SGRAエッセイ

  • 2009.09.09

    エッセイ219:林 泉忠「天山の麓の調和社会をどう構築するのか(その1)」

    7月5日~7日、新疆自治区の区都ウルムチでウイグル族と漢民族との暴力衝突事件が起きた。それに対し、中国政府は、昨年のチベット事件などこれまで発生した類似事件と同様の手法で対応した。その特徴は主に次の3点が挙げられる。 第一に、中国政府は事件の性質を「殴打・破壊・略奪事件」と認定する。その背景には、自ら統治している地域に存在する民族間の矛盾を否認しその民族政策の失敗による責任追及を回避すると同時に、政府の武力による鎮圧の正当性を保つという思惑があると考えられる。第二に、事件の原因を国外勢力による企画に罪をなすりつける。これは、人々の視線を移すことにより新疆本土のウイグル族・漢族間の民族問題の重大さを薄めようとする狙いがあろう。第三に、インターネットや電話の切断を含む情報統制を厳密に行う。その目的は、事態のさらなる拡大を防ぐと同時に、事件に関する情報発信において主導権を握ることにあろう。しかし、これらの方法は果たして有効なのか?21世紀に入った今こそ、検討する余地があるのではないか。   まず、民族の矛盾と民族政策の責任回避という点については、政府のメディアは事件の過程を報道する際に、ウイグル族の暴力行為を強調するが、暴動化前の比較的平和なデモ行進および武装警察による厳しい取り締まりに関してはほとんど報道しなかった。また、事件の起因である広東韶関の旭日玩具工場においてウイグル族と漢族の間に生じた殴り合い事件でウイグル族の労働者が死亡した事件に関してもあっさりとしか言及しなかった。一方、政府のマスコミは、公開した写真と画像には、「7・5事件」におけるウイグル族の暴力行為を強調しているのがほとんどで、7月7日に憤怒した漢族が一斉に立ち上ってウイグル族に報復しようとした場面についてはなかった。 このような事件の対応はどうしてもバランスを欠いたと批判され、国際社会の世論を有効に導くことができなかった。更に重要なのは、ウイグル族の漢族に対する不信を取り除くには成功しなかったばかりか、さらに矛盾を激化させる新しい要因を作ってしまったとも考えられる。   ● カーディル氏の勢いの助長   国外勢力の介入説に関しても、直ちに確実な証拠を提示できなかったため、国際社会の世論に対する影響力がいささか弱かったと言わざるを得ない。また、民族政策の失敗を謙虚に反省せず、ラビア・カーディル氏が画策者であることを一方的に強調するのは、問題の焦点をぼかす疑いが持たれるにとどまらず、更に逆効果をもたらしているようだ。周知のように、チベットと異なって、いままで新疆はダライラマのようなチベット社会内で凝集力を持ち、同時に国際社会においても影響力をもつ指導者が存在しなかった。しかし、今回、カーディル氏が主謀者であるという政府の非難を、中国のマスコミが大いに報道したのは、皮肉にも、カーディル氏の無料の宣伝となり、不本意ながらもカーディル氏をウイグル族の反体制派指導者とさせてしまったばかりか、これまでばらばらだったウイグル族の各反抗勢力を統合させる切っ掛けを作ってしまったのではないか。   新疆の騒乱発生後の7月6日と7日、政府は情報を全面的に統制するには至らなかった。そのため、新疆においても官制報道以外の情報を別のルートで獲得することができた。しかし8日以降、飯否網(fanfou)や、Facebook、またTwitterといった主要情報ネットおよび多くの海外メディアのウェブサイトが閉鎖された。情報封鎖は、もちろん、迅速に情勢を安定化させる一面もあるが、このような手法は、多くの漢民族にも支持されていない。事実、ここ数年、中国国内では群集事件が多発し、インターネット利用者は政府の使い慣れている情報封鎖に対して多くの不満を持っている。同時に、このような情報統制の手法は、国際世論において中国政府の事件処理の合理性に対する疑問を増大させるばかりだ。 ● 経済発展優先政策の落とし穴 1980年代以前の中国の民族問題は、冷戦時期のユーゴスラビアのように、比較的安定していた。しかし、「改革・開放」が推進されてから、中国社会における諸矛盾が次第に表面化し、民族問題は注目される一つである。中国政府の少数民族地域の問題に関する考え方には、長期にわたり二つの盲点が存在している。 まず、経済発展優先政策の下で、辺境地域の少数民族に対する経済支援が安定維持の柱となった。政府は大量の資金と人力の投入を通して、ウルムチに高層ビルをそびえ立たせ、市の中心部は繁栄の光景を呈している。政府もまた多くの漢族の国民も、経済繁栄が民族問題を解決する有効な処方箋と考えている。「7・5事件」の翌日に、新華社通信は文章を発表し、いくつかの輝かしいデータを呈示した。すなわち、「30年以来、新疆の国民経済は年平均10.3%のスピードで増大した。去年、新疆の工業増加額は1790.7億元に達し、1952年に比べて274倍、また1978年に比べて16.6倍に増大した。食糧生産量も1000万トンを突破し、1949年の11倍、1978年の1.8倍となった。1人当たりの食糧の占有率も全国平均水準を上回った」。このような宣伝の仕方は、昨年のチベット事件後の中国メディアの行われたことと同じだった。 ところで、漢族のインターネット利用者の間では「私達はチベットや新疆に対してこんなに多く資金と人的支援を投入してきたにもかかわらず、どうして彼らは依然として喜んでくれないのか」ということがよく指摘されている。これはまさに政府と多くの人々の考え方の盲点を反映しているのである。また、経済が軌道に乗った後、漢民族社会も自由、人権、民主主義といったニーズに直面するようになったが、少数民族はさらに主要民族の漢族にない民族文化の危機感を抱えるようになった。(つづく) ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- ★このエッセイは林泉忠さんの 「天山腳下的『和諧』如何構築?————看新疆騷亂的本質」『明報月刊 2009年8月号』(香港) をSGRA会員の張建さんが和訳したものです。後半は来週のかわらばんでお送りします。 2009年9月9日配信
  • 2009.09.02

    エッセイ218:範 建亭「ハンディーを持Aった者の居場所」

    「ハンディーを持った者」と言ったら、あなたはどんな人を想像するのだろうか。僕は最初、それはもっぱら体の不自由な人や知恵遅れの人だと思った。だが、様々なハンディーを持った人たちが生活している施設を見学して、自分の考えが不完全であったことを知った。そして、先進国としての日本、工業国や競争社会としての日本のもうひとつの側面を見ることができ、いろいろと考えさせられた。 この夏、僕は二ヶ月間の短期研究の機会を得て、日本にやってきた。学部時代の指導教官のところで研究しているが、7月下旬、先生と一緒に長野県の現地調査に出かけた。それは先生の循環型農業に関する研究の一環であるが、工業や貿易などを中心に勉強してきた僕にとっては初めての経験となった。 私たちが訪問したのは、長野県小谷村にある「信州共働学舎」という施設であった。それは1974年に作られた心や身に不自由を抱える人たちのための共同生活施設である。現在87歳となる創始者の宮島真一郎さんは、若いときに羽仁もと子創立のキリスト教学校「自由学園」にて学び、卒業後自由学園に教師として残ったが、50歳にて退職し、父親の郷里である長野県小谷村にて心身にハンディーのある人たちと生活する「共働学舎」を始めた。長野県の施設の他に、北海道や東京にも施設と作業所などがあり、現在合わせて約150人がメンバーとして生活している。    「信州共働学舎」は2カ所に分かれ、小谷村立屋にある「立屋共働学舎」と、山道を1時間余り歩かなくては行けない「真木共働学舎」がある。「立屋共働学舎」は、北アルプスの裾を流れる姫川沿いの山里にある。そこに20数名のメンバーが生活しているが、米や野菜等の農作物作りの農業が中心となっている。水田や畑などの農地が約3ヘクタールであるが、主に近所の人から借りた田畑である。また、そこに和牛、山羊、鶏なども飼っており、味噌や醤油などの製造、木製の玩具作り、織りや染めなどの手作業も行われている。そして、「からすのパン屋さん」と言う製パン所もあり、村の人たちに販売している。 一方、「真木共働学舎」は山の奥にあり、交通が非常に不便。そこに辿り着くまでは、車が通わない山道を歩いて1時間半ぐらいかかる。かつてそこにはひとつの村があったが、近年の急速な少子高齢化によって過疎化が進み、また交通の不便さもあり、結局村全体が廃棄されてしまった。そこを利用して「真木共働学舎」が始まったわけであるが、いま10名ぐらいのメンバーがそこに住み、米と野菜作りのほかに、わら細工、木工製品製作やラグマット製作等も行い、自給自足の労働生活をしている。交通は非常に不便とはいえ、そこへ実際行ってみると、メンバーたちが茅葺き屋根の古い民家に住み、農業中心の質素で清らかな生活を送っていた。山々に囲まれ、景色がとても素晴らしい。隠居にも絶好の場所だと思った。おまけに、私たちが行った時はちょうど皆既日食が始まり、山の上から日食の様子がはっきり見えたことに感動した。    共働学舎の生活は基本的に農業に依存している。米と野菜はほとんど自給し、自分たちの作った作物で食べている。作業はなるべく機械を使わず、田んぼは今でも手で植え、手で刈ることを基本としている。また、いろいろな動物も飼っており、ミルクはヤギから採ったヤギ乳を飲んでいる。このような農業を中心とした自給自足の生活ぶりは、都会で生まれ育った僕には想像しにくいものであった。さらに、そこに生活している人が「普通」の人間ではなく、いろいろなハンディーを持った者であることについては、なおさら想像を絶した。 「ハンディー」とは、体の不自由な人や知恵遅れの人のことを想わせるのが一般的であるが、実際、「共働学舎」で生活しているメンバーには、身体障害者はごく一部しかなく、多くは精神的な問題を抱えている人たちであった。それは、生き方に迷った人、家庭から見放された人、家族を失った人、学校や会社に行きたくない人、競争社会についていけない人、人生をあきらめた人、などなどである。しかも、20代や30代の若い人が多いことに驚いた。 彼ら彼女らは、外見から、生活ぶりから、またはわれわれと会話をしている様子からも、全くの異様さを感じないが、施設代表者の話に聞くと、そこにいるメンバーは皆何らかの問題があるという。例えば、一人の男の子は、離婚を繰り返した母親から見放され、問題児になっていた。もう一人の男性は、子供の時お母さんが交通事故で死亡したのを目撃してから話すことができなくなった。一人の女性は若いときに夫と子供を亡くして絶望してここにやってきた。もう一人の女の子は自殺未遂でここに辿り着いたという。    「共働学舎」にやってきた理由は本当にさまざまであるが、集まったメンバーたちが皆と一緒に働き、共に生きている。もともと「共働学舎」とは、「共に働く学び舎」の意味である。どんな過去があっても、知恵や能力が低くても、ここに来たら、共同生活を通じて経済的にも精神的にも自立できるようになり、互いに支えあって暮らしている。また、働けば一定の給料ももらえる。こういう生活が好きになり、何十年も働いた人もいる。 私たちは立屋共働学舎に一泊し、メンバーたちと一緒に夕食と朝食を食べた。夕食後、一人ずつ今日一日の仕事を皆さんに報告してもらうことが慣例となっている。そして、和やかな雰囲気で全員で聖書を読み、聖歌を歌った。「無神論者」に近い僕からみて、家族の温もりを強く感じた。そのような「共働学舎」を見学して、生きることの意味、労働や助け合いの意味、豊かさや幸せの意味、現代文明の意味などについて、いろいろ考えるようになった。    日本は何十年の歳月を経て経済大国となり、豊かな社会を築くことに成功した。また先進国の中でも、日本は格差の問題が相対的に少ない平等な国でもある。しかし、いくら平和的な社会と言っても、市場競争原理が働く以上、まして常に頑張る事を要求されている日本社会において、競争に淘汰された人や競争社会に適応できない人は必ず存在する。また、同質・均一社会と言われる現代の日本社会では、異なったものに対する拒否・排外意識が強いため、決まった生活のレールや社会システムから離脱することは、人生の「失敗」を意味し、生き辛くなる。そういう人たちの居場所を提供しているのが、「共働学舎」のような民間施設であり、これらの施設が果たした役割は非常に大きいと思う。 一方、高度成長を続けている今の中国は、日本以上に「弱肉強食」「自己中心」の競争社会となっているため、ハンディーを持った者も大勢存在しているに違いない。しかし、その人たちは一体誰が面倒をみているのだろうか。弱者のことに関心を持つ人はどれぐらいいるだろうか。また、このような社会問題を政府に任せて片付けられるのか、調和のとれた平和社会をつくるために、われわれは何をすべきか。中国にとって、日本の経験や教訓から謙虚に学ぶべきことは、工業化や経済発展だけではないと改めて認識させられた。 現地の写真 -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------
  • 2009.08.26

    エッセイ217:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その1:謝れば済むの?」

    「誠に申し訳ございませんでした」という懺悔の言葉を発し、深々と頭を下げるどこ かの企業の社長、あるいはどこかの学校の校長、もしくはどこかの省庁の長の姿は、 不祥事が起きるたびによくテレビでお見かけするものです。社員が犯罪を起こすと社 長が謝る、生徒が問題を起こすと校長が謝る、役人が事件を起こすとその長が謝る、 という場面は、あるいは「という儀式は」といったほうがいいかもしれませんが、近 年本当に嫌というほど見せつけられてきました。しかも、謝るのはほぼ全員年輩の男 性というのがいかにも日本らしい。それだけ責任の持てる地位にいる女性が少ないと いうことなんですね。まあ、とにかく、老いた男の薄くなった頭のてっぺんなんか誰 も見たくないというのに、こちらのことはお構いなしに、食事中でもなんでも、男の 長たちはことあるごとにテレビの向こう側で頭のてっぺんを披露してくださるので す。 「へえ~、謝れば済むなら苦労はしないよ」と鼻で笑っていたら、日本では、ほとん どの場合それが本当に済んでしまうのですから不思議でしようがないのです。「お 上」が謝罪すれば、ことはマジで丸く収まるのですね、日本では。そして、謝罪会見 が終われば、日本のマスコミは潮が引いていくようにほとんど騒がなくなるし、巷で もその事件は話題にのぼらなくなるようです。なんという都合の良い習慣なんでしょ う!問題を起こした生徒や社員を、謝っている校長や社長がほとんど知らないかもし れないというのに、とにかく「お上」が謝れば済む。不祥事の責任は、学校や企業と は関係がなく、当の生徒や社員本人、もしくはほかに原因を求めるべきかもしれない のに、とにかく「お上」が謝れば済む。問題が起きたときに、もし管理制度に原因が あるのなら、同じ過ちを繰り返さないようにも制度そのものの変革が最も重要である はずなのに、それについての報道はあったりなかったりして、何よりも謝罪会見のほ うが大事であるかのようにマスコミのカメラはいつも老いた男の頭のてっぺんに焦点 を合わせるのです。それも食事中に。 翻ってシンガポールでは、というか、おそらくほとんどの国では、あまり社長とか校 長が、社員や生徒のことで簡単に謝る姿は見かけないですよね。それは決して無責任 なのではなく、謝れば自分に非があることを認めてしまうから、ことによっては裁判 沙汰になりかねないからでしょう。それだけ謝罪することは重いことなのです、ほか の国では。少なくともシンガポールでは学校の校長先生が生徒のことで頭を下げて公 に謝る姿を僕は今まで一度も見たことがありません。もちろんシンガポールの校長先 生が傲慢なのではなく、生徒が起こす問題はすべて学校に責任を求めるという日本に ありがちな風潮がシンガポールにはないからなのでしょう。このことについて、実際 に日本の学校の校長先生の何人かに意見を聞いたことがあります。案の定、皆さん、 仕事が多忙なために教壇に立ったり生徒に直接に接したりすることが少ないうえ、生 徒数も多いことから、目立つ子ならともかく、生徒の一人一人の性格や生活まで把握 することは極めて困難であると口をそろえて話してくれました。ただ、日本ではとに かく上に立つ人間が謝ればことは一応収まるので、もし問題が起きたときに、自分た ちも、生徒のことを一番知っている担任の先生から事情を聞いて、その後マスコミに 向けて説明したり謝ったりするだろうとも話してくれました。日本の学校の校長先生 を務めるのは本当に大変なことだなと思いました。 考えてみれば、「お上」が謝れば済むという習慣は、昔の日本の切腹文化に通じるも のがあるように感じます。切腹が「文化」であるかどうかはわかりませんが、とにか く日本ではその昔、問題やミスを起こした武士もしくはその上司が責任を取って切腹 の儀式さえ行えば、ことは本当に収まるということを、僕は時代劇や藤沢周平の小説 でよく目にしてきました。「潔い」という印象も受けますが、「へえ~、これで終わ りなのか」という疑問が残る場合もしばしばあります。ただ切腹して死をもって罪を 償うことと、単調な口調で「誠に申し訳ございませんでした」といって頭のてっぺん を披露することとでは、その潔さに雲泥の差があると思います。いっそのこと、「切 腹キット」みたいなものを開発して、死に至らなくても、ほんのちょっと痛い思いを して謝罪儀式、もとい謝罪会見を行えば少しはサマになるのではないかと思います が、いかがでしょうか。 ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研 究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別 研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディング ス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司 編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書 センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋 館出版社)2009年。 ----------------------------------- 2009年8月26日配信
  • 2009.08.19

    エッセイ216:オリガ・ホメンコ「経済危機とウクライナのヤング・プロフェショナルの世界観の変化」

    「ダーチャ」の役割 ウクライナは土地が豊かなので、昔から農業が盛んである。19世紀までは人口の大半が田舎に住んで農業に従事していた。産業革命が起きてから町が発展して、人々が移り住むようになった。工場で働いている人々の地位は農民とほぼ同じだったが、ソ連時代には工業を発展させる目的で町のインフラを改善したので、当時は「お湯が出る」町に住むことに憧れている人が多かった。 しかしながら、町に住んでいても、おじいさんやおばあさんや親戚が住んでいるので、田舎に行く機会は多かった。農業の文化が強く残っていて、自然と触れ合うことが大事にされていた。ほとんどの人が、町にある「家」と田舎にある「ダーチャ(別荘)」をもっていた。5月から10月まで、週末は別荘へ行って過ごした。 ソ連が崩壊した時には経済的状況が厳しかったので、自分の別荘でジャカイモや野菜や果物を作る人が増えた。節約というより、そのおかげで生活ができた人も少なくなかった。ダーチャで働いていたのは両親の世代である。若い人たちは別荘で畑仕事をするのが嫌いだった。町の忙しい生活からの切り替え、あるいは気分転換の場として別荘を使う人が多かった。両親に「手伝いなさい」と言われても断る人が多かった。 2008年経済危機の影響 今回の経済危機でウクライナの通貨は非常に強い影響を受けた。1ドル=5グリブナーから8グリブナーになった。リストラされ、自分の人生について考え直す人も少なくない。そして若い人にとってのダーチャの役割や使い方が変わった。 ウクライナで最も読まれている週刊誌「コレスポンデント」の5月15日号は、以前は農業を全然やらなかったのに、通貨危機後に興味を持つようになったヤング・プロフェショナルを紹介している。 27歳のダニールさんは野菜の種を買っている。それをダーチャで植えるつもりだ。彼はソフトウェアのエンジニアで、去年までは両親から受け継いだダーチャをピックニック場としてしか使わなかったのに、今年は奥さんから「ダーチャに野菜を植えましょう」と言われて畑作りを始めた。 専門家は「経済危機によって起きた問題を忘れるためにダーチャでの野菜作りを趣味として始めた人が多い。彼らは中流のマネージャーたちで、今まで野菜作りなど全然考えていなかった人ばかり。もともとライフ・スタイルにおける要求が高く、町での優雅な生活を捨てるつもりはない。週末に野菜作りをしても「農民」になるわけではない。ただ会社の問題から離れ、頭を「空っぽ」にするためにそうやっている」と分析している。 メディアの悪い影響 ウクライナのメディアは去年の秋から悪い予測ばかりして人を脅かしている。そのため、テレビを見ることをやめ、その代わりに「非現実的な世界」に逃げる人がたくさんいる。まず、本。特にいろいろな時代を生き延びた作家の本が読まれるようになった。そして、安い「アパート形式」のコンサートがたくさん開催された。チケットがかなり安くなった。また、秋に大統領選があるのに、オレンジ革命後の政治家への不信感が強いので、「政治に関わらない市民活動をしよう」と呼びかける人もいる。5月17日にキエフの中心にある広場で、あるアーティストが「皆でバラから絨毯を作ろう」と呼びかけたところ、非常に大きな反響があった。昔の日本の「千人針」と同じで、一人一人が一本のバラを作って、それを繋げれば大きなバラの絨毯になるという意味である。つまり、ニュースは見ない、読まない。でも、自分の家族や友達と連帯して、次のもっと良い時代がくるまで生き延びようと考えているのだ。 まだ30歳にならないミハイルさんは、音楽会社のディレクター。3週続けて土曜日にはキエフ郊外にあるダーチャでトマトの種を植えている。その種は、町のアパートで水につけて寝かせておいた。ダーチャで大活躍していたバーベキューセットもどこかにしまうつもり。場所をとるばかりで、邪魔だから。そこにトマトを植えるつもりだ。最近CDの売上が非常に落ちている。以前は仕事が多かったので、週末でも仕事していた。働き蜂になってしまっていた。しかし、経済危機がきて仕事の量が減ったので、週末に畑仕事を始めた。伝統的な畑仕事をやりながら、自分のビジネスをどのように復活させれば良いか考えている。種を植えながら、ビジネスのことを考えている。農業をやるつもりはない。野菜が一番高い時でもスーパでいくらでも買えるが、「かりかりという音をたてるきゅうりを自分で作るのも悪くない」と言う。彼らは仕事の面でも「成果」を狙うのが好きだが、これもある意味で「成果」なのだ(笑)。 畑仕事の道具を売っている店の34歳のオーナーに聞くと、最近道具を買ってくれる人にはヤング・プロフェッショナルが多い。まず、彼らは経済危機でこの半年間忘れていた「満足感」を得られる。その上、彼らはいつも経済効果を狙い、それをよくわかっている人たちなので、ダーチャでの野菜作りの仕事についても、経済効果も含めていろいろな「成果」があると言っている。このオーナーも自分のダーチャで畑を作っている。200平米の土地で少なくとも500キロのジャガイモを作れる。そしてトマトを20本植えたら300キロのトマトが売れる。人参、タマネギ、ハーブなどを植えるのにはそんなに場所を取らない。 実は、このオーナーも以前は畑仕事を全然やらなかった。経済危機が起きた時にいろいろな問題が発生し、気分的にも大変だったので、奥さんに薦められた。彼女はインターネットから畑仕事について様々な情報をリサーチして彼に渡した。それでやり始めた。初めてなので、本当にジャガイモ300キロができたらそれをどのように収穫するかまだ分からない(笑)。万が一の時には、友達に呼びかけて皆で収穫会をやるそうだ。 キエフ市の貿易委員会の責任者によれば、2月半ばの連休に町で開かれた畑仕事関係の市場では、10万人が何らかの買い物をした。それは青空市場だったが、それ以外にも専門店がかなりある。全部の売り上げを足したら結構大きな数字になるだろう。種、道具、苗木、肥料がよく売れる。「経済危機でも、なまけものは畑仕事をしないでしょう」とその専門店の店長は言う。彼自身のビジネスに経済危機の影響はなかったようだ。 どのような種が売れるのかと聞くと、「ウクライナ人は少し保守的で『慣れているもの』しか買わない。赤かぶ、人参、キャベツ、トマトの種の売り上げが相変わらず伸びている」と言う。しかしながらある会社員の女性たちは野菜ではなく、花を植えている。それで「気分転換ができ、安らぎを感じる」のだそうだ。 ある広告代理店の女性のマネージャーの話によると、両親のダーチャがあってそこでいつも両親は何か畑仕事をしていたが、彼女はそれに全然興味がなかった。だが今年は両親にお願いして、少し土地をゆずってもらい、そこで「頭を冷やす/空っぽにするつもりで畑仕事をする」という。彼女にとってそれはただの趣味である。 音楽事務所の彼は、「新しいことに挑戦している。チャレンジとしての畑仕事」と言う。ダーチャに行くためにガソリン代がかかるが、この生活をやめるつもりはない。彼に言わせれば「畑仕事をしていきいきする」のだそうだ。 ウクライナの若者は週末に町を離れて、自分のおじいさんやおばあさんと同じように畑仕事をする。そしてそれをやりながら自分の「生きがい」、そして、今後の町での『目的』を考えているのではないだろうか。 ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。2006年学術振興会研究員として早稲田大学で研究。現在はフリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍中。キエフ在住。 ------------------------------------ 2009年8月19日配信
  • 2009.07.29

    エッセイ215:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(下)」

    この人を見よ                僕を理解するには何よりも勇気が要る。 ニーチェ   今となると、トラの抱える障害が果たして先天性のものなのか、それとも乳児期の窒息事故に起因するものなのか、誰もが追究しようとは思わなくなった。それどころか、その障害が一体何なのかを正確に知ろうとも思わなくなった。残念ながら、健常者は大同小異だが、障害者は千差万別である。トラはトラだ、この個性的な命に寄り添い、共に生きていくほかに方法がないという、あまりにも平凡な考えを受け入れるには、実に長い年月がかかったのだ。   トラが障害者だと宣告された時、大人たちはまず自らの救済にとりかかった。それは、体裁を繕うためについ口にしてしまった度重なる嘘と、わらにもすがるような思いであらゆる科学的、非科学的な治療を試みた徒労と、一切の経験がものを言わなくなり、未知の現実の荒海に投げ込まれた、不安に満ちた日々であった。その間、トラは「治療」の苦しみに堪えながら、もがき続ける大人たちが正気に戻ることをひたすら待っていた。そして、いつの間にか、走れる、話せる、歌える、人の眼を見て話を聞くことができるようになった。   ある日、勉強が大嫌いなトラは珍しく本を手に取った。本といっても、分厚い通販のカタログにすぎなかった。トラは小さい頃から本を破る癖があるため、大人たちはいつの間にか識字カードや絵本を買い与えなくなり、彼の手の届かないところに本を置くことにした。 トラはまず表紙にある電話の写真に指をさしながら、「これはなに?」と横に座る私に眼で聞いた。 「電話だよ、で・ん・わ」私は親指と小指をたて、手首を左右に振りながら、電話をかけるポーズをしてみせた。 すると、トラは「リン、リン、リン」と、笑いながら受信音の真似をした。 「そう、そう、電話はリンリンと鳴るんだね」 私はトラの反応に思わず昂奮した。漸く掴んだ教育のチャンスを逃すまいと意気込んだ。 次にトラの目に留まったのは、枕に頬を当てながら安らかに寝ている外国人女性の写真だった。 「これはまくら、トラが大好きなまくらだよ」 「これはフライパン、おばあちゃんはいつもフライパンで料理を作ってるね」 「これはケーキ、トラもケーキが大好きでしょ、美味しいね」 「これは化粧品、お母さんが毎日使っている化粧品だよ」 トラは異常な速さでページをめくった。私は声を張り上げ、彼の指差した商品を一つずつ丁寧に説明しながら、家に絵本を置いていないことが残念でならなかった。しかし、一冊を読み終わると、トラは再び、電話、まくら、フライパン、ケーキ、化粧品の順に指をさし、私の顔を見上げた。   知的障害者に対して、誰もが説明を繰り返す労力を惜しまないだろう。それは私たちが十分に寛容だからではなく、無意識の中で彼らの理解力を信じていないからではないのか。 トラが知りたいのは本当に商品の名前なのだろうか。よく考えてみると、彼が興味を示したのは、身近なものばかりだった。三十センチもある分厚いカタログのなかに、知らないものが山ほどあるにもかかわらず、彼は実にすばやく、自分のよく知っているものだけを選び出したのだ。トラは私の言葉をよく理解したに違いない。が、私は彼が何を知りたいかすら、想像も付かないのだ。   トラが三度目にまくらの写真をさした時、私は言葉を変えてみることにした。 「ああ、きれいなお姉さんだね、髪が長いねえ」 「あら、いろんな野菜があるじゃない。トラは野菜の名前言えるかな。パプリカ、ピーマン、ブロッコリー、トマト」 「ケーキの上にトラが大好きな果物がいっぱいあるねえ。イチゴ、リンゴ、キウイ、美味しそう」 「これは頭を洗うシャンプだよ、これはお母さんが毎日使う化粧水、これはリップクリーム」  ……   四度目には、私はあえて色に注目した。 「緑のベッドだね。お姉さんが気持ちよさそうに寝ている。トラも寝るか」 「野菜の色がきれいだね。これは何色?赤、緑、黄色」 「果物も色とりどりだね。赤いのはイチゴ、緑は?キウイだよ」 しかし、化粧品には、色がない。不揃いな白いビンだけが並んでいた。 私は咄嗟にブランド名を口にした。 「これはヴァセリン、ブァ・セ・リン」 すると、トラは突然小さな声で復唱した。 「ヴァセリン」 「そう、それは?パンテン」 「パンテン」 「これはメンソレータム」 「メンソレータム」 トラは、鼻音の伴う三つの言葉の音を楽しんでいるように何度も繰り返した。言葉には意味だけでなく、色彩も音楽もある。もしかして、トラはそれを私に伝えたかったのかもしれない。彼はそのカラフルで美しきメロディーの響きあう世界に私を誘ったのである。たとえその一時間の中で、トラは結局私から期待していた言葉を聴くことができず、私も彼の言いたかったことをついに理解することができなかったとしても、私たちは心から相手を理解しようと思い、理解してもらおうと真剣に向き合ったのだ。   これほど完璧なコミュニケーションはほかにあるのだろうか。   相手を理解しようとする執念もなければ、自己を省みる勇気もない人間は、往々にして自己主張の能力をコミュニケーション能力と勘違いし、独語を対話と取り違えるのであろう。 「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクション」。 「健常者」はこの巨大なハンディを一生背負わなければならないのである。 -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月29日配信
  • 2009.07.22

    エッセイ214:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(中)」

    トラちゃんの金曜日 トラは外出が好きだ。朝は祖父ちゃんといっしょに散歩に出かけ、午後は、祖母ちゃんと一緒に買物に行く。祖父ちゃんと一緒なら、ただ歩くだけでつまらないけど、疲れたら抱っこしてもらえる。祖母ちゃんと一緒なら、海老や魚などいろんな生き物が見られて楽しいが、荷物を持たされる。「もう疲れたよ」とわざと袋をひきずって見せても、祖母ちゃんは知らん振りをする。トラもたまには一人で遊びたいのかもしれない。が、一人で外を歩かせるわけにはいかない。幼い頃は、被害を受けることが心配だったが、大きくなると、「危害」を加えることがもっと心配だ。 寂しくなったら、トラは大声で家族を呼ぶ。厳しい祖母ちゃんに対しては、顔をぐっと近づけ、大きな前歯を見せながら、鼻に皺を寄せて笑って見せる。すると、祖母ちゃんは「まあ、なんて醜い顔!」と笑い、思い切りトラを抱きしめる。優しい祖父ちゃんに対しては、彼はその腕に倒れかかり、お姫だっこ(!)をねだる。いまやこの要求に応じてくれるのは彼を溺愛する祖父だけであることを、彼はよく知っている。お父さんが帰ると、トラは直ちに洗面台に連れ込み、音を出しながら鼻をかむ真似をさせる。鼻炎のある父親のこの癖がいつの間にか二人の間の絆を確認する儀式となった。   もっとも、トラはいつもこのような温和な形式で感情を表現するとは限らない。髪を引っ張ったり、腕をつねったり、思い切り背中を叩いたり押したりするのも、彼ならではの関わりを求めるシグナルである。こうした「挨拶」の仕方はたしかに十分に「文明」ではないが、「こんにちは」といった万人に通用する文句より、はるかに豊かである。それは、相手との距離によって使い分けられた決まりきった挨拶ではなく、〈いま、ここ、あなたにだけ〉伝えたい彼の気持ちなのである。   しかし、彼の気持ちを理解しているつもりの私でも、ついに堪忍袋が切れ、「私はあんたの家来じゃねえよ」と、つねりかえしたことがあった。その時のトラの眼には、私の豹変への驚きと怯えと、理解されない悔しさと怒り、さらにどうしたら関係を修復できるかという困惑が交じり合っていて、私の脳裏に深く焼き付けられた。「トラよ、誰もが家族と同じように寛容ではないことをどうか理解してくれ!」、そう心のなかで叫びながら、私は後味の悪い「反撃」をもう二度としないと誓った。   トラは鋭敏な聴覚の持主である。マンションの四階にいながら、家族の誰かが階段を上ってくると、彼はすぐ誰であるかを正確に当てることができる。夕刻が迫ってくると、トラはそわそわしてくる。何度も、「パパ!」「ママ!」と大声で叫び、小鳥のように両腕をパタパタしながら玄関に飛んでいく。もっとも、「違うわ」と祖母ちゃんに言われ、しょんぼりと部屋に戻ってくることもしばしばある。どうやら、足音を正確に聞き分けられるのは、鋭い聴覚のおかげだけではなく、家族の帰りを心待ちしている彼の気持ちの現れでもあるようだ。   家族全員が帰宅すると、トラもようやく落ち着いてくる。早々に夕食を済ませ、ソファーに寝そべりながらアニメを鑑賞するのが、彼の至福の時間である。斜視がひどくなっているため、昼間テレビを見ることを祖母ちゃんに固く禁じられている。無論、祖母ちゃんの眼を盗んで、びくびくしながら見ることもなくはないが、正々堂々と見られるのは夕食の後だけなのだ。その時、もし「トラ、帰るぞ」と言ったら、彼は決まって泣きじゃくる。だが、「トラ、風呂に入ろう」と言ったら、彼はそれほど嫌がらない。   トラはお父さんと一緒にお風呂に入るのが好きだ。いや、正確に言うと、彼は鏡に映る自分の姿が好きだ。カラフルなバスタオルを身体に巻きつけ、鏡の前で、様々なポーズや表情を作りながら独りでげらげら笑っているのを見ると、さすが家族でも「まったく、鼻持ちならぬやつだ」と閉口してしまう。   こうやって、きれいになったトラちゃんは、「さようなら」と言いながら、祖父ちゃん、祖母ちゃんの顔によだれたっぷりのチューをして帰っていく。聞いた話では、寝る前に、お母さんに昔歌ってもらった子守唄を歌わせ、悲しそうに泣いたとか。 そんなに悲しい思い出、一体何だったのだろう。   トラの去った後の家は台風が去った後のようだ。電話から外れた受話器や、床に落ちた枕や、ひっくり返った亀や、葉の毟り取られた盆栽を眺めながら、祖母ちゃんはいつも恨めしそうに言う、「学校に預ければよかった」と。   だが、翌週の金曜日、トラがまた我が家にやってくるのである。(つづく) -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月22日配信
  • 2009.07.15

    エッセイ213:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(上)」

    トラちゃんの金曜日 トラちゃんは金曜日になると、我が家にやってくる。金曜日には午前中しか授業がないので、トラは学校に行かない。もっとも、それはトラがサボったのではなく、祖母ちゃんがサボったのだ。トラの通う学校まで、送り迎えするには往復四時間もかかるから、祖母ちゃんがかってに決めたのだ。金曜日はお休みって。 トラは家に入ると、すぐお気に入りのぬいぐるみを見つけ出す。その極端に細くなった片足を掴んで、くるくる廻しながら、狭い家を隅から隅まで歩きまわるのが彼の習慣だ。まるでねじの巻かれた自動人形のように、何時間も倦むことなく歩き続けるのだから、とうとう祖母ちゃんが「お願い、もう止めてちょうだい。こっちまで眩暈してしまうわ」と悲鳴を上げるのである。 トラは物静かな子だ。しかし、彼がいると、なぜか家中は魔法がかかったように騒々しくなる。彼は歩きながら、電話の受話器に向かって「もしもし」と声をかけたり、家中の電気をつけ、「あんた、ばかか、昼間だよ」と祖母ちゃんに叱られたり、キッチンでふつふつ煮込む鍋の蓋を開けて覗き込んだり、買ってきたばかりの魚を掴み取ったり、水槽にじっとしている亀をひっくり返したり、しまいには祖父ちゃんが丹精を込めて育てた盆栽の葉を毟り取ってしまうのだ。 もっとも、盆栽の葉を毟り取られた祖父ちゃんは祖母ちゃんと違い、彼には甘い。祖父ちゃんには「トラの片腕」というあだ名がついている。トラが指を差せば、祖父ちゃんはすぐほしいものをとってくれるからだ。無論、トラの言いなりになっている祖父ちゃんもたまに怒ることがある。ただ、その高く上げた手がいつも空中で失速し、トラの尻に落ちた時には、埃でも払っているのかと思われるぐらい、軽くなってしまうのだ。「孫の手」は容赦ないが、「祖父ちゃんの手」は優しすぎる。 孫は眼に入れても痛くない、それは世の人情だ。が、祖父ちゃんの愛の裏には「残酷」な理由がある。「脳に障害のあるトラには分からない」と、祖父ちゃんは医者だったがゆえに、固く信じているのだ。しかし、長年観察してきた結果、「トラはよくわかっている、わかりつつある」というのが、祖父ちゃんを除いた我ら家族の一致した結論である。たとえば、トラはこの頃、大人の気をひくために当たり障りのない嘘をつくようになった。ただ、その嘘がすぐばれてしまい、いまやオオカミ少年のようにすっかり信用を落としてしまった。また、謝れば許してもらえると分かって以来、彼は悪戯がばれる前に「壊れた」と自ら名乗り出ることにした。その戦術が功を奏したからか、最初恐ろしい形相で問い詰め、慌てふためく大人たちも、「壊れた?もうこれ以上壊せるものはないわ」と、だんだん呑気になってくる。大声で驚かしてはならないと大人たちが反省しているのを察知したかのように、トラはこのごろ、ちょっと叱ると、すぐ心臓に手を当てながら怯えているふりをする。そのくせ、まじめな話をすると、まるで耳の遠いお年寄りのように知らん振りをする。その憎たらしい「使い分け」を見抜いた中卒の祖母ちゃんは、「それでも、トラがわからないというのか」と、祖父ちゃんに反論する。 祖母ちゃんは機嫌のいい時には、「トラは生まれつきの享楽者だ」と言う。機嫌の悪い時には、「トラは無類の怠け者だ」と言う。さらに機嫌の悪い時には、「まったく、お父さんそっくりだ」と、息子への小言までも一緒に言ってしまうのだ。 夏になると、トラは床にマイ・ゴザとマイ・マクラを敷いて寝転び、冬はロッキングチェアを揺らしながらひなたぼっこをする。寝転んでいるトラは、足を組みながら、たまに思い出すかのように、家族の名前を一人ずつ呼んだり、歌を歌ったりする。トラは言葉が少ないが、歌は驚くほどうまい。音程が外れることはめったにない。ただ、ろれつが回らないため、何を歌っているかよく聞き取れないのが何よりも残念だ。 だが、こんなトラでも時に窓を開け、その能天気さと似つかわしくない大きなため息をつく。しばらくすると、ぴたっと窓を閉め、何食わぬ顔でまたぬいぐるみをくるくる廻しながら部屋を歩き始める。彼の視線の先は、果たして老人たちがダンスに興じる公園なのか、子どもたちの笑い声が絶えない幼稚園なのか、それとも夕暮れに赤く染め上がる空の彼方なのか、彼が口を噤む限り誰も知らないのだ。(つづく) -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2009年7月15日配信
  • 2009.07.08

    エッセイ212:マックス・マキト「マニラ・レポート2009春」

    新型インフルエンザが発生してWHOがフェーズ5を宣言したころに成田を出て、4週間マニラに滞在した。フィリピンでは一番暑い季節である。着いた時には新型インフルエンザの感染国リストに載っていなかったのに、グローバル化が止められないように、ウィルスは国境を超えて広まり、フィリピンでも現時点(6月30日)の感染者数は1709名(その86%は回復済みで、患者の平均年齢は18歳)である。僕は幸いに無事に過ごすことができた。(でもこのように症状が軽い病気の場合は、かかったほうが免疫力が高まるから良いという見方もあるそうだ。)   今回、マニラを訪問できたのは東京大学の中西徹先生との共同研究のおかげで、5月6日にSGRAの第10回日比共有型成長セミナーを無事に開催できたのはアジア太平洋大学(UA&P)のビエン・ニト先生のおかげだった。セミナーのテーマは「労働移民と貧困」であった。 まず、UA&Pの社会経済学課長のニト先生とフィリピン大学の元社会学部長ナネット・デュンゴ先生が国際的な観点から議論をした。フィリピンからの労働移民の特徴として、サービス部門や女性が大部分であると指摘し、その社会的コストが強調された。つまり、サービス部門関係の仕事をする女性が海外へ出稼ぎにでることが、社会の基本単位である家族にいかに打撃を与えているかという懸念を取り上げた。 休憩を挟んで、中西先生は国内的な観点からこの問題をとりあげ、20年間以上観察し続けたマニラのスラム地域の研究を発表した。社会ネットワーク分析という先駆的な研究方法を利用し、スラムにおいてもコミュニティが形成されていることを指摘した。その後、会場からの質問に対して、とくに、中西先生の友人であるアテネオ・デ・マニラ大学(カトリックのイエズス会)のボイング・バウティスタ先生から丁寧にコメントをいただいた。 そのあと、僕がふたつの観点をまとめる試みとして、共有型成長という目標達成のために都会の労働移民が果たす役割を論じた。すなわち、フィリピンの国際労働移動は多すぎるが、都会のスラムから出られなくなった元々地方からの国内労働者の移動は小さすぎると指摘した。 最後に、UA&Pの経済学科長である相棒のピーター・ユ先生に閉会挨拶を短めにお願いしたが、彼の挨拶は力が入って長かったし、「一番帰ってほしいフィリピンの海外労働移民はマキト博士だ」と皆の前で堂々と言ったので照れる一瞬もあった。ありがたく思っているが、数十年間の日本生活を犠牲にして母国に帰国するのは果たして母国にとって良い戦略であろうかと常に考えている。年3回ぐらいフィリピンに帰ってみんなと共同研究をするのが、いまのところベストな方法ではないかと思っている。 このセミナーの内容はアジア太平洋大学のニュースレターに掲載される予定である。   自動車産業の研究は、予想以上に、データの収集が上手く行かずに困っていた。そんな状況にも関わらず、自動車会社の協力者が政府とアポイントを取った。何を話せばいいか約束の日の前夜まで悩んでいたが、幸いにアイデアが浮かんで、5ページぐらいのノートを、会議場の近くで朝ごはんを食べながら書いた。その結果、自動車会社と政府と自動車産業組合が、フィリピン自動車産業の共有型成長ロードマップというテーマで、8月にワークショップを開催することになった。実現すれば、第11回目のSGRA共有型成長セミナーになる。これで実態が大きく変った。フィリピン政府と自動車産業組合は、従来、約5億円で下請けを引き受けた外資系コンサル会社が作成しているロードマップだけを検討してきたが、今回のマニラ滞在でSGRAが関わっているロードマップも同時に検討してくれるようになった。   海洋船舶工学の活動については、何回もフィリピン大学の機械工学部の仲間たちと話し合った。日本の財団に研究助成金を申請したが当たらなかったし、不景気のせいか最初僕らのプロジェクトに興味を示してくれたスービックの造船所も冷たくなったので、皆落ち込んでいた。とにかく、みんなと話し合って、つぎの手を考え出した。マニラのホテルで、スービック湾メトロ管理局の会長と面会してアドバイスを受けた。幸いに彼は依然としてこのプロジェクトに関心を示してくれた。これからどうすればいいか探っているところである。(読者のみなさんからアドバイスがあればぜひご連絡ください。)   UA&Pの政策提言(ADVOCACY)機関になるCENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)と提携した5年間のプロジェクトについては、援助機関であるGLOBAL DEVELOPMENT NETWORK(GDN)との契約交渉がまだ終わっていない状態だが、今月中にCRC側が指摘したいくつかの点をクリアすればサインされる見込みである。先月、このプロジェクトの代表2名がWASHINGTON DCで開催された研修に14カ国の代表者と一緒に参加した。彼らは、オバマ大統領の姿も見ず、新型インフルにもかからずに、3日間のハードな日程を終えて無事にフィリピンに帰ってきた。CRCとSGRAの共同事業についての話し合いはようやく終わったようである。   このプロジェクトのテーマはGOOD GOVERNANCEである。最近、このテーマに対して研究資金がかなり回されているようだ。実はマニラ滞在中にも、同じような研究募集があったので、みんなで応募した。中西先生は、現在進行中の世界金融危機から示唆されるように、市場自由主義は失敗したようだが、それを容認したくないので、発展途上国が未開発である主な原因を途上国の政府のせいにしようとしているのではないか言われた。確かにそのような側面もあるかもしれない。とにかく、援助側が想定する開発ではなく、被援助国が目指す開発に重心をおかなければならない。これは確かに僕が東大の大学院時代に研究した日本のODAの自助努力理念から学んだことである。今回の援助プロジェクトは欧米のファンドによるものだが、日本のODA理念をできるだけ活かしたいと思う。 第10回日比共有型成長セミナーの写真 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
  • 2009.07.01

    エッセイ211:林 泉忠「20年目の『六・四』と中国の『ネット管理』」

    「六・四」天安門事件から20年になった。「20年」であるだけに、例年より話題が増え、注目されている。 今年の話題は、「六・四」前後に中国の政治改革や「六・四」事件などを語る趙紫陽元総書記の録音に基づいた本が出版されたほか、中国人の間ではこの事件に対する関心が薄くなってきていること、そして中国のマスコミは事件に関する情報を厳しく統制しているということである。 海外のマスコミが伝えた通り、中国では、特に若い人の間では「六・四」事件に無関心の人が多く、知る人さえ少なくなってきていることは確かなことであろう。また、近年海外に移った中国本土出身の若者も似たような状況にあるようだ。私が住んでいる町ボストンでは、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など名門校が集中し優秀な中国の若者が多いが、この件に関しては例外ではない。 何人かの中国人大学院生に聞いたところ、その多くは中国にいた時、事件のことについてあまり知らなかった。その理由は、「教科書には書かれなかったし先生も教えてくれなかった」「親からも何も言われなかったしマスコミも一切取り上げなかった」というものだった。 また、「六・四」事件に関して意見を聞いたところ、それらは以下のいくつかの意見に集約される。 「中国は発展している。過去のことにこだわる必要はない。」 「私は何もできない。できるのは早く卒業していい仕事を見付けることだ。」 「海外の民主化活動家は中国政府のことを批判しがち。それは建設的ではない。」 「犠牲者には気の毒だが、中国は人口の多い国なので民主化は簡単なことではない。下手にすると社会が大混乱する」 ハーバード大学で開かれた「『六・四』追悼集会」に出席するかどうかに聞いたところ、興味がないか、出席すると帰国する際、問題になるかもしれないと答えた人が多かった。実際、6月4日夜の集会への出席者は、30歳以下に見える若者は昨年より増えたとはいえ、全体の四分の一にとどまった。 一方、「20年」ということで、集会は去年の3倍になり150人が参加した。ただし、その規模はワシントンDC、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコといった大都会の同類の集会には遥かに及ばなかった。東京や中国人の多くいるヨーロッパの街にも似たような集会があったと言われている。むろん、規模の大きさと言えば香港に違いない。実際、「六・四」事件が風化している中、数万人が集まって追悼行事を毎年行っている中国系社会は香港だけである。アメリカの新聞も、香港の集会には今年は20万人が駆けつけたと伝えている。   しかし、予想通りとはいえ、中国本土のマスコミは海外のこうしたイベントを一切伝えなかった。香港に本拠地を置く大陸向けのフェニックスTVも取り上げなかった。海外メディアの中国取材も制限されており、CNNの天安門広場での取材が普段着の警察官に傘で妨害されたのも象徴的な出来事であろう。インターネットでも、「六・四」に関する情報や書き込みは禁止されたり削除されていた。6月4日当日、多くの海外のサイトには繋がらなかったとも伝えられた。 数年前、中国のネット上の情報統制は頻繁に行われ、4万人の「ネット警察」が存在すると耳にしたが、実態は明らかになっていない。そのため、自分も半信半疑だった。ところが、昨年4月、北京に本拠を置くフェニックスTVのブログの要請でそこでブログを開いたことをきっかけに、政府はネットでどのようにして情報と言論をコントロールしているか少しずつ理解するようになった。自分がアップロードした拙文は最近まで削除されることはなかったが、たとえば間接的に香港の民主化問題に言及した文章の下に残した読者のコメントには不自然なものが多く、それらは「ネット警察」が読者を偽ってコメントを書いたのではないかと言われている。官制文章とは別に、「民間の声」としてネットで世論を作るのももう一つの方法だろう。 そして、今回は思い掛けず、「六・四」天安門事件の情報はいかに厳しく統制されているか実際に体験してしまった。 今年の3月27日は、私の日本留学から20年目にあたった。20年前のその日は、「六・四」事件のきっかけである胡耀邦元総書記が亡くなる直前のことだった。言い換えれば、私の日本留学初期の日々は、まさに中国の民主化運動と「六・四」との重なりなのであった。20周年にあたる今年は、何らかの形で記念文章をブログで書いてみたいが、「六・四」に間接触れる可能性があるとブログの編集に相談した。そうしたところ、担当者は「まぁ、大丈夫でしょう。書いたらトップページでちょっと紹介してみるから」と励ましながら、「六・四」の日を避けて一週間前にアップロードしてくださいと助言した。 そして、5月28日に「20年前の家と国への思い~我が若き東京留学の日々」と題する文章をアップロードした。内容は、20年前に日本に来たばかりの留学生活、そして北京の民主化運動で沸騰する故郷の香港からのニュースを中心にしたものだった。当時の北京の様子を描いたものでもなければ、「天安門」や「六・四」の言葉の使用も避けた。しかし、なぜか文章は約一時間後に消えてしまった。不思議に思った私は再度アップロードしてみたが、同様のことが起こった。 五月の連休が明けた後、ブログの拙文を回復できる方法を当番の別の編集者に尋ねた。「別に拙文をトップページで紹介しなくて結構ですので、個人のブログに残してもよいでしょうか」という質問に、「難しいです。林先生のブログは名ブログですので、個人のブログに残るだけでも影響力があります」と。そして、文章に残った「敏感」な言葉を削除したり「中国」を「ZG」にし「学生運動」を「XSYD」にしたら回復可能だろうかと提案したが、「そういう問題ではありません」「今の時期は『20年』という語彙が含まれる文章でさえ自動的に削除されますよ」という厳しい回答だった。「では、この『敏感』な時期が過ぎましたら、また回復をお願いしますね」と私はメッセージを残したが、今も回復されていない。 しかし、拙文が削除される前に、すでに約100回のアクセスが数えられ、読者からの励ましのコメントもあった。また、「大作はなぜその後消えたか」という読者からのメールももらった。気の済まない私は、読者への説明を意識して、6月4日の夜に自分のブログの伝言欄に次の短い文を残した。 「早くも20年。今日は『少年中国』という歌を聞きながら、涙がボロボロ落ちました。20年前に両岸三地(中華圏)の多くの同胞が『血染的風采』『愛自由』『歴史的傷口』を歌っていた時のように。先週の5月28日にこのブログに私が『20年前の家と国への思い~我が若き東京留学の日々』をアップロードしましたが、なぜか一時間後に消えました。ブログ編集者の問題ではないですが、国内(中国)では誠実で独立した思想をもつ知識人になることの難しさを実感しています。」 しかし、このメッセージも30分後に削除された。北京時間6月4日夜10時のことだった。「ネット警察は夜も働いているようですね」と友人が笑った。 今回の体験から、中国では「六・四」のような「敏感」な事件に関するネット情報がいかに厳密に管理されているか、その一端が分かった。 「六・四」からすでに20年経った。経済発展を遂げながら多くの面で国際社会への「接軌」(諸制度をグローバル・スタンダードに合わせる)も積極的に重要視している中国の多くの国民も、国際社会に尊敬される真の大国になるには、今も厳しく行われている「ネット管理」をはじめとする情報統制のあり方を問い直すことが必要であることにも気付き始めた。しかし、それには、また20年の歳月がかかるのだろうか。 2008年6月9日ハーバード大学ロースクール図書館より ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-tiong, Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。2008年4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ---------------------------------- 2009年7月1日配信
  • 2009.06.24

    エッセイ210:南 基正「盧武鉉大統領の死を想う」

    盧武鉉前大統領の衝撃的な死から1ヶ月が経った。その間、私の中では、衝撃、憤怒、虚脱、自責、哀悼、愛惜、悔恨、覚醒、などの感情が入り乱れ、うつ病に似たような状況に陥り、何も考えられず何もできない時間が一日に何度もあった。断っておきたいが、私はいわゆる「ノサモ」の人ではない。「ノサモ」とは、「ノ・ムヒョンを愛する会」の略称で、盧武鉉前大統領を熱烈に支持する市民の集まりである。2002年の大統領選挙で大きな力を発揮した。   2000年の総選挙で盧武鉉氏は、韓国の東南部・慶尚道出身でありながらも韓国の西南部・全羅道に支持基盤をおく民主党の候補として、当選が確実視されるソウルの選挙区を捨て政治的故郷の釜山から出馬し落選した。その愚直な姿に感動した人たちの小さな集まりが「ノサモ」の始まりである。民主化を成し遂げた韓国社会の最後の課題である地域利己主義に立ち向かうその姿に心を打たれた人は少なくなかった。その5年前の1995年、釜山市長に出馬し落選した翌朝にはラジオ・インタビューで「農夫が畑を恨むことはない」といい切り、地域主義の強固さに落胆していた多くの人を泣かせ、更に奮い立たせたのである。   1990年の三党合党では、これを野合と批判し、敢えて非主流の道を選択した。労働運動と学生運動の活動家たちを支援する人権弁護士として軍事政権に抵抗していた盧武鉉氏を政界入りさせたのは金泳三氏であったが、政治の師匠でもあったその金泳三氏を激しく批判する姿に痛快を覚えた人もまた多かった。1988年に国会議員として初当選し、全斗煥政権の不正を暴きだした聴聞会では核心に迫る鋭い質問ぶりで、多くの国民に「スター政治家」の誕生を印象付けた。貧農の息子として生まれ、高卒の学歴で苦学の末に司法試験に合格したこと、普通に兵役を終えたことなども、多くの国民に親近感と希望を抱かせた。   私はこのような経歴の盧武鉉氏が好きだった。政治家としての評価を離れ、ただ人間的に好きだった。だから2002年の大統領選挙でも彼を応援した。当時、私は東北大学で学生たちを教えていた。韓国政治そのものがテーマではない講義やゼミだったのに、授業中に大統領選挙についても多く語っていたように覚えている。投票当日には、ゼミのコンパで遅くまで学生たちと飲んでいた。何時だったのかは覚えていないが、ある学生が盧武鉉氏の当選の知らせを持ってきた。私は素直にうれしかったので、学生たちと何度も乾杯をした。盧武鉉氏の当選に乾杯し、彼を当選させた韓国政治の成熟に乾杯し、平和路線の継承に乾杯した。しかし、日本での反応は冷ややかであったように覚えている。日本のマスコミは韓国の保守系新聞の論調に振り回されているように思われた。韓国の保守系新聞は、盧武鉉氏とその周辺に「反米左翼・アカ」とレッテルを貼り、伝統的保守主義に寄り集って反盧武鉉キャンペーンを張っていたのである。2002年の9月に小泉首相が訪朝し、金正日国防委員長が日本人拉致の事実を認めた後、拉致責任追及の反北朝鮮キャンペーンが日本のマスコミを連日にぎわせていた。そのような時、日本の国民は対北朝鮮平和路線の継承を訴えていた候補の当選に当惑したのであろう。   盧武鉉氏がまだ当選者であった頃、福岡のアジア太平洋センター(現、福岡アジア都市研究所)から「韓国・新大統領の誕生と日韓関係の展望」をテーマに講演依頼を受けた。盧武鉉氏は、彼の履歴や読書暦からして左翼などではなく、自由と民主主義の信奉者であることを強調した。何よりも北朝鮮問題を解決するにおいて日朝国交正常化が必要であり、更に東アジアの平和体制作りのために日本がイニシアティヴを発揮してくれることを希望していることも強調して伝えた。   しかし、日本はそのような盧武鉉氏の期待に反応することなく、むしろ盧武鉉氏を孤立させた。盧武鉉大統領の在任期間中、北朝鮮政策をめぐって日韓関係はこじれ続け、歴史問題まで絡んだ挙句、日韓関係は戦後最悪とまで言われる事態となってしまった。盧武鉉前大統領の現実認識の甘さを指摘するときよく使われる話である。しかし、日韓関係を研究する立場から見ると、北朝鮮問題をめぐる日本への期待も的外れだったとは言いがたいし、歴史問題についての苛立ちも理解できなくもない。さらに、イラクへの兵力派遣や米国とのFTA締結などを強力なリーダシップで推し進めたことも彼が「反米左翼・アカ」でないことを雄弁に物語っている。逆に韓国の急進派から批判される政策も多かったが、私はその点がむしろ盧武鉉氏のバランス感覚を示していると理解していた。結局のところ、私は政治家としても盧武鉉氏に期待し、応援していた。   そのような人の死の前で、私に客観的な分析ができるはずがない。そのように装ってもいけない。だから敢えて断っておきたい。彼の死の問題を見る視点において、私は大いに党派的である。   当初、私はこの事件から距離を置こうと努力した。しかし、日が経つにつれてそれは私自身への裏切りのように思えた。事件から6日目の日、私は住んでいるアパートの近くに作られた追悼所へ足を運んだ。市内の「大漢門」前の追悼所にもいってみたかったが、時間が許さなかったし、それよりも、一人で静かに追悼したいという気持ちがあった。区民会館に作られた追悼所にもすでに多くの人が駆けつけ、私が訪問した当日も、常に3-4人が並び追悼の列が中断することはなかった。献花し黙祷し、そして、喪主として出てきた関係者のほうにいき抱き合った。最後の行動は計画になかった行動であった。抱き合いに行ったというよりは、文句をいいにいったというのが正確であろう。文句をいおうとして出てきたのは「しっかりしてくれ」という言葉だった。その瞬間、涙が急に出てきた。自分でも予想できなかったことなので当惑した。何年間も人前では泣いたことがなく、泣くことを忘れてしまっていたので、どうしたらいいのか分からず、慌ててその場から逃れるように出てきてしまった。   次の日、国民葬が行われた。昼食の約束があり、ソウル市役所前の市民広場で行われた路祭には途中からしか参加できなかったが、あの群集のなかで私が確認したのは、「平和」と「民主主義」の危機を鋭く感じている多くの市民が、自発的参画の意味をようやく自覚し始めたという事実である。今の政府がその意味を過小評価し、このような動きを公権力で抑えて乗り切ろうとするなら、韓国の悲劇はここで終わらない。路祭からの帰り道、悲劇を繰り返さないために私に何ができるか、ずっと考えていたが、答えは簡単ではないようだ。 ------------------------------------------------ <南基正(ナム・キジョン)☆ Nam Ki Jeong> 1988年ソウル大学外交学科卒業。1991年来日、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士論文は「朝鮮戦争と日本―基地国家の戦争と平和」(2000年)。韓国・高麗大学平和研究所責任研究員、東北大学法学研究科教授を経て、現在、韓国・国民大学国際学部副教授。戦後日韓関係を含め、現代東北アジア国際関係に関する研究を行っている。SGRA研究員。著書(共著)に『日韓の共通認識―日本は韓国にとって何なのか?』(2007年、東海大学出版会)など。 ------------------------------------------------ 2009年6月24日配信