SGRAエッセイ

  • 2010.02.10

    エッセイ235:韓 京子「ここは雪国かい!」

    今夜も雪です。とにかく今年の冬は寒い。寒いだけじゃなくすご~い雪でした。1月はじめの大雪は夜中に降り出したのですが、積もる積もる。よく積もるな~と思ってながめていました。久しぶりの大雪に「しんしん」と雪が積もるってこれだったよねって当時は興奮しておりました。 一気に降り積もった雪はソウルや近郊(その後の降雪では地方も)をパニックに陥らせてしまいました。雪に強いと思っていた韓国が意外ともろかったのです。以前、東京に留学していた頃、ちょっと降った雪のために終電に近い電車が橋の上で止まったことがあって、「韓国じゃありえない」と言ってたのですが前言撤回です。まったく交通麻痺状態でした。冬休みではあったのですが、集中講義期間でその日は折しも試験の日。朝から、「学校のホームページに今日と明日全講義休講って出てますが、本当に行かなくてもいいんですか」と学生から問い合わせの電話で、その深刻さに気付きました。ちなみに集中講義のあった某大学は構内がすごい坂道なのです。スキージャンプの競技用のような……。休講のおかげで私は外に出なくて済んだのですが、妹(友達の弟も)は車で30分の勤務先に4時間近くかかってやっとたどり着いたそうです。直接運転する自信はなく、覚悟を決め武装をして地下鉄での出勤でしたが途中で何度も引き返したくなるほど過酷な道のりだったようです。中には登山用のアイゼンを装着して歩く人もいたそうです。 とにかく、何日も除雪作業が行われず家を一歩出ると、「ここは雪国かい!」って思わずつっこみたくなるほど辺り一帯が雪でした。100年ぶりの大雪といわれるのですが、そう言われても、「経験者生きてません」って感じでした。とりあえず、車道の除雪から始まったのですが、除雪というより雪を片方に片付けるようなもので、車線が雪で見えないだけでなく、片道一車線がなくなっている状態でした。道路はその後、ブルドーザーとショベルカーとダンプトラックが出動し、除雪作業をしてくれたのですが、路面は思い切り傷んでしまいました。それでも幹線道路ならば山積み状態の雪を別の場所へと運んでくれるのですが、車道でない道や団地内の道はところどころにできた雪の山がずーっとそのままでした。 知り合いの先生は酔っ払って転んだ拍子に半端な除雪作業のため出来たこの小さな氷山に顔面をぶつけ、めがねは真っ二つに破壊、額と頬から大量出血するはめになってしまいました。一瞬、酔いが醒め「いったいどうして。何にぶつかったんだ」って思ったそうです。 ここ数年雪が困るほど降るってことはめったになかったので、なんかなつかしい気もしました。待てど待てどバスは来ない。坂道は3歩進むと2歩下がる。滑らないよう摺足で歩くせいで足はかちんかちんで感覚なし。何年ぶりかに味わったしもやけ。そして、なつかしい思い出を想起させてくれたものがもう一つあります。出ました。またまた登場。都心のスキー。私がこれをはじめて見たのは25年も前のソウル市江南区○○洞。ニュースに出たのを見て、そういえば昔もいたなあと思っていたら、出現地域も同じでした。一族かも知れません。翌日のニュースによると道路交通法違反らしいです。まあ坂道の多い地域ですし、やってみたいという心情も理解できるのですが、法律は守りましょう。罰金の額が大きくないので再発しそうな気はします。罰金関連で付け加えると、これからは自分の家の前に積もった雪を 片付けないと罰金が科されるそうです。 気温が上がると、今度は新たな問題発生。大雪だったのでちょっと気温が上がったところで完全に雪は溶けるはずがなく、あちらこちらの建物でできたつららが落下したり、ちょっと溶けてまた凍りを繰り返してできた氷の塊が屋上から落下するという、ぞーっとする光景が繰り広げられています。除去作業ができなかった学校構内のある建物には今でも「接近禁止―氷落下注意」の張り紙が貼られバリケードが置かれています。 雪が降るとはじめは白くきれいでも、数日たつと道も車も非常に汚くなります。洗車くらいすればと思うのですが、氷点下14度の世界では 凍るので洗車不可能なんです。どの色の車も、また、高級車であってもみんなどろどろでいっしょでした。笑える光景でした。 一方、塩化カルシウムや塩化ナトリウムという除雪、融雪剤はまきすぎて在庫がなくなり、塩そのものをまいたりもしたらしいです。膨大な量を使ってしまい、土壌や河川の塩分濃度が高くなるとかで問題視されています。車にも悪く、きちっとあらわないと錆びてしまうそうで気温が氷点下じゃなかったある日、みんな洗車にかけつけ、すごい行列になっていました。車も車なのですが、私は今年購入したロングブーツがところどころ白いしみができてしまい、革にも影響あるよな、うかつだったと泣いております。ソウルの2010年の1月は、心が錆びてしまいそうな冬でした。 ------------------------------------------- <韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoungja> 韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、檀国大学日本研究所学術研究教授。SGRA会員 ------------------------------------------- 2010年2月10日配信
  • 2010.02.03

    エッセイ234:今西淳子「アジア市民の育成を掲げた留学政策を」

    鳩山政権になって、にわかに東アジア共同体構想が語られるようになった。しかし、アジア各国との首脳会議で言及されても同床異夢であると指摘されたように、いまだその実態が何であるのかほとんどつかめない。近年、東アジア諸国においては、めざましい経済発展に伴って中産階級が生まれた。また各国とも欧米、特にアメリカの文化や教育の影響を非常に強く受け、さらには交通情報技術の発展による情報化と人的交流が進み、以前に比べて共通する要素がめざましく増加したことが指摘されている。しかしながら、この地域では、言語や宗教や文化の多様性に加えて、未だに政治体制が異なっており、各国の社会基盤も、さらには国民の思想基盤も一様ではない。このような状況のもとでは、政治の主導、あるいは経済による枠組み作りと同時に、その地域の人々の問題意識の共有化への地道な努力が必要だと思う。まずは、アジア人、さらには、鳩山総理が語る「個の自立と共生」を包含する「アジア市民」の育成をめざした国際教育政策を、東アジア各国の教育機関が共有するところから始めるべきなのではないか。   日本では、1983年に中曽根内閣で提唱された「留学生受入10万人政策」が2001年に達成され、先日発表された日本学生支援機構の統計によれば、2009年5月の留学生数は132,720人となった。これは前年と比べて7.2%増で過去最高である。そして、現在、福田内閣で開始された留学生受入30万人政策が進んでいる。 戦後賠償に代わるものとして1954年に始まった国費奨学金(現在の文部科学省奨学金)は、アジア各国から優秀な学生を招き日本の先進技術やシステムを学んで帰国後に母国の発展に寄与することを目的としていた。その後、経済大国となった日本のODAの利用もあり奨学金総額も増え、また留学生に対するアルバイトの許可等により、中国と韓国を中心に多くの留学生が渡日するようになった。受入体制の不備による混乱等から批判もあるが、これらの留学生政策はそれなりの成果をあげてきていると思う。以前に比べて大学や社会に外国人が増え、日本人も「異邦人」に慣れてきた。 ところが、バブルがはじけ、さらには少子化が進むと、日本の留学生政策や施策の目的が大きく変化し、学生不足に悩む大学の定員割れを防ぐため、あるいは留学生に卒業後就職してもらって減少する労働力を補うためという、日本の経済活動の救済が目的のひとつに組み込まれ、「高度人材の育成」という「理念」をもって語られるようになった。 一方、2008年に発表された「留学生30万人計画」は、日本を世界により開かれた国とし、アジア、世界の間のヒト・モノ・カネ、情報の流れを拡大する「グローバル戦略」を展開する一環と位置付けている。大学学部における英語による授業の推進など議論も多いようだが、日本自身が変わらなければいけないということにようやく気付いたと言えるのかもしれない。   日本の大学や大学院で勉強する留学生は、60%を占める中国を中心に、アジア圏の出身者が90%を越えるにもかかわらず、アジア域内での人的交流を強調する記述は従来の留学政策には見られない。東アジア共同体をめざすのであれば、アジアからの留学生が圧倒的に多いという実体をふまえて、彼らのひとりひとりが「アジアの一員である」という意識、さらには「アジアの市民」であるという自覚を促すことを留学政策の目的のひとつとして掲げることは効果的なのではないだろうか。具体的には、エラスムス計画などで「EU市民の育成」を目的として域内の青少年交流を積極的に推進してきたヨーロッパ共同体の経験が参考になるだろう。日本の各大学は、日本だけではなく、アジア全体の発展に寄与するアジア市民の育成をめざすという意欲を示してほしい。そして、この考え方が東アジア各国の大学にも共有されることを望む。「良き国民」であると同時に「良きアジア市民」であることへ人々の意識が展開していくのには、長い時間が必要とされているかもしれないが、まずはスタートすることが大切である。なぜならば、これはやがて普遍的な価値観がこの地域に普及することにつながるはずだから。   具体的には、短期留学の推奨である。従来、日本の大学が受け入れる留学生は、学位取得を目的とした長期滞在者が多かった。このようなタイプの留学は、勿論これからも続いていくだろうが、通信と交通技術の爆発的進歩によって人々が自由に移動できるようになった今日では、アジア各国において、交換留学や1年未満の語学研修、あるいは異文化体験を目的とした短期留学を大いに奨励してほしい。短期間であっても若い時に経験した異文化体験は、その人のその後の物事の判断に大きな影響を与えるという調査もある。日本と留学生の母国だけではなく、アジア地域内で大量の若者の相互交流が行われるような東アジア地域としての教育政策を、アジア各国が協力してうちたててほしい。ひとりの若者が複数のアジア諸国、あるいは域外の国にも滞在し、この地域の多様性と同質性を体験することを、非常に大きな規模で推進してほしい。 「東アジア」を提唱するとしても、当然それは開かれていなければならず、他の地域を排除するものではない。短期留学の推進により、アジア各国だけでなく欧米からの留学生の増加が報告されているが、これは「東アジア市民」の育成という目標に何ら反するものではなく、むしろ「良き市民」意識の醸成において、大きなプラスとなるであろう。 短期留学を非常に大きな規模で促進するためにはアジア各国における大学間の単位の交換システムの整備が急務であるし、専門の担当者の育成、宿舎の整備、ボランティアの組織化、リスクマネジメントなど、多くの課題をすみやかに解決していかなければならないだろう。単位交換システムについては、むしろ日本の大学の方が消極的であるとも聞く。大局を見て戦略的にグローバル化を進めることが必要であるということかもしれない。そして、内向き傾向がますます強まる日本人の若者たちには、自分の大学、自分の国に引きこもらずに、在学中に一度は外へでて異文化を経験しなければならないような環境作りが望まれる。 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2010年2月3日配信
  • 2010.01.27

    エッセイ233:マックス・マキト「マニラ・レポート2009年冬」

    今年も年末年始をマニラで過ごすことができた。12月9日、マニラ空港到着後恒例になったJOLLIBEE(マクドナルドが苦戦している現地のファースト・フード)のTWO PIECEチキン弁当(200円ぐらい)は、迎えの車中で食べざるをえなかった。お店でほかほかを食べられなかったのは、到着時刻の午後1時半から始まっているGOOD GOVERNANCEプロジェクトのワークショップで総括発表をすることになっていたからである。妹がマニラの渋滞を上手く避けてドライブしてくれたおかげで、質疑応答の時間にも間に合った。参加者は思ったより少なかったが、メンバー全員の前で、このプロジェクトの全体構造について意見を述べることができた。このプロジェクトにおいて、教育、水道、健康という分野に対する政府の支出は、貧困者の人的資本(HUMAN CAPITAL)に対する支出と見なされるべきであり、それらの支出により、貧困者の生産性も高まるので、自然に共有型成長に貢献すると主張した。 尚、先週、プラハで開催された15ヵ国が参加した報告大会で、このプロジェクトの報告がモデルになると世界銀行を含む助成側の評価を得た。12月のワークショップがガラガラだったのでがっかりしたが、このニュースは心強い。 3ヶ月ぶりに実家に帰って、家族から話を聞いた。2009年9月にONDOYという大型台風が、我が家のある川沿いの谷にある地区にもたらした被害は、マニラ都内で最も大きかった。記録的な雨量はアメリカで大被害をもたらしたハリケーンKATRINAの倍で、マニラの1ヶ月分の平均雨量(9月はフィリピンの雨季のど真ん中)が6時間で降ったという。幸い、番犬を含む家族全員無事だったが、洪水はもう少しで2階まで達するほどだったそうである。しかしながら、最大被害地でありながら、市長の懸命な努力により、マニラで一番早く回復した地区だとされている。 家族の中で最も被害を受けたのは、3人のお手伝いさん(KASAMA、つまり「一緒に住む仲間」と呼ぶ)だった。フィリピン人の習慣であるのか、台風の後に家族の安否を聞かれたとき、彼女たちは笑顔で「家が流されたから家の問題なんてないさ」と答えたそうである。実をいうと、親子3人のお手伝いさんは必要ではないのだが、社会福祉活動と考えて、無理してもKASAMAとしている。要請はないけれども、僅かなクリスマス・ボーナスをあげることしか僕にはできない。 いや、そうではないかもしれない。僕の研究テーマは「共有型成長」である。彼女たちのような境遇の多くの人々のためにも僕の研究の必要性があると、改めて痛感した。 12月17日に、SGRA顧問の平川均教授がマニラに到着した。先生との共同研究のおかげで今回もマニラの訪問調査をすることができた。共有型成長に大きく貢献しうる自動車産業の調査をしている。政府(通産省)、大学(フィリピン大学、アジア太平洋大学)、産業(トヨタ、フォードなどの組み立て企業の役員、下請け企業協会会長、フィリピン自動車競争力機構長など)、マスコミからヒアリングを行った。平川先生はクリスマス・イブに日本に帰国したが、僕は日本に戻る1月9日の前夜まで調査を続けた。 平川先生との自由時間のメイン・イベントは市場(いちば)にいったことかもしれない。平川先生は、市場の隣にある郵便局で、世界への年賀状を投函した。僕は「ちゃんと届きますように」と心の中で静かに祈った(先生は「大丈夫」と僕より楽観的だった)。この機会に、僕は市場の上にあった選挙登録所に寄った。今年の5月に行なわれる大統領選挙に僕の高校時代の同級生が出馬するので投票したいが、東京のフィリピン大使館の選挙登録に間にあわなかった。運良く僕がマニラ滞在中に政府が選挙登録期間の延長を決めたからだ。今のところ、一般調査では、同級生の彼が一番人気であるが、そうではなくても投票する努力は市民(同級生?)の義務ですね。幸いに、平川先生も退屈せずに、市場観光を楽しんでいたようだ。 相変わらず、フィリピンの自動車産業界は大騒ぎである。自由貿易派(主に輸入業者)と保護貿易派(現地生産者)との亀裂が依然として大きい。僕はできるかぎり自由貿易派の言い分を全面的に否定しないようにしながらも、一時的な保護を弁護している。大統領は自動車産業に対する保護装置のための法案を国会で審議するよう議会に要請したが、大統領選挙が迫っているので、議会はもうそれどころではないようだ。 このような状況のなか、ペニンシュラ・ホテルで会った下請け企業協会の会長は、「まだ先が見えない」と言いながら、工事中のビルに僕らを案内してくれた。そこで自動車産業関係の人材を育成する予定だそうだ。「もし宜しければ、マニラ滞在中はここに事務所を構えれば?」と誘われた。平川先生も短期滞在用の部屋に泊まればいいでしょうと。寛大なお誘いに、僕達は照れるばかりだったが、次回は是非その可能性を模索したい。このような積極的な態度が基になって、彼の系列が関わっている三菱自動車の日本社長が「フィリピンには潜在力があるので、我々はフィリピン政府の応援があるという前提で、更に投資する心構えがある」という昨年12月の発言を生み出したのであろう。 このような間にも、中国などからの格安の完成車がフィリピン市場に出回りつつあり、消費者にその便益を与えながら、現地生産者から仕事を奪っている。長期的にみても現地生産業に悪い影響しか与えないであろう。フォード会長は、2時間もくださったヒアリングの冒頭から、「日本の中古車のフィリピン進出は、先進国の行動として相応しくない」と強調した。その前にインタビューした通産省の人は「今の状況では、保護政策をとったとしても日本人から日本人を救うだけだ」と話していた。フィリピンへ自動車を輸出するのも日本の企業だし、その打撃を受ける現地の主な生産者も日系企業だからだ。勿論、僕はできるだけ日本を弁護してみたが、事実は否定できない。 今回の調査に関する新聞記事は下記からご覧ください。 BusinessWorld Manila Bulletin 毎年クリスマスの夜に調査先のスラムでサンタ・クロース役をしている中西徹教授が、自宅から電車一本で行けるところで忘年会(?)をしてくれた。中西先生が育ててきた調査対象の子供たちが5人、フィリピンの一流大学に入学できたそうである。これは大いにフィリピンの共有型成長に貢献できると期待している。やはり、手厚くサポートすればできるのですね。 僕が行っているSGRAとUA&P(アジア太平洋大学)との共同研究を継続し公表していく活動について、CENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)財団と正式な関係を交渉中であり、アドバイスと支援をお願いした。勿論平川先生も今西代表もサポートしてくださっている。日本からの暖かい応援のおかげで、CRCの役員でもあるヴィリエガス教授は概ね前向きである。 今回のマニラ滞在中、生まれて初めてフィリピンのフランス料理をいただいた。フィリピン自動車競争力機構の機構長が平川先生と僕を招待してくれ、僕達の研究について話し合った。高級レストランだったが、ランチの後に政府の人とのアポイントがあったので、フランス人のように数時間かけてはいられなかった。僕の共有型成長の研究は、時間的かつ資金的にゆっくり味わう余裕はないかもしれませんが、みなさん、今年も宜しくお願いします。 マニラの写真をご覧ください。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC;現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、(財)CRC研究所研究顧問。 -------------------------- 2010年1月27日配信
  • 2010.01.20

    エッセイ232:オリガ・ホメンコ 「アナスタシア:古い伝統を守る若きウクライナ人」

    彼女はジャーナリズム学部を卒業して、今大学院で歴史学を学んでいます。アナスタシアさんと言いまして、26歳で、2人の子どもの若き母親です。長男は2歳で、次男は6カ月です。そして母親の仕事と大学院の勉強を両立しながら、大人と子供むけの子守歌のクラスを開いています。 アナスタシアさんが長男をみごもって「母親学級」に参加したとき、そこでは育児方法だけでなく子守歌も教えていました。子守歌は子どもが初めて聞く言葉なので、赤ちゃんと母親の最初のふれあいの「時」になると、先生が言っていました。しかしながら、なぜかそのときに教えてもらった歌は全部ロシア語でした。ウクライナは独立してからもう18年もたっているのに、若い母親に教えられているのはロシア語の子守歌だったことに驚きました。あかちゃんが生まれて初めて聞く歌なのですから、その子の潜在意識の中に残る歌はウクライナ語ではなくロシア語になる可能性が高いと思いました。ウクライナ人としてのアイデンティティを強く認識しているアナスタシアさんは、それではいけないと思いました。 実は彼女が子どものとき、まだソ連時代でロシア語の教育が政治的な政策として実施されていた頃に、キエフでたった5%しかなかったウクライナ学校に通っていました。そこでは授業はみなウクライナ語でしたが、出世するためにはロシア語が必要だと子どもたちも分かっていました。当時、言語政策の一環として、ロシア語は「都会語」、ウクライナ語は「田舎語」という意識を教えられたので、子どもたちは「ロシア語は格好いい」と思い込んでいて、この学校の授業や家ではウクライナ語だったのにもかかわらず、休み時間にはお互いに「格好をつける」という意味もあってロシア語で話していました。しかしながら、高校生になった時、アナスタシアさんは学校の休み時間でもウクライナ語で話すことにしました。最初はからかわれたけれども、そのうち皆慣れたようでした。 大学の頃には、もう独立してから10年も過ぎ、言語に関する法律も制定・施行されたので、公式的な場だけではなく、日常的にウクライナ語を話す人が非常に多くなりました。しかしながら、この母親学級では、なぜかまだロシア語の子守歌が教えられていました。そこで、先生に「どうしてウクライナ語の子守歌を教えないのですか」と聞くと、「知らないから」という答えでした。70年間もソ連時代が続いたのでロシア語が日常生活の中にしみ込んで、子守歌までロシア語になったとことを悲しんだアナスタシアさんは、自ら子守歌を探す活動を始めました。自分の赤ちゃんにはウクライナ語で子守歌を歌って、子どもたちをウクライナ人として育てたいという強い願望があったからです。 図書館や資料館などに出かけて資料を収集し、関係する音楽のCDを全て買い集めました。そうすると、ウクライナの子守歌の本がないことに気付きました。遊び歌、伝統行事の歌、お祭りの歌などの本はあるのに、楽譜つきの子守歌だけの本は見つかりませんでした。本がないから人々がウクライナの子守歌を習うことができなかったのだと思いました。 子どもが生まれて3ヶ月たった頃、アナスタシアさんはすでに20くらいの子守歌を集めていたので、自分と同じくらい年齢で子どもを持っている親たちのためにクラスを開きました。そこで2週間に1回程度で子守歌を教えています。今、そのクラスに訪れるのは母親たちだけではなく、若いお父さんたちや年よりのおばあちゃんたちもいます。彼らもやはり自分の子どもや孫に子守歌を歌いたいという気持ちが強いのです。そしてロシア語ではなく、ウクライナ語で歌ってウクライナの民族意識を持った子どもを育てたいという思いも少なくありません。このクラスはもう2年にわたって行われています。全くボランティアです。 今年のクリスマスには、初めて子守歌とは別に、聖書をテーマとする伝統的な劇も勉強しました。参加者の間で役を分けて練習しました。2歳になった子どもたちも参加しました。よりたくさんの人に見てもらいたいという気持ちで、旧歴で祝うウクライナのクリスマスの1月7日に、町の広場で上演しました。   アナスタシアさんに「どうしてこの活動をしているのですか」と聞くと、「自分の伝統や習慣に興味があります」と恥ずかしそうに答えます。しかしながら、このような個人的な活動のおかげで、若いウクライナ人たちは自分のアイデンティティに気づき、周りの人々にもそれを気付かせ、自信を与えています。ウクライナの伝統がこれからもちゃんと生き続けていくように、そしてウクライナが盛んになるようにと。 ★このお話は、2010年1月23日(土)に、NHK BSで放映されます。 ------------------- <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------ 2010年1月20日配信
  • 2010.01.13

    エッセイ231:包聯群「はじめてのオランダ旅行」

    2009年7月にオランダのユトレヒト大学で開催された第7回国際バイリンガルシンポジウムに参加した。ヨーロッパに行くのは初めての体験であり、シンポジウムでは、著名な社会言語学者の講演も予定されていたので、準備の段階からわくわくしていた。オランダの入国ビザを取るためには、仙台から東京まで行かなくてはならなかったが、シンポジウムに参加できることを考えると、とても楽しみで、その道のりも別段苦にならなかった。 7月8日の午後東京を出発し、長い旅が始まった。11時間以上も飛行機に乗るのは初めてのことである。機内スクリーンのフライト情報をチェックしながら楽しいひと時を過した。オランダと日本は8時間もの時差がある。飛行機から降りたとき、日本ではもう寝る時間なのに、オランダはまだ昼間のまっただ中だった。それにしてもまったく「未知の世界」に突入したようで、言葉、駅の看板表示から電車の開閉ボタンまで目に入るあらゆるものが新鮮に感じた。普段英語を話す機会はほとんどないが、一人の旅なので何でも「自分で」解決しなければならない。幸い、言語は、「環境」さえあれば何とかなるという不思議な面があるので助かった。 飛行機を降りる前から緊張感に包まれ、ユトレヒト大学に行く地図の案内を見ながら、頭の中の「言語の整理」を始めた。大学に行く道を英語でどのように尋ねたらよいのか、何番線の電車に乗るのか、タクシーに乗るには、どのような言葉で表現すればよいのかなどなどのことで頭がいっぱいであった。ちょうどそのとき、ふっと思いついたのが、隣席にいる女性に行く道を尋ねてみることだった。これは「事前準備になる」と思い、ちょっと安心した。しかし、その喜びはあまりにも短かった。私は地図を指差しながら彼女に必死に話しかけた。そうすると、彼女は自分はフィンランド人なので、アムステルダムのことはほとんど知らないという。このような答えが返ってくるとは想定外だった。さきほどまで彼女は大勢の仲間と英語で話していたのに。また日本から一緒にアムステルダムを目指しているのに・・・という思いだった。普段はアジア系以外の人との交流が少ないせいか、私にとっては、ヨーロッパ人がみな同じように感じられてしまっていたのだ。結局、何の情報も得られず、すべてがスタート地点に戻ってしまった。しかし、彼女と会話を交わすことによって、プレッシャーなのか、緊張感なのか、他の理由があったのか不明ではあるが、私が急に英語圏に入ったことを実感し、英語の単語も徐々に記憶が戻ってきているような気がした。これは私の初めての英語圏の旅の貴重な体験となった。単語や感覚を徐々に記憶からとり戻した私は、飛行機から降りてからも怖がることは何もなく、尋ねられた相手が理解できない場合には、言語の「助手」である「手振り身振り」を使い、一人で無事にアムステルダムから電車に乗り、ユトレヒト市を目指した。 会議が開催されるユトレヒト大学はオランダ最大の大学である。ユトレヒトは首都アムステルダムから30キロほど南に位置するオランダの第4の都市で、ユトレヒト州の州都でもある。アムステルダムから30分ぐらい電車に乗る距離だった。電車を降りてからタクシーに乗り、雨の中の街の風景を観賞しながら、20分ぐらいかけてユトレヒト大学にたどり着いた。しかし、受付をする場所を探しても見つからず、聞いたところ、その場所は臨時に市の中心部へ変更したという。この「臨機応変」は日本とちょっと違うところだなと感じた。ちょうど困っていたときに、私と同じように受付場所を探している地元の3人の女性に出会った。そこで、私たち4人は一緒にタクシーに乗り、受付をしている場所へ出発した。タクシーから降りる際、私は自分のタクシー代を一緒に乗った「仲間」にあげたが、なかなか受け取ってくれなかった。彼女たちが言うには、「あなたは遠くから来たお客さんだから」。3人はとても親切でずっと笑顔だった。こうして無事に受付をすることができ、会議の参加者と合流した。   国際バイリンガルシンポジウム(ISB)はバイリンガル学界において最も影響力をもつ最大の国際会議である。1997年に設立され、2年ごとに500人を収納できる施設を持つ大学にて開催することとなっている。第1回と第2回(1999年)はイギリスのニューカッスル(Newcastle)、第3回はイギリスのブリストル(Bristol)にて開催された。第4回はアメリカのアリゾナ(Arizona)、第5回はスペインのバルセロナ(Barcelona)、第6回はドイツのハンブルク(Hamburg)にて開催された。次回の第8回は2011年にノルウェーのオスロ(Oslo)で開催されることが決まっている。 今回は70以上の国と地域から総勢500人を超える学者が出席した。会議は四日間にわたって、6人の基調講演、99の分科会およびポスター発表に分けて行なわれた。名簿によると、日本からの出席者は私一人であったが、中国大陸からの出席者は4人、南京大学、南京師範大学、上海大学からの学者であった。ヨーロッパからの学者が多数を占めている印象を受けた。 会議のテーマは、第二言語習得、バイリンガルの使用、接触による言語変異、コードスイッチングの文法的研究、バイリンガル児童の文法発展状況、言語接触現象、言語消滅、言語維持、言語政策とバイリンガルイデオロギー、言語シフト、バイリンガル心理言語学研究、バイリンガルコミュニティーと移民の社会言語学研究、コードスイッチングの社会言語学研究などであった。 私が発表を行った第59セッションのテーマは「中国の都市化、言語接触と社会バイリンガル」、「中国語との接触による言語変異」であった。オランダのLeyden大学のMarinus van den Berg教授とロンドン大学の李嵬教授が本セッションの議長を務めた。李嵬教授は、「中国語とグローバル化」というタイトルのセッションの議長も担当した。南京大学の徐大明教授は「言語政策とイデオロギー」と題した第23セッションの議長を務めた。私が発表した論文のテーマは「ドルブットモンゴル族コミュニティー言語―混合言語を事例としてー」 であった。 今回の会議を通して得られた最大の収穫は、地域の言語を分析する際の理論や知見などを参考にしている多数の著名学者の講演を聞き、そしてその学者たちとの交流ができたことである。例えば、社会言語学界の著名な言語学者Thomason氏(Thomason and Kaufman. 1988. 《Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistic》は言語接触を研究する多くの研究者に引用されている)の講演を聞くことができた。また自分の研究を紹介したところ、彼女が興味を持ってくれたので、大変うれしかった。 そして、会議の合間を見つけ、学校のキャンパスの見学もした。こちらの大学の建物は中国、日本、台湾、香港などの国や地域のそれと異なり、非常に鮮やかな色を使っているのが印象的だった。例えば、赤、黄色、緑などの色が混合した建築物もあった。このような飾り方が駅周辺にもみられた(写真をご覧ください)。 12日夕方に会議が無事に終わった。13日に、南京大学と南京師範大学の先生たちとともに、ユトレヒトからアムステルダムへ移動した。そして、午前中は都市の中心部にある川の水が流れる音を聞きながら都市の建築を観賞した。午後はゴッホ美術館を見学することもできて、とても有意義な一日を過した。オランダ訪問はゴッホの生涯に関する知識を増やす絶好なチャンスともなった。 14日の朝、日本に戻る準備をし、一人でアムステルダム駅へ移動した。夕方の飛行機であるため、空港まで行くにはまだ早かっので、荷物を駅のロッカーに預けた。クレジットカードを使えば、現金よりはるかに安くて便利であった。 商店街を一人で歩き、駅前の街をゆっくりと観賞した。お土産を販売している店に入ると、アジア系の女性が話しかけてくれた。話をしているうちに、不景気により、旅行者が非常に減少したことにもふれはじめた。経済不況が世界中に打撃を与えているなと感じた。でも、町中をみると、人々はのんびりと話をし、広場ではビールを飲みながら歌を歌っている姿も見かけるので、とても緊迫感を感じている雰囲気ではなかった。 今回の旅でアジアと異なる文化を体験できたことは私にとって貴重な収穫となるに違いない。 オランダ旅行の写真 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lianqun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2010年1月13日配信
  • 2010.01.06

    エッセイ230:温井寛「第3回在日本中国朝鮮族国際シンポジウム」報告

    SGRA研究員の李鋼哲さんにお願いして、環日本海総合研究機構事務局長の温井寛様に12月に東京で開催されたシンポジウムの報告を書いていただきましたのでご紹介いたします。尚、李さんからは「お蔭様で大盛会でした。われわれはお金もなく、事務所もなく、専門スタッフもない状況ですが、国内外から200人参加してくださり、内容も非常に充実していました。渥美財団も名義後援してくださってありがとうございました」というメールをいただきました。   ■ 温井 寛「第3回在日本中国朝鮮族国際シンポジウム」報告   「東北アジア共同体の可能性とコリアン・ネットワークの役割」をテーマにした国際シンポジウムが12月12日、東京の目白大学で開かれた。このシンポジウムは2001年12月の第1回、2005年11月の第2回に次ぐ第3回目となる。そこでシンポジウムの概要の紹介と若干のコメントを述べたい。   今回の国際シンポジウムは、日本にある朝鮮族研究学会(李鋼哲会長)が中心となって組織したもので中国の朝鮮族民族史学会(黄有福会長)、韓国の東北亜共同体研究会(李承律会長)の三者の共催で開かれた。冒頭あいさつに立った北陸大学教授でもある李鋼哲氏は、日本の政権交代で登場した鳩山政権が「東アジア共同体」構想をかかげていることを踏まえ、「国境を越えるアクターとして国家間・民族間の交流に重要な役割を果たしているのは朝鮮民族にほかならない」と指摘。そこに、このシンポジウムの国際的意義があると強調した。 基調講演では、最初に中国民族大学教授でもある黄有福氏が「グローバルコリアンネットワークと東アジア共同体」と題して問題提起。東アジアには2000年前から経済文化交流の歴史があり、それを踏まえて朝鮮民族がネットワークを形成して東アジア共同体構築の先頭に立つよう訴えた。   次いで延辺科学技術大学副総長でもある李承律氏は「東北アジアにおける経済秩序の新たな変化と国際協力」のテーマで基調講演。「東北アジア人」である朝鮮族は「多様な文化意識と多重知能をそろえている人材グループとして、超国家主義的な国際協力の媒体として登場」と役割を強調した。日本の朝鮮族研究学会副会長の笠井信幸氏(アジア経済文化研究所首席研究員)は「東アジアの三つの波」と題して東北アジアにおける交流の推移を分析しながら、地域共同体とネットワークの関係性に言及した。 また企業・経済人フォーラムでは、劉京宰・アジア経済文化研究所長が「未来型としてのグローバル固体と世界ネットワーク」と題して特別講演。世界が自由貿易化に向かっているとしつつ、「縦横無尽の志向を持つネットワークだけが強い競争力を持つ」と指摘、閉鎖性と排他性をこえる「グローバル固体」の結集の重要性を強調した。   シンポジウムでは基調講演を踏まえた「共同体構築とコリアン・ネットワークの役割」、特別講演に沿った「コリアン企業人ネットワーク構築の課題」について、それぞれのパネルディスカッションが行なわれ活発に議論が展開された。 若干のコメント。その一つは、日本の新政権が「東アジア共同体」をかかげているのと符丁を合わせたようなテーマの国際シンポジウムであり、極めて時宜を得たということである。しかも来賓には和田春樹東大名誉教授のほか、昨年の参議院選挙で初の韓国系国会議員として当選した白真勲氏があいさつに立ったことは非常に示唆的である。将来的には日本政府の関係者も参加できるような展望で今後の取り組みを期待したい。 二つには、学会としての体裁を整えてきたということ。   前二回のシンポジウムは中国朝鮮族研究会として開かれたが、研究会は2年前に発展的に改組し学会になった。そこで今回は国際シンポジウムの前に「歴史・外交」「経済・社会」「文学・言語」「共同体・アイデンティティ」の四つの分科会で学術発表が行なわれたのである。   筆者が参加した分科会で注目したのは、1910―20年代の中国間島地域(現在の延辺地域)における牛の検疫をめぐる中国と日本の対応の分析であった。植民地支配の末端における国家権力のせめぎ合いと住民の反応は未開拓の分野であり、一層の研究の深化が望まれる。 三つ目はシンポジウムの持ち方である。今回は中国、韓国からの参加者も多く、使用言語は基本的に韓国朝鮮語で行なわれたが、三分の一は日本人の参加であり十分に理解ができたとはいえない。通訳費用の問題はこの種のイベントの悩みのタネだが、少なくとも日本に軸足を置く学会である以上、まず日本人の賛同者を獲得する工夫の必要があるように思われる。 (ぬくい・ひろし:旧INAS=環日本海総合研究機構)   シンポジウムの写真     2010年1月6日配信
  • 2009.12.30

    エッセイ229:趙 長祥「深秋のキャンパス:キャンパス生活シリーズ③」

    夏休みの大騒ぎから、既に3ヶ月が過ぎ去った(キャンパス生活シリーズ②参照)。おかげで私の夏休み計画(論文と本の出版) は半分しか達成できなかった。2002年から建設が始まったこのキャンパス(中国青島にある海洋大学法政学院)は、主要な工事は終わったものの、現在も周辺の工事が進んでおり、時々物凄い噪音が響き、休んでいられないほどである。中国の工事現場には、日本と違って噪音やほこり対策などなく、また、しばしば深夜や早朝のでも工事をしている 。 今は深秋の末、初冬である。涼しい微風も徐々に冷たい風に変わり、緑溢れた草や木々の葉は冷たい風を受けて黄色くなり、徐々に母体を離れて大地に舞い降り、干裂な冬の土壌に埋め込まれ、来春のルネサンスに向けて力を蓄える時期となっている。中国北方の冬景色と同じく、このキャンパスもだんだん荒涼とした風景に代わっていく。正に北宋の大詩人(中国史上最も傑出した女流詩人) 李清照の詩に描かれた情景である。「帘卷西风,人比黄花瘦」、それを解釈すると、「The west wind flow the cotton, I’m more frail than the yellow chrysanthemums」となる。単なる風景を描くように見えるが、実際、この詩句には、景色や天気の描述を借りて詩人の気持に喩えられ、更なる景色や気持の寂しさを描き出すという意味が書き込められた。「以景喩人(景色をもって、人に喩える)」の手法である。 中国の北方の冬景色というと、緑が少ないため、どうしても荒涼、寂莫といった気配が感じられる。しかし、近年、経済と技術の発展につれて、従来南方にしか生長できなかった花、草、木々などが北方にも移植され、冷たく寂しい真冬でも緑にふれ合い、生き生きとしたエネルーギを感じるようになった。このキャンパスの一部に、冬でも人の目を楽しませるような植物が移植されている。例えばアパートの下に植えられている「紅豆樹」。夏には緑の葉がいっぱいであるが、秋と冬には、木の下に植えられた芝生に枯れ葉が落ちても、赤い豆を枝にいっぱい実らせる。鮮明な赤で枯黄色一色の冬の中で四季の色を彩り、寒い冬に人々の目を楽しませて、エネルーギを贈っている。 さて、キャンパスの一隅にある丘はこの時期にはどのような風景になったのだろう。 つい最近、食事の後、夕焼けが空に染まる頃にキャンパスの丘に登ってみた。風はそれほど冷たくなかった。遠くからみると、半分が枯れぎみの黄色、半分が未だ緑に覆われている。近づいてみると、枯れぎみの部分はアカシアや草類が生息する部分であるが、青々と茂っている部分には背の高い針葉松と背の低い青松に覆れている。松は耐寒力が強いため冬でも青々として自己の生命力をアピールしている。丘から周りをみると、日没に近かったため、少しぼんやりとしていた。キャンパスの赤煉瓦に覆れた建物は夕日に照らされて一層赤く染まり、人に時空倒錯のもうりょう感を与える。ただし、緑が少なくなっているため、赤と緑が相互に輝く躍動感がなくなり、西部の「秋水共長天一色(秋には沙漠、川水と空と一色となる)」の雄壮感もなく、なんとなく欠落感がある。周囲の村落も同様だった。 春夏秋冬、四季の移り変わりつれて大自然の色が異なり、キャンパスの色彩も変化する。四季が変わっていくにつれて、キャンパスの光景も物語も変わっていく。人それぞれの人生も、四季やキャンパスの光景と同じく、それぞれの物語があり、輝く時期もあれば、グレーの時期もある。山もあれば、谷もある。それぞれの色にあわせてどのような変化へ立ち向かっていくのか。人それぞれの人生が決められて行く。 このキャンパスにきてから、既に2年間経った。その間、色々な経験をさせてもらった。良し悪しを別にして、経験は人生に不可欠なものであり、その人にしかできないものである。この2年間をまとめて、そろそろこのキャンパスを離れる時期がきていると決意した。このキャンパス生活シリーズもこれて終わり。安らぎをくれたこのキャンパスの丘を胸に刻み、つねにその色と変化、そしてその変化によって私に持たらされた感動、楽しみや悲しみを持って、自分の人生をさらに豊かにしていきたいと思っている。 深秋のキャンパスの写真 キャンパス生活シリーズ②「雨季のキャンパスの光景」 キャンパス生活シリーズ①「零落黄泥碾作塵、惟有香如故」 ------------------------- <趙 長祥(ちょう・ちょうしょう)☆Zhao Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国海洋大学法政学院で准教授。専門はイノベーションと起業家精神、企業戦略。SGRA研究員。 ------------------------- 2009年12月30日配信
  • 2009.12.23

    エッセイ228:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その3:みんな、えがおで、げんきよく!」

      標題の「みんな、えがおで、げんきよく!」というフレーズは別に北朝鮮の人々がマスゲームを踊るときにお互いにかける合言葉ではありません。日本の小学校の教室の壁に貼ってあって、よく見かける典型的な標語の一つなのです。似たような標語として「みんな、あかるく、たのしく!」「みんな、にこにこ、たのしそう!」「友だちさそって、みんなでわいわい、なかよくあそぼう!」「みんな、なかよし、キラキラえがお!」などもあります。どれもご尤もでとても素晴らしい言葉だと僕も思いますが、このように文字が飛び出してきそうな、元気いっぱいな標語が「みんな」が見える場所に大きく貼ってあるのを目にすると、つい「う~ん」と首を傾げたくなるのは僕だけでしょうか。 先に断っておきますが、日本の小学校教育は世界的に評価が高く、諸外国が見習うべきところがいっぱいあるので、僕もよくシンガポールの視察団を日本の小学校へ案内したりします。そのたびに、日本の小学生たちも実に元気がよく、楽しそうに勉強しているようで、先生が質問すれば本当にみんなが手をあげて「はい!はい!はい!」と大きな声で質問に答えようと競う場面もたくさん見てきました。標語の文字通り、児童たちは本当に仲よさそうにみんな笑顔でキラキラと明るいのです。 でも、ちょっと待ってよ。もし「今日ちょっと元気がないなぁ」と思う子がいるとしたら?もし普段から笑うことがちょっと苦手な子がいるとしたら?昨夜お父さんとお母さんが喧嘩して今日ちょっと落ち込んでいる子がいるとしたら?これらの子にとって標語のあの踊り出そうな文字群が逆にプレッシャーになりやしないかと考えてしまう僕はひねくれ者でしょうか。僕が特に気になるのが「みんな」という言葉です。個性重視の教育政策が提唱される昨今、「みんな」ほどその政策にそぐわない言葉はないのではないかと思います。笑いたい子が笑えばいいし、無表情で物事を考えたい子はそうすればいいのです。笑顔までみんなで一緒に作らなくてもいいと思います。   僕がその昔、東京都の某小学校で講演をしたある日のことです。「はい!シンガポールがどこにあるか知っている人!」と僕が聞いたら、クラスの全員がすぐに手をあげて例の「はい!はい!はい!」という大合唱を始めました。「じゃ、君!」と僕が三列目に座っていて、あまり目立たなかった一人の子を指名して答えを求めると、「……」なんとその子は困った顔になったのです。あれ?手をあげたのに、答えを知らない…?その後、僕がいろいろと「明確な」ヒントを与えたため、ようやくシンガポー ルの位置を世界地図の上に一応だいたいのところで示してもらうことができましたが答えを知らなくても手はあげる児童もいるのだと、そのとき初めて気づきました。おそらくその子は取りあえず「みんな」と一緒に手をあげて「はい!はい!はい!」と元気な声で僕の質問に応じただけだったのですね。   みんなで何かをやることにあまりこだわりすぎると、「出る杭は打たれる」ことを恐れ(否、上の例だと「出ない杭は踏まれる」と言ったほうがいいかもしれませんが)、ついほかのみんなと横並びする態度や傾向を助長してしまうのではないでしょうか。ネクラな子や「みんな」とちょっと違う子がいじめの対象になりやすいとよく聞きますが、どうもそれも「みんな、えがおで、げんきよく」という標語と無関係ではない気がしてなりません。僕だったら、「みんな、みんなをわすれて、でるくいになれ!」と言ってしまいたい気分ですが、そういう僕こそ先に打たれてしまうかもしれませんね。 みんなさんはどう思いますか。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年12月23日配信
  • 2009.12.09

    エッセイ227: ガンバガナ「自由の鐘」

    これはアメリカでの小さな出来事だ。 今年の5月から8月にかけて、ニューヨークに滞在していた私は、ナイアガラの滝、ワシントンDC、フィラデルフィアを二泊三日でまわるという、相当ハードなスケジュールの旅をした。その最後の目的地となったのは「自由の鐘」であった。「自由の鐘」は、ペンシルベニア州フィラデルフイアに保存されている、ひとつのごく普通の鐘のことであるが、アメリカの独立宣言、奴隷制度の廃止など一連の歴史事件と大きなかかわりをもっていることから、長い間、アメリカの国民に自由のシンボルとして親しまれてきたという。 私たちも、この意義ある鐘を一目見てみようと思い、その施設へ足を運んだ。建物の一番奥の方に一台の鐘が置かれていた以外は、壁に数枚の写真やポスターが貼られてあるぐらいで、厳しいセキュリティチェックを通って入ってきた割にはシンプルに感じた。 私はニューヨークのマンハッタンにある自由の女神を見に行ったときのことを思い出した。そのときも相当厳しいセキュリティチェックがあった。「アメリカでは自由にかかわるものが大切にされているんだな」と、私は思った。ガイドさんの話によれば、毎日、世界中から多くの観光客がここを訪れるという。「何がこんなにたくさんの人を惹き付けるんだろう。意味の重さから?それとも他にも原因があるのかな?やっぱり人間は、自由というものに憧れているから?そういえば動物だって同じじゃないの?」このように自問自答しながら観賞を続けているうちに、いつの間か自分の想いに入り込み、今まで自分で仮想してきた自由の世界と、実際に存在する自由の空間の境がなくなってしまって、経験したことのない不思議な心の癒しを味わっていた。 ところが、残念ながら、それは一瞬の妄想にすぎなかった。私の想いは一人のお客さんの思いもかけぬ行動にことごとく砕かれてしまったのである。というのも、私の前を歩いていた人が、突然、「ダライ・ラマ!!!」と大声で叫びながら、壁に向かって、力強く空中パンチとキックを浴びさせ、多くの人を大変驚かせたからである。 私は本能的にそのパンチを向かわせた方向に目を移した。そこにはダライ・ラマ法王のポスターと南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領のポスターが並んで貼ってあった。彼の怒りの理由は明らかだった。同時に、彼がどこの国からきた人であるかもほぼ断定できたのである。しかしながら、私は彼のこのような行動には、疑問を感じざるを得なかった。この人はこの二日間の旅でアメリカという国をまったく理解していなかったか、あるいは理解しようとも思っていなかったからである。 私は彼をゆっくりと眺めてみた。興奮しすぎたのか、顔が相当固くなっていた。ちょっと話をしてみようかなと思ったが、途中であきらめた。喧嘩を売られるのが怖かったから。私は、その日の午前中にワシントンの蝋人形館を訪れたときのことを思い起こした。二人のお客さん(どこの国の人であるかわからないが、中東系の顔をしていた)が、ブッシュ元大統領の人形の前に行って、平手をあげたり、靴を脱いで叩いたりするような格好で写真を撮っていた。私には、ダライ・ラマ法王のポスターに空中パンチをあびせたのも、同様な行動パターンに見えた。二日間行動を共にした私はちょっと恥ずかしくなった。 その部屋には、何人かのスタッフがいたが、何の反応も示さなかった。それもそのはず。「表現の自由」という原則がこの国にあるのだから。そういえば、われわれのこの主人公も、この時点で、知らないうちに、すでにその恩恵を受けているのではないか。私は彼の顔をあらためて眺めてみた。彼はそこまで考えていないようだった。もしかして彼は今自分がどこにいるのか、その居場所について考えていないかもしれない。もしかしてこの「自由の鐘」は、彼には単なる罅だらけの鐘として映っているかもしれない。もしかして彼は今まで「自由の空気」さえ吸ったことがないかもしれない。私は彼への理解に苦しんだ。 その後、私は彼と行動を共にしていた人との話から、彼は約一ヶ月前に中国からアメリカに遊びに来た若者であるということを知った。ついでに「あなたのお仕事は?」と聞いてみたら、二年前からここにきて、ある研究所で医学の研究をしていると答えてくれた。いわゆるエリート層だった。私はさらに彼のアメリカについての感想を尋ねてみた。返ってきたのは「ごく普通」という返事だった。それ以上私は何も話さなかった。 この「ごく普通」の国を多くの中国人が一生の夢として目指していることは事実であり、しかも一回国境を越え、この国の土を踏んだら、なかなか帰国しないのも事実ではないか。この「言」と「動」の関係がいったいどのようにはたらいているのか、正直なところ私にはわからない。いずれにしろ、アメリカが「魅力的」だったから目指したわけではなさそうだ。 アメリカは、「自由」と「民主主義」を国家理念としてまつりあげてきた。アメリカ人にとって自由は聖なる領域だ。ワシントンではリンカーン記念館に立ち寄った。リンカーンといえば、奴隷制度の廃止で知られている。その階段は、キング牧師の有名な「私には夢がある」という演説の舞台であった。その後、私たちは、蝋人形館に行った。そこには、黒人運動のもう一人のシンボルである、ローザ・バークス氏の肖像があった。そして、フィラデルフイアにあるこの「自由の鐘」。中国では権力を象徴するものが観光スポットになっているのに対し、アメリカでは自由を象徴するものがスポットになっているようだった。私はさらに考えた。「キング牧師は白人ではない。ネルソン・マンデラ氏はアフリカ人だ。では、ダライ・ラマは何人なんだろう。」 私の思いはまるで鎖から解放された鳥のように自由の空を飛んでいたが、それに待ったをかけたのは、ガイドさんの「時間ですよ、みんなバスに乗ってくださ~い」というアナウンスだった。いよいよ旅の終わりだ。私は複雑な気持ちを抱えたまま案内に従ってバスに乗り込んだ。バスは人々のさまざまな思いを乗せて、ニューヨークに向かって走り出した。 やがて、マンハッタンの街が見えてきた。自由の女神が手を振りながら私たちを迎えていた。またも「自由」のテーマ、そうか、ここはアメリカだから。 -------------------------------- <ガンバガナ ☆ Gangbagana> 中国内モンゴル出身、2008年に東京外国語大学大学院地域文化研究科から博士号取得、専攻は内モンゴル近現代史。現在東京外国語大学外国人研究者、秋田国際教養大学非常勤講師 -------------------------------- 2009年12月9日配信
  • 2009.11.25

    エッセイ226:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その2)」

    コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)はここからご覧ください。 船はニコヤ湾を横切り目的地のチラ島についた。そこまでくると湾の奥になるので、海は鏡のように静かだった。港に繋がれた小舟の上に、まるでその船の主であるように一羽の白鷺がとまっていた。桟橋はなく、こののどかな港の砂浜に私たちが乗った小舟はのりあげた。港には小屋がありテラスにはレストランのようにいくつかのテーブルと椅子がおいてあって、数名の人が座っていた。この島の人口は4000人で、全員がこの島で生まれ育った漁師とその家族だという。チラ島の原住民は混血して純粋な原住民はいないが、中央山脈のタラマンカ地方には、少数ではあるが数種族の原住民が生きているそうだ。オスカルさんに聞くと、話す言葉はここでも都会でもほとんど変わらないということだった。もしかすると彼らの祖先は農民だったかもしれない。農業が大型化するにつれてはじきだされた人たちの多くが、資本のいらない漁業を営むことになったという。 港から船長の運転する車で「観光」をした。車は相当おんぼろで、ドアが固くてあけるのに苦労した。道は舗装されていないが十分に広くよく整備されていた。大型の船が着く港はないのであろうから、車は数えるほどしか走っておらず、人々は徒歩かマウンテンバイクで移動していた。トラックを改造して荷台に人を乗せるようにした「バス」が唯一の交通手段のようだ。道の両側は牧草地のようであった。時々牛を見かけた。耳がながくて垂れていてこぶのある「コスタリカの牛」もいた。この島では1週間に1頭ずつ牛と豚を殺して食べるのだそうである。その他は魚である。大規模な畑や田んぼは見かけなかった。船長は「村」の名前を教えてくれるが、家が数件集まっているところがあるだけで村とも認識しにくい。その中の普通の大きさの一軒家をさして「あれが島一番大きなお店です」と教えてくれた。この島ではひとりの女性が8人位の子供を産むそうだが、このような小さな島を少しまわっただけで、小学校が3つ、中学校がひとつあった。学校は全て無料だそうだ。校舎はどれも大きくはないが、生徒は数百人いるそうだ。車がほとんどない島なのに、どの学校にも大型のスクールバスがあった。あの大きなスクールバスをどうやって運んだんだろう。学校教育に力をいれている政府の姿勢が表れているともいえる。 船長は、私たちを島の奥の「港」に連れていってくれた。港というよりもマングローブの林の間の小さな砂浜で、コスタリカ本土から電気をひいているところであった。この島では電気も水も本土からきている。砂浜にはしわしわの長い首ととさかをもった黒い大きな鳥の群れが、羽根を広げて日光浴をしていた。オスカルさんが「これはソピロテというコンドルの親戚ですよ」と教えてくれた。白鷺や他にも何種類かの鳥がいた。やがてひとりの漁師が乗った小さなボートが着いた。岸のそばに来ると、彼はさっそくナイフで収穫した30cmほどの魚の内臓をとりだし、海の中に棄てる。魚をより長く保存するための知恵であろう。鳥たちは注意深くそれを見守っている。オスカルさんと船長は、舟の中においてあった小さなアイスボックスを覗いていた。その漁師のその日の収穫であるが、そんなに大した量ではないだろう。次に行った港はもう少し大きく、民家も数件あった。私たちが着いた港のように海辺に小屋があって、何人かの男性が時間をつぶしていた。この人たちは、島のお店の人で漁師から魚を買いにきていると、オスカルさんが教えてくれた。漁師たちは朝早くから夕方まで、ひとりとかふたり乗った小舟で漁をし、港でその魚を島の「お店の人」に売り、残りは家族で食べる。この生産の原点のようなサイクルがゆったりとした時間のなかで何年も何年も続いているわけである。 島で一番大きな小学校の向いにある、イサイル船長のお母さんの家でお昼をご馳走になった。家の造りは、広々としたテラスがあること以外はコスタリカの他の町の家とそう変わらなかった。水道は蛇口から飲める水がふんだんにでるし、トイレも水洗だし、テレビもあった。学校にはインターネットもあるから、家庭に引くことだってできないことはないだろう。ランチは20cmくらいの魚のから揚げと、魚と野菜のスープと、海老のいためものと、サラダとごはん。シンプルでとても美味しかった。向こうにあるテーブルでは、この家の家族が団欒していた。8月15日はコスタリカの「母の日」なので、叔母さんがカリブ海側の町から訪ねてきたところだった。船長の甥や姪にあたる就学前の子どもが3人、ビニールボールを蹴って遊んでいた。人懐っこい犬がテーブルの下に来て寝ていた。 この島のこのゆったりとした自給自足に近い生活をしている人たちが「幸せ」なのかどうか、私にはわからない。しかし、この生活がこのままずっと続いていくとは思えない。オスカルさんによれば、まわりの島に比べてチラ島はまだ外との接触がある方だという。船長によれば、漁だけに頼る生活は苦しいという。実際、彼は島をでてプンタレナスの町に住み、小舟を使って運送業を営んでいる。やがて、学校教育を受けた子どもたちが育って、島の外の世界へでていくだろう。そうしたら島の生活もだんだんと変わっていくのだろう。島の中の広い土地を「中国人」が買って、飛行場もあるリゾート開発をしようとしたが、政府が禁止したという話を聞いた。何故政府が禁止したのか、土地の人は開発を歓迎しないのか疑問に思って聞くと、「島の人たちが今使っている場所を使えなくしてしまう計画だったので、反対運動がおこり政府が禁止した。開発は勿論歓迎だ」という答えだった。人々が休暇を過ごすには暑すぎるのではないかと私は思うのだが、10年後に来てみたらゴルフ場とカジノのあるリゾートができていた。。。なんてことになりませんように! 「中国人」というのは「古くからいる中国人」ということで、おそらく国籍は中南米の中国系の人を指すようだ。コスタリカはつい数年前まで台湾を承認していたので、このような田舎でも「台湾が作ってくれた橋」とか「台湾資本のはいったレストラン」という話を聞いた。中華人民共和国のビジネスマンや資本は、少なくともこの地域にはまだはいっていないようだ。そもそも、このあたりでは東洋系の人はあまり見かけないのだが、オスカルさんの大学の学長は中国系の女性だったので驚いた。彼女の両親はプンタレナスで中華料理店を経営しており、彼女自身も大きな家に住んでいるという。ちなみに、彼女の専門はコンピューターだそうだ。この国にも人種による偏見はないとはいえないが、それがその人の実力に基づいた出世を妨げることはないようだ。 イサイル船長のお母さんの家でランチをした後、最初に着いた港にもどると、ずいぶん潮がひいていた。船長の息子たちが水の中にはいって舟を砂浜の近くにひいてきた。私たちも膝まで水にはいって舟に乗った。島の裏側の海も鏡のように静かだった。小舟がたくさん浮かんで漁をしていた。そのまわりにはたくさんの水鳥が集まっていた。その中でひときわめだつのがペリカンだった。多くはつがいで、あるものは海面に浮かび、あるものは大きな羽をひろげて青い空の中をゆったりと飛んでいた。魚と鳥と人が一体となって自然の中に溶け込んでいた。 コスタリカ、プンタレナスの写真 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------ 2009年11月25日配信