SGRAエッセイ

  • 2009.12.09

    エッセイ227: ガンバガナ「自由の鐘」

    これはアメリカでの小さな出来事だ。 今年の5月から8月にかけて、ニューヨークに滞在していた私は、ナイアガラの滝、ワシントンDC、フィラデルフィアを二泊三日でまわるという、相当ハードなスケジュールの旅をした。その最後の目的地となったのは「自由の鐘」であった。「自由の鐘」は、ペンシルベニア州フィラデルフイアに保存されている、ひとつのごく普通の鐘のことであるが、アメリカの独立宣言、奴隷制度の廃止など一連の歴史事件と大きなかかわりをもっていることから、長い間、アメリカの国民に自由のシンボルとして親しまれてきたという。 私たちも、この意義ある鐘を一目見てみようと思い、その施設へ足を運んだ。建物の一番奥の方に一台の鐘が置かれていた以外は、壁に数枚の写真やポスターが貼られてあるぐらいで、厳しいセキュリティチェックを通って入ってきた割にはシンプルに感じた。 私はニューヨークのマンハッタンにある自由の女神を見に行ったときのことを思い出した。そのときも相当厳しいセキュリティチェックがあった。「アメリカでは自由にかかわるものが大切にされているんだな」と、私は思った。ガイドさんの話によれば、毎日、世界中から多くの観光客がここを訪れるという。「何がこんなにたくさんの人を惹き付けるんだろう。意味の重さから?それとも他にも原因があるのかな?やっぱり人間は、自由というものに憧れているから?そういえば動物だって同じじゃないの?」このように自問自答しながら観賞を続けているうちに、いつの間か自分の想いに入り込み、今まで自分で仮想してきた自由の世界と、実際に存在する自由の空間の境がなくなってしまって、経験したことのない不思議な心の癒しを味わっていた。 ところが、残念ながら、それは一瞬の妄想にすぎなかった。私の想いは一人のお客さんの思いもかけぬ行動にことごとく砕かれてしまったのである。というのも、私の前を歩いていた人が、突然、「ダライ・ラマ!!!」と大声で叫びながら、壁に向かって、力強く空中パンチとキックを浴びさせ、多くの人を大変驚かせたからである。 私は本能的にそのパンチを向かわせた方向に目を移した。そこにはダライ・ラマ法王のポスターと南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領のポスターが並んで貼ってあった。彼の怒りの理由は明らかだった。同時に、彼がどこの国からきた人であるかもほぼ断定できたのである。しかしながら、私は彼のこのような行動には、疑問を感じざるを得なかった。この人はこの二日間の旅でアメリカという国をまったく理解していなかったか、あるいは理解しようとも思っていなかったからである。 私は彼をゆっくりと眺めてみた。興奮しすぎたのか、顔が相当固くなっていた。ちょっと話をしてみようかなと思ったが、途中であきらめた。喧嘩を売られるのが怖かったから。私は、その日の午前中にワシントンの蝋人形館を訪れたときのことを思い起こした。二人のお客さん(どこの国の人であるかわからないが、中東系の顔をしていた)が、ブッシュ元大統領の人形の前に行って、平手をあげたり、靴を脱いで叩いたりするような格好で写真を撮っていた。私には、ダライ・ラマ法王のポスターに空中パンチをあびせたのも、同様な行動パターンに見えた。二日間行動を共にした私はちょっと恥ずかしくなった。 その部屋には、何人かのスタッフがいたが、何の反応も示さなかった。それもそのはず。「表現の自由」という原則がこの国にあるのだから。そういえば、われわれのこの主人公も、この時点で、知らないうちに、すでにその恩恵を受けているのではないか。私は彼の顔をあらためて眺めてみた。彼はそこまで考えていないようだった。もしかして彼は今自分がどこにいるのか、その居場所について考えていないかもしれない。もしかしてこの「自由の鐘」は、彼には単なる罅だらけの鐘として映っているかもしれない。もしかして彼は今まで「自由の空気」さえ吸ったことがないかもしれない。私は彼への理解に苦しんだ。 その後、私は彼と行動を共にしていた人との話から、彼は約一ヶ月前に中国からアメリカに遊びに来た若者であるということを知った。ついでに「あなたのお仕事は?」と聞いてみたら、二年前からここにきて、ある研究所で医学の研究をしていると答えてくれた。いわゆるエリート層だった。私はさらに彼のアメリカについての感想を尋ねてみた。返ってきたのは「ごく普通」という返事だった。それ以上私は何も話さなかった。 この「ごく普通」の国を多くの中国人が一生の夢として目指していることは事実であり、しかも一回国境を越え、この国の土を踏んだら、なかなか帰国しないのも事実ではないか。この「言」と「動」の関係がいったいどのようにはたらいているのか、正直なところ私にはわからない。いずれにしろ、アメリカが「魅力的」だったから目指したわけではなさそうだ。 アメリカは、「自由」と「民主主義」を国家理念としてまつりあげてきた。アメリカ人にとって自由は聖なる領域だ。ワシントンではリンカーン記念館に立ち寄った。リンカーンといえば、奴隷制度の廃止で知られている。その階段は、キング牧師の有名な「私には夢がある」という演説の舞台であった。その後、私たちは、蝋人形館に行った。そこには、黒人運動のもう一人のシンボルである、ローザ・バークス氏の肖像があった。そして、フィラデルフイアにあるこの「自由の鐘」。中国では権力を象徴するものが観光スポットになっているのに対し、アメリカでは自由を象徴するものがスポットになっているようだった。私はさらに考えた。「キング牧師は白人ではない。ネルソン・マンデラ氏はアフリカ人だ。では、ダライ・ラマは何人なんだろう。」 私の思いはまるで鎖から解放された鳥のように自由の空を飛んでいたが、それに待ったをかけたのは、ガイドさんの「時間ですよ、みんなバスに乗ってくださ~い」というアナウンスだった。いよいよ旅の終わりだ。私は複雑な気持ちを抱えたまま案内に従ってバスに乗り込んだ。バスは人々のさまざまな思いを乗せて、ニューヨークに向かって走り出した。 やがて、マンハッタンの街が見えてきた。自由の女神が手を振りながら私たちを迎えていた。またも「自由」のテーマ、そうか、ここはアメリカだから。 -------------------------------- <ガンバガナ ☆ Gangbagana> 中国内モンゴル出身、2008年に東京外国語大学大学院地域文化研究科から博士号取得、専攻は内モンゴル近現代史。現在東京外国語大学外国人研究者、秋田国際教養大学非常勤講師 -------------------------------- 2009年12月9日配信
  • 2009.11.25

    エッセイ226:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その2)」

    コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)はここからご覧ください。 船はニコヤ湾を横切り目的地のチラ島についた。そこまでくると湾の奥になるので、海は鏡のように静かだった。港に繋がれた小舟の上に、まるでその船の主であるように一羽の白鷺がとまっていた。桟橋はなく、こののどかな港の砂浜に私たちが乗った小舟はのりあげた。港には小屋がありテラスにはレストランのようにいくつかのテーブルと椅子がおいてあって、数名の人が座っていた。この島の人口は4000人で、全員がこの島で生まれ育った漁師とその家族だという。チラ島の原住民は混血して純粋な原住民はいないが、中央山脈のタラマンカ地方には、少数ではあるが数種族の原住民が生きているそうだ。オスカルさんに聞くと、話す言葉はここでも都会でもほとんど変わらないということだった。もしかすると彼らの祖先は農民だったかもしれない。農業が大型化するにつれてはじきだされた人たちの多くが、資本のいらない漁業を営むことになったという。 港から船長の運転する車で「観光」をした。車は相当おんぼろで、ドアが固くてあけるのに苦労した。道は舗装されていないが十分に広くよく整備されていた。大型の船が着く港はないのであろうから、車は数えるほどしか走っておらず、人々は徒歩かマウンテンバイクで移動していた。トラックを改造して荷台に人を乗せるようにした「バス」が唯一の交通手段のようだ。道の両側は牧草地のようであった。時々牛を見かけた。耳がながくて垂れていてこぶのある「コスタリカの牛」もいた。この島では1週間に1頭ずつ牛と豚を殺して食べるのだそうである。その他は魚である。大規模な畑や田んぼは見かけなかった。船長は「村」の名前を教えてくれるが、家が数件集まっているところがあるだけで村とも認識しにくい。その中の普通の大きさの一軒家をさして「あれが島一番大きなお店です」と教えてくれた。この島ではひとりの女性が8人位の子供を産むそうだが、このような小さな島を少しまわっただけで、小学校が3つ、中学校がひとつあった。学校は全て無料だそうだ。校舎はどれも大きくはないが、生徒は数百人いるそうだ。車がほとんどない島なのに、どの学校にも大型のスクールバスがあった。あの大きなスクールバスをどうやって運んだんだろう。学校教育に力をいれている政府の姿勢が表れているともいえる。 船長は、私たちを島の奥の「港」に連れていってくれた。港というよりもマングローブの林の間の小さな砂浜で、コスタリカ本土から電気をひいているところであった。この島では電気も水も本土からきている。砂浜にはしわしわの長い首ととさかをもった黒い大きな鳥の群れが、羽根を広げて日光浴をしていた。オスカルさんが「これはソピロテというコンドルの親戚ですよ」と教えてくれた。白鷺や他にも何種類かの鳥がいた。やがてひとりの漁師が乗った小さなボートが着いた。岸のそばに来ると、彼はさっそくナイフで収穫した30cmほどの魚の内臓をとりだし、海の中に棄てる。魚をより長く保存するための知恵であろう。鳥たちは注意深くそれを見守っている。オスカルさんと船長は、舟の中においてあった小さなアイスボックスを覗いていた。その漁師のその日の収穫であるが、そんなに大した量ではないだろう。次に行った港はもう少し大きく、民家も数件あった。私たちが着いた港のように海辺に小屋があって、何人かの男性が時間をつぶしていた。この人たちは、島のお店の人で漁師から魚を買いにきていると、オスカルさんが教えてくれた。漁師たちは朝早くから夕方まで、ひとりとかふたり乗った小舟で漁をし、港でその魚を島の「お店の人」に売り、残りは家族で食べる。この生産の原点のようなサイクルがゆったりとした時間のなかで何年も何年も続いているわけである。 島で一番大きな小学校の向いにある、イサイル船長のお母さんの家でお昼をご馳走になった。家の造りは、広々としたテラスがあること以外はコスタリカの他の町の家とそう変わらなかった。水道は蛇口から飲める水がふんだんにでるし、トイレも水洗だし、テレビもあった。学校にはインターネットもあるから、家庭に引くことだってできないことはないだろう。ランチは20cmくらいの魚のから揚げと、魚と野菜のスープと、海老のいためものと、サラダとごはん。シンプルでとても美味しかった。向こうにあるテーブルでは、この家の家族が団欒していた。8月15日はコスタリカの「母の日」なので、叔母さんがカリブ海側の町から訪ねてきたところだった。船長の甥や姪にあたる就学前の子どもが3人、ビニールボールを蹴って遊んでいた。人懐っこい犬がテーブルの下に来て寝ていた。 この島のこのゆったりとした自給自足に近い生活をしている人たちが「幸せ」なのかどうか、私にはわからない。しかし、この生活がこのままずっと続いていくとは思えない。オスカルさんによれば、まわりの島に比べてチラ島はまだ外との接触がある方だという。船長によれば、漁だけに頼る生活は苦しいという。実際、彼は島をでてプンタレナスの町に住み、小舟を使って運送業を営んでいる。やがて、学校教育を受けた子どもたちが育って、島の外の世界へでていくだろう。そうしたら島の生活もだんだんと変わっていくのだろう。島の中の広い土地を「中国人」が買って、飛行場もあるリゾート開発をしようとしたが、政府が禁止したという話を聞いた。何故政府が禁止したのか、土地の人は開発を歓迎しないのか疑問に思って聞くと、「島の人たちが今使っている場所を使えなくしてしまう計画だったので、反対運動がおこり政府が禁止した。開発は勿論歓迎だ」という答えだった。人々が休暇を過ごすには暑すぎるのではないかと私は思うのだが、10年後に来てみたらゴルフ場とカジノのあるリゾートができていた。。。なんてことになりませんように! 「中国人」というのは「古くからいる中国人」ということで、おそらく国籍は中南米の中国系の人を指すようだ。コスタリカはつい数年前まで台湾を承認していたので、このような田舎でも「台湾が作ってくれた橋」とか「台湾資本のはいったレストラン」という話を聞いた。中華人民共和国のビジネスマンや資本は、少なくともこの地域にはまだはいっていないようだ。そもそも、このあたりでは東洋系の人はあまり見かけないのだが、オスカルさんの大学の学長は中国系の女性だったので驚いた。彼女の両親はプンタレナスで中華料理店を経営しており、彼女自身も大きな家に住んでいるという。ちなみに、彼女の専門はコンピューターだそうだ。この国にも人種による偏見はないとはいえないが、それがその人の実力に基づいた出世を妨げることはないようだ。 イサイル船長のお母さんの家でランチをした後、最初に着いた港にもどると、ずいぶん潮がひいていた。船長の息子たちが水の中にはいって舟を砂浜の近くにひいてきた。私たちも膝まで水にはいって舟に乗った。島の裏側の海も鏡のように静かだった。小舟がたくさん浮かんで漁をしていた。そのまわりにはたくさんの水鳥が集まっていた。その中でひときわめだつのがペリカンだった。多くはつがいで、あるものは海面に浮かび、あるものは大きな羽をひろげて青い空の中をゆったりと飛んでいた。魚と鳥と人が一体となって自然の中に溶け込んでいた。 コスタリカ、プンタレナスの写真 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年11月25日配信
  • 2009.11.18

    エッセイ225:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)」

    2009年8月のグアテマラの会議の後、SGRA会員のオスカルさんを訪ねてコスタリカのプンタレナスへ行った。首都のサンホセから120km、車で約2時間の太平洋岸のリゾートとされる人口約5万人の町である。ニコヤ湾に5キロメートルに渡って細長い砂州が海に突き出し、その先にプンタレナスの町がある(プンタレナスとは「砂の岬」という意味)。昔はサンホセから自動車道がなく鉄道が通っていた。太平洋岸では最大の港だという。自然保護区が多く、動植物の宝庫としても知られている。 オスカルさんは2回目の日本留学により東京海洋大学から博士号を取得した後、コスタリカ大学プンタレナス校に戻り、現在は副学長を務めている。昨年帰国してからは貸していた家の修理改築が大変だったということだが、そのお宅に泊めていただいた。奥様の久美子さんと愛犬ルミちゃんの3人(?)暮らし。オスカルさんの家は細長い岬の中ほどに位置し、裏口からでると左手には1軒おいて砂浜、右手には鉄道線路の跡や道路や数件の民家の向こうに運河が見える。残念なことに浜辺には流木をはじめ漂流物が多く誰も泳いでいない。サーフィンやヨットなどのマリンスポーツも何もない。もう少し岬の先の方に行けばビーチになっていて、週末にはサンホセからも人々がやってくるということだが、滞在したのが週の中ほどだったせいか、夏休みが終わってこの週から学校が始まったせいか、ビーチで泳いでいる人はひとりも見かけなかった。一方運河の方は港や船の停泊地として活用されているが、反対側はマングローブの森が続き、そこにはワニがたくさんいるという。 プンタレナスという海と運河に挟まれた0m地帯の砂州が本当に安全なのか、本当にこれから何百年もそのまま存続するのかという疑問がわいてくる。それに対する答えは「今まで津波も高潮もなかったから大丈夫でしょう。まあ、もし津波がきたら助からないかもしれませんね」とのこと。このあたりはアメリカの独立戦争と同じころに独立したので、せいぜい200年ちょっとの歴史である(原住民の歴史を考えなければ)。「数年前の火山の爆発でカリブ海側の地盤が上がったから、太平洋岸は少し下がったかもしれない」と話す人もいたが、オスカルさんの話によれば以前はもっと海が近く砂浜が狭かったそうなので、水位は下がったのかもしれない。南太平洋の島々にみられる地球温暖化による水位の上昇は、こちらでは全く語られていないようだった。 久美子さんは「まだ間に合わなくて冷房がないんですよ」と言うが、冷房なしの生活はもしかしたらオスカルさんの狙いかもしれない。そもそも、このあたりでは、冷房のある家はあまりない。気温は真夏日と熱帯夜が続いている感じで、湿度も東京に負けず、汗っかきの私はじっとしていると汗がぼたぼた落ちる。滞在中、タオルが手放せなかった。ただし海辺なので風があり、冷房の利用が少ないから、東京の都心よりはましかもしれない。それにしても、これが「夏」の気候ではなく、1年中こうなのだから凄い。近隣諸国を含めてこの地域には四季がない。あるのは雨期と乾期だけ。海に行けばいつも真夏。山に登ればいつも涼しい。実際、最後の日に海辺のプンタレナスからサンホセ市の近くの標高2800mの火山へ行ったが、そこは摂氏15度で震え上がった。だから中米では、おおかたどの国も首都は標高1000m以上の高地にあり、会議もそのようなところで開催されることが多い。中南米でこのような暑さを経験したのは初めてだった。扇風機の前に座って食事やメールチェックをし、あるいは扇風機の風にあたりながら眠ることになった。そして、外は暑すぎるから、家の中で扇風機にあたりながらベッドに寝転がって本を読むという何とも幸せな一時を過ごすこともできた。ここでは時間がゆったりと流れていて、その中に浸っているのはなんとも居心地が良かった。 3日目、オスカルさんが小舟を手配してくださり、ニコヤ湾の奥の島へ行くことになった。朝7時に港に行き、しばらく待っていると、船長のイサイルさんが家族と一緒にやってきた。船の安全性や漁業の研究をしているオスカルさんとは旧知の仲らしい。舟は10名くらいを載せることができる大きさで、湾内の島々とプンタレナスを結ぶ交通手段である。簡単ながらも屋根があったので助かった。私たちが乗って、油(燃料)のはいった大きな容器を載せて、それからオレンジ色の救命胴衣と浮き輪を載せた。オスカルさんが、「最近はこういうことに注意が払われるようになったんですよ」と教えてくれた。私が「それはオスカルさんのおかげですか?」と聞くと、少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。オスカルさんは博士論文で、中米の海難事故データを日本のデータと比較し、中米における漁船の安全対策を提案した。海で遭難して死亡する事故が中米では増加している一方、日本では激減したことに気付き、日本の経験から学ぶことができると思ったのがこの研究を始めたきっかけだという。コスタリカではまだ小舟で漁をする漁師が圧倒的多数だが、近年、沿岸では魚が少なくなり漁場はどんどん遠くなった。漁師たちは安全対策に関する知識も装備も全くない状況でどんどん沖合にでていくことになる。したがって死亡事故が増加する。日本の高価な装備をコスタリカの漁民に与えることは不可能だが、浮き輪や救命胴衣やボート、自分の位置を知らせる発煙筒を備えるなどの基本を知れば死亡事故はかなり防げるはずだ。プンタレナスでは、すでに研修者の研修が始まっており、すべての漁師が研修を受けなければ漁ができないようなシステムを作る予定である。また、それをコスタリカだけでなく、中米の国々でも実施するよう近隣諸国に呼びかけている。日本に留学していた頃から、この話をすると、いつもは物静かなオスカルさんから情熱がひしひしと伝わってきた。 今日の航海は、イサイル船長の息子2名が手伝ってくれた。次男はまだ高校生くらいで舟の前にたって見張りをしていた。海に丸太が浮いていると、操縦しているお父さんに手で合図してスピートを落とさせ、左右に誘導して避けるようにする。ビーチにも無数に打ち上げられているこの漂流木には驚いた。中には直径1m以上の大木を2mくらいに切ったものまである。このような木片や丸太が、それこそどこの海岸にも打ち上げられている。原因を聞くと、この湾に流入する大きな川から流れてくるからという。オスカルさんは、大学の環境学習のゼミで、学生にこの原因を探る課題をだしたという。どうしてこの問題が起こるのか、どうすれば解決できるのか、どこへどのように働きかければいいのかという環境改善への努力は、きっとプンタレナスの時間に合わせてゆっくりと進んでいくのだろう。もし来年ここへ来ることがあっても、きっと何も変わっていないだろうが、10年とか20年のものさしで測れば何かが変わるのかもしれない。(つづく) ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年11月18日配信
  • 2009.11.11

    エッセイ224:範 建亭「日本留学の回想」

    この夏の2ヶ月間の日本研究訪問が終わった。今回の短期滞在は6年ぶりの日本生活となり、思った以上に充実したものであったが、どのような研究成果があったのか、自分自身もまだよく分からない。2ヶ月は短いようで長かった。生まれたばかりのわが娘から離れることは非常に辛かった。 帰国の日がやってくると、家族を思う気持ちが一層強くなる。一刻も早く家族に会いたい。羽田空港へ向う京浜急行のスピードはいつもより遅く感じた。上大岡、横浜、鶴見、電車がこれらの懐かしい駅を次々と通り過ぎると、昔の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。なぜか、胸が一杯になり涙が滲んできた。 19年前に来日した僕は、自分の人生に不満だらけで、祖国の前途にもほぼ絶望的であったから、逃げるような気分で出国した。だが、日本で何かをしようというはっきりした計画を持ち合わせていなかった。 僕は上海生まれ、上海育ちであるが、スラムのような下町で育てられ、勉強嫌いで大学にも進学できなかった。日本の留学生活は日本語学校からスタートしたが、人生をやり直す気持ちで猛勉強した。その調子で学部から博士号を取得するまで進んだが、アルバイトで学費を稼ぎながらの生活が長く続いていたので、とても辛かった。それをなんとか乗り越えたが、それまでは実に沢山の方々にお世話になった。 滞在中に、友達を連れて横浜中華街で食事した。日本に来る時にはなるべく中華料理を食べないことにしているが、今回はどうしても会いたい人がいた。店に入った瞬間、奥様と娘さんが一斉に僕の名前を呼んだ。十年ぶりの再会にもかかわらず、名前まで覚えてくれて、とても嬉しかった。調理場から出てきた店のオーナーも驚きながら歓迎してくれた。 その店は中華街で一番古い店の一つであり、外見と内装は今も十数年前とほとんど変わらなく素朴な雰囲気である。その店で僕は4年間ぐらいアルバイトをしていた。来日したばかりで日本語があまり話せない僕を雇ってくれた上に、大学の保証人までなってくれた恩は、言葉では言い尽くせない。 「彼はそこまでできるとは思わなかったよ」と、オーナーは僕の友達にそう言った。正直に言って、僕はいまも自分が成功していると思っていないが、十数年の留学生活を終えて、結局大学の先生になるなんて夢にも思わなかった。 来日した1990年ころは、日本はまだバブル経済を謳歌していた時期であり、その「金持ち国」としての繁栄ぶりに驚いた。一方、当時の中国経済については、中国人さえ自信を持つ人はあまりいなかった。今の発展ぶりを想像できた人は恐らく存在しないと思うが、中日両国の巨大な経済格差は、逆に留学生が頑張る原動力となっていた。 僕の日本での最初のアルバイトは横浜中華街の米屋であった。毎日朝7時ころ、20キロの米を肩で担いでレストランに配達していた。今思えばとても辛い仕事であったが、当時はそう思わなかった。時給は1200円もあったから、一時間働けば、当時の中国人の平均月収分の収入がもらえた。このように、金銭に対する貪欲、豊かな暮らしへの夢、そして明るい未来への憧れは、異国での留学生活を支える源泉であった。 その後、日中経済は正反対の動きをみせた。日本国内で最近行ったある調査によると、「今後の生活が向上する」という回答が過去最低という結果が出た。逆に、「発展完了」の日本から「発展途上」の中国に視線を移せば、「明日の暮らしはきっと今日よりよくなる」と信じる人が圧倒的に多いに違いない。そのような信念は意外と重要かもしれない。特に若者にとってはなおさらだ。 成熟社会で育てられると、自立精神とタフさがだんだんと薄れる恐れがある。短期滞在中に通っていた母校の関東学院大学は、十数年前に僕が学部に通ったころに比べて、キャンバスがずいぶん綺麗になっている。いくつもの立派な高層ビルが建てられ、校門前の駐輪場も整備された。路上禁煙も徹底的に実施された。 しかし、変化はそれだけではない。タバコを吸う学生、髪を染めた学生が多いことは以前も同じであるが、学内にいくつかの「学生支援室」が設けられたことに驚いた。関係者に事情を聞くと、最近では人間関係のストレスや生きる悩みを抱えている学生が増えているから、「一人暮らし講座」や「日常生活の悩み相談」など、様々な支援を考えたという。日本の若者は中国に比べて精神的に弱くなったのではないかと思った。 不況の影響で日本の生活レベルは低下しつつあるものの、中国はまだその足元にも及ばないと思う。いつも日本から中国に戻ってしばらくの間は、日本の静かな環境、清潔な街、快適な交通、サービスや治安の良さなどがとても懐かしくなる。中国の生活環境はそれとまるで別世界であるが、その一方で激動する国であるからこそ、その変化と成長を楽しむことができる。それに比べて、日本社会の変化は乏しい。 帰国前の送別会で、元指導教官の恩師に「今回の短期訪問で最も印象に残ったことは何ですか」と聞かれたが、僕はしばらく考えても答えられなかった。かつて日本に十数年も住み、帰国後も年に一回くらい来日しているから、目に慣れてしまった環境にはその変化を感じ取りにくい。 逆に、今回の滞在で「変わってないな」と感慨することのほうが多かった。たとえば、銀行の暗証番号は相変わらず四桁、テレビの番組は相変わらずお笑い系の芸人が独占(日本人がこんなに真面目なのに)、古本屋には相変わらず漫画本ばかり、交番の前に張ってある指名手配の犯人顔は十数年前と同じ、などなどである。 日本は好きか。そう聞かれたら僕はすぐには答えられないと思う。日本のことについては、好きという言葉が軽く感じられる。青春時代をすごした町、そしてわが人生をやり直すことができた国には、それ以上の感情がある。 そう書きながら、上海の虹橋空港がもう空から見えはじめた。我が家のぬくもりがもう目の前だ。果たして6ヶ月になる娘が笑顔で迎えてくれるのか。ノートを閉じて、目を閉じると、わくわくと胸が高鳴る。 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 -------------------------- 2009年11月11日配信
  • 2009.10.21

    エッセイ223:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その2:時はマジで金なり?」

    シンガポールで日本人のイメージについて聞くと、必ずといっていいほど「マジメで時間を守る」という返事が返ってきます。まあ、長年日本に住んでいると、それほどマジメでもない日本人の友人にも少なからず恵まれてきたので、前者のコメントについてはノーコメントを貫きたいのですが、こと後者のほうに関していうならば、僕は手を上げ足を上げ大賛成です。 何年か前のある夏のことでしたが、僕は東京に遊びにきた四名のシンガポール人の飲兵衛親友と同じく四名の日本人飲兵衛友人と、高尾山の展望台にあるビアマウントでビールの力を借りて暑さを凌ごうということになっていました。ビールばかりではちょっと高尾山に失礼かもしれないというので、飲む前に少しだけハイキングして汗を流したところで乾杯しようという算段になり、高尾山口駅で中途半端な三時半ごろに待ち合わせることに決まりました。それで僕が引率するシンガポール人組がちょうど三時半ごろに待ち合わせ場所に着いてみると、なんと日本人の友人は全員揃ってそこで僕たちを待ち受けていたわけです。僕はなんとも思わなかったのですが、「ワオー!リアリー?遅刻した人が一人もいないなんてすごい!」と驚きまくりのシンガポール人を前にして日本人の友人たちもかなり驚きました。いわれてみれば、シンガポールではグループで待ち合わせするときに時間通りに全員が揃うことは確かに稀なことです。しかも、日本人友達の中に一番「遅く」到着した友人が三十分前に僕の携帯に「ごめん、二分ほど遅れるかもしれない」というご丁寧なメールを寄こしたものでしたから、これにもシンガポール人組は驚きまくりの様子でした。「二分ぐらいならメールは要らないよ!待っていてやるよ!」というシンガポール友人の反応を聞いて、確かにシンガポールでは二十分遅れてもメールも何も寄こさない人がたくさんいることを僕は思い出しました。 上の実例のように、日本人は確かに時間にはかなり厳しいほうですね。時間を守ることが他人や仕事に対する姿勢の一つとされ、約束した時間に遅れた人はまだ一人前でないとされてしまう危険性すらあります。日本人はなぜもっとリラックスして時間と付き合えないのでしょうか。その理由の一つが、著しく発達した交通網の時刻表にあるのではないかと僕は考えています。周知の通り、日本の地下鉄や鉄道の時刻表は極めて細か~いです。「9時13分に各駅、9時16分に急行、そして9時19分に次の各駅と乗り合わせの特急が来る」といった神業に近い緻密な計算は、東京では珍しくも何ともないかもしれませんが、海外の大都会でもあまり見かけません。同じく時刻表が発達しているドイツや韓国などの国でさえ、時刻表はあくまで参考用であると聞いています。しかしそれが日本だと、もしも電車が少しでも遅れた場合には「電車が二分ほど遅れております!お客様には大変ご迷惑をおかけしております!」というお詫びの放送がすぐ聞こえてきたりします。「二分ぐらいなら放送は要らないよ!待っていてやるよ!」というシンガポール友人の声が聞こえてきそうですが、まあ、東京などの都会の場合では乗り合わせとかも多いため、二分の遅れが本当に「ご迷惑」になることも考えられますから、落ち落ち時間と付き合っていられないというのもわかります。 思い起こせば、シンガポールの地下鉄では「時刻表」(?)に書いてある時間は二つしかなく、始発と終電の時間だけなのです。電車は、この二つの時間の間に適当に来るというのがシンガポール流です。ラッシュアワーならもっと頻繁に、そうでないときはより断続的にといった具合ですが、とにかく待っていればそのうち電車は来ます。近年、ホームに着くと次の電車が何分後に来るというシステムがやっと設置されるようになりましたが、でもこれについても駅に着かない限り電車が来る時間など知りようがありません。だからなのか、シンガポールに帰っているときは電車に間に合うためにあまり走ったりしません。駅に着く前に電車の時間は知らないし、たとえ約束に遅れても「ごめん、電車が来なくて…」という言い訳は広く市民権を得ているからです。そうであるからこそ、シンガポールでは二十分遅れてもメールも何も寄こさない人がたくさんいるし、待ち合わせに時間通りに全員が揃うことも稀なのです。これとは反対に、東京などの都会にいると時刻表はちゃんとあるのですから、駅員が配る「遅延証明」の紙がない限り電車の遅れなんて遅刻の理由になりません。そのため、電車に間に合おうと駅に向かって走ったり、乗り合わせの電車に遅れまいと駆け込み乗車したりする人の姿は、東京では日常茶飯事です。シンガポールにいたときよりも、日本にいるほうが僕は痩せているというのもこのためかもしれません。でも、これは悪いことではありませんね。   どこかの本で読んだのですが、エレベーターが最初に発明されたときには階ごとのボタンと「開ける」というボタンしかありませんでした。その後、「閉まる」というボタンを付け加えたのは日本人だそうです。これを知ったときに、僕はなんかすごく納得しましたね~。さすがは日本人です。エレベーターのドアなんて放っておけばすぐに閉まるのに、そこまで待っていられずいち早くドアを閉めてしまいたい、効率的に時間を使いたいわけですね。これもなんか「9時13分に各駅、9時16分に急行、そして9時19分に次の各駅と乗り合わせの特急が来る」という緻密なダイヤルに通じるものを感じます。「時は金なり」の信奉者なのか、人生は短いから時間は有効的に使わなければという人生観からなのか、なぜ多くの日本人がそんなに急いでいるのかな…「急がば回れ」という人生訓の諺もあるでしょうに…というようなことを考えながら、今日も駅に向かって足早に歩かされている自分がいます。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年10月21日配信
  • 2009.10.14

    エッセイ222:マックス・マキト「マニラ・レポート2009夏」

    季節の移り変わりの象徴である桜の花びらのように、黄色いコンフェッティが葬送車に浴びせかけられた。ミサが終わると、別れを告げにきた大勢の人々に良く見えるように、フィリピンの雨季にも対応した棺を乗せた台車が、マニラの大聖堂から墓地を目指してゆっくりと動き始めた。通夜をマニラ聖堂で行ったのは初めてのことだという。普段は車で1時間の旅は、9時間ほどかかった。交代せずにずっと葬儀車に起立していた4人の兵隊に守られていたのは8月1日に他界されたコリー・アキノ元大統領の遺体であった。周知のように、コリーは1983年8月21日に暗殺されたニノイ・アキノ上議員の妻であった。1986年にマルコスの独裁政権を倒した「黄色い革命」(別名PEOPLE’S POWER革命)が引き起こされ、コリーはフィリピン大統領に就任した。この革命は、その後の世界各地で起きた市民による革命の震源地とも言われている 葬儀をテレビで見ながら、革命当時のフィリピン社会の熱気を思い出した。1984年と、急に行われた1986年の選挙に対する多くの市民の思い。選挙結果の尊さを守るために、いくら脅かされても僕も選挙箱の上にじっと座っていたこと。そして戦車が反政府軍の避難場所に行けないように生まれて初めて一晩を路上で過ごしたこと。「戦車がくるぞ!」という合図で人間鎖を作ったとき、僕よりその抵抗運動の深刻さを分かっていただろう、怖さで体が震えていた隣の人のこと。 あのときのことを思い出しながら、これから母国はどうなるか、このままでいいのか、という懸念も抱いた。   8月19日に、CENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)というマニラの研究所とSGRAの共同研究の一環として、教育、水道、医療における政府の支出の透明さを高めるための5年間プロジェクトについてのワークショップを開催した。SGRAフィリピンの研究員やCRCの母体であるアジア太平洋大学(UA&P)の協力者と一緒に現状報告をした。たまたま、東京大学の先輩でもある中西徹教授が参加し発言してくださった。そもそも、このようなプロジェクトは何のためにやるか、自分自身で考察する貴重な機会でもあった。僕は発表の中で、3つの対象分野のサービスにアクセスできないのはやはり貧しい人々であるから、プロジェクトの最終的な目的は貧困の撲滅であると強調した。フィリピンの政権の実績を調べたが、初めて貧困率の削減を明確な目標にしたのはアキノ大統領だった。その後、貧困率はさがってきていた。 しかしながら、現政権はこの目標をなぜか明確に取り上げず、その結果フィリピン大学の調査によると、フィリピンの経済が比較的上手く成長していた時期にも貧困率は高くなっていた。言い換えれば、僕の関心事である「共有型成長」を現政権は達成できていないのである。UA&Pは現政権をべつの角度から好意的に評価しているが、僕は賛同しがたい。   8月25日には、SGRAの第11回共有型成長セミナーをUA&Pで開催した。新型インフルエンザのために開催が一時危惧されていたのだが、東京に戻る3日目前にやっと実現できた。(重要人物が海外に頻繁に行かれたのだが、自己検疫の方針のために出られない状況だった。)政府や企業の自動車産業関係者が参加してくださって、これからのフィリピン自動車産業の産業政策をどうすればいいか、5時間にわたって議論し合った。新聞にも取り上げられたが、SGRAの名刺を記者たちに渡したのに所属先を間違えられたので、マスコミが常に何を企んでいるのか実感した。(これに関しては母校にお詫びを申し上げたい)。この会議では、「今年の12月までなんとか政策とその法的枠組みを設置しないといけない」ということにみんなが合意した。ここで日本企業の力を借りてフィリピンの本当の共有型成長の実現に貢献したい気持ちで一杯である。   上述のように、現政権の共有型成長の軽視は、アキノ大統領が引き起こした革命の逆戻しを象徴するものだと考えずにいられない。革命の熱意がフィリピン国民に復活しない限り、逆戻しはきっとさらに進んでいくだろう。あの葬儀で少しでも人々の心の中にピープル革命の火がともるように期待している。当時命がけでフィリピンの幼い民主主義を守ろうとした人々、そしてその後その恵みを体験した人々がまた運動を始めないといけない。アキノ大統領の息子で、僕の高校の同級生であるノイノイ・アキノ上議員は、お母さんが他界した後、来年5月の大統領選挙に出馬すると決意した。 ガバナンス・ワークショップの写真 第11回共有型成長セミナーの写真 セミナーについての新聞記事 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2009年10月14日配信
  • 2009.09.23

    エッセイ221:趙 長祥「雨季のキャンパスの光景」(キャンパス生活シリーズ#2)

    7月と8月は青島市の雨季である。この二ヶ月間の雨量はほかの季節より随分多くなり、4~5日ごとに降るようになる。雨の形もさまざまである。昼間に少しだけ降る小雨もあれば、午後に雷と一緒にくる夕立もある。一日中だけ降る日もあれば、2~3日連続で降ることもある。雨量が増すにつれて、湿度も高くなる。1階に住んでいると、連日の雨で床に水露ができ、クローゼットに掛けてある服にカビが生えるほどである(雨が続いて外に干せなかった時の自己体験<笑>)。1年中で1番気温が高い時期で、偶にとても蒸し暑い日もある。とはいえ、東京の蒸し暑さほどではない。 雨は暑さを緩めてくれるのでとても助かる。暑い日のお昼に、突然降ってきた雨が地上の熱気を一掃した時の、鬱陶しい気分を涼めるような清涼感。その心境は欧陽修氏(1007-1072年、北宋朝の大文豪であり、エッセイ・詩・詞などの造詣が深い史学家)の詞、「柳外軽雷池上雨、雨声滴砕荷声」に描かれた境界で喩えられる。この詞は、夏の日に突然降ってくる雨の景色を細かく、美しく描いている。「遠い雷の音が柳林の外から伝わり、池の中に茂っている蓮はザーザー雨に打たれている」雨音の音楽のようなリズムと、雷・柳林・池・蓮・雨、そして雨線に縫われた天幕、という詩的な境界が感じ取れる。暑い夏の日に、心を一新させる涼しさ。また、夜の雨は、正に柳永氏(987-1053年、北宋時代の大詩人)の詩に詠われた「空階夜雨頻滴」という意境である。「静かな夜、広々とした空間に、夜の雨が、時計の針のような音をたてて、石の階段を打つ、その音が静かな夜を通りぬいて耳に伝わってきて、逆に夜の静寂を映し出す。」 勿論、雨季はこのような詩的で好ましいことばかりではなく、マイナスもある。たとえば、上述のように、ビルの1階に住む人にとっては、湿度が高いので生活に大きな不便をもたらす。 雨季には、キャンパスにも新しい変化が生じる。まず、雨の量が増えるにつれて、キャンパスの一隅にある丘(前回エッセイ「キャンパスシリーズ#1」を参照)は大量の雨水に潤われて、二面の傾斜面から水がキャンパスの道路に流れ込み、小さな渓流となるほどである。雨のおかげで丘が完全に緑に覆われるようになり、緑溢れる木々・さまざまな草や花が、繁々とした生命力をこの世に自己表現している。雨の季節に恵まれたのは丘だけではなく、キャンパス全体も緑がいっぱいになり、人々の目を楽しませている。このキャンパスに来て、まもなく2年間となるが、この時期になると、雨のおかげで自然にこのような賞心悦目な変化が訪れる。 一方、自然の快い変化とは対照的に、今年は、このキャンパスで、人為的な鬱陶しい変化も生じた。例年は、学生たちの学期末試験の終了につれて、7月中旬から大学は夏休みとなる。学生の帰省によって普段賑やかなキャンパスがとても静かになる。だが、今年は例年と異なり、夏休みになっても、一向に静かにならなかった。昼も夜も人の騒ぎが絶たず、夏休みを利用して、相当ハードなスケジュールで論文や本を完成させるつもりの私にとって、大きな迷惑であった。その原因をよく観察してみると、騒ぎをしていた人たちは学生だけではなく、各地から青島へ出稼ぎの労働者たちもいるのである。規則では、学生や先生達が住むアパートに出稼ぎ者たちは住めない。しかし、今年は、なぜか院生以上の各アパートには出稼ぎ者たちが充満していた。学校当局が出稼ぎ者たちを入居させているのか、学生や先生たちが夏休みを利用して勝手にアパートを貸し出しているのか、具体的な原因は不明である。 しかしながら、ひとつわかってきたことがある。もともとこのキャンパスの中に日本人的な生活スタイルをしている人がいたのだが、その人が以前に雇われていた日系企業に依頼された調査会社に勝手に身元調査をされた。なぜ日系企業がもとの従業員の身元調査をしたかというと、その人がスパイであるかどうか、そしてその人が「レベルの低い人」であるかどうかを調べたのだという。そのうち地方からの出稼ぎ者たちがこのキャンパスの中に住みつきはじめた。なぜ彼らが住みついたのかというと、調査会社が、件の日本人的な生活スタイルをしている人を監視したり、邪魔したり、流言を伝播させるために、出稼ぎ者たちを利用したからだという。 ついでに、私のパソコンは勝手に誰かに攻撃され、システムを何回も再インストールしたが、なかなか元の状態にならないため、もともと夏休みの教学中止期間を利用して、自分の研究に頑張ろうとしていた私にとって痛手であった。この騒ぎとシステムのトラブルで、夏の計画が台無しになりそうである。 今年の雨季のキャンパスには、例年のように雨がもたらす情趣もあれば、昨年と異なる迷惑もある。いろいろな人や事象が、それぞれの色でキャンパスを彩り、多彩な社会になっている。高度成長の経済発展につれて、かつて「象牙の塔」と称された大学もすっかり市場経済の色に染められている。社会と同然で、いろんな人がいて、さまざまな色が混じり合っている。こうした混乱した社会もいつの日か収まる時があり、秩序よく調和したキャンパスが来るのであろうと待ち望んでいる。(8月16日 青島にて) 雨季のキャンパスと丘の写真 -------------------------------------------------------------------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)☆ Andy Zhao> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士取得。現在、中国海洋大学法政学院で講師を務め、専門分野はストラテジックマネジメントとイノベーション。SGRA研究員。 --------------------------------------------------------------------------------------- 2009年9月23日配信
  • 2009.09.16

    エッセイ220:林 泉忠「天山の麓の調和社会をどう構築するのか(その2)」

    エッセイの前半 ● ウイグル族の文化危機感 その他の少数民族の状況と同様、新疆のウイグル族が直面している自民族の文化的危機感は市場の開放によってもたらされた問題に起因する。それは、主に二つの側面を表している。 まず、経済の活性化に伴い人口も急速に移動するようになった。一部のウイグル人が沿海地区へと生計の道を求める一方、更に多くの漢人はビジネスのチャンスを求めて新疆に入った。1949年当時の漢族の人口は新疆の総人口のたった6パーセントにすぎなかったが、いまではすでに41パーセントまでに増加した。数百年の間、この土地の大多数を占めてきたウイグル族は、いま総人口の45パーセントしかいない。これはウイグル族の長い間の悩み事となった。また、多くの少数民族と同じく、ウイグル語はウイグル族の民族言語ではあるが、新疆では主流言語になっていない。実際、漢族の人々はウイグル語を学ばず、ウイグル族の多くいる小学校と中・高校でもウイグル語が次第にフェード・アウトし、大学になるとほとんどウイグル語には無縁となっている。 それに、市場経済に伴い、条件の良い仕事を求めるために、ウイグル族の若者は漢語(中国語)の学習にエネルギーを投じねばならないようになった。このような状況の中で、民族文化に対する危機意識がウイグル族の間にますます広がっているのである。   政府の宗教に対する厳しい管理もまたウイグル族の文化危機感をもたらす要因である。『あなたの西域・私の東土』を執筆した王力雄氏はフィールド調査のため、スバシ古城の近くにあるウイグルの村を訪ねた際、学校の掲示板に、「不法な宗教活動」とされる条目を目をした。その中には、「個人による経文学校の運営、伝統的挙式による結婚、学生の礼拝、伝統による社会生活の干渉、政府管理以外の礼拝活動、無許可の宗教施設の設立、無認可の宗教活動、地区間の宗教交流、宗教の宣伝物の印刷および配布、海外の宗教団体による寄贈の受け入れ、海外での宗教活動、入信の勧誘」などが含まれていた。このように厳しい宗教政策の下で、憲法に書かれている「宗教の自由」がただの見せかけと批判されているのである。   少数民族問題に対する中国政府の対応において、もう一つの盲点が存在する。すなわち、民族問題の存在を認めようとしないことである。しかし、今回の騒乱はウイグル族と漢族との対立が確かに存在していることを明らかにした。実際、「改革・開放」後、一部のウイグル人が沿海などの都市へと生計のために移動したことによって、遠く離れた沿海地区の漢族の人たちでも、ウイグル族の人と一定の接触がでてきた。しかしこれらの漢族の間で伝えられているウイグル人のイメージのほとんどは「野蛮」、「恐ろしい」、「できるだけ敬遠した方がいい」などである。ウイグル族と漢族との隔たりは天山を越えて、華東・華南などの地区までに広がっているのである。   ● 民族問題の新思考は一刻も猶予できない   政府が長い間民族間の矛盾の存在を認めようとしないゆえに、民族問題をめぐる基本的な考え方は、従来と同様、依然として漢族中心の「民族工作」にとどまっている。しかし、今度の衝突事件によって、全く新しい考え方で、真の「和諧社会」(調和のとれた社会)を作るための、少数民族の利益の尊重を根本とする民族政策を見直す時期がやってきた。それにあたって、新疆の民族問題に関するいくつかの改善策をここで提示してみたい。   第一に、新疆において、ウイグル族と漢族の人口の規模はほぼ同じであるため、カナダのケベック州などで行われているバイリンガル政策を参考にして、新疆の範囲でウイグル語を漢語と同じ地位の言語に昇格させることを検討する必要がある。一定の過渡期を設けるが、それが過ぎた後、すべての政府部門、公共施設などでは、厳格に実行しなければならない。このようにして、ウイグル族は中国語を学ぶだけではなく、漢族もウイグル語を学ばなければならない。 第二に、改めて少数民族の優遇政策を制定し、中国語を話せない、相対的に競争力の低いウイグル族の人々でも、漢族の人の移住で従来の安らかな生活を失うことのないよう保障制度を設ける必要があるだろう。 第三に、「宗教の自由」の政策の実行において、少数民族の宗教活動に対する干渉を減らすことに重点を置くことである。 第四に、人事的資源の配分において、漢族、ウイグル族とその他の少数民族は真の平等を実現するためには、ウイグル族の人はいつもナンバー・ツーである自治区主席しか担当できず、自治区書記に昇進できないという慣例を変える必要がある。 第五に、「新疆」(新しい領土)の呼び方は漢族本位の考え方の産物である。そのため、常にウイグル族の人々の非難に遭う。したがって、名称の変更の可能性も検討する余地があるだろう。   現代世界の国々のほとんどは多民族国家である。各国政府の民族問題への対応は、失敗の例もあれば、うまく行っているケースもある。市場経済の浸透と社会移動の加速によって、これからの中国の民族問題は更に厳しい挑戦に直面することになるに違いない。漢族の人々が伝統的に存在する「同族でなければ、その心は必ず異なる」という思想の束縛から脱出すると同時に、「漢族本位で武力を後ろ盾」とする従来の考え方に取って代わる適切な民族政策を制定し直すことは、一刻も猶予できないのではなかろうか。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- ★このエッセイは林泉忠さんの「天山腳下的『和諧』如何構築?————看新疆騷亂的本質」『明報月刊 2009年8月号』(香港)、をSGRA会員の張建さんが和訳したものです。 2009年9月16日配信
  • 2009.09.09

    エッセイ219:林 泉忠「天山の麓の調和社会をどう構築するのか(その1)」

    7月5日~7日、新疆自治区の区都ウルムチでウイグル族と漢民族との暴力衝突事件が起きた。それに対し、中国政府は、昨年のチベット事件などこれまで発生した類似事件と同様の手法で対応した。その特徴は主に次の3点が挙げられる。 第一に、中国政府は事件の性質を「殴打・破壊・略奪事件」と認定する。その背景には、自ら統治している地域に存在する民族間の矛盾を否認しその民族政策の失敗による責任追及を回避すると同時に、政府の武力による鎮圧の正当性を保つという思惑があると考えられる。第二に、事件の原因を国外勢力による企画に罪をなすりつける。これは、人々の視線を移すことにより新疆本土のウイグル族・漢族間の民族問題の重大さを薄めようとする狙いがあろう。第三に、インターネットや電話の切断を含む情報統制を厳密に行う。その目的は、事態のさらなる拡大を防ぐと同時に、事件に関する情報発信において主導権を握ることにあろう。しかし、これらの方法は果たして有効なのか?21世紀に入った今こそ、検討する余地があるのではないか。   まず、民族の矛盾と民族政策の責任回避という点については、政府のメディアは事件の過程を報道する際に、ウイグル族の暴力行為を強調するが、暴動化前の比較的平和なデモ行進および武装警察による厳しい取り締まりに関してはほとんど報道しなかった。また、事件の起因である広東韶関の旭日玩具工場においてウイグル族と漢族の間に生じた殴り合い事件でウイグル族の労働者が死亡した事件に関してもあっさりとしか言及しなかった。一方、政府のマスコミは、公開した写真と画像には、「7・5事件」におけるウイグル族の暴力行為を強調しているのがほとんどで、7月7日に憤怒した漢族が一斉に立ち上ってウイグル族に報復しようとした場面についてはなかった。 このような事件の対応はどうしてもバランスを欠いたと批判され、国際社会の世論を有効に導くことができなかった。更に重要なのは、ウイグル族の漢族に対する不信を取り除くには成功しなかったばかりか、さらに矛盾を激化させる新しい要因を作ってしまったとも考えられる。   ● カーディル氏の勢いの助長   国外勢力の介入説に関しても、直ちに確実な証拠を提示できなかったため、国際社会の世論に対する影響力がいささか弱かったと言わざるを得ない。また、民族政策の失敗を謙虚に反省せず、ラビア・カーディル氏が画策者であることを一方的に強調するのは、問題の焦点をぼかす疑いが持たれるにとどまらず、更に逆効果をもたらしているようだ。周知のように、チベットと異なって、いままで新疆はダライラマのようなチベット社会内で凝集力を持ち、同時に国際社会においても影響力をもつ指導者が存在しなかった。しかし、今回、カーディル氏が主謀者であるという政府の非難を、中国のマスコミが大いに報道したのは、皮肉にも、カーディル氏の無料の宣伝となり、不本意ながらもカーディル氏をウイグル族の反体制派指導者とさせてしまったばかりか、これまでばらばらだったウイグル族の各反抗勢力を統合させる切っ掛けを作ってしまったのではないか。   新疆の騒乱発生後の7月6日と7日、政府は情報を全面的に統制するには至らなかった。そのため、新疆においても官制報道以外の情報を別のルートで獲得することができた。しかし8日以降、飯否網(fanfou)や、Facebook、またTwitterといった主要情報ネットおよび多くの海外メディアのウェブサイトが閉鎖された。情報封鎖は、もちろん、迅速に情勢を安定化させる一面もあるが、このような手法は、多くの漢民族にも支持されていない。事実、ここ数年、中国国内では群集事件が多発し、インターネット利用者は政府の使い慣れている情報封鎖に対して多くの不満を持っている。同時に、このような情報統制の手法は、国際世論において中国政府の事件処理の合理性に対する疑問を増大させるばかりだ。 ● 経済発展優先政策の落とし穴 1980年代以前の中国の民族問題は、冷戦時期のユーゴスラビアのように、比較的安定していた。しかし、「改革・開放」が推進されてから、中国社会における諸矛盾が次第に表面化し、民族問題は注目される一つである。中国政府の少数民族地域の問題に関する考え方には、長期にわたり二つの盲点が存在している。 まず、経済発展優先政策の下で、辺境地域の少数民族に対する経済支援が安定維持の柱となった。政府は大量の資金と人力の投入を通して、ウルムチに高層ビルをそびえ立たせ、市の中心部は繁栄の光景を呈している。政府もまた多くの漢族の国民も、経済繁栄が民族問題を解決する有効な処方箋と考えている。「7・5事件」の翌日に、新華社通信は文章を発表し、いくつかの輝かしいデータを呈示した。すなわち、「30年以来、新疆の国民経済は年平均10.3%のスピードで増大した。去年、新疆の工業増加額は1790.7億元に達し、1952年に比べて274倍、また1978年に比べて16.6倍に増大した。食糧生産量も1000万トンを突破し、1949年の11倍、1978年の1.8倍となった。1人当たりの食糧の占有率も全国平均水準を上回った」。このような宣伝の仕方は、昨年のチベット事件後の中国メディアの行われたことと同じだった。 ところで、漢族のインターネット利用者の間では「私達はチベットや新疆に対してこんなに多く資金と人的支援を投入してきたにもかかわらず、どうして彼らは依然として喜んでくれないのか」ということがよく指摘されている。これはまさに政府と多くの人々の考え方の盲点を反映しているのである。また、経済が軌道に乗った後、漢民族社会も自由、人権、民主主義といったニーズに直面するようになったが、少数民族はさらに主要民族の漢族にない民族文化の危機感を抱えるようになった。(つづく) ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- ★このエッセイは林泉忠さんの 「天山腳下的『和諧』如何構築?————看新疆騷亂的本質」『明報月刊 2009年8月号』(香港) をSGRA会員の張建さんが和訳したものです。後半は来週のかわらばんでお送りします。 2009年9月9日配信
  • 2009.09.02

    エッセイ218:範 建亭「ハンディーを持Aった者の居場所」

    「ハンディーを持った者」と言ったら、あなたはどんな人を想像するのだろうか。僕は最初、それはもっぱら体の不自由な人や知恵遅れの人だと思った。だが、様々なハンディーを持った人たちが生活している施設を見学して、自分の考えが不完全であったことを知った。そして、先進国としての日本、工業国や競争社会としての日本のもうひとつの側面を見ることができ、いろいろと考えさせられた。 この夏、僕は二ヶ月間の短期研究の機会を得て、日本にやってきた。学部時代の指導教官のところで研究しているが、7月下旬、先生と一緒に長野県の現地調査に出かけた。それは先生の循環型農業に関する研究の一環であるが、工業や貿易などを中心に勉強してきた僕にとっては初めての経験となった。 私たちが訪問したのは、長野県小谷村にある「信州共働学舎」という施設であった。それは1974年に作られた心や身に不自由を抱える人たちのための共同生活施設である。現在87歳となる創始者の宮島真一郎さんは、若いときに羽仁もと子創立のキリスト教学校「自由学園」にて学び、卒業後自由学園に教師として残ったが、50歳にて退職し、父親の郷里である長野県小谷村にて心身にハンディーのある人たちと生活する「共働学舎」を始めた。長野県の施設の他に、北海道や東京にも施設と作業所などがあり、現在合わせて約150人がメンバーとして生活している。    「信州共働学舎」は2カ所に分かれ、小谷村立屋にある「立屋共働学舎」と、山道を1時間余り歩かなくては行けない「真木共働学舎」がある。「立屋共働学舎」は、北アルプスの裾を流れる姫川沿いの山里にある。そこに20数名のメンバーが生活しているが、米や野菜等の農作物作りの農業が中心となっている。水田や畑などの農地が約3ヘクタールであるが、主に近所の人から借りた田畑である。また、そこに和牛、山羊、鶏なども飼っており、味噌や醤油などの製造、木製の玩具作り、織りや染めなどの手作業も行われている。そして、「からすのパン屋さん」と言う製パン所もあり、村の人たちに販売している。 一方、「真木共働学舎」は山の奥にあり、交通が非常に不便。そこに辿り着くまでは、車が通わない山道を歩いて1時間半ぐらいかかる。かつてそこにはひとつの村があったが、近年の急速な少子高齢化によって過疎化が進み、また交通の不便さもあり、結局村全体が廃棄されてしまった。そこを利用して「真木共働学舎」が始まったわけであるが、いま10名ぐらいのメンバーがそこに住み、米と野菜作りのほかに、わら細工、木工製品製作やラグマット製作等も行い、自給自足の労働生活をしている。交通は非常に不便とはいえ、そこへ実際行ってみると、メンバーたちが茅葺き屋根の古い民家に住み、農業中心の質素で清らかな生活を送っていた。山々に囲まれ、景色がとても素晴らしい。隠居にも絶好の場所だと思った。おまけに、私たちが行った時はちょうど皆既日食が始まり、山の上から日食の様子がはっきり見えたことに感動した。    共働学舎の生活は基本的に農業に依存している。米と野菜はほとんど自給し、自分たちの作った作物で食べている。作業はなるべく機械を使わず、田んぼは今でも手で植え、手で刈ることを基本としている。また、いろいろな動物も飼っており、ミルクはヤギから採ったヤギ乳を飲んでいる。このような農業を中心とした自給自足の生活ぶりは、都会で生まれ育った僕には想像しにくいものであった。さらに、そこに生活している人が「普通」の人間ではなく、いろいろなハンディーを持った者であることについては、なおさら想像を絶した。 「ハンディー」とは、体の不自由な人や知恵遅れの人のことを想わせるのが一般的であるが、実際、「共働学舎」で生活しているメンバーには、身体障害者はごく一部しかなく、多くは精神的な問題を抱えている人たちであった。それは、生き方に迷った人、家庭から見放された人、家族を失った人、学校や会社に行きたくない人、競争社会についていけない人、人生をあきらめた人、などなどである。しかも、20代や30代の若い人が多いことに驚いた。 彼ら彼女らは、外見から、生活ぶりから、またはわれわれと会話をしている様子からも、全くの異様さを感じないが、施設代表者の話に聞くと、そこにいるメンバーは皆何らかの問題があるという。例えば、一人の男の子は、離婚を繰り返した母親から見放され、問題児になっていた。もう一人の男性は、子供の時お母さんが交通事故で死亡したのを目撃してから話すことができなくなった。一人の女性は若いときに夫と子供を亡くして絶望してここにやってきた。もう一人の女の子は自殺未遂でここに辿り着いたという。    「共働学舎」にやってきた理由は本当にさまざまであるが、集まったメンバーたちが皆と一緒に働き、共に生きている。もともと「共働学舎」とは、「共に働く学び舎」の意味である。どんな過去があっても、知恵や能力が低くても、ここに来たら、共同生活を通じて経済的にも精神的にも自立できるようになり、互いに支えあって暮らしている。また、働けば一定の給料ももらえる。こういう生活が好きになり、何十年も働いた人もいる。 私たちは立屋共働学舎に一泊し、メンバーたちと一緒に夕食と朝食を食べた。夕食後、一人ずつ今日一日の仕事を皆さんに報告してもらうことが慣例となっている。そして、和やかな雰囲気で全員で聖書を読み、聖歌を歌った。「無神論者」に近い僕からみて、家族の温もりを強く感じた。そのような「共働学舎」を見学して、生きることの意味、労働や助け合いの意味、豊かさや幸せの意味、現代文明の意味などについて、いろいろ考えるようになった。    日本は何十年の歳月を経て経済大国となり、豊かな社会を築くことに成功した。また先進国の中でも、日本は格差の問題が相対的に少ない平等な国でもある。しかし、いくら平和的な社会と言っても、市場競争原理が働く以上、まして常に頑張る事を要求されている日本社会において、競争に淘汰された人や競争社会に適応できない人は必ず存在する。また、同質・均一社会と言われる現代の日本社会では、異なったものに対する拒否・排外意識が強いため、決まった生活のレールや社会システムから離脱することは、人生の「失敗」を意味し、生き辛くなる。そういう人たちの居場所を提供しているのが、「共働学舎」のような民間施設であり、これらの施設が果たした役割は非常に大きいと思う。 一方、高度成長を続けている今の中国は、日本以上に「弱肉強食」「自己中心」の競争社会となっているため、ハンディーを持った者も大勢存在しているに違いない。しかし、その人たちは一体誰が面倒をみているのだろうか。弱者のことに関心を持つ人はどれぐらいいるだろうか。また、このような社会問題を政府に任せて片付けられるのか、調和のとれた平和社会をつくるために、われわれは何をすべきか。中国にとって、日本の経験や教訓から謙虚に学ぶべきことは、工業化や経済発展だけではないと改めて認識させられた。 現地の写真 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------