SGRAかわらばん

エッセイ236:ナリン・ウィーラシンハ「スリランカにやっと尊い平和が訪れた」

内戦の背景

1983年7月23日、スリランカの輝かしい歴史に汚点が付いた。当時スリランカ北部に駐在していた軍人13人が、秘かにその地域に活動を広げていた武装勢力によって殺害されたことがきっかけだった。このニュースが首都コロンボを駆け巡り、それに怒りを感じた一部の人々がコロンボ市内に住んでいたタミル人の商人や一般市民にその怒りを向け、彼らの家や会社に火をつけ略奪した。政府軍が殺されたこともあってか、残念ながら当時の政府が最初の数日間黙認していたこともあり、この暴動が次第に広がっていった。そして間もなくスリランカを30年近く苦しめた内戦が始まった。しかし、よく考えてみると、この暴動は愛国心の名を借りて行った単なる卑劣な強盗でしかない。この事変は、「7月暴動」あるいは「黒い7月」として知られるようになった。

読者の誤解を避けるために少し説明したい。当時、私の家族は郊外に住んでいたが、暴動が次第に私たちの町まで広がってきた。私たちの近所にそれまでとても平和に暮らしていたタミル人にも、暴徒が目を向け始め、彼らの生活や命が危なくなった。私の父は家の中に一週間近く近所のタミル人家族をかくまった。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。これはほんの一例に過ぎない。このようにスリランカ全土で、タミル人もシンハラ人も共に支えあいながら暮らしていることを理解していただきたい。

言うまでも無く、この暴動がきっかけとなって、スリランカの発展は妨げられ、社会は暗い影に覆われた。スリランカ全土に住んでいたタミルの人々はスリランカ政府に不信感をもち始め、沢山のタミル人が政治難民として欧米の国々へ移住した。そして、北部でそれまで秘かに武装活動をしていた若者たちが表舞台に現れ、堂々と「反政府軍」として活動し始めた。「政治難民」として国を脱出していたタミル人は彼らを様々な面で援助することになり、国内の武装勢力は凄まじい勢いで大きな団体となり、スリランカの内戦が始まった。この武装勢力はLTTEと呼ばれ、スリランカ北部と東部にタミル族の独立国家タミル・イーラム(『イーラム』はスリランカを意味するタミル語)を建国し、スリランカからの分離独立を主張した。

隣国インドの“援助”

当初劣勢だった政府軍は装備の充実に努め、1987年にLTTEを北部の町に追い詰めることができた。しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、テロ団体に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。スリランカの当時のジャヤワルダナ大統領はインドの圧力に屈した。インドとの交渉の合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、スリランカ政府が武装解除の義務を負うことになった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。

停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度は南のシンハラ人民族主義者が革命運動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。平和維持軍を自任するインド軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることを決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。

和平交渉の歴史

1989年に当選したラナシンハ・プレマダサ新大統領は、影響力が大きくなってきたインドの要因を排除するために、休戦を宣言し、LTTEとの交渉を再開した。これで、インド軍の存在意義はなくなり、1990年3月にインド軍は撤退した。同時にプレマダサは、南で反政府的な革命運動を起こしていたシンハラ人民族主義者を鎮圧することを決定し、その運動に参加していた大半の若者を殺害し、この勢力は壊滅した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には皮肉にも彼らを援助してきた元インド首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはプレマダサ大統領を暗殺した。

1994年に政権が交代してチャンドリカ・クマーラトゥンガ新大統領が当選し、再度LTTEとの交渉を再開したがやがて決裂した。1999年12月18日にはクマーラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、これにより彼は片目の視力を失った。

2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたがLTTEの爆弾テロが止まらなかったため、2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦崩壊を宣言した。これを受け政府側も2008年1月3日にノルウェー政府に対し停戦破棄を通告、同16日に失効した。

以上のように、スリランカ政府はこれまで4人の大統領が和平交渉によって解決を試みたが、そのどの機会においても、和平交渉の裏でLTTEが武力的により強くなり、その末に再度内戦が勃発した。

平和の実現

5人目の現在の大統領マヒンダ・ラージャパクシャも和平交渉を始めたが、これまでの彼らの行動や裏の顔をよく理解していたので他に手段がなく、LTTEを武力的に制圧した。そして、2009年5月18日、国民の誰もが待ちに待った平和がスリランカに訪れた。

欧米の人権の定義?

この内戦の終結に向けたテロとの戦いが終盤になりかかった時、意外にも欧米の国々がスリランカ政府に停戦するように圧力をかけて来た。彼らの言い分は、この内戦によって一般市民の人権が著しく侵害されているためとのことだった。その圧力はすごいものだった。毎日のように欧米の国々から大臣が訪れた。「停戦しないと経済的な制裁をかける」との話まで持ち込んでいた。この背後にいたのは上述した7月の暴動で政治難民となって欧米諸国へ移民したタミル人や、30年間に広がった彼らの子孫の選挙権の力だった。上述した1987~89年にスリランカ南部のシンハラ人が起こした独立運動を制圧するために当時の政府が行った残虐な行為に対して、人権の観点から声を上げた欧米の団体はいたであろうか。

私には今でも疑問がある。それは「欧米にとっての人権って何だろう」、そして「欧米にとってテロとはなんだろう」と。スリランカの状況は、9.11テロ以来、欧米の国々が謳ってきたテロとの戦い、そして、イラクやアフガニスタンの国々にもたらした人権と同じものなのか?

スリランカの平和はこのように本当に平和を望んだ人々の汗・涙・血と並々ならぬ努力によって実現できた。

  * * * *

最後にスリランカと日本の友好を深めることにもなった、お釈迦様の言葉を引用して終わりたい。第二次世界大戦後、1951年に開催されたサンフランシスコ対日講和会議で日本の戦争責任が問われたとき、当時のジャヤワルダナ大統領は下記のブッダの言葉を引用して演説し賠償請求権を放棄した。
   
 人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる
 人は憎しみによっては憎しみを越えられない
 これは永遠の真理である
 
“Never here by enmity are those with enmity allayed,
 they are allayed by amity this is timeless truth”

日本は広島に原爆を投下したアメリカとその後同盟を結び、今や互いに世界の1、2位を争う経済大国となっている。それは、上述したブッダのお言葉通りに憎しみを捨てたからだと思う。スリランカの内戦は広島の悲惨な事件には比べられないかもしれないが、スリランカが多宗教・多民族のユニークな国として、いっそう輝くことを願いながら終わりにしたい。
 
————————————————–
<Nalin Weerasinghe(ナリン・ウィーラシンハ)>
2007年電気通信大学院電子工学科において工学博士号を取得。専門は通信工学。現在シュルンベルジェ(株)にて電気エンジニアとして勤務。SGRA 研究員。
————————————————–

2010年2月17日配信