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エッセイ293:マギッド・イヴゲニ「私の地震体験記」

私は茨城県つくば市に住んでいます。2011年3 月 11 日(金)は、朝から千葉県習志野市の幕張ゼミハウスに、チューターとして、日本人の後輩に英語の発表の仕方を教えるアルバイトに行きました。昼食を終えて、先生、3人の留学生チューター、20人の日本人学生と一緒に、ブルガリア人の有名な先生の発表を聞いていた時、午後 2 時 46 分にマグニチュード 9.0 の地震が起きました。最初はあまり強くない地震だと思い、教室の2重のドアと窓を開けて、発表を続けようとしました。しかし、だんだん地震が強くなったので、皆で外に避難しました。その時点では、窓がひとつ壊れただけだったので、まだ何も心配することはありませんでした。

地震の後、参加者は外に集まっていました。ゼミハウスのスタッフからベンチ、椅子、ブランケット、お茶とスナックをもらって、みんな嬉しそうでした。しかし、小さな余震がずっと続き、ニュースも見られないし、なかなか携帯電話も通じず、つくば市にいるガールフレンドのターニャと連絡もできず、心配でした。2時間ぐらい待った後、フランス人のチューターと一緒に2人でつくば市まで歩いて帰ると決めました。地図がないので、コンパスに頼って、午後5時ごろ、習志野市からつくば市の方向をめざして出発しました。

歩くにつれて、周りの状況から、広範囲にわたる地震の被害が分かるようになりました。停電していたり、地下鉄が止まっていたり、ひどい交通渋滞だったり、家に歩いて帰る人がたくさんいたり、コンビニのお弁当と飲み物が売り切れてしまっていたり、依然として携帯電話が繋がらなかったりしたからです。そして、船橋のガソリンスタンドで、仙台の津波のニュースをテレビで見た時には、本当に怖かったです。

午後11時ごろになって、やっと友達とターニャに電話ができました。友達に頼んでFacebookで私の家族に連絡してもらいました。地震のとき、ターニャは筑波大学の宿舎の4階で勉強していました。地震の後、宿舎の事務所のスタッフに誘導されて、他の留学生と一緒に安全な避難所に移りました。

つくばの方向に歩きながら、警察官やいろいろな人に道を聞きました。そして、コンビニで会った日本人が車でつくばまで送ってくれました。

午前3時ごろ、つくば市に着きました。避難所に行ってターニャと会いましたが、私のアパートに残っている猫ちゃんのタシャのことがとても心配だったので、二人で一緒にアパートに行くことにしました。部屋に入ってショックを受けました。壁と天井にはたくさんのヒビ、キッチンでは冷蔵庫が動いていて、冷蔵庫の上の電子レンジは落ちて、食器が割れて、部屋の中は整理棚や服や本などがめちゃくちゃになっていました。

そして、あちこちに猫ちゃんの血の跡があったのです。そこらじゅう探して、名前を呼んでも反応がないので、もうダメだと思いました。ところが、10分後、とても低い声で猫ちゃんが「ニャ~~~」と答えました。猫ちゃんは後足にけがをしていましたが無事でした。

少し落ち着いてから、大切な書類、ノートパソコン、ブランケット、水と食料をかばんに詰めて、ターニャと猫ちゃんと一緒に避難所に行きました。留学生が100人ぐらい集まっていて、2日間一緒に住みました。避難所の水道が止まっていたので、学生宿舎の洗面所を使うために、毎時1回シャトルバスがでていました。学生宿舎では、無線のインターネットを使えたので、ニュースを調べたり、Skypeで家族と話したりすることができました。
 
3 月 12 日(土)の朝、食べ物を買うためにスーパーに行ったのですが、たくさんの店が閉まっていて、開いているところも水のペットボトルはなく、お弁当類もあまりありませんでした。避難所では日本人のスタッフのおかげで、留学生は毎日一人に飲水1リットルとおにぎり2つをもらいました。避難所にいたときに留学生と話しましたが、皆、地震が起きた後、日本人に手助けしてもらったそうで、日本人に対して感謝の気持ちを持っていました。
 
このように、習志野市を出発した時には「小さなアドベンチャー」と思っていましたが、途中から「ホラー映画」になってしまったのでした。

3月13日(日)の夜、留学生は避難所から学生宿舎とアパートに帰りました。私が住んでいたアパートは、建物自体の被害がひどくて住みにくかったし、結婚式のスタッフのアルバイトは6月まで中止で収入がなくなってしまったし、ロシアにいる両親が福島第一原発のことをとても心配したので、6月までロシアの実家に帰ることにしました。その晩、猫ちゃんを獣医に連れて行って治療を受けました。そして、猫を海外に連れていく許可の書類を作ってもらいました。猫ちゃんとはもう10年以上一緒に住んでいるので家族の一員です。その書類がもらえなかったら、猫ちゃんなしで一人でロシアに帰ることはなかったと思います。

3月14日(月)、航空券を買った後、再入国許可をもらうために東京の入国管理局に行きました。またショックでした。普段、入国管理局は午前9時から午後4時まで開いているのですが、帰国する留学生の数がものすごく多かったので、入国管理局は留学生のために遅くまで仕事を続けたのです。私は許可証を午後8時ごろにもらえましたが、まだ千人以上の留学生が待っていました。彼らは何時まで続けたのでしょうか。このような地震災害がロシアとか他の国で起こったら、職員は外国人のことなどよく考えてくれることはなく、朝まで仕事を続ける人はいないと思いました。

3月16日の飛行機に遅れないように、3月15日にターニャと猫ちゃんと一緒にタクシーで成田空港へ行きました。バスのチケットは3月18日まで売り切れと聞いたからです。3月15日の昼から3月16日の夜の出発まで、ずっと成田空港のロビーで待っていました。空港のスタッフからブランケットと飲み水をもらい、いろいろお世話になりました。

成田にいた時、この地震災害についていろいろなことを考えました。他の国でこのような災害が起きたら、その国の市民の態度と行動はどのようになるかと自問しました。アメリカでハリケーンや地震で大きな被害がでると、被災地では必ず窃盗や略奪という醜い犯罪行為が起きます。キルギス、チュニジア、エジプトの革命のときにも、略奪が多かったのです。

日本人はとても特別な国民で、祖父母の時代のソビエト社会主義共和国連邦の人々と共通点がたくさんあると思います。自然災害が起こっても法律を守り、大変なときにはお互いによく助けあって、心がとても優しいけれども魂が強いです。お世話していただいた留学生は皆、本当に心からありがたい気持ちを抱いたと思います。

私は、このようにすばらしい民族である日本人と一緒に住みたいと希望しています。世界中の人々が、日本が早く復旧するようにお祈りしています。福島第一原発事故について心配している家族は日本への留学と就職活動に帰ることに反対していますが、私は5月中旬日本に帰ることを決めました。

頑張れ、日本!一緒に頑張りましょう!

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<イヴゲニ・マギッド ☆ Evgeni Magid>
ロシア連邦ヴォルゴグラード市で生まれ。ヴォルゴグラード工学大学で工場用のロボット工学を学んだがイスラエルへ移住するために退学。20 歳の時に一人でイスラエルに移住して、テクニオン大学と大学院(修士)を卒業。2006年に文部科学省の奨学金を得て来日、2007年から筑波大学大学院の博士課程に入学、レスキュー・ロボットを研究している。
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2011年5月11日配信