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エッセイ231:包聯群「はじめてのオランダ旅行」

2009年7月にオランダのユトレヒト大学で開催された第7回国際バイリンガルシンポジウムに参加した。ヨーロッパに行くのは初めての体験であり、シンポジウムでは、著名な社会言語学者の講演も予定されていたので、準備の段階からわくわくしていた。オランダの入国ビザを取るためには、仙台から東京まで行かなくてはならなかったが、シンポジウムに参加できることを考えると、とても楽しみで、その道のりも別段苦にならなかった。

7月8日の午後東京を出発し、長い旅が始まった。11時間以上も飛行機に乗るのは初めてのことである。機内スクリーンのフライト情報をチェックしながら楽しいひと時を過した。オランダと日本は8時間もの時差がある。飛行機から降りたとき、日本ではもう寝る時間なのに、オランダはまだ昼間のまっただ中だった。それにしてもまったく「未知の世界」に突入したようで、言葉、駅の看板表示から電車の開閉ボタンまで目に入るあらゆるものが新鮮に感じた。普段英語を話す機会はほとんどないが、一人の旅なので何でも「自分で」解決しなければならない。幸い、言語は、「環境」さえあれば何とかなるという不思議な面があるので助かった。

飛行機を降りる前から緊張感に包まれ、ユトレヒト大学に行く地図の案内を見ながら、頭の中の「言語の整理」を始めた。大学に行く道を英語でどのように尋ねたらよいのか、何番線の電車に乗るのか、タクシーに乗るには、どのような言葉で表現すればよいのかなどなどのことで頭がいっぱいであった。ちょうどそのとき、ふっと思いついたのが、隣席にいる女性に行く道を尋ねてみることだった。これは「事前準備になる」と思い、ちょっと安心した。しかし、その喜びはあまりにも短かった。私は地図を指差しながら彼女に必死に話しかけた。そうすると、彼女は自分はフィンランド人なので、アムステルダムのことはほとんど知らないという。このような答えが返ってくるとは想定外だった。さきほどまで彼女は大勢の仲間と英語で話していたのに。また日本から一緒にアムステルダムを目指しているのに・・・という思いだった。普段はアジア系以外の人との交流が少ないせいか、私にとっては、ヨーロッパ人がみな同じように感じられてしまっていたのだ。結局、何の情報も得られず、すべてがスタート地点に戻ってしまった。しかし、彼女と会話を交わすことによって、プレッシャーなのか、緊張感なのか、他の理由があったのか不明ではあるが、私が急に英語圏に入ったことを実感し、英語の単語も徐々に記憶が戻ってきているような気がした。これは私の初めての英語圏の旅の貴重な体験となった。単語や感覚を徐々に記憶からとり戻した私は、飛行機から降りてからも怖がることは何もなく、尋ねられた相手が理解できない場合には、言語の「助手」である「手振り身振り」を使い、一人で無事にアムステルダムから電車に乗り、ユトレヒト市を目指した。

会議が開催されるユトレヒト大学はオランダ最大の大学である。ユトレヒトは首都アムステルダムから30キロほど南に位置するオランダの第4の都市で、ユトレヒト州の州都でもある。アムステルダムから30分ぐらい電車に乗る距離だった。電車を降りてからタクシーに乗り、雨の中の街の風景を観賞しながら、20分ぐらいかけてユトレヒト大学にたどり着いた。しかし、受付をする場所を探しても見つからず、聞いたところ、その場所は臨時に市の中心部へ変更したという。この「臨機応変」は日本とちょっと違うところだなと感じた。ちょうど困っていたときに、私と同じように受付場所を探している地元の3人の女性に出会った。そこで、私たち4人は一緒にタクシーに乗り、受付をしている場所へ出発した。タクシーから降りる際、私は自分のタクシー代を一緒に乗った「仲間」にあげたが、なかなか受け取ってくれなかった。彼女たちが言うには、「あなたは遠くから来たお客さんだから」。3人はとても親切でずっと笑顔だった。こうして無事に受付をすることができ、会議の参加者と合流した。
 
国際バイリンガルシンポジウム(ISB)はバイリンガル学界において最も影響力をもつ最大の国際会議である。1997年に設立され、2年ごとに500人を収納できる施設を持つ大学にて開催することとなっている。第1回と第2回(1999年)はイギリスのニューカッスル(Newcastle)、第3回はイギリスのブリストル(Bristol)にて開催された。第4回はアメリカのアリゾナ(Arizona)、第5回はスペインのバルセロナ(Barcelona)、第6回はドイツのハンブルク(Hamburg)にて開催された。次回の第8回は2011年にノルウェーのオスロ(Oslo)で開催されることが決まっている。

今回は70以上の国と地域から総勢500人を超える学者が出席した。会議は四日間にわたって、6人の基調講演、99の分科会およびポスター発表に分けて行なわれた。名簿によると、日本からの出席者は私一人であったが、中国大陸からの出席者は4人、南京大学、南京師範大学、上海大学からの学者であった。ヨーロッパからの学者が多数を占めている印象を受けた。

会議のテーマは、第二言語習得、バイリンガルの使用、接触による言語変異、コードスイッチングの文法的研究、バイリンガル児童の文法発展状況、言語接触現象、言語消滅、言語維持、言語政策とバイリンガルイデオロギー、言語シフト、バイリンガル心理言語学研究、バイリンガルコミュニティーと移民の社会言語学研究、コードスイッチングの社会言語学研究などであった。

私が発表を行った第59セッションのテーマは「中国の都市化、言語接触と社会バイリンガル」、「中国語との接触による言語変異」であった。オランダのLeyden大学のMarinus van den Berg教授とロンドン大学の李嵬教授が本セッションの議長を務めた。李嵬教授は、「中国語とグローバル化」というタイトルのセッションの議長も担当した。南京大学の徐大明教授は「言語政策とイデオロギー」と題した第23セッションの議長を務めた。私が発表した論文のテーマは「ドルブットモンゴル族コミュニティー言語―混合言語を事例としてー」 であった。

今回の会議を通して得られた最大の収穫は、地域の言語を分析する際の理論や知見などを参考にしている多数の著名学者の講演を聞き、そしてその学者たちとの交流ができたことである。例えば、社会言語学界の著名な言語学者Thomason氏(Thomason and Kaufman. 1988. 《Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistic》は言語接触を研究する多くの研究者に引用されている)の講演を聞くことができた。また自分の研究を紹介したところ、彼女が興味を持ってくれたので、大変うれしかった。

そして、会議の合間を見つけ、学校のキャンパスの見学もした。こちらの大学の建物は中国、日本、台湾、香港などの国や地域のそれと異なり、非常に鮮やかな色を使っているのが印象的だった。例えば、赤、黄色、緑などの色が混合した建築物もあった。このような飾り方が駅周辺にもみられた(写真をご覧ください)。

12日夕方に会議が無事に終わった。13日に、南京大学と南京師範大学の先生たちとともに、ユトレヒトからアムステルダムへ移動した。そして、午前中は都市の中心部にある川の水が流れる音を聞きながら都市の建築を観賞した。午後はゴッホ美術館を見学することもできて、とても有意義な一日を過した。オランダ訪問はゴッホの生涯に関する知識を増やす絶好なチャンスともなった。

14日の朝、日本に戻る準備をし、一人でアムステルダム駅へ移動した。夕方の飛行機であるため、空港まで行くにはまだ早かっので、荷物を駅のロッカーに預けた。クレジットカードを使えば、現金よりはるかに安くて便利であった。

商店街を一人で歩き、駅前の街をゆっくりと観賞した。お土産を販売している店に入ると、アジア系の女性が話しかけてくれた。話をしているうちに、不景気により、旅行者が非常に減少したことにもふれはじめた。経済不況が世界中に打撃を与えているなと感じた。でも、町中をみると、人々はのんびりと話をし、広場ではビールを飲みながら歌を歌っている姿も見かけるので、とても緊迫感を感じている雰囲気ではなかった。

今回の旅でアジアと異なる文化を体験できたことは私にとって貴重な収穫となるに違いない。

オランダ旅行の写真

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<包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lianqun>
中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。
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2010年1月13日配信