SGRAかわらばん

  • 2009.10.14

    エッセイ222:マックス・マキト「マニラ・レポート2009夏」

    季節の移り変わりの象徴である桜の花びらのように、黄色いコンフェッティが葬送車に浴びせかけられた。ミサが終わると、別れを告げにきた大勢の人々に良く見えるように、フィリピンの雨季にも対応した棺を乗せた台車が、マニラの大聖堂から墓地を目指してゆっくりと動き始めた。通夜をマニラ聖堂で行ったのは初めてのことだという。普段は車で1時間の旅は、9時間ほどかかった。交代せずにずっと葬儀車に起立していた4人の兵隊に守られていたのは8月1日に他界されたコリー・アキノ元大統領の遺体であった。周知のように、コリーは1983年8月21日に暗殺されたニノイ・アキノ上議員の妻であった。1986年にマルコスの独裁政権を倒した「黄色い革命」(別名PEOPLE’S POWER革命)が引き起こされ、コリーはフィリピン大統領に就任した。この革命は、その後の世界各地で起きた市民による革命の震源地とも言われている 葬儀をテレビで見ながら、革命当時のフィリピン社会の熱気を思い出した。1984年と、急に行われた1986年の選挙に対する多くの市民の思い。選挙結果の尊さを守るために、いくら脅かされても僕も選挙箱の上にじっと座っていたこと。そして戦車が反政府軍の避難場所に行けないように生まれて初めて一晩を路上で過ごしたこと。「戦車がくるぞ!」という合図で人間鎖を作ったとき、僕よりその抵抗運動の深刻さを分かっていただろう、怖さで体が震えていた隣の人のこと。 あのときのことを思い出しながら、これから母国はどうなるか、このままでいいのか、という懸念も抱いた。   8月19日に、CENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)というマニラの研究所とSGRAの共同研究の一環として、教育、水道、医療における政府の支出の透明さを高めるための5年間プロジェクトについてのワークショップを開催した。SGRAフィリピンの研究員やCRCの母体であるアジア太平洋大学(UA&P)の協力者と一緒に現状報告をした。たまたま、東京大学の先輩でもある中西徹教授が参加し発言してくださった。そもそも、このようなプロジェクトは何のためにやるか、自分自身で考察する貴重な機会でもあった。僕は発表の中で、3つの対象分野のサービスにアクセスできないのはやはり貧しい人々であるから、プロジェクトの最終的な目的は貧困の撲滅であると強調した。フィリピンの政権の実績を調べたが、初めて貧困率の削減を明確な目標にしたのはアキノ大統領だった。その後、貧困率はさがってきていた。 しかしながら、現政権はこの目標をなぜか明確に取り上げず、その結果フィリピン大学の調査によると、フィリピンの経済が比較的上手く成長していた時期にも貧困率は高くなっていた。言い換えれば、僕の関心事である「共有型成長」を現政権は達成できていないのである。UA&Pは現政権をべつの角度から好意的に評価しているが、僕は賛同しがたい。   8月25日には、SGRAの第11回共有型成長セミナーをUA&Pで開催した。新型インフルエンザのために開催が一時危惧されていたのだが、東京に戻る3日目前にやっと実現できた。(重要人物が海外に頻繁に行かれたのだが、自己検疫の方針のために出られない状況だった。)政府や企業の自動車産業関係者が参加してくださって、これからのフィリピン自動車産業の産業政策をどうすればいいか、5時間にわたって議論し合った。新聞にも取り上げられたが、SGRAの名刺を記者たちに渡したのに所属先を間違えられたので、マスコミが常に何を企んでいるのか実感した。(これに関しては母校にお詫びを申し上げたい)。この会議では、「今年の12月までなんとか政策とその法的枠組みを設置しないといけない」ということにみんなが合意した。ここで日本企業の力を借りてフィリピンの本当の共有型成長の実現に貢献したい気持ちで一杯である。   上述のように、現政権の共有型成長の軽視は、アキノ大統領が引き起こした革命の逆戻しを象徴するものだと考えずにいられない。革命の熱意がフィリピン国民に復活しない限り、逆戻しはきっとさらに進んでいくだろう。あの葬儀で少しでも人々の心の中にピープル革命の火がともるように期待している。当時命がけでフィリピンの幼い民主主義を守ろうとした人々、そしてその後その恵みを体験した人々がまた運動を始めないといけない。アキノ大統領の息子で、僕の高校の同級生であるノイノイ・アキノ上議員は、お母さんが他界した後、来年5月の大統領選挙に出馬すると決意した。 ガバナンス・ワークショップの写真 第11回共有型成長セミナーの写真 セミナーについての新聞記事 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2009年10月14日配信
  • 2009.09.23

    エッセイ221:趙 長祥「雨季のキャンパスの光景」(キャンパス生活シリーズ#2)

    7月と8月は青島市の雨季である。この二ヶ月間の雨量はほかの季節より随分多くなり、4~5日ごとに降るようになる。雨の形もさまざまである。昼間に少しだけ降る小雨もあれば、午後に雷と一緒にくる夕立もある。一日中だけ降る日もあれば、2~3日連続で降ることもある。雨量が増すにつれて、湿度も高くなる。1階に住んでいると、連日の雨で床に水露ができ、クローゼットに掛けてある服にカビが生えるほどである(雨が続いて外に干せなかった時の自己体験<笑>)。1年中で1番気温が高い時期で、偶にとても蒸し暑い日もある。とはいえ、東京の蒸し暑さほどではない。 雨は暑さを緩めてくれるのでとても助かる。暑い日のお昼に、突然降ってきた雨が地上の熱気を一掃した時の、鬱陶しい気分を涼めるような清涼感。その心境は欧陽修氏(1007-1072年、北宋朝の大文豪であり、エッセイ・詩・詞などの造詣が深い史学家)の詞、「柳外軽雷池上雨、雨声滴砕荷声」に描かれた境界で喩えられる。この詞は、夏の日に突然降ってくる雨の景色を細かく、美しく描いている。「遠い雷の音が柳林の外から伝わり、池の中に茂っている蓮はザーザー雨に打たれている」雨音の音楽のようなリズムと、雷・柳林・池・蓮・雨、そして雨線に縫われた天幕、という詩的な境界が感じ取れる。暑い夏の日に、心を一新させる涼しさ。また、夜の雨は、正に柳永氏(987-1053年、北宋時代の大詩人)の詩に詠われた「空階夜雨頻滴」という意境である。「静かな夜、広々とした空間に、夜の雨が、時計の針のような音をたてて、石の階段を打つ、その音が静かな夜を通りぬいて耳に伝わってきて、逆に夜の静寂を映し出す。」 勿論、雨季はこのような詩的で好ましいことばかりではなく、マイナスもある。たとえば、上述のように、ビルの1階に住む人にとっては、湿度が高いので生活に大きな不便をもたらす。 雨季には、キャンパスにも新しい変化が生じる。まず、雨の量が増えるにつれて、キャンパスの一隅にある丘(前回エッセイ「キャンパスシリーズ#1」を参照)は大量の雨水に潤われて、二面の傾斜面から水がキャンパスの道路に流れ込み、小さな渓流となるほどである。雨のおかげで丘が完全に緑に覆われるようになり、緑溢れる木々・さまざまな草や花が、繁々とした生命力をこの世に自己表現している。雨の季節に恵まれたのは丘だけではなく、キャンパス全体も緑がいっぱいになり、人々の目を楽しませている。このキャンパスに来て、まもなく2年間となるが、この時期になると、雨のおかげで自然にこのような賞心悦目な変化が訪れる。 一方、自然の快い変化とは対照的に、今年は、このキャンパスで、人為的な鬱陶しい変化も生じた。例年は、学生たちの学期末試験の終了につれて、7月中旬から大学は夏休みとなる。学生の帰省によって普段賑やかなキャンパスがとても静かになる。だが、今年は例年と異なり、夏休みになっても、一向に静かにならなかった。昼も夜も人の騒ぎが絶たず、夏休みを利用して、相当ハードなスケジュールで論文や本を完成させるつもりの私にとって、大きな迷惑であった。その原因をよく観察してみると、騒ぎをしていた人たちは学生だけではなく、各地から青島へ出稼ぎの労働者たちもいるのである。規則では、学生や先生達が住むアパートに出稼ぎ者たちは住めない。しかし、今年は、なぜか院生以上の各アパートには出稼ぎ者たちが充満していた。学校当局が出稼ぎ者たちを入居させているのか、学生や先生たちが夏休みを利用して勝手にアパートを貸し出しているのか、具体的な原因は不明である。 しかしながら、ひとつわかってきたことがある。もともとこのキャンパスの中に日本人的な生活スタイルをしている人がいたのだが、その人が以前に雇われていた日系企業に依頼された調査会社に勝手に身元調査をされた。なぜ日系企業がもとの従業員の身元調査をしたかというと、その人がスパイであるかどうか、そしてその人が「レベルの低い人」であるかどうかを調べたのだという。そのうち地方からの出稼ぎ者たちがこのキャンパスの中に住みつきはじめた。なぜ彼らが住みついたのかというと、調査会社が、件の日本人的な生活スタイルをしている人を監視したり、邪魔したり、流言を伝播させるために、出稼ぎ者たちを利用したからだという。 ついでに、私のパソコンは勝手に誰かに攻撃され、システムを何回も再インストールしたが、なかなか元の状態にならないため、もともと夏休みの教学中止期間を利用して、自分の研究に頑張ろうとしていた私にとって痛手であった。この騒ぎとシステムのトラブルで、夏の計画が台無しになりそうである。 今年の雨季のキャンパスには、例年のように雨がもたらす情趣もあれば、昨年と異なる迷惑もある。いろいろな人や事象が、それぞれの色でキャンパスを彩り、多彩な社会になっている。高度成長の経済発展につれて、かつて「象牙の塔」と称された大学もすっかり市場経済の色に染められている。社会と同然で、いろんな人がいて、さまざまな色が混じり合っている。こうした混乱した社会もいつの日か収まる時があり、秩序よく調和したキャンパスが来るのであろうと待ち望んでいる。(8月16日 青島にて) 雨季のキャンパスと丘の写真 -------------------------------------------------------------------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)☆ Andy Zhao> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士取得。現在、中国海洋大学法政学院で講師を務め、専門分野はストラテジックマネジメントとイノベーション。SGRA研究員。 --------------------------------------------------------------------------------------- 2009年9月23日配信
  • 2009.09.16

    エッセイ220:林 泉忠「天山の麓の調和社会をどう構築するのか(その2)」

    エッセイの前半 ● ウイグル族の文化危機感 その他の少数民族の状況と同様、新疆のウイグル族が直面している自民族の文化的危機感は市場の開放によってもたらされた問題に起因する。それは、主に二つの側面を表している。 まず、経済の活性化に伴い人口も急速に移動するようになった。一部のウイグル人が沿海地区へと生計の道を求める一方、更に多くの漢人はビジネスのチャンスを求めて新疆に入った。1949年当時の漢族の人口は新疆の総人口のたった6パーセントにすぎなかったが、いまではすでに41パーセントまでに増加した。数百年の間、この土地の大多数を占めてきたウイグル族は、いま総人口の45パーセントしかいない。これはウイグル族の長い間の悩み事となった。また、多くの少数民族と同じく、ウイグル語はウイグル族の民族言語ではあるが、新疆では主流言語になっていない。実際、漢族の人々はウイグル語を学ばず、ウイグル族の多くいる小学校と中・高校でもウイグル語が次第にフェード・アウトし、大学になるとほとんどウイグル語には無縁となっている。 それに、市場経済に伴い、条件の良い仕事を求めるために、ウイグル族の若者は漢語(中国語)の学習にエネルギーを投じねばならないようになった。このような状況の中で、民族文化に対する危機意識がウイグル族の間にますます広がっているのである。   政府の宗教に対する厳しい管理もまたウイグル族の文化危機感をもたらす要因である。『あなたの西域・私の東土』を執筆した王力雄氏はフィールド調査のため、スバシ古城の近くにあるウイグルの村を訪ねた際、学校の掲示板に、「不法な宗教活動」とされる条目を目をした。その中には、「個人による経文学校の運営、伝統的挙式による結婚、学生の礼拝、伝統による社会生活の干渉、政府管理以外の礼拝活動、無許可の宗教施設の設立、無認可の宗教活動、地区間の宗教交流、宗教の宣伝物の印刷および配布、海外の宗教団体による寄贈の受け入れ、海外での宗教活動、入信の勧誘」などが含まれていた。このように厳しい宗教政策の下で、憲法に書かれている「宗教の自由」がただの見せかけと批判されているのである。   少数民族問題に対する中国政府の対応において、もう一つの盲点が存在する。すなわち、民族問題の存在を認めようとしないことである。しかし、今回の騒乱はウイグル族と漢族との対立が確かに存在していることを明らかにした。実際、「改革・開放」後、一部のウイグル人が沿海などの都市へと生計のために移動したことによって、遠く離れた沿海地区の漢族の人たちでも、ウイグル族の人と一定の接触がでてきた。しかしこれらの漢族の間で伝えられているウイグル人のイメージのほとんどは「野蛮」、「恐ろしい」、「できるだけ敬遠した方がいい」などである。ウイグル族と漢族との隔たりは天山を越えて、華東・華南などの地区までに広がっているのである。   ● 民族問題の新思考は一刻も猶予できない   政府が長い間民族間の矛盾の存在を認めようとしないゆえに、民族問題をめぐる基本的な考え方は、従来と同様、依然として漢族中心の「民族工作」にとどまっている。しかし、今度の衝突事件によって、全く新しい考え方で、真の「和諧社会」(調和のとれた社会)を作るための、少数民族の利益の尊重を根本とする民族政策を見直す時期がやってきた。それにあたって、新疆の民族問題に関するいくつかの改善策をここで提示してみたい。   第一に、新疆において、ウイグル族と漢族の人口の規模はほぼ同じであるため、カナダのケベック州などで行われているバイリンガル政策を参考にして、新疆の範囲でウイグル語を漢語と同じ地位の言語に昇格させることを検討する必要がある。一定の過渡期を設けるが、それが過ぎた後、すべての政府部門、公共施設などでは、厳格に実行しなければならない。このようにして、ウイグル族は中国語を学ぶだけではなく、漢族もウイグル語を学ばなければならない。 第二に、改めて少数民族の優遇政策を制定し、中国語を話せない、相対的に競争力の低いウイグル族の人々でも、漢族の人の移住で従来の安らかな生活を失うことのないよう保障制度を設ける必要があるだろう。 第三に、「宗教の自由」の政策の実行において、少数民族の宗教活動に対する干渉を減らすことに重点を置くことである。 第四に、人事的資源の配分において、漢族、ウイグル族とその他の少数民族は真の平等を実現するためには、ウイグル族の人はいつもナンバー・ツーである自治区主席しか担当できず、自治区書記に昇進できないという慣例を変える必要がある。 第五に、「新疆」(新しい領土)の呼び方は漢族本位の考え方の産物である。そのため、常にウイグル族の人々の非難に遭う。したがって、名称の変更の可能性も検討する余地があるだろう。   現代世界の国々のほとんどは多民族国家である。各国政府の民族問題への対応は、失敗の例もあれば、うまく行っているケースもある。市場経済の浸透と社会移動の加速によって、これからの中国の民族問題は更に厳しい挑戦に直面することになるに違いない。漢族の人々が伝統的に存在する「同族でなければ、その心は必ず異なる」という思想の束縛から脱出すると同時に、「漢族本位で武力を後ろ盾」とする従来の考え方に取って代わる適切な民族政策を制定し直すことは、一刻も猶予できないのではなかろうか。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- ★このエッセイは林泉忠さんの「天山腳下的『和諧』如何構築?————看新疆騷亂的本質」『明報月刊 2009年8月号』(香港)、をSGRA会員の張建さんが和訳したものです。 2009年9月16日配信
  • 2009.09.09

    エッセイ219:林 泉忠「天山の麓の調和社会をどう構築するのか(その1)」

    7月5日~7日、新疆自治区の区都ウルムチでウイグル族と漢民族との暴力衝突事件が起きた。それに対し、中国政府は、昨年のチベット事件などこれまで発生した類似事件と同様の手法で対応した。その特徴は主に次の3点が挙げられる。 第一に、中国政府は事件の性質を「殴打・破壊・略奪事件」と認定する。その背景には、自ら統治している地域に存在する民族間の矛盾を否認しその民族政策の失敗による責任追及を回避すると同時に、政府の武力による鎮圧の正当性を保つという思惑があると考えられる。第二に、事件の原因を国外勢力による企画に罪をなすりつける。これは、人々の視線を移すことにより新疆本土のウイグル族・漢族間の民族問題の重大さを薄めようとする狙いがあろう。第三に、インターネットや電話の切断を含む情報統制を厳密に行う。その目的は、事態のさらなる拡大を防ぐと同時に、事件に関する情報発信において主導権を握ることにあろう。しかし、これらの方法は果たして有効なのか?21世紀に入った今こそ、検討する余地があるのではないか。   まず、民族の矛盾と民族政策の責任回避という点については、政府のメディアは事件の過程を報道する際に、ウイグル族の暴力行為を強調するが、暴動化前の比較的平和なデモ行進および武装警察による厳しい取り締まりに関してはほとんど報道しなかった。また、事件の起因である広東韶関の旭日玩具工場においてウイグル族と漢族の間に生じた殴り合い事件でウイグル族の労働者が死亡した事件に関してもあっさりとしか言及しなかった。一方、政府のマスコミは、公開した写真と画像には、「7・5事件」におけるウイグル族の暴力行為を強調しているのがほとんどで、7月7日に憤怒した漢族が一斉に立ち上ってウイグル族に報復しようとした場面についてはなかった。 このような事件の対応はどうしてもバランスを欠いたと批判され、国際社会の世論を有効に導くことができなかった。更に重要なのは、ウイグル族の漢族に対する不信を取り除くには成功しなかったばかりか、さらに矛盾を激化させる新しい要因を作ってしまったとも考えられる。   ● カーディル氏の勢いの助長   国外勢力の介入説に関しても、直ちに確実な証拠を提示できなかったため、国際社会の世論に対する影響力がいささか弱かったと言わざるを得ない。また、民族政策の失敗を謙虚に反省せず、ラビア・カーディル氏が画策者であることを一方的に強調するのは、問題の焦点をぼかす疑いが持たれるにとどまらず、更に逆効果をもたらしているようだ。周知のように、チベットと異なって、いままで新疆はダライラマのようなチベット社会内で凝集力を持ち、同時に国際社会においても影響力をもつ指導者が存在しなかった。しかし、今回、カーディル氏が主謀者であるという政府の非難を、中国のマスコミが大いに報道したのは、皮肉にも、カーディル氏の無料の宣伝となり、不本意ながらもカーディル氏をウイグル族の反体制派指導者とさせてしまったばかりか、これまでばらばらだったウイグル族の各反抗勢力を統合させる切っ掛けを作ってしまったのではないか。   新疆の騒乱発生後の7月6日と7日、政府は情報を全面的に統制するには至らなかった。そのため、新疆においても官制報道以外の情報を別のルートで獲得することができた。しかし8日以降、飯否網(fanfou)や、Facebook、またTwitterといった主要情報ネットおよび多くの海外メディアのウェブサイトが閉鎖された。情報封鎖は、もちろん、迅速に情勢を安定化させる一面もあるが、このような手法は、多くの漢民族にも支持されていない。事実、ここ数年、中国国内では群集事件が多発し、インターネット利用者は政府の使い慣れている情報封鎖に対して多くの不満を持っている。同時に、このような情報統制の手法は、国際世論において中国政府の事件処理の合理性に対する疑問を増大させるばかりだ。 ● 経済発展優先政策の落とし穴 1980年代以前の中国の民族問題は、冷戦時期のユーゴスラビアのように、比較的安定していた。しかし、「改革・開放」が推進されてから、中国社会における諸矛盾が次第に表面化し、民族問題は注目される一つである。中国政府の少数民族地域の問題に関する考え方には、長期にわたり二つの盲点が存在している。 まず、経済発展優先政策の下で、辺境地域の少数民族に対する経済支援が安定維持の柱となった。政府は大量の資金と人力の投入を通して、ウルムチに高層ビルをそびえ立たせ、市の中心部は繁栄の光景を呈している。政府もまた多くの漢族の国民も、経済繁栄が民族問題を解決する有効な処方箋と考えている。「7・5事件」の翌日に、新華社通信は文章を発表し、いくつかの輝かしいデータを呈示した。すなわち、「30年以来、新疆の国民経済は年平均10.3%のスピードで増大した。去年、新疆の工業増加額は1790.7億元に達し、1952年に比べて274倍、また1978年に比べて16.6倍に増大した。食糧生産量も1000万トンを突破し、1949年の11倍、1978年の1.8倍となった。1人当たりの食糧の占有率も全国平均水準を上回った」。このような宣伝の仕方は、昨年のチベット事件後の中国メディアの行われたことと同じだった。 ところで、漢族のインターネット利用者の間では「私達はチベットや新疆に対してこんなに多く資金と人的支援を投入してきたにもかかわらず、どうして彼らは依然として喜んでくれないのか」ということがよく指摘されている。これはまさに政府と多くの人々の考え方の盲点を反映しているのである。また、経済が軌道に乗った後、漢民族社会も自由、人権、民主主義といったニーズに直面するようになったが、少数民族はさらに主要民族の漢族にない民族文化の危機感を抱えるようになった。(つづく) ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- ★このエッセイは林泉忠さんの 「天山腳下的『和諧』如何構築?————看新疆騷亂的本質」『明報月刊 2009年8月号』(香港) をSGRA会員の張建さんが和訳したものです。後半は来週のかわらばんでお送りします。 2009年9月9日配信
  • 2009.09.02

    エッセイ218:範 建亭「ハンディーを持Aった者の居場所」

    「ハンディーを持った者」と言ったら、あなたはどんな人を想像するのだろうか。僕は最初、それはもっぱら体の不自由な人や知恵遅れの人だと思った。だが、様々なハンディーを持った人たちが生活している施設を見学して、自分の考えが不完全であったことを知った。そして、先進国としての日本、工業国や競争社会としての日本のもうひとつの側面を見ることができ、いろいろと考えさせられた。 この夏、僕は二ヶ月間の短期研究の機会を得て、日本にやってきた。学部時代の指導教官のところで研究しているが、7月下旬、先生と一緒に長野県の現地調査に出かけた。それは先生の循環型農業に関する研究の一環であるが、工業や貿易などを中心に勉強してきた僕にとっては初めての経験となった。 私たちが訪問したのは、長野県小谷村にある「信州共働学舎」という施設であった。それは1974年に作られた心や身に不自由を抱える人たちのための共同生活施設である。現在87歳となる創始者の宮島真一郎さんは、若いときに羽仁もと子創立のキリスト教学校「自由学園」にて学び、卒業後自由学園に教師として残ったが、50歳にて退職し、父親の郷里である長野県小谷村にて心身にハンディーのある人たちと生活する「共働学舎」を始めた。長野県の施設の他に、北海道や東京にも施設と作業所などがあり、現在合わせて約150人がメンバーとして生活している。    「信州共働学舎」は2カ所に分かれ、小谷村立屋にある「立屋共働学舎」と、山道を1時間余り歩かなくては行けない「真木共働学舎」がある。「立屋共働学舎」は、北アルプスの裾を流れる姫川沿いの山里にある。そこに20数名のメンバーが生活しているが、米や野菜等の農作物作りの農業が中心となっている。水田や畑などの農地が約3ヘクタールであるが、主に近所の人から借りた田畑である。また、そこに和牛、山羊、鶏なども飼っており、味噌や醤油などの製造、木製の玩具作り、織りや染めなどの手作業も行われている。そして、「からすのパン屋さん」と言う製パン所もあり、村の人たちに販売している。 一方、「真木共働学舎」は山の奥にあり、交通が非常に不便。そこに辿り着くまでは、車が通わない山道を歩いて1時間半ぐらいかかる。かつてそこにはひとつの村があったが、近年の急速な少子高齢化によって過疎化が進み、また交通の不便さもあり、結局村全体が廃棄されてしまった。そこを利用して「真木共働学舎」が始まったわけであるが、いま10名ぐらいのメンバーがそこに住み、米と野菜作りのほかに、わら細工、木工製品製作やラグマット製作等も行い、自給自足の労働生活をしている。交通は非常に不便とはいえ、そこへ実際行ってみると、メンバーたちが茅葺き屋根の古い民家に住み、農業中心の質素で清らかな生活を送っていた。山々に囲まれ、景色がとても素晴らしい。隠居にも絶好の場所だと思った。おまけに、私たちが行った時はちょうど皆既日食が始まり、山の上から日食の様子がはっきり見えたことに感動した。    共働学舎の生活は基本的に農業に依存している。米と野菜はほとんど自給し、自分たちの作った作物で食べている。作業はなるべく機械を使わず、田んぼは今でも手で植え、手で刈ることを基本としている。また、いろいろな動物も飼っており、ミルクはヤギから採ったヤギ乳を飲んでいる。このような農業を中心とした自給自足の生活ぶりは、都会で生まれ育った僕には想像しにくいものであった。さらに、そこに生活している人が「普通」の人間ではなく、いろいろなハンディーを持った者であることについては、なおさら想像を絶した。 「ハンディー」とは、体の不自由な人や知恵遅れの人のことを想わせるのが一般的であるが、実際、「共働学舎」で生活しているメンバーには、身体障害者はごく一部しかなく、多くは精神的な問題を抱えている人たちであった。それは、生き方に迷った人、家庭から見放された人、家族を失った人、学校や会社に行きたくない人、競争社会についていけない人、人生をあきらめた人、などなどである。しかも、20代や30代の若い人が多いことに驚いた。 彼ら彼女らは、外見から、生活ぶりから、またはわれわれと会話をしている様子からも、全くの異様さを感じないが、施設代表者の話に聞くと、そこにいるメンバーは皆何らかの問題があるという。例えば、一人の男の子は、離婚を繰り返した母親から見放され、問題児になっていた。もう一人の男性は、子供の時お母さんが交通事故で死亡したのを目撃してから話すことができなくなった。一人の女性は若いときに夫と子供を亡くして絶望してここにやってきた。もう一人の女の子は自殺未遂でここに辿り着いたという。    「共働学舎」にやってきた理由は本当にさまざまであるが、集まったメンバーたちが皆と一緒に働き、共に生きている。もともと「共働学舎」とは、「共に働く学び舎」の意味である。どんな過去があっても、知恵や能力が低くても、ここに来たら、共同生活を通じて経済的にも精神的にも自立できるようになり、互いに支えあって暮らしている。また、働けば一定の給料ももらえる。こういう生活が好きになり、何十年も働いた人もいる。 私たちは立屋共働学舎に一泊し、メンバーたちと一緒に夕食と朝食を食べた。夕食後、一人ずつ今日一日の仕事を皆さんに報告してもらうことが慣例となっている。そして、和やかな雰囲気で全員で聖書を読み、聖歌を歌った。「無神論者」に近い僕からみて、家族の温もりを強く感じた。そのような「共働学舎」を見学して、生きることの意味、労働や助け合いの意味、豊かさや幸せの意味、現代文明の意味などについて、いろいろ考えるようになった。    日本は何十年の歳月を経て経済大国となり、豊かな社会を築くことに成功した。また先進国の中でも、日本は格差の問題が相対的に少ない平等な国でもある。しかし、いくら平和的な社会と言っても、市場競争原理が働く以上、まして常に頑張る事を要求されている日本社会において、競争に淘汰された人や競争社会に適応できない人は必ず存在する。また、同質・均一社会と言われる現代の日本社会では、異なったものに対する拒否・排外意識が強いため、決まった生活のレールや社会システムから離脱することは、人生の「失敗」を意味し、生き辛くなる。そういう人たちの居場所を提供しているのが、「共働学舎」のような民間施設であり、これらの施設が果たした役割は非常に大きいと思う。 一方、高度成長を続けている今の中国は、日本以上に「弱肉強食」「自己中心」の競争社会となっているため、ハンディーを持った者も大勢存在しているに違いない。しかし、その人たちは一体誰が面倒をみているのだろうか。弱者のことに関心を持つ人はどれぐらいいるだろうか。また、このような社会問題を政府に任せて片付けられるのか、調和のとれた平和社会をつくるために、われわれは何をすべきか。中国にとって、日本の経験や教訓から謙虚に学ぶべきことは、工業化や経済発展だけではないと改めて認識させられた。 現地の写真 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2009.08.26

    エッセイ217:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その1:謝れば済むの?」

    「誠に申し訳ございませんでした」という懺悔の言葉を発し、深々と頭を下げるどこ かの企業の社長、あるいはどこかの学校の校長、もしくはどこかの省庁の長の姿は、 不祥事が起きるたびによくテレビでお見かけするものです。社員が犯罪を起こすと社 長が謝る、生徒が問題を起こすと校長が謝る、役人が事件を起こすとその長が謝る、 という場面は、あるいは「という儀式は」といったほうがいいかもしれませんが、近 年本当に嫌というほど見せつけられてきました。しかも、謝るのはほぼ全員年輩の男 性というのがいかにも日本らしい。それだけ責任の持てる地位にいる女性が少ないと いうことなんですね。まあ、とにかく、老いた男の薄くなった頭のてっぺんなんか誰 も見たくないというのに、こちらのことはお構いなしに、食事中でもなんでも、男の 長たちはことあるごとにテレビの向こう側で頭のてっぺんを披露してくださるので す。 「へえ~、謝れば済むなら苦労はしないよ」と鼻で笑っていたら、日本では、ほとん どの場合それが本当に済んでしまうのですから不思議でしようがないのです。「お 上」が謝罪すれば、ことはマジで丸く収まるのですね、日本では。そして、謝罪会見 が終われば、日本のマスコミは潮が引いていくようにほとんど騒がなくなるし、巷で もその事件は話題にのぼらなくなるようです。なんという都合の良い習慣なんでしょ う!問題を起こした生徒や社員を、謝っている校長や社長がほとんど知らないかもし れないというのに、とにかく「お上」が謝れば済む。不祥事の責任は、学校や企業と は関係がなく、当の生徒や社員本人、もしくはほかに原因を求めるべきかもしれない のに、とにかく「お上」が謝れば済む。問題が起きたときに、もし管理制度に原因が あるのなら、同じ過ちを繰り返さないようにも制度そのものの変革が最も重要である はずなのに、それについての報道はあったりなかったりして、何よりも謝罪会見のほ うが大事であるかのようにマスコミのカメラはいつも老いた男の頭のてっぺんに焦点 を合わせるのです。それも食事中に。 翻ってシンガポールでは、というか、おそらくほとんどの国では、あまり社長とか校 長が、社員や生徒のことで簡単に謝る姿は見かけないですよね。それは決して無責任 なのではなく、謝れば自分に非があることを認めてしまうから、ことによっては裁判 沙汰になりかねないからでしょう。それだけ謝罪することは重いことなのです、ほか の国では。少なくともシンガポールでは学校の校長先生が生徒のことで頭を下げて公 に謝る姿を僕は今まで一度も見たことがありません。もちろんシンガポールの校長先 生が傲慢なのではなく、生徒が起こす問題はすべて学校に責任を求めるという日本に ありがちな風潮がシンガポールにはないからなのでしょう。このことについて、実際 に日本の学校の校長先生の何人かに意見を聞いたことがあります。案の定、皆さん、 仕事が多忙なために教壇に立ったり生徒に直接に接したりすることが少ないうえ、生 徒数も多いことから、目立つ子ならともかく、生徒の一人一人の性格や生活まで把握 することは極めて困難であると口をそろえて話してくれました。ただ、日本ではとに かく上に立つ人間が謝ればことは一応収まるので、もし問題が起きたときに、自分た ちも、生徒のことを一番知っている担任の先生から事情を聞いて、その後マスコミに 向けて説明したり謝ったりするだろうとも話してくれました。日本の学校の校長先生 を務めるのは本当に大変なことだなと思いました。 考えてみれば、「お上」が謝れば済むという習慣は、昔の日本の切腹文化に通じるも のがあるように感じます。切腹が「文化」であるかどうかはわかりませんが、とにか く日本ではその昔、問題やミスを起こした武士もしくはその上司が責任を取って切腹 の儀式さえ行えば、ことは本当に収まるということを、僕は時代劇や藤沢周平の小説 でよく目にしてきました。「潔い」という印象も受けますが、「へえ~、これで終わ りなのか」という疑問が残る場合もしばしばあります。ただ切腹して死をもって罪を 償うことと、単調な口調で「誠に申し訳ございませんでした」といって頭のてっぺん を披露することとでは、その潔さに雲泥の差があると思います。いっそのこと、「切 腹キット」みたいなものを開発して、死に至らなくても、ほんのちょっと痛い思いを して謝罪儀式、もとい謝罪会見を行えば少しはサマになるのではないかと思います が、いかがでしょうか。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研 究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別 研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディング ス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司 編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書 センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋 館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年8月26日配信
  • 2009.08.19

    エッセイ216:オリガ・ホメンコ「経済危機とウクライナのヤング・プロフェショナルの世界観の変化」

    「ダーチャ」の役割 ウクライナは土地が豊かなので、昔から農業が盛んである。19世紀までは人口の大半が田舎に住んで農業に従事していた。産業革命が起きてから町が発展して、人々が移り住むようになった。工場で働いている人々の地位は農民とほぼ同じだったが、ソ連時代には工業を発展させる目的で町のインフラを改善したので、当時は「お湯が出る」町に住むことに憧れている人が多かった。 しかしながら、町に住んでいても、おじいさんやおばあさんや親戚が住んでいるので、田舎に行く機会は多かった。農業の文化が強く残っていて、自然と触れ合うことが大事にされていた。ほとんどの人が、町にある「家」と田舎にある「ダーチャ(別荘)」をもっていた。5月から10月まで、週末は別荘へ行って過ごした。 ソ連が崩壊した時には経済的状況が厳しかったので、自分の別荘でジャカイモや野菜や果物を作る人が増えた。節約というより、そのおかげで生活ができた人も少なくなかった。ダーチャで働いていたのは両親の世代である。若い人たちは別荘で畑仕事をするのが嫌いだった。町の忙しい生活からの切り替え、あるいは気分転換の場として別荘を使う人が多かった。両親に「手伝いなさい」と言われても断る人が多かった。 2008年経済危機の影響 今回の経済危機でウクライナの通貨は非常に強い影響を受けた。1ドル=5グリブナーから8グリブナーになった。リストラされ、自分の人生について考え直す人も少なくない。そして若い人にとってのダーチャの役割や使い方が変わった。 ウクライナで最も読まれている週刊誌「コレスポンデント」の5月15日号は、以前は農業を全然やらなかったのに、通貨危機後に興味を持つようになったヤング・プロフェショナルを紹介している。 27歳のダニールさんは野菜の種を買っている。それをダーチャで植えるつもりだ。彼はソフトウェアのエンジニアで、去年までは両親から受け継いだダーチャをピックニック場としてしか使わなかったのに、今年は奥さんから「ダーチャに野菜を植えましょう」と言われて畑作りを始めた。 専門家は「経済危機によって起きた問題を忘れるためにダーチャでの野菜作りを趣味として始めた人が多い。彼らは中流のマネージャーたちで、今まで野菜作りなど全然考えていなかった人ばかり。もともとライフ・スタイルにおける要求が高く、町での優雅な生活を捨てるつもりはない。週末に野菜作りをしても「農民」になるわけではない。ただ会社の問題から離れ、頭を「空っぽ」にするためにそうやっている」と分析している。 メディアの悪い影響 ウクライナのメディアは去年の秋から悪い予測ばかりして人を脅かしている。そのため、テレビを見ることをやめ、その代わりに「非現実的な世界」に逃げる人がたくさんいる。まず、本。特にいろいろな時代を生き延びた作家の本が読まれるようになった。そして、安い「アパート形式」のコンサートがたくさん開催された。チケットがかなり安くなった。また、秋に大統領選があるのに、オレンジ革命後の政治家への不信感が強いので、「政治に関わらない市民活動をしよう」と呼びかける人もいる。5月17日にキエフの中心にある広場で、あるアーティストが「皆でバラから絨毯を作ろう」と呼びかけたところ、非常に大きな反響があった。昔の日本の「千人針」と同じで、一人一人が一本のバラを作って、それを繋げれば大きなバラの絨毯になるという意味である。つまり、ニュースは見ない、読まない。でも、自分の家族や友達と連帯して、次のもっと良い時代がくるまで生き延びようと考えているのだ。 まだ30歳にならないミハイルさんは、音楽会社のディレクター。3週続けて土曜日にはキエフ郊外にあるダーチャでトマトの種を植えている。その種は、町のアパートで水につけて寝かせておいた。ダーチャで大活躍していたバーベキューセットもどこかにしまうつもり。場所をとるばかりで、邪魔だから。そこにトマトを植えるつもりだ。最近CDの売上が非常に落ちている。以前は仕事が多かったので、週末でも仕事していた。働き蜂になってしまっていた。しかし、経済危機がきて仕事の量が減ったので、週末に畑仕事を始めた。伝統的な畑仕事をやりながら、自分のビジネスをどのように復活させれば良いか考えている。種を植えながら、ビジネスのことを考えている。農業をやるつもりはない。野菜が一番高い時でもスーパでいくらでも買えるが、「かりかりという音をたてるきゅうりを自分で作るのも悪くない」と言う。彼らは仕事の面でも「成果」を狙うのが好きだが、これもある意味で「成果」なのだ(笑)。 畑仕事の道具を売っている店の34歳のオーナーに聞くと、最近道具を買ってくれる人にはヤング・プロフェッショナルが多い。まず、彼らは経済危機でこの半年間忘れていた「満足感」を得られる。その上、彼らはいつも経済効果を狙い、それをよくわかっている人たちなので、ダーチャでの野菜作りの仕事についても、経済効果も含めていろいろな「成果」があると言っている。このオーナーも自分のダーチャで畑を作っている。200平米の土地で少なくとも500キロのジャガイモを作れる。そしてトマトを20本植えたら300キロのトマトが売れる。人参、タマネギ、ハーブなどを植えるのにはそんなに場所を取らない。 実は、このオーナーも以前は畑仕事を全然やらなかった。経済危機が起きた時にいろいろな問題が発生し、気分的にも大変だったので、奥さんに薦められた。彼女はインターネットから畑仕事について様々な情報をリサーチして彼に渡した。それでやり始めた。初めてなので、本当にジャガイモ300キロができたらそれをどのように収穫するかまだ分からない(笑)。万が一の時には、友達に呼びかけて皆で収穫会をやるそうだ。 キエフ市の貿易委員会の責任者によれば、2月半ばの連休に町で開かれた畑仕事関係の市場では、10万人が何らかの買い物をした。それは青空市場だったが、それ以外にも専門店がかなりある。全部の売り上げを足したら結構大きな数字になるだろう。種、道具、苗木、肥料がよく売れる。「経済危機でも、なまけものは畑仕事をしないでしょう」とその専門店の店長は言う。彼自身のビジネスに経済危機の影響はなかったようだ。 どのような種が売れるのかと聞くと、「ウクライナ人は少し保守的で『慣れているもの』しか買わない。赤かぶ、人参、キャベツ、トマトの種の売り上げが相変わらず伸びている」と言う。しかしながらある会社員の女性たちは野菜ではなく、花を植えている。それで「気分転換ができ、安らぎを感じる」のだそうだ。 ある広告代理店の女性のマネージャーの話によると、両親のダーチャがあってそこでいつも両親は何か畑仕事をしていたが、彼女はそれに全然興味がなかった。だが今年は両親にお願いして、少し土地をゆずってもらい、そこで「頭を冷やす/空っぽにするつもりで畑仕事をする」という。彼女にとってそれはただの趣味である。 音楽事務所の彼は、「新しいことに挑戦している。チャレンジとしての畑仕事」と言う。ダーチャに行くためにガソリン代がかかるが、この生活をやめるつもりはない。彼に言わせれば「畑仕事をしていきいきする」のだそうだ。 ウクライナの若者は週末に町を離れて、自分のおじいさんやおばあさんと同じように畑仕事をする。そしてそれをやりながら自分の「生きがい」、そして、今後の町での『目的』を考えているのではないだろうか。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。2006年学術振興会研究員として早稲田大学で研究。現在はフリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍中。キエフ在住。 ------------------------------------ 2009年8月19日配信
  • 2009.07.29

    エッセイ215:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(下)」

    この人を見よ                僕を理解するには何よりも勇気が要る。 ニーチェ   今となると、トラの抱える障害が果たして先天性のものなのか、それとも乳児期の窒息事故に起因するものなのか、誰もが追究しようとは思わなくなった。それどころか、その障害が一体何なのかを正確に知ろうとも思わなくなった。残念ながら、健常者は大同小異だが、障害者は千差万別である。トラはトラだ、この個性的な命に寄り添い、共に生きていくほかに方法がないという、あまりにも平凡な考えを受け入れるには、実に長い年月がかかったのだ。   トラが障害者だと宣告された時、大人たちはまず自らの救済にとりかかった。それは、体裁を繕うためについ口にしてしまった度重なる嘘と、わらにもすがるような思いであらゆる科学的、非科学的な治療を試みた徒労と、一切の経験がものを言わなくなり、未知の現実の荒海に投げ込まれた、不安に満ちた日々であった。その間、トラは「治療」の苦しみに堪えながら、もがき続ける大人たちが正気に戻ることをひたすら待っていた。そして、いつの間にか、走れる、話せる、歌える、人の眼を見て話を聞くことができるようになった。   ある日、勉強が大嫌いなトラは珍しく本を手に取った。本といっても、分厚い通販のカタログにすぎなかった。トラは小さい頃から本を破る癖があるため、大人たちはいつの間にか識字カードや絵本を買い与えなくなり、彼の手の届かないところに本を置くことにした。 トラはまず表紙にある電話の写真に指をさしながら、「これはなに?」と横に座る私に眼で聞いた。 「電話だよ、で・ん・わ」私は親指と小指をたて、手首を左右に振りながら、電話をかけるポーズをしてみせた。 すると、トラは「リン、リン、リン」と、笑いながら受信音の真似をした。 「そう、そう、電話はリンリンと鳴るんだね」 私はトラの反応に思わず昂奮した。漸く掴んだ教育のチャンスを逃すまいと意気込んだ。 次にトラの目に留まったのは、枕に頬を当てながら安らかに寝ている外国人女性の写真だった。 「これはまくら、トラが大好きなまくらだよ」 「これはフライパン、おばあちゃんはいつもフライパンで料理を作ってるね」 「これはケーキ、トラもケーキが大好きでしょ、美味しいね」 「これは化粧品、お母さんが毎日使っている化粧品だよ」 トラは異常な速さでページをめくった。私は声を張り上げ、彼の指差した商品を一つずつ丁寧に説明しながら、家に絵本を置いていないことが残念でならなかった。しかし、一冊を読み終わると、トラは再び、電話、まくら、フライパン、ケーキ、化粧品の順に指をさし、私の顔を見上げた。   知的障害者に対して、誰もが説明を繰り返す労力を惜しまないだろう。それは私たちが十分に寛容だからではなく、無意識の中で彼らの理解力を信じていないからではないのか。 トラが知りたいのは本当に商品の名前なのだろうか。よく考えてみると、彼が興味を示したのは、身近なものばかりだった。三十センチもある分厚いカタログのなかに、知らないものが山ほどあるにもかかわらず、彼は実にすばやく、自分のよく知っているものだけを選び出したのだ。トラは私の言葉をよく理解したに違いない。が、私は彼が何を知りたいかすら、想像も付かないのだ。   トラが三度目にまくらの写真をさした時、私は言葉を変えてみることにした。 「ああ、きれいなお姉さんだね、髪が長いねえ」 「あら、いろんな野菜があるじゃない。トラは野菜の名前言えるかな。パプリカ、ピーマン、ブロッコリー、トマト」 「ケーキの上にトラが大好きな果物がいっぱいあるねえ。イチゴ、リンゴ、キウイ、美味しそう」 「これは頭を洗うシャンプだよ、これはお母さんが毎日使う化粧水、これはリップクリーム」  ……   四度目には、私はあえて色に注目した。 「緑のベッドだね。お姉さんが気持ちよさそうに寝ている。トラも寝るか」 「野菜の色がきれいだね。これは何色?赤、緑、黄色」 「果物も色とりどりだね。赤いのはイチゴ、緑は?キウイだよ」 しかし、化粧品には、色がない。不揃いな白いビンだけが並んでいた。 私は咄嗟にブランド名を口にした。 「これはヴァセリン、ブァ・セ・リン」 すると、トラは突然小さな声で復唱した。 「ヴァセリン」 「そう、それは?パンテン」 「パンテン」 「これはメンソレータム」 「メンソレータム」 トラは、鼻音の伴う三つの言葉の音を楽しんでいるように何度も繰り返した。言葉には意味だけでなく、色彩も音楽もある。もしかして、トラはそれを私に伝えたかったのかもしれない。彼はそのカラフルで美しきメロディーの響きあう世界に私を誘ったのである。たとえその一時間の中で、トラは結局私から期待していた言葉を聴くことができず、私も彼の言いたかったことをついに理解することができなかったとしても、私たちは心から相手を理解しようと思い、理解してもらおうと真剣に向き合ったのだ。   これほど完璧なコミュニケーションはほかにあるのだろうか。   相手を理解しようとする執念もなければ、自己を省みる勇気もない人間は、往々にして自己主張の能力をコミュニケーション能力と勘違いし、独語を対話と取り違えるのであろう。 「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクション」。 「健常者」はこの巨大なハンディを一生背負わなければならないのである。 -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月29日配信
  • 2009.07.22

    エッセイ214:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(中)」

    トラちゃんの金曜日 トラは外出が好きだ。朝は祖父ちゃんといっしょに散歩に出かけ、午後は、祖母ちゃんと一緒に買物に行く。祖父ちゃんと一緒なら、ただ歩くだけでつまらないけど、疲れたら抱っこしてもらえる。祖母ちゃんと一緒なら、海老や魚などいろんな生き物が見られて楽しいが、荷物を持たされる。「もう疲れたよ」とわざと袋をひきずって見せても、祖母ちゃんは知らん振りをする。トラもたまには一人で遊びたいのかもしれない。が、一人で外を歩かせるわけにはいかない。幼い頃は、被害を受けることが心配だったが、大きくなると、「危害」を加えることがもっと心配だ。 寂しくなったら、トラは大声で家族を呼ぶ。厳しい祖母ちゃんに対しては、顔をぐっと近づけ、大きな前歯を見せながら、鼻に皺を寄せて笑って見せる。すると、祖母ちゃんは「まあ、なんて醜い顔!」と笑い、思い切りトラを抱きしめる。優しい祖父ちゃんに対しては、彼はその腕に倒れかかり、お姫だっこ(!)をねだる。いまやこの要求に応じてくれるのは彼を溺愛する祖父だけであることを、彼はよく知っている。お父さんが帰ると、トラは直ちに洗面台に連れ込み、音を出しながら鼻をかむ真似をさせる。鼻炎のある父親のこの癖がいつの間にか二人の間の絆を確認する儀式となった。   もっとも、トラはいつもこのような温和な形式で感情を表現するとは限らない。髪を引っ張ったり、腕をつねったり、思い切り背中を叩いたり押したりするのも、彼ならではの関わりを求めるシグナルである。こうした「挨拶」の仕方はたしかに十分に「文明」ではないが、「こんにちは」といった万人に通用する文句より、はるかに豊かである。それは、相手との距離によって使い分けられた決まりきった挨拶ではなく、〈いま、ここ、あなたにだけ〉伝えたい彼の気持ちなのである。   しかし、彼の気持ちを理解しているつもりの私でも、ついに堪忍袋が切れ、「私はあんたの家来じゃねえよ」と、つねりかえしたことがあった。その時のトラの眼には、私の豹変への驚きと怯えと、理解されない悔しさと怒り、さらにどうしたら関係を修復できるかという困惑が交じり合っていて、私の脳裏に深く焼き付けられた。「トラよ、誰もが家族と同じように寛容ではないことをどうか理解してくれ!」、そう心のなかで叫びながら、私は後味の悪い「反撃」をもう二度としないと誓った。   トラは鋭敏な聴覚の持主である。マンションの四階にいながら、家族の誰かが階段を上ってくると、彼はすぐ誰であるかを正確に当てることができる。夕刻が迫ってくると、トラはそわそわしてくる。何度も、「パパ!」「ママ!」と大声で叫び、小鳥のように両腕をパタパタしながら玄関に飛んでいく。もっとも、「違うわ」と祖母ちゃんに言われ、しょんぼりと部屋に戻ってくることもしばしばある。どうやら、足音を正確に聞き分けられるのは、鋭い聴覚のおかげだけではなく、家族の帰りを心待ちしている彼の気持ちの現れでもあるようだ。   家族全員が帰宅すると、トラもようやく落ち着いてくる。早々に夕食を済ませ、ソファーに寝そべりながらアニメを鑑賞するのが、彼の至福の時間である。斜視がひどくなっているため、昼間テレビを見ることを祖母ちゃんに固く禁じられている。無論、祖母ちゃんの眼を盗んで、びくびくしながら見ることもなくはないが、正々堂々と見られるのは夕食の後だけなのだ。その時、もし「トラ、帰るぞ」と言ったら、彼は決まって泣きじゃくる。だが、「トラ、風呂に入ろう」と言ったら、彼はそれほど嫌がらない。   トラはお父さんと一緒にお風呂に入るのが好きだ。いや、正確に言うと、彼は鏡に映る自分の姿が好きだ。カラフルなバスタオルを身体に巻きつけ、鏡の前で、様々なポーズや表情を作りながら独りでげらげら笑っているのを見ると、さすが家族でも「まったく、鼻持ちならぬやつだ」と閉口してしまう。   こうやって、きれいになったトラちゃんは、「さようなら」と言いながら、祖父ちゃん、祖母ちゃんの顔によだれたっぷりのチューをして帰っていく。聞いた話では、寝る前に、お母さんに昔歌ってもらった子守唄を歌わせ、悲しそうに泣いたとか。 そんなに悲しい思い出、一体何だったのだろう。   トラの去った後の家は台風が去った後のようだ。電話から外れた受話器や、床に落ちた枕や、ひっくり返った亀や、葉の毟り取られた盆栽を眺めながら、祖母ちゃんはいつも恨めしそうに言う、「学校に預ければよかった」と。   だが、翌週の金曜日、トラがまた我が家にやってくるのである。(つづく) -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月22日配信
  • 2009.07.15

    エッセイ213:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(上)」

    トラちゃんの金曜日 トラちゃんは金曜日になると、我が家にやってくる。金曜日には午前中しか授業がないので、トラは学校に行かない。もっとも、それはトラがサボったのではなく、祖母ちゃんがサボったのだ。トラの通う学校まで、送り迎えするには往復四時間もかかるから、祖母ちゃんがかってに決めたのだ。金曜日はお休みって。 トラは家に入ると、すぐお気に入りのぬいぐるみを見つけ出す。その極端に細くなった片足を掴んで、くるくる廻しながら、狭い家を隅から隅まで歩きまわるのが彼の習慣だ。まるでねじの巻かれた自動人形のように、何時間も倦むことなく歩き続けるのだから、とうとう祖母ちゃんが「お願い、もう止めてちょうだい。こっちまで眩暈してしまうわ」と悲鳴を上げるのである。 トラは物静かな子だ。しかし、彼がいると、なぜか家中は魔法がかかったように騒々しくなる。彼は歩きながら、電話の受話器に向かって「もしもし」と声をかけたり、家中の電気をつけ、「あんた、ばかか、昼間だよ」と祖母ちゃんに叱られたり、キッチンでふつふつ煮込む鍋の蓋を開けて覗き込んだり、買ってきたばかりの魚を掴み取ったり、水槽にじっとしている亀をひっくり返したり、しまいには祖父ちゃんが丹精を込めて育てた盆栽の葉を毟り取ってしまうのだ。 もっとも、盆栽の葉を毟り取られた祖父ちゃんは祖母ちゃんと違い、彼には甘い。祖父ちゃんには「トラの片腕」というあだ名がついている。トラが指を差せば、祖父ちゃんはすぐほしいものをとってくれるからだ。無論、トラの言いなりになっている祖父ちゃんもたまに怒ることがある。ただ、その高く上げた手がいつも空中で失速し、トラの尻に落ちた時には、埃でも払っているのかと思われるぐらい、軽くなってしまうのだ。「孫の手」は容赦ないが、「祖父ちゃんの手」は優しすぎる。 孫は眼に入れても痛くない、それは世の人情だ。が、祖父ちゃんの愛の裏には「残酷」な理由がある。「脳に障害のあるトラには分からない」と、祖父ちゃんは医者だったがゆえに、固く信じているのだ。しかし、長年観察してきた結果、「トラはよくわかっている、わかりつつある」というのが、祖父ちゃんを除いた我ら家族の一致した結論である。たとえば、トラはこの頃、大人の気をひくために当たり障りのない嘘をつくようになった。ただ、その嘘がすぐばれてしまい、いまやオオカミ少年のようにすっかり信用を落としてしまった。また、謝れば許してもらえると分かって以来、彼は悪戯がばれる前に「壊れた」と自ら名乗り出ることにした。その戦術が功を奏したからか、最初恐ろしい形相で問い詰め、慌てふためく大人たちも、「壊れた?もうこれ以上壊せるものはないわ」と、だんだん呑気になってくる。大声で驚かしてはならないと大人たちが反省しているのを察知したかのように、トラはこのごろ、ちょっと叱ると、すぐ心臓に手を当てながら怯えているふりをする。そのくせ、まじめな話をすると、まるで耳の遠いお年寄りのように知らん振りをする。その憎たらしい「使い分け」を見抜いた中卒の祖母ちゃんは、「それでも、トラがわからないというのか」と、祖父ちゃんに反論する。 祖母ちゃんは機嫌のいい時には、「トラは生まれつきの享楽者だ」と言う。機嫌の悪い時には、「トラは無類の怠け者だ」と言う。さらに機嫌の悪い時には、「まったく、お父さんそっくりだ」と、息子への小言までも一緒に言ってしまうのだ。 夏になると、トラは床にマイ・ゴザとマイ・マクラを敷いて寝転び、冬はロッキングチェアを揺らしながらひなたぼっこをする。寝転んでいるトラは、足を組みながら、たまに思い出すかのように、家族の名前を一人ずつ呼んだり、歌を歌ったりする。トラは言葉が少ないが、歌は驚くほどうまい。音程が外れることはめったにない。ただ、ろれつが回らないため、何を歌っているかよく聞き取れないのが何よりも残念だ。 だが、こんなトラでも時に窓を開け、その能天気さと似つかわしくない大きなため息をつく。しばらくすると、ぴたっと窓を閉め、何食わぬ顔でまたぬいぐるみをくるくる廻しながら部屋を歩き始める。彼の視線の先は、果たして老人たちがダンスに興じる公園なのか、子どもたちの笑い声が絶えない幼稚園なのか、それとも夕暮れに赤く染め上がる空の彼方なのか、彼が口を噤む限り誰も知らないのだ。(つづく) -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月15日配信