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エッセイ292:包 聯群「東日本大震災体験記」

“3.11”のマグニチュード9.0の地震・津波・福島原発事故から50日が過ぎました。世間もやっと落ち着きを取り戻してきたようです。被災者への救済も着実に進んでいて、災害に関する海外の報道も徐々に減ってきています。しかし、大震災が起きた時には、日本に居た外国人にもいろいろな動きがありました。過去を振り返る余裕ができた今、当時、在日外国人(特に留学生たち)が何を考え、どういう行動をとったかを知り、彼らに対してどのような支援が必要だったのかを考えてみるべきでしょう。地震や津波や原発事故だけではなく、情報の錯乱も多くの外国人にさらなる恐怖をもたらした教訓から、私たちは何を学べるでしょうか。

1.地震による交通マヒを体験

地震が起きた時、私は友達に会うために、五反田のある大企業の建物の中にいました。話をしている途中で地震が起き、建物が左右に大きく揺れました。人々は困惑しながらも、屋内で揺れが収まるのを待っていました。間もなくビルの管理者からの指示があり、外に出て見るとすでに人があふれていました。みんな家族や友達に電話をかけていますが、まったく通じない状態でした。そして、携帯でニュースをみて、震源地が東北であることを知りました。

電車が止まっていたため、私がいたビルの管理者から「屋内に戻ってしばらくお待ちください」というアナウンスがありました。しかし、しばらく待っても電車の運行が回復しそうもなかったので、私たちはバスで渋谷まで行くことにしました。しかし、バスを待つ人がいっぱいだったので、結局、友達と一緒に渋谷まで歩くことにしました。JR線に沿って歩いている人がたくさんいましたが、みんな秩序よく行列になってお互い譲りながら狭い道を双方向で利用していました。一時間半以上をかけて渋谷に到着すると、これまで見たことのない「人の海」でした。渋谷駅から各方面に行くバスを待っている人と電車を待つ人が、その広場を埋め尽くしていました。

私の家まで行くバスがなかったため、友達の家へ行くことにしました。長い行列で、冷たい風を耐えて3時間、やっと成城学園前行きのバスに乗れました。しかしながら、目的地まで6時間かかると告げられました。そして、バスがなかなか前へ進まないため、バスから降りて歩いて行く人が徐々に増えてきました。3時間以上経っても三軒茶屋あたりまでしか進んでいなかったため、私たちも結局バスを降りて歩くことにしました。歩いているうちに、1時間、2時間以上前に出発したバスを次ぎ次ぎに追い越しました。長い道のりを歩き、結局、友達の家に着いたのは午前4時をすぎていました。 

五反田から渋谷までのJR山手線沿いの狭い道でも、渋谷駅の周辺でも、人があふれているにも関わらず、人々は混乱せずに行列を作り、バスを待っていました。日本の秩序を改めて実感することができました。私だけではなく、各メディアおよび海外メディアもこれについて賞賛しています。

そして、バスを降りて歩いているうちに、多くの商店やレストランの前で様々なサービスを受けられるという看板が出ているのをみて、災害がおきた時、日本人は柔軟に対応し、また他人のため何ができるかを判断し、行動に移していることに感銘を受けました。

2.多言語によるFM放送の実施

2009年の統計によると、在日外国人はすでに218万人にも達しています。大震災直後、在日外国人のため、多言語によるウェブサイトやラジオ放送がたくさん立ち上がりました。渥美財団や大学、知り合いの先生方が多言語による震災情報サイトの情報を流してくれました。多くの外国人が日本人の温かい心を感じたひと時と思います。

大震災直後のある日、ある先生が「テレビ東京のInterFMで多言語による翻訳や放送にボランティア募集中」というメールを送ってくださいました。それをみて、私は「もし人手が足りない場合は私に連絡を」という主旨のメールを送ったところ返事をもらい、お手伝いをすることになりました。多言語による生放送は18日から始まり、10日以上続けられましたが、録音した多言語による放送はその後もしばらく放送されていました。私は中国語の翻訳や放送を担当しました。

放送内容は地震、放射線(福島原子炉の動向、注水作業など)、土壌や食品汚染情報などに関する緊急速報、被災地の中国人の集合場所、連絡先電話番号、中国大使館との連絡方法、放射能に関する予防知識、計画停電速報、被災地死亡・行方不明者数、みずほ銀行ATM故障および銀行の対応、菅首相の動向、道路交通情報、外国人向けの多言語対応機関の紹介、東京都と品川区の被災者支援募金および物資の寄付情報などでした。このような情報を次々と翻訳して放送しているうちに、自分の気持ちもそれに従って暗くなり、事態の重さを生で体験することになりました。

放送する内容の決定の仕方については、ラジオ局のスタッフが、契約に基づきインターネット上の共同通信のニュースを利用できることを教えてくれました。つまり、共同通信のニュースから、新しく入ったニュースを探し出し翻訳を行い、許可を得てから放送していました。緊急ニュースの場合は、その場ですぐ翻訳して放送したこともありました。また中国大使館のウェブページからも中国人向けに発信している内容を選択し、繰り返し何回も放送をしたこともありました。

ニュースが多い時には、1日に10時間以上も放送局に居て、翻訳や放送を続けました。最初の日は、中国語、韓国語、英語、スペイン語の生放送がありましたが、翌日には英語と中国語のみになり(ボランティアが少ないため)、その後は英語や中国語以外の他の言語のボランティアはたまに来る感じでした。英語を除けば、生放送を一番長く続けられたのが中国語でした。私以外に慶応大学の学生もいたので交代できたからです。

多言語によるサービスを実施したのは、テレビ東京のInterFMのみではありません。NHKや他の民間放送局や多くの政府機関、団体なども多言語による放送やサービスを実行していました。

災害が起きた際、日本は外国人に対して日ごろから行っている多言語によるサービスを活かし、迅速な対応や行動を取り、外国人に正しい情報を伝えることができたと評価することができます。ことばを知らないため、世の中に何が起きているのか、放射線がどの程度であるのか、などの情報を手に入れることができず不安な日々を過ごしていた外国人にとって、多言語によるサービスがいかに大事であったかは言うまでもないことでしょう。

緊迫していく毎日を過ごしていた政府や関係者が、いつもと同じようにすべての外国人に行き届くサービスを実施することは事実上不可能です。前例のない大きな災害が起きた時でさえ、外国人に多言語による情報伝達の努力をしたことについて評価すべきと考えています。

3.中国人の動向

東日本大震災発生後、特に福島原発事故による放射能の漏洩によって、在日各国大使館は自国の人々に避難勧告を出しました。被災した地域には留学生を含む3万人以上の中国人が居住していたので、中国大使館は留学生を含む中国人の安全確認や自主的な避難を呼びかけ、大使館ウェブサイトに震災情報を掲載したり、24時間対応の緊急連絡電話を設置するなどの対応を取ってきました。中国大使館の協力のもと、地震発生後10日以内に7600人が被災地域から他の場所に避難し、9300人が帰国しました。15日の夜に中国大使館が被災地の自国民に避難する通告を出すと、東京、茨城、千葉などの地域の人々も避難しはじめました。中国だけでなく各国の留学生が帰国したり、福島から遠い地域へ避難したり、安全な場所へ移動する動きがありました。

最後に留学生の動向を紹介することによって、当時人々が何を考え、どういう行動を取ったかを振り返ってみたいと思います。私はこれらの外国人留学生たちと緊密な情報交換を行い、また彼らに震災に関する情報を伝えていました。

Aさんは仙台の大学の大学院生で、地震が起きてから連絡つかず、3日目になって、やっと安否を確認できました。そして、かつて私が仕事をしていたビルが立ち入り禁止となっていることを教えてくれました。Aさんの周りの留学生たちは皆新潟へ移動しましたが、なぜか彼女はどこにも行きたくない、指導教官がこちらにいるから大丈夫と言います。先生にも他のところに行ってもいいよと言われたそうです。親や兄弟から帰国するよう毎日電話でしつこく言われ、やむを得ず「私は他の安全の場所に避難します」とウソをついたそうです。その後しばらく友達と一緒に3人で日本人の知り合いの家に避難しましたが、日本人の優しい心に感動し、「日本人はすごいね。お互いに助け合う精神に感銘を受けました」と言っています。

仙台の大学で非常勤の仕事をしているBさんは、大学院を卒業したばかりです。家が被災して住むことができなくなったので、しばらく家族と共に避難所で過ごしていました。中国大使館の呼びかけで、奥さんと幼い子供をまず新潟へ避難させ、その後帰国させましたが、彼自身は一人で仙台に残りました。

留学生のCさんは日本滞在がそれほど長くないため、日本語を完璧に理解することができませんでした。そのため大震災が起きた時から、いつも私に電話をかけてきて、その時々の事情を確認していました。3月末のある日、彼女から電話が来て、「これから日本で9.0以上の地震がまた起きるよ、国に帰りたい」と言います。「ええ、そんなことないよ。どこから聞いたの?」と私が尋ねると、彼女は、「今、国際ラジオニュースで言っています」と言いながら、携帯で私にそれを聞かせてくれました。ほんとうだ。しかも、日本のある専門家の分析によるということでした。私は、しばらく聞いてから「それを信じるかどうかは、自分で決めるしかないですね。たくさんの人の意見を聞いてから行動したほうがいいですよ」と彼女に言いました。彼女は日本に残りました。

専門学校の留学生のDさんは来日3年目。大震災以後、怖くて、友達がいる岡山に避難しました。岡山から私に電話がきて、「今、友人のところに避難しているので、とても安全。こちらは地盤がよくて、地震は起きない」と言います。しかも茨城の友達も家族で来ていたので、8人も一緒に暮らしているそうです。それから、たまに電話がきて情報を確認していました。3月末のある日、すでに東京に戻ってきたという電話がきました。しかし「今は大変。東京のお水は飲めないから、ミネラルウォータを毎日飲んでいたせいでもともと調子がよくない胃が痛くて、食事もあまりできない状態です。そしてちょっと怖い」というSOSの電話でした。「そうですか、東京のお水はもう大丈夫ですよ。私の家に来てちょっとリラックスしたら」と誘いました。彼女はその後すぐ私の家に来て、いろいろな話をし、一緒に東京の水道水を飲んで、2日間よく食べて、顔色もよくなりました。そして「胃」を直して帰りました。本来ならば、彼女のビザは4月27日までで、半年間延長する予定でしたが、4月7日のチケットを購入して、「早く帰りたい」と言い残し、帰国の途に着きました。

東京の大学院生のEさんは、2月には博士論文の審査を終え、3月末には卒業証書をもらう予定でした。しかし、大震災後、一時関西へ避難していたものの、最後には帰国したということです。社会人のFさんの家では茨城から避難してきた故郷からの留学生を受け入れ、10日間ぐらい共に暮らしました。

日本に暮らす外国人はお互いに様々なネットワークによって結ばれています。同じ国・故郷からの出身者が大体繋がりをもっていて社会ネットワークを築いています。また、今回、多くの外国人が語学のボランティアに携わり、それぞれの多言語能力を一つの「財産」として活かすことができました。日本の行政機関や非営利団体などが外国人のこのようなネットワークと日ごろから接触し、それを社会活動に活かすことができれば、非常事態が起きた時にお互いに連絡し合って様々な情報をスムーズに伝えることができるというだけでなく、日本に多言語社会・共生地域社会を築くために役に立つのではないかと考えています。

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<包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者を経て、現在東京大学総合文化研究科学術研究員、中国言語戦略研究センター(南京大学)客員研究員、首都大学東京非常勤講師。言語接触や言語変異、言語政策などの研究に携わっている。SGRA会員。
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2011年5月4日配信

【読者の声】

外岡 豊「包さんのエッセイを拝読して」

包聯群さんが留学生や中国語生活者の地震後対応にその語学力を活かされ放送、報道に大いに活躍されたことは非常によかったと感じました。多くの人にも貢献できたし個人的にも良い経験にもなった、留学生を含め外国人居住者も日本社会の一員ですから、これを機会により深く社会とのつながりを持てたことは結果として充実した毎日だっただろうと思います。それは日本人が緊急時に助け合ったことと繋がっていて、その裏には留学生諸氏とのそのような人と人の前向きなつながりを支援してきた渥美財団の長年の蓄積が目に見えないかたちで後押ししていたのではと思います。東北の津波の被災地でもいわゆるコミュニティーと言われる地域の人々のつながりが強くあって東京の日常とは違う田舎や地方の良さがあらためて認識されたように、健全な社会を支えているのは人と人のつながり、それは言うまでもないことです。渥美財団の活動を脇から眺めていつも思うことは留学生とのそのような親密な人間関係強化に強い意志と温かい心を持って取り組んできた、その継続がかけがえのない無形の財産になっていること、そのすばらしさです。いつも留学生諸氏のSGRAエッセイを読ませていただいて触発されて、こちらも何か書きたくなるのですが、地震後たまっていた思いもあり、包 聯群エッセイを拝読しての応答を書かせていただくことにしました。

 *  *  *

地震(大きな余震が来る可能性)と原発(大量に放射性物質が排出され広域汚染される可能性)の不安を総合すると避難や帰国を促した各国大使館の対応は過剰ではない。不正確な海外向け(外国語)情報で必要以上に外国人の不安をあおった面はあったが、東京近辺の日本人も食料や水を我先に買いに走ったので不安感には大差がない。今回の場合は水や食料確保に走った市民の行動を私は非難するつもりはない。幸いそれが必要な緊急事態が今日まで起きないで来たが、何かが起きていたらそれで社会的混乱を予防的に回避できた可能性も高い。これからそれが役立つ事態が起きないとも限らない(起きないことを祈るのみ)。

私はつくばで国際会議中に地震にあったが、初めて地震を体験した外国人も多かったようだが幸い全員無事だった。余震の危険と長い停電のおかげで、何をすることもできず、はからずも外国人研究者と時間をかけて研究交流できた。電源不足でパソコンが使えずパワーポイントを見せ合うことはできなかったが、ゆっくり話す機会になった。

一晩親切な避難所の世話になって次の日横浜に住む中国人若手研究者夫妻とともに東京に戻った。研究水準は高いが日本語力がやや弱いポスドク級研究員だったので、私と行動を共にすることで、彼らが不安なく帰宅できたことに多少の御役に立てたのは幸いだった。

私の周りにいる留学生諸氏に対し3月中旬には帰国を勧めたが安い航空券が手に入らずすぐには帰れない人も多かった。宇都宮大の中国人学生は松山空港経由で上海行きに乗って帰国したが、そのような国際便があることを初めて知った。

4月になり新学期が始まると多くの中国人留学生も日本に戻って来た。大学院生に対しては、あわてて日本に戻らなくてもよい、故郷で落ち着いて勉強しているのもよいと言って帰国させたが、4月中旬には自主的に日本に戻って来た学生も多かった。地震後は、まだ、大学院生諸氏と研究らしい研究をしていないが、幸い余震も原発も小康状態、連休になって東京近辺の社会情勢もやや落ち着きを取り戻して、緊急時から平常な日常生活にもどりつつあるように見受けられる。

地震、津波、原発で日本のことばかりに気が集中していると世界的な状況への認識が薄れると思っていたが、リビアのカダフィー問題が長引いているうちに、こんどはビンラディン殺害、英国の王子結婚の祝い気分もつかの間、物騒な話題がまた出てきてしまった。先月、日経新聞でブッシュ元大統領(43代George Walker Bush)の『私の履歴書』を読んで21世紀初頭のテロの10年間を回顧する機会があったが、こうすぐに報復テロへの不安が再起される日が来るとは思わなかった。一部EU諸国の国家債務問題も、USA経済の立て直し問題も、地震以前からの日本政府の巨大債務問題も残っていて、地震復興や原発安定化が進んでもそれらの問題が片付くわけではない。アメリカ大陸では大きな竜巻被害があったが、天災と経済と政治と民族紛争と貧困と世界中が混乱と困難に巻き込まれそうな不安はまだまだ続く。21世紀初頭はそのような時代と覚悟して臨むべしと若い学生諸君に常々気構えを喚起するように努めて来たが、意外な形で緊急事態が早く現実に来てしまった感がある。

こういう時はどうすべきか。

ただただ日常生活を全うする普通の生活を着実に行う他ない。学生は基礎を学ぶ、古典を読む、歴史の本でも読むとよい。節電のためテレビを見ない、テレビゲームをしない、それは当然の対応と思うが、落ち着いて読書する良い機会、とくに大学院生の学生諸氏はじっくり本や論文を読んでしっかりノートを取る、電気がいらない学習法に立ち帰る絶好の機会と思う。

私の専門はエネルギーと環境、建築学科出身者として都市計画や社会の計画にも関わりを持っているが、当面の節電問題も専門領域、これからの気候変動対策、低炭素社会構築をどう進めるのかという長期対策も研究対象である。この夏の停電回避は原発が止まっても火力発電で乗り切ることはできるが、長期的なCO2排出削減、2050年にはゼロエミッションを達成しようという長期目標と、原発、化石燃料や再生可能エネルギーの問題に本気で取り組まないとこの先の社会生活像を描くことができない。

とにかく全員でいっしょにこの問題を含めてこれからの社会について真剣に考え直しませんか。日本人だけで考える時代ではない、アジアの将来を世界人類の将来を多国籍の多世代の方々と考えたいと思っています。(2011.5.04)

<外岡 豊(とのおか・ゆたか)>
埼玉大学で留学生(とくに多いのは中国人)指導。日本と中国の気候変動対策、大気汚染防止、建物のエネルギー消費と省エネルギーなどについて研究中。SGRA環境とエネルギー研究チーム顧問。

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2011年5月25日配信