SGRAかわらばん

  • 2011.08.24

    エッセイ304:林 泉忠「『満蒙開拓団慰霊碑』事件から戦争・植民地支配を考える」

    毎年8月になると、日本社会に重い雰囲気が漂う。広島・長崎での原爆投下記念イベントや終戦記念日の集会のほか、メディアも相次いでさまざまな記念特集を企画している。66年前のあの戦争にいかに向き合うかということは、依然として今日の日本社会に残された重い課題である。 こういった記念イベントは、「戦争の悲劇を繰り返さない」というメッセージを発信している一方で、その内容の多くは、あの戦争がどのように日本の国民に災難をもたらしたのかということであり、戦争責任の問題に直接に触れるものは極めて少ない。 戦争責任の問題が日本社会においてセンシティブな話題となる背景としては、当時の日本国民のほとんどが多かれ少なかれ日本の対外戦争に巻き込まれていたからである。戦争当事者の軍部や軍人以外の一般国民は、いったい戦争の共犯者なのか、それとも軍国主義の被害者なのか、という問題が今日においても存在している。 日本国民は共犯者か、それとも被害者か 当時の日本の一般国民の戦争責任についてどのように考えればよいのかは、どうも日本人だけの問題ではないようだ。先日起きた「親日記念碑」損害事件がもたらした広範な議論は、この問題について、中国人の間でも共通認識に達していないことを示している。 いわゆる「親日記念碑」は、7月末にハルビン市方正県の「中日友好園林」内に設置されたものであり、日本の「満洲開拓団」の250名の死者の氏名が刻まれた慰霊碑である。8月4日、5名の「愛国者」という団体のメンバーが、それにペンキをかけて損傷したことで、メディアの注目を集め、議論を引き起こした。議論の焦点の一つは、満洲開拓団員を日本の侵略者の一員と見なすべきかどうかということである。 かつて、周恩来首相が「日本国民も軍国主義の被害者だ」と指摘したにもかかわらず、今回の中国国内の世論を概観すると、「網民」(ネット市民)にせよ、政府メディアにせよ、ともにこれを器物損害という違法な行為として譴責するよりも、彼らを「五壮士」と称え、方正県を「国恥を忘れたものだ」と批判する傾向がみられる。この世論の方向は中国国内において今なお根強い反日感情が存在することを如実に反映していると言えよう。 しかし、このような対日感情は、台湾海峡の向こう側ではかなり異なる様相を呈している。台湾はかつて50年間にわたって日本の植民地支配を受けた。1990年代、民主化運動および「本土化」(土着化)運動が勃興するにつれ、台湾社会では「日本時代」再評価の動きが現れた。この雰囲気のもとで、「親日記念碑」が続々と建てられた。 2006年に台湾烏来(ウライ)に「高砂義勇記念公園」が竣工し、李登輝氏が除幕式に出席した。戦前の日本の植民地時代において南方作戦に徴兵され戦死した台湾先住民「日本兵」を慰霊する施設である。園内には、日本人の寄贈で、日本語で書かれた石碑が数多くある。もう一つの先住民村落の武塔村にも「莎韻(サヨン)記念公園」が建設された。1938年に泰雅(タイヤル)族の少女サヨンは、日本人の先生の中国出征を見送りに行く途中に、暴風雨に遭遇し、不幸にして足を滑らし川に転落して命を落とした。後に、このことは総督府が皇民化教育を行なう際の手本となった。また、それに基づいて映画「莎韻之鐘(サヨンの鐘)」も作成された。主演は当時満映のトップスター李香蘭である。興味深いことに、60年の歳月が経った1998年に武塔村がこの公園を建設した際、村長の題辞では依然として「可歌可泣」という言葉でサヨンの事跡を賞賛している。さらに、今年の5月には、台湾政府が1.2億台湾ドルで建設した「八田與一記念公園」が完成した際、馬英九氏が森喜朗元首相の同行で総統として式典に出席して挨拶を行ない、八田與一技師が日本統治期に建設したダムは戦後周辺の開発や民衆の生活に貢献したことを称えた。 サヨンの事績や高砂義勇隊はともかく、八田與一の行為でさえ、もし中国本土で行なった場合、おそらくその「貢献」は日本の植民地支配に加担したものだと強調されることになろう。実際、植民地の権力構造のなかで、八田與一の身分が日本の植民地支配において「共犯者」の側面を有していたことは容易に否定できるものではないだろう。 以上のように、「親日記念碑」に対する中国社会と台湾社会が採る姿勢は対照的と言っても過言ではないほど異なっている。それは、双方の民衆の異なる日本観を反映しているものである。こういった差異は最近の対日観の世論調査にも如実に表れている。公表されたばかりの日中共同世論調査によると、中国の国民の対日印象が大いに悪化し、「よくないと思う」人は65%にも達し、過去最高となった。それに対して、昨年の日本交流協会委託の調査によると、台湾では回答者の半数以上は「最も好きな国家」は日本だと回答し、日本に親近感を覚えている人が60%を占めているという。 では、香港の状況はどうだろう。今日の香港社会にも、日本による「3年8ヶ月」の占領期があったという辛い記憶が残されている。しかし、イギリス植民地の経験を持つためか、植民地主義に対する香港社会の評価はおそらく台湾に近いだろう。実際、中国に復帰して14年が経った今日においても、イギリスの支配者を記念するために命名した公共施設は、数多く存在している。病院を例に挙げれば、瑪麗医院(Queen Mary Hospital)、葛量洪医院(Grantham Hospital)、伊利沙伯医院(Queen Elizabeth Hospital)、威爾斯親王医院(Prince of Wales Hospital)、尤徳夫人那打素医院(Pamela Youde Nethersole Eastern Hospital)などである。興味深いのは、今日の香港社会ではその名称を変更しようとする声さえ現れておらず、植民地風の街道名もそのまま残っている。 日本観と植民地観 台湾海峡を挟んだ両岸社会の異なる日本観にしても、また植民地主義に対する中国・台湾・香港三社会の異なる理解にしても、ともに置かれている環境や経験の違いによるものであり、また価値判断の問題でもある。すなわち、侵略戦争および植民地支配の原罪を強調するか、それとも関連する人や事件を含め、植民地支配のプロセスを一つ一つのケースで客観的に見るか、ということであろう。 方正県における「親日記念碑」事件が、戦争や植民地支配に関して理性的な思考や議論の契機となってくれれば、それもプラスの意義があるように思う。 *本稿は『明報』2011年8月16日号に掲載された記事「從『親日碑』事件反思殖民主義」を著者本人が加筆修正し、また著者の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年8月24日配信
  • 2011.08.17

    エッセイ303: 林泉忠「ナショナリズムのせめぎ合い:2011年中越紛争の特徴」

    冷戦時代に協力と対立を繰り返した中国とベトナムでは、社会主義が退潮する中、それぞれのナショナリズムが急速に高まってきている。今年5月から続いている中越間の衝突の最大の特徴は、両国のナショナリズムが初めて正面からぶつかり合ったことにあり、軽視できない歴史的な意味をもつ。 今回の中越間の衝突は、5月26日と6月9日に中国が南シナ海で二度にわたってベトナム国営石油会社探査船の資源調査活動を妨害し、両国政府が互いを糾弾したことから始まった。ベトナムはその後同海域で実弾演習を行い、中国は最大級の巡視船「海巡31」を南シナ海に派遣した。その頃から、中越双方の民衆の間で相手への反感や怒りが高まり、一時は収拾がつかない状態であった。ハノイの中国大使館周辺では、ベトナムの若者が、6月5日から8週間連続してここ30年間で最大規模の反中抗議活動を行った。一方、中国側のネット上では「到底我慢できない」「懲罰すべきだ」といった「開戦」の声が急速に高まった。 今回の中越間の衝突に対する中国と国際社会のメディアは、アメリカ及び関係国の国益に絡んだ複雑な国際関係に焦点を当てているが、筆者は、今回の中越紛争の最も大きな特徴は両国のナショナリズムが初めて正面衝突したことであり、決して軽視できない歴史的な意義をもつと考えている。 21世紀中越衝突の特徴 摩擦も含む中国とベトナムの歴史関係は古い。近代以降、両国は、いずれも西洋列強に圧迫され、また共に民族解放のスローガンを掲げ、社会主義の道を歩んできた。中華人民共和国が成立し、東アジアの冷戦構造が急速に形成される中、中国とベトナムは互いを「兄弟」と呼び合うようになり、1950年代から60年代にかけてホーチミン時代の20年間は、「蜜月期」であった。しかし、1969年にホーチミンが逝去すると、中越間の対立は次第に表面化し、そして1979年にはついに戦争にまで発展した。 その時期の中越間の衝突の背景には、社会主義陣営内部の軋轢があった。中ソ関係が悪化する中、ポスト・ホーチミン期のベトナムは中国に追従しソ連と距離を置くのではなく、むしろソ連に接近する政策を採るようになった。1978年に軍事同盟並みの『ソ越友好協力条約』が締結され、ベトナムはソ連の海軍がカムラン湾に進駐することを認めた。と同時に、ベトナムはカンボジアから亡命してきたヘン・サムリン勢力を支持し、1978年にカンボジアに出兵した。この軍事行動によって、北京が支えていたポル・ポト政権が崩壊した。言い換えれば、この時期の中越間の軋轢は、中ソ間のイデオロギー対立による産物で、冷戦時代の「代理戦争」という特徴を持ち合わせており、ナショナリズムの色彩はそれほど濃厚ではなかった。 その後、中国は改革開放の道を歩み、ベトナムも1986年から「ドイモイ」と呼ばれる改革政策を推進するようになった。資本主義市場経済の導入に伴い、両国民衆の意識に変化が起った。たしかに、社会主義という看板こそ今日でも掲げているものの、社会主義というイデオロギーは、共産党による統治の合法性を維持する上ではその有効性はもはやなくなったといってよい。それに取って代わって登場したのが「愛国主義」である。 冷戦後の中越におけるナショナリズムの勃興 改革開放からすでに30年余り経過し、中国におけるナショナリズムの高揚に関しては多くの議論がなされてきた。ナショナリズムを維持するには、平和な時代にあっては、たとえ確実な敵が存在しなくても、民衆の国家に対する求心力を凝集させるために、仮想敵を作る必要があった。この30年、中国のナショナリズムの仮想敵は主に日本とアメリカであった。ベトナムが中国ナショナリズムの相手になることはなかった。 中国の民族主義者がベトナムを眼中に置かなかったのみならず、中国の「大国外交」という対外政策の特徴の影響もあり、中国社会全体がベトナムを含む東南アジアの諸国に対してあまり関心を払わなかった。したがって、今回のベトナムの反中抗議騒動が発生した後、とりわけ再三にわたって激怒した数百人のベトナムの若者が中国大使館の前に集まり、「中国はベトナムの主権を侵害するな!」と抗議した場面を見た瞬間、中国の若い「愛国者」たちが耐えられなくなっただけでなく、当時の「社会主義の兄弟国」との親密な関係を今も鮮明に記憶している一世代前の人々も驚かされた。 一方、中国周辺に位置している小さな国として、ベトナム人は古今を問わず、常に中国の存在を意識してきた。近代以降、ベトナムのナショナリズムはフランスの殖民地主義に反抗する解放闘争の中で現れ、アメリカという「張り子の虎」と戦う戦争の中で確立した。北ベトナムが1975年に南ベトナムを統一し、ベトナム社会主義共和国を打ち立てたが、統一後の社会主義建設の期間はそれほど長くなかった。1986年から始まった「ドイモイ」や、その後のソ連と東ヨーロッパにおける社会主義政権の崩壊などによって、社会主義はベトナムにおいても中国と同様にその生命力を失い、民族の尊厳や国家利益を強調する「愛国主義」が再び登場することになった。 以上のように、ベトナムのナショナリズムは反仏戦争と反米戦争の中で高揚した。しかし、遠く離れたフランスやアメリカを敵と見なさなくなった今日、払拭できない歴史的コンプレックスや、パラセル諸島(西沙諸島)の領土や資源など現実的な利益にかかわる競争関係によって、近隣の中国は一躍ベトナムのナショナリズム最大の仮想敵となった。 ナショナリズムも立場を代えて考える必要がある 今回の中越紛争は、ポスト冷戦期における両国のナショナリズムが社会主義イデオロギーに干渉されない状態の中で、初めて起きたものである。中国人にとって、今回の衝突は、ベトナムのナショナリズムの特徴を認識し、ベトナム人の中国観を知るための好機でもある。 中国のナショナリズムの一つの重要な特徴として、中国は被害者であって、強くないから長期にわたって強権からの侮辱や不平等な対応を受けてきた、と考える傾向が今もなお健在である。そのため、多くの中国人は自分の「愛国主義」イコール正義であって、それは疑う余地のない正当性を持っていると堅く信じてきた。しかし、この信念は中国にしか存在しないということではない。ベトナムのナショナリズムも思考上では同様な特徴を具えている。多くの中国人は、ずっと他者にしか使ってこなかった「覇権」「圧迫」「侵略」のような決まり文句が自分の身に使われる日が来るとは思いもよらなかったであろう。 近年、中国と日本の間ではたびたび「歴史問題」で衝突が生じている。中国人から見れば、日本人は過去の侵略戦争に対する反省が不十分で、心をこめて中国に謝罪する気もないという。それゆえ、日本は中国のナショナリズムの攻撃対象となってきた。しかしながら、ベトナム人にとっては、中国人も同じであろう。多くのベトナム人の目からすれば、中国は、歴代の王朝がベトナムに対する侵略と圧迫を繰り返してきたことに対して反省したこともないし、1979年にベトナムに侵入したことに対しても未だに謝罪しようとしていないということだろう。 確かに、日本の中国侵略と中越間の度々の摩擦や衝突とは、時空も環境も異なっているので、一律に論じることはできない。とはいえ、ナショナリズムの視点から見れば、「歴史問題」をめぐっては、中国人が思っている日本とベトナム人が思っている中国は、本質的に重なる部分があるだろう。 中越の歴史観のずれ 歴史は立場によって解釈も異なる。かつて宗主国と属国の関係にあった中国とベトナムは、現在、それぞれ主権をもつ独立国家となりまたそれぞれ歴史的関係の解釈権を握っている。両国の歴史関係に関連する記述と解釈はどの程度異なっているだろう。 二千年以上に及ぶ長い歴史の流れの中で、ベトナムはある時には中国王朝の直接支配する領土であり、ある時には独立または半独立の国であった。近代以前の東アジア地域では、中国の強い文化力と経済力を背景に、皇帝を中心とした「天下」が作り上げられた。それは「華夷秩序」と呼ばれていることである。ベトナムは「北属」の時期(北に位置する中国の属国とされた時期)には中国の皇帝の直轄下の「地方」で、自主の時期には中国皇帝が冊封した属国すなわち朝貢国であった。「華夷秩序」が存在していた時代には、多くの国は中国皇帝に朝貢していた。朝鮮は満州族が明朝を滅ぼすまで中国に対して恭しい態度をとり続けていた。一方、琉球は中国に対する二心のない忠誠さという点で属国の中で突出した存在であった。しかし、何度も中国王朝に反発するベトナムは異なっていた。したがって、中国歴代の士大夫も現代のエリートたちも、歴史の中でたびたび中国に「逆らう」ベトナムを「反逆児」と見なしてきた。このような歴史の中で蓄積されてきた「中心一邊陲」すなわち中心に位置する中国(皇帝)の威徳を受けた周囲の国々は中国にひれ伏して従うのが当然という歴史観は、代々の中国人がそれを有していた。「反覇権」というスローガンを高く掲げた社会主義の中国でさえ、1979年の中国・ベトナム戦争(中国では「自衛反撃戦」と称す)を論じる際に、中国の行動を臆することなくベトナムへの「懲罰」だと言い切れたのも、その歴史観を反映したと捉えられる。 では、近代の中国から「中華民族の傍系」と見なされてきたベトナム自身はどのような歴史観を持っているのであろうか。 いま、ベトナム駐中国大使館のホームページには、次のような「ベトナム歴史」に関する記述(中国語)が書かれている。 紀元前111年、甌雒國(西瓯(タイアウ)人と駱越(アウヴェト)人からなるベトナム最初の国名)は中国漢朝の侵略を受けた。それ以降、ベトナムは十数世紀以上にわたって中国の封建王朝に支配されてきた。北方の封建王朝の統治の下で、ベトナム人民は勇敢で気丈に戦い、支配者に反抗する武装蜂起を次から次へと起こした。紀元10世紀にベトナム人民はようやく独立国を打ち立て、その名を「大越国」とした。紀元1010年に昇龍(今のハノイ)に遷都して以来、大越国は長期にわたる独立の時代に入った。この期間にも、ベトナム人民は何度も外国の侵略を経験した。その中には中国宋朝、元朝、明朝と清朝が含まれる。(抜粋) この歴史観には近代主権国家の思想やナショナリズムにおける民族と国家に対する思考様式の特徴が反映されている。この記述の中に当時の中越間の従属関係およびそれにかかわる「冊封」と「朝貢」などの史実がまったく触れられていないのは、こうした歴史の考え方によるものである。ほかにもう一例を挙げよう。ベトナムの人々は、今でも「徵氏姉妹」(または「二徵夫人」)が勇敢に漢の侵略に抵抗した物語を興味深げに語る。この歴史に関しては、中越間の論述も大きく異なっている。ベトナムの史料では、徵氏姉妹が中国の官吏の圧迫によって蜂起したことを強調しているが、中国の史書では、この二人は詩索(姉徵側の夫)が罪を犯し、死刑に処せられたことをきっかけに、その私憤をぶちまけるために反逆したと記されている。  本稿では中国とベトナムのナショナリズムの歴史的文脈を検討し、ナショナリズムの構築における人為的な側面も指摘した。高揚している今日の中国とベトナムのナショナリズムの本質に対する理解を深めるきっかけになればと期待したい。 *本稿は『明報月刊』2011年7月号に掲載された記事「「侵略」與「懲罰」之間:中越衝突的民族主義特徵」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。李軍訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年8月19日配信
  • 2011.08.10

    エッセイ302:宋 剛「高速鉄道の事故についての雑感:ダチョウ役人と歴史的一歩」

    テレビをつけたら、必ず目にはいってきたのが中国の高速鉄道の事故だった。最初、中国国内のメディアでは雷で事故が起きたと伝えたが、どちらかというとその時点で私はその真実性を疑っていた。日本のユビキタスなど情報技術に関心をもっているためか、雷ぐらいであんな事故になるのはどうしても信じられなかった。(理工系ではないから、ド素人の観点かもしれないが。。。) その後、事故の真相究明が期待されている中で、先頭車両を粉々にして土に埋める行動に出た鉄道部に呆れた。遺族の憤りと記者の疑問に対して、鉄道部の役人の「救援活動のためだ。君らが信じるかどうか知らないが、私は信じる」という、いかにもへたくそな、かつ傲慢な言い訳を聞いた途端、怒りが限界を越えて、僕はプッと吹き出してしまって、以前読んだ本のタイトルを思い出した。 それは渡辺淳一の『鈍感力』だ。現在の中国の多くの役人はまさにこの「鈍感力」という言葉に尽きると思う。みんな見事な鈍感力の持ち主だ。しかし、それは生れつきのものではない。上ばかり向いて、下の国民の声を聞く耳を持たない役人がいることは否定できないが、それより多くの場合は実際の状況が分かっているにもかかわらず、分からない振りをする人たちだ。その原因を追究すると、時代の変わり目にあるからだと僕は思う。 サーズ以来、中国の中央政府は世界の目が気になって常に世界を見ている。一方、国民は新しい情報技術の発展によって海外情報を簡単に入手できる。つまり、中国全国は上から下まで、中央から地方まで政権の民主化、行政の透明化、言論の自由化を意識している。しかも、それがスピードアップしていることにも誰もが気付いている。言い換えれば、今までと同じやり方で国民を統治することはできなくなったと思う支配層と、今までと違う目線で政府を見てもよくなったと思う国民が生まれたのだ。 そういうような状況の中で、一番いづらいのは役人層だ。役職昇進するには、中央政府の歓心を得れば良いという時代がだんだん遠ざかっていく。国民の声に耳を傾けなければならないと承知するものの、どこまで聞けば、中央政府の思惑と一致するのか、国民の反感を買わないのか、自分にとって一番無難なのか分からない。古い出世法が効かなくなったのに、新しい処世法が未だにないまま。焦っている。一人では不安で、方向が見えないから癒着する人もいる。いつまでも権力が使える自信がないから汚職して海外に逃げる人もいる。変わらなければならないという危機感をもちながらも、どう変わればよいか分からないので現実から目を背けようという鈍感が相まって生じるひとが一番多く存在する。まるで、ダチョウみたいだ。何かあったら、何よりも頭を土の中に埋めるのが先だ。事故後、列車を埋めたり、掘り戻したり、賠償金を提示したり、路線を回復させたりして、理解しがたい行動だらけだが、とにかく速やかだ。そのバカ速さはまさに危機感と鈍感が共存する役人たちの特徴を物語っている。 ところで、今回の事故で、遺族たちの声は中央政府に届き、温家宝総理を現地に訪れさせるほどの力を持っていることが明らかになった。これは歴史的に大きな一歩だと僕は評価したい。中国の歴史を振り返ってみると、どの時代の国民も大体忍耐強い。しかし、その忍耐袋の緒が切れると、蜂起して政府を倒さないと気が済まない国民性も有している。死者39人の遺族は100人くらいだろう。彼らが政府を倒す可能性はゼロだ。そのような思いを持っている人さえ一人もいないと思う。しかし、100人単位、100人単位の怒りを無視し続けると、いつかそれが千、万単位に達するに違いない。それが怖くて国の最高指導者は花を持って遺族たちの憤りを静めに動いた。つまり、100人の国民が総理を動かしたのだ。血まみれの一歩だが、それは、中国の歴史上一度もなかったことなのだ。これをきっかけに、中国のダチョウたちも土に埋めた頭を出して、もう少し現実に直面するだろう。 事故の処理に注目しながら、中国社会に起きた微かな変化を感じた昨今だった。 ---------------------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。 ---------------------------------------- 2011年8月10日配信
  • 2011.08.03

    エッセイ301:マックス・マキト「マニラ・レポートin蓼科」

    2011年7月2日(土)にSGRA蓼科フォーラム「東アジア共同体の現状と展望」が開催された。休憩中にパネルディスカッション司会の南基正さんからコメントを発言するよう頼まれた。フォーラムの真っ最中にマニラの家にいる愛犬が静かに亡くなったという知らせを受け取った僕は集中力が乱れていたが、要請に応じて何とか発言した。しかし、わかりにくいところもあったと思うので、ここで改めて整理して、その後の印象と一緒に述べさせていただきたい。 今回の発表者のなかには東南アジアの代表がいなかったが、基調講演をしてくださった恒川惠市先生と、黒柳米司先生がASEANに関して十分に話してくださった。それに少しだけフィリピンの立場を付け加えたい。 スペイン帝国がフィリピンを米国に譲るというパリ協定が署名された一年後の1899年、16世紀からスペインの海軍基地であったスービックに、星条旗が初めて掲げられた。それから100年近くたった1992年、米海軍は撤退し星条旗は下ろされた。その後、予想通り、スービック地域の経済は低迷したが、フィリピン政府がそこに経済特区を設置した結果、地域経済は回復に向かった。 当時、米軍の撤退はどちらかというと良かったと思った。あの国はうっかりすると軍事力をもって地域介入する傾向が強いので、東アジア共同体の構築はやはり我々東アジア人に委ねるべきであろうと思った。冷戦ベビーである僕としてはこのような考え方は驚くべきことであった。冷戦の恐怖に育てられたものにとっては、守ってくれる米軍はどうしても欠かせない存在のはずだったからだ。 スービックから米軍が撤退した頃、東アジア共同体について楽観的になる展開がいくつかあった。たとえば、東アジアの暴れん坊である北朝鮮をこの地域に巻き込もうとする日朝平壌宣言とか、あるいは、共産主義を支えてきた中央計画経済を放棄した中国の市場経済の導入とか。当時は、アメリカがなくてもこの地域はやっていけるのではないかという前向きな気持ちが湧いていた。 このような希望を象徴する当時のあるテレビ番組を思い出す。ある日本の俳優が銀座でタクシーを拾う。運転手さんに「ロンドンまでお願いします」という。目指す方向は西。太平洋を経て西欧を目指した今までとは正反対の、まさにその時代の風向きである。 残念ながら、平壌宣言は失敗に終わった。北朝鮮は弾道ミサイルの開発を進め、命中率はともかく、その射程距離に東南アジアの一部分も入ってしまった。そして、市場経済から膨大な富と力を蓄えた中国が、東南アジアの心とも言うべき南シナ海において威圧的な軍事力をもって暴走し始めた。シンガポール、ベトナム、そしてフィリピンはこのような行動に反発している。恒川先生が指摘されたように、残念ながら東アジアではまだ冷戦が終わっていない。 あの冷戦の悪夢が蘇った現状では、どうすればいいのか。基調講演にも取り上げられた逆転の発想があった。それは、黒柳先生が言及された「弱者である」ASEAN主導型の東アジア共同体である。しかしながら、この構想は東アジアの先輩である日中韓が容認するかどうかまだはっきりしていない。ERIAという東アジア共同体のための研究機関の本部は、日本の支持も受けてジャカルタにあるASEAN事務局に設置されたから、日本はASEAN主導を支持しているようである。しかし、韓国はソウルに設置したかったという。いずれにせよ、このASEAN主導型の東アジア共同体構築という構想に日中韓の容認が得られるならば、ASEANは喜んで協力するであろう。 ただし、この構想が容認済みという前提であれば、逆に日中韓の協力が必要となる。この構想が上手くいくためにはASEANの団結が益々重要になる。東アジア共同体の構築はASEANの中の一国だけでできることではないからである。そう考えると、日中韓に対して、ASEANを分裂させるような行動を避けていただくようにお願いしたい。 国際分業化は恒川先生の共同体の定義にも入っているが、僕もその通りだと思う。日本の企業も東アジアの国際分業化に大きく貢献してきた。EUのような制度がなくてもこれだけ域内貿易が進んでいるのはその結果とも考えられる。しかし、最近の動きをよくみると、日系企業の東アジアへの進出はある特定の国や地域に集中的に行われるようになりつつある。それ故に、日本は共有型成長という素晴らしい理念を持っているにも関わらず、バランスを欠いた分業化に成りつつある。このような不均衡な状態は結局ASEANの団結に打撃を与えかねない。 中国はまだ東アジアの国際分業化に日本ほど貢献していないが、領土問題の取り組みはASEANの分裂を進める危険性が十分にある。中国は多国間の話し合いの誘いに応ぜず、二カ国間の話し合いにしか対応しない姿勢である。これはASEANの分裂にも繋がりかねない。二カ国間の政府レベルの話し合いの大部分は不透明であり、政府同士が納得できたといっても、必ずしもそれが国民にとって良いとは限らない。劉傑先生が引用された「(東)アジアは中国の共通な故郷である」という言葉で思い出した。昔、中国の艦隊がアジアの海を帆走し回っている航海時代もあったが、当時の西洋的な考えとは違い訪問先を植民地化するような方針はなかった。乗組員が訪問先の国を気に入って、そこに住もうと決心して居残ったこともあった。今の中国はその原点に回帰していただきたい。 韓国は、北朝鮮巻き込み作戦の失敗や市場経済の過剰な導入により、日中韓の中では一番東アジア共同体の必要性を痛感しているかもしれない。1997年に勃発した東アジア金融危機によりIMFから厳しい政策転換を余儀なくされ、韓国社会は多大な打撃を受けたし、北朝鮮からは死者が出る軍事攻撃を2回も受けたのであるから。それだけに、ソウルではなくジャカルタ(ASEAN本部)にERIA本部が置かれたのは韓国にとって悔しいであろうが、朴栄濬さんの発表にあったように、韓国が戦後すぐに太平洋同盟構想を発表したように、今でもASEANを信じてくれるようお願いしたい。 今回のフォーラムの内容について、SGRAの仲間たちもいろいろと考えたようだ。意外にも、中国本土の仲間たちがASEAN主導型の共同体構築に寛大な姿勢であった。「強者同士だけだと何もならない」、「問題の島はどの国のものでもなく、皆で共有すればいい」、「皆さんの話は客観的でいい」など。これに対して、「辺境」の東北アジアの仲間たちは、「中国中心にすべき」という意見が強かった。「ASEAN+辺境」と提案しても直ぐ中国のことが気になって否定された。 良き地球市民を目指しているSGRAは、それ自体が小さな東アジア共同体の構築をしようとする活動である。SGRAは僕にとって共同体構築の悲しさや喜びを分かち合える場でもある。ASEANも軍事同盟もなくなり、東アジアという共同体のみとなる希望の未来、僕がこの目で見ることは出来ないかもしれないが、今から仲間たちとその準備を始めたい。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.07.06

    エッセイ300:孫 軍悦「沈黙と喧騒」

    吉村昭が『海の壁』という本のなかで、明治29年(1896年)6月に三陸沿岸を襲った大津波を次のように描いている。「波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。干いた波は、再び沖合でふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った」。 そして、住民の被害状況について、彼はこう語った。「死体が、至る所にころがっていた。引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、腹をさらけ出した大魚の群のように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。……梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。家畜の死骸の発散する腐臭もくわわって、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ち、死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた」。 吉村は大げさな想像によってこのような地獄絵を描いたのではない。実際『風俗画報 大海嘯被害録』に、〈唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図〉や〈広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図〉などが残されている。過去の記録と今日の津波報道を比べると、両者の違いが一目瞭然である。家屋や車や畑が濁流に飲み込まれ、町全体が跡形もなく消え去った衝撃的な映像に、轟音、腐臭、そして自然が直に破壊した「人の体」が決定的に欠けている。皮肉にも、メディアが高度に発達する現代社会において、被災地の現実を理解するには、より一層鋭敏な感覚と逞しい想像力が必要である。 明治、昭和期に三陸沿岸を三度も襲った大津波の様子を仔細に記録し、自然の暴威に無残に傷つけられた「人の体」をありのままに描いた吉村は、三陸地方をこよなく愛していた。なぜなら、「三陸地方の海が人間の生活と密接な関係を持って存在しているように思える」からだ。「海は、人々に多くの恵みを与えてくれると同時に、人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課」し、「大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる」――それが作家の捉えた海と人間との「密接な関係」の内実である。その「異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防」、「みすぼらしい部落の家並みに比して、不釣合なほど豪壮な構築物」を目の前にして、作家は、世界に誇る人間の偉業に感服し安心するのではなく、むしろ「それほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」のだ。 吉村の語りにおいて、人間は直に触れた大自然の圧倒的な力に恐怖を覚え、抵抗を試みる受け身的な存在である。それに対し、自然を利用、破壊、修復、保護、再生といった文言が示すように、今日われわれが自然を語る際、人間は常に「主語」の位置を占めている。「エコ」や「共生」の思想にも、人間の意識と技術次第で、自然をいかようにもできるという主人の姿勢と優越感が滲み出ている。こうした人間の自然に対する鈍感と技術への過信が、地震や津波といった自然現象を完全に「想定」の枠に嵌め、逆に原子力発電という本来コントロールしなければならない人間の所為を十全に「想定」しなかった、という二つの「想定」に関する過ちにも現れている。 自然災害は、地震や津波といった自然現象そのものではなく、自然現象とそれが発生する瞬間の人間社会との相互作用の結果である。そのため、災害は自然の脅威を表していると同時に、<いま・ここ>にある人間と社会の一面をも映し出している。犠牲者のなかに、近隣の家々が目の前の道路を流されているにもかかわらず、指定された避難場所を一歩も離れようとしない人がいた。渋滞に巻き込まれながらもなお自分の足より車を信じていた。迫りくる波の轟音も、屋上から必死に叫ぶ避難者の警告も、ラジオの情報に空しくかき消されてしまった。本来道具に過ぎないテクノロジーとマニュアルこそ命綱だと思い込んだ人間は、もはや自分の身体と感官を信用せず、自らの知性で物事を判断することを放棄してしまっているのではないか。 思えば、この雑学全盛の時代に、我々は自らの生活乃至生死を左右する物事に対して驚くほど無知である。福島第一原発事故が起きて三か月も経ったいま、なお毎日新しいトラブルが起き、新しい言葉が飛び交っている。これほど集中的に外来語を勉強したのは初めてだ。事故が起きる前、この世界有数の地震多発列島の上にすでに54もの原発が建てられていたことを、果たしてどれほどの人が知っていたのか。これまで、私たちはただ、一所懸命働き、税金を納め、安全、安心、快適な生活を保証してくれるはずのシステムに頼り、そのシステムを作動させるマニュアルに従って生きてきた。このシステムとマニュアルによって秩序づけられた世界は、「偶然性をただ障害物としてしか、それどころか敵として、そして脅威としてしか見ないのである。理想は、偶然性を支配すること、偶然性を最小限に還元する管理の網を大きくすることである」(チャールズ・テイラー)。だが、莫大な税金をつぎ込んで開発された放射性物質予測システムが電源喪失のため、コンピュータすら起動できなかった。入念に設計された防災マニュアルが自然の本質である偶然性を排除したがゆえに十全に機能しなかった。これから、われわれが、より一層精確化、精緻化するシステムとマニュアルの開発に向かうのか、それとも偶然性に満ちた自然と現実に鋭敏に反応する、豊かな感覚と想像力が備わる身体を取り戻すのか、それこそ今回の災害がわれわれに突きつけた一つの課題であろう。 確かに、被災地が無法地帯と化してしまった歴史(明治、昭和期の大津波の後にそうした現象が起きていた)に照らし合わせると、今日の日本では、人々は実に冷静に行動し、秩序を守っていた。それは言うまでもなく、災害が起きるたびに、新たな教訓を総括し、不断な検証、批判、運動を通して、防災、救援、補償など様々な法律と制度を整備してきた結果でもある。だが、毎日食料品と必需品の調達のために長蛇の列に並び、肉親を探すために、避難所の入り口に張り出された名簿を指でなぞり、海岸をさまよい、避難所を回り、遺体安置所に訪れ、そして再び真っ暗な避難所に戻る生活を、ただ「秩序ある冷静な行動」という、繰り返されてきた常套句で称賛するのは、たとえどんなに善意が込められ、どんなに愛国心がくすぐられても、私には同調できない。まして、「フクシマフィフティ」といった英雄物語は、かの国のおなじみの愛国主義を動員する典型的な形態にほかならず、グローバル経済の時代に安い賃金で過酷な労働に従事する下請け会社の労働者の実態を何一つ表していない。 そもそも、外面的な冷静な行動が必ずしも内面の平静を意味しない。沈黙もまた美徳とは限らない。早朝から臨戦態勢でスーパーの入り口に並び、開店とともに一斉に走り出す主婦たちの「冷静な買占め」が、まさに極度の不安の表れではないか。一方、原発に反対する科学者をスタジオに招かず、誰もが思いつく疑問や反論を決して口にしないテレビメディアの「冷静な対応」は、一種の隠蔽としか言いようがない。そして、地震直後に、毎日何時間もかけて黙々と会社へ出勤していく都内のサラリーマンと、原発事故の原因も責任の所在も分からぬまま、節電を呼びかける善良な市民の姿に、むしろ現実へのあまりにも早い追認と隷属の慣性、忍従の態度が見え隠れはしないか。 「これしかできない」と「謙遜」しながら、節電を励行し、義援金を送り、東北を応援する消費活動を意識的に行い、「ニッポンが強い」と国民の士気を鼓舞するのは結構なことだ。が、国の命運を決める政治的権利を与えられていない外国人と同じこと「しかできない」という意識は奇妙ではないか。一個人としての倫理的行動以外に、主権者としての公的責任もあるはずだ。今日の日本においては、もはやシステムとマニュアルに生死を預け、大手メディアとそれによって選別された専門家に討議を任せ、政治家に決断を委ねるわけにはいかない。主権者として責任を果たすための充分な時間を確保し、自らの生活に深くかかわる事柄を学習し、討論を重ね、決断を下し、明確に意思表示すると同時に、政策決定につながる方途を探ることが、国民の権利でありまた義務でもあろう。民主主義を保障する制度は民主主義を実践する人がいなければ意味をなさない。同調性への圧力がとりわけ強い日本の現実的状況においてこそ、私は沈黙と秩序を守る「冷静な行動」に賛辞を贈るより、反原発の旗を掲げ、漸く声を上げ始めた「騒がしい日本人」にエールを送りたい。 -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学教養学部講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 -------------------- 2011年7月6日配信
  • 2011.06.29

    エッセイ299:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その8:それでも耐えるのですか?」

    いつもクールでいたい僕は最近ちょっとイライラしています。理由はもちろん分かっています。分かっているからこそ、余計イライラします。 3・11の天変地異から100日以上が経ちました。余震のない日が増え、あの日に覚えた地震に対する恐怖心が減りました。スーパーの棚に並ぶ品物が増え、ACのテレビCMが減りました。被災地で見つかる死体の数が増え、新聞のトップページに載る行方不明者の数が減りました(でもまだ7000人以上が行方不明です)。いろいろなものや気持ちが増減している中で、変ってほしいのに変らないものもあります。あきれるというより怖いぐらい、福島原発事故の深刻さとそれについての専門家たちの発言の曖昧さは変りませんでした。諦めたくなるというより殴りこみたいぐらい、日本の国会での笑えない茶番劇も変りませんでした。そして、驚くというより悲しいぐらい、日本国民の忍耐強さも変りませんでした。 大震災が起きたあの日の夜、首都圏ではJRや私鉄の運行停止のため、数百万人もの人々が秩序を守りながら、暴動も起こさず大渋滞でもクラクションを鳴らさずに黙々と行動する映像に世界中の人たちは驚愕し、そして絶賛しました。まるで無声映画を見ているようで、いささか不気味に思いながらも、「すごい!さすが耐えることを美徳とする日本だなぁ~」と日本人でない僕もなぜか誇らしげでした。あの夜に余儀なく5時間もかけて歩いて帰宅する羽目になった日本人の友人も、途中でのどが渇いてビールを飲みたいと思ったのに「そういう雰囲気ではなかった」という理由で我慢し、耐えたそうです。まあ、僕もあの日以降、記録的に連続で17日ぐらい禁酒していたので、その気持ちは分からなくもありません。でも、あの日から100日以上、3ケ月以上も経ちましたよ。変ってほしいのに変らないものに耐えることはもうそろそろやめませんか。 去年の10月に、フランスでは350万人もの労働者と民衆が決起し、大規模のデモとストライキが全土にわたって発生しました。印象的だったのが、15万人以上の高校生や大学生も戦列に加わり、300校以上の学校の正門を封鎖したことです。彼らが拳と声を上げて大反対したのはサルコジ政権の「年金制度改革法案」でした。そのほぼ1ヶ月後、イギリスでも大学生によるデモが各地で相次ぎました。彼らが蜂起した理由は大学の授業料値上げでした。翻って日本はどうでしょうか。日本の年金制度がフランスより健全に発展しているとは全然思いません。国立大学の授業料も、日本は世界一高いです。でもそれに対して、な~~にも起こりません。国会議事堂の前に集まってデモをやる人もだ~~れもいません。理不尽な制度に対して、多くの日本人がひたすら耐えているように見えます。別の意味ですごいです!しかも、今の日本が直面しているのは年金制度とか大学授業料の高さのような制度上の問題でもあるまい。こういうことを言うと、「ああ~日本は豊かになりすぎたから、若者が無気力・無関心・無感動になってしまっているんだよ、シムくん」という答えが必ずと言っていいほどオジさん世代から返ってきます。でも、すみません、今の日本はもう「豊かになりすぎた」状態でもないでしょう。それに、フランスもイギリスもそんなに貧乏な国ではありませんから。問題の核心は別にあるのでしょう。 福島原発事故の衝撃を受け、イタリアが国民投票による圧倒的な多数票で原発の再開をしないと決めました。それに先行して、地震が起こらなさそうなドイツでさえ原子力発電所を全廃することを閣議決定しました。イタリア国民の反応を集団ヒステリーとコメントした日本の某衆議院議員もいましたが、では「感情に左右されない、奥ゆかしい」当の日本が原発についてこれからどういう方向に向かっていくのか、冷静に教えていただきたいものです。このまま20年後、30年後にも現存の原子力発電所が次に来る大震災に、日本国民のようにじっと耐えられることを祈るしかないのでしょうか。 今でも進行中の原発問題について、確かに風評被害を訴えた農民漁民による抗議や子どもの被曝最小化を求めた福島県の親たちによるデモもありましたが、いずれも当事者によるごく小規模なものでした。原発反対のデモも日本各地で実施されたことはされたのですが、数万人規模で参加したものは聞きませんし、おかしいことにマスコミも大きく報道しません。そして残念なことに、それらの声が、それこそ集団ヒステリーのように茶番狂言を繰り返す日本の国会に届いているようにも見えません。 英語圏で伝えられてきた古典的な警句の中に、「ゆでカエルになるな」というのがあります。熱いお湯にカエルを入れると驚いて飛び跳ねます。ところが、常温の水に入れてゆっくり熱していくとそのカエルは耐えながらも水温に少しずつ慣れていきます。そして熱湯になったときには、もはやそのカエルは跳躍する力すら失い、飛び上がることができずにゆで上がってしまうというのです(これはあくまで寓話の一種なので、実際にカエルを使って試さないでくださいね)。最近、僕をイライラさせているのが、まさにこの「耐えるカエル」と、恐らく数では勝るとも劣らない「我関せぬカエル」なのです。日本人でもない僕がイライラするのもおかしいというか、しょうがないかもしれませんが、最近よく耳にするこの「しょうがない」という言葉も実は僕のイライラのもう一つの原因でもあったりするのです! --------------------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -------------------------------------------------- 2011年6月29日配信
  • 2011.06.22

    エッセイ298:マックス・マキト「マニラ・レポート2011前期」

    【冬】マニラ・レポート12月 2010年12月17日(金)、フィリピン大学の先生や学生、NPO関係者、フィリピンSGRAのメンバー等25名の参加者を得て、第13回SGRA日比共有型成長セミナーが開催された。フィリピン大学に留学・訪問している韓国人の学生や研究者がたくさん来てくれたのがうれしかった。あいにくフィリピンでは既にクリスマスのお祝いが始まっていたし、フィリピン大学恒例の行事であるLANTERN PARADEと重なってしまったので参加人数が少なかったが、それで今回のセミナーの意義を過小評価してはいけない。「農村と都市の貧困コミュニティー」をテーマとした今回のマニラ・セミナーは、初めて僕の母校(学部時代)でもあるフィリピン大学で開催された。(今までは僕のもう一つの母校(修士時代)であるアジア太平洋大学で開催した。)フィリピン大学で初開催だったので、SGRAの今西代表がわざわざマニラを訪れ開会の挨拶をした。 今回は、フィリピン大学のSchool of Labor and Industrial Relations(SOLAIR:労働・産業連帯大学院)のベンジ・テオドシオ教授の協力を得て、SGRA顧問の中西徹東京大学教授と僕に発表の場を設けていただいた。 中西先生はCommunity Dynamics Among the Urban Poor(都市の貧困者におけるコミュニティー・ダイナミックス)という論文に基づいて発表した。20年以上にわたるフィリピンのスラムにおけるフィールドワークの成果である。コミュニティーの進化について、3つの局面を特定した。第1局面は、スラムに住んでいる家族の間に決定的な結合(ネットワーク)が形成された瞬間であり、スラムのコミュニティーの誕生である。第2局面は、いくつかの中心家族(ハブ)が現れるコミュニティーの深化である。第3局面は同じ都市の別の場所にあるスラムと関係が結ばれるコミュニティーの拡大である。 僕の発表は、セミナーの数日前に出来上がったThe Dynamics of Social Networks in Philippine Poor Communities(フィリピンの貧困コミュニティーにおける社会ネットワークのダイナミックス)に基づいたもので、マニラ・セミナーの中心テーマである共有型成長と中西先生の研究を結びつけた。この論文は中西先生との共著でこれから発表したいと思っているが、そこで取り上げたのが「GLASS効果」である。これはGiant Leap And Small Step効果の頭文字で、地方から都市へ移住した貧困者が、その移住した時点ではGiant Leap(飛躍)に踏み出したが、都市ではスラムの生活からなかなか脱出せずにSmall Step(小さな一歩)しかできない状態に陥ることである。つまり、田舎のネズミが都会に行ったらガラスの天井にぶつかるということだ。 休憩の後、SOLAIRの学部長やNGOの参加者を囲んでオープン・フォーラムが行われた。学部長とベンジ先生は、僕たちの研究は彼らが現場で体験していることを体系的に整理していると評価し、いくつかの研究テーマを提案してくださった。難題の多い活動現場でエネルギーを使い果たしてしまったと訴えるNGOの参加者は、このような研究やアドボカシーの重要性を指摘し、SGRAやSOLAIRと関係を深めたいと語った。 SGRA日比共有型成長セミナーで貧困を取り上げたのは3回目であるが、今回のセミナーによって、ますます僕はフィリピンの農村の貧困についての研究へ魅かれていった。これは中西先生との共同研究のおかげであることは言うまでもないが、SOLAIRからの好意的な反応もひとつの要素である。ベンジ先生は推薦の手紙を添えて、僕たちの発表の要約をフィリピン大統領の事務室へ送ってくれたし、僕にSOLAIRのポストをオーファーしてくれた。 今回のマニラ訪問で更に高まった農村への関心を、SGRAを通してフィリピン以外にも広げるために、SGRA共有型成長の研究・アドボカシー活動を積極的に進めていきたい。研究テーマは昨年のSGRA蓼科フォーラムでも取り上げた「3つのK(効率・公平・環境)」を重視する農業(或いは地方開発)である。効率的な農業とは、利益を生み資金的な自立を図る農業である。公平な農業とは、貧富の格差削減に貢献できる農業である。環境を重視する農業とは、恩恵者である自然を守る農業である。 発展途上国の貧困者の多くは都会ではなく農村にいる。「地方開発」とは都市化(urbanization)ではなく、「農村化」(“ruralization”?) という意味合いがある。地方にいる貧困者とその主な収入源である農業、又は本来アイデンティティの源になるべき農業に直接焦点を当てたい。これは環境にやさしい持続可能な共有型成長につながると僕は期待している。ご関心のあるかたは是非ご一緒に! Facebookにセミナー関係の写真をアップしました。(閲覧にはFacebookへの登録が必要です) 【春】マニラ・レポート in 名古屋 3月 2011年3月12月午後、名古屋大学大学院経済学研究科にて、SGRAと共催のワークショップ「アジアの産業の持続可能な共有型成長へ向けて」が開催された。SGRA顧問の平川均名古屋大学教授のプロジェクトの一環として、フィリピン大学のベンジ先生とボニ先生を招聘していただいた。参加者は、まず、東日本大地震で被災した方々のために黙祷をした。ワークショップの一番バッターの僕の発表は、第12回共有型成長セミナーとSGRA蓼科フォーラムで行った発表に基づいたもので、マニラのEDSA大通りを事例として、フィリピンの環境にやさしい交通システムの試みを紹介した。特に強調したのは、世界銀行が提案したハイブリッド体制(政府+市場)を、制度的かつ具体的にどのように取り込むかという構想を、SOLAIRと他の学部や研究所も含むオール・フィリピン大学で提案したことであった。引き続いてベンジ先生がフィリピンの再生エネルギーの産業や政府の待遇政策について発表した。フィリピンの電力コストはアジアの中で最高であるが、フィリピン政府は再生エネルギーの促進によりその問題にも取り組んでいる。その後、ボニ先生はSOLAIRの専門分野であるIR/HR(Industrial Relations/Human Resources産業関係・人材)という側面から貧困についての分析を発表した。この3つの発表の共通点は、社会の周辺にいる貧困者に対して特別の配慮が必要であり、この問題に取り組む時には政府+市場+大学を含む市民社会の連携プレイが重要であるということだ。最後に、平川先生が持論のPobME(Potentially Big Market Economy 潜在的に大きな市場経済)により、産業化の深化について「労働は資本の下へ、資本は労働の下へ、そして現在進行中とされる、資本は大きな市場の下へ移動するという局面」という説明をした。 【初夏】マニラ・レポート5月 5月の休み(フィリピンでは「夏休み」)を利用してマニラに帰国した。フィリピンで一番熱かったのはReproductive Health Bill(出産健康法案)だった。議論の中心は、人工的な人口計画の道が制度的に開かれるかどうかということである。第40回SGRAフォーラム「少子高齢化と福祉」でも発表したように、このような動きに対してフィリピンのカトリック教会は黙っていられない。法案に同情的な姿勢を見せたアキノ大統領に対して厳しい批判を浴びせた。テレビでも面白い議論があったし、家族団欒の話題にもなった。法案の賛成者は、フィリピンに貧困者が多いのは彼らが子供を沢山生むからであるという。一方、反対者は、フィリピンの貧困者が子供を沢山生むのは貧しいからであるという。つまり、貧困と出産率の因果関係をどうみるかで意見が違ってくる。開発経済学では、どちらかというと貧困者が合理的な判断で、大きい家族を好むとしている。いずれにせよ、この法案は社会の基本単位である家族に大きな影響を与えかねないので、これから見守る必要があると思う。 滞在中にフィリピン大学でゆっくりと構内を久しぶりに散歩できた。 足を止めて思わず黙祷させたものがあった。  【予告】 2011年8月24~25日に、フィリピン大学のSOLAIRで「The Philippine Employment Relations Initiatives: Carving a Niche in the Philippine and Asian Setting(フィリピン雇用関係におけるイニシアチブ:フィリピンやアジアの舞台で、隙間を切り開く)」というテーマの国際会議( http://pirs08.webs.com/ )が開催される。僕は平川先生と共著で、僕が展開してきた共有型成長の分析枠組みを、フィリピンに進出してくれた日系自動車企業に適用する論文「A Comparative Economic Analysis of Japanese-Style Labor Contracts from a Shared Growth Perspective(共有型成長の観点からみた日本型労働契約の比較経済学分析)」を提出する予定である。この日系企業が具体的にどのようにフィリピンの共有型成長に貢献しているかを明確化する。 ミャンマーのタンタン先生とベトナムのビックハ先生はIndustrial Grading and HR: The Case of Vietnam(産業向上化と人事管理:ベトナムの事例)という別のセッションで発表することになった。 自分の強いところを否定し、自分の弱いところでグローバル化競争に挑んだ日本は、失われた十数年間を生み出してしまった。僕は、日本システムの強いところを生かして競争し、弱いところは温かい目で改善方法を探っていくべきだという提言を、母国フィリピンや賛同する他の国々に伝えたい。今日本が経験しているこの大変な時代において、これが、日本の宝物を発掘してきた僕たち留学生にできることなのだと思う。 -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2011.06.15

    エッセイ297:李 軍「車内の風景 こころの風景」

    私は小さいころから日本語が好きで、中学一年生の時から二十年近くも日本語を勉強してきた。日本に来た当時はまったく知らない国に来たのではなく、久々に故郷に里帰りしたといった懐かしさを覚えていた。それでも、びっくりしたことが多々あった。最初にびっくりしたのは電車やバスが定刻どおりに来ること、電車の中で「これから先揺れますので、ご注意ください」というアナウンスが流れてくること、「駆け込み乗車」という言葉が存在していること…。 福岡に四年、東京に四年。この八年間、毎日といってもいいほど電車や地下鉄に乗っている私は、電車の中でも様々な発見があって、日本人のこころの風景をこっそりと覗くことができた。 ◇風景(一)「はなす」 上京したばかりの時、なぜ東京の人はみんな朝から電車の中で寝てしまうのかと不思議に思っていた。そのうちに東京のリズムが地方と全然違うということが分かってきて、変に思わなくなったが、熟睡した人とその隣の人の様子を観察するのが面白かった。眠った人の中には、いびきをかいたり、口を開いている人もいれば、横に倒れそうで倒れない人もいて様々である。それに対して、その隣に座った人は避けて避けて嫌そうな表情で我慢する人もいれば、嫌がって立ち去っていく人もいる。しかし、どんなにひどい状況であっても、心の中でどんなに嫌がっていても、みんな決して口に出さないし、注意もしないでいる。 私は日中漢字文化の繋がりや大和言葉の特質を研究しているが、このような風景を見るたびに「はなす」という和語の意味合いを思い起こす。「話す」「離す」は異なる漢字が当てられているため、別の言葉として認識されている。しかし、「はなす」という和語の持つ「ものがある事物の中またはその事物の周辺から遠ざかっていく」という根源的な意味合いがそれぞれの言葉の中に共通しており、日本語の国字である「咄(はなし)」も、「心事を口の外に出す」という意味合いに由来すると考えられる。日本人が物事に対してストレートに自分の意見を言わず、「~~よいのではないでしょうか」「私的には~~と思いますけれど」といった曖昧な表現を好んでいるのは、おそらく、直接「話」してしまったら、みんなから敬遠されてしまう、つまり「離」れてしまうことを恐れているのではないだろうか。 ◇風景(二)雨のしずく 日本では、雨が降ったときに、みんな車中できちんと濡れた傘を束ねて持つようにしている。ある雨の日、一人の若い女性がたくさんの荷物を抱え込んで乗車してきて、私と隣に座っている中年の女性の前に立つとすぐに携帯を取り出していじり始めた。片手でたくさんの荷物を持っているせいか、自分の傘からゆっくりと雨水が落ちてくることに気づいていない様子であった。その傘の位置はちょうど私と隣の女性の間にあったので、電車の揺れ具合によって、雨水がどちらに落ちてくるか把握できない。私も隣の女性も必死に避けようとしていた。一粒一粒…雨に降られても別にかまわないのに、なぜこんなに気になるのであろうか。幸い、私たちの巧みな水滴回避術によってほとんどの雨水が床面に落ちて、被害はなかったが、電車を降りたときに肩も凝ったし、気持ち的にもすごく疲れた。これも「話」してはだめなのであろうか。 ◇風景(三)ごみ実験 日本の電車はとても清潔で乗り心地がよい。たまにごみを捨てたりする不心得者もいるが、いつもきれいに保たれている。ある日、向かい側の座席に丸めた紙のごみが置かれていた。私が乗った時は空席が多かったが、徐々に混んできて、最後にそのごみのある座席だけが残っていた。結論から言うと、少し躊躇して去っていった人が八人、ごみを避けて座った人が二人、最後の人はそのごみを自分のポケットにしまって座っていた。何人もの乗客がその座席の前に現れたり去っていったりしていたが、ただ一人もごみを床面に捨てなかった。日本人は自分のやりたいことを我慢してまで、周りを配慮し、できるだけほかの人に迷惑をかけないようにしていることがよく分かった。 私が最初に日本語に魅了されたのは日本語の美しくて優しい響きであった。だが、本格的に日本語を大好きになったのは日本語の魂に気付いた時だったかもしれない。「言霊」という日本語があるが、「言霊」は文字通り「ことば」に宿っている「たましい(魂)」のことである。美しい日本語は、それを受け入れる人の気持ちをよく考え、理解し、その心を癒し温める力を持っている。一方、不快な言葉を使うと、相手にその言葉の良くない魂が飛んでいくのではないかという配慮で、「しょうがない、我慢するか」「暗黙の了解」という日本人ならではのルールがあるようである。どうしてはっきりと言わないの、ともどかしい時もあるが、これこそ日本、日本人、日本語の魅力かもしれない。こういう考え方に馴染んでくると、車内の風景も、ぽかぽかと地面の生き物たちを照らす春の日射しによって、みんなが暖かく優しい光に包まれているように見えてくる。 (著者の了承を得て、渥美財団2010年年報より転載) -------------------------------------- <李軍(リ ジュン)☆ Li Jun> 中国瀋陽市出身。瀋陽市同澤高等学校で日本語教師を務めた後、2003年に来日。福岡教育大学大学院教育学研究科より修士号を取得。現在早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程に在籍。主に日中漢字文化を生かした漢字指導法の開発に取り組んでいる。ビジュアル化が進んでいる今日、絵図を漢字教育に取り組む新たな試みを模索している。 -------------------------------------- 2011年6月15日配信
  • 2011.06.08

    エッセイ296:葉 文昌「国内にいては見えないもの」

    9年前、私は10年間の日本留学生活を終えて台湾に帰国した。自分の中では車と言えばトヨタ、ホンダ、日産、電機類は日立、東芝、パナソニック、ソニー、キャノンが世界をリードする企業で、台湾が日本に学ばなくてはならないことは多いと考えていた。 だが現実に台湾に住んで感じたことは、Taiwan As No1と思っている人が多いということだ。最初に気付いたのは帰国してまだ一ヶ月もたたない頃だった。私は漁業の養殖技術は日本が最高水準と思っていたが、同僚はそう思わず、台湾こそが世界最高と言い張った。 新聞にもよくTaiwan As No1の記事が載る。帰国して一年程した頃に見た新聞記事が忘れられない。「xx教授が検索エンジンを開発、グーグルより高速に」「xx大学が新薄膜トランジスタ(TFT)構造を開発、プロセスが単純で日韓企業と比べ有利に」。ひょっとしたら台湾はすごくなるかもと思ったが、10年経った今でもグーグルよりもすごい検索サイトは台湾から出てきていない。TFTもその勢力図を変えるとされる技術の出現によって日本勢や韓国勢を打ち負かしたとは聞かない。都合のいい情報に浸かりきれば自分達は世界で最もいい国に生活しているつもりになるのでめでたい話ではあるが、現状に甘んじてしまえば改善の駆動力は失せ、いつしか世界競争から取り残される。 日本にいた時には、日本の技術力は世界で一番と思っていた。しかし台湾の状況を鑑みて、ひょっとしたら日本にいた自分にも同じような思い込みの部分があったのではないかと思い始めた。海外に長く住んでいる日本人の話によると、その国では外国人の匂いが気になるが、帰国した途端に日本人の醤油臭さに気付くそうだ。私も台湾へ帰国した時に日本を客観視することができた。日本に居た頃はプリンターと言えば世の中には日本のA社とB社しかないと思っていたのに、台湾ではアメリカのC社のほうが圧倒的に大きなシェアを持っていた。C社は安く、品質も悪くなかった。また、ある時台湾の大学で7千万円する科学機器購入のため、日米欧の5社にプレゼンをしてもらったことがあった。欧米メーカーが強調するのは、装置部品はモジュール化されているので、学生が安心して部品交換できるということだった。一方、日本メーカーは「専門家が来て調整するので測定精度は高い」ということだった。測定機器の主な使用者は学生や操作員であるので、素人が使っても精度がぶれないタフさは必要である。欧米メーカーは消費者のつぼを押さえてものを作っている印象を受けた。一方で日本メーカーはどこか職人的な感じがした。また欧米メーカーのプレゼンテーターはグローバル展開している中の台湾支社の人員であったのに対して、日本メーカーは代理店のワンマンオーナーであった。正直プロフェッショナルな感じがしなかった。また購入後の保守が不安であった。 ものづくり、匠、職人芸。これらは日本人が拠り所とするいわば伝家の宝刀である。しかしイノベーションを伴わないものづくりは誰にでもすぐ真似できるから、それを拠り所にするのは危険である。戦前と比べて日本人の我慢強さは減っている。「日本人は繊細で根気強いため、ものづくりに適している」と言うが、故宮博物館で中国の古代工芸品を見れば昔の中国人の繊細さ、根気強さ、マニアック度は日本に引けを取らないことがわかる。世界に誇る中華料理は、温度と時間の最適化と素材と調味料の組合せの最適化なので、これは正にものづくりである。ものづくりとしての中華料理は、素材そのものを重んじる日本料理に劣らない。日本人だけが文化的に或いは人種的にものづくりに長けているとは言えない。今後環境さえ整えば周辺の発展途上国のものづくりはすぐに追いついてくると考えた方がいい。実際、パソコンからスマートフォンまで、アメリカのイノベーションとアジアのものづくりが結びついて世界を席巻した例は多い。私は2、3年前からスマートフォンを使い始めたが、それまで日本の携帯技術は世界のトップと思っていただけに、このようなものが台湾メーカーにも作れてしまうことに衝撃を感じた。ものづくりとはこの程度のものだと思い直した。 3月の大震災で日本の多くの工場が操業停止に追い込まれた。その影響で海外の多くのメーカーが製品を出荷できない状況に陥ったと報道された。このことから、「日本製部品は世界で重要で欠かせない」とメディアで言われている。しかし私は同じような報道を台湾で度々見てきた。災害でどこかの工場が被災して海外有名メーカーの出荷に影響が起こるたびに、「台湾製部品は世界でとても重要で欠かせない」と報じられる。中国にしても事情は同じであろう。もちろん日本と台湾が作る部品はレベルが違うかも知れない。しかしCPUのようなオンリーワンでなければ、普通の製品は幾らでも代替が可能であり、主導権は握れない。この話はサプライチェーンがグローバル化しただけの話なのだが、それで「日本のものづくりはすごい」と思う所に台湾と似ているところがあるように思えてしまう。 リーマンショックでアメリカの自動車会社のビッグ3がつまずいて以来、日本ではアメリカのものづくりは終わったという見方もあった。しかし航空機・宇宙産業は今でも健在だし、研究において必要な測定機器や基幹部品は相変わらずアメリカ製がトップブランドを占めている。研究においても、アメリカの学会は世界中から人が集まるのでレベルが高い。従ってアメリカのものづくりは終わっていない。アメリカのイノベーションとアジアのものづくりが組めば、日本にとっては大きな脅威となる。 国内にいては見えないことは他にもある。日本人は自分を「平和好きで温厚な草食民族」とよく自任する。実は台湾でも中国でも自分を「平和好きで温厚な民族」と自任している。尖閣諸島紛争の時にも中国の一般市民がインタビューされて「我々は平和好きである。しかし外国の挑発には屈しない」と答えていた。日本人がそれを聞くと「何て厚かましい国民だ。どこが平和好きだ」と思うに違いない。しかし中国も、日本が戦争を起こした歴史から「何て厚かましい国民だ。どこが平和好きだ」と思っている。どの国民も好戦的な一面はある。だから「自国は草食で平和好き、他国は肉食で好戦的」と捉えるのはおかしい。特に日本では「欧米は肉食、アジアは草食」と例えられている。もしこれらの国が争い事を好まない民族であるとすれば、秦の始皇帝や漢の中国統一も、信長、家康の日本統一もなく、今のアジアは古代からの村落のままで黒船襲来後間もなくして消えていたであろう。尖閣諸島紛争でも同じことだが、どの国も国内では自分に都合のいい情報しか出回らせない。従ってこのような紛争ではどの国民も被害者意識から余計に熱くなり、最悪の場合には暴走する。(ちなみに私は台湾では日本の言い分を、日本では台湾の言い分を言いたがるので、私はどこでも非国民である)。 日本のテレビでは青年海外協力隊の活動が紹介され、発展途上国の人々の為に多くの日本人が献身的に働いていることを知らせてくれる。このような活動は欧米でも台湾でも行っている。だからそれだけでは日本人が特に貢献していると、他人に対して自慢することはできない。更にどの国でも同じだが、自国の美談は報道される一方、醜い部分は海外に長らく住まないとわかってこない。台北には日本人ビジネスマンがよくいく飲み街がある。夜遅くなれば現地の女性を同伴して消えていく。被殖民的で快くは思わないが、私は自由な経済活動であるし経済も活性化してくれるので別にいいと思っている。しかし日本で「買春はODAのような援助活動である」と恩着せがましく主張している知識人がいるように、強い経済を盾に発展途上国に対して物を言うことには傲慢さを感じる。これこそ日本人がアメリカ人に感じている傲慢さであろう。私も大学生の頃にバイトをした時、工事現場のおじさんから「台北に何回も行った事あるよ」と言われ、台北での買春話を延々とされ、台湾の女性達は金目当てだと言われた経験がある。したがってテレビでコメンテーターが言う「日本人は控えめ」とかけ離れている実像も存在し、日本がアメリカに対して感じる強権を、周辺諸国の人々も日本に対して感じていることを受け止めなければならない。(これは当然台湾人の中国や東南アジア人に対する言動にも言えることである。) 人々はその社会の情報に浸かって生きているので、誰もがその社会の常識に囚われてしまう。常識から抜け出す簡単な方法はある。それはその環境から抜け出してみることだ。ご飯を食べる時はお椀を持つのがお行儀と教わったが、韓国に行ったらそれは行儀が悪いことになる。これは表象的なことに過ぎないが、その社会の言葉や風習を理解すればより内面的な常識の違いも見えてくる。自分の常識が通用しない世界があることに気付きさえすれば、あとは自然に想像力を働かせ、何事にももっと謙虚になれるかもしれない。これらは意表をつくことなので刺激的で面白い。私も台湾へ帰国した頃は台湾について無知であった。1年経って徐々に社会が見えてきた。そして日本を離れたことで客観的に世界の中の日本が見えてきた。それは、私が日本に居れば気付かなかったであろう。これもひとつの国際化である。 ------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学電子制御システム工学科准教授。 ------------------------------- 2011年6月8日配信
  • 2011.06.01

    エッセイ295:林 泉忠「『辺境』から見る『中心』の傲慢さ――沖縄と日米のやむをえない関係」

    5月15日は沖縄返還の日である。1972年のこの日、アメリカは沖縄の施政権を日本に返還した。毎年この頃になると沖縄社会の雰囲気が重くなる。返還を祝賀する風景があまり見られないかわりに、集会、デモ行進、米軍基地への抗議活動などが目立つ。今年の抗議のテーマは、普天間米軍基地の辺野古移転への反対のほかに、もう一つあった。先日のアメリカ外交官による沖縄の人々への差別「失言」事件への批判である。 この「失言」事件は3月に世にさらされてから、今日まで依然として議論され続けている。この事件は、沖縄社会に大きな衝撃を与え、日米間の外交トラブルを引き起こしたばかりか、東アジア全地域に対するアメリカの軍事戦略にも影響を及ぼしかねないため、軽視できないものである。 ◇「メア氏失言」騒ぎの顛末 今回の「失言」事件の当事者は「日本通」・「沖縄通」とされている、アメリカ国務省の日本部長だったケヴィン・K・メア(Kevin K. Maher)氏である。昨年12月3日にワシントンのアメリカン大学の要請により、メア氏は、東京と沖縄へ短期留学を控える学生たちのために講義を行ない、自らの日本での仕事経験および日本の印象などを話した。数名の学生の授業ノートを引用した日本の共同通信社の報道によると、メア氏の講義内容は、沖縄の人々への人種差別と侮蔑に満ちているという。「沖縄人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ」、「沖縄は離婚率、出生率、特に婚外子の出生率、飲酒運転率が最も高い。飲酒運転はアルコール度の高い酒を飲む文化に由来する」、「沖縄人は怠惰でゴーヤーも栽培できない」といった内容である。 このほか、敏感な米軍基地および日米安保問題について、メア氏は、「日本政府は沖縄県知事に対して『もしお金がほしいならサインしろ』と言うべきだ」、「日本政府が現在払っている高額の米軍駐留経費負担(おもいやり予算)は米国に利益をもたらしている。米国は日本で非常に得な取引をしている」などと語ったとされる。 メア氏は、アメリカの対日外交を握る現役のキーマンであるだけでなく、2006年~2009年沖縄駐在のアメリカ総領事を務めたため、彼の言論は、日本や沖縄に対するアメリカの姿勢を反映していると目される。「メア氏失言」事件は3月7日に世に知らされてから、直ちに沖縄社会の猛反発を招いた。驚愕の表情を隠せない沖縄県仲井真弘多知事は、その日に「外交官の質が問題になるんじゃないか。あんなに長いこと沖縄にいてね」とのコメントを出した。沖縄県議会は翌日にメア氏に対して発言の撤回と陳謝を求める決議を満場一致で行い、那覇市をはじめ市町村レベルにも広がった。 ◇沖縄社会の猛反発 世論では、沖縄の二大新聞『沖縄時報』と『琉球新報』がそれぞれ社説を発表し、メア氏の「失言」およびその背後にある米軍基地など安保問題上の日米間不平等関係を厳しく糾弾した。『沖縄タイムス』は3月9日の社説「[沖縄差別発言]メア氏を解任すべきだ」において、「メア氏の発言は日米関係に潜む病理をあぶり出す」と鋭く指摘する。 沖縄社会の反応に対しアメリカ側は直ちに釈明を行ない、メア氏の言論はアメリカ政府の立場を代表しておらず、「アメリカ政府は沖縄の方々を非常に尊重している」とのコメントを発表した。アメリカが急いで火元を消そうとしたのは、「失言」事件がさらに発展してまだ解決されていない普天間米軍基地移転問題に新たなトラブルを増やすことを恐れたからである。 周知のように、沖縄の米軍基地問題は日米関係において極めて重要な位置を占めている。多くの日本国民にとっては、日米同盟そのものは平等なものではない。しかし、沖縄県民にとっては、沖縄と日本本土との関係も平等ではない。日本の国土の0.6%しか占めていない小さい県に、75%の駐日米軍基地が集中しているからだ。換言すれば、長い間、沖縄の人々の身には、アメリカおよび日本の二重の不平等関係が降りかかっているのである。 沖縄は日本南部の辺境地域に位置している。この「辺境」は、地理上のもののみならず、心理上のものをも意味している。軍事上のものだけでなく、政治上、文化上のものでもある。「中心―辺境」関係の視角から見れば、「メア氏失言」事件はこうした不平等関係下の「中心」の傲慢さを反映している。そして、「中心」の傲慢さをもたらしたのは、近代国家と近代世界の内在的な不平等構造である。 ◇不平等関係下の「辺境」の嘆息 「自由」と「平等」は近代人類社会が追求してきた核心的価値である。しかし、これらの価値に基づいて構築された近代国家システムにしろ、近代国際システムにしろ、「中心」と「辺境」間の不平等関係が先天的に残さている。 一方で、多くの場合、主要民族が創った国民国家では、本来「我が族類に非ず」とされてきた辺境地域を自ずからの新生国家の主権範囲内に納めた結果、近代国家内の「中心」と「辺境」との緊張関係が絶えなかった。また、「中心」と「辺境」との利益が衝突した場合、「大局的な視点」から「辺境」を犠牲にするのが常に「中心」の「やむをえない」選択となった。戦後日本が沖縄に厖大な米軍基地を強制的に置いたのは、まさにこうした不平等関係を反映するものである。 もう一方で、すべての主権国家からなる近代国際社会は、その組織原理こそが「平等」という原則に基づいているはずだが、周知の通り、世界はパワーポリティクスによって支配されているのが現実である。よって、多くの小国は大国に依存し生きる道を求めてきている。一昨年、日本が歴史的な政党交代を実現し、登場したばかりの民主党鳩山政権は、普天間米軍基地移転問題を借りて日米間の不平等関係を変更しようと試みた。しかし、この時の「造反」は最終的に世界の「中心」であるアメリカの認可を得られないまま失敗に終わた。 ◇「脱中入日」下の琉球の運命 近代国家システムと近代国際システムの二重の挟み撃ちのもと、近代以降の沖縄の数奇な運命のなかで、「メア氏失言」事件はやむをえない苦境に置かれる「辺境」の数え切れないエピソードのなかの一つに過ぎない。 しかし、「辺境」の存在は、必ずしも生まれつきのものではなく、世界に独りよがりな「中心」が出現してからのことである。東アジア地域の「辺境」地域として、沖縄は過去に三つの「中心」と絡み合う微妙な関係にあった。この三つの「中心」は異なる時期に東アジア地域の覇者あるいはその挑戦者の役割を果たしてきた。すなわち、近代以前の「中心」は中国であり、近代以降は日本とアメリカである。 今から132年前まで、沖縄は450年の歴史を持つ半独立王国であり、琉球と呼ばれていた。明朝洪武帝の時代、統一する前の琉球は、すでに明朝皇帝に朝貢を行い始めた。これで、琉球は中華世界システム(華夷秩序)に入ったのである。当時の中国は東アジア地域の唯一の「中心」であり、琉球と明、清の二王朝との宗属関係は5世紀も続いた。17世紀のはじめに、薩摩藩の侵攻を受けて、琉球は薩摩に頭を下げて臣となった。1879年、明治維新後の日本は武力で琉球を併呑し、「沖縄」に名を変えた。 琉球の亡国は、東アジア地域の「中心」更迭の序幕を開けた。と同時に、東アジア各国も近代国家へと邁進していった。この過程のなかで、琉球が日本現代国家の一部となっていくのにつれて、琉球への中国の影響力は弱まっていった。 ◇沖縄と日本との心の距離 近代以来、琉球の民衆は日本という「新家庭」のなかでつらいアイデンティティ転換の過程を経験した。日清戦争で清朝が日本に敗れたのを受け、琉球のエリート層は、中国はもはや琉球を助けることが出来ず、彼らの目の前に残る唯一の道は「日本人になる」ことだとわかった。こうした沖縄社会の思想的転換は、「辺境」としてやむをえない選択であり、当時の目的は日本人からの差別を避けようとしたのである。 しかし、希望通りには事が運ばず、第二次世界大戦前の日本社会の沖縄の人々に対する差別は根強かった。双方は基本的に通婚しないし、沖縄を直接支配する県知事は例外なく「中心」の日本から派遣された。 第二次世界大戦中の最も惨烈な沖縄戦を経て、沖縄は日本から「脱出」したが、その「中心」はアメリカに変わった。アメリカによる27年間の支配において、沖縄社会は初期には独立をも要求したが、内心の「日本人意識」がすでに定着していた上に、アメリカ軍が沖縄の民主化に消極的だったため、左派勢力の強い沖縄社会は社会主義の中国と連携せず、むしろ社会運動を起こし、「祖国日本への復帰」を要求した。 歴史は不思議で皮肉なものである。1972年に沖縄が日本に「返還」された後も、厖大な米軍基地は日米安保条約のもとで存続しており、多くの沖縄の人々にとって「返還」は必ずしも日本本土と沖縄との間の不平等関係を解決していないのである。その後、沖縄社会において「日米政府に裏切られた」との意識が芽生え、今日に至っている。 ◇「中心」の傲慢さはいつ終わるのか? 沖縄の人々の「中心」への不信感、および彼ら自身の置かれた状況への嘆息は、彼らの日本への微妙なアイデンティティにも投射されている。2007年に沖縄で行なった筆者の調査では、自身の帰属意識に関して、調査対象の4割が「沖縄人」、2.5割が「日本人」、3割が「沖縄人であると同時に日本人でもある」と選択した。 132年の間、沖縄の人々は、時には自分は「沖縄人」と強調したり、時には「日本人になる」ことに努めたりしてきた。こうしたアイデンティティの変化に影響する要因は多いが、現在進行形のものには「歴史認識問題」と経済要素が含まれている。 2007年9月、数万の沖縄の人々が集会を開き、沖縄戦中に、日本軍が沖縄の人々に集団自決を命令した関連記述を削除した教科書の使用を許可した日本政府を糾弾した。多くの沖縄人が、今でも日本政府は沖縄社会に対する基本的理解に欠けており、沖縄人の気持ちを理解していないと見ている。さらに、沖縄は「返還」後、長らく日本政府の財政的な援助に頼っており、いつになるかわからない経済自立の議題も沖縄の人々の自尊心を傷つけた。 疑いもなく、半世紀以上も存在し続けている米軍基地は、依然として沖縄社会と「中心」との心理的距離をつなぎとめる最重要な要素である。沖縄の人々の反対を無視し、日米政府が普天間米軍基地を沖縄北部の辺野古沿岸地区に移転することを強要したことは、まさに露骨な「中心」による傲慢な措置なのである。こうした不平等関係が存在し続けていけば、「メア氏失言」事件は再演を繰り返していき、そのプロセスにおいて、身に降りかかっている日米両「中心」への沖縄の人々の無力感もさらに増幅していくだろう。 ◆本稿は『南風窓』2011年第9期に掲載された記事「从“辺陲”看“中心”的傲慢----沖縄与日美的无奈関係」 を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。朱琳訳。 ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年6月1日配信