぶりに北京に戻り、対面とオンライン参加のハイブリッド形式で日中両国の視聴者に同時配信した。
11月の北京はすでに冬に入っているが、当日は暖かく穏やかな天気だった。孫建軍先生(北京大学日本言語文化学部)が司会を務め、主催者代表の周異夫院長(北京外国語大学日本語学院日本学研究センター)と後援の野田昭彦所長(北京日本文化センター)が挨拶した。前回の第17回SGRAチャイナ・フォーラム「東南アジアにおける近代〈美術〉の誕生」を引き継ぎ、今回は「アジア近代美術の〈西洋〉受容」をテーマとした。講師として日本における東南アジア美術史の第一人者である後小路雅弘先生(北九州市立美術館館長)、指定討論者として王嘉先生(北京外国語大学アジア学院教授)と二村淳子先生(関西学院大学教授)をお迎えした。
長い間注目されていなかった分野である東南アジア美術史は、近年の中国では重要な研究課題と見なされ、関心の高いテーマである。後小路先生の講演は、初期の東南アジアの美術家にとって重要な存在であったゴーギャンを取り上げ、東南アジア近代美術において「西洋」がどのように受容され、そこにどのような課題が反映していたのかを問題提起した。「ゴーギャンの受容」は画家自身を文明の側におき、対象を野蛮な他者とする図式が見られる。その背景には植民地体制を脱し新たな多民族多文化による国民国家の建設を目指す中で、ナショナル・アイデンティティーの形成、あるいは国民文化の創造という国家的な要請もあった。異国趣味的な女性像を乗り越えるため、ゴーギャンの造形性は参照すべき格好のモードであり、規範でもあった。国民国家の形成過程における「国民」の発見と重なり合い、いわば他者の発見と自己の探求が分かちがたく結びあっているところに、東南アジア近代美術に固有の問題と表現を見出すことができると指摘した。
自由討論は前回と同様にモデレーターの名手、澳門大学の林少陽先生によって進められた。ベトナム研究の専門家・王嘉先生は、20世紀初期のベトナム美術教育とベトナム近現代美術をテーマに補足・報告した。二村淳子先生は『ベトナム近代美術史――フランス支配下の半世紀』(原書房、2021年)の著書で東京大学而立賞(東京大学学術成果刊行助成)を受賞したフランス語圏美術史の研究者である。ゴーギャンとベトナム人画家との関係、特にレ・フー(黎譜)をはじめ、ベトナムの近代画家らも東南アジアの画家らと同様にゴーギャンの影響を受けたことを指摘した。ただし、ゴーギャンがベトナムから見出した「失われた楽園」は地理的な遠方であるのに対し、レ・フーらが見出したのは時間的な遠方、すなわちベトナムの歴史や過去だったと指摘した。
その後、会場から北京外国語大学の学生らや上海大学、九州大学、中国芸術研究院の美術史研究者から多くの質問を受けた。「なぜ野蛮を描いたゴーギャンが東南アジアの近代画家のモデルとなったか」、「陳進の作品から野蛮ではない印象を受けたが、それについてご説明をいただきたい」、「レ・フーの『幸福時代』にゴーギャン以外の要素もあるか」などの質問に対し、後小路先生、二村先生、王先生は丁寧に回答して今回の講演をまとめた。近代国家の成立やアイデンティティーを模索する過程で、ゴーギャンの作品をモデルにする東南アジアの画家たちや台湾の原住民を「高貴」の目線で表現する陳進、ゴーギャン以外のフランス画家からも影響を受けたレ・フォーの諸問題は自由討論で語り切れなかったが、色鮮やかな東南アジア美術についての議論はこれからも続くだろう。
最後に清華東亜文化講座を代表して、王中忱先生(清華大学中国文学科)より閉会の挨拶があった。王先生は後小路先生の講演が植民地主義研究における従来の方法を超え、「他者を認識することは自己を認識・構築することでもある」という示唆的な視点を評価し、国家主義の台頭、均質のグローバル化が進む今日では東南アジアなどの多視点的な討論はきわめて貴重であると述べた。王先生は長年にわたりチャイナ・フォーラムを企画・支援してきた渥美国際交流財団関口グローバル研究会に対して謝意を伝えた。
北京会場、そしてオンラインを含め110名を超える参加があった。講演主題の選択と質疑応答の構成に対してアンケートからも多くの好評を受けた。フォーラム終了後、北京外国語大学の近くにあるレストランで渥美国際交流財団30周年祝賀夕食会が開催された。SGRAを長らく支援してくださっている宋志勇・南開大学教授、北京日本文化センターや清華大学東亜文化講座の先生方、そして中国在住のラクーン(元渥美奨学生)たち、総勢50名の参加者が一堂に会し、大盛況だった。
当日の写真
アンケート集計
<李 趙雪(り・ちょうせつ)LI_Zhao-xue>
中央美術学院人文学院美術史専攻(中国・北京)学士、京都市立芸術大学美術研究科芸術学専攻修士、東京藝術大学美術研究科日本・東洋美術史研究室博士。現在南京大学芸術学院の副研究員。専門は日中近代美術史・中国美術史学史。
2025年1月9日配信
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2024.12.13
2024年11月に台湾淡水市の淡江大学で開催された「東アジア日本研究者協議会第8回国際学術大会」の場を借りて、第11回日台アジア未来フォーラム「疫病と東アジアの医学知識――知の連鎖と比較」を開催した。
3年前にコロナ禍で延期せざるを得なかった本フォーラムであるが、コロナ禍が収束した今だからこその時宜を得た内容となった。
議論の中心は、東アジア及び世界の歴史における疫病の流行とその対処法、また治療や予防に関する医学知識がどのように構築されてきたのか、さらに東アジアという地域の中でどのように知の連鎖が引き起こされ、共有されたのかについてであった。会議後半では、中国、台湾、日本、韓国における疫病の歴史とその予防対策、またそれに関わる知識の構築と伝播を巡って討論を行った。
進行役は私、藍弘岳(台湾・中央研究院歴史言語研究所研究員)が務め、李尚仁氏(台湾・中央研究院歴史言語研究所研究員)、朴漢珉氏(韓国・東北亜歴史財団研究員)、松村紀明氏(日本・帝京平成大学准教授)、町泉寿郎氏(日本・二松学舎大学文学部教授)の4名が発表を行った。これらの報告に対して、市川智生氏(日本・沖縄国際大学総合文化学部教授)、祝平一氏(台湾・中央研究院歴史言語研究所研究員)、巫いくせん氏(台湾・中央研究院歴史言語研究所副研究員)、小曽戸洋氏(日本・前北里大学東洋医学総合研究所教授)の順で発言し討論した。
最初の李尚仁氏の報告テーマは「コロナから疫病史を考え直す――比較史研究はまだ可能であろうか」で、ピーター・ボールドウィン(Peter_Baldwin)の著作を踏まえて、各国の防疫政策の違いについて比較研究が可能かどうかを検討した。李氏によれば、政権の性質や科学的知識は防疫政策に大きな影響を与えない一方で、商業利益、国の行政能力、地理的要因、公衆衛生の歴史的記憶や「パス依存性」などは防疫政策に影響を及ぼす可能性があるとし、これらの観点から疫病史の比較研究の可能性を示唆した。
次に、朴漢珉氏が「清日戦争以前朝鮮開港場の検疫規則の運営」というテーマで報告。日清戦争勃発以前、朝鮮政府が「朝鮮通商口防備瘟疫暫設章程」を制定した後に開港場で検疫規則を運営する過程で現れた改正問題を検討した。また、この検討を通じて朝鮮王朝時代における検疫と主権の問題を提示した。
松村紀明氏は「幕末から明治初期の種痘について」というテーマで報告を行った。千葉県と岡山県の事例を通して種痘の実施状況を比較し、天然痘の治療における民間医師のネットワークの重要性を指摘した。
町泉寿郎氏は「感染症と東アジア伝統医学」というテーマで、『傷寒論』や運気論、温疫学説など、漢方医学史における感染症に関する知識と治療法を論じた。長い歴史を通じた東アジアの伝統医学と疫病の関連を要領よくまとめ、重要なポイントを提示した。
報告が終わった後、休憩を挟んで指定討論に入った。まず、李尚仁氏の報告に対して、市川智生氏は歴史家として、現在発生している事件に対してどのように発言すべきかという問題を提起した。そして、日清戦争後に後藤新平が作った検疫島と、新型コロナの集団感染が起きたダイヤモンド・プリンセス号やその後の水際作戦は、表面的には歴史の継承に見えるものの、質的には異なると指摘した。また、歴史研究者が現在進行形の社会問題に発言する際に何が求められるか、さらに台湾の事例を比較する対象として適切な国・地域はどこかと質問した。
次に、朴漢珉氏の報告について、巫いくせん氏は、防疫ルールの策定と実施において、科学的知識や特定の政治的思想に厳密に基づくものではなく、国家間の交渉と妥協が必要であったことを明確に示しているとコメントした。また、検疫規則が後の時代に継承されたかどうかという李尚仁氏の研究にも関連して、船の消毒に関するヨーロッパ国家と日本の違いは地理的、文化的観点から説明できるのか、自由貿易の理由で検疫に反対することは、当時の朝鮮と日本でよく見られたことなのかと質問した。
松村紀明氏の報告については、祝平一氏がコメントし、「救助種痘」や「種痘勧善社」といった名義で岡山県など地方の医師による種痘の地域ネットワークが形成された点を非常に興味深いと指摘した。その上で中国の事例と比較して、「種痘が利益を生む商売」である中国において医療事業や感染症対策はしばしば地方の士紳(地域社会の行政・経済・文化・教育などの各分野において指導的立場にいた階層の人々)の力を借りる必要があったが、岡山県の種痘事業は寺院や地域の社会ネットワークとどのように関係していたのか、また、明治政府はいつから技術や人員の不足を補い、種痘を国家の公衆衛生体制に組み込むことができるようになったのかと質問した。
町泉寿郎氏の報告に対しては、小曽戸洋氏が日本史における感染症と漢方医学の関係について補足し、特に日本では『傷寒論』が非常に崇拝されていたことや、防疫対策と漢方医学との関連について言及した。漢方医学は当時神仏頼りの部分が多かったが、ダニ科のツツガムシが媒介とする感染症の治療に対しては効果的なアプローチが可能との認識が一般的だったと述べた。
最後に司会の私からも東アジアにおける医学知識の問題に関連し、松村氏に対して、江戸時代における人痘法だけでなく牛痘法に関する中国からの書籍の輸入や翻訳、受容の状況について質問した。また、町氏には、江戸時代における荻生徂徠の五行に対する理解や運気論の受容に関して質問した。
その後の自由討論では、発表者が各々の質問に答え、予定の時間はあっという間に過ぎてしまった。今回4本の論文で提示された問題は非常に多岐にわたるものであった。比較史研究の可能性、朝鮮における検疫規則、幕末期から明治初期にかけての種痘事業、東アジアにおける伝統医学と感染症に関する理解がいかに重要か、などが鮮明に浮かび上がったフォーラムとなった。この会議の成果が疫病と東アジアの医学知識を探究する契機になれば幸いである。日本語と中国語の同時通訳・逐次通訳を入れ、アジア各地からの研究者が活発に議論し合えたとても有意義な機会になったことを感謝申し上げる。
当日の写真
<藍 弘岳(らん・こうがく)Lan Hung-yueh>
中央研究院歴史語言研究所副研究員。専門は日本思想史、東アジア思想文化交流史。これまでの業績に『漢文圏における荻生徂徠――医学・兵学・儒学』(東京大学出版会、2017)、 「臺灣鄭氏紀事》與鄭成功和臺灣歷史書寫:從江戶日本到清末中國」(『中央研究院歷史語言 研究所集刊』第 95 本第 1 分、2024)などがある。
2024年12月19日配信
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2024.12.06
2024年11月8日から10日にかけて、「東アジア日本研究者協議会第8回国際学術大会」が台湾の淡江大学で開催され、東アジアの近代美術史研究者6名を集めて「植民地・租界の美術と美術史」をテーマにパネル発表を行なった。
1980年代末以来、美術史既存の枠組みを再考し、近代日本美術史の叙述から排除された植民地美術史の研究が本格的に日本で始まった。近年の多くの研究成果を挙げていることを背景に、本パネルは天津租界、満洲大連、台湾、朝鮮での記念碑、建築、絵画、書芸などの造形・言説に焦点を当て、美術史の視点から植民地・租界の都市空間、市民生活、アイデンティティの交錯などを検討した。
会期中、台北に隣接する淡水という港町は小雨が降っていた。本パネルは2日目の午後の最初のセッションで、座長は国立台湾大学芸術史研究所の邱函妮先生を迎え、発表当日は時間軸に沿って発表の順序を調整した。「天津租界公園の記念亭と記念碑——東アジアのモニュメントの成立」(李趙雪:南京大学)、「戦前大連の文化住宅と郊外空間」(楊昱/グロリア・ユー・ヤン):九州大学)、「植民地台湾から『外地』を視る—水彩画家・石川欽一郎の朝鮮旅行を中心に」(鈴木惠可:中央研究院)、「植民地における朝鮮の書芸—呉世昌(1864-1953)を中心に」(柯輝煌:東京大学)の四つの発表と、東洋英和女学院大学のマグダレナ・コウオジェイ(Kolodziej, Magdalen)先生のコメントと発表者の議論を経て、フロアからの質問を受けた。
私の発表は天津のイギリス租界のビクトリア公園(1887年)と日本租界の大和公園(1909年)の奏楽堂や記念碑を手がかりに、東アジアのモニュメント概念の受容について検討した。「公園」という西洋の近代的な都市装置が天津租界に移植された結果、新しい都市理念を示すだけでなく、イギリスの権威や、日英同盟、日本の対外姿勢と自己主張の視覚シンボルとなったことを明らかにした。国際政治や外交の要因を背景に、ヨーロッパの奏楽堂(Bandstand)は中国の礼制建築と奈良時代の寺院建築との融合や対話を経て、天津の租界のなかで「記念亭」の雛形として成立した経緯がわかった。
楊氏の発表は日露戦争後の大連の住宅建設に注目し、日本の生活改善運動にも影響を与えた満州の生活改善展覧会(1921年10月29日〜11月2日)の状況を明らかにした。日本国内での中流階級の住宅・イメージを作ろうとした動きは、満州の植民地建設にも見られる。満州の場合、現地の地域性も重視され、1920年代に多くの文化住宅、和洋折衷の住宅が大連で建てられた。ところが、満州の住宅建設を通して明らかにしたように、植民地建設には理想と現実が混在していた。満州の中流住宅は一部だけの日本人に支持され、時には中国人の上流・中流階級の理想の対象にもなったという複雑な状況は今後さらに研究が求められる点とされた。
鈴木氏の発表は水彩画家・石川欽一郎(1871-1945)の朝鮮旅行に注目し、その歴史背景や朝鮮滞在中の活動、経緯などについて考察した。天津、北京、ヨーロッパ、台湾、福州などの各地での旅行後、1933年に石川は朝鮮に旅立った。石川は自らの朝鮮への眼差しは、内地からの画家というより、台湾への植民経験を有する宗主国の画家という自負を持っていたことがわかった。
柯氏の発表では植民地支配下の呉世昌の作品を取り上げ、そこに絡んでくる「檀君と箕子」の問題を提示した。先行研究においては、植民地期に入り、檀君ナショナリズムと天皇制のイデオロギーの間に起きている衝突がしばしば強調されているが、檀君と箕子は互いを排除する関係でしか捉えないのかと柯氏は疑問を提示した。それを背景に、呉世昌の書芸において檀君と箕子はどのような役割を担っていたか検証した。戦時期には箕子朝鮮と楽浪文化が内鮮一体や日本の大陸進出などの言説と絡んでおり、呉世昌の作品とこのような言説がいかに相互に作用しているのかを今後の課題とした。
討論者のマグダレナ先生は「一国美術史」の枠を超え、複数の民族が集まって国境を超える租界・植民地の美術史を再考することはとても重要であると指摘してから、それぞれの発表に質問した。(1)李の発表に対して、日英の二つの租界公園の公共空間を作る際の市民の状況、その受容の様子について。例えば奏楽堂(bandstand)で実際に演奏が行われたかについてなど。また使用した資料の絵葉書のメディアの問題についても検討する必要があると指摘した。(2)楊氏の発表に対しては、大連の住宅は植民地に住んでいた市民の状況を明らかにする重要な手がかりであると評価した一方、日本内地と満州で住宅に住んでいる階級、階層、また文化住宅に対する理想と現実についての具体的な説明を求めた。(3)鈴木氏の発表に対しては、植民地と内地の二元的な考え方より、植民地間の関係という新鮮な視点を提示していると評価した。その上で、石川欽一郎の研究は台湾美術史と日本美術史のどちらからの視点でなされているのかを質問した。日本美術史の文脈から考えるなら面白いテーマになると指摘した。(4)柯氏の発表に対しては、なぜ呉世昌は書芸というメディアで自己の意思をあらわしたのか、植民地研究の抵抗(resistance)・協力(collaboration)という既存の二元論に対して発表者の意見を伺った。マグダレナ先生の質疑に対して、発表者からは文脈、内容をそれぞれ補足し90分の時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
最後に座長・邱函妮先生からのコメントは下記に補足する。
「李趙雪先生と楊昱先生のご発表は、外国勢力によって占領された中国天津の租界や満洲国といった特殊な都市空間をテーマにされました。お二人はそれぞれ、政治的意味を有する記念碑や建造物、また非公共的な住宅空間という異なる視点から考察を行い、これらのアプローチは非常に興味深いものでした。
鈴木恵可先生のご発表は、これまで中央/地方、植民母国/植民地という二項対立的枠組みに依存していた従来の視点から転換し、植民地間の比較という新たな視座を採るものでした。その結果、石川欽一郎が台湾での生活経験を通じて、他の植民地を観察するための比較基準を形成していたことが明らかとなりました。
柯輝煌様のご発表は、呉世昌の書芸とその活動を通じて、植民地支配下における朝鮮ナショナリズムを考察し、新たな論点を提示されました。今後の研究の進展が非常に楽しみです。」
本パネルは多様な美術ジャンルから成り立っているが、参加者の研究方法(美術制度論)はきわめて近いといえる。植民地・租界の美術の史的展開を全うしたとは言いがたいが、方向性や視点の提示などの面では有意義な成果を得た。パネルの後、参加者全員は会場近くのカフェに行き、発表内容についてさらに議論を深めるとともに、自身の研究方向や課題についても紹介した。今後のさらなる交流に向けて良い基盤を築く機会となった。
当日の写真
<李 趙雪(り・ちょうせつ)LI Zhao-xue>
中央美術学院人文学院美術史専攻(中国・北京)学士、京都市立芸術大学美術研究科芸術学専攻修士、東京藝術大学美術研究科日本・東洋美術史研究室博士。現在南京大学芸術学院の副研究員。専門は日中近代美術史・中国美術史学史。
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2024.11.28
ロシアによるウクライナ侵攻開始から3年近くたつなかで、ロシアとウクライナは戦いに対するそれぞれのイデオロギー的根拠を示すとともに、力のおよぶ範囲内で多くの人々を巻き込み、収束が見通せない状況が続いている。本セッションは、一見この戦争と直接的な関係性を持たないモンゴルや中央アジアの人々を事例に、私たちが聞き慣れてきた「多文化主義」がどのように肉薄する戦場で機能しているのかについて考えた。
◇プログラム
総合司会:廣田千恵子(日本学術振興会特別研究員PD
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターフェロー)
趣旨説明:ブレンサイン(滋賀県立大学教授)
基調講演:ウラデイン・ボラグ(ケンブリッジ大学教授)
発表1:メレキ・カバ(チャナッカレ・オンセキキズ・マルト大学准教授)
発表2:廣田千恵子
発表3:ネメフジルガル(モンゴル国科学アカデミー研究員)
討論:ブレンサイン
ユーラシア大陸の諸問題は往々にして中国とヨーロッパという東西の2つの軸を中心に取り上げられ、軸をつなぐ内陸ユーラシア地帯の国家と民族間の横のつながりが見落とされてきた。これらの地域は歴史的にも東西交流の中継地として重要な役割を果たしてきたが、近現代以降はロシアと中国の地政学的力学に巻き込まれ、国際関係の上で複雑な状況に置かれている。複雑さの根源にはソビエトと中国の二大社会主義勢力の長きにわたる統治の遺産があり、現在のウクライナ戦争に象徴される内陸アジア地域の少数民族をめぐる不安定性がどのような経緯で形成されてきたのかを理解することが求められている。
本セッションの特徴は、大国と中央アジアとの関係を分析の中心に据えつつも、西はトルコ、東はモンゴルまで広域にわたる諸民族間の歴史的関係性に目をむける点にある。歴史的に内陸アジアのほとんどの民族と国家は、モンゴル帝国と何らかの繋がりを持っている。内陸アジアの東端に位置するモンゴル国からウクライナ戦争に巻き込まれている地域に分散居住する民族集団の相互交流が、それぞれが所属する勢力圏にどのような影響をもたらしてきたかを整理することは、近現代以降の「東西交流」を理解する上で重要な側面と考える。本セッションでは、こうした問題意識を持って中央アジアとその周辺地域の文化的、社会的相関関係を幅広く取り上げた。
基調講演を行ったケンブリッジ大学社会人類学科のウラデイン・ボラグ教授は、これまでにも関口グローバル研究会(SGRA)に登壇し我々の活動を応援してきた方で、ウクライナ戦争を次のように考察している。
ロシアは、ウクライナに対する戦争を、ウクライナにおけるナチス化への反撃として正当化しており、ロシア軍はチェチェン人やカルムイク人、ブリヤート人、トゥヴァ人、ヤクート人など中央アジアや内陸アジアの少数民族を動員している。一方、ウクライナはロシアの全体主義から民主主義陣営を守る戦いと位置付けており、軍は多様な欧米連合体から支持を得ている。
中央アジアの人々を戦争に幅広く動員しているロシアの状況を、内陸に多くの少数民族を抱える中国と比較すると、内陸アジアの少数民族(主にモンゴル族、ウイグル族、チベット族)が、いわゆる「中華民族の構成員」として見られている点、そして「中国文化と文化的異質体」という相矛盾する体験をしている点に注目すべきである。
ウクライナ戦争におけるこのような辺縁の人々に対する幅広い動員を「戦争多文化主義」と定義し、中央アジアと内陸アジアの人々が紛争に果たしている重要な役割に焦点を当てた。中央アジアの人々がロシア軍に加わったことにより、「モンゴル帝国の歴史的文脈に根ざしたプーチンのユーラシア帝国主義」というウクライナの主張が成り立っている。同時に、これらの少数民族は、ロシアの「ルーシ」と中国の「中華」というより広範な文明的・国家的アイデンティティーの形成に貢献し、ロシアを戦争状態におき、中国をグローバル紛争に備えた状態においていると指摘した。
トルコのチャナッカレ・オンセキキズ・マルト大学で准教授を務めるメレキ・カバ先生(2009年度渥美奨学生)は「現代に根差すトルコ共和国の中央アジアとモンゴルという『故郷』」と題する研究発表で、トルコ共和国におけるモンゴルに対する認識について、歴史的な流れや冷戦時代以降のトルコと中央アジア諸国の政治的・経済的な関係を、特に1990年から2000年の間の動きを視野に入れて考察した。
トルコの歴史教科書では「突厥碑文」がトルコ系諸民族の歴史の最初の記録とされ、アジア大陸の中心に対して特別な意識が持たれている。一方、トルコ人にとって中央アジア諸国、諸民族は同じトルコ系の民族としての「同胞」認識があり、ソ連崩壊後に中央アジア諸国は社会主義陣営から「救済」された、との認識を持つ人が多い。したがって、トルコにとって冷戦以降の中央アジアは再発見された「身内」であり、中央アジアにおける近年の紛争や今般のウクライナ戦争におけるトルコの立ち位置からも、この地域におけるトルコの役割の重要性を理解することができる。
日本学術振興会特別研究員として北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターに在籍している廣田千恵子氏(2022年度渥美奨学生)はモンゴル西部のバヤンウルグイ県におけるカザフ族コミュニティーを拠点とし、中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンなどで幅広くフイールドワークを行った研究を基に、異なる国家に暮らすカザフ人たちの刺繍模様を事例として文化的越境性と分断の面影を考察した。
モンゴル国内のカザフ移民社会のなかで作られた壁掛けの模様デザインと、中央アジア地域の様々なモノの模様デザインとの共通性の分析を通じて、社会主義期の人・モノ・情報の越境の活発さがソビエト全体の文化的流行や美意識を構成していった様子を報告。具体的には、19世紀末にアルタイ山脈北部に移住し、モンゴル国の国民となったカザフ人が社会主義期に作った壁掛けトゥス・キーズの模様デザインは、モンゴルよりもウズベキスタンやキルギスと共通しており、その背景として、1950年代以降にモンゴルのカザフ人が留学や出張のためロシア・中央アジア地域を訪れた際、壁掛けや茶器などを購入し、持ち帰ったことが影響していると指摘した。
モンゴル国科学アカデミーの研究員を務めるネメフジルガル先生(2008年度渥美奨学生)は、「モンゴル国と中央アジア諸国との経済関係」と題する研究発表を行った。1990年の民主化まで、モンゴル国は圧倒的に旧ソ連との関係で経済を運営してきた。体制転換以降は、中国とロシア両隣国との良好な外交関係を維持しながら「第三隣国」として日本や欧米諸国をはじめ、世界各国との経済関係の拡大を目指してきた。近年は特に中国との貿易量が増加し続け、モンゴルにおける中国の影響力が増している。しかし、旧ソ連圏の中央アジア諸国はモンゴルとの地理的距離は近いうえ、双方とも転換後の後遺症や過度の資源依存などの問題を抱えている。互いの経済関係を拡大させるとともに、中国という巨大市場での地位を争う側面もある。中国とロシアの資源貿易、中国とヨーロッパの陸上貿易などもモンゴルと中央アジア諸国の経済関係を複雑化している。モンゴルと中央アジア諸国間における補完性に欠ける経済構造や、内陸という地理的共通性による種々の制限が経済活動の支障になっている。
以上のようにモンゴルや中央アジアの国々にスポットをあてた問題意識は、いまなお続いているウクライナに対する戦争を理解する一つの側面であるのみならず、戦争終結後のユーラシア大陸の地政学的再編における中央アジア諸国の立ち位置を予測するための参考ともなりうる。
<ブレンサイン Burensain>
滋賀県立大学人間文化学部教授。2001年に早稲田大学より博士号(文学)。現在の研究テーマはモンゴル・内陸アジア地域近現代史。
2024年11月28日配信
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2024.11.12
生成AI(Generative AI)の急速な進化は、現代の技術文明の大きな成果であり多くの利点と可能性を持つ一方で、脅威やリスクを伴うことも明らかになってきています。円卓会議では生成AIの可能性とリスクについて教育、学術研究、職場、エンターテインメントの各分野のパネリストを招き講演/問題提起と共にディスカッションを行いました。さらに新しい試みとして、サイエンス・コミュニケーションの研究者をファシリテーターとしてワークショップが開催されました。円卓会議は3時間にわたりましたが、聴衆は100人を超え、AIに対する関心の深さを感じました。
会議は英語で行われ、講演やディスカッションでのパネリストのテーマや論点が入り組んだり重複したりしていますので、筆者の責任で内容を整理し、まとめて報告します。
プログラム
モデレーター:ナイワラ P. チャンドラシリ(工学院大学情報学部教授)
講演1:ダヌシュカ ボレガラ(リバプール大学コンピューターサイエンス学部教授)
講演2:ウィロト アルマナンクン(チュラーロンコーン大学文学部言語学科准教授)
討論1:ライアン ラショット(テンプル大学英語学科助教授)
討論2:ブラホ コストフ(パナソニックEU上級研究員)
討論3:ウダナ バンダラ(ラクテン技術研究所シニア研究員)
ワークショップ
ディレクター:朴ヒョンジョン(北海道大学CoSTEP講師・シニアリサーチサイエンティスト)
情報通信技術(ICT)の革命は、過去数十年にわたり私たちの日常生活に大きな変化をもたらしてきました。特にパーソナルコンピューターの出現からインターネットの普及、スマートフォンの登場、そして現在の生成AIに至るまでの技術革新は目覚ましいものがあります。私が豊橋技術科学大学の学部生だった頃、Mosaicブラウザを通じてインターネットに初めてコネクトしたことを思い出します。私にとって、それはまさに新しい時代の幕開けを象徴する瞬間でした。この時、アーサー・C・クラーク氏の「十分に発達した技術は魔法と見分けがつかない」という言葉を思い出しました。クラーク氏は『2001年宇宙の旅』の著者であり、またスリランカのモラトゥワ大学の学長を務めたことでも知られていますが、この言葉は今もなお、私たちの世界を形作る技術の驚異を見事に捉えています。
伝統的なAIと生成AIの違い
人工知能(AI)という言葉が初めて登場した1956年から、AIは何十年にもわたって研究・開発の対象となってきましたが、従来のAIはルールベースのシステムや特定のタスクを遂行するために設計された機械学習モデルに焦点を当ててきました。これらのシステムは強力ですが、そのプログラミングとトレーニングの範囲に限界があります。一方、生成AIはそれよりも大きな飛躍を遂げています。従来のAIが主にデータを分析して予測や意思決定を行うのに対し、生成AIは新しいコンテンツを創り出すことができます。このコンテンツはテキストや画像から音楽、さらには仮想環境に至るまで多岐にわたります。プログラムされていない新しいコンテンツを生成できる能力は、さまざまな分野で新たな可能性を切り開き、生成AIを革命的な力にしています。
教育におけるAIの影響
教育におけるAIの影響は非常に大きく、多面的です。AIを活用したツールは教育者の教授方法や学生の学び方を大きく変えています。例えば適応学習プラットフォームはAIを利用して、各学生のニーズに応じた教育コンテンツを提供し、個別化された学習体験を実現しています。このアプローチは学生のエンゲージメントを高めるだけでなく、各学習者の強みと弱みを特定して対処することで学習成果を向上させています。
さらに、AIは学生に即時のフィードバックとサポートを提供できるインテリジェントな指導システムの開発も可能にしています。特に数学、物理、化学など段階的な問題解決が重要な科目において、これらのシステムは大きな価値を持ちます。リアルタイムでフィードバックを提供することで、AIは学生がその場で誤りを修正し、重要な概念を強化するのに役立ちます。
しかし、教育にAIを導入することには重要な疑問も生まれています。その中で最も懸念されるのは、教育における人間的な要素が失われる可能性です。教育は単に知識を伝達するだけでなく、批判的思考や創造性、感情知能(EQ)を育むことも含まれます。AIは学習の多くの側面を支援することができますが、教室で人間の教師が提供する微妙な理解や共感を代替することはできません。
学術研究と出版におけるAIの影響
学術研究において生成AIはデータ分析や文献レビュー、さらには研究論文の作成といった時間のかかる作業を自動化することで大きな変革をもたらしています。AIツールは膨大な量のデータを迅速に精査し、人間の研究者が発見することが難しいパターンやトレンドを特定することができます。この能力は研究プロセスを加速させ、科学者がより高度な分析と解釈に集中できるようにします。
また、生成AIは学術出版の民主化にも寄与する可能性があります。執筆プロセスを自動化することで、英語圏以外の研究者も高品質の論文を英語で執筆できるようになり、学術的な議論における言語の多様性が増すでしょう。しかし、この発展はAI生成の研究の真正性や独創性に関する倫理的な懸念も引き起こします。AIツールが責任を持って使用され、適切な帰属と透明性が確保されることが、学術研究の健全性を維持するために不可欠です。
職場におけるAIの影響
職場もまた、AIによって大きな影響を受けています。AIによる自動化は業務を効率化し、コストを削減し、生産性を向上させることで産業を変革しています。データ入力やカスタマーサービス、さらには法律業務の一部など反復的な作業を含む仕事は、ますますAIシステムによって行われるようになっています。この変化により、職場の将来や雇用に対する懸念が生じています。
OpenAIのCEOであるサム・アルトマン氏は多くのホワイトカラーの仕事、特に深い感情的なつながりを必要としない仕事が最終的にはAIに取って代わられるだろうと予測しています。彼はルーティンタスクや反復的な作業が特に自動化の危険にさらされていると指摘しています。一方、Facebook(Meta)AI研究の主任AI科学者であるヤン・ルカン氏は、より慎重な見方を示しています。彼はChatGPTのようなAIモデルは、トレーニングデータの性質や物理的世界、論理、階層的な計画に対する理解の欠如に制約されていると主張しています。ルカン氏によれば、AIが人間の知能に到達することは当分ないだろうとされており、AIが人間の仕事を補完することはあっても完全に置き換えることはないと考えています。
エンターテイメントにおけるAIの影響
エンターテイメント業界でも生成AIによる革命が起きています。AI生成コンテンツには音楽やアート、さらには映画の脚本も含まれます。これらの技術によりクリエイターは新しいアイデアを試し、前例のない規模でコンテンツを制作することが可能になります。たとえば、AIはリスナーの気分にリアルタイムで適応する音楽を作曲したり、視聴者のインタラクションに基づいて進化するビジュアルアートを生成したりすることができます。
しかし、これには人間の創造性の役割に関する問いが生じます。AIは技術的に優れたコンテンツを生成することができますが、人間のクリエイターがもたらす感情的な深みや文化的な背景を欠いています。エンターテイメント業界の課題は、AIの能力を活用しつつ、人間の創造性の独自の特質を保つことにあります。
AIに関する共通の疑問
私たちの議論の中で、AIの将来に対する広範な懸念を反映したいくつかの共通の質問が提起されました。その中でも特に多くの人が関心を寄せたのは、AIによってどのような仕事が置き換えられるかという点です。前述したように、反復的な作業を含む仕事が最も危険にさらされています。しかし、AIによる職業の置き換えの可能性は、低技能の職業に限られるものではありません。法務、医療、金融といった高度なスキルを要する職業でも、AIシステムが進化するにつれて大きな変化が見られる可能性があります。
もう一つの重要な疑問は、AIが人間の知能を超えて人工汎用知能(AGI)や人工超知能(ASI)が誕生する可能性があるかどうかです。この問題については意見が分かれています。AGIの支持者は、さらなる進展が続けばAIが最終的に人間の知能に到達し、さらにはそれを超える可能性があると信じています。しかし、懐疑論者は、現在のAIシステムは常識や感情理解、抽象的な推論能力など、人間の知能を定義する基本的な特質を欠いていると主張しています。
AIの整合性(アラインメント)―AIシステムが人間の価値観や目標に沿って行動することの重要性を過小評価してはなりません。AIが私たちの日常生活にますます組み込まれてゆくにつれて、その倫理的な活用フレームワークと規制を開発することが不可欠となります。AIが活用される世界を実現するためには技術者や倫理学者、政策立案者、そして社会全体の協力が必要です。
未来のAI社会に備える
未来を見据えると、AIが社会においてますます重要な役割を果たすことは明らかです。この未来に備えるためにはAIの可能性を受け入れるだけでなく、それがもたらす課題にも対処する必要があります。AIに依存せざるを得ない世界で成功するためには、必要なスキルを個々人に提供するようにカリキュラムを進化させなければなりません。これにはデジタルリテラシーや批判的思考、そしてAIシステムと協力して働く能力の育成が必要となるのです。
結論として、AIは多くの機会と課題を提供しますが、機械が人間の仕事の一部を担うことがあっても、完全に取って代わることは当面ないでしょう。しかし、「AIを使わない人間は、AIを効果的に使う人間に取って代わられるかもしれな」のです。
当日の写真
<ナイワラ P. チャンドラシリ Dr. Naiwala P. Chandrasiri>
工学院大学情報学部教授。2001年東京大学より博士(情報工学)。現在の研究テーマは、人工知能、コンピュータビジョン、機械学習、ヒューマン・マシン・インターフェース、人間コミュニケーション工学。2001年、米国で開催されたWorld Multi-Conference on Systemics, Cybernetics and Informaticsで最優秀論文賞を受賞、さらに様々な賞を受賞。
2024 年11月16日配信
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2024.11.07
2024年10月5日、第22回SGRAカフェ「逆境を超えて:パレスチナの文化的アイデンティティ」が対面(渥美財団ホール)・オンライン(Zoom)併用方式にて開催されました。1月9日と6月25日に続き、「パレスチナを知ろう」というシリーズの3回目です。
今回は慶應義塾大学総合政策学部の山本薫先生から「パレスチナ文化とは何か?」と題し、長年に渡り混乱する中東情勢の中で形成されたパレスチナ人の多様な文化的アイデンティティをテーマに講演していただきました。
講演では2003年以降、イスラエルにより強制的に立ち退かされたガザの人々が取り組むストリートカルチャーが紹介されました。ガザの若者たちの間では、パルクール競技(街頭運動)、ラップ音楽(街頭音楽)、グラフィティアート(街頭芸術)が盛んに行われているそうです。
講演後、次のような質問が出されました。「戦時下において芸術に時間を割くべきではないという主張が存在するが、パレスチナの若者が創出した芸術作品がいかにしてイスラエルや他のアラブ諸国への抵抗手段として機能してきたのか?」、「政治的アイデンティティが脅かされる構造の中で、芸術を通じてエスニックなアイデンティティを主張することは、芸術作品に政治的メッセージを込めることになると考えるが、イスラエル化を推進するシオニスト政権はパレスチナ人の芸術運動をどの程度規制しているのか?」、「パレスチナ人の芸術はイスラエル国民に受容されているか?」、「日本では、パレスチナの芸術や文化はどのように受容されているのか?」、「日本文化との交流の進展はいかに評価されているか?」。
「芸術作品と政治」について、山本先生は「パレスチナの若者たちがグローバルマーケットに接続する希望はあるが簡単ではない。グローバリゼーションの中で表現の自由を模索しながら、国や資本の論理にとらわれずに自己表現を模索し続けている。国がないからこそ生まれる葛藤や自由が、独自の文化や芸術を形成する原動力となっている」と将来への可能性を指摘しました。
「イスラエルでの受容状況」については、「パレスチナの文化表現はイスラエルだけでなく、一部のアラブ諸国からも危険視され、表現者が命を奪われることも少なくない」と回答。実例として「『太陽の男たち』の著作で知られるパレスチナを代表する小説家G.カナファーニーは強大な影響力を持つがゆえに36歳の若さでイスラエルに暗殺された。風刺漫画家が殺害される事件もあった。一方で、背景にはアラブ側権力者の思惑があるとも言われている」と指摘し、「パレスチナ問題はイスラムとの対立だけでなく、周辺のアラブ諸国も巻き込む中東全体の問題であり、多くの国々はパレスチナ人を警戒している。イスラエル国内でもパレスチナ人の文化表現は否定されがちだが、共生を目指すユダヤ人の支援活動も依然として存在する」と言及しました。
「日本での受容状況」については、「パレスチナの演劇や映画は日本でも高い注目を受けている」と回答。ただ「カンヌ映画祭などでもパレスチナ出身、もしくはイスラエルに在住するパレスチナ人の監督が多数の賞を獲得しているが、製作者がパレスチナ人であることが知られていない場合もある」と指摘しました。
最後に今西淳子SGRA代表から閉会の挨拶がありました。パレスチナに対する日本やアジアの関心を高めるための活動を評価し、小説や文化の力を通じて、わずかながらでもパレスチナの現状を理解できたと述べました。また、SNS時代における、私たち個人からの発信や活動を進める重要性を強調しました。
完全に専門外であった私はフォーラムで多くの感銘を受けました。90分にわたり拝聴していたのですが、山本先生の「パレスチナ文化は、言ってしまえば一つも無いのですよ」という一言には驚きました。確かにイスラエルの主張では、「パレスチナ人は存在しない」のです。パレスチナという国家がそもそも存在しないから、という理屈です。「いや、違う。パレスチナ人は確かにそこにいる。なぜいるのかと言うと、その証明はパレスチナ文化が存在するからである」と山本先生は主張します。こうして、そもそも「パレスチナ文化」とは何かという疑問も自然に浮上してくると思います。
私が敬愛する中国の学者である許紀霖は、かつて「文明」と「文化」という二つの概念について、実に分かりやすい見解をもって両者を区別しました。
「『文明』と『文化』は異なる概念であり、『文明』が関心を寄せる対象は『何が善いか?』であるのに対し、『文化』は単に『何が我々のものか?』に焦点を当てる。『文化』は『我々』と『他者』とを区別し、自己の文化的アイデンティティを確立することを目的とするが、文明はそうではない。文明は、一国や一民族を超えた普遍的な視点から『何が善いか』を問い、その『善い』は我々にとってだけでなく、他者にとっても同様に善いものであり、全人類にとって普遍的な善であることを追求する」(許紀霖『中国時刻?従富強到文明崛起的歴史邏輯』香港城市大学出版社、2019年、7-8頁)。
「パレスチナ文化」とは何かを表現する際に、私は、まず「他者」と区別されるパレスチナ人の「我々」(独自性)とは何かを考えてしまいます。この唯一無二の独自性とは何か、どのように把握するべきかについて、山本先生からは「パレスチナ文化の魅力の一つは、国家の不在ゆえに未来を構築していく過程にある。さらに、その過程がパレスチナ人全体によって今なお作られ続けている点にある。また、パレスチナ文化は多様性に富み、アラブ人に限らず、ユダヤ人をも排除するものではなく、決して排他的なものではない」という説明がありました。
しかし、この説明だけでは、「パレスチナ文化」の独自性そのものを十分に理解するには至りませんでした。この難しさは山本先生も指摘したように、現在のパレスチナにおいては統一された文化が未だ形成されていないという冒頭の説明そのものが一つの答えであり、同時に今まさに現地では悲惨な戦争のさなかにあるという現実が関連していることを強く認識すべきです。すなわち、パレスチナ文化の確立とは、地政学的な条件と過酷な現実が独自性を生み出す条件であり、また人の心に響く力として存在していると考えます。
このような状況において、山本先生がハマスの暴力手段とは一線を画し、非暴力的な手段によるパレスチナ文化の自己表現の重要性を強調した点には深く共感します。壁に囲まれ攻撃の対象とされる人々がいる現実は、極めて残酷ながらもパレスチナ人が確固たる存在として成立していることを証明するものです。「パレスチナ人は存在しない」という発信は詭弁でしかないことは明らかです。パレスチナ人が自己の存在を声高らかに証明し、さらなる独自性を宣伝するためにも、一刻も早い平和の実現を強く望みます。
当日の写真
アンケート集計
<銭海英(せん・かいえい)QIAN Haiying>
2022年度渥美奨学生。中国江蘇省出身。明治大学大学院教養デザイン研究科博士後期課程に在学中。近代中国教育思想史を専攻。現在、成城大学及び神奈川大学非常勤講師、有間学堂東洋史学専属講師。
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2024.10.31
第74回SGRAフォーラムとなる第9回日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性「東アジアの『国史』と東南アジア」円卓会議が2024年8月10日~11日にチュラーロンコーン大学(バンコク)で開催された。2020年1月のフィリピンでの「国史たちの対話」以後、新型コロナウイルスの影響でしばらくはオンラインで行われたが、昨年(2023年)8月、第8回の早稲田会議が久しぶりに対面とオンラインとのハイブリッドで開催され、今回も続けることになった。
会議の前日に参加者が集まり、夕食をしながら「対話」が始まった。参加者の中には、5年ぶりに会って話を交わす人もいれば初対面の人もいたが、全員が似たような悩みや問題意識を持つ研究者として和気あいあいと話し合い、翌日から始まる「対話」に期待が高まった。また、元国連事務次長の明石康先生の歓迎挨拶は、自国の歴史と各国の国史との対話を考える研究者たちに大きな勇気を与えた。
8月10日、夏空のもとで会議が始まった。今回の「国史たちの対話」は5つのセッションで構成された。初日は基調講演と発表の2つのセッションがあり、翌日はその内容を基にした第3セッションの指定討論、そして第4セッションの自由討論、最後にこれからの「国史たちの対話」を考える第5セッションという構成で進められた。第1セッションは、劉傑先生(早稲田大学)が司会を務めた。まず、今回の「国史たちの対話」の趣旨について説明があった。続いて、劉先生は「国史たちの対話」が始まった時とは国際情勢が大きく変化した現在、新しい場所とテーマで対話を行なっているということは意義深いと述べながら、これを機に今後の対話も模索していこうと述べた。
その後、三谷博先生(東京大学名誉教授)の開会挨拶があった。三谷先生は、東北アジア3国の関係に影響を与えた現代史の軌跡を互いに理解し共有すれば、歴史対話は確実に安定していくだろうと強調。そして、日中韓の3カ国における東南アジアに関する研究の相違点について歴史学者として疑問を抱いていたが、今回の対話を通してそれを解き明かしながら、この新たな地域で生まれた合意または対立に注目して、私たちの絆をどのように深めていくかを考えてみようと提案した。
楊奎松先生(北京大学・華東師範大学)の基調講演は、「ポストコロニアル時代における『ナショナリズム』衝突の原因―毛沢東時代の領土紛争に関する戦略の変化を手掛かりに」であった。要するに、毛沢東をはじめとする「カリスマ的」な指導者は、自らの裁量で外交関係の葛藤を封じ込める(あるいは無効化する)政治力を発揮したが、彼らとは異なる傾向のその後の指導者たちはそのような方法を使わず(あるいは使えず)、時にはポピュリズムを利用することもあったが、むしろ逆に影響を受ける主客転倒の状況も現れたという。その現状は毛沢東をはじめとする指導者たちが行なった「政策の影」でもあると評価した。最後に、互いの歴史を共感し理解するために歴史研究者が持つべき姿勢について提言した。つまり、どのような民族的、国家的な「歴史認識」であっても限界性を持っていることを認め、人類社会の歴史の中で民族と国家の歴史を位置づけなければならないということであった。
次いで日中韓及びタイ出身の研究者の発表セッションが南基正先生(ソウル大学)の司会で行われた。タンシンマンコン・パッタジット先生(東京大学)の「『竹の外交論』における大国関係と小国意識」は、外交に長けた国として知られ、それを自負する国であるタイの外交の歴史的事実を再検証し、その裏側に隠された「小国意識」が持つ問題点を鋭く指摘した。私にとって「小国意識」は、「小国(観)」、「小中華意識」などの韓国史で使われる用語と似ていて親しみを感じたが、それとは異なる文脈で使われる用語だったのでとても興味深かった。タイの過去と現在を理解するのに役立つ一方で、韓国人が持つ「平和を愛する白衣の民族」という観念との共通点も思い浮かんだ。
続いて、日中韓三カ国の研究者の発表が行われた。吉田ますみ先生(三井文庫)の「日本近代史と東南アジア―1930年代の評価をめぐって」は、戦後の日本近代史研究において日本と東南アジアとの関係がどのように語られてきたかについて、当時の時代背景と学界の潮流を紹介した。
尹大栄先生(ソウル大学)の「韓国における東南アジア史研究」は、朝鮮半島と東南アジアの関係を、慧超(新羅時代)の古代から高麗、朝鮮を経て近代韓国に至るまで歴史の流れに沿って考察した。最後に、韓国の東南アジア史研究の「多少残念な現状」について指摘した。
高艷傑先生(厦門大学)の「華僑問題と外交―1959年のインドネシア華人排斥に対する中国政府の対応」は、1959年から1961年の間にインドネシアで起きた中国系住民に対する排斥とそれに対する中国の外交政策を論じたが、高先生は、中国は強硬な姿勢で対応しながらも、両国の友好関係発展への必要性に応えたと評価した。
今回の「国史たちの対話」では、中国学界の権威者の基調講演とタイ出身の研究者の発表が含まれていたが、これは新しい試みだ。国史学界の権威者から中国の歴史認識や叙述の特徴について聞ける機会であり、私たちにはなじみのないタイの自国史認識についても学べる機会でもあった。
初日の2つのセッションが終わると、屋外に設けられたランチ会場で美味しいタイ料理の昼食を楽しんだ。その後のアジア未来会議の開会式後のウェルカムパーティーでは、前日に引き続き和気あいあいとした会話が交わされた。日程が終わっても自分の家に帰れないということは、ある意味で遠地で行われるイベントの「長所」である。午前の基調講演と発表を聞いた指定討論者たちは、自分の考えをまとめた討論文を夜までに同時通訳者たちに渡したため、翌日の討論セッションのスムーズな進行に役立った。
8月11日、第3セッションは彭浩先生(大阪公立大学)の司会による指定討論であった。韓国からは鄭栽賢先生(木浦大学)と韓成敏先生(高麗大学)が、日本からは佐藤雄基先生(立教大学)と平山昇先生(神奈川大学)が、中国からは鄭潔西先生(温州大学)と鄭成先生(兵庫県立大学)が登壇した。
6人は、それぞれの専門分野に基づき、深い悩みが込められた率直で鋭い質問をした。
第4セッションは鄭淳一先生(高麗大学)の司会による自由討論。まず、指定討論者の質問に対する基調講演者と発表者の簡単な回答から始まり、自由討論の時間を持った。問題意識が質問になり、質問が発展して共感を得る新たな問題意識につながった。質問と回答が頻繁に交錯しながらも対話が自然に進んだのは、長年一緒にやってきた通訳者の方々のおかげであった。長い間一緒に議論を重ねてきた参加者、そして問題意識を共有する新しい参加者が集まったことで、効率的な議論ができた。
皆の熱い議論を踏まえて、劉傑先生が論点を整理してくれた。要約すると、今回のテーマを選定するにあたって新たな発見があったということである。今回のキーワードとして「大国」、「小国」が注目され、時期は戦前から戦後へと自然に移った。戦後の歴史に入ると問題設定が変わってくる。戦前・戦後を連続して語るためには何を問題に設定するかを考えなければならないし、それぞれの異なる空間でどのように「国境を越えよう」としているのか、国境を越えた歴史対話は私たちの仕事であるが、各国の歴史家がそれぞれの国の中で直面している国境の問題も一緒に考えなければならない。そして、歴史認識の問題は自国の問題でもあることを念頭に置かなければならないという話であった。
第5セッションはメインテーマから少し離れて、塩出浩之先生(京都大学)の司会でこれからの「国史たちの対話」の方向性について議論する時間を持った。中国の彭浩先生、韓国の鄭淳一先生、日本の村和明先生(東京大学)が順番に意見を述べた。共通したのは困難があっても継続すべきだというものであった。
「引きこもり型」の国史研究者を一人でも多く連れ出そうとの三谷先生の趣旨を今後とも考えていく必要があるという平山先生の意見と、これまでの形式を変えて、研究者同士が一緒に踏査してそこで互いの距離をさらに縮められるような「スモールトークの場」を作ろうという韓成敏先生の意見も、耳を傾けるべきコメントであった。
最後に宋志勇先生(南開大学)の閉会挨拶で締めくくりを迎えた。第一に、会議の準備と進行は非常に成功したと述べた。渥美国際交流財団の今西淳子常務理事、三谷博先生、劉傑先生、チュラーロンコーン大学に感謝し、同時通訳者とスタッフにも感謝を伝えた。第二に、学術的な成果が豊富であり、そして最後には今後の国史研究の方向性について賢明で建設的な意見を聞いたということである。まとめると、国史研究の深化に示唆があり、会議が終わっても財団と参加者は頭を寄せ合って明るい未来を設計することを確信しているとの話があった。
最後の最後に、「国史たちの対話」の成果を拡散するための新たな取り組みの一つである教材化プロジェクトの現状を報告する場があった。新しいメディアを活用した作業は大きな期待を持たせるものであった。
「国史たちの対話」はコロナ下のオンライン会議を経て9回目を迎えた。個人的には、場所とテーマを大幅に変えた新しい試みを行なった今回の「対話」は特に記憶に残る点が多かった。まず、韓国における東南アジアの研究が非常に不足していることを痛感した。日本や中国に比べ研究者が少ないのは仕方がないかもしれないが、研究テーマが多様でない点については学界レベルでの検討が必要だろう。多様な研究や試みを受け入れる雰囲気が国史の内部から醸成されれば、各国の間の対話もより円滑に行われるのではないか。一人の国史研究者としてそんな思いを抱くようになった。
これまでの「国史たちの対話」でも感じたことであるが、研究者の幅が広がった今回の「対話」でも、多くの研究者が私と同じような悩み(政治と学問、社会が求める学問と自分の研究の間での悩み)を抱えていると実感して、勇気を得ることができた。
一方、華人や華僑排斥事件は東南アジアに限ったことではなく、(華僑社会が東南アジアに非常に大きく形成されているのは事実だが)中国人が多数進出している地域では彼らに対する排斥事件が起きていたことを忘れてはならない。植民地朝鮮でも中国人排斥事件があったし、中国では朝鮮人排斥事件が起こった。このように、各国で移民者コミュニティに対する排斥事件がなぜ発生するのかについて一緒に関心を持ってみるのも意味があると思った。
二日目の夜、「国史たちの対話」の参加者のほとんどが課題を終えた後のほっとした気持ちで、美しい屋外レストランで自由に会話を楽しんだ。学術的な会話だけでなく、顔を合わせて肩の荷物を少し下ろし、互いの本音を交換する私的な会話も重要であることを知った場であった。
(原文は韓国語、翻訳:ノジュウン)
当日の写真
アンケート集計結果
<金キョンテ(キム・キョンテ)KIM_Kyongtae>
韓国浦項市生まれ。韓国史専攻。高麗大学韓国史学科博士課程在籍中に 2010 年~2011 年、東京大学大学院日本文化研究専攻(日本史学)外国人研究生。2014 年高麗大学韓国史学科で博士号取得。韓国学中央研究院研究員、高麗大学人文力量強化事業団研究教授を経て、全南大学校歴史敎育科副教授。戦争の破壊的な本性と戦争が荒らした土地にも必ず生まれ育つ平和の歴史に関心を持っている。主な著作:「壬辰戦争期講和交渉研究(博士論文)」、『虚勢と妥協―壬辰倭乱をめぐる三国の協商』(東北亜歴史財団、2019)。
2025年10月31日配信
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2024.10.03
歴史的、文化的な理由から中国、日本、韓国、あるいは私が「北東アジア」と呼んでいる地域は、SGRAの地域イベントにおいて非常に積極的な役割を果たしてきました。これに触発され、今西さんや角田さんに励まされながら、東南アジアのより積極的な参加を強く進めてきました。2024年8月にバンコクで開催された第7回アジア未来会議では「東南アジアのレンズから世界を考える」シリーズの第2弾となる東南アジア円卓会議を開催。サブテーマは「激動の東アジアにおけるASEAN中心性」。問題提起として私は東南アジアの視点から、平川均先生(名古屋大学名誉教授)は北東アジアの視点から発表しました。
私は東南アジア諸国連合(ASEAN)中心性に関する伝統的な視点と、あまり伝統的でない視点を取り上げました。伝統的な考え方では、ASEANは対立する主要国を交渉のテーブルに集めて冷静に課題を議論させる能力を持っているとみなされます。これに対して私は、地理的なアプローチを採用したあまり伝統的ではない視点から、東南アジアと北東アジアを合わせた「東アジア」諸国の地理的な中心は、まさに南シナ海の荒波に見出すことができると指摘し、二つの概念化を検討しました。一つは小国と大国との間の紛争に焦点を当てた地政学的なもので、事例として西フィリピン海・南シナ海の対立を挙げました。もう一つは東アジアにおける二つの顕著な勢力、国境を越える地域統合と各国国内における地方分権化との間の対立に焦点を当てた「地経学」(ジオエコノミック:地政学的目的のために経済を活用すること)的なものです。
平川先生は東アジアが地域秩序を形成する上で直面している課題は100年前と似ているが、中国が日本に代わって大国になったという発言から始め、米中の覇権争いで経済分断(デカップリング)が進んでいることを指摘しました。ASEAN地域は、双方がお互いを自分たちの陣営に引き込もうとしている競争の場となっています。南シナ海におけるASEANの領有権紛争は中国の「二国間交渉」により、ASEAN加盟国の中心性と結束に深刻な課題を投げかけています。もしASEAN諸国がばらばらに地経学的なアプローチをとると、アジアの地域開発の基盤が損なわれることになります。
平川先生は最後に、ASEAN中心性はASEANだけに任せるべきではなく、東アジアで地域公共財として確立した様々なレベルでの国際協力の枠組みを維持するために、地域メンバー国の努力が必要であると強調しました。これは中国を含む東アジア諸国が平和と繁栄の中で共に生き続けるための前提条件となるでしょう。ウクライナでの戦争が北大西洋条約機構(NATO、ウクライナを支援する米国も含む)とロシアの2つの陣営に分かれる中、東アジアがグローバルサウスへの道を模索するインドと協力することも重要でしょう。ASEAN中心性の枠組みの下で、中国と率直な対話を行うことを忘れてはなりません。中国もルールに基づく国際秩序を守り、ソフトパワーの台頭として世界における威信を高めるように行動すべきでしょう。
続いて行われた討論では、キン・マウン・トウエ氏が、ミャンマーはASEAN中心性にどのように参加できるかという問題を提起しました。私はASEAN中心性の2つの地理的概念化(地政学的および地経学的)が、ミャンマーを含む地域紛争の解決策を示しており、ASEANは依然として中心的な役割を果たすことができると説明しました。フィリピン大学放送大学の講座では、このASEANの中心的な役割を地方自治体や地域コミュニティと他国のカウンターパートとの接続「Local to Local Across Border Scheme(LLABS)」と名付けました。
モトキ・ラクスミワタナ氏(早稲田大学)は、世界銀行の研究が示すように、タイ政府は確かに地方分権化に慎重な動きをしており、最近はさらに慎重になっていることを確認しました。ジャクファル・イドルス氏(国士舘大学)は東アジアにおける権威主義の縮小を呼びかけ、ASEANにとって機能してきた原則の一つが、加盟国の地域問題への不干渉であることを思い出させました。マンダール・クルカーニ博士(GITAM人文社会大学)は、とても良くまとまった統計資料を共有しながら、インドと東アジアの間の強力な経済関係を確認しました。
ポーランドからの参加者による「なぜこの会議に中国人がいないのか」というコメントに対しては、日本に住んでいる中国人研究者と一緒に開催したセミナーを紹介しました。この第37回SGRA共有型成長セミナー「東アジアダイナミックス」のレポートはここからお読みいただけます。
日本にいる中国人は「日本化」されているという私の観察も共有しました。この円卓会議は東南アジアからの観点が中心で、北東アジアの観点は平川先生が十分に触れてくださったと思います。会議が始まった時には参加者がとても少なくて心配しましたが、休憩後には部屋がいっぱいになりました。次回は最初から多くの人に来ていただけるようにしたいと思います。
今回のアジア未来会議の開会宣言で、明石康大会会長は「すべての地政学的な断層線が現在活発化しているように見える」とおっしゃいました。ウクライナ-ロシアと中東の「断層線」が挙げられたので、南シナ海-西フィリピン海の「断層線」についても言及してくださるのを待っていましたが、残念ながら「その他」にグループ化されてしまいました。「ASEAN中心性」を検討する円卓会議の主催者として、次のアジア未来会議ではもっと「東アジアの断層線」について議論できる場を増やせたらと思います。
最終日の夜にはアジア未来会議の成功だけでなく、渥美国際交流財団の30周年も祝うためにラクーン(渥美奨学生のこと)たちの集まりがありました。おそらく日本国外に拠点を置く最年長の私は、中締めを頼まれました。短い挨拶の中で、集まってくれた若い仲間たちに今回のAFC7のテーマ「再生と再会」を思い出してもらい、これは私たちに対しても可能な限りの手段を使ってお互いに「再接続」し「再活性化」するための呼びかけであることを強調しました。
これまでに、ジャクファルさんはフィリピン大学放送大学の講座でインドネシアの農村企業について講義してくれました。ラムサル・ビカスさんは鹿島建設での研究開発活動について講演するためにロスバニョスまで来てくれました。台湾の梁蘊嫻さん(元智大学)には、台湾の国父であり中華人民共和国では革命の父である孫文(1866~1925)の地価税に対する見解について話してくれる人を探していただきました。モトキさんには、次の円卓会議で講演する可能性のあるタイの研究者の推薦をお願いしています。言うまでもなく、皆さんが再びつながることをとても温かく受け入れてくれました。第8回アジア未来会議の仙台での再会を楽しみにしています。
祝賀会はフィリピンを訪れることを楽しみにしてくれている全振煥さん(鹿島建設)に手伝ってもらい盛大な三本締めで終わりました。みなさんと再会できてとても嬉しかったです。
当日の写真
<フェルディナンド・マキト Ferdinand C. MAQUITO>
SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学放送大学提携教員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。
2024年10月3日配信
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