SGRAイベントの報告
ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2024年秋―ハルハ河・ノモンハン戦争85周年―」
2024年はハルハ河・ノモンハン戦争(ノモンハン事件)85周年にあたる。モンゴルとロシアではさまざまな記念活動が繰り広げられたのに対し、日本側は、いかなるイベントも行われず、まるで1939年には何も起こらなかったかのようだ。かつて「本当は日本側が勝っていた」と主張した人ですら、何もなすところがなかった。皮肉なことに、日本のメディアが「ノモンハン」にふれたのは、ロシアのプーチン大統領が記念式典へ出席するためのまさかのモンゴル訪問だった。
もちろん、日本にもこのような国際情勢だからこそシンポジウムを開くべきだとうったえる方は何人かいた。渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)がモンゴルの団体と共催した第17回ウランバートル国際シンポジウム「ハルハ河・ノモンハン戦争85周年―新視点と新思考―」は特筆すべきといえよう。
ゴールデンウイーク中に出張して日本の若手外交官と打ち合わせをした時に、「ハルハ河・ノモンハン戦争85周年を記念し、なんと200名ものカザフ人が馬に乗ってモンゴルを訪問することになっている。なぜこんなたくさんのカザフ人がモンゴルに来るのか」と聞かれた。私は「戦争にはカザフ・ソビエト社会主義共和国からも多くの軍人が参戦したが、今回モンゴルを訪問する200名はカザフ人ではなく、モンゴル語で発音が似ているロシアのコサックではないか」と答えた。「コサック」はロシアやウクライナに存在した軍事的共同体とそれに属す人びとを指す。「自由な民」という意味のトルコ語由来の言葉だ。かつては特権をあたえられ、ロシアの国境防備などに携わっていた。近代に入ってもツァーリ(ロシア皇帝)の軍事力となり、20世紀まで活躍していた。旧ソ連のペレストロイカ(民主化)に伴って再復興。2014年のロシアによるクリミア併合には、コサックも出動した。
後日、モンゴル語とロシア語の資料を調べていたら「ロシアとモンゴル国の戦勝85周年の記念イベントの一つとして、ロシア連邦クルガン州のコサックが4月に馬に乗って出発し、8月にモンゴル国に入り、ウランバートル、ヘンティ県を経てドルノド県ハルハ河郡(ハルハ河・ノモンハン戦争の戦場)にたどりついた」と書かれていた。
6月19日、世界はロシアと北朝鮮が締結した「包括的戦略パートナーシップ条約」に注目した。条約には、「一方の当事国がいかなる国または複数の国から武力侵攻を受けて戦争状態になった場合は、他方の当事国は遅滞なく国連憲章条約第51条およびロシア連邦と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の法律にもとづいて、利用可能な軍事および他の支援を提供する」という軍事協力が含まれている。これを穏やかに見守る国もあれば、ぷりぷりと腹を立てて腕を上げておこる国もある。日本の官房長官も「深刻に憂慮している」と述べた。
そもそもアジアにおける力の均衡の概念は欧米とは異なる(ヘンリー・キッシンジャー著、伏見威蕃訳『国際秩序』(日本経済新聞出版社2016)。冷戦時代、社会主義のソ連・中国・モンゴル・北朝鮮対資本主義の米国・日本・「国府(中国国民党政権/台湾政権)」・韓国という東アジアの秩序が形成されていた。インドは長い間、非同盟中立政策をとってきた。ポスト冷戦時代に民主化の道をあゆんだモンゴルは、ロシアと中国という2大パワーからのインパクトを受けながらも、北朝鮮との友好関係を維持し、日本、米国、韓国といったいわゆる「第3の隣国」との関係も強化してきた。
このような歴史的背景からロシア・北朝鮮の条約締結に対する関連諸国の反応には温度差が大きいが、モンゴルでは1936年3月に「ソ連・モンゴル人民共和国相互援助条約」が正式に締結され、「ソ連、モンゴル両国は、どちらか一方が他国から攻撃を受けた場合、いずれの側もすみやかに、軍事を含むあらゆる援助を行う」ことを約束。この条約にもとづき、ソ連軍は1939年にハルハ河・ノモンハン戦争に参戦、チョイバルサン元帥も1945年8月にスターリンの呼びかけに応じて、モンゴル軍をひきいて対日戦に参戦した。
昨夏には2回モンゴルを訪ねた。いたるところに戦勝85周年祭典を祝う雰囲気が漂っている。8月15日から24日にかけて、モンゴル国立大学の考古学調査隊と一緒にドルノド県で「チンギス・ハーンの長城」に関する発掘調査をした。私は県都チョイバルサンでも4泊した。ほとんどのホテルが満室で、多くが記念祭典に参加する人たちだった。ウランバートルに戻る朝、ホテルを出ると「ハルハ河戦勝85周年:『父たちの道』国際モーターラリー」というマークがついた長い車列に出会った。ホテル前の「友誼広場」ではハルハ河・ノモンハン戦争当時のソ連軍第57特別軍団司令官(のちに第1軍集団司令官)ゲオルギー・ジューコフ帥像の除幕式リハーサルが行われていた。ドルノド空港の旧ソ連軍の基地だったところにはロシア軍の戦車が見えた。上空にはロシアとモンゴル軍のヘリコプターが飛びまわっていた。
8月27日から9月4日にはウムヌゴビ県に行き、モンゴル国立大学の調査隊と発掘調査を行った。3日の夕方、県都ダランザドガデのホテルに入ってテレビをつけたらプーチン大統領のモンゴル訪問が生中継されていた。
9月6日にはモンゴル国立大学で、第17回ウランバートル国際シンポジウム「ハルハ河・ノモンハン戦争85周年―新視点と新思考―」を開催した。シンポジウムでは2019年以降の世界各国における同戦争に関する研究の成果を総括し、昨今の国際情勢をも鑑みながら、21世紀における民族、国家、及び国際秩序の問題点が指摘された。お互いの視点・認識の違いと特徴に注意をはらいながら対話を進め、ハルハ河・ノモンハン戦争をより広く深く探り、その経験と教訓から現在の政策決定に役立つような知見を導き出し、今後の北東アジアの平和共存と国際的な相互理解の促進を目指した。
開会式ではモンゴル国立大学のS.ゴムボバータル副学長が祝辞を述べ、日本、モンゴル、ロシアの研究者17名(共同発表も含む)が14本の論文を発表した。モンゴルにおけるハルハ河・ノモンハン戦争研究の第一人者、元モンゴル諜報局特別文書館館長、駐アメリカ・ロシア・トルコモンゴル大使を歴任したR.ボルド氏、モンゴル科学アカデミー会員・元駐キューバモンゴル大使Ts.バトバヤル氏、田中克彦一橋大学名誉教授、二木博史東京外国語大学名誉教授、湊邦生高知大学教授、小林昭菜多摩大学准教授、上村明東京外国語大学研究員、軍事史・地図研究者の大堀和利氏らが最新の研究成果を報告した。詳細は、別稿にゆずりたい。シンポジウムには実際に戦争に参加したモンゴル軍の元看護師Ts.チメデツェレン氏、ソ連軍第17前線集団軍(方面軍)司令官で、ソ連では英雄とされたグリゴリー・シュテルン中将(のちに大将)の甥G.I.シュテルン氏なども参加した。
開会式に日本の外交関係者を招待したが、「望まない形の影響が強く現れることが予想される」という理由で欠席だった。これを聞いた著名なノモンハン研究の専門家のK先生は、「だから、日本の外交は下手くそだ」とおこっておられた。
夜の宴会で、あるモンゴルの研究者は、日本のメディアが国際刑事裁判所(ICC)に加盟のモンゴルがプーチン大統領を逮捕しないと糾弾したことについて、「わが国はロシアと中国という2大隣国にはさまれており、経済などにおいて密接な関係を持っている。人口340万余りのわが国は、日本や米国、韓国、フランスなどの「第3の隣国」と友好関係を推進しながらも、ロシアと中国の影響を受けざるをえない。地政学、そして軍事的視点からみてもプーチン大統領を逮捕する力はまったくないので、日本の国民に理解していただきたい」と語った。
SNSでのロシアと中国、モンゴル人の書き込みを調べてみると、「地政学が分かっていないのか。仮にモンゴルがプーチン大統領を拘束したとして、日本の自衛隊、あるいは米国や英国の空軍がモンゴルに飛んできてプーチン大統領を連れて行けるのか、勇気があったら飛んで来い」「どの国がそんなことができるか、幼稚すぎだ」「何を考えているか、モンゴル領に入る前にロシア軍、あるいは中国軍に撃ち落されることが決まっている」などと書かれていた。
今回のシンポジウムはモンゴル国の『ソヨンボ』や『オーラン・オドホン』紙などにより報道された。会議の報告は2025年3月の『日本モンゴル学会紀要』に掲載される。
<ボルジギン・フスレ Borjigin Husel>
昭和女子大学大学院生活機構研究科教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、ケンブリッジ大学モンゴル・内陸アジア研究所招聘研究者、昭和女子大学人間文化学部准教授、教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、『モンゴル・ロシア・中国の新史料から読み解くハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2020年)、『日本人のモンゴル抑留の新研究』(三元社、2024年)、編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『ユーラシア草原を生きるモンゴル英雄叙事詩』(三元社、2019年)、『国際的視野のなかの溥儀とその時代』(風響社、2021年)、『21世紀のグローバリズムからみたチンギス・ハーン』(風響社、2022年)、『遊牧帝国の文明――考古学と歴史学からのアプローチ』(三元社、2023年)他。
2025年2月6日配信