SGRAかわらばん

  • 2009.04.08

    エッセイ200:範 建亭「海外人材導入と上海財経大学の“一校両制度”」

    前回は、上海市政府が今回の国際金融危機を海外人材獲得の絶好のチャンスとみて、ウオール街などで募集活動を行ったことを話した。今回は、その後の動向、そして私の勤め先である上海財経大学における海外人材導入の状況を紹介したい。   昨年末、上海市金融当局は、底値を狙うつもりで大規模な募集団をニューヨークやロンドンまで派遣した。反響は予想以上に大きかった。27の金融機関が用意した170の就職先に、二千人以上の応募者が殺到したという。意外だったのは、応募者の中の10%ぐらいが中国人元留学生ではなく、外国人であったことである。さらに、今回の海外募集活動を契機に、上海市政府は各金融機関に対して、これまで受入れている海外人材の現状と今後五年間の導入計画を調査すると決めた。目的は、これからの海外人材導入を制度化、長期化させることである。   このように、海外人材導入の活動はこれから本格的になりそうだ。もちろん、導入される人材は金融関係だけではない。近年の帰国ラッシュを背景に、上海にいる元留学生がいろいろな分野で活躍しており、その規模はすでに7万人を超えている。さらに、今回の金融危機の影響で帰国者が急増し、2010年には10万人の規模になると予想されている。   ちなみに、改革開放後の30年間において、中国から出国した留学生は07年末で約120万人を超えている。現在、帰国した人はそのうちの四分の一しかないが、大半はここ数年の間に戻ったのである。要するに、殆どの元留学生が海外に定住していたが、近年では事情が一変し、帰国する人が急速に増加しているということだ。しかも、帰国するときに、上海や北京を選ぶ傾向が強く見られる。実は、海外人材の導入をめぐって、地域間の競争も激しくなっている。例えば、南京市も上海のやり方を真似して、海外に人材募集団を派遣したと報道されている。   海外人材の争奪戦は各地の政府や企業だけの話ではなく、大学間の競争も激化している。もともと大学は海外人材の主要な受入れ先の一つであるが、最近は特に活発になっていろいろな取組みを行っている。その中で、上海財経大学は大変興味深い動きを見せており、しかもモデルのような存在となっている。   海外人材を導入するために、上海財経大学が取った措置は革新的なものといえる。その一つは、2004年ごろから海外の大学に勤めている教授を招聘して、五つの学部の学部長に就任させたことである。国際的な人事配置は他の大学にも見られるが、学校内の主要な学部が一気に国際化したのは珍しい。これらの教授は海外国籍の中国人元留学生であり、また常勤ではなく、国内滞在は年に三ヶ月ぐらいしかないが、国際的な学術交流、海外人材の導入などに大きな役割を果たしている。例えば、毎年、米国経済学会や金融学会が開催される時期に、上海財経大学がこれらの海外出身の学部長を中心とした募集団をアメリカに派遣し、その場で面接などを行っている。   もう一つは、2007年から正式に実施した海外人材を導入するための特別な人事制度である。それはアメリカの大学のtenure制度に近いもので、主な内容は、海外から採用した教員の給料を一般教員の三、四倍にする一方、求められる業績(海外一流の学術雑誌で発表される論文の数)も厳しくなるというものである。採用期間は六年間であるが、業績がなければ退職、合格すれば常任(終身)の教員になる。   このような人事制度が採用されている背景には、通常の待遇だけでは海外の一流大学で卒業した博士がなかなか帰りたがらない事情があるからだ。しかも、上海財経大学はまだ国内でもそれほどの知名度がないから、一流の人材を導入するのはそう簡単ではない。解決方法は高い年俸(平均30万人民元以上)を出すしかないが、同時に、国際的な慣行に近い評価システムも導入されている。このように、上海財経大学には一つの学校で二つの人事制度が並行されている。すなわち、「一校両制度」である。   そのtenure制度に採用された教員は現在40人前後で、すべて欧米一流大学で博士を取得した元中国人留学生である。これによって、海外との学術交流が頻繁になり、一流の学術雑誌に発表された論文の数も増加しつつある。効果が徐々に現れているが、一つの学校の中で違う人事評価システムが実施されているのは、恐らく世界中にも稀なことであろう。一校両制度はいろいろな問題を抱えているが、一番危惧されているのは海外出身の教員と一般教員との対立である。そのため、制度上、一般教員もtenure制度に申請することが可能となっている。ただし、申請する教員はまだいないそうだ。tenure制度はハイリスク・ハイリターンのようなもので、決して心地良いとはいえない。tenure制度で採用された同僚の教員をみると、プレッシャーもかなり大きいようである。   私のようなtenure制度が実施される前に海外から帰国した教師は、一般教員となっているが、不満があまりない。求められる高い研究業績があまりにも難しいからだ。特に日本や韓国など、欧米諸国以外の国に留学した教師は、その要求を満たすことができそうもないと思う。というのは、評価される一流の学術雑誌がほとんど英語のもので、日本語など他の言語の雑誌はそのリストに載っていないからだ。このように、残念ながら、英語圏以外の国に留学した価値が低くなると認めざるを得ない。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------   2009年4月8日配信
  • 2009.03.31

    エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

    日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。    一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。   しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。    もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。    もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。    ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。    もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。    日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。    昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。   --------------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------------------   2009年3月31日配信
  • 2009.03.27

    エッセイ198: シム・チュン・キャット「キャンペーン超大国でもあるシンガポール」

    前回のエッセイのなかで、「罰金大国」シンガポールにチューインガムを大量に持ち込んだら、最高罰金である1万シンガポールドルがついてしまうという罰則について書いたところ、「あれっ?シンガポールでガムは解禁になったんじゃないの?」という問い合わせがSGRAのほうにすぐ来たそうです。この点に関してこの場を借りて説明したいと思います。   確かに、シンガポールがアメリカと自由貿易協定(FTA)の締結交渉をおこなっていた何年か前に、アメリカ側からガムの輸入解禁の圧力がかかったため、2004年にガムはシンガポールで12年ぶりに一部解禁となりました。ただし、解禁されたのはアメリカ産の「治療目的」のガムに限られ、購入するにはお医者さんや歯医者さんの処方箋が必要であるうえ、薬局で入手するときに個人情報などを提出しなければならないことから、この方法を使ってガムを買ったというシンガポーリアンに僕は会ったこともなければ聞いたこともありません。ガムを買うのに処方箋が必要だなんて、大袈裟というか実にアホらしいというしかありません。どうしてもガムを噛みたいという人は、昔の僕みたいに国境を越えてマレーシアで手に入れたほうが全然速いということです。このように、一部解禁になったとはいえ、公害とされているガムがシンガポールで普通に日の目を見るようになったわけではないので、シンガポールヘいらっしゃる方はくれぐれも大量に(8箱ぐらい?僕の前回のエッセイを参照)持ち込まないようご注意ください。   さて、前置きが長くなりましたが、罰金大国である以上、それぞれの罰則を説明し、国民に守ってもらおうとするキャンペーンを実施することは当然ながら重要となります。否、罰則と関係なくても、ある制度やルール、もしくはマナーを国民に知らせよう・守らせよう・従わせようとする場合に、シンガポール政府は必ずといっていいほど全国規模のキャンペーンを展開するのです。共産主義・社会主義でない国の中では、国家キャンペーンが一番多いのが恐らくシンガポールなのではないかと思います。皆さんも以下を読めば、シンガポールが「キャンペーン超大国」であることにきっと納得することになるのでしょう。   独立した当時から、ガーデン・シティになるべくシンガポールが真っ先に取り組んだのが「Keep Singapore Clean & Green(シンガポールを清潔かつ緑豊かに)」キャンペーンでした。当然のことながら、優しいスローガンやポスターの裏には、ポイ捨てやタン吐きに対する厳しい罰金制度がくっついていました。また、「戦国時代状態」になっていた中国系の方言を統合すべく、つぎに打ち出された大型キャンペーンが今日まで続いている「Speak Mandarin(マンダリンを話そう)」キャンペーンでした。この最初の二つの全国キャンペーンが非常に成功したためか、その後シンガポール政府は調子に乗り、実にバラエティーに富むキャンペーンを次から次へとスタートさせたわけです。   経済発展に伴い、車の数が著しく増えると「Road Safety(道路安全)Campaign」を。人口密度が高く(というか、国土が狭すぎ!)、団地住まいの隣人同士の摩擦が多発すれば「Courtesy(礼儀正しく)Campaign」および「Be a Good Neighbour(良い隣人になろう)Campaign」を。水はマレーシアからパイプを使って輸入しているわけですから、貴重な水を無駄にしてはダメということで「Save Water(水を大事に)Campaign」を。拝金主義が蔓延り、社会貢献活動に参加する人が急減するのをみると「Be a Volunteer(ボランティアになろう)Campaign」を。汚れた公衆トイレが増えれば「Clean Public Toilets(清潔な公衆トイレ)Campaign」を。国民のメタボ率が上がるとすぐさま「National Healthy Lifestyle(国家ヘルシーライフスタイル)Campaign」を。労働者の生産力が少し落ちれば「Higher Productivity(より高い生産力)Campaign」を。などなど…例を挙げれば本当にキリがないほどです。とにもかくにも、シンガポールでは国民の暮らしの隅々まで浸透しているのが、罰金制度と双壁をなすこのキャンペーン依存症なのです。   それだけではありません。多種多彩なキャンペーンのなかには、あるキャンペーンがうまく行き過ぎたせいでそれを軌道修正するための「調整キャンペーン」のようなものもあったりします。例えば、独立した当初、増加する人口を抑制するために70年代の頭に真っ先に打ち出された「Two is Enough」というキャンペーンは、子どもは二人もいればそれで十分というメッセージを国の津々浦々(そんなにありませんが)まで行き渡らせました。ところが、このキャンペーンが非常に功を奏したせいもあり、80年代に入って人口増加が急に減速し始めると、今度はなんと「Three children or more, if you can afford it」というスローガンが掲げられました。この「余裕があれば、三人以上の子どもを産もう」というあからさまに貧乏人を差別しているキャンペーンは言うまでもなく国民から猛反発を受けました。このとんでもないスローガンはすぐ姿形なく消えてしまいましたが、その後シンガポールにも少子化の波が押し寄せ、もう余裕がある人にもない人にも、とにかく子どもを設けてほしいという事態に発展しました。そのため、今ではどの家庭に対しても、子どもが生まれると「ベビー・ボーナス」(一人目の子どもならS$4000シンガポールドル[約25万円]、二人目であれば総額約65万円、そして三人目以降ならば一人の子につき総額約120万円以上)が政府からプレゼントされるようになりました。   まあ、うるさいのではありますが、これまで紹介したキャンペーンのいずれも国や国民のことを考えての施策だとも受け取れるので、許すことができなくもありません。また、キャンペーンが展開されるたびに、ポスターやテレビCM、新聞広告などの宣伝物のほかに、いろいろな行事やイベントが催されたりテーマソングも町中に流れたりするから、お祭りめいた雰囲気が味わえてたまに楽しくなったりもします。だが、「生真面目でフレンドリーでない」シンガポーリアンのイメージを改善しようとして、90年代の半ばに「Smile(スマイルを)Singapore」というやりすぎキャンペーンがスタートしたときには、僕の顔からそれこそスマイルが消えてしまいました。さらに、多くの独身のシンガポーリアンがお金を稼ぐのに忙しすぎて、または内気すぎて恋なんてしていないということから、「Romancing(ロマンスを)Singapore」というあり得ないキャンペーンが2002年に展開され始めたと同時に、祖国に対する僕の最後の残りわずかなロマンスもフェードアウトしてしまいました…。   ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -----------------------------------   2009年3月27日配信
  • 2009.03.27

    エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

    日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。    一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。    しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。    もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。    もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。    ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。    もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。    日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。    昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。   --------------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------------------   2009年3月31日配信
  • 2009.03.17

    エッセイ195:アンポン・ベリル「アメリカよ、あえて夢を見よう!」

    2009年1月20日。その日はとても寒い日だった。天気予報は、華氏40度の半ば(華氏41度=摂氏5度)という予測だったが、私はもっとずっと低い気温だったと思う。空は曇り、どんよりした天気で、少し霧が混じった風が吹いて、ひどく底冷えした。私は何枚も重ね着をしていたが、だんだん手足の感覚が無くなる感じだった。それは敢えて外出するような日ではなかった。他のどんな状況にあったとしても、暖かく心地良い家を出て首都に出かけることは無かっただろう。しかし、今日は普通の日ではない。私の周りを見回すと、だんだんと集まってくる何千人もの群衆が同じように凍えていた。アメリカ全土の隅々から、そして外国から、あらゆる年代、あらゆる階層の人々がやってきた。民主党上院議員バラク・オバマ氏のアメリカ合衆国第44代大統領就任式の、この日この瞬間、この場に居合わすために、熱烈な期待を抱いて、抑えきれないほど興奮して、彼らは集まってきた。   就任式は、その日の午後1時に行われることになっていたが、記録的な人出が予測され、交通機関への規制もあり、この式を良く見える場所を確保するためには早めに陣取らなければならない。私は前の年に東京からワシントンDCに引っ越したばかりだった。実を言うと、私はアメリカの政治に、そして、私の生まれた自国の政治を除いて他のどの国の政治についても、特別な感心は無かった。日本に居た時、私は政府に変化が起こっても、一週間後に気づくということが普通だった。それは外国暮らしだったからだと思う。   しかし、これは違った。これは全く異なったことだった。オバマ上院議員は、ただ単に合衆国第44代大統領になるのではない。彼はこの最も尊敬される職務に就任する初めての黒人大統領なのだ。高揚感は最高潮に達した。それもそのはずだ。なぜならアメリカの歴史についてほんのわずかしか知らない者でもこの瞬間の重要性は理解できる。だから私はここにいなければならなかった。歴史のこの瞬間に。私はいつの日か「私もこの場にいた!」と言えなければならない。だからこそ骨が凍るような気温でも、他の皆と同じように、何枚も重ね着して私は立ち、見つめ、待った。   観衆が前大統領夫妻など政府高官、要人たちを歓呼して迎えた時、私は鳥肌がたった。そしていよいよ大統領の番になり、観衆は熱狂した!私は説明しがたい何かの感情が湧きあがるのを感じた・・・誇り?畏怖?信じられない?・・・考えられることは、「なんということだろう!彼は本当にこれを成し遂げたのだ!」    2年前オバマ氏が大統領選に向けた選挙活動を始めた時、この日が現実になると誰が思っただろう?!その当時、私はまだ東京の小さなアパートに住んでいた。アメリカで仕事を得ることに頭がいっぱいで、なかなかうまくいかないことにいらだっていた。私の大部分のアフリカ人の友人と同じく、オバマ氏の大統領戦出馬表明に、私も懐疑的な思いだった。私達は、東京の中心にある流行の地、原宿にある友人の店で、いつものように土曜の夜の交流イベントのため集まっていた。ホットスパイシーケバブズ(スパイシーなグリル肉)を噛み、アフリカ醸造の輸入ビールを流し込みながら、私たちはどんな議論でも熱く語るムードになっていた。   「彼は黒人だね。勝つ見込みは非現実的だね。」一人が論じた。 「そう。それに半分白人の血が混じっている。黒人票を得るためせいぜいがんばってくれ。」他のもう一人が鼻であしらった。   本当だ。私はそれ以前に、CNNのある番組を見ていたのだが、オバマ氏の特権階級の生い立ちがアメリカの黒人社会の支持をもてない理由として引用されていた。 「彼が次のマーチンルーサーキングにならないことを願おう。」これが多分皆の心に第一に浮かんだことだった。 「これは後に続く者たちのため率先して道を切り開こうとする人々がいるといういい兆候じゃないか。」誰かが提言した。   それ以前にテレビで彼が少人数の支持者に向けて演説している姿を見たとき、恥かしながら私自身も彼の可能性を疑っていた。しかしあの時から多くのことが変わった。見事に考案された戦略、変革の約束、そしてとても好感のもてる隣人のような人柄で、バラク・オバマ氏は影の薄い存在からアメリカの歴史、しいては世界の歴史にしっかりと根をおろし、台頭してきた。   オバマ氏の台頭は、ある物語を思い出させる。ある天体が太陽系よりずっと離れたところから地球に向かってゆっくりと近づいてくる。初めは小さくほとんど気づかないほどで、大部分無視されている。しかし、地球に近づいてくるにつれ速度を増し、だんだん早く、より目的をもって進み、より大きく、より輝いて火の玉になる。それを見た者は全てその偉大さに畏れ敬う。もちろんこれは子供のおとぎ話にすぎない・・・しかし私はこの物語を思い起こさずにはいられない。   東京での私の友人達との議論を振り返ってみると、私達はなんと世界に対して冷笑的で不信感を持っていたことだろう。私たちは、彼の人種はアメリカを導くという彼の夢を成し遂げるための障害にはならないということを検討してみたことさえなかった。そしてここで、彼は今や、疑いなく歴史に語り継がれるだろう演説で、あらゆることへの期待と希望のスピーチをしている。私たちはこのことから学ぶべきことがあるだろう。オバマ大統領自身がそれを一番上手に語っている―――アメリカは全てのことが可能になる国なのだ。   ・・・ただ、少し時間がかかるかもしれないけど。   アメリカに、神の祝福がありますよう!   ----------------------------------------- <アンポン・ベリル☆ Ampong Beryl> ガーナ出身。2005年東京薬科大学薬理学研究科より医学博士を取得。現在ワシントンDCのChildren’s National Medical Center (Research Center for Genetic Medicine)研究員。専門分野は免疫学、リウマチの治療研究。 ----------------------------------------- (原文は英語。日本語訳:伊藤扶佐江)   英語の原文   2009年3月17日配信
  • 2009.03.17

    エッセイ196:キン・マウン・トウエ「生きる価値」

    2008年の後半に米国から始まった経済危機は、またたくまに世界中の経済に大きな影響を与え、大変な情況になってきました。アメリカでは、この状況を回復するためにオバマ新大統領が努力しています。しかし、全てがグローバル化した現代の社会では、お互いにリンクされている為、ほとんどの国の経済はガタガタになったままです。それぞれの国が、どうにか景気を回復させようと、様々な方法を用いて努力をしていますが、今でも状況が改善する気配がありません。   我が国でも全世界の不景気の影響を大きく受けています。主要な輸出品目である農産物や水産物を始め、鉱産物、チーク材、ゴム材、宝石などの輸出も影響を受けています。相手国が不景気なために輸出が滞り、物流と決済方法が大幅に変化し、国内相場にも大きな影響を与え、倒産した企業も出ています。事業が大きければ大きいほど、その影響も大きいようです。一方、輸入産業も同様です。数か月前に輸入した商品は、その契約仕方・為替レートの変化、大安売りをしなければならない国内相場によって、ほとんどが赤字です。外国からの投資も中断しているところが多いです。在庫を持つか、赤字でも売るか、今までのビジネスネットワークと縁を切るか、どのように自分自身を精神的においつめないようにするかを上手く判断できないと、国内の不景気と一緒に自分も死んでしまいます。   今後世界経済は、どうなるのか?この不景気がどこまで落ち、再度復活するかということについて、たくさんの人々が頑張って考えています。たくさんの人々が、国境を超えて、様々な方法で努力をしています。世界経済の問題は、この地球に存在しているすべての人々が、国際理解と交流を基準にして、力を合わせて頑張って解決していくべきです。   我が国では、昨年5月2日に起きたナルギスサイクロンによる被害者の復興のために、国内外の多くの方達のご支援をいただきました。私自身も国内で支援グループを作り、サイクロン被害者への支援活動を行いました。SGRAかわらばんのおかげで、日本や韓国の多くの方達からご寄付を送っていただき、よりよい支援活動ができました。一回目は、被害直後に必要な生活用品を配給しました。2回目には、被害者の方達の新しい生活に必要なトラクター7台の支援を行いました。我々は、被害を受けたひとつの村だけに寄付することはやめて、多くの村が使用できるようにレンタル方式で行いました。6月下旬にトラクターのレンタル支援をした村に、10月下旬に視察に行った時には、青々と稲が育っていました。また、同時に、水産業も行えるようになっていました。サイクロン直後には飲めなかった飲み水用池もきれいになりました。一方、村の小学校も落ち着いた状況です。我々のグループは金銭的な支援も少し行いました。このように、我々が支援した村は、今後も自分たちの力で頑張れるようになりました。これまでに支援してくださった多くの皆様に大変深く感謝していることを、村民に代わってお伝えしたいと思います。   その後、我々は、11月の栽培時期に利用する為、他のサイクロン被害村へトラクターを移動しました。その村でもレンタル方式で支援し、より多くの方達に使用していただきました。このようにして、ご支援くださった皆様の心が伝わるような活動を行っています。   ★支援した村の写真(2008年10月撮影)   ★ナルギス被災者支援プロジェクトに関するエッセイ    ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください!    ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告    ナルギス被災者支援プロジェクト第二回活動報告     昨年12月には、ハートボックス様のご協力のもと、日本の友人たちが寄贈してくださった古着と、微力ながらも私が買い集めた冬物古着をもって山の村へ行って支援活動を行いました。これは、私が数年前より行っている山の学校支援活動です。仕事で通った多くの山の村の状況を見てから、少しでもお役にたちたいと思って始めた活動で、いままでにいくつかの山村を回って活動してきました。古着をバザーで売った利益も寄付して、学校施設の改善に使ってもらっています。彼らにとっては、今の世界経済はどうなっているのか、国内の情況はどうなっているのかということより、生きることが第一です。そして、以前にエッセイ「ゴミの中から金に書いたように、日本ではもう不要になった古着が、この方たちには必要なのです。   ★山の村支援活動の写真   私は、仏様のお言葉に従って、私が生きている間、自分が出来ることを、自分が出来ないことであれば、支えてくださっている周りの方達に声をかけながら、皆様のお力と合わせて、高いところから低いところへ水が流れるように、自分たちの生活を送りながらも、誰かのお役にたてることを精一杯行っています。今後も継続的に何らかの方法で頑張って行います。「生きる価値」があるミャンマー人として存在したいと思いながら、自分の人生を創っています。   これまで、支えてきた多くの方達には、本当に心より深く感謝をしております。   --------------------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------   ★不要になったカジュアルな夏物衣服をキンさんのプロジェクトにご寄贈ください。まとめてコンテナで送ってくださいますから、「ミャンマーのキンさんへ」と明記して、ハートボックス(静岡県)に宅配便等でお送りください。詳細はホームページをご覧ください。   2009年3月20日配信
  • 2009.03.03

    エッセイ191:太田美行「本音の伝わり方」

    本屋でふと手にした本が予想外に面白かったりすると、とても得をした気分になる。 『ペルセポリス イランの少女マルジ』との出会いもそうだった。ちょっとした時間 潰しに本屋に入ったつもりだったのに、すっかりはまってしまい、とうとう立読みで 一冊読み切ってしまった。途中、店員がモップで私の横を拭いてまわっていたような 気もするが全く気にもしていなかった。(本屋にとってはさぞや迷惑な客だったに違 いない。)   『ペルセポリス』はフランス在住のイラン女性、マルジャン・サトラピ(愛称マル ジ)自身の少女時代についての漫画だが、ニュースや映画でしか窺い知ることのでき ないイランの宗教革命前後の生活が鮮やかに描かれている。そして遠い国のことなの に、彼女の描く世界には不思議な既視感を覚えた。中でも「正しさ」の変化について は興味深かった。   王朝崩壊と宗教革命、そして戦争と目まぐるしく変化する状況の中で、彼女は世の中 の「正しさ」が次々と変化するのを経験する。裕福で進歩的な家庭に育ったマルジは 宗教革命前のパーレビ王朝下の学校で「シャー(王)は神に選ばれた」と習う。しか し革命後、教科書にあるシャーに関するページを破くように言われる。さらにパーレ ビ王朝下で投獄されていた共産主義者の伯父が、王朝崩壊と共に解放されると「英 雄」として迎えられるものの、宗教革命後に再び投獄され、「スパイ」として処刑さ れてしまう。勝者が権力を握れば、敗れたかつての為政者は否定される。「昨日の正 義が今日の悪」になることは日本も経験したことであるし、世界中で繰り返されてい ることだ。自由な思想の中で育ったマルジは、それらの一つ一つに反応してしまう。   彼女が生きにくくなることを心配した両親は、たった一人である我が子のためにオー ストリアへ留学させるところで本書は終わる。続編では留学生活と帰国後の生活が描 かれる。留学先で「第三国の人間」として扱われたことや失恋。そして帰国後イラン 社会がすっかり変化していたことへの戸惑い、結婚と離婚。続編はやや暗さが漂う。 前編からは政治情勢の変化と共にマルジの生き生きとした性格やイランの様子が伝 わってくる。文字が書けないメイドに頼まれたラブレターの口述筆記にはまるマル ジ。マイケル・ジャクソンの写真入りバッジを保守的な女性達に見とがめられると、 「これはマルコムXです」といって逃げようとするマルジ。マルジの両親はピンク・ フロイドをドライブ中に聞いているが、宗教革命前とはいえイランでピンク・フロイ ドが普通に聞かれていたとは思ってもみなかった。日本で一般的に知ることのできる イランの情報が限られていることを改めて実感する。「事件」でないと中東のことは ほとんど報道されないため、「中東=事件の多い国」とすら思えてしまう程だ。だか ら『ペルセポリス』で事件としての中東でなく、また学術書でもない、日常のイラン が見ることができて大変面白かった。   さて所変わって日本。この2日間で面白い経験をした。一つ目はお洒落な「ニュー ヨーク・スタイルのカフェ」の店員。50代くらいの小太りな男性で、ガラガラと大き な声で注文を受ける。こう言っては失礼かもしれないが、こうしたカフェにはあまり 見かけないタイプである。居酒屋に居たらまったく違和感がなさそうだ。どう見ても ほかの店員とは違っており、ひとり異彩を放っている。ところがこのおじさん、妙に 愛嬌がある。注文の品を運んでくる時もちょっとした事をお客に話し掛けたり、ケー キセットのサービス時間が終わっていることを伝える時も、マニュアル的でない話し 方をしたりする。その様子が実にユーモラスだ。きっとこのサービスぶりが気に入っ ているお客もいるに違いない。   そして今日。加湿機の調子がおかしいので大阪にあるメーカーのカスタマーサービス に電話をした。担当者も当然大阪の人で、やや訛りのある声で真面目に話しているの になぜかおかしい。これもまたコールセンターにありがたちな、妙に丁寧なマニュア ル的な話し方ではないからかもしれない。そこに担当者の個性が反映されるのが面白 いのだ。私が加湿器の様子を伝え、「このタイプはこういうものなんでしょうか?」 と聞いた時、「いやいやそれは・・・・・・・・・確かに困りますねぇ」と担当者が 思わず呟いた同情の言葉に、何とも言えない人の良さが滲み出ており、私は必死で笑 いを噛み殺した。   丁寧なことは確かに大事で私も好きだけれど、あまりにも形式的過ぎると言葉がただ の記号にしか思えなくなり、人と話した感じがしなくなる。気持ちが伝わってこない からだ。会話でなくて文書でも同じように思う。これまでのイラン関係のニュースや 本で私が見つけられなかったのは、イランの人達の本音かもしれない。   --------------------------------------- <太田美行☆おおた・みゆき> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本 語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。 著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共 生』第8章(三元社)2003年。 --------------------------------------- 2009年2月27日配信
  • 2009.02.10

    エッセイ188:今西淳子「5年ぶりの延辺」

    2008年9月24日、成田から北京経由で、ほぼ一日かけて延辺朝鮮族自治州の延吉に到着した。今回の目的は延辺大学でSGRAフォーラムを開催するためで、私にとっては5年ぶりの訪問だった。一行は、講演者のアジア学生文化協会の工藤正司常務理事、SGRAの嶋津忠廣運営委員長と私の3名。薄暗い延吉空港には、SGRA会員の呉東鎬さんと、金香海さんの学生さんたちが迎えにきてくれていた。金さんは国際政治の専門家なので、学生さんたちは日本語よりは英語の方が得意だった。ホテルにチェックインした後、金さんと呉さんと一緒に金さんの行きつけのお店でビールを飲みながら打ち合わせをした。私たちは12時前にはホテルに戻ったが、金さんと呉さんは、なんと同じ大学に居ながらも久しぶりの機会だったそうで、明け方まで話がはずんだということだった。   翌日、金さんが、北朝鮮とロシアの国境である図們江(朝鮮語:豆満江)デルタ地帯を案内してくださった。まず、5年前と違っていたのは高速道路ができていたことである。車は一直線に進みあっという間に国境地帯へ着いた。このあたりは中国でも一番自然が残っているところだそうで、両側は木々が青々と茂っていた。「どんな動物がいるんですか?」という質問には「虎!」とのこと。道の右側に沿って流れる図們江が北朝鮮との国境である。見張りの櫓も警備の兵士も見あたらない。といっても誰も見張っていないわけではないはずだ。冬になれば凍って歩いて渡れるというが、夏でもすぐに泳いで渡れそうなほどの小さな川である。   このあたりには脱北者はいるはずだが、人々はあまり語らない。一般人が入手できる脱北者に関する情報は日本の方が多いのではないだろうか。泊まったホテルは北朝鮮系というし、レストランや旅行社など北朝鮮の人々が居ないわけではない。ただ、「独裁者に虐げられたかわいそうな人々だから、助けてあげなければいけない」ということはない。脱北者に接触したら厄介なことが起きるから関わらないに越したことはないということなのだろう。前回、北朝鮮からの留学生は北京の大学に行くと言われたが、今回は延辺大学にも来ているということだったので受け入れが拡大したのかもしれない。   北朝鮮側の羅津という町には、日本海に面する大きな港があり、中国からの物資を運ぶ輸送ルートとして注目されている。釜山へのコンテナ航路もある。一時そこにカジノがあったが、中国のお役人たちがたくさん行き浪費をするので、中国政府が禁止したそうである。「それでは、さぞかし、北朝鮮経済にとって痛手になったでしょう」と言うと、「営業していたのは香港マフィアですから」とのこと。一時非常に盛んになった図們江地域の物流は、北朝鮮の核実験でとまってしまったということを聞いたことがあったが、途中で休憩した琿春市はとても賑やかだった。   図們江は長白山に源を発し河口付近で中国領は途絶えロシア領となるが、中露朝三国の国境地域に位置する場所には展望台があり、ロシアと北朝鮮が一望でき、遠くに日本海を眺めることができる。というか、「あれが日本海ですよ」と言われると海が見えるような気がするが、地平線と海と空の境界は肉眼では定かではなかった。展望台にたどり着くまでには、右側に図們江、左側にロシアとの国境である高さ1.3mくらいの鉄条網のフェンスの間の細長い中国領が続くわけであるが、ふと見ると右側に鉄条網のフェンスがある。ということは、私たちは今ロシア領に居る???なんでも、高速道路を作る時に、川沿いの崖っぷちの元の道路が使えなかったので、ロシアと交渉してこのようになったらしい。なんとも大らかな話。   金さんが以前に休暇を過ごしたという、水道局の管理する保養所で昼食をとった。到着が遅かった上、予約が上手くはいっていなかったようで閑散としていたが、すぐに昼食を用意してくれることになった。建物の前に蓮の池と水槽があった。その池で釣りができるらしいが、水槽の中には鯉のような魚や、小魚、蟹などが居た。料理ができるのを待っている間に、近くを散歩した。トウモロコシや綿花の畑の間の道を歩いていくとダムでできた湖があった。小さな観光船のようなボートが繋がれていたが人気はなかった。のどかな農村風景であった。昼食は、そのサイズのお皿がなかったのだろう、ステンレスの巨大な器に載せられてきた5kgの鯉を始め、6人で食べても殆どを残してしまったのではないかと思うほど豪勢な食事だった。日本人としては、「こんなに残して勿体ない」と罪悪感を禁じえないのであるが、おそらくそのような心配は無用なのであろう。ちなみに、この食事が全部で470元(約8千円)と後で聞いてさらに驚いた。   途中、図們の町によった。図們江を挟んで北朝鮮と中国の町が隣接し、70年前に日本が建設したという小さな橋で繋がっていて、その真ん中が国境だった。入場料を払って橋の途中まで行く。人民解放軍の兵士がついてきた。北朝鮮側に30cmほど入って写真を撮った。私の時は問題なかったけど、嶋津さんが国境線を越えて撮ろうとしたら注意された。特に理由はなく、たまたまそうなったのだと思う。門の上に登って10分ほど橋と北朝鮮の村の様子を眺めていたが、往来は殆どなかった。大きな荷物を曳いて北朝鮮側からきた男性がひとり通っただけだった。振り返って図們の町には、新しいマンションや建設中のビルがたくさんあった。   5年ぶりの訪問で一番変わったのは、新築の建物の多いことである。途中で通りすぎた村には、屋根に太陽熱温水器をつけた同じデザインの新しい住宅がまとめて何軒も建てられ、町には新しいマンションがどんどん建設されている。この経済発展の主な収入源は、出稼ぎだという。現在、朝鮮族は韓国に50万人、日本に5万人居るという。延辺朝鮮族自治州の朝鮮族の人口は既に40%を割り、登録したまま海外へでる人もいるので、実態はさらに少ないのではないかと言う。朝鮮族が流出したことによる労働不足を補うのは漢族である。したがって、この地域では、国の政策ではなく、市場原理によって少数民族の人口比が減ってきている。朝鮮族は中国語を、漢族は朝鮮語を勉強するという。両方の言語ができるとより良い仕事がみつかり、より良い収入が約束される。いわゆるマイノリティーとしての少数民族の問題はここにはないようであった。   延吉に戻った時にはすっかり暗くなっていた。金さんが松茸を用意してくださり、羊肉の串刺しと一緒に炭火でバーベキューを楽しんだ。白酒とともに、本当に美味しかった。「日本ではめったに食べれられないから大変うれしい」と大喜びしたが、延吉でも非常に高級なもので、一緒に食事をした学生さんたちの中には、初めて食べると言う人もいた。    5年前の「延辺訪問記」はここからご覧いただけます。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年2月10日配信  
  • 2009.02.03

    エッセイ187:マックス・マキト「マニラ・レポート2008冬」

    SGRAフィリピンでは、現在、3つのプロジェクトを進めている。フィリピン大学機械工学部に船舶海洋工学プログラムを設立するプロジェクト、フィリピンの貧困に関するアジア太平洋大学(UA&P)と東京大学との共同研究、フィリピンの自動車産業に関するUA&P、名古屋大学との共同研究である。そして、定期的に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」を開催し、共同研究の報告を行っている。   2008年12月12日(金)にフィリピンに帰国し、早速、その翌日にフィリピン大学の機械工学部の仲間たちと会議を開いた。12月15日(月)にスービックで行う当学部に設立する船舶海洋工学プログラムについての発表の準備会議だった。発表の目的は、造船所と造船業に関わる政府機関からアドバイスや支援を得るためである。縄張りに配慮した結果、発表会は午前と午後と二回に分けた。午前の発表はスービック湾メトロ管理局(SBMA)とその管理下にある韓国の大手のハンジン重工建設社(HHIC)、午後の発表はフィリピン経済特区管理局(PEZA)とその管理下にあるシンガポールの大手のスービック造船所エンジニアリング社(SSEI)が対象である。二ヶ所とも基本的には経済特区であるが、SBMAは大統領府の直接管理、PEZAは通産省の直接管理になる。いわゆる縦割り行政である。この費用は僕ら(3人)の負担になるはずだったが、フィリピン大学機械工学部の会長がプログラムの重要性について納得したようで、スービックの発表にも参加することになったし、工学部の自動車を借りることができて、結局、高速道路料金の負担だけで済んだ。     お昼もSBMAのサロンガ会長からご馳走になった。依然として彼はこのプログラムに関して前向きで、SBMAの予算のなかに少しでも取り入れる可能性を積極的に探ってくださり、このプログラムから便益を受けそうなハンジンなどの協力を図るようにしてくれるという。一方、ハンジンの代表二人はもう少しプログラムの詳細を検討する時間を要請した。南方にあるミンダナオ島に20億ドルの造船所を建設することを検討しているハンジンは、フィリピンのような発展途上国のビジネスでいろいろと苦労しているようだが、積極的に建設工事を実施してきた。韓国人のフロンティア精神にただただ感心している。一方、SSEIはフィリピンのエンジニア評判をさらに高めた。その本社であるケペルの世界活動センターはおよそ30ヶ所があるが、そこにフィリピンのエンジニアたちを派遣する計画である。シンガポール人の開放的な考え方が印象的である。5月にまたスービックへ行く予定である。    17日(水)に発表の内容を一つのレポートに纏めて参加者へ送った。SGRA in Englishからご覧いただけるので、ご意見やアドバイスをいただけると幸いです。 東京大学の中西徹先生は、UA&Pのビエン・ニト先生との会議を22日に設定し、2009年4月に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」の一貫として、「移民と貧困:国際と国内的なパターン」をテーマにワークショップを開くことになった。中西先生はマニラ首都圏の貧困コミュニティーの研究の延長として農村から都会への移民を、ニト先生はフィリピン経済にとって大きな存在(およそ人口の10%)になった海外労働者を中心に発表する。僕は中西先生の研究の支援やワークショップの司会として務めると予定している。   自動車産業の研究は、1月7日に日系大手企業の依頼人とディナー会議をし、依頼人の勧めで、データ収集を再開することになった。全ての自動車クラスターから参加する意向を待たずに、とりあえず、依頼人からのクラスターのデータを収集し、統計的な分析を行う。この混乱の時代に、日系企業のリーダーシップと社会そのものを変える能力を期待している。SGRAの自動車産業の研究報告がまた新聞に掲載されたので、このような圧力によってフィリピン政府が動き始めているようである。(この記事のオンライン版)   実はその政府の官僚(具体的には通産省にいるUA&Pの元上司)に新年のお祝いをフィリピンの基本的な連絡ツールであるTEXT(携帯電話のメッセージ)で送ったら、翌日の7日の朝に話し合わないかということになった。SGRA報告についての新聞記事は、自動車産業に対する批判(提言)を抜いて、フィリピン政府に対する批判(提言)だけに焦点を当てているので、通産省から厳しい文句を言われるだろうと覚悟していたが、意外と慣れている様子であった。もう一人、その会議に呼ばれていた。その人はUA&Pがまだ研究所だった頃に別の部だが、僕と一緒に働いたことがあり、WTOのジュネーブ本部でのフィリピンの首席交渉人の仕事を終え、通産省に戻ってきたところであった。彼が7日の会議に参加することにより、自動車産業についてのSGRA研究報告に載っている産業開発対策のフォーミュラがフィリピンの国際協定などの制約のもとで可能かどうかを相談する貴重な機会を手に入れることができた。そのフォーミュラの概要を彼に送って検討してもらったところ、「WTOに反する部分があるではないか」という指摘が返ってきた。そこで「自由化の最も強い推進者である米国でも、自動車会社のビッグ3を一時的に保護するように転換しつつあるのだから、フィリピンも国内産業に対してそのぐらい戦略的にならないといけない」と指摘させてもらった。オバマ大統領の産業政策だけではなく、金融部門の欲望を見直す目から学ぶべきだと思う。   今年のクリスマスや新年はこのようにして過ごした。日本への帰途、マニラ空港で、初めて大人のフィリピン人同士が静かに泣いているのを見た。普通は海外に行くフィリピン人はわくわくしているのに。今年の厳しさの前兆であろうか。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2009年2月3日  
  • 2009.02.03

    エッセイ187:マックス・マキト「マニラ・レポート2008冬」

    SGRAフィリピンでは、現在、3つのプロジェクトを進めている。フィリピン大学機械工学部に船舶海洋工学プログラムを設立するプロジェクト、フィリピンの貧困に関するアジア太平洋大学(UA&P)と東京大学との共同研究、フィリピンの自動車産業に関するUA&P、名古屋大学との共同研究である。そして、定期的に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」を開催し、共同研究の報告を行っている。   2008年12月12日(金)にフィリピンに帰国し、早速、その翌日にフィリピン大学の機械工学部の仲間たちと会議を開いた。12月15日(月)にスービックで行う当学部に設立する船舶海洋工学プログラムについての発表の準備会議だった。発表の目的は、造船所と造船業に関わる政府機関からアドバイスや支援を得るためである。縄張りに配慮した結果、発表会は午前と午後と二回に分けた。午前の発表はスービック湾メトロ管理局(SBMA)とその管理下にある韓国の大手のハンジン重工建設社(HHIC)、午後の発表はフィリピン経済特区管理局(PEZA)とその管理下にあるシンガポールの大手のスービック造船所エンジニアリング社(SSEI)が対象である。二ヶ所とも基本的には経済特区であるが、SBMAは大統領府の直接管理、PEZAは通産省の直接管理になる。いわゆる縦割り行政である。この費用は僕ら(3人)の負担になるはずだったが、フィリピン大学機械工学部の会長がプログラムの重要性について納得したようで、スービックの発表にも参加することになったし、工学部の自動車を借りることができて、結局、高速道路料金の負担だけで済んだ。    お昼もSBMAのサロンガ会長からご馳走になった。依然として彼はこのプログラムに関して前向きで、SBMAの予算のなかに少しでも取り入れる可能性を積極的に探ってくださり、このプログラムから便益を受けそうなハンジンなどの協力を図るようにしてくれるという。一方、ハンジンの代表二人はもう少しプログラムの詳細を検討する時間を要請した。南方にあるミンダナオ島に20億ドルの造船所を建設することを検討しているハンジンは、フィリピンのような発展途上国のビジネスでいろいろと苦労しているようだが、積極的に建設工事を実施してきた。韓国人のフロンティア精神にただただ感心している。一方、SSEIはフィリピンのエンジニア評判をさらに高めた。その本社であるケペルの世界活動センターはおよそ30ヶ所があるが、そこにフィリピンのエンジニアたちを派遣する計画である。シンガポール人の開放的な考え方が印象的である。5月にまたスービックへ行く予定である。    17日(水)に発表の内容を一つのレポートに纏めて参加者へ送った。SGRA in Englishからご覧いただけるので、ご意見やアドバイスをいただけると幸いです。   東京大学の中西徹先生は、UA&Pのビエン・ニト先生との会議を22日に設定し、2009年4月に「UA&P・SGRA共有型成長セミナー」の一貫として、「移民と貧困:国際と国内的なパターン」をテーマにワークショップを開くことになった。中西先生はマニラ首都圏の貧困コミュニティーの研究の延長として農村から都会への移民を、ニト先生はフィリピン経済にとって大きな存在(およそ人口の10%)になった海外労働者を中心に発表する。僕は中西先生の研究の支援やワークショップの司会として務めると予定している。    自動車産業の研究は、1月7日に日系大手企業の依頼人とディナー会議をし、依頼人の勧めで、データ収集を再開することになった。全ての自動車クラスターから参加する意向を待たずに、とりあえず、依頼人からのクラスターのデータを収集し、統計的な分析を行う。この混乱の時代に、日系企業のリーダーシップと社会そのものを変える能力を期待している。SGRAの自動車産業の研究報告がまた新聞に掲載されたので、このような圧力によってフィリピン政府が動き始めているようである。(この記事のオンライン版)   実はその政府の官僚(具体的には通産省にいるUA&Pの元上司)に新年のお祝いをフィリピンの基本的な連絡ツールであるTEXT(携帯電話のメッセージ)で送ったら、翌日の7日の朝に話し合わないかということになった。SGRA報告についての新聞記事は、自動車産業に対する批判(提言)を抜いて、フィリピン政府に対する批判(提言)だけに焦点を当てているので、通産省から厳しい文句を言われるだろうと覚悟していたが、意外と慣れている様子であった。もう一人、その会議に呼ばれていた。その人はUA&Pがまだ研究所だった頃に別の部だが、僕と一緒に働いたことがあり、WTOのジュネーブ本部でのフィリピンの首席交渉人の仕事を終え、通産省に戻ってきたところであった。彼が7日の会議に参加することにより、自動車産業についてのSGRA研究報告に載っている産業開発対策のフォーミュラがフィリピンの国際協定などの制約のもとで可能かどうかを相談する貴重な機会を手に入れることができた。そのフォーミュラの概要を彼に送って検討してもらったところ、「WTOに反する部分があるではないか」という指摘が返ってきた。そこで「自由化の最も強い推進者である米国でも、自動車会社のビッグ3を一時的に保護するように転換しつつあるのだから、フィリピンも国内産業に対してそのぐらい戦略的にならないといけない」と指摘させてもらった。オバマ大統領の産業政策だけではなく、金融部門の欲望を見直す目から学ぶべきだと思う。    今年のクリスマスや新年はこのようにして過ごした。日本への帰途、マニラ空港で、初めて大人のフィリピン人同士が静かに泣いているのを見た。普通は海外に行くフィリピン人はわくわくしているのに。今年の厳しさの前兆であろうか。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------