SGRAイベントの報告

  • 2020.12.03

    孫建軍「第14回SGRAチャイナフォーラム『東西思想の接触圏としての日本近代美術史再考』報告」

    2020年11月1日午後、第14回SGRAチャイナフォーラム『東西思想の接触圏としての日本近代美術史再考』がオンラインのウェビナー形式で開催された。北京大学民主楼(燕京大学の教会だった場所)の講堂には大学院生30名近くが集まり、ささやかな会場が設けられていた。   日本時間の午後4時、北京時間の午後3時の定刻より、フォーラムが始まった。今西淳子常務理事に続き、国際交流基金北京日本文化センターの高橋耕一郎所長が開会の挨拶をして、滑り出しは順調だった。   国際日本文化研究センター稲賀繁美教授の講演テーマは「中国古典と西欧絵画との理論的邂合―東西思想の接触圏としての日本近代美術史再考」。近代にさしかかった時代から、時には新型コロナウイルスのように恐れられていた西洋文明が東アジアに影響を及ぼすようになった。絵画の世界においても、日本、中国、ヨーロッパといった3者の往来、交錯が顕著に見られた。稲賀先生は美しい絵を見せながら、「気韻生動」、「感情移入」等の美学の概念、そしてそれらを一身に背負う画家にスポットを当て、解説を行った。ところが、大変残念なことに、機械の音声トラブルが生じ、先生の声が途切れたりした。   講演に続き、清華大学歴史系の劉暁峰先生、東京大学東洋文化研究所の塚本麿充先生、清華大学中文系の王中忱先生(公務のため当日は参加できず、中国社会科学院文学研究所の高華鑫先生が代読)、香港城市大学中文及び歴史学科の林少陽先生よりそれぞれの専門的知見に基づいたコメントが述べられた。   その後の質疑応答の時間も音声トラブルで稲賀先生とのやりとりに困難が続いたが、先生ご自身をはじめ、通訳者、渥美財団のスタッフの懸命なご尽力がスクリーンを通して目に焼き付いた。   2020年はコロナへの恐怖から始まったといっても過言ではない。今年のチャイナフォーラムの開催は難しいと半分諦めていたが、8月頃から急ピッチで準備が進められた。形式、日時、テーマ、講演者、コメンテーター、ポスターなど、多くの方々に支えられながら開催に至った。参加者の理解を促すために、講演内容に関連する数々の論文が事前に紹介されたのも印象的だった。300名近い当日の参加者数もチャイナフォーラム開催以来、最大の数字を誇る。深く御礼を申し上げたい。   どんなに素晴らしい美術品にも欠点が存在するように、今回のフォーラムでは音声トラブルにより講演内容を十分堪能できなかったとのご指摘を真摯に受け止めたい。フォーラムの全容は、日本語版と中国語版の合冊レポートにまとめ、2021年春に冊子とPDFで発行する予定である。改めて当日の機械の不具合についてお詫びし、お聞き苦しかった点はレポートで補っていただきたい。   当日の写真   アンケート集計   中国語版はこちら   <孫建軍(そん・けんぐん)SUN Jianjun> 1990年北京国際関係学院卒業、1993年北京日本学研究センター修士課程修了、2003年国際基督教大学にてPh.D.取得。北京語言大学講師、国際日本文化研究センター講師を経て、北京大学外国語学院日本言語文化系副教授。専攻は近代日中語彙交流史。著書『近代日本語の起源―幕末明治初期につくられた新漢語』(早稲田大学出版部)。     2020年12月3日配信
  • 2020.10.01

    尹在彦「第14回SGRAカフェ『国際的観点から見た日本の新型コロナウイルス対策』報告」

      現在、全世界が様々な形でコロナウイルスと向き合っている。各国政府はもちろん、あらゆる団体や個々人まで何らかの対応を取らざるを得ない状況だ。ウイルスの危険性が完全には判明していないため、気を緩めることも難しい。世界中どこでもこのような認識を前提に、対策がとられている。   2020年9月19日(土)に開かれた今回のSGRAカフェのテーマ「国際的観点から見た日本の新型コロナウイルス対策」もまさにここに焦点が当てられていた。渥美財団ホールを会場としてスタッフを含め20人余りが参加し、世界各地からZoomでの参加者も50人に達した。誰もが認識している現実問題のため高い関心が寄せられた。15時にスタートした今回のSGRAカフェは17時に公式イベント(講演・報告・質疑応答)が終了し、後半の「懇親会」(1時間)では自由な雰囲気の中で議論が行われた。   まず、日本、とりわけ東京の対応について最前線で戦っている大曲貴夫先生(国立国際医療研究センター国際感染症センター長)よりお話をいただいた。クルーズ船(ダイヤモンド・プリンセス号)や第一波への対応の問題点を踏まえ、次第に対応が改善されていった。検査体制が整備され、待機時間は飛躍的に減らされた。まだ特効薬はないものの、治療法が改善された結果7月から始まった第二波では、死亡者や重症者多少減少した(高齢者は依然として油断はできない)。   大曲先生の30分間の講演後、韓国(金雄熙_仁荷大学教授)、台湾(陳姿菁_開南大学副教授)、ベトナム(チュ・スワン・ザオ_ベトナム社会科学院文化研究所上席研究員)、フィリピン(ブレンダ・テネグラ_アクセンチュアコンサルタント)、インド(ランジャナ・ムコパディヤヤ_デリー大学准教授)の順で元渥美奨学生のみなさんの現地報告(Zoom)が続いた。   韓国からはIT技術を活用した追跡・隔離措置とともに、国内政治の複雑な状況がもたらした感染拡大についての説明があった。コロナ対応が単純に感染症対策にとどまらず、政治問題に飛び火する構図が良くわかる。初期からコロナを抑え込んでいた台湾からも、奏功したIT技術の役割とともに経済との両立問題(国境開放)が述べられた。ベトナムでは国を挙げての対策がとられたが、気のゆるみで第二波の際には苦戦した。現在は厳しい政策の下、落ち着きつつある。宗教的な儀礼としての疫病退散も紹介された。フィリピンとインドでは依然として感染拡大が続いている。フィリピンは数多くの出稼ぎ労働者の帰国という悩ましい問題を抱えながらコロナと戦っている。インドでもIT技術を通じたコロナ対策が導入されているものの人口の多さゆえに対応に苦慮している。   質疑応答(16時半より30分間)は会場とZoom接続の参加者の両方からリアルタイムで行われた。東京の満員電車問題、コロナの後遺症等についての質問が大曲先生に出された。満員電車の場合は、高いマスク着用率を考えると危険性はそれほど高くないが、後遺症については十分注意する必要があるとの説明があった。大曲先生も自らリポーターに積極的に質問を投げかけたのが印象的だった。質疑応答の後、会場+オンラインの「ハイブリッド懇親会」も用意され、比較的自由な雰囲気で各国の状況や教育現場の課題等の話が交わされた。   過去にお世話になったとある奨学財団では、9月にようやく顔合わせ会を開催したと聞く。それを考えると、渥美国際交流財団のスタッフの方々の安全かつ楽しい交流会への取り組みには感謝申し上げたい。今回のSGRAカフェはある意味、新たな試みとして他の交流団体にも十分参考となり得ると思う。司会としても有意義な経験だった。 (文責:尹在彦)   当日の写真はこちらよりご覧いただけます。   当日のアンケート集計結果はこちらご覧いただけます。   当日の録画(YouTube)を下記リンクよりご覧いただけます。   <尹在彦(ユン・ジェオン)Jaeun_YUN> 2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学大学院博士後期課程。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交政策・国際政治理論。共著「株式投資の仕方」(韓国語、2014年)。   2020年10月1日配信
  • 2020.08.20

    李彦銘「第13回SGRAカフェ『ポストコロナ時代の東アジア』報告」

    今回のカフェはバーチャルカフェ(以下Vカフェ)という形をとり、延べ100名ちかくの参加が実現でき、SGRAカフェ史上最大規模となったといえよう。この成果は「ポストコロナ時代の東アジア」というタイムリーなテーマ、林泉忠先生をはじめとする講師陣、それからバーチャル形式という新しい実現手段の魅力を語ってくれた。   当日のVカフェは講演と懇親会の2部構成となったが、本レポートは講演内容を中心に報告し、懇親会については林先生のレポートに譲ろう。林先生の講演はまず現在の状況に対する見方、つまりグローバル時代の終焉から始まった。その具体例として、グローバルサプライチェーンの断絶や企業の自国内への回帰、人的交流の一時中断とナショナリズムの高揚、またウイルスに対する初動と「香港国家安全維持法」(国安法)の制定・実施をめぐって世界各国の中国に対する不信感が増長していることが挙げられた。   その後は、米中「新冷戦」が顕在化する状況における東アジア各国の関係性の変化について見解が述べられた。日韓にとっては、米中とどのようにバランスを維持していくのかが最大の問題であるが、中国が日韓と米国を分断させる戦略に乗り出している一方で、日韓の間で軋轢の深刻化が止まらない。日中は最近2年間の「疑似蜜月」関係から「中熱日冷」へと転換したと主張され、またこの日中友好の状態は主に中国主導によるものであったが、現在は日本の対中イメージが悪化する一途であり、習近平主席の国賓訪日もあやふやな状態になったと指摘された。中韓関係もまた、中国が主導しているように見え、韓国外交は主体性を持って臨んでいないと指摘された。   ではコロナが鎮静化したら中国の影響力は一気に強まるのか。まず香港に対し、中国政府は英米などの反発や批判を無視して権威主義体制へ移行させるだろう(1997年より以前の香港は行政主導+半植民地)。一方で台湾に対しては、新型コロナウイルス騒動は予想外の効果、つまり大陸と距離を維持することは悪いとは限らないという見方をもたらした。これは北京の「両岸融合」「恵台31カ条」のような急進的な政策による逆効果ともいえよう。これに加えて「香港統制」は台湾にさらなるプレッシャーをもたらし、また香港という緩衝地帯を失う結果、台湾の対米依存はさらに増すだろうという。   以上の議論を踏まえ、ポストコロナの時代は「新冷戦」時代が到来すると講演を結んだ。香港、台湾はこの新冷戦の激戦地になるだろう。11月の米大統領選の結果も注目しなければならないが、米国内では対中政策の合意がすでに出来上がっており、新冷戦はもはや回避できないと予測される。世界は米中2大ブロックに分割されるのか。今後日本に問われるのは主体性がある行動・リーダーシップである。   コメントとしてまず下荒地修二先生から、コロナの問題は国際社会に予想外のことをたくさんもたらし、相互不信もその一部ではあったが、現在はウイルスという共通敵にどう対処すればいいのかという段階に来ているではないかと指摘された。それから日中関係の改善は望まれる方向で、どちらが主導かということは重要ではなく、肝心なのは国際秩序をどのように建設的な方向へ持っていくのかであり、特に大国の間では議論をしなければならないと提起された。   南基正先生からは、ニューオーダー(new_order)としてポストコロナの国際秩序を考えるときに、国際政治のリアリズム理論の枠を超えなければならないと指摘された。コロナ問題によって各国では、アイデンティティ・ポリティックスから脱皮し、人々の生活を中心とする政治を構築する必要があることが浮き彫りになった。アイデンティティ・ポリティックスにこだわる結果、日韓関係には破綻が起るだろう。しかしコロナなど生活を中心とする政治の観点から見れば、ナショナリズムに訴えても問題は解決できない。アイデンティティやナショナリズムに訴えても票にならないことを、コロナは政治家に悟らせたのではないか。また政治家は政権のレガシーとして何を残すのかを考えるべきであり、特にミドルパワーの国々や日韓に期待したいという。   講演部分はここですでに1時間45分になり、一段落となった。個人的な感想は、まず長い時間をかけてさらに議論したい話題がたくさん出て、研究者として非常に興味深い集まりであった。もう一つは、一人の市民として、今後の国際秩序をどう展望し、そしてどう行動していけばいいのか、という大きな課題を改めて考えさせられたことである。一個人の力は本当に小さいものであり、そして懇親会でも指摘されたように、個人にとってアイデンティティは容易に越えられるものではない。まして政治情勢や情報制限、マイナスの歴史といった「人的操作」を受ければ、恨みや偏見が生まれやすい。しかしそこであきらめていいのか。この半年の間、外出自粛や会合自粛のなか、私も自分自身が閉塞感を感じたり事を悲観的にとらえやすくなったと感じたりしたが、そのバイアスで見落としてきた積極的な要素も現実に存在するのではないか。   英語版はこちら   当日の写真   <李彦銘(リ・イェンミン)LI_Yanming> 専門は国際政治、日中関係。北京大学国際関係学院を卒業してから来日し、慶應義塾大学法学研究科より修士号・博士号を取得。慶應義塾大学東アジア研究所現代中国研究センター研究員を経て、2017年より東京大学教養学部特任講師。       2020年8月20日配信
  • 2020.04.10

    アキバリ・フーリエ 「第4回東アジア日本研究者協議会パネル『日本における女性ムスリムの現状、留学中に直面する課題と彼女らの挑戦』報告」

    2019年11月2日(土)台北の台湾大学において、「東アジア日本研究者協議会国際第4回学術大会」が開催され、渥美国際交流財団(SGRA)の派遣チームの1つとして「日本における女性ムスリムの現状、留学中に直面する課題と彼女らの挑戦」と題するパネルセッションを行った。当パネルは発表者2名、討論者2名、座長1名で実施された。 セッションの背景には、日本における外国人の人口増加があげられる。しかし、日本社会で知られていた外国人も近年では多様化が進み、様々な人種、宗教背景を持つ人達が目立つようになっている。その外国人コミュ二ティの中のひとつがイスラム教徒を宗教背景にしているコミュ二ティの人々である。 そこで、本セッションでは、中東湾岸諸国の女性の高等教育をめぐる意識と行動をこれまで研究してきた沈雨香(早稲田大学)と日本での外国人コミュニティの現状を研究対象にし、また自身もムスリム女性として日本で留学経験のあるアキバリ・フーリエ(白百合女子大学)が日本の多様性社会に目を向けた。   発表で取り上げられたのは、「在日女性ムスリム」であった。“女性ムスリム”に注目したのは、彼女らが宗教や文化の象徴的な存在として昨今の国際社会におけるディスコースの中心となってきていること、そして、特に可視性が強いと考えられる彼女たちは、外の社会からは「他者」「外国人」として、ムスリムコミュ二ティ内では「期待」「評価」される存在としてプレッシャーをかかえていると考えられたからである。   パネルの流れとしては、最初に座長司会の張桂娥氏(東呉大学)がパネル企画の背景や流れを説明し、その後各発表者、討論者の紹介を行い、次にそれぞれのパネル者により発表が行われ、そして討論者からの意見と質疑応答が行われた。最後には、来場者からの質疑応答により幅広い議論が交わされた。   まずはじめの発表においては、沈雨香が「ムスリム女性の困難―彼女らの可視性から―」についての研究報告を行った。沈は、ムスリム女性が宗教的慣習や文化に基づき日常的にヒジャブを着用していることに着目し、可視性がもたらす影響を明らかにすることを試みた。その中で、ヒジャブはムスリム女性の宗教への信仰を「可視化」していると述べ、その宗教的可視性の故、ムスリムの女性は他から物理的にも意識的にも区別されており、彼女らならではの生活世界を経験していると指摘した。続いて、3か月にわたる5名のムスリム女性への半構造化インタビューに基づき、非イスラム文化圏で暮らすムスリム女性の可視性は、「ムスリムコミュニティ」では信仰心の判断基準や彼女個人の性格や思考、趣味の指標として。「日本社会」ではムスリム、外国人、他者のシンボルとして、彼女らの生活世界を決定づけていることを明らかにした。   続いて、アキバリ・フーリエによる「在日ムスリム女性留学生の内なる葛藤」についての研究報告が発表された。アキバリは、日本という多文化社会において在日ムスリム女性留学生らはどのような葛藤を経験しているのかに焦点を当てた。その背景には、21世紀に入り、急スピードで変化していく時代の中で、控えめで従順なステレオタイプのイメージとは一線を画して、キャリア重視のムスリム女性が増加していることを強調した。その変化は著しく、まだムスリム社会でもその受け入れに戸惑いを隠せない人たちがいることを指摘した。 アキバリも同様に5名のムスリム女性に焦点を当て、彼女らの語りでのキーワードに注目した。その結果、内なる葛藤の要因として、「ムスリム・同国籍者社会」、「家族」、「日本社会」、「自己の信仰」を挙げた。葛藤が起きる仕組みとして、まず「自国のこれまで生きてきた社会から来る“過去のしきたりや習慣を踏襲することへの期待と評価”というプレッシャー」があると分析。一方で新たな受け入れ先の社会からは、「“ムスリム女性として与えられてきた評価が新しい社会でどのように受け取られるかへの不安”、“自分の信仰心に対するムスリムコミュ二ティからの期待”」が大きく葛藤につながることを報告した。   2つの研究発表の後、討論者としてミヤ・ドゥイ・ロスティカ氏(大東文化大学)とショリナ・ダリヤグル氏(明渓日本語学校)が加わり、2つの研究報告についてそれぞれコメント、質問が続いた。討論者の興味深いコメント・質疑から幅広い議論が行われた。最後、来場者の中の一人であった、関西大学多賀太先生からは、「多様性社会の教育現場においては、同化を求める部分に比較的圧力が入っており、特別扱いをすることがよくないとされ、マイノリティである彼らを特別に見ることは差別を伴うため避けるべきとの考えが広がりつつある。マイノリティを尊重する姿勢は重要である。」ととても貴重なご指摘を頂いた。   本セッションは、ムスリム女性は多様性社会のマイノリティメンバーの一つの事例として取り上げたことを強調したい。本研究の考察を通して、彼女らは、“自分自身を受け入れる”、“相手に受け入れてもらう”ためにヒジャブを外すという自己調整をしていることがひとつ明確になった。しかし、「ハーフ」「身体障害者」「LGBT」「日系人」「外国人労働者」等々、自己調整が不可能である彼らはどのように自己そして社会と向き合っていくのかを今後の課題として考えていきたい。   最後に、今回、渥美国際財団関口グローバル研究会(SGRA)の派遣チームとして、多くの日本研究者と共に、本学会に参加できたことに感謝の意を表したい。貴重なコメントを頂き、多くの研究者と意見交換ができたことを大変誇りに思う。今後、日本社会の多様性についてこれを機に、研究を進めていければと思う。ありがとうございました。   当日の写真   < アキバリ、フーリエ  Akbari, Hourieh > 2017年度渥美国際財団奨学生。イラン出身。テヘラン大学日本語教育学科修士課程卒業後、来日。2018年千葉大学人文社会科学研究科にて博士号取得。現在千葉大学人文公共学府特別研究員。白百合女子大学の非常勤講師。研究分野は、グローバル近代社会における社会言語学および日本語教育。研究対象は、主に日本在住のペルシア語母語話者の言語使用問題。
  • 2020.04.10

    李恩民 「第4回東アジア日本研究者協議会パネル 『日本のODAとアジア:再評価の試み』報告」

    2019年11月2日、400人以上の参加者を迎えた東アジア日本研究者協議会第4回学術大会にて、SGRAより参加した3パネルの一つである「日本のODAとアジア:再評価の試み」が台湾大学の普通教学館で挙行された。 このパネルは公益財団法人渥美国際交流財団の助成を受けて企画されたものである。1950~60年代に始まった日本の政府開発援助(Official Development Aid=ODA)は、1989年には米国を抜きODA拠出額では世界ナンバーワンとなった。しかし、その過程で世界各国からさまざまな批判、日本国内からも不満または評価の高まりを受け、日本政府は予算の縮小・戦略の再構築を決断した。2015年、ODA大綱は「開発協力大綱」と名称を変更し、より一層強く「国益」の確保への姿勢を打ち出した。他方、政治的な要因で対台湾の経済協力事業は中止、経済的な要因で対韓国のODAは予定通り「卒業」、急速に経済の高度成長を遂げた中国へのODAも2019年春をもって終了した。アジアにおける複雑な政治経済の動きが世界規模で影響を拡大している現在、「日本の重要な政策ツールのひとつ」と位置づけられた「ODAを主体とする開発協力」について、立体的かつ総合的にレビューする機が熟した。 これまで日本が行ってきたODAについては政策決定のプロセスや戦略意図についての論考が多かったが、今回のパネルでは黄自進・中央研究院教授(Prof. Huang Tzu-chin, Academia Sinica)の司会のもと、異国で博士学位を取った多文化なバックグラウンドを持つ学者陣と共に、日本のODA政策へのレビュー、対アジア主要国ODAのケース・スタディーに重点を置いた議論を進めていった。 基調講演をされた深川由起子・早稲田大学教授(Prof. Fukagawa Yukiko, Waseda University)は「日本の開発援助政策転換~韓国との比較から~」というタイトルで、日本ODAの歴史と現在、成果と問題について総合的に語った。深川教授の研究によれば、日本のODAをめぐっては1990年代にその規模がピークに達すると、欧米から自国利益を拡大するための「商業主義」であるという批判を受けた。しかしながらその後、多くの研究によって誤解が解かれると共に、結果としてアジア各国が優れた経済発展を遂げることで、むしろ「商業的」なODAが民間企業の誘致や技術の波及に役立ったとする肯定的な評価が台頭していった。深川教授はさらに、アジアにおいてODAには自国の発展経験の移転といった側面が強く、中国の「一帯一路」がさらに商業性を強めた「経済協力」として展開されるようになって以来、日本のODAもより経済権益に直結するインフラ輸出などの「経済協力」として再編されつつある。これに対し、韓国はセマウル運動の移植や人材育成などより古典的なODAを展開している、との見解を示された。最後、深川教授は「北東アジアでは政治的障壁からドナー間の協力や対話が進んでいないが、潜在的には様々な補完性もあり、アフリカ支援協力などで具体的な協力を模索する時期に来ている」と鋭く指摘した。都市鉄道システム(高度な建設技術・安全・正確な運行管理など)をはじめとするパッケージ型インフラ輸出とODAの活用といった事例紹介は特に印象深かった。 次に韓国に絡んだ諸課題が提起され、金雄煕・仁荷大学教授(Prof. Kim Woonghee, Inha University)が登壇し、「日本の対韓国ODAの諸問題」をテーマに事例報告を行った。金教授の話によると、日本の対韓経済協力に対する研究は、その重要性にもかかわらず、いくつかの理由から客観的な分析が困難な状況である。1965年の日韓国交正常化を皮切りに実施された多くの協力案件は半世紀以上の歳月が経過してしまい、韓国経済において日本による資金協力や技術協力の痕跡を見出すことは、もはや容易ではない。また請求権資金がもつ特殊性、すなわち、戦後処理的・賠償的性格と経済協力としての性格を併せ持つことによる複雑性もある。さらに元徴用工の戦後補償問題に由来し最終的に最悪の状態に陥った日韓関係のなかで、日本が韓国に対し資金協力や技術協力を行ったことを公に議論することはかなりセンシティブでリスキーなことと認識されている。 同問題について金教授は次の通りに指摘した。韓国で請求権資金の性格や役割に対する評価は、一般的に日韓国交正常化に対する評価と密接につながっている。安保論理と経済論理が日韓の過去の歴史清算を圧倒する形で日韓国交正常化が進められ、肯定的な評価と否定的な評価が大きく分かれてしまった。請求権資金についても同じく評価が分かれているが、構造的な韓国の対日貿易不均衡などいくつかの問題は起こしたものの、請求権資金が韓国経済の初期発展過程で重要な役割を果たしたことは否定できないというのが韓国国内での一般論である。 報告の中で、金教授は詳細なデータをもって、請求権資金を中心に日本の対韓経済協力についての異なる評価や様々な論点を紹介し、特に日本の外務省が「日本の援助による繁栄」の象徴的事業としているソウル首都圏地下鉄事業と浦項製鉄所(現在のPOSCO)の建設事業についての異なる評価も取り上げつつ、より客観的に日本の対韓経済協力をレビューした。 上記の報告を踏まえて、フェルディナンド・シー・マキト准教授・フィリピン大学ロスバニョス校(Prof. Maquito, Ferdinand C. University of the Philippines Los Baños)は、商業主義や日中韓ODAの補完性についてコメントを入れながら「フィリピンからの報告:日本ODAの再検討」というタイトルで最新の研究成果を報告した。マキト准教授は、日本のODAを西洋諸国または中国のODAと比較した上で、その相違性と類似性を分析し、アジアにおける共有型成長への日本によるODAの貢献を評価した。マキト准教授は最後に、韓国や中国にとっても日本型ODAのシステムは模範的だったと指摘した。 最後は被援助国としての中国のケース・スタディーを私、李恩民・桜美林大学教授(Prof. LI Enmin, J.F.Oberlin University)より発表し、日本の対中ODAの40年を概観した。 1979年、鄧小平が推進した改革開放政策は経済発展を最優先にする新時代の幕明けであった。この年、中国政府は日本の財界人の助言を受け、これまでの対外金融政策を改めて日本からODAを受け入れ、主要インフレと文化施設の建設に集中した。それ以降の40年間、政府から民間まで日本側は円借款、無償資金提供、技術協力などを通して中国の経済発展、人材育成、格差の是正、環境保全等分野に大きく貢献してきた。その証として、ODAプロジェクトの現場で撮った写真を展示しながら中国民衆の認識・評価を紹介した。 全員の報告を終えた後、石原忠浩・台北にある政治大学助理教授の質問を皮切りにディスカッションに入った。しかし時間の制約があって、会場では十分な議論ができなかった。そのため、司会者の黄自進教授は国際性に富んだこのパネルの特徴について総括した後、パネルの締め括りとして今後も他地域で同じメンバーで会議を重ね、良き研究成果を出すよう力強く訴えた。 学術の立場から日本によるODAへのレビューは、理論的な検討も現地考察も欠かせない至難の作業である。90分のパネルだけで議論を尽くすことはほぼ不可能である。この意味で言えば、この種の研究成果の活発な意見交換は今後も進めて行かなければならない。   当日の写真   < 李 恩民  Li Enmin > 中国山西省生まれ。1996年南開大学にて歴史学博士号、1999年一橋大学にて社会学博士号取得。桜美林大学国際学系教授、公益財団法人渥美国際交流財団理事。2012~2013年スタンフォード大学客員研究員。主な著書に『中日民間経済外交 1945~1972』(人民出版社1997年)、『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房2001年、大平正芳記念賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房2005年)、『中国華北農民の生活誌』(御茶の水書房2019年)。共著に『歴史と和解』(東京大学出版会2011年)、『対立と共存の歴史認識』(東京大学出版会2013年、中文版:社会科学文献出版社2015年)、『日本政府的両岸政策』(中央研究院2015年)などがある。
  • 2020.04.10

    梁蘊嫻「第4回東アジア日本研究者協議会パネル『明治期の小説と口絵・挿絵―絵の役割―』報告」

    去る2019年11月1日から3日にかけて、「第4回東アジア日本研究者協議会国際学術大会」が台湾大学において開催された。私が企画したセッション「明治期の小説と口絵・挿絵―絵の役割―」は渥美国際交流財団グローバル研究会(SGRA)の派遣チームとして大会に参加した。 小説の挿絵は文学研究においても、美術史研究においても、重要視されていないが、本パネルの発表をとおして、挿絵研究という未開な分野が拓かれたらと思ったのが企画のきっかけであった。 一本目の発表は、東京大学の出口智之氏「明治期絵入り新聞小説と単行本の挿絵戦略―尾崎紅葉「多情多恨」に即して―」であった。 出口氏のご発表は、文芸の制作に関する近世と近代の連続性という問題意識に基いたものである。江戸時代の「戯作」は、近代におけるいわゆる「文学」と異なり、戯作者が口絵や挿絵の下絵も含めた稿本を作り、絵師はそれに従って絵を描くという工程で制作されていた。ところが〈近代文学〉の領域では、そうした絵師・画家に対する指示の存在は想定すらされておらず、作家たちは本文だけを執筆し、絵師・画家は完成した本文を読んで自由に描くという捉えかたが自明視されているようである。だが、はたして明治維新を経た途端に、そのような分業が短期間で成立するなどということがありうるのだろうか。出口氏の調査により、明治中期以降の近代文学の時代に入ってもなお、江戸期の戯作と同じように小説作者が口絵や挿絵に指示を出していたことが判明した。すなわち、明治の文学者たちにとってもなお、自作とは本文だけでなく口絵や挿絵とセットで認識されていたのである。 本文と口絵・挿絵との関係を検討するうえで、従来から取上げられてきた作家に尾崎紅葉がいる。彼は自作に絵は不要だとする、いわゆる挿絵無用論を唱えたことで知られ、その発言はこれまで、江戸的な挿絵との協奏から文学を自立させようとする近代的な意識だと捉えられてきた。これに対し、出口氏は紅葉・田山花袋の合作による「笛吹川」や紅葉単独の「青葡萄」など、『読売新聞』に連載された紅葉の絵入り小説を取上げ、彼がほぼすべての挿絵に対して指示を出していたこと、またそこでは当時一般的だった浮世絵風の絵を用いず、俳画のように景物だけを描いたり(「留守もやう」と呼ばれていた)、比喩表現に取材した絵を用いたりするなど、斬新な試みを行っていたことを明らかにした。 今回の発表で特に中心的に取上げられたのは、紅葉「多情多恨」初出時(『読売新聞』明治29年)と単行本(春陽堂、明治30年)に用いられた挿絵の違いである。出口氏の分析によると、初出時の挿絵には、「留守もやう」のような風致を添える絵だけでなく、より立ち入った試みが行われていた。たとえば、本文は室内の場面であるのに挿絵には戸外の様子が描かれ、鎖された障子によってその後ろで展開する物語を想像させたり、あるいは男女の手が沸騰する鉄瓶に押し当てられている絵によって、二人の関係が危うい領域に入ろうとしていることを暗示したりするなどの例である。出口氏は、「これは挿絵を排斥するのではなく、「文字と独立」した機能を持たせ、活用する試みだった」と指摘し、紅葉の挿絵は「人物を描かないことで、本作の主題である人物の心理に過度に干渉することなく、しかし紙面の中で読者の興味を物語に集めようとしていた」のだろうと説明した。つまり、本文とは別の角度から読者の興味を誘うとともに、挿絵にも何らかの意味を持たせるような、新しい画文共存のありかたを紅葉が試みたというのである。 続いて出口氏が注目したのは、『多情多恨』単行本で用いられた二枚の挿絵と、それに対して紅葉が与えた自筆の指示画である。紅葉はその指示画において、画面に余白や闇を残すなど、何も描かれていない部分に関する指示も出していた。出口氏はこの点への着目から、余白は妻を亡くした主人公が抱え込んだ心理的な空虚や、階下で働く女たちとの心理的な懸隔を隠喩していると解する。また、深夜に主人公のもとを訪れる友人の妻を取巻く暗闇は、家人たちが寝静まる闇の深さや、その後の関係の危うさを表現しているなどの解釈が提示された。そのうえで氏は、初出・単行本がいずれも挿絵とセットの形で示されていたことから、絵は不要であるという紅葉の発言を文字通りに受け取るのは危険だとし、これはむしろ挿絵を「文字と独立」させ、文章とは別個の機能を担うように活用したいという意味に解するほうが妥当だとした。 出口氏のご発表はまさに画期的な研究で、刺激的なものであり、「醍醐灌頂」の感すらあった。発表からいろいろ得るものはあったが、特に、出口氏が提出した「画文学」の概念に共鳴を覚えた。   「画文学」という視座、すなわち近代でも作家や編集部が口絵・挿絵の制作にかなり介入し、共同作業によって画―文がセットになった作品が生み出されたという前提に立ち、画と文の関係をあらためて捉えなおすことにより、文学・美術・出版・法制史・書誌学・広告など、幅広い領域につながる問題が提起されてくるはずである。   と出口氏がおっしゃったとおり、「画文学」は様々な領域と関わり、実に多岐にわたりうる研究である。このセッションをきっかけに、さまざまな分野で数多くの研究が生れることを期待している。   二本目の発表は私(梁蘊嫻)「明治時代に出版された『絵本通俗三国志』―青柳国松版を中心に―」であった。 『絵本通俗三国志』の原作は天保7(1836)年から天保12(1841)年にかけて出版された絵本読本(池田東籬作・二世葛飾北斎画)である。この作品は、明治時代になると、30種以上の異版も刊行された。これは、活版の時代になった明治期には、本屋仲間の結束による保護出版が終わり、自由な競争出版の社会になったことを示したものである。本発表では、明治20年に青柳国松によって出版された『絵本通俗三国志』を取り上げる。青柳国松『絵本通俗三国志』では、口絵は大蘇芳年のものであり、本文の挿絵は水野年方の筆によるものである。本作品から、古典としての二世北斎の絵を区別し、独自性を出そうとする出版社の意図が窺われる。本発表では、青柳国松を例として、「古典」を形成・再編し、継承する過程を辿りながら、古典の創造性について論じてみた。 青柳国松本は、明治15年に清水市次郎が出版したものを継承したものと思われるが、清水市次郎版と大きい違いが見られる。青柳国松は清水市次郎版の前半、すなわち小林年参の挿絵をすべて削除し、水野年方による挿絵を取り替え、全書を年方の絵で統一させたのである。新しく描かれた挿絵は大体二種にまとめることができる。(1)清水市次郎本と構図が異なるもの、(2)挿絵とされなかった場面が挿絵化となったもの、である。本発表では、清水市次郎本と重なった後半部分を除いて、前半部分について検討した。 青柳国松本は「古典」としての清水市次郎本を継承しながら、すべてを受け入れるわけではなく、古典と異なった新しさを出そうとしており、古典から離脱するものの集大成とも言える。その後、明治21年出版の銀花堂本は青柳国松本に描かれている水野年方の挿絵を使用し、寸法を大きくした。このように、斬新な青柳国松本は後の作品に対しては、いわゆる「古典」としての存在となったのである。 発表の後、活発な議論が交わされ、パネル発表が円満に終了した。聴衆は少なかったが、非常に刺激的で、充実したセッションであった。 今回のパネルのメンバーは、みんな私とご縁の深い方々だった。延広真治先生は東大時代の指導教授で、出口先生は、「手紙を読む会」で一緒に崩し字を読んできた仲間で、藍先生は大学時代の同級生だった。パネルを組んで台湾で研究発表を行い、討論することができたこと、誠に嬉しく思い、感慨無量だった。企画者として、あらためて皆さまに御礼を申し上げる。   当日の写真   < 梁 蘊嫻 Liang Yun-hsien > 台湾花蓮県出身。台湾、元智大学応用外国語学科助理教授。 2010年、東京大学総合文化研究科の博士号取得。専攻は、比較文学比較文化、日本における『三国志演義』の受容。論文には、「『諸葛孔明鼎軍談』における『三国志演義』の受容とその変容―「義」から「忠義」へ―」(『比較文学研究』83 号、2004 年3月)「呉服文織時代三国志』の虚構と真実―都賀庭鐘の歴史観―」(『国語と国文学』2017年4月号)、「トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』と村上春樹『ノルウェイの森』の比較研究―映画と文学のはざま―」(『東アジアにおけるトランスナショナルな文化の伝播・交流―メディアを中心に―』日本学研究叢書22、国立台湾大学出版中心、2016年8月)などがある。
  • 2020.03.26

    エッセイ625:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2019年秋」

    モンゴル高原の東部にはメネン、フルンボイル、ヌムルグ草原がつながって果てしなく広がり、牛や羊や馬やガゼルがゆったりと草を食べながらあるき、穏やかで暖かい日の光に照らされ、青空には白い雲がうかび、なごやかな風がわたりすぎてゆく。   この広い草原地帯には複数の川が流れており、その内、大興安嶺山脈を源流とするハルハ河は同山脈の麓から北東へと流れ、くねくねと曲がり、途中、二つに分かれる。その一つはボイル湖に流入し、その北からはオルシュン川(Orchun_Gol)が流れ出てフルン湖へと続く。もう一つはシャリルジ川(Shariljiin_Gol)といい、オルシュン川と合流する。   ハルハ河にそって複数のオボー(モンゴルの山や峠に石や木で作られた構造物。宗教的役割と同時に境界標識や道標としての役割も持つ)が点在しており、流域の真ん中辺の東岸にノモンハン・ブルド・オボーが建てられており、静かに周りを見守っている。ノモンハン・ブルド・オボーの「ブルド」つまり「泉」を源とするホルスタイ川は西へと流れ、ハルハ河に注ぐ。この「泉」の周辺にはヨシが多いため、地元の人たちは、その川をホルスタイ川(ヨシの川)と呼ぶが、川が西へ流れていくにつれ、楡、即ちモンゴル語でハイラースが多くなっていくため、ハルハ人はその川をハイラースト川(Khailaastiin_Gol)と呼ぶ。   こんな天国のような草原地帯で、1939年5月から9月にかけて、激しく、壮絶な戦いが繰り返された。   2019年はハルハ河・ノモンハン戦争80周年にあたる。この記念すべき年を迎えるにあたって、ウランバートル、モスクワ、東京でさまざまな記念シンポジウムがおこなわれた。その一つが、私が企画したウランバートルにおける国際シンポジウムであった。   今回のシンポジウムの開催において、モンゴル日本関係促進協会会長・元駐日モンゴル大使のS.クレルバータル(S.Khurelbaatar)氏が非常に熱心、かつ積極的に協力してくださった。4月と5月に日本を訪問された際には、一橋大学名誉教授田中克彦名誉教授や二木博史・東京外国語大学名誉教授と私に会って、いろいろと話し合った。そして、日本側の団体の資金が厳しい状況のなか、氏のご尽力のおかげで、モンゴル外務省からも支援を得た。さらに、シンポジウムの前日には、氏を始めモンゴル日本関係促進協会の方々が会場にて、設営などにも携わってくださった。   2019年8月29、30日の2日間にわたって、公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)とモンゴル日本関係促進協会、日本モンゴル学会、昭和女子大学国際学部国際学科の共同主催、昭和女子大学、モンゴル日本学会、モンゴル科学アカデミー歴史・考古学研究所、モンゴル・日本人材開発センター、モンゴルの歴史と文化研究会、NGO「バルガの遺産」協会の後援、公益財団法人守屋留学生交流協会の助成で、第12回ウランバートル国際シンポジウム「ハルハ河・ノモンハン戦争80周年:歴史、記憶、そして教訓」がモンゴル・日本人材開発センター多目的室で開催された。   開会式では、クレルバータル氏が司会をつとめ、D.ダワースーレン(D.Davaasuren)モンゴル外務省国務長官、高岡正人在モンゴル日本大使、二木先生が祝辞を、田中克彦先生が開会の辞を述べた。   今回のシンポジウムには、モンゴル、日本、ロシア、中国、韓国、香港などの国や地域からの100名余りの研究者が参加し、共同発表を含む、18本の報告があった。D.ソドノム(D.Sodnom)元モンゴル首相をはじめ、10名を超える元駐欧米、アジア諸国のモンゴル大使がシンポジウムに参加した。その内、Ts.バトバヤル(Ts.Batbayar)モンゴル外務省顧問・元駐キューバモンゴル大使、モンゴルにおけるハルハ河・ノモンハン戦争研究の第一人者、R.ボルド(R.Bold)駐トルコモンゴル大使、そして、S.チョローン(S.Chuluun)国際モンゴル学会事務総長・モンゴル科学アカデミー歴史・考古学研究所所長なども参加し、最新の研究成果を報告した。その詳細は、別稿にゆずりたい。   8月29日の夜の招待宴会は、モンゴル日本関係促進協会の主催で、モンゴル外務省迎賓館で開催され、宴会中、モンゴルの伝統の歌や馬頭琴の演奏、民族舞踊も披露された。8月30日の夜の招待宴会は関口グローバル研究会(SGRA)と日本モンゴル学会の主催で、ウランバートルホテルでおこなわれた。   同シンポジウムについては、『ソヨンボ』や『オーラン・オドホン』紙などにより報道された。   ハルハ河・ノモンハン戦争の戦勝80周年を記念し、モンゴルでは『ハルハ河戦争:1939』というモンゴル語・ロシア語・英語対照の資料・写真集が出版された。同資料・写真集はハルハ河・ノモンハン戦争にいたるまでのモンゴルの内外情勢、戦争が起きた原因、戦争、結果、モンゴル・ソ連軍の共同の勝利、英雄的出来事という6つの部分より構成されている。史料・地図・写真・ハルハ河でおこなわれたフィールドワークの資料、個人コレクターのコレクションなど950点余りが収録されている。同時にモンゴル科学アカデミー歴史学・考古学研究所とモンゴル諜報局特別文書館が共同で『マンチューリ会議日記:1935~36年』という資料集も出版された。主にマンチューリ会議の時のモンゴル側の代表のモンゴル文字で書かれた日記をキリル文字に転写し、出版したのである。 また、バトバヤル氏は、それまでのみずからのハルハ河・ノモンハン戦争についての研究成果を発展させた『ハルハ河戦争と大国間の地政学』を出版し、マンチューリ会談を含む、ハルハ河戦争をめぐる日本、ソ連の思惑などについて再検討している。さらに、ミャグマルスレン・ハルハ河郡戦勝博物館館長が編集した『彼らは私たちのために(戦った)私たちは彼らのために(記憶を残そう)』には、モンゴル国ドルノド県ハルハ河郡戦勝博物館がおこなってきたハルハ河・ノモンハン戦争参加者の伝記研究と戦争考古学的発掘調査の成果がまとめられている。同時に、ハルハ河・ノモンハン戦争を記念・たたえる『ハルハ河歌集1』という歌集も出版されている。   シンポジウムを終えて、8月31日から9月6日にかけて、わたしはハルハ河・ノモンハン戦場のドルノド県で現地調査をおこなった。その目的は、ハルハ河・ノモンハン戦場での現地調査のほか、モンゴルのハス映画会社と共同でドキュメンタリー映画『ハルハ河とノモンハン:忘れられた忘れてはいけない戦争』の製作のための現地撮影であった。   実はハルハ河・ノモンハン戦争80周年にあたる2019年に、ロシア政府の提供した800万ユーロにより、モンゴル国政府は同年ハルハ河郡に、郡庁舎、学校、病院などを新たに建設したほか、モスクワの赤の広場の入り口にあるジューコフ元帥の像を複製し、郡の庁舎の前の広場に建てた。その記念式典はドルノド県ハルハ河郡でおこなわれた。私たちはその記念式典に間に合った。   2019年12月と今年1月に私は2度もモンゴルに行き、映画『ハルハ河とノモンハン:忘れられた忘れてはいけない戦争』のポストプロダクションに携わった。この映画のモンゴル語版はすでに完成し、予想以上に出来が良かった。これから同映画の日本語版のポストプロダクションに入る。この映画の脚本の執筆は私である。私には、この映画をどこかの国のためのみに製作するものではなく、多くの国の人びとに納得のできるものにしてもらいたいという願いがある。   モンゴルの草原と会議の写真   <ボルジギン・フスレ Borjigin Husel> 昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)他。     2020年3月26日配信
  • 2020.03.12

    エッセイ623:小川忠「経済学と宗教実践―壁を乗り越える試み:円卓討議『東南アジア文化/宗教間の対話』に参加して」

    第5回アジア未来会議の円卓討議B「東南アジア文化/宗教間の対話」の表題は「宗教は市場経済の暴虐を止められるか」というものだった。いささか粗削りなテーマ設定ではある。今日の世界が置かれている政治状況は、この一文で表現できるほど単純なものではない。それでも国際協調の精神が危機に瀕している今だからこそ、経済学、政治学、文化人類学、宗教学という専門の垣根を越えて集まり、世界が抱えている問題について議論することが必要である。そして行動が必要である。   まさに単刀直入に、会議冒頭で名古屋大学の平川均名誉教授が、そういう問題提起を行った。東南アジアは数十年わたり驚異的な経済発展を遂げ、貧困を削減し膨大な中間層を創出してきた。しかし強い光は、深い闇をも生む。こうした発展は、グローバル資本主義に一層組み込まれることを意味し、経済成長の果実を享受できる者と享受できない者との格差を拡げ、深刻な環境破壊をもたらした。   「グローバル資本主義が行き詰まりを見せるなか、明日を切り開くカギが過去に隠れているのではないか」「もう一度、アジア各地で息づいてきた宗教、伝統文化のなかに、新たな経済のかたちを考えるヒントがあるのではないか」「タコつぼ化した専門分野の壁を乗り越え、全体知の復権を構想しよう」と平川氏は参加者に呼びかけた。経済学の権威が、今日の経済学の限界をこれだけ率直に語るのは衝撃的であり、その誠実な問いかけは、各参加者の胸に深く届いたと確信する。   平川氏に続いて、基調講演を行ったのはフィリピン歴代大統領の経済顧問を務めてきたフィリピンを代表する経済学者、アジア太平洋大学のバーナード・ヴィレガス教授である。ヴィレガス氏は、国際間の貧富格差、そして一国内で広がる貧富格差、公職にあるものの汚職、ビジネスリーダーたちの社会貢献意識の低さを問題視した。政財界の指導者たちが、人々の公益をかえりみることなく、利潤を追求するのみでは社会的紐帯は成り立たないことを指摘した。他方、消費者も、自分の消費行動が地球環境にどのような影響を及ぼしているのかを考える想像力をもつべきと訴えた。   つまり健全な経済には社会倫理が不可欠であり、そうした社会倫理の土台となるのが、宗教や文化的価値観なのである。ヴィレガス氏の講演を聴いて思い浮かんだのは、渋沢栄一の道徳経済合一論である。   今から100年ほど前に、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は著書『論語と算盤』のなかで、利益は独占するものではなく、社会に還元すべきものであると説き、「富を為す根源は仁義道徳」と論じていた。あらためて『論語と算盤』をアジアの人々と一緒に読み直し、語り合いたいと感じた。   経済学の限界、新自由主義経済の閉塞状況に関する、平川・ヴィレガス両経済専門家の問題提起を受けるかたちで、世界の三大宗教(仏教、イスラム教、キリスト教)を基盤に社会的に行動し続けている知識人3人が、それぞれの立場からの発表を行った。   最初のプレゼンテーションは、フィリピンのシスター・メアリー・マナンザンである。彼女はマニラのベネディクト派女子修道院の院長にして、フェミニスト市民活動家でもある。シスターは「女性の貧困」に焦点をあて、フィリピンにおける女性の貧困の原因として、不平等な利益分配、土地と資本所有の不平等、外国資本の経済支配等をあげ、男性以上に女性のほうが、寿命・健康・教育・生活水準・政治参加等の面で抑圧的環境に置かれていることを指摘した。そのうえで、伝統的な教会の家父長的・西洋優越主義的イデオロギーが女性に屈従を強いてきた、と既存の教会のあり方を手厳しく批判した。そのうえで、女性の置かれている状況を変えていくためには、経済的な支援のみならず、ジェンダー平等の観点から女性を精神的に解放し、自己肯定感を持たせていくことが大切で、そこに宗教が果たすべき役割があるという。   次に発表したのは、タイの仏教に根差した平和・人権市民活動家のソンブン・チュンプランプリー氏である。仏教NGO「関与する仏教(社会参加仏教)」国際ネットワークの専務理事を務め、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーでの草の根市民運動を組織している。   21世紀に入ってタイの政治は、タクシン派と反タクシン派の対立が民主主義を機能不全に陥らせ、軍政支配の復活を招きいれてしまった。分断はタイ国民の多くが信仰する仏教にまで及んでいる。仏教は、本来は暴力を戒める平和な宗教とみられているが、仏敵を倒すためには暴力行使も是とする過激僧がアジアの仏教界に現れ、物議をかもしている。   ソンブン氏は、ブッダが説いた「中道」の教えに立ち返り、過激を排し、貪欲と憎悪を捨て去ることが、現代の仏教徒に求められていると述べた。市場経済の暴走をくいとめる知恵もブッダが説いた価値のなかにあり、それは自立、自分と社会との調和、小規模な自給生活、自然との共生、瞑想、我執の消滅といったものである。「関与する仏教(社会参加仏教)」とは、このような価値に基づいて、人権抑圧、経済搾取、自然破壊に異議を唱え、人間の苦の根本にある強欲、敵意、無知に向き合うことを目指す実践的な仏教のあり方を指す。   ソンブン氏らの「関与する仏教(社会参加仏教)」は、今日の世界が置かれている状況に照らした仏教教義の創造的解釈といえよう。   インドネシア国立イスラム大学ジャカルタ校のジャムハリ副学長は、世界最大のイスラム教徒人口を擁する多宗教国家インドネシアにおいて、多数派のイスラム教徒が次第に少数派への寛容性を失い、少数派へのハラスメントを増大させている状況に警鐘を鳴らす報告を行った。同大学付属機関「イスラムと社会研究センター」が2017年に全国2000人を超える高校生・大学生・教員を対象に行った調査によれば、回答者の34%が少数派宗教への差別を是とし、23%が自爆テロを聖戦(ジハード)として許容すると答えたという。   インドネシアは21世紀半ばから高い経済成長率を維持し、今や国民の半数以上が中間層となった。中間層の拡大とともに、学歴社会化、デジタル社会化も進んでいる。先のアンケートに答えた高校生、大学生はインドネシア経済の躍進が生んだ新中間層の申し子ともいうべき存在である。都市部の、高学歴の中間層の若者が、なぜ他者への寛容性を失い、一部過激化するのか。これは、インドネシアだけでなく先進国の民主主義も、同じ問題に直面している。   ジャムハリ氏は、その理由の一つとして、経済発展とグローバリゼーションの加速化による伝統的な地縁・血縁社会の弱体化、共同体から放り出され厳しい競争にさらされている個人のアイデンティティー不安の問題を挙げた。   翌日、私がモデレーターをつとめた分科会セッションでは、宗教・倫理と経済の調和を図る試み、ケーススタディー報告を参加者にお願いした。前述したタイのソンブン氏は、仏教内部の寛容派と非寛容派の亀裂が深刻化するなかで、仏教内部の対話の重要性を指摘し、非寛容派仏教リーダーとの対話例を紹介してくれた。   フィリピン大学ロス・バニョス校で農業・応用経済を教えるジーニィ・ラピナ助教授はリベリア、ブルンジ、スーダンでUNDPの農村開発プロジェクトに携わってきた実践経験をもつ。彼によれば、農村開発において、その土地の文化・宗教を考慮に入れる必要があり、部族ごとのアイデンティティーに細分化され、時にそれが反目しあうなかで、対峙する共同体が共に利益を分かちあう共通インフラを作ることが、敵対意識軽減に効果的であると説明した。   インドネシア国立イスラム大学ジャカルタ校教員で歴史研究者アムリア・ファウジアは、社会的弱者への短期的な救援・支援を指す慈善(チャリティー)と長期的な自立を促すフィランソロピーの違いを論じ、インドネシア・イスラームには慈善とフィランソロピー両方の伝統が存在することを説明した。彼女によれば、インドネシア・イスラームにおいて活発なフィランソロピー活動が行われており、それが社会のセーフティ・ネットになっているという。一例として、私有財産を放棄し公益に資するためにモスク等に寄進し基金とする「ワクフ」と呼ばれる、欧米の財団制度に似たイスラム公益制度がある。アムリア氏は、インドネシアのワクフの全体像を描いた優れた論文を発表している。   最後に印象に残ったコメントを書きとめておきたい。冷戦時代、半世紀に渡り共産主義と戦ってきた、資本主義の牙城アメリカにおいて、近年共産主義・社会主義になびく若者が増えているという。「共産主義は死んだのか」とベレガス教授に聞いてみた。彼の答えは、「経済理論としての共産主義の命脈は尽きた。しかし社会的弱者への視線、公平・公正な利益分配というイデオロギーとしての共産主義は、依然として顧みる価値がある。」   共産主義は宗教を否定するといわれるが、階級のない平等な世界というユートピアを設定する共産主義は、それ自体が宗教的でもある。「人はパンのみにて生きるにあらず。」極度に数式化、理論化した経済学が行き詰まりを見せるなかで、宗教の復権現象が世界中で起きているのは、別個の現象に見えて、地下水脈のようにつながっているような気がする。   円卓会議の写真   <小川 忠(おがわ・ただし)OGAWA_Tadashi> 2012年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士。1982年から2017年まで35年間、国際交流基金に勤務し、ニューデリー事務所長、東南アジア総局長(ジャカルタ)、企画部長などを歴任。2017年4月から跡見学園女子大学文学部教授。専門は国際文化交流論、アジア地域研究。 主な著作に『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 軋むインド』(NTT出版)2000、『原理主義とは何か 米国、中東から日本まで』(講談社現代新書)2003、『テロと救済の原理主義』(新潮選書)2007、『インドネシア・イスラーム大国の変貌』(新潮選書)2016等。     2020年3月12日配信
  • 2020.02.13

    エッセイ619:金キョンテ「第4回国史対話レポート」

    第4回「韓国・日本・中国における国史たちの対話の可能性」円卓会議は2020年1月9日と10日、フィリピン・アラバン市ベルビューホテルで開催された。今回のテーマは「『東アジア』の誕生―19世紀における国際秩序の転換―」だった。3国でそれぞれ活発な研究活動をしている研究者たちが3人ずつ発表した。   9日朝、円卓会議が始まった。冒頭の基調講演及び挨拶では、共通して「『アジア』とは何か」「共同の歴史のための研究者の役割」「歴史の大衆化の問題」などの問題が提起された。   続いて発表セッションが始まった。最初のテーマは「西洋の認識」で、大久保健晴先生(慶應義塾大学)の「19世紀東アジアの国際秩序と『万国公法』受容―日本の場合―」、韓承勳先生(高麗大学)の「19世紀後半、東アジア三国の不平等条約克服の可能性と限界」、孫靑先生(復旦大学)の「魔灯鏡影:18世紀から20世紀にかけての中国のマジックランタンの放映と製作と伝播」の発表があった。伝播と影響、変容という様相を扱った興味深いテーマだった。発表が終わった後は討論が続いた。『万国公法』受容の様相、西洋から伝播した新しい「思想」と「道具」の各国における受け入れ方の共通点と相違点、「不平等条約」という用語が果たして適切であるかについての悩みなどが論点として提示された。   2番目のテーマは「伝統への挑戦と創造」で、大川真先生(中央大学)の「18、19世紀における女性天皇・女系天皇論」、南基玄先生(成均館大学)の「日本民法の形成と植民地朝鮮での適用:制令第7号『朝鮮民事令』を中心に」、郭衛東先生(北京大学)の「伝統と制度の創造:19世紀後期の中国の洋務運動」の発表で、挑戦的な問題提起が目立った。このセッションでは女性論で見える当時と現在の共通点、植民地朝鮮における日本法の適用方式の特殊性、洋務運動の歴史的評価の変遷史などの論点があった。   3番目のテーマは「国境を越えた人の移動」だった。塩出浩之先生(京都大学)の「東アジア外交公共圏の誕生:19世紀後半の東アジア外交における英語新聞・中国語新聞・日本語新聞」、韓成敏先生(大田大学)の「金玉均の亡命に対する日本社会の認識と対応」、秦方先生(首都師範大学)の「近代中国女性のモビリティー経験と女性『解放』に関する再思考」の発表があった。人と人の繋がりによって転送される情報に着目した研究であった。移動を扱うと同時に、それぞれその伝送の媒体を設定するのが興味深かった。このセッションでは金玉均の活動と日本政界の関係、「女性解放」が必ずしも女性を自由にしなかったという指摘、新聞に入る情報を決定する主体が誰なのか、などをめぐる議論があった。   劉傑先生(早稲田大学)はこの日の対話について「国際秩序の転換を各国が受け入れた時期に注目すると、各国がどのように違っていたかが明らかになるだろう」と指摘した。さらに、「冊封・朝貢の概念が登場しなかったのは何故なのか、朝貢・冊封体制の終結と条約体制の始まりは果たして繋がりがあるのか」という問題を提起した。   10日の2セッションは討論だけで構成された。三谷博先生(跡見女子学園大学)は討論に先立ち、前日に提示された様々な論点を基に「今日はさらに進んだ討論が期待される」と述べ、さらに「研究者が互いに友達になり、今後、お互いを研究パートナーにしてもらいたい」という願いが伝えられた。   次は指定討論者からの質問だった。青山治世先生(亜細亜大学)はまず「東アジア」の相対化を提案した。平山昇先生(九州産業大学)は各国の研究の違いと共通点を共に認識するようになったと指摘した。共通点としては、前近代から近代に至る過渡期が共有されていること、そして国史専攻者の間で対話が可能だという発見であった。しかし研究者が自国に戻り、いかに自国民との対話が可能なのかについては反省することになると語った。朴漢珉先生(東国大学)は西欧から流入した近代の様々な要素の朝鮮における様相を詳しく紹介し、新たに「流入」したものとして疾病にも注目すべきものであるとした。孫衛国先生(南開大学)は「東アジア」誕生の意味について提言した。   次は司会者の論点だった。村和明先生(東京大学)は「3国の歴史を合わせたからといって『東アジア史』になるわけではない、日中韓の各国で同じような考え方を持っている人々がいたかもしれない」と述べた。彭浩先生(大阪市立大学)は歴史研究と大衆、政治の問題を指摘しながら、研究者同士は共通の認識を持つことができるが、教科書と大衆向けの媒体で反映されるとき、冷静に考えることができるかどうか悩んでいるとした。   発表者たちはこれらの質問に同意した。一方、ここまでの対話を通じて、分野史を超えて現代秩序の形成に対する問題まで考えるようになり、国境線と歴史的感情も乗り越えられるという期待を持ったという感想もあった。またこの対話を自国でどのように発信するのかを悩まなければならないという指摘も継続された。   発表者と討論者たちは次のような評価を残した。「19世紀後半は『アジア連帯』が模索されながらも、お互いの違いに違和感を抱いた時期だった。21世紀にこれをどう思うかは課題の一つである」「条約に対する対応の差異は、初期条件の差異にも注目する必要がある」「歴史の大衆化は、良い書物を出版するよりも、いかに伝えるかという媒体がより重要な時代になったということだ。研究者が変身を図る時だ」「研究者であり教育者としてこのような悩みを共有してほしい」等だった。   最後に三谷先生が「今回の対話では『アジア』という観点の妥当性の有無が論議された。19世紀は西洋をいかに受け入れていくかについて悩んだ一時期として、各国の対応方式の差を確認した」と総括し、続いて「研究者たちはこの成果を伝え、教育に反映できるように努力しなければならない」と指摘し、「この対話は続けられなければならず、十分に可能だという」期待を残した。最後に円卓会議にずっと参加してくださっていたアジア未来会議の明石康大会会長が、「豊かな議論がなされれば、議論が一致しなくても多くの教訓を受けていけるだろう」とし、「この対話を最後までよく続けてほしい」と話された。   第4回「国史たちの対話」では以前の3回までの会議に比べてはるかに活発な対話が行われたと思う。 参加者たちが以前に比べて非常に密接な交流が展開され始めた時代の19世紀後半を専門にしていたこと、したがって、歴史的事件や人物を共有すること、共通した問題意識を持っているということ、そしてフィリピンという第3の地域に来ていたということ、などがその理由だったと思われる。   今回の会議では言語の重要性を改めて感じるようになった。同時通訳者の苦労と活躍は言うまでもない。特に今回の対話では、相手国の言語駆使が可能な研究者が多く、休憩時間に互いに会話をする場面を目撃した。会議という形式を越え真の仲間になれるなら、国史たちの対話は半分以上成功したも同然だろう。やはり真の「対話」のためには実際の対話が必要だということだろう。   当日の写真   <金泰(キム・キョンテ)Kim_Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。韓国史専攻。高麗大学校韓国史学科博士課程中の2010年~2011年、東京大学大学院日本文化研究専攻(日本史学)外国人研究生。2014年高麗大学校韓国史学科で博士号取得。韓国学中央研究院研究員、高麗大学校人文力量強化事業団研究教授を経て、全南大学校歴史敎育科助教授。戦争の破壊的な本性と戦争が導いた荒地で絶えず成長する平和の間に存在した歴史に関心を持っている。主な著作:壬辰戦争期講和交渉研究(博士論文)       2020年2月13日配信  
  • 2020.02.06

    エッセイ618:フェルディナンド・マキト「母国で開催したアジア未来会議」

    2018年8月、台風襲来の韓国ソウルで開催された第4回アジア未来会議のクロージングパーティーで、僕たちは一生懸命参加者を舞台に誘ってフィリピン版カンナムスタイルを一緒に踊って第5回アジア未来会議への参加を促した。実は、これは用意してきた企画では物足りないと言われたので、急遽YouTubeの投稿を参考にセッションの合間に慌てて練習したものだった。普段このようなことをしたことのない僕にとって大変だったが、現在所属しているフィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)や渥美財団の関係者を含めた会場の皆さんが大いに盛り上がってくれたので手応えを感じた。練習用の動画のように、年齢や性別や職業や人種が違っていても、とにかく一緒に楽しくやろうということがアジア未来会議の目的に合致したのだろう。   1年半の準備期間には、さまざまなネットワークが動員された。日本側では渥美国際交流財団のネットワークから鹿島フィリピンとフィリピンプラザ・ホールディングスが応援してくださった。今西淳子常務理事(Tita Junko)は数回に渡ってマニラとロスバニョスを訪問して打合せを行った。角田英一事務局長(Kuya Eiichi)が率いるロジスティクスのサポートも力強かった。2004年からマニラで行っている共有型成長セミナーの支援者であるSGRAフィリピンの仲間たちも積極的に協力してくれた。そして、UPLB公共政策・開発大学院(CPAf)のローランド・ベリョー学院長からは大学院を挙げて全面的な支援・協力をいただいた。ソウルの突然の踊りから2020年1月12日の花火(火山噴火)まで、皆さんいろいろ大変なことがあったと思うが、いつも優しい言葉とポジティブな態度で対応してくださり心から感謝を申し上げたい。   実際、カンナムスタイルの踊りから始まって、この会議は、僕が普段したことのないことばかりだった。そして、母国フィリピンの発展を振り返る機会にもなった。   2020年1月9日、円卓会議A「日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」で、唯一の東南アジア人として、しかも歴史が専門ではない僕が、大変光栄にも開会の挨拶をさせていただいた。三谷博先生と劉傑先生の暖かい歓迎を受けながら、19世紀初まで250年間も続いた「マニラ・アカプルコ間のガレオン貿易」について日本語で発表した。マニラは長期に渡って中継貿易のハブとして繁栄していたのに、なぜ今はそれが続いていないのか、AFC5のテーマを念頭に置きながら、母国の発展を振り返ってみる良い機会となった。(発表資料は下記リンクからご覧いただけます)   10日の開会式の前に記者会見が開かれた。僕が司会を務め、アジア未来会議の明石康大会会長、渥美財団の今西常務理事、UPLB CPAfのべリョー学院長がメディアの皆さんからの質問に答えた。今回はアジア未来会議の中でも、マスコミの参加が一番多かったのではないかと思う。1月5日には僕とべリョー先生がマニラで一番古いラジオ局の番組への出演依頼を受けたし、10日の記者会見の後でも熱心な記者たちが廊下や会場で参加者にインタビューしていた。基調講演をしたラウレル駐日フィリピン大使のインタビューが急遽手配され、5つのテレビ局が報道した。 UPLBの報道関係事務所からの報告   開会式に続くシンポジウムは僕が企画から担当し、当日は司会と問題提起を務めさせていただいた。そもそも第5回アジア未来会議のテーマである「共有型成長」は、僕がずっと追究し続けている研究課題で、マニラにおいてもSGRAフィリピンの事業として2004年から毎年セミナーを開催している。今回のシンポジウムでは、既に27回開催したマニラセミナーを振り返りながら、研究やアドボカシーに協力してくださっている先生方(UPLBのCPAfのべリョー学長、UPLBの大学院研究科のドング・カマチョ学長、UPLBのCPAfのジョーパイ・ディゾン教授、フィリピンのアジア・太平洋大学の経済学院のピター・ユ元学長、フィリピン大学ディリマン校の建築学部の都会設計ラボのマイク・トメルダン研究所長)と一緒に「持続的な共有型成長:みんなの故郷、みんなの幸福」を検討した。 問題提起として、僕は、なぜ持続可能共有型成長がフィリピンだけではなく世界に必要なのかを訴えた。これも母国の発展を振り返ってみる機会であった。(発表資料は下記リンクからご覧いただけます)   11日、UPLBの森林学部の森の中のキャンパスで行われた分科会で、僕は、フィリピン政府の要請で関わったR&D機関の研究について発表した。これはUPLB・CPAfの同僚であるジェング・レイエスとマイラ・ダビド先生との共同プロジェクトの結果であり、組織構築論を使って母国の発展についての問いかけである。長年共同研究を続けている平川均先生に招かれ、2019年12月に神奈川大学で日本語で発表したものの英語版である。実は、同じ時間帯に、ベスト・ペーパーを受賞した地域通貨についての共著論文と、地価税についての共著論文の発表もあったが、ジョン・ペレス先生とセサー・ルナ先生それそれに発表を任せた。   突然の日程変更があって、次のセッションの座長がダブル・ブッキングになってしまったが、ラクーン(元渥美奨学生)に救われた。狸(ラクーン)のパワーを今まで以上感じて心から感謝。日本、中国、韓国、台湾、モンゴル、ミャンマー、タイ、インドネシア、トルコ、イタリア、イギリス、ウクライナ、ナイジェリア、オーストラリア、コスタリカからわざわざフィリピンに集まってきてくださった仲間たちは、本当に心強かった。閉会式での「マ・キ・ト」コールは最高だった!   100年に1回の火山噴火に襲来されたマニラで開催した第5回アジア未来会議はとても大変だったと思うが、参加してくださった皆さんが少しでも楽しい思い出を作ってくださったのであれば幸いである。渥美財団の素早い対応は印象的で、ホテル延泊の一泊分を財団が負担したのは海外から一番早い災害援助であった。僕らもすごく安心した。   タール火山の祝福を受けたアジア未来会議の炎を台湾へお渡しします。   フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)撮影の写真   <フェルディナンド・マキト Ferdinand C. Maquito> SGRAフィリピン代表。SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学ロスバニョス校准教授。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師、アジア太平洋大学CRC研究顧問を経て現職。       2020年2月6日配信