SGRAエッセイ

  • 2011.08.03

    エッセイ301:マックス・マキト「マニラ・レポートin蓼科」

    2011年7月2日(土)にSGRA蓼科フォーラム「東アジア共同体の現状と展望」が開催された。休憩中にパネルディスカッション司会の南基正さんからコメントを発言するよう頼まれた。フォーラムの真っ最中にマニラの家にいる愛犬が静かに亡くなったという知らせを受け取った僕は集中力が乱れていたが、要請に応じて何とか発言した。しかし、わかりにくいところもあったと思うので、ここで改めて整理して、その後の印象と一緒に述べさせていただきたい。 今回の発表者のなかには東南アジアの代表がいなかったが、基調講演をしてくださった恒川惠市先生と、黒柳米司先生がASEANに関して十分に話してくださった。それに少しだけフィリピンの立場を付け加えたい。 スペイン帝国がフィリピンを米国に譲るというパリ協定が署名された一年後の1899年、16世紀からスペインの海軍基地であったスービックに、星条旗が初めて掲げられた。それから100年近くたった1992年、米海軍は撤退し星条旗は下ろされた。その後、予想通り、スービック地域の経済は低迷したが、フィリピン政府がそこに経済特区を設置した結果、地域経済は回復に向かった。 当時、米軍の撤退はどちらかというと良かったと思った。あの国はうっかりすると軍事力をもって地域介入する傾向が強いので、東アジア共同体の構築はやはり我々東アジア人に委ねるべきであろうと思った。冷戦ベビーである僕としてはこのような考え方は驚くべきことであった。冷戦の恐怖に育てられたものにとっては、守ってくれる米軍はどうしても欠かせない存在のはずだったからだ。 スービックから米軍が撤退した頃、東アジア共同体について楽観的になる展開がいくつかあった。たとえば、東アジアの暴れん坊である北朝鮮をこの地域に巻き込もうとする日朝平壌宣言とか、あるいは、共産主義を支えてきた中央計画経済を放棄した中国の市場経済の導入とか。当時は、アメリカがなくてもこの地域はやっていけるのではないかという前向きな気持ちが湧いていた。 このような希望を象徴する当時のあるテレビ番組を思い出す。ある日本の俳優が銀座でタクシーを拾う。運転手さんに「ロンドンまでお願いします」という。目指す方向は西。太平洋を経て西欧を目指した今までとは正反対の、まさにその時代の風向きである。 残念ながら、平壌宣言は失敗に終わった。北朝鮮は弾道ミサイルの開発を進め、命中率はともかく、その射程距離に東南アジアの一部分も入ってしまった。そして、市場経済から膨大な富と力を蓄えた中国が、東南アジアの心とも言うべき南シナ海において威圧的な軍事力をもって暴走し始めた。シンガポール、ベトナム、そしてフィリピンはこのような行動に反発している。恒川先生が指摘されたように、残念ながら東アジアではまだ冷戦が終わっていない。 あの冷戦の悪夢が蘇った現状では、どうすればいいのか。基調講演にも取り上げられた逆転の発想があった。それは、黒柳先生が言及された「弱者である」ASEAN主導型の東アジア共同体である。しかしながら、この構想は東アジアの先輩である日中韓が容認するかどうかまだはっきりしていない。ERIAという東アジア共同体のための研究機関の本部は、日本の支持も受けてジャカルタにあるASEAN事務局に設置されたから、日本はASEAN主導を支持しているようである。しかし、韓国はソウルに設置したかったという。いずれにせよ、このASEAN主導型の東アジア共同体構築という構想に日中韓の容認が得られるならば、ASEANは喜んで協力するであろう。 ただし、この構想が容認済みという前提であれば、逆に日中韓の協力が必要となる。この構想が上手くいくためにはASEANの団結が益々重要になる。東アジア共同体の構築はASEANの中の一国だけでできることではないからである。そう考えると、日中韓に対して、ASEANを分裂させるような行動を避けていただくようにお願いしたい。 国際分業化は恒川先生の共同体の定義にも入っているが、僕もその通りだと思う。日本の企業も東アジアの国際分業化に大きく貢献してきた。EUのような制度がなくてもこれだけ域内貿易が進んでいるのはその結果とも考えられる。しかし、最近の動きをよくみると、日系企業の東アジアへの進出はある特定の国や地域に集中的に行われるようになりつつある。それ故に、日本は共有型成長という素晴らしい理念を持っているにも関わらず、バランスを欠いた分業化に成りつつある。このような不均衡な状態は結局ASEANの団結に打撃を与えかねない。 中国はまだ東アジアの国際分業化に日本ほど貢献していないが、領土問題の取り組みはASEANの分裂を進める危険性が十分にある。中国は多国間の話し合いの誘いに応ぜず、二カ国間の話し合いにしか対応しない姿勢である。これはASEANの分裂にも繋がりかねない。二カ国間の政府レベルの話し合いの大部分は不透明であり、政府同士が納得できたといっても、必ずしもそれが国民にとって良いとは限らない。劉傑先生が引用された「(東)アジアは中国の共通な故郷である」という言葉で思い出した。昔、中国の艦隊がアジアの海を帆走し回っている航海時代もあったが、当時の西洋的な考えとは違い訪問先を植民地化するような方針はなかった。乗組員が訪問先の国を気に入って、そこに住もうと決心して居残ったこともあった。今の中国はその原点に回帰していただきたい。 韓国は、北朝鮮巻き込み作戦の失敗や市場経済の過剰な導入により、日中韓の中では一番東アジア共同体の必要性を痛感しているかもしれない。1997年に勃発した東アジア金融危機によりIMFから厳しい政策転換を余儀なくされ、韓国社会は多大な打撃を受けたし、北朝鮮からは死者が出る軍事攻撃を2回も受けたのであるから。それだけに、ソウルではなくジャカルタ(ASEAN本部)にERIA本部が置かれたのは韓国にとって悔しいであろうが、朴栄濬さんの発表にあったように、韓国が戦後すぐに太平洋同盟構想を発表したように、今でもASEANを信じてくれるようお願いしたい。 今回のフォーラムの内容について、SGRAの仲間たちもいろいろと考えたようだ。意外にも、中国本土の仲間たちがASEAN主導型の共同体構築に寛大な姿勢であった。「強者同士だけだと何もならない」、「問題の島はどの国のものでもなく、皆で共有すればいい」、「皆さんの話は客観的でいい」など。これに対して、「辺境」の東北アジアの仲間たちは、「中国中心にすべき」という意見が強かった。「ASEAN+辺境」と提案しても直ぐ中国のことが気になって否定された。 良き地球市民を目指しているSGRAは、それ自体が小さな東アジア共同体の構築をしようとする活動である。SGRAは僕にとって共同体構築の悲しさや喜びを分かち合える場でもある。ASEANも軍事同盟もなくなり、東アジアという共同体のみとなる希望の未来、僕がこの目で見ることは出来ないかもしれないが、今から仲間たちとその準備を始めたい。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.07.06

    エッセイ300:孫 軍悦「沈黙と喧騒」

    吉村昭が『海の壁』という本のなかで、明治29年(1896年)6月に三陸沿岸を襲った大津波を次のように描いている。「波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。干いた波は、再び沖合でふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った」。 そして、住民の被害状況について、彼はこう語った。「死体が、至る所にころがっていた。引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。……梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸の発散する腐臭もくわわって、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ち、死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた」。 吉村は大げさな想像によってこのような地獄絵を描いたのではない。実際『風俗画報 大海嘯被害録』に、〈唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図〉や〈広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図〉などが残されている。過去の記録と今日の津波報道を比べると、両者の違いが一目瞭然である。家屋や車や畑が濁流に飲み込まれ、町全体が跡形もなく消え去った衝撃的な映像に、轟音、腐臭、そして自然が直に破壊した「人の体」が決定的に欠けている。皮肉にも、メディアが高度に発達する現代社会において、被災地の現実を理解するには、より一層鋭敏な感覚と逞しい想像力が必要である。 明治、昭和期に三陸沿岸を三度も襲った大津波の様子を仔細に記録し、自然の暴威に無残に傷つけられた「人の体」をありのままに描いた吉村は、三陸地方をこよなく愛していた。なぜなら、「三陸地方の海が人間の生活と密接な関係を持って存在しているように思える」からだ。「海は、人々に多くの恵みを与えてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課」し、「大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる」――それが作家の捉えた海と人間との「密接な関係」の内実である。その「異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防」、「みすぼらしい部落の家並みに比して、不釣合なほど豪壮な構築物」を目の前にして、作家は、世界に誇る人間の偉業に感服し安心するのではなく、むしろ「それほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」のだ。 吉村の語りにおいて、人間は直に触れた大自然の圧倒的な力に恐怖を覚え、抵抗を試みる受け身的な存在である。それに対し、自然を利用、破壊、修復、保護、再生といった文言が示すように、今日われわれが自然を語る際、人間は常に「主語」の位置を占めている。「エコ」や「共生」の思想にも、人間の意識と技術次第で、自然をいかようにもできるという主人の姿勢と優越感が滲み出ている。こうした人間の自然に対する鈍感と技術への過信が、地震や津波といった自然現象を完全に「想定」の枠に嵌め、逆に原子力発電という本来コントロールしなければならない人間の所為を十全に「想定」しなかった、という二つの「想定」に関する過ちにも現れている。 自然災害は、地震や津波といった自然現象そのものではなく、自然現象とそれが発生する瞬間の人間社会との相互作用の結果である。そのため、災害は自然の脅威を表していると同時に、<いま・ここ>にある人間と社会の一面をも映し出している。犠牲者のなかに、近隣の家々が目の前の道路を流されているにもかかわらず、指定された避難場所を一歩も離れようとしない人がいた。渋滞に巻き込まれながらもなお自分の足より車を信じていた。迫りくる波の轟音も、屋上から必死に叫ぶ避難者の警告も、ラジオの情報に空しくかき消されてしまった。本来道具に過ぎないテクノロジーとマニュアルこそ命綱だと思い込んだ人間は、もはや自分の身体と感官を信用せず、自らの知性で物事を判断することを放棄してしまっているのではないか。 思えば、この雑学全盛の時代に、我々は自らの生活乃至生死を左右する物事に対して驚くほど無知である。福島第一原発事故が起きて三か月も経ったいま、なお毎日新しいトラブルが起き、新しい言葉が飛び交っている。これほど集中的に外来語を勉強したのは初めてだ。事故が起きる前、この世界有数の地震多発列島の上にすでに54もの原発が建てられていたことを、果たしてどれほどの人が知っていたのか。これまで、私たちはただ、一所懸命働き、税金を納め、安全、安心、快適な生活を保証してくれるはずのシステムに頼り、そのシステムを作動させるマニュアルに従って生きてきた。このシステムとマニュアルによって秩序づけられた世界は、「偶然性をただ障害物としてしか、それどころか敵として、そして脅威としてしか見ないのである。理想は、偶然性を支配すること、偶然性を最小限に還元する管理の網を大きくすることである」(チャールズ・テイラー)。だが、莫大な税金をつぎ込んで開発された放射性物質予測システムが電源喪失のため、コンピュータすら起動できなかった。入念に設計された防災マニュアルが自然の本質である偶然性を排除したがゆえに十全に機能しなかった。これから、われわれが、より一層精確化、精緻化するシステムとマニュアルの開発に向かうのか、それとも偶然性に満ちた自然と現実に鋭敏に反応する、豊かな感覚と想像力が備わる身体を取り戻すのか、それこそ今回の災害がわれわれに突きつけた一つの課題であろう。 確かに、被災地が無法地帯と化してしまった歴史(明治、昭和期の大津波の後にそうした現象が起きていた)に照らし合わせると、今日の日本では、人々は実に冷静に行動し、秩序を守っていた。それは言うまでもなく、災害が起きるたびに、新たな教訓を総括し、不断な検証、批判、運動を通して、防災、救援、補償など様々な法律と制度を整備してきた結果でもある。だが、毎日食料品と必需品の調達のために長蛇の列に並び、肉親を探すために、避難所の入り口に張り出された名簿を指でなぞり、海岸をさまよい、避難所を回り、遺体安置所に訪れ、そして再び真っ暗な避難所に戻る生活を、ただ「秩序ある冷静な行動」という、繰り返されてきた常套句で称賛するのは、たとえどんなに善意が込められ、どんなに愛国心がくすぐられても、私には同調できない。まして、「フクシマフィフティ」といった英雄物語は、かの国のおなじみの愛国主義を動員する典型的な形態にほかならず、グローバル経済の時代に安い賃金で過酷な労働に従事する下請け会社の労働者の実態を何一つ表していない。 そもそも、外面的な冷静な行動が必ずしも内面の平静を意味しない。沈黙もまた美徳とは限らない。早朝から臨戦態勢でスーパーの入り口に並び、開店とともに一斉に走り出す主婦たちの「冷静な買占め」が、まさに極度の不安の表れではないか。一方、原発に反対する科学者をスタジオに招かず、誰もが思いつく疑問や反論を決して口にしないテレビメディアの「冷静な対応」は、一種の隠蔽としか言いようがない。そして、地震直後に、毎日何時間もかけて黙々と会社へ出勤していく都内のサラリーマンと、原発事故の原因も責任の所在も分からぬまま、節電を呼びかける善良な市民の姿に、むしろ現実へのあまりにも早い追認と隷属の慣性、忍従の態度が見え隠れはしないか。 「これしかできない」と「謙遜」しながら、節電を励行し、義援金を送り、東北を応援する消費活動を意識的に行い、「ニッポンが強い」と国民の士気を鼓舞するのは結構なことだ。が、国の命運を決める政治的権利を与えられていない外国人と同じこと「しかできない」という意識は奇妙ではないか。一個人としての倫理的行動以外に、主権者としての公的責任もあるはずだ。今日の日本においては、もはやシステムとマニュアルに生死を預け、大手メディアとそれによって選別された専門家に討議を任せ、政治家に決断を委ねるわけにはいかない。主権者として責任を果たすための充分な時間を確保し、自らの生活に深くかかわる事柄を学習し、討論を重ね、決断を下し、明確に意思表示すると同時に、政策決定につながる方途を探ることが、国民の権利でありまた義務でもあろう。民主主義を保障する制度は民主主義を実践する人がいなければ意味をなさない。同調性への圧力がとりわけ強い日本の現実的状況においてこそ、私は沈黙と秩序を守る「冷静な行動」に賛辞を贈るより、反原発の旗を掲げ、漸く声を上げ始めた「騒がしい日本人」にエールを送りたい。 -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学教養学部講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2011年7月6日配信
  • 2011.06.29

    エッセイ299:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その8:それでも耐えるのですか?」

    いつもクールでいたい僕は最近ちょっとイライラしています。理由はもちろん分かっています。分かっているからこそ、余計イライラします。 3・11の天変地異から100日以上が経ちました。余震のない日が増え、あの日に覚えた地震に対する恐怖心が減りました。スーパーの棚に並ぶ品物が増え、ACのテレビCMが減りました。被災地で見つかる死体の数が増え、新聞のトップページに載る行方不明者の数が減りました(でもまだ7000人以上が行方不明です)。いろいろなものや気持ちが増減している中で、変ってほしいのに変らないものもあります。あきれるというより怖いぐらい、福島原発事故の深刻さとそれについての専門家たちの発言の曖昧さは変りませんでした。諦めたくなるというより殴りこみたいぐらい、日本の国会での笑えない茶番劇も変りませんでした。そして、驚くというより悲しいぐらい、日本国民の忍耐強さも変りませんでした。 大震災が起きたあの日の夜、首都圏ではJRや私鉄の運行停止のため、数百万人もの人々が秩序を守りながら、暴動も起こさず大渋滞でもクラクションを鳴らさずに黙々と行動する映像に世界中の人たちは驚愕し、そして絶賛しました。まるで無声映画を見ているようで、いささか不気味に思いながらも、「すごい!さすが耐えることを美徳とする日本だなぁ~」と日本人でない僕もなぜか誇らしげでした。あの夜に余儀なく5時間もかけて歩いて帰宅する羽目になった日本人の友人も、途中でのどが渇いてビールを飲みたいと思ったのに「そういう雰囲気ではなかった」という理由で我慢し、耐えたそうです。まあ、僕もあの日以降、記録的に連続で17日ぐらい禁酒していたので、その気持ちは分からなくもありません。でも、あの日から100日以上、3ケ月以上も経ちましたよ。変ってほしいのに変らないものに耐えることはもうそろそろやめませんか。 去年の10月に、フランスでは350万人もの労働者と民衆が決起し、大規模のデモとストライキが全土にわたって発生しました。印象的だったのが、15万人以上の高校生や大学生も戦列に加わり、300校以上の学校の正門を封鎖したことです。彼らが拳と声を上げて大反対したのはサルコジ政権の「年金制度改革法案」でした。そのほぼ1ヶ月後、イギリスでも大学生によるデモが各地で相次ぎました。彼らが蜂起した理由は大学の授業料値上げでした。翻って日本はどうでしょうか。日本の年金制度がフランスより健全に発展しているとは全然思いません。国立大学の授業料も、日本は世界一高いです。でもそれに対して、な~~にも起こりません。国会議事堂の前に集まってデモをやる人もだ~~れもいません。理不尽な制度に対して、多くの日本人がひたすら耐えているように見えます。別の意味ですごいです!しかも、今の日本が直面しているのは年金制度とか大学授業料の高さのような制度上の問題でもあるまい。こういうことを言うと、「ああ~日本は豊かになりすぎたから、若者が無気力・無関心・無感動になってしまっているんだよ、シムくん」という答えが必ずと言っていいほどオジさん世代から返ってきます。でも、すみません、今の日本はもう「豊かになりすぎた」状態でもないでしょう。それに、フランスもイギリスもそんなに貧乏な国ではありませんから。問題の核心は別にあるのでしょう。 福島原発事故の衝撃を受け、イタリアが国民投票による圧倒的な多数票で原発の再開をしないと決めました。それに先行して、地震が起こらなさそうなドイツでさえ原子力発電所を全廃することを閣議決定しました。イタリア国民の反応を集団ヒステリーとコメントした日本の某衆議院議員もいましたが、では「感情に左右されない、奥ゆかしい」当の日本が原発についてこれからどういう方向に向かっていくのか、冷静に教えていただきたいものです。このまま20年後、30年後にも現存の原子力発電所が次に来る大震災に、日本国民のようにじっと耐えられることを祈るしかないのでしょうか。 今でも進行中の原発問題について、確かに風評被害を訴えた農民漁民による抗議や子どもの被曝最小化を求めた福島県の親たちによるデモもありましたが、いずれも当事者によるごく小規模なものでした。原発反対のデモも日本各地で実施されたことはされたのですが、数万人規模で参加したものは聞きませんし、おかしいことにマスコミも大きく報道しません。そして残念なことに、それらの声が、それこそ集団ヒステリーのように茶番狂言を繰り返す日本の国会に届いているようにも見えません。 英語圏で伝えられてきた古典的な警句の中に、「ゆでカエルになるな」というのがあります。熱いお湯にカエルを入れると驚いて飛び跳ねます。ところが、常温の水に入れてゆっくり熱していくとそのカエルは耐えながらも水温に少しずつ慣れていきます。そして熱湯になったときには、もはやそのカエルは跳躍する力すら失い、飛び上がることができずにゆで上がってしまうというのです(これはあくまで寓話の一種なので、実際にカエルを使って試さないでくださいね)。最近、僕をイライラさせているのが、まさにこの「耐えるカエル」と、恐らく数では勝るとも劣らない「我関せぬカエル」なのです。日本人でもない僕がイライラするのもおかしいというか、しょうがないかもしれませんが、最近よく耳にするこの「しょうがない」という言葉も実は僕のイライラのもう一つの原因でもあったりするのです! --------------------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------------------------- 2011年6月29日配信
  • 2011.06.22

    エッセイ298:マックス・マキト「マニラ・レポート2011前期」

    【冬】マニラ・レポート12月 2010年12月17日(金)、フィリピン大学の先生や学生、NPO関係者、フィリピンSGRAのメンバー等25名の参加者を得て、第13回SGRA日比共有型成長セミナーが開催された。フィリピン大学に留学・訪問している韓国人の学生や研究者がたくさん来てくれたのがうれしかった。あいにくフィリピンでは既にクリスマスのお祝いが始まっていたし、フィリピン大学恒例の行事であるLANTERN PARADEと重なってしまったので参加人数が少なかったが、それで今回のセミナーの意義を過小評価してはいけない。「農村と都市の貧困コミュニティー」をテーマとした今回のマニラ・セミナーは、初めて僕の母校(学部時代)でもあるフィリピン大学で開催された。(今までは僕のもう一つの母校(修士時代)であるアジア太平洋大学で開催した。)フィリピン大学で初開催だったので、SGRAの今西代表がわざわざマニラを訪れ開会の挨拶をした。 今回は、フィリピン大学のSchool of Labor and Industrial Relations(SOLAIR:労働・産業連帯大学院)のベンジ・テオドシオ教授の協力を得て、SGRA顧問の中西徹東京大学教授と僕に発表の場を設けていただいた。 中西先生はCommunity Dynamics Among the Urban Poor(都市の貧困者におけるコミュニティー・ダイナミックス)という論文に基づいて発表した。20年以上にわたるフィリピンのスラムにおけるフィールドワークの成果である。コミュニティーの進化について、3つの局面を特定した。第1局面は、スラムに住んでいる家族の間に決定的な結合(ネットワーク)が形成された瞬間であり、スラムのコミュニティーの誕生である。第2局面は、いくつかの中心家族(ハブ)が現れるコミュニティーの深化である。第3局面は同じ都市の別の場所にあるスラムと関係が結ばれるコミュニティーの拡大である。 僕の発表は、セミナーの数日前に出来上がったThe Dynamics of Social Networks in Philippine Poor Communities(フィリピンの貧困コミュニティーにおける社会ネットワークのダイナミックス)に基づいたもので、マニラ・セミナーの中心テーマである共有型成長と中西先生の研究を結びつけた。この論文は中西先生との共著でこれから発表したいと思っているが、そこで取り上げたのが「GLASS効果」である。これはGiant Leap And Small Step効果の頭文字で、地方から都市へ移住した貧困者が、その移住した時点ではGiant Leap(飛躍)に踏み出したが、都市ではスラムの生活からなかなか脱出せずにSmall Step(小さな一歩)しかできない状態に陥ることである。つまり、田舎のネズミが都会に行ったらガラスの天井にぶつかるということだ。 休憩の後、SOLAIRの学部長やNGOの参加者を囲んでオープン・フォーラムが行われた。学部長とベンジ先生は、僕たちの研究は彼らが現場で体験していることを体系的に整理していると評価し、いくつかの研究テーマを提案してくださった。難題の多い活動現場でエネルギーを使い果たしてしまったと訴えるNGOの参加者は、このような研究やアドボカシーの重要性を指摘し、SGRAやSOLAIRと関係を深めたいと語った。 SGRA日比共有型成長セミナーで貧困を取り上げたのは3回目であるが、今回のセミナーによって、ますます僕はフィリピンの農村の貧困についての研究へ魅かれていった。これは中西先生との共同研究のおかげであることは言うまでもないが、SOLAIRからの好意的な反応もひとつの要素である。ベンジ先生は推薦の手紙を添えて、僕たちの発表の要約をフィリピン大統領の事務室へ送ってくれたし、僕にSOLAIRのポストをオーファーしてくれた。 今回のマニラ訪問で更に高まった農村への関心を、SGRAを通してフィリピン以外にも広げるために、SGRA共有型成長の研究・アドボカシー活動を積極的に進めていきたい。研究テーマは昨年のSGRA蓼科フォーラムでも取り上げた「3つのK(効率・公平・環境)」を重視する農業(或いは地方開発)である。効率的な農業とは、利益を生み資金的な自立を図る農業である。公平な農業とは、貧富の格差削減に貢献できる農業である。環境を重視する農業とは、恩恵者である自然を守る農業である。 発展途上国の貧困者の多くは都会ではなく農村にいる。「地方開発」とは都市化(urbanization)ではなく、「農村化」(“ruralization”?) という意味合いがある。地方にいる貧困者とその主な収入源である農業、又は本来アイデンティティの源になるべき農業に直接焦点を当てたい。これは環境にやさしい持続可能な共有型成長につながると僕は期待している。ご関心のあるかたは是非ご一緒に! Facebookにセミナー関係の写真をアップしました。(閲覧にはFacebookへの登録が必要です) 【春】マニラ・レポート in 名古屋 3月 2011年3月12月午後、名古屋大学大学院経済学研究科にて、SGRAと共催のワークショップ「アジアの産業の持続可能な共有型成長へ向けて」が開催された。SGRA顧問の平川均名古屋大学教授のプロジェクトの一環として、フィリピン大学のベンジ先生とボニ先生を招聘していただいた。参加者は、まず、東日本大地震で被災した方々のために黙祷をした。ワークショップの一番バッターの僕の発表は、第12回共有型成長セミナーとSGRA蓼科フォーラムで行った発表に基づいたもので、マニラのEDSA大通りを事例として、フィリピンの環境にやさしい交通システムの試みを紹介した。特に強調したのは、世界銀行が提案したハイブリッド体制(政府+市場)を、制度的かつ具体的にどのように取り込むかという構想を、SOLAIRと他の学部や研究所も含むオール・フィリピン大学で提案したことであった。引き続いてベンジ先生がフィリピンの再生エネルギーの産業や政府の待遇政策について発表した。フィリピンの電力コストはアジアの中で最高であるが、フィリピン政府は再生エネルギーの促進によりその問題にも取り組んでいる。その後、ボニ先生はSOLAIRの専門分野であるIR/HR(Industrial Relations/Human Resources産業関係・人材)という側面から貧困についての分析を発表した。この3つの発表の共通点は、社会の周辺にいる貧困者に対して特別の配慮が必要であり、この問題に取り組む時には政府+市場+大学を含む市民社会の連携プレイが重要であるということだ。最後に、平川先生が持論のPobME(Potentially Big Market Economy 潜在的に大きな市場経済)により、産業化の深化について「労働は資本の下へ、資本は労働の下へ、そして現在進行中とされる、資本は大きな市場の下へ移動するという局面」という説明をした。 【初夏】マニラ・レポート5月 5月の休み(フィリピンでは「夏休み」)を利用してマニラに帰国した。フィリピンで一番熱かったのはReproductive Health Bill(出産健康法案)だった。議論の中心は、人工的な人口計画の道が制度的に開かれるかどうかということである。第40回SGRAフォーラム「少子高齢化と福祉」でも発表したように、このような動きに対してフィリピンのカトリック教会は黙っていられない。法案に同情的な姿勢を見せたアキノ大統領に対して厳しい批判を浴びせた。テレビでも面白い議論があったし、家族団欒の話題にもなった。法案の賛成者は、フィリピンに貧困者が多いのは彼らが子供を沢山生むからであるという。一方、反対者は、フィリピンの貧困者が子供を沢山生むのは貧しいからであるという。つまり、貧困と出産率の因果関係をどうみるかで意見が違ってくる。開発経済学では、どちらかというと貧困者が合理的な判断で、大きい家族を好むとしている。いずれにせよ、この法案は社会の基本単位である家族に大きな影響を与えかねないので、これから見守る必要があると思う。 滞在中にフィリピン大学でゆっくりと構内を久しぶりに散歩できた。 足を止めて思わず黙祷させたものがあった。  【予告】 2011年8月24~25日に、フィリピン大学のSOLAIRで「The Philippine Employment Relations Initiatives: Carving a Niche in the Philippine and Asian Setting(フィリピン雇用関係におけるイニシアチブ:フィリピンやアジアの舞台で、隙間を切り開く)」というテーマの国際会議( http://pirs08.webs.com/ )が開催される。僕は平川先生と共著で、僕が展開してきた共有型成長の分析枠組みを、フィリピンに進出してくれた日系自動車企業に適用する論文「A Comparative Economic Analysis of Japanese-Style Labor Contracts from a Shared Growth Perspective(共有型成長の観点からみた日本型労働契約の比較経済学分析)」を提出する予定である。この日系企業が具体的にどのようにフィリピンの共有型成長に貢献しているかを明確化する。 ミャンマーのタンタン先生とベトナムのビックハ先生はIndustrial Grading and HR: The Case of Vietnam(産業向上化と人事管理:ベトナムの事例)という別のセッションで発表することになった。 自分の強いところを否定し、自分の弱いところでグローバル化競争に挑んだ日本は、失われた十数年間を生み出してしまった。僕は、日本システムの強いところを生かして競争し、弱いところは温かい目で改善方法を探っていくべきだという提言を、母国フィリピンや賛同する他の国々に伝えたい。今日本が経験しているこの大変な時代において、これが、日本の宝物を発掘してきた僕たち留学生にできることなのだと思う。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.06.15

    エッセイ297:李 軍「車内の風景 こころの風景」

    私は小さいころから日本語が好きで、中学一年生の時から二十年近くも日本語を勉強してきた。日本に来た当時はまったく知らない国に来たのではなく、久々に故郷に里帰りしたといった懐かしさを覚えていた。それでも、びっくりしたことが多々あった。最初にびっくりしたのは電車やバスが定刻どおりに来ること、電車の中で「これから先揺れますので、ご注意ください」というアナウンスが流れてくること、「駆け込み乗車」という言葉が存在していること…。 福岡に四年、東京に四年。この八年間、毎日といってもいいほど電車や地下鉄に乗っている私は、電車の中でも様々な発見があって、日本人のこころの風景をこっそりと覗くことができた。 ◇風景(一)「はなす」 上京したばかりの時、なぜ東京の人はみんな朝から電車の中で寝てしまうのかと不思議に思っていた。そのうちに東京のリズムが地方と全然違うということが分かってきて、変に思わなくなったが、熟睡した人とその隣の人の様子を観察するのが面白かった。眠った人の中には、いびきをかいたり、口を開いている人もいれば、横に倒れそうで倒れない人もいて様々である。それに対して、その隣に座った人は避けて避けて嫌そうな表情で我慢する人もいれば、嫌がって立ち去っていく人もいる。しかし、どんなにひどい状況であっても、心の中でどんなに嫌がっていても、みんな決して口に出さないし、注意もしないでいる。 私は日中漢字文化の繋がりや大和言葉の特質を研究しているが、このような風景を見るたびに「はなす」という和語の意味合いを思い起こす。「話す」「離す」は異なる漢字が当てられているため、別の言葉として認識されている。しかし、「はなす」という和語の持つ「ものがある事物の中またはその事物の周辺から遠ざかっていく」という根源的な意味合いがそれぞれの言葉の中に共通しており、日本語の国字である「咄(はなし)」も、「心事を口の外に出す」という意味合いに由来すると考えられる。日本人が物事に対してストレートに自分の意見を言わず、「~~よいのではないでしょうか」「私的には~~と思いますけれど」といった曖昧な表現を好んでいるのは、おそらく、直接「話」してしまったら、みんなから敬遠されてしまう、つまり「離」れてしまうことを恐れているのではないだろうか。 ◇風景(二)雨のしずく 日本では、雨が降ったときに、みんな車中できちんと濡れた傘を束ねて持つようにしている。ある雨の日、一人の若い女性がたくさんの荷物を抱え込んで乗車してきて、私と隣に座っている中年の女性の前に立つとすぐに携帯を取り出していじり始めた。片手でたくさんの荷物を持っているせいか、自分の傘からゆっくりと雨水が落ちてくることに気づいていない様子であった。その傘の位置はちょうど私と隣の女性の間にあったので、電車の揺れ具合によって、雨水がどちらに落ちてくるか把握できない。私も隣の女性も必死に避けようとしていた。一粒一粒…雨に降られても別にかまわないのに、なぜこんなに気になるのであろうか。幸い、私たちの巧みな水滴回避術によってほとんどの雨水が床面に落ちて、被害はなかったが、電車を降りたときに肩も凝ったし、気持ち的にもすごく疲れた。これも「話」してはだめなのであろうか。 ◇風景(三)ごみ実験 日本の電車はとても清潔で乗り心地がよい。たまにごみを捨てたりする不心得者もいるが、いつもきれいに保たれている。ある日、向かい側の座席に丸めた紙のごみが置かれていた。私が乗った時は空席が多かったが、徐々に混んできて、最後にそのごみのある座席だけが残っていた。結論から言うと、少し躊躇して去っていった人が八人、ごみを避けて座った人が二人、最後の人はそのごみを自分のポケットにしまって座っていた。何人もの乗客がその座席の前に現れたり去っていったりしていたが、ただ一人もごみを床面に捨てなかった。日本人は自分のやりたいことを我慢してまで、周りを配慮し、できるだけほかの人に迷惑をかけないようにしていることがよく分かった。 私が最初に日本語に魅了されたのは日本語の美しくて優しい響きであった。だが、本格的に日本語を大好きになったのは日本語の魂に気付いた時だったかもしれない。「言霊」という日本語があるが、「言霊」は文字通り「ことば」に宿っている「たましい(魂)」のことである。美しい日本語は、それを受け入れる人の気持ちをよく考え、理解し、その心を癒し温める力を持っている。一方、不快な言葉を使うと、相手にその言葉の良くない魂が飛んでいくのではないかという配慮で、「しょうがない、我慢するか」「暗黙の了解」という日本人ならではのルールがあるようである。どうしてはっきりと言わないの、ともどかしい時もあるが、これこそ日本、日本人、日本語の魅力かもしれない。こういう考え方に馴染んでくると、車内の風景も、ぽかぽかと地面の生き物たちを照らす春の日射しによって、みんなが暖かく優しい光に包まれているように見えてくる。 (著者の了承を得て、渥美財団2010年年報より転載) -------------------------------------- <李軍(リ ジュン)☆ Li Jun> 中国瀋陽市出身。瀋陽市同澤高等学校で日本語教師を務めた後、2003年に来日。福岡教育大学大学院教育学研究科より修士号を取得。現在早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程に在籍。主に日中漢字文化を生かした漢字指導法の開発に取り組んでいる。ビジュアル化が進んでいる今日、絵図を漢字教育に取り組む新たな試みを模索している。 -------------------------------------- 2011年6月15日配信
  • 2011.06.08

    エッセイ296:葉 文昌「国内にいては見えないもの」

    9年前、私は10年間の日本留学生活を終えて台湾に帰国した。自分の中では車と言えばトヨタ、ホンダ、日産、電機類は日立、東芝、パナソニック、ソニー、キャノンが世界をリードする企業で、台湾が日本に学ばなくてはならないことは多いと考えていた。 だが現実に台湾に住んで感じたことは、Taiwan As No1と思っている人が多いということだ。最初に気付いたのは帰国してまだ一ヶ月もたたない頃だった。私は漁業の養殖技術は日本が最高水準と思っていたが、同僚はそう思わず、台湾こそが世界最高と言い張った。 新聞にもよくTaiwan As No1の記事が載る。帰国して一年程した頃に見た新聞記事が忘れられない。「xx教授が検索エンジンを開発、グーグルより高速に」「xx大学が新薄膜トランジスタ(TFT)構造を開発、プロセスが単純で日韓企業と比べ有利に」。ひょっとしたら台湾はすごくなるかもと思ったが、10年経った今でもグーグルよりもすごい検索サイトは台湾から出てきていない。TFTもその勢力図を変えるとされる技術の出現によって日本勢や韓国勢を打ち負かしたとは聞かない。都合のいい情報に浸かりきれば自分達は世界で最もいい国に生活しているつもりになるのでめでたい話ではあるが、現状に甘んじてしまえば改善の駆動力は失せ、いつしか世界競争から取り残される。 日本にいた時には、日本の技術力は世界で一番と思っていた。しかし台湾の状況を鑑みて、ひょっとしたら日本にいた自分にも同じような思い込みの部分があったのではないかと思い始めた。海外に長く住んでいる日本人の話によると、その国では外国人の匂いが気になるが、帰国した途端に日本人の醤油臭さに気付くそうだ。私も台湾へ帰国した時に日本を客観視することができた。日本に居た頃はプリンターと言えば世の中には日本のA社とB社しかないと思っていたのに、台湾ではアメリカのC社のほうが圧倒的に大きなシェアを持っていた。C社は安く、品質も悪くなかった。また、ある時台湾の大学で7千万円する科学機器購入のため、日米欧の5社にプレゼンをしてもらったことがあった。欧米メーカーが強調するのは、装置部品はモジュール化されているので、学生が安心して部品交換できるということだった。一方、日本メーカーは「専門家が来て調整するので測定精度は高い」ということだった。測定機器の主な使用者は学生や操作員であるので、素人が使っても精度がぶれないタフさは必要である。欧米メーカーは消費者のつぼを押さえてものを作っている印象を受けた。一方で日本メーカーはどこか職人的な感じがした。また欧米メーカーのプレゼンテーターはグローバル展開している中の台湾支社の人員であったのに対して、日本メーカーは代理店のワンマンオーナーであった。正直プロフェッショナルな感じがしなかった。また購入後の保守が不安であった。 ものづくり、匠、職人芸。これらは日本人が拠り所とするいわば伝家の宝刀である。しかしイノベーションを伴わないものづくりは誰にでもすぐ真似できるから、それを拠り所にするのは危険である。戦前と比べて日本人の我慢強さは減っている。「日本人は繊細で根気強いため、ものづくりに適している」と言うが、故宮博物館で中国の古代工芸品を見れば昔の中国人の繊細さ、根気強さ、マニアック度は日本に引けを取らないことがわかる。世界に誇る中華料理は、温度と時間の最適化と素材と調味料の組合せの最適化なので、これは正にものづくりである。ものづくりとしての中華料理は、素材そのものを重んじる日本料理に劣らない。日本人だけが文化的に或いは人種的にものづくりに長けているとは言えない。今後環境さえ整えば周辺の発展途上国のものづくりはすぐに追いついてくると考えた方がいい。実際、パソコンからスマートフォンまで、アメリカのイノベーションとアジアのものづくりが結びついて世界を席巻した例は多い。私は2、3年前からスマートフォンを使い始めたが、それまで日本の携帯技術は世界のトップと思っていただけに、このようなものが台湾メーカーにも作れてしまうことに衝撃を感じた。ものづくりとはこの程度のものだと思い直した。 3月の大震災で日本の多くの工場が操業停止に追い込まれた。その影響で海外の多くのメーカーが製品を出荷できない状況に陥ったと報道された。このことから、「日本製部品は世界で重要で欠かせない」とメディアで言われている。しかし私は同じような報道を台湾で度々見てきた。災害でどこかの工場が被災して海外有名メーカーの出荷に影響が起こるたびに、「台湾製部品は世界でとても重要で欠かせない」と報じられる。中国にしても事情は同じであろう。もちろん日本と台湾が作る部品はレベルが違うかも知れない。しかしCPUのようなオンリーワンでなければ、普通の製品は幾らでも代替が可能であり、主導権は握れない。この話はサプライチェーンがグローバル化しただけの話なのだが、それで「日本のものづくりはすごい」と思う所に台湾と似ているところがあるように思えてしまう。 リーマンショックでアメリカの自動車会社のビッグ3がつまずいて以来、日本ではアメリカのものづくりは終わったという見方もあった。しかし航空機・宇宙産業は今でも健在だし、研究において必要な測定機器や基幹部品は相変わらずアメリカ製がトップブランドを占めている。研究においても、アメリカの学会は世界中から人が集まるのでレベルが高い。従ってアメリカのものづくりは終わっていない。アメリカのイノベーションとアジアのものづくりが組めば、日本にとっては大きな脅威となる。 国内にいては見えないことは他にもある。日本人は自分を「平和好きで温厚な草食民族」とよく自任する。実は台湾でも中国でも自分を「平和好きで温厚な民族」と自任している。尖閣諸島紛争の時にも中国の一般市民がインタビューされて「我々は平和好きである。しかし外国の挑発には屈しない」と答えていた。日本人がそれを聞くと「何て厚かましい国民だ。どこが平和好きだ」と思うに違いない。しかし中国も、日本が戦争を起こした歴史から「何て厚かましい国民だ。どこが平和好きだ」と思っている。どの国民も好戦的な一面はある。だから「自国は草食で平和好き、他国は肉食で好戦的」と捉えるのはおかしい。特に日本では「欧米は肉食、アジアは草食」と例えられている。もしこれらの国が争い事を好まない民族であるとすれば、秦の始皇帝や漢の中国統一も、信長、家康の日本統一もなく、今のアジアは古代からの村落のままで黒船襲来後間もなくして消えていたであろう。尖閣諸島紛争でも同じことだが、どの国も国内では自分に都合のいい情報しか出回らせない。従ってこのような紛争ではどの国民も被害者意識から余計に熱くなり、最悪の場合には暴走する。(ちなみに私は台湾では日本の言い分を、日本では台湾の言い分を言いたがるので、私はどこでも非国民である)。 日本のテレビでは青年海外協力隊の活動が紹介され、発展途上国の人々の為に多くの日本人が献身的に働いていることを知らせてくれる。このような活動は欧米でも台湾でも行っている。だからそれだけでは日本人が特に貢献していると、他人に対して自慢することはできない。更にどの国でも同じだが、自国の美談は報道される一方、醜い部分は海外に長らく住まないとわかってこない。台北には日本人ビジネスマンがよくいく飲み街がある。夜遅くなれば現地の女性を同伴して消えていく。被殖民的で快くは思わないが、私は自由な経済活動であるし経済も活性化してくれるので別にいいと思っている。しかし日本で「買春はODAのような援助活動である」と恩着せがましく主張している知識人がいるように、強い経済を盾に発展途上国に対して物を言うことには傲慢さを感じる。これこそ日本人がアメリカ人に感じている傲慢さであろう。私も大学生の頃にバイトをした時、工事現場のおじさんから「台北に何回も行った事あるよ」と言われ、台北での買春話を延々とされ、台湾の女性達は金目当てだと言われた経験がある。したがってテレビでコメンテーターが言う「日本人は控えめ」とかけ離れている実像も存在し、日本がアメリカに対して感じる強権を、周辺諸国の人々も日本に対して感じていることを受け止めなければならない。(これは当然台湾人の中国や東南アジア人に対する言動にも言えることである。) 人々はその社会の情報に浸かって生きているので、誰もがその社会の常識に囚われてしまう。常識から抜け出す簡単な方法はある。それはその環境から抜け出してみることだ。ご飯を食べる時はお椀を持つのがお行儀と教わったが、韓国に行ったらそれは行儀が悪いことになる。これは表象的なことに過ぎないが、その社会の言葉や風習を理解すればより内面的な常識の違いも見えてくる。自分の常識が通用しない世界があることに気付きさえすれば、あとは自然に想像力を働かせ、何事にももっと謙虚になれるかもしれない。これらは意表をつくことなので刺激的で面白い。私も台湾へ帰国した頃は台湾について無知であった。1年経って徐々に社会が見えてきた。そして日本を離れたことで客観的に世界の中の日本が見えてきた。それは、私が日本に居れば気付かなかったであろう。これもひとつの国際化である。 ------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 ------------------------------- 2011年6月8日配信
  • 2011.06.01

    エッセイ295:林 泉忠「『辺境』から見る『中心』の傲慢さ――沖縄と日米のやむをえない関係」

    5月15日は沖縄返還の日である。1972年のこの日、アメリカは沖縄の施政権を日本に返還した。毎年この頃になると沖縄社会の雰囲気が重くなる。返還を祝賀する風景があまり見られないかわりに、集会、デモ行進、米軍基地への抗議活動などが目立つ。今年の抗議のテーマは、普天間米軍基地の辺野古移転への反対のほかに、もう一つあった。先日のアメリカ外交官による沖縄の人々への差別「失言」事件への批判である。 この「失言」事件は3月に世にさらされてから、今日まで依然として議論され続けている。この事件は、沖縄社会に大きな衝撃を与え、日米間の外交トラブルを引き起こしたばかりか、東アジア全地域に対するアメリカの軍事戦略にも影響を及ぼしかねないため、軽視できないものである。 ◇「メア氏失言」騒ぎの顛末 今回の「失言」事件の当事者は「日本通」・「沖縄通」とされている、アメリカ国務省の日本部長だったケヴィン・K・メア(Kevin K. Maher)氏である。昨年12月3日にワシントンのアメリカン大学の要請により、メア氏は、東京と沖縄へ短期留学を控える学生たちのために講義を行ない、自らの日本での仕事経験および日本の印象などを話した。数名の学生の授業ノートを引用した日本の共同通信社の報道によると、メア氏の講義内容は、沖縄の人々への人種差別と侮蔑に満ちているという。「沖縄人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ」、「沖縄は離婚率、出生率、特に婚外子の出生率、飲酒運転率が最も高い。飲酒運転はアルコール度の高い酒を飲む文化に由来する」、「沖縄人は怠惰でゴーヤーも栽培できない」といった内容である。 このほか、敏感な米軍基地および日米安保問題について、メア氏は、「日本政府は沖縄県知事に対して『もしお金がほしいならサインしろ』と言うべきだ」、「日本政府が現在払っている高額の米軍駐留経費負担(おもいやり予算)は米国に利益をもたらしている。米国は日本で非常に得な取引をしている」などと語ったとされる。 メア氏は、アメリカの対日外交を握る現役のキーマンであるだけでなく、2006年~2009年沖縄駐在のアメリカ総領事を務めたため、彼の言論は、日本や沖縄に対するアメリカの姿勢を反映していると目される。「メア氏失言」事件は3月7日に世に知らされてから、直ちに沖縄社会の猛反発を招いた。驚愕の表情を隠せない沖縄県仲井真弘多知事は、その日に「外交官の質が問題になるんじゃないか。あんなに長いこと沖縄にいてね」とのコメントを出した。沖縄県議会は翌日にメア氏に対して発言の撤回と陳謝を求める決議を満場一致で行い、那覇市をはじめ市町村レベルにも広がった。 ◇沖縄社会の猛反発 世論では、沖縄の二大新聞『沖縄時報』と『琉球新報』がそれぞれ社説を発表し、メア氏の「失言」およびその背後にある米軍基地など安保問題上の日米間不平等関係を厳しく糾弾した。『沖縄タイムス』は3月9日の社説「[沖縄差別発言]メア氏を解任すべきだ」において、「メア氏の発言は日米関係に潜む病理をあぶり出す」と鋭く指摘する。 沖縄社会の反応に対しアメリカ側は直ちに釈明を行ない、メア氏の言論はアメリカ政府の立場を代表しておらず、「アメリカ政府は沖縄の方々を非常に尊重している」とのコメントを発表した。アメリカが急いで火元を消そうとしたのは、「失言」事件がさらに発展してまだ解決されていない普天間米軍基地移転問題に新たなトラブルを増やすことを恐れたからである。 周知のように、沖縄の米軍基地問題は日米関係において極めて重要な位置を占めている。多くの日本国民にとっては、日米同盟そのものは平等なものではない。しかし、沖縄県民にとっては、沖縄と日本本土との関係も平等ではない。日本の国土の0.6%しか占めていない小さい県に、75%の駐日米軍基地が集中しているからだ。換言すれば、長い間、沖縄の人々の身には、アメリカおよび日本の二重の不平等関係が降りかかっているのである。 沖縄は日本南部の辺境地域に位置している。この「辺境」は、地理上のもののみならず、心理上のものをも意味している。軍事上のものだけでなく、政治上、文化上のものでもある。「中心―辺境」関係の視角から見れば、「メア氏失言」事件はこうした不平等関係下の「中心」の傲慢さを反映している。そして、「中心」の傲慢さをもたらしたのは、近代国家と近代世界の内在的な不平等構造である。 ◇不平等関係下の「辺境」の嘆息 「自由」と「平等」は近代人類社会が追求してきた核心的価値である。しかし、これらの価値に基づいて構築された近代国家システムにしろ、近代国際システムにしろ、「中心」と「辺境」間の不平等関係が先天的に残さている。 一方で、多くの場合、主要民族が創った国民国家では、本来「我が族類に非ず」とされてきた辺境地域を自ずからの新生国家の主権範囲内に納めた結果、近代国家内の「中心」と「辺境」との緊張関係が絶えなかった。また、「中心」と「辺境」との利益が衝突した場合、「大局的な視点」から「辺境」を犠牲にするのが常に「中心」の「やむをえない」選択となった。戦後日本が沖縄に厖大な米軍基地を強制的に置いたのは、まさにこうした不平等関係を反映するものである。 もう一方で、すべての主権国家からなる近代国際社会は、その組織原理こそが「平等」という原則に基づいているはずだが、周知の通り、世界はパワーポリティクスによって支配されているのが現実である。よって、多くの小国は大国に依存し生きる道を求めてきている。一昨年、日本が歴史的な政党交代を実現し、登場したばかりの民主党鳩山政権は、普天間米軍基地移転問題を借りて日米間の不平等関係を変更しようと試みた。しかし、この時の「造反」は最終的に世界の「中心」であるアメリカの認可を得られないまま失敗に終わた。 ◇「脱中入日」下の琉球の運命 近代国家システムと近代国際システムの二重の挟み撃ちのもと、近代以降の沖縄の数奇な運命のなかで、「メア氏失言」事件はやむをえない苦境に置かれる「辺境」の数え切れないエピソードのなかの一つに過ぎない。 しかし、「辺境」の存在は、必ずしも生まれつきのものではなく、世界に独りよがりな「中心」が出現してからのことである。東アジア地域の「辺境」地域として、沖縄は過去に三つの「中心」と絡み合う微妙な関係にあった。この三つの「中心」は異なる時期に東アジア地域の覇者あるいはその挑戦者の役割を果たしてきた。すなわち、近代以前の「中心」は中国であり、近代以降は日本とアメリカである。 今から132年前まで、沖縄は450年の歴史を持つ半独立王国であり、琉球と呼ばれていた。明朝洪武帝の時代、統一する前の琉球は、すでに明朝皇帝に朝貢を行い始めた。これで、琉球は中華世界システム(華夷秩序)に入ったのである。当時の中国は東アジア地域の唯一の「中心」であり、琉球と明、清の二王朝との宗属関係は5世紀も続いた。17世紀のはじめに、薩摩藩の侵攻を受けて、琉球は薩摩に頭を下げて臣となった。1879年、明治維新後の日本は武力で琉球を併呑し、「沖縄」に名を変えた。 琉球の亡国は、東アジア地域の「中心」更迭の序幕を開けた。と同時に、東アジア各国も近代国家へと邁進していった。この過程のなかで、琉球が日本現代国家の一部となっていくのにつれて、琉球への中国の影響力は弱まっていった。 ◇沖縄と日本との心の距離 近代以来、琉球の民衆は日本という「新家庭」のなかでつらいアイデンティティ転換の過程を経験した。日清戦争で清朝が日本に敗れたのを受け、琉球のエリート層は、中国はもはや琉球を助けることが出来ず、彼らの目の前に残る唯一の道は「日本人になる」ことだとわかった。こうした沖縄社会の思想的転換は、「辺境」としてやむをえない選択であり、当時の目的は日本人からの差別を避けようとしたのである。 しかし、希望通りには事が運ばず、第二次世界大戦前の日本社会の沖縄の人々に対する差別は根強かった。双方は基本的に通婚しないし、沖縄を直接支配する県知事は例外なく「中心」の日本から派遣された。 第二次世界大戦中の最も惨烈な沖縄戦を経て、沖縄は日本から「脱出」したが、その「中心」はアメリカに変わった。アメリカによる27年間の支配において、沖縄社会は初期には独立をも要求したが、内心の「日本人意識」がすでに定着していた上に、アメリカ軍が沖縄の民主化に消極的だったため、左派勢力の強い沖縄社会は社会主義の中国と連携せず、むしろ社会運動を起こし、「祖国日本への復帰」を要求した。 歴史は不思議で皮肉なものである。1972年に沖縄が日本に「返還」された後も、厖大な米軍基地は日米安保条約のもとで存続しており、多くの沖縄の人々にとって「返還」は必ずしも日本本土と沖縄との間の不平等関係を解決していないのである。その後、沖縄社会において「日米政府に裏切られた」との意識が芽生え、今日に至っている。 ◇「中心」の傲慢さはいつ終わるのか? 沖縄の人々の「中心」への不信感、および彼ら自身の置かれた状況への嘆息は、彼らの日本への微妙なアイデンティティにも投射されている。2007年に沖縄で行なった筆者の調査では、自身の帰属意識に関して、調査対象の4割が「沖縄人」、2.5割が「日本人」、3割が「沖縄人であると同時に日本人でもある」と選択した。 132年の間、沖縄の人々は、時には自分は「沖縄人」と強調したり、時には「日本人になる」ことに努めたりしてきた。こうしたアイデンティティの変化に影響する要因は多いが、現在進行形のものには「歴史認識問題」と経済要素が含まれている。 2007年9月、数万の沖縄の人々が集会を開き、沖縄戦中に、日本軍が沖縄の人々に集団自決を命令した関連記述を削除した教科書の使用を許可した日本政府を糾弾した。多くの沖縄人が、今でも日本政府は沖縄社会に対する基本的理解に欠けており、沖縄人の気持ちを理解していないと見ている。さらに、沖縄は「返還」後、長らく日本政府の財政的な援助に頼っており、いつになるかわからない経済自立の議題も沖縄の人々の自尊心を傷つけた。 疑いもなく、半世紀以上も存在し続けている米軍基地は、依然として沖縄社会と「中心」との心理的距離をつなぎとめる最重要な要素である。沖縄の人々の反対を無視し、日米政府が普天間米軍基地を沖縄北部の辺野古沿岸地区に移転することを強要したことは、まさに露骨な「中心」による傲慢な措置なのである。こうした不平等関係が存在し続けていけば、「メア氏失言」事件は再演を繰り返していき、そのプロセスにおいて、身に降りかかっている日米両「中心」への沖縄の人々の無力感もさらに増幅していくだろう。 ◆本稿は『南風窓』2011年第9期に掲載された記事「从“辺陲”看“中心”的傲慢----沖縄与日美的无奈関係」 を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年6月1日配信
  • 2011.05.25

    エッセイ294:キム キョンテ「日本での日々」

    日本と韓国は違う国です。あたりまえな話ですが、たまにそれを忘れてしまいます。他国で生活するのが初めてであった私が、「ちょっと長い旅行」程度に思って生活を始めたところが、渡日初期の失敗だったかも知れません。   「お互いに違った所を認めない共同体化は望ましくない」と考えていた私としては恥ずかしいことでした。当然、小さい差異一つ一つが、大きく感じられてきました。銀行では口座を作ってくれない、自転車は買ったが、駐輪場がない (空きは1年半待ちなさい、と話す管理人おじさんの平然とした顔に衝撃)。空きがでたとしても1ヶ月の駐輪料が自転車の価格を軽く超える(ネットで買った自転車は2500円、駅前駐輪場は1日100円)。しかしそれが日本ですよね。1ヶ月くらい過ぎたらずいぶん慣れました!   さて、「生活」ですので、旅行に来たら滅多にいかないところを探して行くのも私には意味深い事でした。初めての外国生活なので、路上ののんびりした猫も新鮮に感じられるくらいでしたので。   本郷から東京ドームに行く途中、道に迷って寄ってしまった「菊坂」。本郷はもともと文人の里で有名らしいが (例えば、夏目漱石の小説にも出てくる東京大学構内の三四郎池はひとりで弁当を食べたりする綺麗な場所ですが・・寂しいですね-)、最近は五千円札の樋口一葉のゆかりの場所で人々を寄せています。彼女が住んでいた昔のままであるような下宿と、お金を借りた質屋、隠れている可愛い坂坂、古い銭湯。そして 樋口一葉を愛する女社長が運営するカフェのあんみつは美味でした。   私は現在、亀有というところに住んでいますが、近くに柴又があります。はい、「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。 帝釈天で産湯をつかい・・」のその寅さんの柴又です。参道とお寺の風情に一目ぼれ、今は「男はつらいよ」シリーズにすっかりはまっています。一編一編が人間の喜怒哀楽。いつも笑いながら、泣きながら、鑑賞しています。時には柴又で買ってきた草団子やせんべいを食べながら・・。   神田神保町の古書店巡りも楽しみのひとつです。ちょっとおかしいかもしれませんが、私は憂鬱になったら、書店に行きます。いろんな本を観るだけでいい気分になります。古本はまた違った味があります。きれいな古本もいいんですが、私は経てきた主人の痕跡が残っている本のほうが好きです。神保町の本屋はだいたい老舗で、敷居も高く、主人の愛想ない表情も少し怖いんですが、(また、値段が結構高いのであまり買えないんですが) その落ち着いた雰囲気、いつまでも変わらないそんな雰囲気が好きです。   それを感じながら、充分見物したうえで、三省堂に行って本を買います。(笑)   この6ヶ月、私の日本は本当に美しいものでした。今、大きな自然災害で苦しんでいますが、すぐに、日本の美しい春が戻ると信じています。   この6ヶ月、勉強の面においても、人生の面においても、大きな転換点になりました。残った6ヶ月、これからどういう変化が待っているかまだ分かりませんが、きっと素晴らしいものではないかと期待しています。   ----------------------- <キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校 韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として留学中。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 -----------------------   2011年5月15日配信
  • 2011.05.11

    エッセイ293:マギッド・イヴゲニ「私の地震体験記」

    私は茨城県つくば市に住んでいます。2011年3 月 11 日(金)は、朝から千葉県習志野市の幕張ゼミハウスに、チューターとして、日本人の後輩に英語の発表の仕方を教えるアルバイトに行きました。昼食を終えて、先生、3人の留学生チューター、20人の日本人学生と一緒に、ブルガリア人の有名な先生の発表を聞いていた時、午後 2 時 46 分にマグニチュード 9.0 の地震が起きました。最初はあまり強くない地震だと思い、教室の2重のドアと窓を開けて、発表を続けようとしました。しかし、だんだん地震が強くなったので、皆で外に避難しました。その時点では、窓がひとつ壊れただけだったので、まだ何も心配することはありませんでした。 地震の後、参加者は外に集まっていました。ゼミハウスのスタッフからベンチ、椅子、ブランケット、お茶とスナックをもらって、みんな嬉しそうでした。しかし、小さな余震がずっと続き、ニュースも見られないし、なかなか携帯電話も通じず、つくば市にいるガールフレンドのターニャと連絡もできず、心配でした。2時間ぐらい待った後、フランス人のチューターと一緒に2人でつくば市まで歩いて帰ると決めました。地図がないので、コンパスに頼って、午後5時ごろ、習志野市からつくば市の方向をめざして出発しました。 歩くにつれて、周りの状況から、広範囲にわたる地震の被害が分かるようになりました。停電していたり、地下鉄が止まっていたり、ひどい交通渋滞だったり、家に歩いて帰る人がたくさんいたり、コンビニのお弁当と飲み物が売り切れてしまっていたり、依然として携帯電話が繋がらなかったりしたからです。そして、船橋のガソリンスタンドで、仙台の津波のニュースをテレビで見た時には、本当に怖かったです。 午後11時ごろになって、やっと友達とターニャに電話ができました。友達に頼んでFacebookで私の家族に連絡してもらいました。地震のとき、ターニャは筑波大学の宿舎の4階で勉強していました。地震の後、宿舎の事務所のスタッフに誘導されて、他の留学生と一緒に安全な避難所に移りました。 つくばの方向に歩きながら、警察官やいろいろな人に道を聞きました。そして、コンビニで会った日本人が車でつくばまで送ってくれました。 午前3時ごろ、つくば市に着きました。避難所に行ってターニャと会いましたが、私のアパートに残っている猫ちゃんのタシャのことがとても心配だったので、二人で一緒にアパートに行くことにしました。部屋に入ってショックを受けました。壁と天井にはたくさんのヒビ、キッチンでは冷蔵庫が動いていて、冷蔵庫の上の電子レンジは落ちて、食器が割れて、部屋の中は整理棚や服や本などがめちゃくちゃになっていました。 そして、あちこちに猫ちゃんの血の跡があったのです。そこらじゅう探して、名前を呼んでも反応がないので、もうダメだと思いました。ところが、10分後、とても低い声で猫ちゃんが「ニャ~~~」と答えました。猫ちゃんは後足にけがをしていましたが無事でした。 少し落ち着いてから、大切な書類、ノートパソコン、ブランケット、水と食料をかばんに詰めて、ターニャと猫ちゃんと一緒に避難所に行きました。留学生が100人ぐらい集まっていて、2日間一緒に住みました。避難所の水道が止まっていたので、学生宿舎の洗面所を使うために、毎時1回シャトルバスがでていました。学生宿舎では、無線のインターネットを使えたので、ニュースを調べたり、Skypeで家族と話したりすることができました。   3 月 12 日(土)の朝、食べ物を買うためにスーパーに行ったのですが、たくさんの店が閉まっていて、開いているところも水のペットボトルはなく、お弁当類もあまりありませんでした。避難所では日本人のスタッフのおかげで、留学生は毎日一人に飲水1リットルとおにぎり2つをもらいました。避難所にいたときに留学生と話しましたが、皆、地震が起きた後、日本人に手助けしてもらったそうで、日本人に対して感謝の気持ちを持っていました。   このように、習志野市を出発した時には「小さなアドベンチャー」と思っていましたが、途中から「ホラー映画」になってしまったのでした。 3月13日(日)の夜、留学生は避難所から学生宿舎とアパートに帰りました。私が住んでいたアパートは、建物自体の被害がひどくて住みにくかったし、結婚式のスタッフのアルバイトは6月まで中止で収入がなくなってしまったし、ロシアにいる両親が福島第一原発のことをとても心配したので、6月までロシアの実家に帰ることにしました。その晩、猫ちゃんを獣医に連れて行って治療を受けました。そして、猫を海外に連れていく許可の書類を作ってもらいました。猫ちゃんとはもう10年以上一緒に住んでいるので家族の一員です。その書類がもらえなかったら、猫ちゃんなしで一人でロシアに帰ることはなかったと思います。 3月14日(月)、航空券を買った後、再入国許可をもらうために東京の入国管理局に行きました。またショックでした。普段、入国管理局は午前9時から午後4時まで開いているのですが、帰国する留学生の数がものすごく多かったので、入国管理局は留学生のために遅くまで仕事を続けたのです。私は許可証を午後8時ごろにもらえましたが、まだ千人以上の留学生が待っていました。彼らは何時まで続けたのでしょうか。このような地震災害がロシアとか他の国で起こったら、職員は外国人のことなどよく考えてくれることはなく、朝まで仕事を続ける人はいないと思いました。 3月16日の飛行機に遅れないように、3月15日にターニャと猫ちゃんと一緒にタクシーで成田空港へ行きました。バスのチケットは3月18日まで売り切れと聞いたからです。3月15日の昼から3月16日の夜の出発まで、ずっと成田空港のロビーで待っていました。空港のスタッフからブランケットと飲み水をもらい、いろいろお世話になりました。 成田にいた時、この地震災害についていろいろなことを考えました。他の国でこのような災害が起きたら、その国の市民の態度と行動はどのようになるかと自問しました。アメリカでハリケーンや地震で大きな被害がでると、被災地では必ず窃盗や略奪という醜い犯罪行為が起きます。キルギス、チュニジア、エジプトの革命のときにも、略奪が多かったのです。 日本人はとても特別な国民で、祖父母の時代のソビエト社会主義共和国連邦の人々と共通点がたくさんあると思います。自然災害が起こっても法律を守り、大変なときにはお互いによく助けあって、心がとても優しいけれども魂が強いです。お世話していただいた留学生は皆、本当に心からありがたい気持ちを抱いたと思います。 私は、このようにすばらしい民族である日本人と一緒に住みたいと希望しています。世界中の人々が、日本が早く復旧するようにお祈りしています。福島第一原発事故について心配している家族は日本への留学と就職活動に帰ることに反対していますが、私は5月中旬日本に帰ることを決めました。 頑張れ、日本!一緒に頑張りましょう! ------------------------------------------------------ <イヴゲニ・マギッド ☆ Evgeni Magid> ロシア連邦ヴォルゴグラード市で生まれ。ヴォルゴグラード工学大学で工場用のロボット工学を学んだがイスラエルへ移住するために退学。20 歳の時に一人でイスラエルに移住して、テクニオン大学と大学院(修士)を卒業。2006年に文部科学省の奨学金を得て来日、2007年から筑波大学大学院の博士課程に入学、レスキュー・ロボットを研究している。 ------------------------------------------------------ 2011年5月11日配信
  • 2011.05.04

    エッセイ292:包 聯群「東日本大震災体験記」

    “3.11”のマグニチュード9.0の地震・津波・福島原発事故から50日が過ぎました。世間もやっと落ち着きを取り戻してきたようです。被災者への救済も着実に進んでいて、災害に関する海外の報道も徐々に減ってきています。しかし、大震災が起きた時には、日本に居た外国人にもいろいろな動きがありました。過去を振り返る余裕ができた今、当時、在日外国人(特に留学生たち)が何を考え、どういう行動をとったかを知り、彼らに対してどのような支援が必要だったのかを考えてみるべきでしょう。地震や津波や原発事故だけではなく、情報の錯乱も多くの外国人にさらなる恐怖をもたらした教訓から、私たちは何を学べるでしょうか。 1.地震による交通マヒを体験 地震が起きた時、私は友達に会うために、五反田のある大企業の建物の中にいました。話をしている途中で地震が起き、建物が左右に大きく揺れました。人々は困惑しながらも、屋内で揺れが収まるのを待っていました。間もなくビルの管理者からの指示があり、外に出て見るとすでに人があふれていました。みんな家族や友達に電話をかけていますが、まったく通じない状態でした。そして、携帯でニュースをみて、震源地が東北であることを知りました。 電車が止まっていたため、私がいたビルの管理者から「屋内に戻ってしばらくお待ちください」というアナウンスがありました。しかし、しばらく待っても電車の運行が回復しそうもなかったので、私たちはバスで渋谷まで行くことにしました。しかし、バスを待つ人がいっぱいだったので、結局、友達と一緒に渋谷まで歩くことにしました。JR線に沿って歩いている人がたくさんいましたが、みんな秩序よく行列になってお互い譲りながら狭い道を双方向で利用していました。一時間半以上をかけて渋谷に到着すると、これまで見たことのない「人の海」でした。渋谷駅から各方面に行くバスを待っている人と電車を待つ人が、その広場を埋め尽くしていました。 私の家まで行くバスがなかったため、友達の家へ行くことにしました。長い行列で、冷たい風を耐えて3時間、やっと成城学園前行きのバスに乗れました。しかしながら、目的地まで6時間かかると告げられました。そして、バスがなかなか前へ進まないため、バスから降りて歩いて行く人が徐々に増えてきました。3時間以上経っても三軒茶屋あたりまでしか進んでいなかったため、私たちも結局バスを降りて歩くことにしました。歩いているうちに、1時間、2時間以上前に出発したバスを次ぎ次ぎに追い越しました。長い道のりを歩き、結局、友達の家に着いたのは午前4時をすぎていました。  五反田から渋谷までのJR山手線沿いの狭い道でも、渋谷駅の周辺でも、人があふれているにも関わらず、人々は混乱せずに行列を作り、バスを待っていました。日本の秩序を改めて実感することができました。私だけではなく、各メディアおよび海外メディアもこれについて賞賛しています。 そして、バスを降りて歩いているうちに、多くの商店やレストランの前で様々なサービスを受けられるという看板が出ているのをみて、災害がおきた時、日本人は柔軟に対応し、また他人のため何ができるかを判断し、行動に移していることに感銘を受けました。 2.多言語によるFM放送の実施 2009年の統計によると、在日外国人はすでに218万人にも達しています。大震災直後、在日外国人のため、多言語によるウェブサイトやラジオ放送がたくさん立ち上がりました。渥美財団や大学、知り合いの先生方が多言語による震災情報サイトの情報を流してくれました。多くの外国人が日本人の温かい心を感じたひと時と思います。 大震災直後のある日、ある先生が「テレビ東京のInterFMで多言語による翻訳や放送にボランティア募集中」というメールを送ってくださいました。それをみて、私は「もし人手が足りない場合は私に連絡を」という主旨のメールを送ったところ返事をもらい、お手伝いをすることになりました。多言語による生放送は18日から始まり、10日以上続けられましたが、録音した多言語による放送はその後もしばらく放送されていました。私は中国語の翻訳や放送を担当しました。 放送内容は地震、放射線(福島原子炉の動向、注水作業など)、土壌や食品汚染情報などに関する緊急速報、被災地の中国人の集合場所、連絡先電話番号、中国大使館との連絡方法、放射能に関する予防知識、計画停電速報、被災地死亡・行方不明者数、みずほ銀行ATM故障および銀行の対応、菅首相の動向、道路交通情報、外国人向けの多言語対応機関の紹介、東京都と品川区の被災者支援募金および物資の寄付情報などでした。このような情報を次々と翻訳して放送しているうちに、自分の気持ちもそれに従って暗くなり、事態の重さを生で体験することになりました。 放送する内容の決定の仕方については、ラジオ局のスタッフが、契約に基づきインターネット上の共同通信のニュースを利用できることを教えてくれました。つまり、共同通信のニュースから、新しく入ったニュースを探し出し翻訳を行い、許可を得てから放送していました。緊急ニュースの場合は、その場ですぐ翻訳して放送したこともありました。また中国大使館のウェブページからも中国人向けに発信している内容を選択し、繰り返し何回も放送をしたこともありました。 ニュースが多い時には、1日に10時間以上も放送局に居て、翻訳や放送を続けました。最初の日は、中国語、韓国語、英語、スペイン語の生放送がありましたが、翌日には英語と中国語のみになり(ボランティアが少ないため)、その後は英語や中国語以外の他の言語のボランティアはたまに来る感じでした。英語を除けば、生放送を一番長く続けられたのが中国語でした。私以外に慶応大学の学生もいたので交代できたからです。 多言語によるサービスを実施したのは、テレビ東京のInterFMのみではありません。NHKや他の民間放送局や多くの政府機関、団体なども多言語による放送やサービスを実行していました。 災害が起きた際、日本は外国人に対して日ごろから行っている多言語によるサービスを活かし、迅速な対応や行動を取り、外国人に正しい情報を伝えることができたと評価することができます。ことばを知らないため、世の中に何が起きているのか、放射線がどの程度であるのか、などの情報を手に入れることができず不安な日々を過ごしていた外国人にとって、多言語によるサービスがいかに大事であったかは言うまでもないことでしょう。 緊迫していく毎日を過ごしていた政府や関係者が、いつもと同じようにすべての外国人に行き届くサービスを実施することは事実上不可能です。前例のない大きな災害が起きた時でさえ、外国人に多言語による情報伝達の努力をしたことについて評価すべきと考えています。 3.中国人の動向 東日本大震災発生後、特に福島原発事故による放射能の漏洩によって、在日各国大使館は自国の人々に避難勧告を出しました。被災した地域には留学生を含む3万人以上の中国人が居住していたので、中国大使館は留学生を含む中国人の安全確認や自主的な避難を呼びかけ、大使館ウェブサイトに震災情報を掲載したり、24時間対応の緊急連絡電話を設置するなどの対応を取ってきました。中国大使館の協力のもと、地震発生後10日以内に7600人が被災地域から他の場所に避難し、9300人が帰国しました。15日の夜に中国大使館が被災地の自国民に避難する通告を出すと、東京、茨城、千葉などの地域の人々も避難しはじめました。中国だけでなく各国の留学生が帰国したり、福島から遠い地域へ避難したり、安全な場所へ移動する動きがありました。 最後に留学生の動向を紹介することによって、当時人々が何を考え、どういう行動を取ったかを振り返ってみたいと思います。私はこれらの外国人留学生たちと緊密な情報交換を行い、また彼らに震災に関する情報を伝えていました。 Aさんは仙台の大学の大学院生で、地震が起きてから連絡つかず、3日目になって、やっと安否を確認できました。そして、かつて私が仕事をしていたビルが立ち入り禁止となっていることを教えてくれました。Aさんの周りの留学生たちは皆新潟へ移動しましたが、なぜか彼女はどこにも行きたくない、指導教官がこちらにいるから大丈夫と言います。先生にも他のところに行ってもいいよと言われたそうです。親や兄弟から帰国するよう毎日電話でしつこく言われ、やむを得ず「私は他の安全の場所に避難します」とウソをついたそうです。その後しばらく友達と一緒に3人で日本人の知り合いの家に避難しましたが、日本人の優しい心に感動し、「日本人はすごいね。お互いに助け合う精神に感銘を受けました」と言っています。 仙台の大学で非常勤の仕事をしているBさんは、大学院を卒業したばかりです。家が被災して住むことができなくなったので、しばらく家族と共に避難所で過ごしていました。中国大使館の呼びかけで、奥さんと幼い子供をまず新潟へ避難させ、その後帰国させましたが、彼自身は一人で仙台に残りました。 留学生のCさんは日本滞在がそれほど長くないため、日本語を完璧に理解することができませんでした。そのため大震災が起きた時から、いつも私に電話をかけてきて、その時々の事情を確認していました。3月末のある日、彼女から電話が来て、「これから日本で9.0以上の地震がまた起きるよ、国に帰りたい」と言います。「ええ、そんなことないよ。どこから聞いたの?」と私が尋ねると、彼女は、「今、国際ラジオニュースで言っています」と言いながら、携帯で私にそれを聞かせてくれました。ほんとうだ。しかも、日本のある専門家の分析によるということでした。私は、しばらく聞いてから「それを信じるかどうかは、自分で決めるしかないですね。たくさんの人の意見を聞いてから行動したほうがいいですよ」と彼女に言いました。彼女は日本に残りました。 専門学校の留学生のDさんは来日3年目。大震災以後、怖くて、友達がいる岡山に避難しました。岡山から私に電話がきて、「今、友人のところに避難しているので、とても安全。こちらは地盤がよくて、地震は起きない」と言います。しかも茨城の友達も家族で来ていたので、8人も一緒に暮らしているそうです。それから、たまに電話がきて情報を確認していました。3月末のある日、すでに東京に戻ってきたという電話がきました。しかし「今は大変。東京のお水は飲めないから、ミネラルウォータを毎日飲んでいたせいでもともと調子がよくない胃が痛くて、食事もあまりできない状態です。そしてちょっと怖い」というSOSの電話でした。「そうですか、東京のお水はもう大丈夫ですよ。私の家に来てちょっとリラックスしたら」と誘いました。彼女はその後すぐ私の家に来て、いろいろな話をし、一緒に東京の水道水を飲んで、2日間よく食べて、顔色もよくなりました。そして「胃」を直して帰りました。本来ならば、彼女のビザは4月27日までで、半年間延長する予定でしたが、4月7日のチケットを購入して、「早く帰りたい」と言い残し、帰国の途に着きました。 東京の大学院生のEさんは、2月には博士論文の審査を終え、3月末には卒業証書をもらう予定でした。しかし、大震災後、一時関西へ避難していたものの、最後には帰国したということです。社会人のFさんの家では茨城から避難してきた故郷からの留学生を受け入れ、10日間ぐらい共に暮らしました。 日本に暮らす外国人はお互いに様々なネットワークによって結ばれています。同じ国・故郷からの出身者が大体繋がりをもっていて社会ネットワークを築いています。また、今回、多くの外国人が語学のボランティアに携わり、それぞれの多言語能力を一つの「財産」として活かすことができました。日本の行政機関や非営利団体などが外国人のこのようなネットワークと日ごろから接触し、それを社会活動に活かすことができれば、非常事態が起きた時にお互いに連絡し合って様々な情報をスムーズに伝えることができるというだけでなく、日本に多言語社会・共生地域社会を築くために役に立つのではないかと考えています。 ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者を経て、現在東京大学総合文化研究科学術研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。言語接触や言語変異、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。 ------------------------------------ 2011年5月4日配信 【読者の声】 外岡 豊「包さんのエッセイを拝読して」 包聯群さんが留学生や中国語生活者の地震後対応にその語学力を活かされ放送、報道に大いに活躍されたことは非常によかったと感じました。多くの人にも貢献できたし個人的にも良い経験にもなった、留学生を含め外国人居住者も日本社会の一員ですから、これを機会により深く社会とのつながりを持てたことは結果として充実した毎日だっただろうと思います。それは日本人が緊急時に助け合ったことと繋がっていて、その裏には留学生諸氏とのそのような人と人の前向きなつながりを支援してきた渥美財団の長年の蓄積が目に見えないかたちで後押ししていたのではと思います。東北の津波の被災地でもいわゆるコミュニティーと言われる地域の人々のつながりが強くあって東京の日常とは違う田舎や地方の良さがあらためて認識されたように、健全な社会を支えているのは人と人のつながり、それは言うまでもないことです。渥美財団の活動を脇から眺めていつも思うことは留学生とのそのような親密な人間関係強化に強い意志と温かい心を持って取り組んできた、その継続がかけがえのない無形の財産になっていること、そのすばらしさです。いつも留学生諸氏のSGRAエッセイを読ませていただいて触発されて、こちらも何か書きたくなるのですが、地震後たまっていた思いもあり、包 聯群エッセイを拝読しての応答を書かせていただくことにしました。  *  *  * 地震(大きな余震が来る可能性)と原発(大量に放射性物質が排出され広域汚染される可能性)の不安を総合すると避難や帰国を促した各国大使館の対応は過剰ではない。不正確な海外向け(外国語)情報で必要以上に外国人の不安をあおった面はあったが、東京近辺の日本人も食料や水を我先に買いに走ったので不安感には大差がない。今回の場合は水や食料確保に走った市民の行動を私は非難するつもりはない。幸いそれが必要な緊急事態が今日まで起きないで来たが、何かが起きていたらそれで社会的混乱を予防的に回避できた可能性も高い。これからそれが役立つ事態が起きないとも限らない(起きないことを祈るのみ)。 私はつくばで国際会議中に地震にあったが、初めて地震を体験した外国人も多かったようだが幸い全員無事だった。余震の危険と長い停電のおかげで、何をすることもできず、はからずも外国人研究者と時間をかけて研究交流できた。電源不足でパソコンが使えずパワーポイントを見せ合うことはできなかったが、ゆっくり話す機会になった。 一晩親切な避難所の世話になって次の日横浜に住む中国人若手研究者夫妻とともに東京に戻った。研究水準は高いが日本語力がやや弱いポスドク級研究員だったので、私と行動を共にすることで、彼らが不安なく帰宅できたことに多少の御役に立てたのは幸いだった。 私の周りにいる留学生諸氏に対し3月中旬には帰国を勧めたが安い航空券が手に入らずすぐには帰れない人も多かった。宇都宮大の中国人学生は松山空港経由で上海行きに乗って帰国したが、そのような国際便があることを初めて知った。 4月になり新学期が始まると多くの中国人留学生も日本に戻って来た。大学院生に対しては、あわてて日本に戻らなくてもよい、故郷で落ち着いて勉強しているのもよいと言って帰国させたが、4月中旬には自主的に日本に戻って来た学生も多かった。地震後は、まだ、大学院生諸氏と研究らしい研究をしていないが、幸い余震も原発も小康状態、連休になって東京近辺の社会情勢もやや落ち着きを取り戻して、緊急時から平常な日常生活にもどりつつあるように見受けられる。 地震、津波、原発で日本のことばかりに気が集中していると世界的な状況への認識が薄れると思っていたが、リビアのカダフィー問題が長引いているうちに、こんどはビンラディン殺害、英国の王子結婚の祝い気分もつかの間、物騒な話題がまた出てきてしまった。先月、日経新聞でブッシュ元大統領(43代George Walker Bush)の『私の履歴書』を読んで21世紀初頭のテロの10年間を回顧する機会があったが、こうすぐに報復テロへの不安が再起される日が来るとは思わなかった。一部EU諸国の国家債務問題も、USA経済の立て直し問題も、地震以前からの日本政府の巨大債務問題も残っていて、地震復興や原発安定化が進んでもそれらの問題が片付くわけではない。アメリカ大陸では大きな竜巻被害があったが、天災と経済と政治と民族紛争と貧困と世界中が混乱と困難に巻き込まれそうな不安はまだまだ続く。21世紀初頭はそのような時代と覚悟して臨むべしと若い学生諸君に常々気構えを喚起するように努めて来たが、意外な形で緊急事態が早く現実に来てしまった感がある。 こういう時はどうすべきか。 ただただ日常生活を全うする普通の生活を着実に行う他ない。学生は基礎を学ぶ、古典を読む、歴史の本でも読むとよい。節電のためテレビを見ない、テレビゲームをしない、それは当然の対応と思うが、落ち着いて読書する良い機会、とくに大学院生の学生諸氏はじっくり本や論文を読んでしっかりノートを取る、電気がいらない学習法に立ち帰る絶好の機会と思う。 私の専門はエネルギーと環境、建築学科出身者として都市計画や社会の計画にも関わりを持っているが、当面の節電問題も専門領域、これからの気候変動対策、低炭素社会構築をどう進めるのかという長期対策も研究対象である。この夏の停電回避は原発が止まっても火力発電で乗り切ることはできるが、長期的なCO2排出削減、2050年にはゼロエミッションを達成しようという長期目標と、原発、化石燃料や再生可能エネルギーの問題に本気で取り組まないとこの先の社会生活像を描くことができない。 とにかく全員でいっしょにこの問題を含めてこれからの社会について真剣に考え直しませんか。日本人だけで考える時代ではない、アジアの将来を世界人類の将来を多国籍の多世代の方々と考えたいと思っています。(2011.5.04) <外岡 豊(とのおか・ゆたか)> 埼玉大学で留学生(とくに多いのは中国人)指導。日本と中国の気候変動対策、大気汚染防止、建物のエネルギー消費と省エネルギーなどについて研究中。SGRA環境とエネルギー研究チーム顧問。 ---------------------------- 2011年5月25日配信