SGRAかわらばん

  • 2006.09.16

    SGRA会員の新刊紹介

    ■佐藤東洋士・李 恩民編 「東アジア共同体の可能性:日中関係の再検討」 御茶の水書房 http://www.ochanomizushobo.co.jp/ 2006年7月15日発行 ISBN4-275-00435-3  --------------------------------------   ○「近現代史における日中関係の再検討」国際シンポジウムの記録。アジアの双璧として地域統合に多大の貢献をなしうる力を備えている日本と中国は、負の遺産として残された「過去」をどのように克服していくか、東アジア共同体の構築の上での最も重要な課題に挑む。   ○目次 第1部 日中関係の再検討:近代史の視点から (黄自進、横山宏章、邢麗荃、服部龍二、聞黎明、植田渥雄) 第2部 日中関係の再検討:戦後史の視点から (宋志勇、大澤武司、松金公正、Unryu Suganuma、大崎雄二) 第3部 日中関係の再検討:教育文化の視点から (小崎眞、太田哲男、町田隆吉、光田明正、石之瑜) 第4部 日中関係と未来の東アジア共同体 (佐藤考一、天児慧、Quansheng Zhao、John N. Hawkins、Gilbert Rozman、Kent E. Calder、川西重忠) 第5部 キャリ外交官・実務経験者の回顧と分析 (白西紳一郎、王泰平、中江要介、田島高志、今西淳子)   ○李 恩民 ( LI Enmin り・えんみん) 1983年中国山西師範大学歴史学系卒業。1996年南開大学にて歴史学博士号取得。1999年一橋大学にて博士(社会学)の学位取得。南開大学歴史学系専任講師・宇都宮大学国際学部外国人教師などを経て、現在桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員。著書に『中日民間経済外交』(北京:人民出版社1997年刊)、『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房、2001年刊、大平正芳記念賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房、2005年刊)など多数。現在、日本学術振興会科研費プロジェクト「戦後日台民間経済交渉」研究中。   -------------------------------------------------------- ■徐 向東著 「中国で『売れる会社』は世界で売れる!日本企業はなぜ中国で勝てないのか」 徳間書店 http://www.tokuma.jp/ 2006年8月31日発行 ISBN4-19-862207-8 --------------------------------------------------------   ○サムスンの経営者は「これからの数年間、中国で勝たなければ世界で勝てない」と口癖のように言う。これこそがサムスンの中国戦略のベースになっている。(中略)現に、中国の携帯電話市場でトップ3のシェアをもつノキア、サムスン、モトローラは世界市場でも同様の地位にある。そして中国で売れない日本の携帯電話は、世界でも売れてないのだ。(中略)技術力だけでは世界市場で勝てないことをまず肝に銘じておくべきだろう。(「はじめに」より)   ○目次 はじめに 日本企業はなぜ中国でサムスンに負けたのか 第一章 「新中間層」が牽引する巨大消費市場 第二章 「新中間層」を取り込むマーケティング戦略 第三章 「新中間層」の心をつかむブランディング戦略 第四章 「新中間層」が踊る都市経済圏   ○書評(前野晴男):中国に進出した日本企業の中には思い通りの成果が上がらず苦戦している企業も多い。本書はこうした企業がいかに行動するべきかのポイントが記されており、現在独走中の韓国やヨーロッパの企業について解説されている。派手な広告とベタな人海戦術のマーケットにいかに進出してゆくか。その答えは一個百円から一箱数万円もする豪華月餅の行方に隠されている。(以下は下記URLをご覧ください) http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2437104/detail   ○徐 向東(Xu Xiangdong /じょ・こうとう):中国大連生まれ。北京外国大学、北京日本学研究センター(修士課程)、北京外国語大学専任講師などを経て、1996年に立教大学博士課程に留学し、博士(社会学)学位取得。日本労働研究機構情報研究員、中央大学兼任講師、日経リサーチ主任研究員を経て、現在キャストコンサルティング代表取締役社長。専修大学兼任講師。SGRA「人的資源と技術移転」研究チームチーフ。日経リサーチ時代から、中国での市場調査やマーケティング戦略のコンサルティングに従事。2003年2月17日日経新聞経済教室に「中国<新中間層>の台頭」を発表。消費市場としての中国新中間層への注目を日本で初めて提起。  
  • 2006.09.12

    エッセイ004:オリガ・ホメンコ 「国々人々を変えるサッカー」

    6月にドイツのワールドカップに仕事で行く機会があった。ドイツは初めてではなかったが、今回の旅は特別の高揚感を持って出発した。ワールドカップは4年に1度しかない世界的なイベントで、その期間は、サッカーにそれほどの関心のなかった一般人までを巻き込むことを私は知っていたし、その雰囲気を私も味わってみたかったからだ。   まず町中ですぐに気づいたのは、商売上の工夫や努力だった。サッカー関係の様々なグッズを、ワールドカップの流れの真っ只中にいるトレンディーな市民たちが先を争うように身に着けている。参加国の旗の色をデザインした下着まで売っていた。「外からは見えなくても、その下着を身につけて、心から応援しなさい」というメーカーからのメッセージだったかもしれない。その話をウクライナの友達にすると、「女性にとってはそれだけではないでしょうね。1カ月以上も続くワールドカップの間、男性たちはサッカーに夢中でガールフレンドにも無関心になるから、恋人の注目を引くために下着もサッカーのモチーフにしてくれたのかもね」と笑いながら教えてくれた。   レストランも知恵を絞っている。ティッシュにサッカフィールドの絵を入れたり、サッカーゲームの記録を書けるように、フォークとナイフを包むナプキンにスコアを付けたりしていた。家ではなく、外のレストランやパブで試合を見て「盛り上がる」人が多いことを正しく予想していたわけだ。   私がドイツ行きを楽しみにしたのは、サッカーの伝統があり、フランツ・ベッケンバウワーやオリバー・カーンの国がホスト国になるととても盛り上がるだろうと期待したためだけでなく、これまでのワールドカップの歴史を見ると、サッカーは国民を仲良くさせ、自分の民族の「アイデンティティ」を強く実感させることになり、さらに勝利すれば、一般の国民にも大きな自信を付けるということを聞いていたからだ。16年前にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一されたが、合併後の西と東にはなお経済格差がある現実に対して、世界のメディアは今回のワールドカップの試合がドイツの各地で行われることの効果に注目していた。   私は、いくつかのスタジアムを見て回ったが、東西ドイツの両方に新しいスタジアムが建設されたり、古いものを修復したり、ドイツが建設ラッシュに沸いたことが想像でき、経済効果があったに違いないと思った。また、誰もが知っているが、誰も口に出さなかったドイツ人のコンプレックスはサッカーのおかげで発散することができたように思えた。それは、第二次大戦後の長い間、ドイツの学校で採られた教育方針で、「ドイツ人である」という誇りを持ってはいけない、しかも人の前でそれを表してはいけない、戦時中の犯罪行為を戦後のドイツ国民は皆で反省し、償いを果たすべき、と教え続けてきたことである。この話はドイツ人の30歳代の友人から聞いたものだった。一方日本の友達からも類似の話を聞いたことがあるが、それは戦後すぐから1950年代の頃の話だった。ドイツではいかに長期にわたり償い続けてきたかがわかる。   だが、今回のワールドカップでドイツ代表は勝ち抜いて3位に入賞した。応援しているドイツ国民も、初めて、遠慮せずに、自分はドイツ人であるという誇りを持って応援していた。また、国民としてのアイデンティティを改めて確かめることができた。あの時ドイツにいた人は皆それを感じた。毎日ドイツ代表のユニフォームを着て人々は会場に現れたし、会社に出かける姿もあった。ドイツ首相のメリケル氏もインタビューでそのような発言をした。   サッカーで国民意識が高まることは、日韓共催のワールドカップで韓国の国民意識が強くなるという現象があったし、今回のドイツでも証明された。そして我が国ウクライナも同様であった。ウクライナは今回が初出場で国民はとても盛り上がっていた。ワールドカップが引き金になって子供達がサッカーを始めるというのはよく聞く話だが、子供にも国民意識を植え付け、高揚させるとは予測していなかった。ワールドカップの仕事が終わってウクライナに帰った日に、久しぶりに自宅でゆっくり半日かけて洗濯をした。洗濯物を干そうとバルコニーに出ると、外で誰かが歌っている声が聞こえた。   ウクライナの国歌だった。驚いて下を眺めると、マンションの前の公園で小学生の男の子が5人、走りながら大声でウクライナの国歌を歌っていた。驚いた。子供たちが街で子供の歌を歌うことはあるが、普通、国歌は歌わない。しかもその5人は最後までそれを歌い終えたので、とても感動した。これはすごいことだと思った。初めてサッカーの国際舞台に登場したウクライナ代表のプレーを大人も子供も見守り、国歌を歌う場面でサッカー選手とともに感動を味わったのだ。   ウクライナの国歌は19世紀半ばに作られた。「ウクライナは滅びず」というタイトルは可笑しく聞こえるかも知れないが、ウクライナが、ポーランドやロシア、ソ連邦から長い間独立できなかった歴史を示している。15年前に独立を果たしたウクライナがこの歌を国歌にしたことは国民の悲願と言えよう。家の前で「ウクライナは滅びず」と歌っている子供たちに、サッカーであろうが何であろうが「まだまだ滅びないよ」と私も感動しながら応えた。   -------------------------- オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko) 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。現在、キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。 -------------------------- 
  • 2006.09.08

    エッセイ003:マックス・マキト「老後を楽しみにしようよ」

    2006年4月13日、農霧の東京湾でフィリピンの貨物船イースタン・チャレンジャーが日本の貨物船と衝突して沈没した。東アジアの経済大国日本に、僕も大きな夢を抱いてやってきたが、この数年間は先が見えにくく混乱が起きやすいので、果たして無事に着岸できるのかという不安が重く圧しかかっている。日本が大好きで、日本から離れられなかった結果として、多くの日本人と同様に、明るい老後を期待できない状態に陥ってしまったような気がする。   ところが、最近、僕の母国のフィリピンが、灯台のように強い光で導いてくれるかのようになった。「ドンマイ、ドンマイ。引退したらここに住めばいいじゃない」と、母国は僕に話しかける。海外から母国を見ると、また別の側面を発見することができるものだが、どうも日本ではフィリピンのイメージが芳しくない。少なくともテレビから伝わってくるのは、3K、つまり、キツイ、キタナイ、キケンな国というイメージである。正直にいえば、日本に長く居たおかげで、僕自身がそのような考え方に傾きかけていた。しかし、この4年間、SGRAのプロジェクトで毎年3回ぐらいフィリピンの大学と共同研究をおこなったおかげで、今度はまた別の視点から母国を見ることができるようになった。   「キツイ」というよりは「ヤスイ」。フィリピンの一人当たりのGDPは日本に比べてはるかに低いので生活がキツイと考えられるのかもしれないが、フィリピンの物価は日本の4~5分の一と推定されている。例えば、日本で散髪すると、デフレの恩恵をうけた一番安いところでも1000円する。それも、わざわざそういう安い店を探して行かなければならない。しかし、フィリピンでは家の近所に、短くてもスタイルがいい(つまり、丸坊主ではない)床屋があり、散髪の後1分ぐらいマッサージをしてくれて、たったの150円だ。つまり、日本での稼ぎがあれば、フィリピンでは十分に余裕ある生活ができる。   「キタナイ」というよりは「サムクナイ」。南国だから日本の夏みたいにかびが繁殖しやすく、食中毒が起きやすいと思われるかもしれないが、フィリピンの暖かい気候は健康に良い。初めて雪に会ったのは、まだアジア経済研究所が都内にあった頃、当時所属していたフィリピンの研究所との共同研究のために東京に来た時だった。ある朝起きて窓の外を見たら、隣の家の屋根が真っ白だった。すぐに外にでて実際に白くて冷たい粉を触った。雪はとても美しいし、映画でよく見る北国の格好いいファッションも着られるので、毎年冬を楽しみにした。でもそれは日本に滞在してから4~5年目までだ。日本の四季の中で、桜の春と紅葉の秋は最高だが、夏か冬を選べと言われたら、夏のほうがいい。冬は寒いし、心臓が止まりそうな静電気にもよく襲われる。やっぱり、サザン・オールスターズの音楽を満喫できる温暖な気候のほうが僕には合っている。   「キケン」というよりはちょっとした「ボウケン」だ。たしかに、日本は長い間、安全で平和な国だったので、フィリピン人の目からみると、リスク管理が甘くなってしまっている。フィリピンに帰国すると、意図的にリスク管理のスイッチを入れる。しかし、本当にそんなに危ない国かな。次の統計を見てください。危険の最大の象徴ともなりうる「死亡率」という観点からみたら、フィリピンはそれほど命が奪われる国でないことを示唆している。   [死亡率] 国 1970年 1990年 2004年 日本 7 7 8 米国 9 9 8 英国 12 11 10 韓国 9 6 6 タイ 9 6 7 フィリピン 11 7 5 (「死亡率」:1年間に死亡した人を全人口で割り1000をかけた数字) 出所: www.unicef.org   今年の初め、在日フィリピン大使館が、フィリピンでのロングスティ(長期滞在)の説明会を開催した。日本人向けの説明会だったが、オブザーバーとして申し込めたので、僕も参加してみたところ、定員を上回るぐらい大勢の日本人が集まり、配布資料や席が足りないほどだった。   ささやかな力ではあるが、僕は、日本で見つけた宝物をいかして、引退後は母国フィリピンで暮らすのを楽しみにしている。日本人の皆さんも、濃霧の中の衝突を避け、一緒に無事に着岸しましょう。いかがですか。   --------------------------  マックス・マキト(Max Maquito) SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。 フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師  -------------------------- 
  • 2006.09.01

    エッセイ002:羅 仁淑 「真夏には『うなぎ』と『ぼうしんたん』、なんで?」

    日本では土用(どよう)の丑(うし)の日にうなぎを食べ、韓国では伏(ぼく)の日に狗湯(ぼうしんたん)を食べる。いずれも中国の五行説 、二十四節気 、十干、十二支 などと関わるが、うなぎと狗とはずいぶん違った結果になったものだ。   土用の丑の日だの、伏の日だのはそもそもどのように決まるのか。夏という季節はいつからいつまでをいうのか。西欧では天文学的基準から6月21日ごろから9月23日ごろまでを夏というらしいが、日本と韓国は全く同じく二十四節気を基準に6月6日ごろから8月7日ごろまでをいう。しかし、最も暑い時とされている「土用の丑の日」とか「伏の日」になるとかなり違う。   土用は各季節の終りの18日間なので、年4回あるが、一般に夏の土用(立秋前18日間)をさす場合が多い。そしてこの18日間のうち「日の十二支」が丑である日が「土用の丑の日」なのだ。要するに「土用の丑の日」は二十四節気と十二支によって決まる。ちなみに今年は7月23日、8月4日と2度あった。   しかし、「伏の日」は3回あって三伏(さんぼく)というが、二十四節気と十干によって決まる。夏至から数えて3回目の庚(こう)の日を初伏、4回目の庚の日を中伏、そして立秋から数えて最初の庚の日を末伏という。今年の初・中・末伏は7月20日、7月30日、8月9日であった。 これらの日に日本では「うなぎ」を、韓国では「ぼうしんたん」を食べる。まず、うなぎについてだが、DHAやEPAの他に多種のビタミンが豊富に含まれている。夏ばて防止には実に理に適った栄養食品だといえよう。しかし、それは事後的結果であって、そのいきさつはと言えばそれほど合理的ではなかったようだ。   うなぎを食べる由来については、大伴家持(奈良時代の政治家・歌人)が夏痩せする友人にうなぎを勧めている和歌が万葉集に収められているなど諸説があるが、どうも平賀源内(江戸時代の学者・医者・作家・発明家・画家)説が主流を成しているようだ。その説によると、夏のうなぎは脂が少なく味がかなり落ちていて商売が成り立たたない。困り果てたあるうなぎ屋が近所の平賀に相談を持ちかけたところ、「丑の日に『う』のつく物を食べると夏負けしない」という民間伝承をヒントに「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。「物知りで有名な平賀のいうことだから・・・」が話題になり大繁盛。それが「土用の丑の日」=うなぎの日となったそうだ。   韓国はどうか。そもそも「伏の日」ってなに?なるほど人と犬が合体された文字ではあるが、どういう経緯でぼうしんたんになっちゃったのか。『東国歳時記』(李王朝第22代正祖大王(1752~1800)の時刊行された書物で、年中行事などの風習が項目別に解説されている)によると、「伏の日」は元々中国「秦」、「漢」の時代から先祖のお墓に参り狗肉で祭祀を行うとても大切な日だったが、既にB.C. 679年からは朝鮮半島にも広まったという。   「伏の日」の解釈は色々あるが、「避けて隠れる」と「闘う」が最も有力である。中国の後漢時代の劉煕により書かれた『釈名』によると、「伏」という文字は五行説に基づいており、秋の涼しい「金気」が暑い「火気」を恐れて伏し隠れるという意味を表すためにできたという。ここからは「火気」の勢いが最も旺盛な「伏の日」に元気を付けて暑さに向かうというニュアンスは伝わってこない。   他方、暑さに積極的に向かうという理解がある。李王朝時代の常識を問答形式で紹介している『朝鮮常識問答』は、「伏」を「暑気制伏」と表し、「折る」と解釈している。漢医学者たちはこの暑さと闘うという考え方に立ち、「拘肉は毒がなく、五臓を楽にし、血行を良くし、胃を丈夫にし、骨髓を満たし、気力を補強し、体を温める働きをする」という『東医宝鑑』(1596年から執筆に着手し1613年 11月に刊行された25分冊の膨大な漢方・東洋医学書である)の記録を持ち出し、さらに五行説を用いて「伏の日」と「ぼうしんたん」を見事に繋げる。すなわち、夏は「火気」が多く、鉄を溶かす。とくに「火気」の絶頂である「伏の日」には暑さを折るため、鉄を補給しなければならず、狗は鉄の気運を多く持っているという。五行説など知らない私にもつい頷いてしまうほどの説得力がある。   亡父はぼうしんたんが大の好物だった。しかし家で食べさせてもらうことは夢のその夢だった。お店で食べてきたことがばれた日は賑やかな夫婦喧嘩の日だった。母は同じ食卓で食事できないと騒いだ。母の迫害を耐え抜き「ぼうしんたん好き」を止めなかった父が懐かしい。しかしぼうしんたんを試して見たい気にはとうていならない。   ちなみに西洋でも7月3日から8月11日の間を「dog days」というが、一番明るい恒星シリウス(英語名:dog star)が太陽と同じ時刻に出没する時期だということで、その星座名に因んでdog daysと言っているだけの話で、韓国的意味とは程遠い。   -------------------------- 羅 仁淑(ら・いんすく) 博士(経済学)。SGRA研究員。 専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。 -------------------------- 
  • 2006.08.30

    エッセイ001:葉 文昌 「中華の中の事なかれ主義」

    日本では、日本の悪しき慣習についての議論をよく耳にします。「事なかれ主義」、「本音と建前」、「臭いものに蓋」等々。しかし、日本でこのような問題が提起されることを、僕はうらやましく思います。またそれ以前に、日本でこのような慣習自体に名詞がついていることをうらやましく思います。   台湾の「事なかれ主義」についてお話します。台湾の大学は6月下旬に期末テストが始まりましたが、僕は学科の重要な必修科目を担当しています。この期末テストの出来事ですが、あろうことか、僕は確固たる物証とともに3人のカンニングを捕まえてしまいました。僕にとっては、はじめてだったので、処置を知るために前例を聞くことからはじめました。そうしたら、なんと!「これまでカンニングで処罰された前例は、知る限りでは聞いたことがない」とのことでした。次に先輩の先生にも聞いてみました。すると、「荒波を立たせることはない。学校当局にこの件を伝える必要はない。その代わりに学生に反省文を書かせればいい」と言われました。これでは正直者がバカを見るだけです。なぜ正規な処分は望まれないのでしょうか?それは、「処分された学生が学校の粗捜しをしたり、なんらかの報復をしたりすることを恐れているからだ」と言うのが一般的な認識のようです。学校当局も、保身を考えて、波立てることは避けたいとのことです。むしろ、圧力をかけて引っ込ませることもあったと聞きます。これこそ、日本で言う「事なかれ主義」と「臭いものに蓋」的な考え方です。中華の世界ではこのような考えが日本以上にしっかり、個々の細胞に根付いていると僕は思います。   しかし中華の世界では、「事なかれ主義」や「臭いものに蓋」という名詞はありません。かといって、そのような慣習がないのとは違います。これは清時代まで、中国に「社会」「数学」等の名詞がなかったのと同じです。実際には「社会」は当然あった訳ですよね。例えば、日本語を数年だけ学習した留学生に「あなたの国に『事なかれ主義』、『臭いものに蓋』はありますか?」と聞いてみます。返ってくる答えは「ありません」となるでしょう。そもそもこの概念を表す名詞が中国語にないのです。たとえこの概念を理解する人がいたとしても自分の欠点は認めたがらない「面子主義」もいくらか影響するでしょう。   これが日本人にいかにも「自分が島国で異質である」との誤った認識を与えてしまうのです。日本は異質ではありません。このような慣習は中華文化を育んだ社会の方がはるかに得意としています。これは文化で、国民の細胞の隅々にまで行き渡っています。日本では明治維新以来受け入れた西洋的思考が先行している分だけ、薄まっているのです。因みに僕は前例を作るのが好きなので、この件はお構いなしに大学に提出してしまいました。今後の発展が楽しみです。   ---------------------------------------- 葉 文昌(よう・ぶんしょう) SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員 2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。現職で薄膜トランジスタを試作できるラインを構築したことが自慢。年に4回ほど成果発表、親友との再会、一般情報仕入れを目的に日本を訪れる。 -------------------------- 
  • 2006.08.26

    新「SGRAかわらばん」の発行と、無料購読者勧誘のお願い

    SGRA会員の皆様   東京ではまだ厳しい残暑が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。   さて、SGRAの活動をより多くの方々に知っていただこうという目的で行うリ フォーム計画の一環として、本日より、新「SGRAかわらばん」をスタートいたし ます。SGRAフォーラム等のお知らせと、世界各地の会員の皆様からいただいた エッセイを、毎週2回(火・金)を目標に、電子メールで発送します。今までSGR Aからのメールを受け取っていらっしゃったSGRA正会員・学生会員の皆様には、 そのままお届けいたします。購読中止をご希望の方は、お手数ですが、SGRA事務 局までご連絡ください。   新「SGRAかわらばん」は、今後、SGRAホームページでメールアドレスを自動 登録していただいた方はどなたにでも無料で購読していただけます。購読者はメール 会員として登録され、「会員用」ホームページから、SGRAレポートのバックナン バーをダウンロードできます。   SGRA会員の皆様には、是非、お友達やお仲間をお誘いいただき、たくさんの方に 「SGRAかわらばん」の無料購読の登録をしていただきたいと思います。よろしけ れば、下記の文章をご利用ください。   皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。   SGRA代表 今西淳子   ---------------------   「SGRAかわらばん」無料購読のお誘い   「SGRAかわらばん」は、SGRAフォーラム等のお知らせと、世界各地からのS GRA会員のエッセイを、毎週2回(火・金)、電子メールで発送いたします。どな たにも無料で購読していただけますので、下記より登録してください。   http://www.aisf.or.jp/sgra/sgrakawaraban.htm   ご登録いただいた方は、SGRAメール会員となり、「会員用」ホームページから、 SGRAレポートのバックナンバーをダウンロードしていただくことができます。   SGRAは、世界各国から渡日し長い留学生活を経て日本の大学院から博士号を取得 した研究者が中心となって、個人や組織がグローバル化にたちむかうための方針や戦 略をたてる時に役立つような研究、問題解決の提言を行い、その成果をフォーラム、 レポート、ホームページ等の方法で、広く社会に発信しています。研究テーマごと に、多分野多国籍の研究者が研究チームを編成し、広汎な知恵とネットワークを結集 して、多面的なデータから分析・考察して研究を行います。SGRAは、ある一定の 専門家ではなく、広く社会全般を対象に、幅広い研究領域を包括した国際的かつ学際 的な活動を狙いとしています。良き地球市民の実現に貢献することがSGRAの基本 的な目標です。詳しくはSGRAホームページ(http://www.aisf.or.jp/sgra/)を ご覧ください。   SGRAは2000年7月より活動を続けており、既にフォーラムを24回開催し、 レポートを33冊発行してきましたが、より多くの方々にSGRAの活動を知ってい ただくために、新しく「SGRAかわらばん」の無料電子メール送信を始めることに いたしました。知日派外国人研究者によるネットワーク活動に関心のある方は、是非 ご登録いただきますようお願い申し上げます。尚、SGRAの公用語は日本語で、 「SGRAかわらばん」は日本語のみで発行いたします。   お問合せは、SGRA事務局([email protected])まで。  
  • 2005.10.01

    包 聯群 「火事で焼失した小学校の再建をみんなの手で実現させることができた」

    中国黒龍江省泰来県には515 人が居住するウンドル村がある。2003 年8 月30 日、笹川科学研究助成による満州語の調査をしていた私の目の前で、村の人々の心を痛める事件が発生した。1946 年に設立され、多くの人材を育てた歴史をもつモンゴル族小学校が火事によって一瞬の内にその形を変えてしまった。村の人々はあまりにも悲惨な出来事に言葉を失った。   この村ではモンゴル族が全体の73%、漢民族が15%、満州人が10%、ダグル族が2%を占めている。 村の周辺はすべて中国語が話されている環境であるが、ウンドル村の人々の日常用語にはモンゴル語がもっとも多く使われている。小学校の児童は40 名程度で、母語であるモンゴル語を勉強できる唯一のモンゴル族小学校であった。しかし、火事が発生する前から一部の人による小学校合併の動きがあった。小学校4 年生から2.5 キロ以上離れた別の村に通わせ始めていた。火事が発生した後、小学校3 年生からのすべての児童を別の村に通わせた。教師もそれぞれ別の村へ派遣された。仮教室に1 年生と2 年生の児童及び教師一人が残された状態であった。   村民が学校再建委員会を設け、地元の行政へ事情を説明し、学校再建を求めた。その後、県教育局の責任者が村に行って、村民たちに経済的な理由により再建できないという説明をした。絶望した村民たちは、私宛に日本からの応援を求める手紙を送ってきた(2004年4 月6 日)。手紙を読んだ私は、日本側を代表する責任の重さを感じる一方、母校でもあった小学校のために何かをしなければいけないと思い、母校出身3 名が中心となり、在日小学校再建委員会を立ち上げ、様々な活動を開始した。   しかし、実行は容易ではないことに気づいた。多くのボランティア団体(東武練馬コスモスの会、東京・ 沖縄・東アジア社会教育研究会、SUNUS、フフ・モンゴル・オドム、モンゴル民族文化基金など)に支援を求めた。国際交流も視野に入れて、東武練馬コスモスの会の支援のもとに留学生たちが中心となり、様々な祭り(10 回程度)に参加し、モンゴル料理の販売をした。それによって、異文化を紹介し、国際交流を進める一方、学校再建資金の一部(他は支援金)を集めることができた。   その時、最も重要なのは教師を派遣できるかどうかという問題であることに気づき、2005 年3 月に一時 帰国して地元の各行政機関を訪問し、黒龍江省民族委員会から学校再建に必要とする資金の半分を支援する約束をしてもらった。泰来県教育担当の副県長さんも日本の多くの皆様と多くの留学生のご支援を理解し、特別な計らいによって、小学校に5人の教師を派遣し、モンゴル語科目の再開も許可された。今年の5 月に日本から10 万人民元を学校側に渡し、小学校の再建を求めた。9 月に東武練馬コスモスの会が中心となる日本人10 人グループが小学校の開校式に参加した。地元の行政官僚も大勢参加し、日本への感謝の気持ちを述べ、日中友好関係が永遠に続くことを祈ると発言した。    最後に言いたいことは、村民の笑顔を取り戻した「小学校再建活動」の背景には、渥美国際交流財団からの欠かせないご支援が存在していた。お金と時間のかかる小学校再建活動は、私にとって、経済的に大きな支えがなければできないことであった。財団の奨学金とご支援が私のパワーとなり、それらを活動に生かせたからこそモンゴル族小学校が再建できたと位置付けている。   (2005 年10 月記)中国黒龍江省泰来県には515 人が居住するウンドル村がある。2003 年8 月30 日、笹川科学研究助成による満州語の調査をしていた私の目の前で、村の人々の心を痛める事件が発生した。1946 年に設立され、多くの人材を育てた歴史をもつモンゴル族小学校が火事によって一瞬の内にその形を変えてしまった。村の人々はあまりにも悲惨な出来事に言葉を失った。   この村ではモンゴル族が全体の73%、漢民族が15%、満州人が10%、ダグル族が2%を占めている。 村の周辺はすべて中国語が話されている環境であるが、ウンドル村の人々の日常用語にはモンゴル語がもっとも多く使われている。小学校の児童は40 名程度で、母語であるモンゴル語を勉強できる唯一のモンゴル族小学校であった。しかし、火事が発生する前から一部の人による小学校合併の動きがあった。小学校4 年生から2.5 キロ以上離れた別の村に通わせ始めていた。火事が発生した後、小学校3 年生からのすべての児童を別の村に通わせた。教師もそれぞれ別の村へ派遣された。仮教室に1 年生と2 年生の児童及び教師一人が残された状態であった。   村民が学校再建委員会を設け、地元の行政へ事情を説明し、学校再建を求めた。その後、県教育局の責任者が村に行って、村民たちに経済的な理由により再建できないという説明をした。絶望した村民たちは、私宛に日本からの応援を求める手紙を送ってきた(2004年4 月6 日)。手紙を読んだ私は、日本側を代表する責任の重さを感じる一方、母校でもあった小学校のために何かをしなければいけないと思い、母校出身3 名が中心となり、在日小学校再建委員会を立ち上げ、様々な活動を開始した。   しかし、実行は容易ではないことに気づいた。多くのボランティア団体(東武練馬コスモスの会、東京・ 沖縄・東アジア社会教育研究会、SUNUS、フフ・モンゴル・オドム、モンゴル民族文化基金など)に支援を求めた。国際交流も視野に入れて、東武練馬コスモスの会の支援のもとに留学生たちが中心となり、様々な祭り(10 回程度)に参加し、モンゴル料理の販売をした。それによって、異文化を紹介し、国際交流を進める一方、学校再建資金の一部(他は支援金)を集めることができた。   その時、最も重要なのは教師を派遣できるかどうかという問題であることに気づき、2005 年3 月に一時 帰国して地元の各行政機関を訪問し、黒龍江省民族委員会から学校再建に必要とする資金の半分を支援する約束をしてもらった。泰来県教育担当の副県長さんも日本の多くの皆様と多くの留学生のご支援を理解し、特別な計らいによって、小学校に5人の教師を派遣し、モンゴル語科目の再開も許可された。今年の5 月に日本から10 万人民元を学校側に渡し、小学校の再建を求めた。9 月に東武練馬コスモスの会が中心となる日本人10 人グループが小学校の開校式に参加した。地元の行政官僚も大勢参加し、日本への感謝の気持ちを述べ、日中友好関係が永遠に続くことを祈ると発言した。    最後に言いたいことは、村民の笑顔を取り戻した「小学校再建活動」の背景には、渥美国際交流財団からの欠かせないご支援が存在していた。お金と時間のかかる小学校再建活動は、私にとって、経済的に大きな支えがなければできないことであった。財団の奨学金とご支援が私のパワーとなり、それらを活動に生かせたからこそモンゴル族小学校が再建できたと位置付けている。   (2005 年10 月記) 
  • 2005.10.01

    マキト「香港と中国でのフォーラム」

    フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)とSGRAで立ち上げた日本研究ネットワークの活動の一環として、マキトは中国の広東省と香港特別行政区にてフォーラムに参加することになった。マキトは初めての中国である。香港でのフォーラムは2005年11月1日から3日までGOLD COASTホテルで開かれ、East Asia Development Network (世界銀行が主催するGlobal Development Networkの傘下にある開発経済の研究ネットワーク)から受賞した助成による研究の中間報告が行われる。この研究は正式に今月からスタートして来年の4月までUA&Pのピター・リー・ユ先生とシッド・テロサ先生との共同で進められている。研究テーマは「フィリピンの特区は共有型成長の触媒になるのか」というSGRAが2年前から始めた研究である。香港のフォーラムは中国語が話せるユ先生と同行なので面白い発見もありそうではないかという期待がある。   引き続き、お招きをいただいたので、11月4日から7日まで香港政策研究所や広東省社会科学院の主催によるフォーラムにUA&P・SGRA共同研究チームの代表として一人で参加し、香港から広州市に途中で移動する予定である。フォーラムのテーマは"A Tale of Two Regions: China's Pan-Pearl River Delta and ASEAN Cooperation for Mutual Benefit"(二つの地域の物語:共同利益のための中国の汎珠江デルタとASEANとの協力)    オンライン記事をご参照ください   テーマは関心のある経済特区とも関係があるし、中国大陸への訪問チャンスでもあるので参加を申請させていただいた。父の父の父の国に初めて足を踏むことになるだけにちょっとわくわくしている。  
  • 2005.04.28

    あなたは「反日」についてどう思いますか

    2005年4月8日、SGRA(関口グローバル研究会)のメーリングリストに、以下の呼びかけをしました。ちょうど、中国で反日デモが始まった頃でした。 【質問】現在中国や韓国で沸き起こっている反日運動についてあなたはどう思いますか。この事態を収拾するために、あるいは今後繰りかえさないために、私たちは、あるいは、日本人は、中国人は、韓国人は、何をすれば良いでしょうか。 SGRAは、日本の大学院から博士号を取得した外国人研究者が中心となって設立した研究会で、会員は約 250名、そのうちの半数が中国人と韓国人を中心としたアジア諸国からの留学生や元留学生で、少数ですが欧米やアフリカ出身の方々もいらっしゃいます。残りの半数は、この活動を支援してくださっている日本人の方々です。そのうち、メーリングリストに参加しているのは約220名、公用語は日本語ですが、インターネットのおかげでアジア各国だけでなく、アメリカやヨーロッパに在住している元留学生も参加しています。   http://www.aisf.or.jp/sgra/kawaraban/kawaraban9.pdf 
  • 2005.02.16

    渥美財団、10歳のお誕生日おめでとう!

    渥美財団、10歳のお誕生日おめでとう!   2005年2月16日(水)、人類の歴史の新しいページを開く京都議定書の正式発効とともに、渥美国際交流奨学財団の設立10周年を祝うイベントが、東京赤坂の鹿島KIビルで開催された。当日の朝の震度5の地震や冷たい雨にも関わらず180名もの関係者が集まり、渥美健夫氏の遺志で10年前に設立された、規模が小さいが夢が大きいこの財団の記念日を一緒に祝ってくださった。   渥美理事長と今西常務理事の指導のもと、数週間前から数回にわたる準備会を重ねてきたが、当日は現役と来年度の奨学生らで構成する渥美奨学生、元奨学生からなるラクーン会、ラクーン会から発展した関口グローバル研究会(SGRA)の運営委員と研究員・会員(とその子供たち)、そして鹿島建設の皆さんがお手伝いに駆けつけ、記念講演会の成功に繋がった。渥美ファミリが一堂に動いたと凄く感じた。   記念講演会は午後4時に始まった。最初に渥美理事長から財団の設立の背景と特別講演をされる緒方貞子さんのことについてお話があった。次ぎに、今西常務理事から、パワーポイントのスライド付きで、財団の設立からの今に至る経緯についての説明があった。遠慮深い理事長から「あまり宣伝しない」と言われたということだったが、常務理事はSGRAのコンセプトは渥美財団と一致していると断った上で、財団の話に重ねてSGRAの紹介とその活動へのお誘いを、遠慮なく発表した。   午後4時半ごろに、JICAの理事長である緒方さんがみえて、一休みもせずに「人間の安全保障」というテーマの講演が始まった。奨学財団の講演会だから教育という側面に関心が高いであろうという前提で、人間の安全のためには人間を強化すべきなので、その一つの有力な手段として教育が非常に重要であるということにお話の焦点が当てられた。特に、国際教育の面では多様性を尊重し、排除しないinclusiveな人を育てる教育が一番大事だとされた。このような特質の欠如こそが人間の安全を脅かすと強調された。これは、確かに、渥美財団とSGRAの「多様性のなかの調和」という原理に基づく「良き地球市民の実現に貢献」というビジョンと一致している。同時に、「グローバラゼイション」という名で呼ばれている、あまりサイレントではない津波によって、この多様性の尊重が実現できるのかどうか考えさせるところだった。「会場の皆さんと一緒に考えましょう」という緒方さん自身のお招きもあって、さばききれないほどの質問を受けてから、記念講演は、午後5時45分に終了した。   その後、緒方さんにもお時間が許す限り参加していただいて、KIビルのカフェテリアで懇親会が開かれた。渥美財団の選考委員長を10年間務めていらっしゃる、「失敗に学ぶ」というベストセラーで有名な畑村洋太郎先生の挨拶と乾杯でスタートした。参加者全員がレセプションを楽しんだ。渥美直紀鹿島副社長が、建設業らしく、三三七拍子の手拍子とともに中締めをした。   様々な方々とお話ししたが、なかでも、渥美健夫さんの同期で、毎年数千人の留学生の面倒をみているロータリー米山記念奨学会の加美山節副理事長(渥美財団評議員)からいただいた「素敵な財団ですね」という言葉が大きいなお祝いになった。渥美健夫さんもきっと同じことを考えているであろう。   ※今西常務理事の要請により、記念講演会場の模様を全振煥さん(2001年ラクーン)が取った写真を集めて、AISF PICTURE GALLERYを立ち上げました。他の写真もこれから掲載する予定です。 (文責:M.マキト)