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エッセイ226:今西淳子「ペリカンの舞う島:コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その2)」
コスタリカのプンタレナス・チラ島訪問記(その1)はここからご覧ください。
船はニコヤ湾を横切り目的地のチラ島についた。そこまでくると湾の奥になるので、海は鏡のように静かだった。港に繋がれた小舟の上に、まるでその船の主であるように一羽の白鷺がとまっていた。桟橋はなく、こののどかな港の砂浜に私たちが乗った小舟はのりあげた。港には小屋がありテラスにはレストランのようにいくつかのテーブルと椅子がおいてあって、数名の人が座っていた。この島の人口は4000人で、全員がこの島で生まれ育った漁師とその家族だという。チラ島の原住民は混血して純粋な原住民はいないが、中央山脈のタラマンカ地方には、少数ではあるが数種族の原住民が生きているそうだ。オスカルさんに聞くと、話す言葉はここでも都会でもほとんど変わらないということだった。もしかすると彼らの祖先は農民だったかもしれない。農業が大型化するにつれてはじきだされた人たちの多くが、資本のいらない漁業を営むことになったという。
港から船長の運転する車で「観光」をした。車は相当おんぼろで、ドアが固くてあけるのに苦労した。道は舗装されていないが十分に広くよく整備されていた。大型の船が着く港はないのであろうから、車は数えるほどしか走っておらず、人々は徒歩かマウンテンバイクで移動していた。トラックを改造して荷台に人を乗せるようにした「バス」が唯一の交通手段のようだ。道の両側は牧草地のようであった。時々牛を見かけた。耳がながくて垂れていてこぶのある「コスタリカの牛」もいた。この島では1週間に1頭ずつ牛と豚を殺して食べるのだそうである。その他は魚である。大規模な畑や田んぼは見かけなかった。船長は「村」の名前を教えてくれるが、家が数件集まっているところがあるだけで村とも認識しにくい。その中の普通の大きさの一軒家をさして「あれが島一番大きなお店です」と教えてくれた。この島ではひとりの女性が8人位の子供を産むそうだが、このような小さな島を少しまわっただけで、小学校が3つ、中学校がひとつあった。学校は全て無料だそうだ。校舎はどれも大きくはないが、生徒は数百人いるそうだ。車がほとんどない島なのに、どの学校にも大型のスクールバスがあった。あの大きなスクールバスをどうやって運んだんだろう。学校教育に力をいれている政府の姿勢が表れているともいえる。
船長は、私たちを島の奥の「港」に連れていってくれた。港というよりもマングローブの林の間の小さな砂浜で、コスタリカ本土から電気をひいているところであった。この島では電気も水も本土からきている。砂浜にはしわしわの長い首ととさかをもった黒い大きな鳥の群れが、羽根を広げて日光浴をしていた。オスカルさんが「これはソピロテというコンドルの親戚ですよ」と教えてくれた。白鷺や他にも何種類かの鳥がいた。やがてひとりの漁師が乗った小さなボートが着いた。岸のそばに来ると、彼はさっそくナイフで収穫した30cmほどの魚の内臓をとりだし、海の中に棄てる。魚をより長く保存するための知恵であろう。鳥たちは注意深くそれを見守っている。オスカルさんと船長は、舟の中においてあった小さなアイスボックスを覗いていた。その漁師のその日の収穫であるが、そんなに大した量ではないだろう。次に行った港はもう少し大きく、民家も数件あった。私たちが着いた港のように海辺に小屋があって、何人かの男性が時間をつぶしていた。この人たちは、島のお店の人で漁師から魚を買いにきていると、オスカルさんが教えてくれた。漁師たちは朝早くから夕方まで、ひとりとかふたり乗った小舟で漁をし、港でその魚を島の「お店の人」に売り、残りは家族で食べる。この生産の原点のようなサイクルがゆったりとした時間のなかで何年も何年も続いているわけである。
島で一番大きな小学校の向いにある、イサイル船長のお母さんの家でお昼をご馳走になった。家の造りは、広々としたテラスがあること以外はコスタリカの他の町の家とそう変わらなかった。水道は蛇口から飲める水がふんだんにでるし、トイレも水洗だし、テレビもあった。学校にはインターネットもあるから、家庭に引くことだってできないことはないだろう。ランチは20cmくらいの魚のから揚げと、魚と野菜のスープと、海老のいためものと、サラダとごはん。シンプルでとても美味しかった。向こうにあるテーブルでは、この家の家族が団欒していた。8月15日はコスタリカの「母の日」なので、叔母さんがカリブ海側の町から訪ねてきたところだった。船長の甥や姪にあたる就学前の子どもが3人、ビニールボールを蹴って遊んでいた。人懐っこい犬がテーブルの下に来て寝ていた。
この島のこのゆったりとした自給自足に近い生活をしている人たちが「幸せ」なのかどうか、私にはわからない。しかし、この生活がこのままずっと続いていくとは思えない。オスカルさんによれば、まわりの島に比べてチラ島はまだ外との接触がある方だという。船長によれば、漁だけに頼る生活は苦しいという。実際、彼は島をでてプンタレナスの町に住み、小舟を使って運送業を営んでいる。やがて、学校教育を受けた子どもたちが育って、島の外の世界へでていくだろう。そうしたら島の生活もだんだんと変わっていくのだろう。島の中の広い土地を「中国人」が買って、飛行場もあるリゾート開発をしようとしたが、政府が禁止したという話を聞いた。何故政府が禁止したのか、土地の人は開発を歓迎しないのか疑問に思って聞くと、「島の人たちが今使っている場所を使えなくしてしまう計画だったので、反対運動がおこり政府が禁止した。開発は勿論歓迎だ」という答えだった。人々が休暇を過ごすには暑すぎるのではないかと私は思うのだが、10年後に来てみたらゴルフ場とカジノのあるリゾートができていた。。。なんてことになりませんように!
「中国人」というのは「古くからいる中国人」ということで、おそらく国籍は中南米の中国系の人を指すようだ。コスタリカはつい数年前まで台湾を承認していたので、このような田舎でも「台湾が作ってくれた橋」とか「台湾資本のはいったレストラン」という話を聞いた。中華人民共和国のビジネスマンや資本は、少なくともこの地域にはまだはいっていないようだ。そもそも、このあたりでは東洋系の人はあまり見かけないのだが、オスカルさんの大学の学長は中国系の女性だったので驚いた。彼女の両親はプンタレナスで中華料理店を経営しており、彼女自身も大きな家に住んでいるという。ちなみに、彼女の専門はコンピューターだそうだ。この国にも人種による偏見はないとはいえないが、それがその人の実力に基づいた出世を妨げることはないようだ。
イサイル船長のお母さんの家でランチをした後、最初に着いた港にもどると、ずいぶん潮がひいていた。船長の息子たちが水の中にはいって舟を砂浜の近くにひいてきた。私たちも膝まで水にはいって舟に乗った。島の裏側の海も鏡のように静かだった。小舟がたくさん浮かんで漁をしていた。そのまわりにはたくさんの水鳥が集まっていた。その中でひときわめだつのがペリカンだった。多くはつがいで、あるものは海面に浮かび、あるものは大きな羽をひろげて青い空の中をゆったりと飛んでいた。魚と鳥と人が一体となって自然の中に溶け込んでいた。
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<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。
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2009年11月25日配信